私の還暦過去帳(700)
移住の昔話, ( 10)
古希を迎えた私が、過去の50年以上の人生の道程で、多くの人達と 出会い、見て、聞いて、話して、体験した出来事を書き残しておき たいと60の手習いでパソコンを覚えて書き出したのが、このブログ です。 貴方のこれからの人生の糧になればと思い書いております。 全部書き残すには、これから数年は掛かりそうです。
移住の昔話, ( 10)
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移住の昔話, (3)
移住の昔話, (2)
その当時、1960年代に南米に移住する船便は、三井大阪商船の船便かオランダのロイヤル・インターナショナルの船便しかありませんでした。
日本船はパナマ経由、オランダ船はアフリカの喜望峰経由でした。オランダ船は横浜を出発して、神戸に寄港して、沖縄の那覇に寄って沖縄県人達の移住者を乗船させていましたが、その当時は沖縄返還前で、日本本土で日本のパスポートに切り替えて、移住者達が貰える片道の日本国パスポートを発行して貰い、移住している方が多くいました。
その当時の沖縄からは、アメリカ政府の身分証明で乗船していました。両船とも移住者は寄港先の荷役が長ければ45日も掛かる船旅でした。
その当時の航空便は、羽田からアラスカのアンカレジに寄り燃料を補給して、シカゴやニユーヨーク経由で1泊して、それからフロリダ経由で、ブラジルのべレムで燃料補給してサンパウロまで飛んでいました。
アルゼンチンのブエノスアイレスまでは飛行機を乗り換えて飛んでいましたが、航空運賃は日本の田舎で家を1軒買える値段でした。
横浜を移民船が出航する時は大勢の見送りが来て、盛大で感激するものでした。別れのテープが投げられ、バンドが別れの音楽を演奏して、名前を呼んで涙する家族、南米からの祖国訪問の老齢の1世達は、ハンカチを握りしめてテープを何本も握り、桟橋をタグボートに引かれて離れ行く船が最後の張り詰めたテープが切れると同時に、どこからともなく、万歳の声が湧き上がり、涙でくしゃくしゃにした顔で、「日本万歳!」の声が聞こえていました。
その心の胸中には二度と訪れることもない、祖国日本に別れの声限りの胸中を発露していると感じていました。
私は郷里の福岡で両親に別れをして来ていたので、見送りに来た学校の後輩達とテープを投げ合い、別れの言葉を交わしていました。
移民船は出航から直ぐに水先案内が下船すると、速力を出して下田沖を通過して、黒潮がうねる太平洋に出ましたが、自分の蚕棚ベッドの下にトランクを入れて
これからの長い航海の準備をして、食堂のテーブルなどの説明を聞いて甲板に出るとすでに犬吠埼の灯台の光が波間に見え隠れする時でした。
甲板には祖国日本に里帰りした1世達が並んで、手を合わせて最後の祖国日本に別れをしている光景でした。私は心が感激で、ジーンとして言葉も無くしていました。
灯台の光が見えなくなれば、そこで本当の別れになると私は感じていましたが、1世の方の言葉が聞こえて来たので、耳を澄ませて聞いていたのは、「両親の墓参りもしたし、兄弟に別れもして、共に温泉に行き、美味しいものも食べて、東京見物もして、皇居も参詣して何も思い残す事はない」と言う言葉でした。
戦前の昔に南米に農業移住した方々が苦労を重ねて、その上に今の自分達が移住出来る基礎を築いてくれた感謝の思いがその時、心に感じていました。
移住の昔話、(1)
半世紀も昔に、日本から海外に移住していった方々の乗船していた移民船の昔話から始めます。
計画移民も移住事業団が主催する移民応募の集団移民形式は、1974年で殆ど終了し、その後は呼び寄せ移住者や技術移住者が単身や、家族で移住していました。
移民船は船によりパイプ組み立て式ベッドが船室内に組み立てられ、そこに移住者が航海中は寝泊まりするようになっていましたが、船室によって家族や独身者と分かれていました。船の帰りは組み立て式ベッドは取り払われ貨物を積み込み様になっていました。
3等船室はその当時は冷房も無く、通風口からの外の冷たい空気を送り込むだけでした。
移住者は横浜と神戸に在った、政府機関の移住斡旋所に集合して、そこで荷物の梱包や検査、移住先によって仕分けされ、トラックで移民船まで運ばれていました。
移住者たちに家族や親戚が最後の見送りに来ていましたが、恋人と最後の別れに街に出る人や、荷物に入れる大工道具などを買いに出る人も居ました。
郷里から移住斡旋所に大きな荷物や、大量の家財道具などは、倉庫の片隅に捨てられているのも見ましたが、一人あたりの荷物の量が決まっていたのでそのような事になったと感じます。
そこでドラム缶が売られていましたが、移住地に入植してそれがドラム缶風呂に利用でき、また蓋付きで、鍵が取り付けられたので、貴重品などを入れるロッカー代わりにもなりました。
パラグワイの移住地で、ドラム缶風呂も入りましたが、重宝していました。
ドラム缶を半分地中に埋めてコンクリートで固定して、金庫代わりに使っている方も見ました。
私はドラム缶1本と茶箱1個、着替えを入れた大型トランクだけでした。
出発の当日の移住斡旋所の食堂は最後の食事で歓待していただきましたが、移民船までは横浜の根岸からバスで皆が揃って行きました。
バスで港の波止場まで、その当時はまだ戦災の跡が残っていた景色があり、空き地が沢山ありました。
出国手続は移住斡旋所で係官が来て済ませていました。当時は外貨規制が激しく、普通の旅行者が両替出来るのは限られて居ましたが、移住者は制限無しで、1ドル365円で両替出来ました。
当時の同じ移民船に乗船した方々の多くは56年も経て全て亡くなり僅かな方が生きています。
私の乗船した移民船はアフリカ丸という貨客船で、その船には南米からの里帰りの戦前移住した高齢の1世達が沢山乗船していました。
その中にはブラジル最初の移民船、笠戸丸の移住者達も居て、またパラグワイ最初のラ・コルメナ移住地入植者も居ました。
単身移住者として1964年、8月2日の午後4時に出港していきました。
目的地は、パラグワイ国、アマンバイ農協で、場所はブラジルのマットグロッソ州とパラグワイ国境のポンタ・ポランとペドロファン・カバレロの境でした。