2013年9月29日日曜日

私の還暦過去帳(428)

私の危機管理、

人はこの世に生きている間は、いつか、どこかで、忘れた頃に危機的な
状態から切羽詰った状態に追い込まれる事が有ります。

日本での今回の激震津波災害の様に、まさに突発的に何も予告無く襲
って来て、災害の中に引きずり込まれてしまいます。

それに追い討ちを掛ける様に、今回は原発の事故が引き起こされ、そ
れに危機管理の上限を超えた状態で、予備知識も無く、その対応する教
本も無かった状態では、人はうろたえ、戸惑い必死になんとかその事に
対応する様に、手探りでも行動を開始致します。

人はその差はあれ、大小の危機に遭遇した事があると思いますが、私が
若い頃に、そろそろ48年も前になりますが、私が最初に人生の大きなパ
ニックになった事は、アルゼンチンのサルタ州の田舎で農業をしていた時
期に、ゲバラの残党達がボリビア国境を超えて、サルタ州のベルメッホ河
沿岸の冬季蔬菜栽培地帯の、農家の食料倉庫を襲った時でした。

河の対岸に見えるオラン側から来た対岸の農家でしたが、襲われて支配
人が拳銃で撃たれ瀕死の重傷を受けて、かなりの食料や医薬品などが
盗まれた時でした。

対岸の火事と見過ごす事など出来ない事件でしたが、その事件が起きて
から、国境警備兵が朝早く馬に乗りゲリラの発見と、河沿いの農場の安
全確保の見回りに来ていました。
一個小隊ぐらいで、銃器を携帯してゲリラ達が朝早くまだ日が昇る前に、
一日の炊飯を済ませてしまうので、その炊事の煙を河岸一帯で探してい
ました。
国境警備兵達が朝露に濡れて、馬の肌からは冷え込んだ寒気に湯気が
立っていました。
小銃を抱える様にいつも身構えて乗馬しているのが見え、隊長が自動小
銃を膝の上に載せて、庭先に来て『何か暖かい口に入れる食べ物など分
けて下さい・・』と来ていました。
私などは初めて見る実戦装備の兵士達で、実弾を装填した銃器は威圧
感と、緊張と、ここが危機に瀕している地域だと言う事を肌で感じさせら
れていました。
彼等兵士達には干し肉の出汁でジャガイモを沢山入れた煮込みを作り
熱々の物を出していました。
それからと言うものは、農場の警備を厳重にして、寝室には拳銃とカー
ビンライフルを持ち込んで寝ていました。そして家の周りには常時犬が
2匹放し飼いにしてあり、少し離れた農場とも連絡を密にして、用心して
いました。

何処かで夜間に犬達が吠え出すと、周り全体が吠え出すので、直ぐに
飛び起きて用心して余りに犬達の吠え声が酷い時は、その犬が向かっ
て吠える方角に威嚇射撃をしていました。
何度もそんな事があると、常時緊張しているのが慣れっこになり度胸も
付いて、毎日河岸の農場の側の砂道を木の枝を夕方トラクターで引き
ずり、足跡とタイヤ跡を消して翌日朝一番の畑の見回りで、そこに足跡
が無いか探していました。

足跡もそれが自分の農場売店で販売している、地下足袋の様な、アッ
パルガッターというインジオ達が仕事で履いている作業靴か、革靴か、
運動靴か?これは重要な事でした。それは・・・、
ボリビアからのゲバラの残党ゲリラか、コカの密輸担ぎ屋達か、働いて
いるインジオか・・?、と言う分類が出来たからでした。

段々と農場の危機管理も上手に出来る様になり、ボリビアの上流で大
雨があると、雨も無い河が氾濫して流れて来るので、水揚げポンプが
水没しないようにも注意が出来る様になりました。

ある時、農場の畑でインジオの労務者と作業をしていたら、ジープが
二台も来て、彼等が逃げられない様にして、何か検診をしていたので
聞いてみると、何と・・!マラリアの一斉検査でした。

血液採取して、マラリアの病原菌を所持しているかの検査でしたが、い
きなり6名ばかりの男達が来て、回りを取り囲まれると、これもドキーン
とする危機感を持った事が有ります。
余り大きな農場でもありませんでしたが、ガラガラ蛇が良く活動する時
期には血清は用意していましたが、夜間の農場見回りには必ず用心
に犬を連れて歩いていました。
夜の見回りなど、犬が居なかったら取り止めていました。

私が働いていた農場の主人は私がその農場を辞めて、その毒蛇に足
の静脈近くを咬まれて1991年に亡くなっています。

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