2013年10月28日月曜日

私の還暦過去帳(439)

去り行く者の哀歌、

私も古希の年齢も過ぎて、これまでに人生ですれ違って、またお会い
して、去って行かれた方々の思い出を考える事があります。

引退して時間的に過去を振り返る余裕が出来たからかもしれませんが、
これまでに思い出して、あの方の人生は何だったか・・、と言う様な人
も居ます。

人の命は金銭には代えられません、また新しく作りなおすと言うことも
出来ませんが、自分の人生街道を突き走り、過去を振り返る事もなく、
タダひたすらに自分の今と言う時点を生きて、そして死んでいった方は
幸せかも知れませんが、残された家族や親兄弟達の虚しさはいかほ
どかと感じます。

清貧に生きて、後わずかと言う時に、日本から七名の兄姉妹達がカリ
フォルニア州まで別れに来ていた家族を覚えていますが、人生の豊か
さは誰にも勝る大きさだったと思います。

人は生まれて来て、この世に生命を受けて生きる道行は、山あり谷あ
り、険しいイバラの道中かも知れませんが、人生の別れを覚悟して少
し元気な時に、友人、知人達を呼んでお別れパーテイをして、最後の
別れの乾杯の前に、感謝のメッセージを読んでくれたのを思い出します。

友達の名前を一人ずつ呼んで、あの時の仕事は大いに助かった、親
切な事を沢山してもらったなどと、一人ずつ顔を見ながら言葉を掛ける
姿に、ジーンとして、涙が出た覚えがあります。

人はそれぞれ、人生もそれぞれ、生き方もそれぞれ・・、仕事の激務
をこなして、タバコを一日2箱も吸うような生活をして、ストレスに追い
回され、叩きのめされて、休日はひたすら寝るだけの生活をする人生
で、夫婦生活もすれ違いの多い環境で、子供も居なく、人生時計が故

障したある夜、激痛で救急車で病院に担ぎ込まれて、そこで分った事は
末期のすい臓ガンと言う事で、病院からあと3ヶ月の余命と宣告され、
自宅に帰り、本当に一日も違わず3ヶ月目に自宅で亡くなられましたが、
その方の人生は何であったか・・、と感じます。

タバコのニコチンで黄色くなった指先を隠す様にして、握手して別れた
最後を思い出します。

47年前の南米で農業をしていた時代に、時々農場で働く息子を訪ね
て来ていた父親でしたが、ある日農場で働いている息子から、農場の
売店で購入した色々の食料品を町に用事で出て行く私に託していました
が、父親が体調不良で家に居ると話していました。

ベルメッホ河の畔に小屋があり、チヤワンコ族のインジオでしたが、釣
り船も岸に上げられていました。彼等は岸辺で農業をして、魚釣りの漁
師達です。
ボリビア側の上流で大雨が降ると、激流が流れて来ますので漁に出な
いので、釣り船も岸で休んでいました。
父親はマテ茶のボンベを手に、河面を見て涼風に吹かれていましたが、
昔見た面影はなく、やせ細って、その時はコカの葉を噛んでいました。
何処か痛むと話していましたが、コカを噛むと痛みが緩むと言っていまし
た。
父親が農場を訪ねて来た時に、よく竹笛を吹いて聞かせてくれたので、
私も酒を手に聞きに行った事がありました。農場から息子に委託されて
持って来た食料を渡して帰ろうとすると、座れと言って、コカを噛んでい
た口を水でゆすぐと、竹笛を取り出すと、昔と同じメロデーの曲を聞か
せてくれました。

彼が竹笛を吹いている時に頬に涙が流れているのを見ました。
広い河面に消えて行く音が何か・・、人生の流れが消えて行く様な感じを
受けました。

小屋の周りにはトウモロコシがたわわに実り、カボチャも小屋の横に積
み上げられていました。庭には親鳥のニワトリがヒヨコを連れて歩き、
犬が木陰で寝そべっていました。
しばらくして農場で同じメロデーの曲が月夜の空に流れるので訪ねると、
その息子が竹笛を吹いていました。聞くと父親が亡くなったと教えてくれ
ました。

そして父親は良い人生を歩いて、神のもとに旅発ったと話してくれました。

2013年10月25日金曜日

私の還暦過去帳(438)

 航空券の今昔物語、

飛行機での旅行も、今では誰でもが搭乗できる価格で、手軽に利用し
ています。
50年前、地球の裏側、南米のサンパウロまで行くのに、日本の田
舎で家が一軒買える値段でした。外交官や商社関係のお偉方など、
上層部の特権階級の人達でした。

飛行機もアラスカのアンカレッジで給油して、二ユーヨーク経由でフロリ
ダやリオなどにストップしてからサンパウロまで飛んでいた航続距離が
短いジェット機でした。

その頃の日本航空などでは、アメリカに飛ぶだけでも、ショルダーバッ
クにJALのロゴ入りの旅行カバンが送られてきた時代で、それを肩に下
げている事は、ある意味で地位のシンボルとも成っていました。

今では下手をすれば、航空券のチケットさえありません、インターネット
で予約購入すると、自分で、その予約チケットをコピーしてか、IDナン
バーを記録して飛行場の受付カウンターに持って行きます。

昔ですが、メキシコ行きで、サンフランシスコの国際飛行場のユナイテッ
ドのカウンターに行くと、おばさんが立っていて、貴方はEーチケットか
聞きますので、そうだというと、ここに並んで搭乗手続をするようにと言
うので、見ると現金引き出し、ATMマシーンの様な機械がずらりと並ん
でいました。

まずタッチ・スクリーンで言語の選択です。あるわ・・、あるわで主要の
世界各国の言語が選択出来る様になっていました。

日本語を押すと、瞬時に全て日本語の標識に変わり、パスポートか運
転免許証、貴方が使ったクレジット・カードをここに挿入して人物確認を
するように機械が指示です。

OKと、納得してそこにクレジット・カード挿入すると、貴方の名前はこれ
ですか?と聞きます。

OKとスクリーンを押すと、同乗者はこれですか?とワイフの名前が出て
来ました。それもOKと押すと、荷物は何個有りますか?と聞きますので、
一個とタッチ・スクリーンを押します。

荷物代として15ドル別にチヤージしますと来ました。これもOKのサイン
を出すと何で支払いますか・・、と瞬時で聞いてきました。
クレジットカードと押すと、貴方が登録した同じカードでOKかと聞きます
ので、それもOKと押します。

カチャカチャと機械が動く音がして、ぺらぺらの搭乗券と荷物代のレシート
が出て来ました。側で係りが荷物をここに持って来いというので、秤に載
せると、これもOKとすぐに荷物の受け取り半券を押し付けると、これで
全部搭乗手続が終ったので、直ぐ先に搭乗セキュリテー検査所があるか
らそこに行くようにと、先ほどのおばさんが指示です。
10台ぐらいの機械を、一人のおばさんがこなしています。

何とあっけない、事務的で、機械的で、ところてん式です、会話も昔のよ
うに搭乗手続が終ると、可愛い女性がニッコリとして、『では良いバケー
ションを楽しんで来てください・・!、またの搭乗をお待ちいたしております』
とかの言葉に送られて、ほんわかとバケーションの出だしをくすぐってくれ
たのですが、今では無骨な混雑時だけのパートのおばさん風の係りが、
混雑するので先にドンドン進んで下さいで、その場を追い出されました。

まさに早くて便利ですが、機械と会話しながらの、まるでロボットに指示さ
れている感じですが、これも現世の定めとあきらめて、そこをバイバイと
追い出されました。

昔ですが、国際線はまだ日航が一社の時代、全日空は国内線専門の時
代でしたが、当時は日本政府のバックアップもあり、日本の神武景気とか、
日本の経済が凄い勢いで伸びていた時代でした。

華やかな時代で、サンフランシスコの日航搭乗受付カウンター近くの歩道
には、日本航空のハッピを着た係りが二人ぐらい居て、車が止まると飛ん
で来ると、『日航のJALに御搭乗ですか・・!』と言うと、荷物をひったく
るようにして、『こちらです・・!』と日航カウンター前まで荷物を運んでく
れました。

アー! 時代が変わればサービスまで落ちて、落ちる先が破産の再建会社
まで落ちるとは、誰がその当時予測したかー!

昔の一世達が祖国日本の日の丸と、鶴の日航機尾翼のシンボルマークを
見たさに、サンフランシスコの飛行場まで出かけた時代は、時が過ぎ、去
り行き、思い出の彼方に消えて行ったと思います。

2013年10月22日火曜日

私の還暦過去帳(437)

言葉の時差

今日は少し暑くなりましたが、これは風が無かったからです・・、
しかし、日が暮れると直ぐに涼しくなり、そよ風が出て来ました。

こんな日の夕方でしたがワイフと話す日本語も時々、陳腐な話となります。
何せ、二人だけで日本語を使うのですから、テレビも日本語放送など見れ
るのは僅かで NHK国際放送も英語放送です。

段々と歳をとり、話す言葉も限られてくると、言葉の単語が簡単になり、限
られた会話に成って来ます。

私も47年前にアルゼンチンで見た夫婦は、奥さんが白人でご主人が日本
人でしたが、会話の組み立てが、ご主人が日本語で話すと、奥さんはスペ
イン語で返事をしていました。
日本語を聞くのは分るが話せないと言う事でした。それにしてもそれで会
話が成り立っていたのですから、私も驚いてその言葉のやり取りを聞いて
いました。

私がアルゼンチンで農業をしていた時代にボリビア国境、サルタ州のアグ
ワ・ブランコ近くの町で、ご主人は40歳近い年齢で、そのワイフは農場の
収穫に来て、16歳で見初められ、18歳で子供が居た様な奥さんでしたが、
若い年齢でそれだけ言葉を覚えるのが早かった様で、私達が驚く様な上
手な日本語で二人で話していました。

その様な例は特殊だと思いますが、私達夫婦は老いて行くのは早いので、
現代用語の言葉使いなどは分らないので、時々テレビなどの会話に違和
感がある時が生じます。

時には私が頭をひねるような日本語で、ワイフが話しかける時があります
が、そこはそれ・・、感と推量で答えることになります。

時には日本語が出てこなくて、ふがふがと口で言っていますが、後は笑い
声になります。 かといって英語がべらべらと話せるなど、とんでもない事で
すが、それにしても長期間日本語を家族だけで話すことは、言葉の危険水
準になる可能性を秘めていると感じます。

近頃はワイフが話す英語も堂に入り、聞いていても誰が話しているかと感
じる事もありますが、二人で話す日本語も限られた会話が殆どですから、
やはり顔つき合せている時の食事の会話が一番多いので、食べる話しに
編重する傾向にあります。

ワイフが『あれは先週食べたので、今週は揚げ物はしていないので、それ
でいいかしら・・・?』とか言われても、そこはそれ・・、話の先に豆腐と来れ
ば、『揚げ出し豆腐』と、ピーンと来ます。

今日もワイフと話していたのですが、『それよー!それじゃない・・、いつも
のやつよ・・!』とか言われても判断に困りますが、そこは夫婦ですから、
やおら、『これだったね・・!』とかで誤魔化して何か側の物を持って行き
ます。

すると、それではないでしょうー!あれよー!と言う事で段々と幅が狭くなり、
最終的には目的の物に到達致します。

時には二人で、頓珍カンの日本語で笑いこける時もありますが、これにボ
ケなど入ると、どうなる事やらと今から心配です。

2013年10月20日日曜日

私の還暦過去帳(436)

 我が地域の今昔物語、

夏野菜の季節となり、真っ赤に熟れたトマトや大きくなったピーマンなどと、
キユーリの日本種が毎日の様に沢山収穫できます。
家庭菜園を始めたのも、広い土地と気候の良さが、まさに野菜作りには
最適と感じて、当時幼かった我が子達に、安全な作物と感じて作り始めた
のでした。

アメリカに来て最初に購入した家が250坪以上はある広い土地に家が建
っていました。
昔の建築基準では500坪に一軒しか建築を認めない地域もありました。

それだけ広大な地域が残っていたと思います。それも格安の値段で、昔
の家の値段は今のトヨタの高級車レクサス半分ぐらいの値段でした。

今では軒先が1mも離れていない、長屋式の建売住宅が街中では普通と
なりましたが、それにしても昔は悠長な時代だったと思います。
アメリカに住み始めて38年も経ちますが、段々と世知辛くなる姿を見て
来ました。

今ではサンフランシスコ国際飛行場の地下まで、電車で行ける時代とな
り、随分と便利で、昔はサンフランシスコの日本町に月に一回、日本食材を
買いに行くのが楽しみでした。
38年も前は、アメリカの大手のスーパーも魚などは冷凍が少し置いてある
程度で、新鮮な刺身になるような魚は日本町かチャイナ・タウンまで行かな
いと買えませんでした。

今では近所にお魚から日本食材が並んだオリエンタル・スーパーも開店し
て、平日6ドルもする高い橋代を払い、サンフランシスコに行く価値が減り
ました。駐車料金も高く、駐車なども困難で、増え過ぎた車両の通過で橋
を渡るのも朝夕は困難です。
今では近所に、お魚もあるフイリッピン系と、チャイニーズ系のオリエンタ
ル食品店のスーパーが競合する様になり刺身から、活魚まで買え、我々
住民としては有り難い事が増えています。

橋を渡らなくても、オークランドのチャイナ・タウンでも魚類や新鮮な白菜や
大根、ゴボウなども買う事ができましたが、段々と駐車場が潰されてビルが
建ち、有料駐車場しかなく、それもかなりの駐車代金を請求されるので、
敬遠されて、それとオークランド市の財政圧迫で駐車違反料金などが大幅
に値上げされ、一回75ドルも罰金などはご免こうむる事ですから行かなく
なりました。

当時の日本領事館はその日本町にあり、皆が集まり、ホテルも近鉄企業
が営業していました。現在ではユダヤ系の投資会社に売られ、領事館も
日本人の多くの反対を押し切ってサンフランシスコの駐車も難しいオフイス
センターの高層階に引っ越して寂しくなり、日本町も前は大勢の日本領事
館訪問者達が憩いとしていた日本食レストランや、日本食材の買い物な
どで込み合って居ましたが、今では韓国のハングル文字が目立つ様に
なり、陰口でコリアン・タウンと言われる様になりました。

これも時の流れですから逆らう事は出来ませんが、昔の一世達が築き、
繁栄させた日本町も町並みは変わりませんが、行き交う人の交わす言葉
が雑多になり、広東語、北京語、韓国語、ベトナム語や、日本町のレスト
ランやお店の下働きのヒスパニックが話すスペイン語などが混ざり国際化
して来ました。

それに加えて、世界各国から日本町に来る観光客の話す言葉が、時代
が変化した事を思い知ります。
時は代わり時代が変化しても、街の佇まいは余りそこに住む人間や、訪れ
る人達などには左右されずに残っていくと感じます。

2013年10月18日金曜日

私の還暦過去帳(435)

 時は巡り、また去り行く・・、

私の年齢の多くは戦前から、戦後に掛けて幼少の時代を過ごして来ま
した。また時代の変遷とその区切り目を見たと思います。

日本が復興して、戦前より増して繁栄して世相が華美と虚勢と、日本人
の心の変化と体質まで変わってしまったと思います。

私の小学生時代、中学生の頃までは先生達も戦前の教育を受けて来て、
戦時中は兵役で従軍して、戦場を生死の狭間で戦って来た先生も居ました。

中学生時代の先生の一人が印パール作戦従軍の先生でした。
時々、ポロリと戦場の体験を漏らす時がありましたが、戦場から撤退する
時の過酷な、生きると言う、命繋ぐ食べ物の話でした。

弁当など、少しでも残すと、『バチが当たると・・』怒られていました。
一口の米も口に入れることが出来なく、雑草を茹でて食べたと先生が話
していましたが、餓死していった戦友達を思って、先生は涙声で私達に食べ
物の大切さを教えてくれました。教室中が、シーンとして聞いていました。

当時の中学校では給食はなく、弁当を持って来ていました。
まだ貧困時代の日本で、昼の弁当時間に弁当も無く学校裏の林に消えて
行く子供も居ました。先生は家から持って来たサツマイモを手に、その子供
を捜しに行っていました。
当時は麦飯と言う押麦が混ぜられたご飯でした。時にはサツマイモが食べ
られる時期はご飯の中に、栗の様にお芋が混ざっていました。
おやつには良く蒸かしたサツマイモがお袋が作ってくれ、また良く食べました。
ホクホクとした栗イモが出ると、単純に嬉しかった思い出があります。

今の世は好きな物は何でも買え、また食べることが出来ます。各国の食べ
物が溢れていて、金さえ出せば、それこそ何でも食べる事が出来ます。
その当時はまだ米の配給制度が残り、食堂でも米を持って行く時代もあり、
それでご飯と交換した時代もありました。

当時私達が中学生時代に、うどん屋が10円素ウドンと言うウドンを出して
いました。友達と10円を握り締めて食べに行きましたが、昆布ダシで、青
ネギが少しウドンの上にパラパラと載っているだけの素ウドンでした。

それも直ぐにそのウドンは無くなりましたが、インフレに値段が追い着かな
かったと思いいます。
私達の年齢はその様な時代を経て来たので、『もったいない・・』とか『あり
がたい』と言う言葉の中には、それ相当の自分が肌で体験して、心に刻み、
学んだ事も沢山あると思います。

今年もまた8月15日の終戦記念日が廻って来ます。
戦場で生き残り、8月15日を迎えて復員してきた人達が、戦場の戦いで、
怪我で、病気で、食料が無く餓死した人達を思い、ご馳走の供え物をして、
近所のお寺で供養をしていたのを思い出します。

時は過ぎ、全てが忘れ去られ、その様な話をするだけで、軍国主義とか、
嫌な顔をされる世代になり、祖国日本の礎になり、亡くなられた方々を弔う
様な教育も必要ではないかと考えるこの頃です。

2013年10月16日水曜日

私の還暦過去帳(434)

感激の思い出は・・、心豊かな記憶なり・・・、

女子サッカー世界大会の決勝で日本選手達の、なでしこジャパンの敢闘
とその日本のチーム枠の結束が導いた優勝の瞬間、ポロポロと涙が止ま
りませんでした。

テレビ画面で、優勝トロフィーに選手達の手が一斉に伸びて、それを支え
る様に囲んだ姿を見た時は、画面が涙でくしゃくしゃで見えていました。

はや、アメリカに来て35年、世界大会の決勝でアメリカと日本チームが
激突して、優勝のトロフィーを争うような場面など、見たこともありません。

日本人の血は争えません、気が付いたらテレビの前に釘付けで、ワイフ
と声を出して声援していました。延長戦で同点に追い着いた時などは、
絶叫が鳴り響いていました。

それにしてもよく優勝をやってくれたと思います。アメリカ選手の体格、
身長、スピードなどを比較すると、日本はハンディーを持っている事は明
らかに瞭然と思います。

昨日は感激を枕に夜は眠りに付いたのですが、中々興奮が冷めきらず
昔の事を思い出していました。
人にはそれぞれの人生の歩いた道筋の道中物語を、心に秘めて持って
いると思います。

中には忘れたくても忘れられない、身を切る様な鋭い、心に突き刺さる
様な興奮を伴うような感激・・、

見知らぬ地で、人の情けに心泣いた感激・・、

我が身を危険に晒し、死ぬ様な思いをして到達した感激・・、

苦しさから逃れようとして、何度も・・、何度も苦しみ、もがき、苦悩して
やっと到達した自分の目的を掴み、泣きながらの興奮と感激・・、

山歩きで、ひたすらに歩き、歩き、また歩いてもうだめだ・・、もう歩け
ない、背中の荷物も全て投げ捨てたいと思いつつ、山肌の中にぽっかり
と開けた村などに出て、緑豊かな寒村の絵に成るような静かな景色に呆
然とした感激・・、

長距離トラック運転で、半砂漠地帯の荒地を星空の瞬きだけを見ながら
この闇に、このまま吸い込まれるかと言う恐怖と戦いながら、一人エンジ
ンの単調な音を聞きながら運転していて、地平線からヘッドライトの輝き
が瞬きながら、潅木に見え隠れして近ずいて来て、人恋いしさから来る
喜びの感激・・、

初めて女体に触れた興奮と感激・・、

目標を狙い、神経を針のように鋭く集中させ、引き金を引く指先が麻痺、
痙攣するような思いで引き金を引き、ターゲットに10点、弾痕が出た時
の喜びと感激・・、

夢心地で走馬灯の様に思い出していたが、いつの間にか昨夜は眠りに
付いていました。

2013年10月13日日曜日

私の還暦過去帳(433)

ハワイ本島巡り、

先週、ハワイ本島を訪ねていました。
近所の75歳過ぎたご主人は日系三世で奥さんは二世です。
お二人ともハワイ本島、コナ出身で、色々と教えて頂いていま
した。

三世のご主人は日本語は殆ど話せなく、聞くだけは少し出来
ると感じます。奥さんは二世ですから、かなり上手な日本語を
話します。

コナのコーヒーベルト地帯の周辺に日本人達が昔は住んでい
たと思いますが、今でもハワイ本島180号線の沿線には、か
なりのコナコーヒー栽培地帯が広がっています。

昔の人達もそのコーヒー栽培地帯で生活していたと思います
が、懐かしい昔の家並みがあり、道路の直ぐ側にコーヒーの
木が茂って、まるで庭の生垣の様に並んでいたコーヒーの木も
ありました。
私も世界でも有名なハワイ・コナ・コーヒーはどの様な場所で
栽培されるかと言う疑問がありました。
また、斜面が多いコーヒー栽培地帯では機械収穫などはまっ
たく無理な地形です。
これだけあるコーヒー農園の収穫は誰が収穫するのかと考えて
いたら、日系人が教えてくれましたが、アメリカ本土からピッキン
グのヒスパニック季節労働者達が来て、各農園を収穫して廻る
と言う事でした。
町のスーパーなどで、時々見かけたスペイン語を話しているヒ
スパニック系の家族も見ましたが、彼等も収穫時期にアメリカ本
土から渡って来た人達かと思いました。

かなりの溶岩地帯もハワイ本島はありますので、栽培適地は少
ないと考えていました。しかし、ハワイ本島の北は溶岩台地の
平地が広がり、一部は荒涼とした場所もあります。
東側の標高400mから450mの周辺は昼間は晴れて夕方から
夜間には定期的に雨も降り、地味も豊かな所が沢山あります。

ハワイでも雪が降る4200mのマウナキア山はヒロ周辺の西側
から吹いてきた湿った気流が山にぶつかって雨雲となり、コナの
方面に雨を降らすと聞きましたが、適度の雨はコーヒー栽培に適
していると言われています。

ハワイ本島も場所により、コーヒー栽培地帯、マカメディアンナッ
ツの栽培地帯、砂糖キビの栽培地帯、牧畜に適した地域などに
分かれていますが、驚く事にアメリカで一番大きな牧場はハワイ
本島にあるのです。

カリフォルニア州などの西部での牧場は夏は牧草も枯れて荒涼
とした風景ですが、ハワイではよく雨が降るのと、スコールが殆ど
毎日の様に通過するので、牧草も一年中青々と茂っているという
ことですから、放牧などの条件としては適していると思います。

今回の旅は借りた車で島内を一周する事と、4200mのマウナ
キア山頂まで車で行きたいと考えていた旅行でした。終ってみた
ら543マイル程度、4日間のドライブで走っていました。
車ですから気軽にローカルの現地、生の姿を見ることが出来、
ツワーなどで絶対行かないハワイ本島の日本人先駆者達のコナ
とヒロの日本人墓地も見学できました。

ハワイ移民の歴史が詰まった場所です。お墓は祖国日本の東の
空を向いて墓標が立っていました。中には90年近く年月を経て、
一部風化したような墓標もありました。

中には丸い河石に名前と生年月日を書き込み、亡くなられた年齢
を刻んだ墓標もありました。苔むした墓石達が寄り添うように並ん
でいたのを見て、昔のパイオニア達の姿を見た様な感じでした。

島内の道を走っていると、サウス・コナ近くにはそろそろ百年の歳
月を重ねるホテルですが、ハワイ島サウス・コナのキャプテン・クッ
クという小さな町にある家族経営のマナゴホテルです。
1917年に日系人のマナゴ夫妻によって建てられ、当初はレスト
ランとして営業したという事ですが、地域にマッチした旅籠屋風の
ホテルになっています。

旧館はまさに映画のシーンに出て来る様な部屋で、お風呂とトイレ
は別です。新館には畳部屋もあり、3階の部屋からは海が一望出
来ると言うことです。
そこのレストラン名物のポークチヨップを食べに行きましたが、食堂
は月曜日、残念でお休みでした。
また三代続く日本食レストランもあります。それだけこの島の日系
の歴史があると感じました。180と11の道路が交わる交差点付近
に開いている『てしまレストラン』は、そこのおばあちゃんは104歳
ですが、現役としてお昼のランチ時間には時々お店に顔を出すそ
うです。
私も食事に寄りましたが、昔懐かしい田舎の食堂の味でした。定食
もあり、ソース焼きそばや、焼ウドンなどもありました。
かなりの年齢の日系人がランチ時間に定食を注文して、天ぷらか
ら味噌汁まで丁重に食べていましたが、食事が終り、テーブルの
お茶を飲むと、最後はコーヒーと言ってそれを注文していました。

やはりここはハワイコーヒーの生産地帯で、美味しいコナコーヒーを
飲むのが食後にお決まりと感じました。
私も余りコーヒーは飲まないのですが、ホテルの朝食で出るコーヒー
が美味しくて毎朝必ず大きなカップで飲んでいました。
1890年代にハワイに移住して来た日本人達もこの美味しいコナ
コーヒーを飲んだと思います。

2013年10月10日木曜日

私の還暦過去帳(432)

よせばいいのに無理をして・・、

とか言う事は大いにありますが、それが利害関係や、対人関係となれば
話が違って深刻な問題も出て来ます。

私もアメリカに来て、幾歳月を過ごして来ましたが、やはり無理をして、
背伸びして自分を優越に見せようとする人は、それなりにリスクがある
と感じます。無理して、背伸びして、自分が言った事とが、 行動と一致
しない時があるからです。
特に感じている事は、アメリカに住んでいると言う事で、何とか日本に居
る親兄弟に、よく見せようと考えて、無理して家を買い、車を買い、家
財道具を買い揃え親兄弟がアメリカ訪問などの時に良く見せようと考えて、
ストレスを溜めている人が居ます。
これも人様々ですから、他人がとやかく言うことは出来ませんが、それ
にしても、人間の見栄と言う、虚栄の心はこれは、ご本人にもかなりの
プラッシャーが掛かっていると思います。

私のように地が百姓ですと、余り世間を気にしないことが多く、農業を
していた時代は毎日、作業着で汗臭い帽子にドタ靴を履いて生活してい
ましたし、乗っている車はほとんどがトラックと言うような事でした。

そのクセがなくならないで、今でも私の車はトヨタの小型トラックですが、
それは6気筒の馬力がある、フル装備のピックアップ・トラックです。
これで何処に行くのも乗っていますが、荷台にはキャンパーシエルを
載せていて、中々重宝致しております。

昔はよく言われましたが、私の息子にも言われたのですが、トラックば
かり乗らないでもっとカッコいい車があるではないかと勧められましたが、
今では誰もそんな事は言いません 。
見栄、虚栄が無いので旅行に行っても電気釜持参で、お握りを作り沢
庵と梅干を持って行きます。
沢庵を持って行く時は臭いに気をつけて、割れないプラスチックの瓶に
入れて持って行きます。
友人などは顔をひそめて聞いていますが、私がペンションなどの木賃
宿に泊まり、自炊して南米を歩いていたというと、まるで私が人種か階
層が違うと言う様な顔をされます。

若いバックパッカー達と泊まり、また違った角度と視野からの旅で、そ
れにはまた、それなりに楽しみと意義があると考えています。

それに現在ではインターネットの世界的普及で、世間一般の動きが瞬
時に分るという事は色々に、様々に、この世に住む住民の生態系が分
りますので、何も私の生き方が異端と言う事ではないと安心致しました。
旅には良く出かけますが、来週もハワイ本島のビック・アイランドに出
かけます。

これもそんな歳だったらもっと素敵なリゾートホテルに泊まりなさい、と
か言われますが、そこはそれ・・、中々本性が抜けずに、今度もイン
ターネットで探した、コナの飛行場から近いホテルを探しましたが、これ
が1泊夫婦二人で日本円で6千円程度で、朝食つき、インターネット
無料アクセスと来れば、我が身に本能的にビビ・・、と来て早速予約を
する事に致しましたが、これでは日本の民宿並の値段です。

ホテルの利用客のコメントを読んでみても、コナの町から超近くて、道
路を隔てて名物のフリー・マーケットも開催され、島中の果物と野菜、
獲れたての魚が買えると来たら、絶対に電気釜は持参と決めています。

4月にメキシコのカボではインターネット接続が1日で8ドル50セント
でした。オアフ島のホノルルのホテルなどでは時間で料金を取られます
ので、外のマイクロソフト会社のショールームで、ハイスピードインター
ネットを利用して無料でメールしていました。
メキシコでのリゾートではレンタカーも中型で45ドル程度致しますが、
それにメキシコですから保険を別に付けると一日60ドル以上になります。

ハワイ諸島のレンタカーは距離が無く、幾ら走っても定額料金です、そ
れを良い事に、昔ですが、オアフ島で走りまくったら、車を返す時に係
りがびっくりしていました。
『こんなに一日で走って来た人は珍しい・・・、』とか言っていました。

今回もインターネット割引で、ダラー・レンタカー会社で特別割引を見つ
けましたが、中型車で1日32ドルで、現代自動車の中型車ソナタを
借りる事に予約いたしました。
今回も係りが驚くくらいに、大きな島ですから走り廻る事を、初めての
韓国車で企んでいます。
島内一周です、アメリカ最大の牧場はハワイにあります、Parker 
Ranchですが、そこの横を通過しえ、19号線で景勝地の
Waipio Valleyにも行くつもりです。

それにしても今回のハワイ本島の予定は、事前に考えていたニユーヨーク
滞在の同じ期間で、レンタカーを含めても半値ぐらいでした。

それにしてもインターネットで探す旅は、何が飛び出すか、何をキャッチ
するか、激安限定先着順とか、これも楽しみの一つです。

ハワイ島で雪が降るマウナケア山の4205m頂上まで行き、日本の
スバル天文台見学も計画に入れていますが、それにはジイサン、
『よせばいいのに無理をて・・、』とか言われますが、これはまた別の
意味での、『よせばいいのに・・』と感じます。

2013年10月7日月曜日

私の還暦過去帳(431)

ヘソから下の話し・・、

だいぶ前でしたが、5月16日の朝でした。
テレビが報道するカリフォルニア州のアーノルド・シュワルツェネッガー前
知事、(63)に隠し子がいた騒動が公然と報道されていました。

前知事と関係して子供を生んだ女性の顔写真もデカデカと掲載されて、
前知事が生ませた子供の年齢や関連する情報も出ていました。

テレビでは早速この件の話題でコメントが出されていました。それは皮肉
に満ちたコメントで、私も聞いていたのですが、『前知事はパンツの脱ぎ方
が早すぎる・・』と皮肉っていました。

こうなっては報道合戦の様子で、何処かのテレビ会社が隠し子の顔写真
を生で出せば、それに対抗するように隠し子の出生証明書を暴露するし、
それによれば1997年10月に誕生した男児は現在13歳で、証明書が
本物だった場合、この隠し子は前知事の妻マリア・シュライバーさんが、
第4子のクリストファー君を出産した1週間後に誕生していたことになる。

これに奥さんのマリアさんも取材に重い口を開いた。

「本当に辛い、心が張り裂けそうな日々を過ごしています。母親としてとに
かく気になるのは、子供たちのこと、どうか私たちのプライバシーに対する
配慮をお願いします。
今、私は自分の人生を立て直し、心の傷が癒えるよう努めております。
これ以上は何も申し上げられません。」これにはまったく私も驚きました。
マリアさんの心情はいかほどかと感じます。

昔は政治家でもヘソから下はプライベートで政治と関係ない・・!とかで、
田中角栄元総理などは、愛人2名に各子供も生ませ、総理在任中は騒が
れる事もなく、『ヘソから下の事は別もの・・』とかで済んでいました。

岸元総理も永年連れ添った愛人だった芸者さんの葬儀には遺影を抱い
て先頭を歩いたと言う話も残っています。
でも現在の情勢ではとてもヘソから下は別問題とかは言えないと思い
ます。
特に前知事が10年間も家族と世間に隠していた事は、もっと驚きを持っ
て話されています。
13歳から21歳まで、4人の子どもに恵まれた夫妻ですが、しかしシュワ
はこの度「LAタイムズ紙」に20年もの間シュワ・ファミリーの下で家政婦
として働き、今年1月に辞めていた女性と彼は関係を持ち隠し子が居た
ことを奥さんのマリアや、家族の承諾を得ず、自ら勝手にLAタイムズ紙
に「隠し子がいる」と暴露した事と、知事在任中は知事の職を失う事を考
えて秘密にしていた事などが災いして、すっかり名声も地に落ちてしま
ったようです。

それにしても地位も資産も、名誉もある人物がやらかした事は、はて・・!
と頭をひねります。

人は若い時にはヘソから下の事に関して、大なり小なりに何か物語を作
り、残した方が沢山居ると思いますが、そこはそれ・・、若気の至りとかで、
一件落着する事も多いのですが、隠し子とかまで行くのは中々難かしく、
かつ困難です。

それはかなりの資産などがあれば、隠しても食べさせて行けるものです
が、ピーピー!の無い袖も振れない若い男ではこれは話にもなりません。

しかし、昔にアルゼンチンで見た事例はこれはまた反対の事で、ギョッと
する様な婆ちゃんが、日本人の若い男性を男めかけにして、最後は結婚
までしたとか・・、聞いた事がありますが、その年寄りの女性を知る日本
人からの話では、いつも貧相に鼻水をすすりながら、もごもごと話す婆ち
ゃんだった様ですが、それを承知で一緒になった若い日本人は彼女の
資産が目当てだったようですが、それだけでは無かったと感じます。

ヘソから下の事例は『事実は小説より奇なり・・・?』とか、実際の話を聞
くと、私の様な野次馬もへー!と驚く事が一杯です。
と言う私も若い時は、そこはそれ・・、なんとか言われても仕方がない様
な事もありました。
でも隠し子などはとても無理な相談ですが、しかし、一度だけブラジルの
リオデジャネイロの町でこんな事が有りました。
それはホテル近くのバーで飲んでいた時でした。仲良くなった若い混血
の子が『私は白人の子も、黒人の子も産みたくは無い、私が欲しいのは
目が釣りあがった東洋人との混血が欲しい・・』と迫られました。

私はどきーん!として、飛び上がりましたが、心の奥深くで・・、
天使の声と、悪魔のささやきが聞こえました・

悪魔、『ホレ・・!据え膳食わぬは男の恥・・!』
天使、『貴方には良心と恥の心があるでしょう・・』
悪魔、『見てみろ・・、あのくびれた腰と胸の盛り上がり・・』
天使、『貴方は若い・・一瞬の快楽で一生後悔の日を送るのか?』
悪魔、『馬鹿は損をするぞ・・、あのピチピチの姿態・・』

その時、私の心が悪魔と天使の狭間で揺れていた時に、側に靴磨きの
少年が来て、サンバのリズムで靴を磨かせてくれと来ました。
横のテーブルには可愛い女の子がバラの花を売りに来ていました。
靴磨きの少年にせがまれて靴を磨かせたら、まさにサンバのリズムで
靴を磨いてしまいました。
聞くと近くのリオの貧民街に住んでいると話していましたが、父親など
見たこともないと話していました。
私の心の中で天使のささやきが勝ちました。

子供達の姿を見ていると、ふと誘惑の声に引かれる自分にブレーキが
掛かった感じでした。
生まれて初めてで、最後でしたが、私の子種を欲しがる女性などに巡
り会い、誘惑された様な事は、今では笑いがこみ上げて来ますが、人
にはヘソから下の思い出は人生樹の年輪の一つの模様として何処か
に刻まれていると感じます。

ちなみに私の場合は結婚前に、独身時代のヘソの下全てをワイフの前
で告白して、膝を折り許しを請いました。
答えは・・、『悔しいー!』と言う一言で、ボカ!と殴られましたが、許し
てくれました。
おかげで今まで夫婦仲良く、そろそろ結婚して45年近くもなります。

2013年10月3日木曜日

私の還暦過去帳(430)

人の命は・・、

近頃は皆さんの平均寿命が伸びて、特に日本人は女性、86歳、男性、80
歳と伸び世界一の座を確保したとテレビが話していましたが、ほんの僅か
な期間でドンドンと寿命が伸びて行ったと感じます。

私がまだ子供の頃で、50年以上も前です、その頃の定年退職は若くて55
歳が平均でした。今では65歳が多くなったと聞きましたが、アメリカでは早
期引退者は62歳ですから、年金受給資格になると引退してしまう人が結
構多いので、寿命が伸びても今度は年金資産の枯渇が心配され、これも
大変です。

昔は平均寿命も短かったので、結婚するのも平均早かったと思います。当
時の、特に田舎では20歳過ぎれば適齢期と言う事で、25歳辺りでは殆ど
結婚していた人が多かったと思います。
私の同期も大学卒業と同時に結婚して所帯を持った友達も居ました。

ところが今では中々結婚しなくて、ある台湾から来た方でしたが、長男と次
男も40歳過ぎても結婚しなくて、次男が42歳で結婚したら、結婚して3ヶ
月目には奥さんが妊娠したと喜んでいました。

中国語より日本語が上手な奥さんでしたが、私が日本人で日本語を話す
のでよく私に愚痴をこぼしていました。
いつも長男の事を案じて、結婚しろ・・!、母親が生きている間に孫を抱か
せろ・・、と催促していたようです。

しかし、長男は次男より遅れて結婚したのですが、中々子供が出来ず、最
新医療の体外受精とホルモン治療で長男が52歳で若い奥さんが双子の
子供を妊娠して、今度はその世話で、『よくもまとめて双子などを産んでく
れた・・』とかぼやきながら、サンフランシスコから二ユーヨークまで出かけ
ていました。

それにしても、私の隣の町の病院で55歳の女性が出産したとか新聞種に
なっていました。世の中がすっかり代わってしまったのです。

それもそのはず、寿命が延びたからと感じます、私の母親も97歳ですが、
まだまだ元気で、老人ホームで楽しく生活していますが、先日の母の日に
電話すると、何か用事の途中だった様で、『何か用事があるの・・?』とか
逆に聞かれて、『ちよっと声を聞きたかった・・』と言うと、忙しいからと電話
を切られてしまいました。

まだボケなども酷くはなく、耳が少し遠くなりましたが私の母はいたって元
気です。日本人の女性の平均寿命が86歳となった事はその良い例が私
の母親と思います。

それにしても私もあちこちと世界を歩きましたが、46年前に南米のパラグ
ワイに行った時に、現地人が12歳の年齢で子供を生んだと聞いて、びっ
くりしていました。後で知ったのですが、16歳過ぎれば結婚する女性は当
時結構居ました。

日本でも明治時代では同じ様に若くして結婚した事例は沢山ありますし、
それが当時の世間ではあたり前だったと聞いています。

アフリカのモザンビークに行った時に、首都のマプトで皆と近くのバーで
飲んでいた時に、アフリカでは若い子と言う年齢が14~18歳頃までだと
言っていました。
25歳過ぎれば、あれは年寄りだと笑っていましたが、彼女達がリズムに
のって踊る姿を見て、皮下脂肪無しの姿態を見て、なるほどと感じた事が
あります。

それは25歳過ぎると彼女等の身体には脂肪が付いてきて、別人かと思
う姿に変化するからです。
それからしたら、日本人の体系はまだまだ細い身体の体系が多いと感じ
ます。
たまに祖国日本に帰るとアメリカではいつも見慣れた巨体の姿が余りに
も少なく、健康に見えます。
それからしたらブラック・アメリカン男性の平均寿命が65歳程度と最初
に聞いた時に驚きました。今では少しは平均寿命は伸びていると思いま
すが、やはり生活習慣が大きく左右すると思います。

2013年10月2日水曜日

私の還暦過去帳(429)

2年前のバケーションの思い出、

3月の終りから、メキシコに旅に出ていました。
毎年恒例の旅です、ワイフと二人で出かけ、後半に娘が孫を連れて訪ねて
来ました。

孫は初の海外旅行となりましたが、まだ2歳もなりませんが、パスポートを
持ってのメキシコ入国となりました。孫達が来るので飛行場に迎えに行きま
したが、レンタカーで40分ばかりの飛行場に出迎えに行くと、孫がニコニコ
でバーバーと抱き付いて来ました。

私達もバッハ・カリフォルニア半島の突端カボ・サンルカスに滞在して初夏
の季節と新鮮なお魚を楽しむのが旅の目的です。

娘も初めてのカボの滞在です、今年はマグロが一度も水揚げがなく、その
代わりにハマチが豊漁でした。
娘には友達のメキシコ人の漁師が水揚げしたばかりの、まだ口をパクパク
している生きた大きなハマチを分けて貰い、刺身と寿司で食べさせました。

娘もやっと子供から手が余り掛からなくなりのんびりと、婿殿は仕事が忙し
くて留守番にして訪ねて来たのでしたが、帰る3日ばかり前になった頃に、
カツオが釣れ出して初カツオを頂きました。

カツオをタタキにして頂きましたが、子供の頃に私の母親の父が居る高知
を訪ねたらカツオのタタキを食べさせて頂きましたが、遠い昔のその事を思
い出していました。

帰宅する前日には、50cmは優にある大きなカツオが釣れて、漁師から格
安で貰いましたが、2匹も頂いたので身に降ろして冷凍して家に持ち帰りま
した。
今年は孫達が来たので、いつもはバルコニーのドアを開け放ち、ソファーに
座り込んでのんびりとテレビでも見たり、まだ見た事が無い映画などがあれ
ばワイフと見ていました。
ワイフは編み物をしながらのんびりですが、しかし、孫が来てからは私達二
人は子守です。
直ぐ目の前の太平洋を朝は10時ごろから一時間程度の間にアラスカに帰
る鯨が遠望出来ます、多いときは4頭ぐらいが平行してジャンプする姿を見
ることが出来ました。

冬の暖かいメキシコのバッハ・カリフォルニア半島の内海で鯨が出産して、
子育てしてまたアラスカに帰っていく姿を、朝夕見れることは楽しい事です。

夕方は4時頃が一番多く、孫を膝に抱いてジッと見ていると、大きくジャンプ
する姿を指差して、孫に教えると『海・・』と言う日本語を覚えて、バルコニー
へ出ると、孫が『海・・、海・・・』と指差して言う様になりました。

膝の上で抱いている孫の鼓動がコトコトと我が胸に響き、安心して抱かれ
ている孫の安らかな顔を見ていると、この歳まで大病もせず、怪我もせず、
大きな事故にもあわず、命の危険も幸運の神のご加護で何事も無く、ここま
で過ごせた事が幸せに感じます。
ベランダの涼しい初夏の海風に吹かれて、新しい孫の命を抱いている我が
身の幸せにジーンと心が感激で震える感じでした。

メキシコ・カボのコンドで、太平洋を見渡せるバルコニーで、老後の安らぎ
と楽しみと、生命の新しい鼓動が我が人生の過去の永き道程を振り返らせ、
かれこれ49年も前の事を思い出させる心のゆとりと、忘却の彼方に消えて
いった方々が繰り返し蜃気楼の様に瞼に浮かんでいました。

時は過ぎ、それが過去に消え、忘却の思いに浸る事で、消え去った昔の思
い出を呼び戻したこの安らぎに、何か心震える感激がこみ上げて来た思い
があります。