2013年9月10日火曜日

私の還暦過去帳(421)


 時は過ぎたり、

今年も秋の季節となって来ましたが、山沿いには雪が積もり根雪となる
量だと報道がなされていました。

49年も昔、9月の季節に移民船でアルゼンチンのブエノス港に到着す
る予定がストで、お隣のラプラタ港に到着して、そこからバスでブエノス
まで行きました。

当時の移住者達はボリビア行き、パラグワイ移住者達も全てブエノス下
船で、当時宿泊施設があった日本人会に滞在して、国際列車を待って
乗車して居ました。
当時、ボリビアのラパス行きの列車は週に2本程度の様でした。
その国際列車も、とうの昔に廃止されています。

その他、ブラジル入国審査で、当時ブラジルはトラコーマの症状があれ
ば入国を拒否していました。擬似トラコーマでも入国検査ではねられて
いましたので、ブラジル入国に、検査が行われないブラジル北部のマッ
トグロッソ州のポンタ・ポラン辺りからブラジルに入国していました。

パラグワイ経由で、大回りして入国をしていたのでした。
荷物などはサントス港で荷揚げして、身体一つで小さなカバンを持って
旅をしているようでしたが、私が『大変ですね・・、大回りでブラジル入国
するなど・・』と言うと、『各地を見物して歩けるから、それも楽しいです、』
と答えが返ってきました。

僅かな人達でしたが、花嫁移住者も居たようでした。
その女性がご主人がわざわざ、マットグロッソまでで迎えてくれると話し
ていました。当時、私は始めて地球の南半球が春先の季節と言う事を実
感して、体感して不思議に感じて居ました。

生まれて初めて、一年に2度も春を経験したのです。
パラグワイ行きの国際列車もパンパ草原の海のような大草原を走って
行きますが、49年も前ですから、現在の様に植林もあまりされては居な
く、本当の大草原という感じがしていました。

どこか草原の真っ只中の駅に停車して、その余りにも牧歌的な風景に
線路脇まで降りて、水揚げの風車がのんびりと、そよ風に吹かれて回転
して居るのを見上げていました。
ブエノスからパラグワイの首都、アスンションまで当時の単身移住者は
私一人で移住事業団の係りが、ブエノスのチヤカリータ駅まで送って来
てくれ、そこからはパラグワイ入国までは一人旅でした。

アルゼンチンとパラグワイの国境ポサダまでは一人で汽車に乗車して来
ましたが、真に悠長な旅でした。

エンカナシオンに渡しのフエリーで入ると、パラグワイから係りが迎えに
来ていました。おかげで迷う事無くパラグワイ入国が出来ましたが、パラ
ナ河の川幅が大きな事には驚かされました。
春の陽気に輝く河面の流れが、体感で大陸と言う感じを抱きました。

河には河船の5千トンクラスの貨物船が停泊していましたが、コーヒー
色に濁った河の流れが、遠くはアマゾンの源流近くから流れて来ている
事を聞き、また支流の一つはボリビアから流れて来ていると知り、その
ラプラタ河の大きさにしみじみと眺めていました。

その当時はパラグワイの入り口、エンカナシオンは人口も僅かで、ひな
びた感じでした。のんびりと馬車が走り、しばらく東京に住んでいたので、
その差に驚いていました。アルゼンチンのブエノスで、パラグワイから当
時出て来て、宿泊していた人が、日本より20年は遅れていると話してい
たことを思い出していました。

5年前に同じエンカナシオンの当時の駅を訪れた時は、廃駅となり永い
年月を経て、すっかり荒れ果てた姿で、そこには何組かの家族も住み
着いて居るようでした。
周りは草茫々の姿で、そこの駅の広場から移住者達が行き先の移住
地にトラックに乗り込み出発して行った姿を思い出す事も出来ない荒
れかたでした。

町では今は舗装道路が縦横に走り、未舗装の赤土に染まるという事も
今では無くなり、時代の変遷を肌で感じた事でした。

しかし駅構内の一角には世界で僅かになった、薪で走る蒸気機関車が、
貨車だけは僅かに運行しているので、その貨車入れ替え用に残ってい
ました。
その機関車を見て、百年の昔の機関車が何かタイムマシンに乗って動
いている様な錯覚を見た感じでした。

パラグワイは時は過ぎても、東京の様に激変するような環境ではない
ので、歩いて旅の景色の中に昔が見えた思いが致しました。

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