2015年8月23日日曜日

私の還暦過去帳(580)

海外密航と不法滞在。

戦後70年という節目に、ふと考える事があります。
それは戦後間もない時に、日本の将来を悲観したり、アメリカの繁栄
影響を受けて、憧れのアメリカに移住を考えたが、無理でそれなら
ば、密航でアメリカ不法入国を実行した人達が居たことです。

また終戦後にまだ連合国とサンフランシスコ講和条約が締結させる
前の、外交も正式に回復していない南米のペルーに、最初は外
国の貨物船で横浜から出港して、一度目は船が遭難して失敗
して、二度目にペルーの港にこれも密入国をしていた人でしたが、
戦前は南米に長期に滞在していたので、知古も多く、入国さえ
すれば何とでも出来る方だったと思います。
1951年、3月に川崎汽船の聖川丸という船で、ペルーに入国
して、事業を起こして、後に天野博物館を残す様な業績をされ
ています。
私が記憶する方はアメリカのハワイに戦後間もないことろに、密
入国を企てて、成功していますが、ホノルルの港近くに船が来た
時に、僅かな荷物を持って船から飛び込んで泳ぎ、上陸してい
ます。
名前などは昔のことで記憶にはありませんが、その当時の南米移
住船からシアトルやサンフランシスコにロサンゼルスなどの港から
脱走して、アメリカに密入国をした人達が居ました。
そんな事件が多発していたので、ロスでは移住者達は上陸禁止
でした。
私はそのことを知っていたので、事前にアメリカ大使館で通過ビザ
を習得していましたので、仲間3名と話し合わせて、ビザがあった
ので、観光バス市内見物に出かける事が出来ました。

アメリカに密行していた人たちは、事前に周到な計画と準備をし
て、それもかなり計画的に、日本政府の移住渡航貸付金を使い、
移民船に乗船しアメリカに上陸すると、前もって連絡していた
知人や仲間や親戚などが手引きしてすぐに車で田舎の農場に
隠れて、パスポートなど直ぐに焼き捨てて、アメリカの2世の様に
名前を変えて、運転免許を収得して、社会保障番号も取り、
アメリカ人として定住したと聞きました。
昔ですが、そのやり方がメキシコ人達が密入国して定住するや
り方でした。その様な方に35年ほど前にロサンゼルスでお会い
したことがありますが、すでにアメリカに骨を埋める覚悟で事業
をしておられました。
50年程前ですが、国際農友会農業実習生で来て、戦後ア
メリカ駐留軍の兵士結婚して、カリフォルニア州に来ていた日本
人女性が離婚して、日本人が多く住んでいたロスのオレンジ・
カウンティーで、日本食レストランで働いていた女性と彼は知り
合い、彼は実習生の帰国する期限も無視して、アメリカに不
滞在して彼女と生活していたようですが、彼女に子供が出
来ると、移民局出頭自首して、裁判を受けて、昔でしたが、
日本に送還されることなく、彼女がアメリカに帰化して市民権
を習得していたので、彼にも永住権が貰えて家族でロスでレ
ストランを開いて成功したと聞いたことがあります。

戦後の混乱期に両親家族を空襲で亡くして戦争孤児となり、
上野の公園当たりにたむろしていた孤児が、孤児収容所に収
監されていたのを脱走して、13歳で外国の貨物船に潜り込ん
で、アメリカに密行しようとして出航2時間で見つかり、大人で
も難しい密行に挑戦していた子供もいました。

昔は移動の自由も少なく、パスポートもビザも発給してもらう事
が難し時代には、度胸と忍耐と、行動力で海外に飛び出して
いく人が居ました。私が無銭旅行して、54年ほど前に、北海
道の礼文島に行く時は連絡船で渡りましたが、帰りの船がなか
なか無いので、小型貨物船に乗船を頼んだところ、前に若い
男がロシア
に密航するので、銃で脅して船を乗っ取って、樺太に逃げたとい
う事で拒否された事がありましたが、しょんぼりとして桟橋に立
っていたら、船長が学生証があるかと聞かれたので、見せると、
船内は入れないが甲板に座っていたら乗船してよいと言う許可
を貰い、喜んで出航する船に飛び乗ったことがあります。

私もパラグワイからアルゼンチンに最初に入国する時に、パラナ
河を渡船でポサダに入りましたが、その私が持っているビザは
アルゼンチンの通過ビザで、期限が僅かしか残っていませんでし
たが、若いアルゼンチン国境警備兵は、期限内だからと簡単
に通してくれました。
私はそこでアルゼンチンの滞在ビザをミッショネス州で日本人の、
公証人と翻訳などをしていた人に頼んで、州の移民課の役人
に幾らかの袖の下で便宜を図って貰い、短期間で習得しました。
50年も昔ですから田舎では州政府のサジ加減でかなり余裕
があったと思います。
パラグワイからアルゼンチンに転住していた人達の多くは、ミッシ
ョネス州で滞在ビザを取り、首都のブエノスに出て、労働許可
証を貰い働いていました。

またブラジル入国でも、玄関のサンパウロ、リオやサントスでは、
なかなか書類審査でも厳しくその当時、目の病気で、
『トラコーマ』があれば入国拒否でした。疑似トラコーマでも厳
しく入国が出来ませんでしたが、パラグワイとブラジル国境
のポンタ・ポランでは書類とパスポートのビザ確認で入国でき
ましたので、移住者で疑似トラコーマで拒否された人が、そこ
で入国していたのを知っています。

現在は大きく移民法も変化して、簡単には滞在ビザが出なくて、
永住ビザの発給も少なくなりましたが、しかし、それに挑戦して、
努力をしなければ、決して自分の夢は実現できないと感じます。