2020年11月30日月曜日

私の還暦過去帳(700)

  移住の昔話, ( 10)

ロサンゼルス港の停泊もアッと言う間に過ぎてしまいましたが、この寄港は人生に大きな勉強となり、強烈な印象を植え付けました。出航して次はパナマ運河です。

出航してからの食事に肉や新鮮な果物が沢山出る様になり、船の事務職に聞くとアメリカは食料品が安く、果物類はオレンジやリンゴ、メロンなど、沢山仕入れると言う事でした。
特にオレンジとメロンは日本では味わえない風味があり、甘さも格別なものでした。3時のお茶の時間にアイスクリームも出たのは驚きでした。

ロスを出航して直ぐにアメリカからの乗船者が2名ありましたが、一人はアルゼンチンのブエノスまで行く年配のミゲールと言う引退した弁護士でアメリカにも家族が住んでいて良く訪ねて行くと言う事でした。
他の一人は名前は忘れましたが、ブラジルのリオとアメリカのカリフォルニアに半年ずつ住んでいる不動産関係のビジネスをしている独身男性でした。
彼はアメリカで6カ月仕事をすると、ブラジルで6カ月間、リオの町に住んで、仕事もしないで滞在すると言う男性で、リオには愛人も居る様でした。
英語の練習に良く話を交わしていましたが、暇な船内ではよい相手でした。

アラスカからの寒流に乗り、船は順調に南下していき、バッハ・カリフォルニア半島の突端近くなると、イルカが無数に船と並行して並んで付いて来るのが珍しく、皆で甲板に並んで見ていました。それと突端のカボ辺りでは、海水が赤くなるようなエビの大群が見えて驚きましたが、聞くとその辺りは世界3大のカジキマグロの世界釣り大会が開催される処だと聞いて納得致しました。
バハ・カリフォルニア半島の内海側のラパスには1960年時代から日本からの魚業基地があり、日本の漁船が居ました。
戦前からの日本人漁師も入植して、今では名前だけの日本人が居ますが、その日本人漁師達は、ロサンゼルスから移住して来た日本人達で、今では5世になり、戦時中、海岸からの強制移住で今では僅かな日系メキシコ人が住んでいますが、その様な話も船員さんから聞きました。
移民船は南下するほどに気温が高くなり、甲板には日除けの天幕も張られ、日陰で涼みながら里帰りの移住者の昔話を聞くことも日課になりました。
アカプルコ沖を通過する時に、海岸の建物が見えて観光地として有名なだけの事があると、皆で甲板に並んで見物していましたが、船は岸にすれすれまで近くを通過して南下していました。
この頃になると船客もすっかり生活に馴染み、規則正しい船内生活になり、朝のラジオ体操や、甲板をグルグルと歩く散歩の仲間達が居ました。
移住者もポルトガル語の勉強で日本に勉学に行った2世や3世達に習っていました。
パナマ運河が近くなると陸に見えるジャングルが緑濃い景色に変化して、気温も少し蒸し暑くなりました。
パナマ運河には早朝に到着しましたが、通過の順番待ちで停泊していた時に水先案内が乗船して来て、水路をゆっくりとパナマ地峡に入って行きました。
それから夕方まで移住者はパナマ運河見物で皆が甲板に出て日中は見物していました。

私の還暦過去帳(699)

移住の昔話, ( 9)
移民船の乗船者達は皆がアメリカが豊かな感じがすることを肌で感じていました。
日本の田舎から、地方都市からの移住者達は1960年代の田舎道の多くは砂利道で、アメリカの様にフリーウエーという無料の高速道路等は無かったからでした。
日本はその当時、東京オリンピックに合わせて、新幹線や東名高速道路などが建設されていました。
我が母校がある世田谷通りの大学前は砂利道で、雨が降るときは水溜りが出来て、馬事公苑の先は畑で白菜やダイコン、キャベツにネギなどの近郊野菜の栽培地で、農大の実習農場もあり、良く実習で収穫した野菜類をリヤカーに載せて、販売実習と言う事で、三軒茶屋辺りまでグループで引き売りに出ていました。
この経験が南米で大きく役に立ち、生きる、生き残るという、作物が売れない時に町にトラックでトマトなどを積んで、引き売りに出て帰りに食料を買い、燃料を買い、トラックターの部品を買い、生き延びた事に繋がりました。
今でも上手に、スペイン語でトマト売りの口上が言えます。
母校も旧陸軍の自動車部隊の兵舎が残り、部活動に使われていて、その様な環境に学び、住んで、生きていたので、アメリカの現実に、この目で見る世界が、眩しい感じで、大きな格差に戸惑う感じでした。
翌日は、通過ビザ所持者だけが、ロサンゼルスの市内観光に行ける事は、努力してビザ手数料を払い赤坂のアメリカ大使館まで行った価値がありました。
アルゼンチンのブエノス下船者達がグループで通過ビザを取っていたので、これがロスの市内見物も楽しい物にしていました。
その中の一人が当時の移住事業団にアルバイトで働いていたので、内情を知る者が居たので、通過ビザの件も教えてくれました。
その朝は少し興奮して早起きして、ドル札を数えて、これが1ドル札、これが10ドル札と間違えないように財布に入れて、ロスの日本町でランチを食べて、何か買う事を考えていました。
観光バスは、少しくたびれた感じのバスでしたが、ブラジル移住者達に見送られて定刻に出発して直ぐに高速道路に入り、バスの運転手が誰か英語を通訳する者が居れば前に座り、私の説明を日本語で皆に説明してくれと言うので、友人が英語会話も堪能で、彼が観光ガイドになり、運転手が英語で説明するのを日本語に訳し説明していました。
市内を廻り、サンタモニカの海岸にも行き、澄んだ晴れ渡った空に砂浜が奇麗で、砂浜でビキニ姿で遊ぶ若い女性が羨ましい感じでした。
ランチ時間を少し過ぎて、リトル東京の日本町に行きましたが、先輩達から聞いていた町並みで、レストラン、お菓子屋、雑貨屋などがあり、日本語が聞こえて来て、時間が余りないので、直ぐにラーメンと書いてあるレストランに友達と
飛び込み、東京ラーメンと言うのを注文していました。
隣のテーブルに居たシニアの老人が「ユーらはどこから来たかね・・、どこの県人か」と聞いて来たので、聞くと戦前にアメリカに移住してきた1世でした。
子供達が農園をして、自分は引退して日本町に近い老人ホームに住んでいると話していました。
出来上がるまでに時間が惜しいので、側のお菓子屋に行き、饅頭を買いましたが、「この饅頭を4個お願いします」と言うと、英語で「フォーですね‥!」と聞き直され、やはりアメリカだという事を感じていました。
皆が窓に額を付ける様にして広大なロサンゼルスの景色を堪能していましたが、私はハリウッドに行ったときに、歩道を歩く若い女性のホットパンツには驚きまず半分お尻が見える様な物は、日本では見られない光景にカメラを構えていました。
ハリウッドの高級住宅街を通った時に、それこそ広大なグリーンの芝生とカラフルな建物に度肝を抜かれた感じで、心のどこかに私もいつか、アメリカに住みたいと言う願望が目覚めていました。
その時の心に芽生えた夢が私のアメリカ移住となり、アメリカに住み着き、ここで骨を埋める覚悟も出来て帰化して現在になります。

2020年11月28日土曜日

私の還暦過去帳(698)

移住の昔話, ( 8)
移住船アフリカ丸の最初の寄港地がロサンゼルスのウエルミントン港でした。
船は横浜出航から直接ロサンゼルスまで船旅するので、途中の太平洋がベタ凪と言う状態でも12日半も掛かりましたが、船は西海岸を降りて来るので、ロス到着の2日前ぐらいから微かに陸地が時々見える様になり、娯楽室で賭けマージャンに熱中していた連中も、陸地を見に甲板に出てきました。
私は賭け事をやらないので、彼等の賭博に近い賭けマージャンをしている連中に疑問と嫌な感じを持っていましたが、中に一人、学生風の若い男が、徹夜のマージャンで、食事もせずタバコと酒で熱中しているのが感じられていましたが、ロスに到着2日前ぐらいの時ですが、何か精神に異常を来たした様で、彼はよく
バイオリンが上手で、甲板で弾いていましたが、私も目撃したのですが、いつもの様にバイオリンを弾いて、彼が海を見詰めていたら、突然、手に持っていたバイオリンを甲板の手すりに叩きつけて壊すと、海に投げ込み、上着を脱ぐと、海に飛び込む様に甲板の手すりを乗り越え始めていたので、側に居た数人が飛び掛かり甲板にねじ伏せて、船医を呼びに行きました。
船医は診察室に連れて行き、鎮静剤を注射して彼を眠らせてしまいましたが、これはロサンゼルス到着まで続いていたようです。
船医の指示で娯楽室のマージャン台も夜11時までになり、夜は見回りが11時になると消灯して使えなくなりました。
船が到着の日は、早朝から甲板に出て、アメリカ西海岸の陸地のグリーンを見ていました。カリフォルニアの輝く太陽と抜けるような青空が印象的で、今もその光景を思い出します。
ウエルミントンの港に入港する時に、両側に並ぶ自家用モータボートやヨットにまず驚き、駐車場に並ぶ大型車のカラフルな車の列に、アメリカの1960年代の豊かな物質文明を見た感じでした。
まだその当時の日本は東京オリンピックを開催して、それを飛躍の基礎にして経済成長
をはかっていた頃で、その当時の東京の青山通りは都電が走り、瓦葺の二階建ての商店が両側に並んでいた居た時代です。アメリカの生活レベルの大きな格差を見せつけられ、少し考えさせられていました。
ロスに到着の前になり、下船する人達の荷物の整理や、船の売店で免税品を買い、それを荷物に入れて整理する方々が目立つ様になりました。12日間、船旅を共にした仲間と別れを交わし、住所を交換して連絡先を確認して手紙を南米に到着したら送りますと約束していました。
ロスには合計で3日間ばかり停泊する予定で、我々通過ビザを所持する者達は、船事務所に交渉して1日間の観光案内バスを手配してもらうように頼んでいました。
移住者でも神戸から乗船した人の中には、呼び寄せ移住者や花嫁移住者などの中には通過ビザを持っている方も居て、大型バス1台にまとまりました。
しかし、普通の移住者達はビザが無いので観光見物には出られなく、波止場の船の周りを散歩に歩くだけでした。中には隙を見てタクシーで近くのショッピングセンターまで買い物に出ていた人も居ました。夜間、港の警備が緩やかで、散歩すると言うと近くを歩いても文句も言われることが無く移住者達はアメリカの雰囲気を味わえたと感じます。
結構、船が到着して一番先に来たのはアイスクリーム売りの車でした。それから果物や菓子などを載せた車も来ましたが、彼等は移民船は良い商売になったと思います。アイスクリームはハーフガロンの大きな箱入れを買い、それを抱えて食べて居る人が多い感じでした。
アフリカ丸が波止場に到着し、乗客の下船する時間が来て別れの時間になり、まずは海に飛び込む様な事件を起こした青年が船の事務職員と船医に付き添われ、出迎えの係に引き渡されてタラップを降りて行き、其の後は出迎えの家族に迎えられた船客達でした。見送る移住者に「頑張って下さい、成功を祈ります」と声を掛けられ、それぞれの家族は出迎えの家族と抱き合い、握手して、キスを交わしている姿を珍しく見ていました。
それが一段落すると、アイスクリーム売りの車がタラップ下まで来て、船客の移住者の見物人にアイスクリームを売り始めましたが、皆が我先に買うので私も買い、アメリカのアイスクリームを初めて食べましたが、バニラのその味は今でも忘れません。
その夜、少し空きが目立つ船室の食堂で夕食を済ませると、近くのショッピングセンターが夜中まで開いている事を聞いて、アルゼンチンのブエノスまで行く、通過ビザを持つ仲間とタクシーに相乗りして買い物に行きました。
その時にアメ車の大型タクシーに初めて乗車しましたが、街中で、その夜にアメリカの豊かさと、道路の幅の広い事、舗装道路の見事な街並み、カラフルなゆったりとした建物、1960年代の物質文明の日本との格差を思い知らされました。
その夜、皆がそれぞれ、新鮮なフルーツやミルク、チョコレート、クッキーなどを買い、船内で買えないスナック類を持ってタクシーで船に戻りました。
明日はロサンゼルス見物にバスで出るので、その当時のリトル東京と言われたロスの日本町に行くのが楽しみでした。

2020年11月27日金曜日

私の還暦過去帳(697)

 移住の昔話, ( 7)

移民船にはその当時の日本田舎社会がありましたが、それは田舎からの移住者が多かったと感じます。
若い農村の2男や3男達は、農家を継げる土地もなく、出稼ぎに出るか、就職して都会に出るしか方法がありませんでした。
その当時アメリカには、短期派米実習生と言う制度があり、かなりその当時はドルも残せて、再度その資金と自分で学んだ機械化農業の腕を生かそうと、移住する人も居ました。
ブラジルにはコチア産業協同組合が募集する、若いこれからのブラジル農業を継ぐ日本の農村青少年を対象にして実習生を募集していました。将来はブラジルで独立して農場を開くという夢があり、日本の農村から応募する人が沢山いました。その制度を利用して近隣の農村からブラジルに移住した者が
独立して農場を開いたという様な話が伝わり、近所の幼馴染と結婚しに里帰りしたような若者が出てくると、多くの農村の若者達が実習生に応募していました。
彼等が船内でその当時の農村社会の風習を聞かせてくれましたが、初めて聞く話しに驚きもあり、興味があったので良く暇に任せて話を聞いていました。
村祭りや、若者塾、村社会の性風俗、夜這いの風習、足入れ結婚などの興味がある話でした。若者塾で集まった先輩年上から、夜這いの方法を学び彼女の所に忍んで行った話しなどは船内では歓迎の夜長の暇つぶしでした。村祭りで知り合った近隣の彼女が雨戸の錠を外して部屋に入れてくれ、一夜を過ごして、その後何度か通う内に彼女の妊娠を知り、村の顔役に頼んで、彼女の両親に話して両家の合意で結納も済ませて許嫁の仲になり、祝い餅も配り、彼女の大きくなるお腹も誰も言う事もなく、結婚、出産して、移住に応募してきた若者も居ました。

移民船には年配の船医と若い看護婦さんが居ましたが、軽い風邪などの病気などは直ぐに診てくれ、投薬も出ていました。狭い船内ですから病気が広がるのには注意していました。
年配の船医は若い移住者を6名ぐらい暇な午後に呼んで、これから南米社会に行く用心にコンドームの使い方、性病の予防仕方、ブラジルの風土病を教えてくれました。私が驚いた風土病は「森林梅毒」と言われた潰ようは、薬では中々治らなく、転地して他の地方に移住すれば直ぐに治ると聞きましたが、アマゾンに入植した先輩の奥さんが森林梅毒に罹り、アマゾン流域からウルグワイに近い、ブラジルのリンゴ栽培地帯に転住したら直ぐに治ったと聞いています。

独身男性の若者が、現地の若い女性と結婚して居るのも多く見ましたが、農場に収穫手伝いに来た、16歳の混血の現地人を見染めて、仲良くなり直ぐに子供が出来て、結婚した人をブラジルのサンパウロ郊外で見ましたが、初めはコチア産業協同組合が募集する実習生だった様です。そのワイフは日本語も達者で、ご主人を助けてビジネスの交渉などポルトガル語で全部済ませていました。そのワイフも2人目を出産して、背中に赤子を背負い働いていました。

航海もアメリカ大陸の西海岸が遠くに見える様になると、船内で問題が出て、ブラジル移住者はアメリカ通過ビザが無く、上陸出来ないと言う事が分かったからです。それは前にブラジル移住者が、ロサンゼルス港で、見物に上陸して何人も戻って来なかったからで、計画的に逃亡していたので、ビザが禁止されていました。
手口は前もって知人や仲間に手配して、ブラジル移住の日本旅券を発行して貰い、アメリカ通過ビザを申請して取り、日本政府移住渡航貸付金制度を利用して、自分の懐の金は何も出すことなく、荷物も最小限にして、ロスに出迎えた仲間にお土産と荷物を手渡して、自分は仲間と上陸するや、車でロス郊外に逃げ、その日に日本旅券も燃やし、破棄して、偽の日本人2世の出生証明で、運転免許証、アメリカの社会保障番号も取り生活していた日本人がいたからです。
私はそれを知っていたので、免税品を購入すると言う事で、係からパスポートを借りて、アメリカ大使館に行き、移住斡旋所にいる時に通過ビザをアルゼンチンに下船する者達だけ取りに行き通過ビザを持っていましたがしかし、この問題はだんだんと大きく成ってきました。

2020年11月26日木曜日

私の還暦過去帳(696)

 移住の昔話, ( 6 )

移民船には大きな風呂場がありましたが、移住者達を風呂に入れるので、かなりの大きさがあり、田舎の銭湯と同じ感じの湯舟でした。しかし、そのお湯は海水で、慣れない内は気持ち悪く、べたべたして、石鹸の泡立ちも悪く、上がり湯は普通の真水から沸かした温水でしたが、船には乗客の大勢の人が水を使い、真水は限られて、湯舟の海水も仕方ないと感じていました。
海水を沸かす時は、蒸気を通して沸かしますが、その音が今でもコトコト蒸気が通る音を覚えています。洗い桶に真水を入れて身体を洗い、最後シャワーを浴びて着替えて風呂場を出ていましたが、甲板を通り過ぎる爽やかな風が快く、慣れればそれでも風呂に入った感じがしていました。
洗濯も下着は自分で洗い、ズボンやワイシャツなどは船内のクリーニングに出していました。洗濯場で自分の下着などは洗い、乾燥室に乾していました。
大勢の人が乗船しているので、床屋もあり、船員さんの理髪士でしたが、昔話を聞きながら散髪をしてもらうのも、これも楽しいものでした。
戦前の昔の船乗り達の様子などの話は興味があり、大きな貨物船でマグロの100kgほどの本マグロを釣る話など面白い話でしたが、移民船も船尾から小指ほどの釣り糸を300mほど流して、釣りをしていると言うので見に行くと本当の話で、流し釣りで食事の後の残飯を撒くと良く釣れる様でした。
私がマグロが釣れたのを見たのは長い航海で1回だけで、それでも40Kgほどあるマグロでした。乗客にはその釣れたマグロは食卓には出ませんでしたが、船員さん達の楽しみで、船員食堂で仲間で調理されて居たようです。
太平洋を横断する船旅だけで12日間以上も日数がかかるので、天候が悪いと13日以上も掛かることがありました。
その当時の移民船は貨客船で、荷物のある港には寄港して荷役をするので、鈍行、準急、急行の3種類に分かれていました。
私の同期生が乗船した鈍行移民船は、まずハワイに寄港して、オレゴン州のシアトル港に寄り、サンフランシスコでも、ゴールデンゲートの橋を抜けてそれから40kmもサクラメント河を遡上して、スタクトン港に寄り荷下ろしをしていたと言う事です。スタクトン市には今でも住友電線アメリカ工場があり、スタクトン港は2万トンクラスの貨物船が停泊できます。
鈍行移民船はそれからロサンゼルスに寄港して、パナマ運河を超えて、べネズエラに寄港して、沖合のオランダ領のキラソウ島にシエル製油所があり、そこで船舶重油を給油して、移民船がドミニカ移民を運んでいた時は、ドミニカのサントドミンゴ港までカリブ海を航海して行き、また、大西洋を下りアマゾン移住者達が居る時は、アマゾン河を遡上してべレムの波止場まで移住者を運んでいました。
移民船は時にはその当時、大洋漁業会社の大西洋漁獲基地があるレシーフエにも寄港していましたが、貨物が無いときは朝に入港して、昼過ぎには出航するような港もありました。
それにしても今から考えると、悠長で、のんびりした航海だと感じます。
移民船はそれからリオ・デ・ジャネイロに寄港して移住者が下船する時もありましたが、次のサントス港がブラジル移住者の終点で、その他僅かのアルゼンチンのブエノス港まで行く移住者は、アルゼンチン移民、パラグワイ移民、ボリビア移民、ウルグワイ移民などが終点でした。
1960年代はブエノスから週に2回、ボリビアの首都ラパスまで汽車が走っていて、フフイ経由でウユニ湖の横を走って2日半も掛かる長旅でした。
パラグワイも首都のアスンションまでは、同じく汽車がその当時は走っていてこれも週に2回程度、国際列車が走っていました。
この様な長距離旅客列車は1974年頃には廃止になり、バスの国境を越えた国際バスが動いて、今では多くの鉄道は廃線となり貨物列車だけです。
私もバスで、チリのアリカから、アンデス山脈を越えて、アルゼンチンのフフイ経由でサルタ州を通過してパラグワイの首都アスンションまで、フルモッサ経由で走ったことがありますが、今では南米全体がバス路線で繋がっています。
今の世の中から見れば、昔の移住者達には根気と、体力があったと感じます。

私の還暦過去帳(695)

 移住の昔話, ( 5)

移民船アフリカ丸にはマドンナ的な素敵な女性も居ました。
彼女は1960年当時では、オールドミスとか、日本の田舎では
行かず後家さんとか言っていました。
1960年代では20歳過ぎれば嫁に行くのが普通で、23・4歳になれば、田舎では家族が心配して、走り回る事も普通でした。彼女はその当時のブラジルのサンパウロにある、東京銀行サンパウロ支店に現地採用で就職して乗船していた人ですが、30歳を少し過ぎていましたが、日本的な美人でロサンゼルスでも、行く先々の港で下船して見物に皆と行くと、必ず白人達が注目して見ていました。
ダイアナ王妃が被っていた様な、日除けの鍔広の白い帽子を被り、夏のレースのツーピースを着て、ハイヒールの靴で歩いていると、ロスでは白人の年配の女性から、どこで素敵な帽子を購入したか聞かれていました。
彼女は銀行の事務職を長く働いていたので、人当たりも良く、上品な感じが誰にでも感じることから、誰ともなく「移民船アフリカ丸のマドンナ」と言われていました。彼女は英語も上手で、かなりポルトガル語も勉強していました。
私達はまだ若く、田舎カツぺーの学生上がりで、彼女など眩しい感じの人でしたが、移住を決意したのが失婚の痛手から逃れて、新天地を求めてブラジルを決意した様です。
皆であの彼女が独身で、ブラジルに職を見つけて移住する決意を良く決めたと感心していました。彼女はお琴も、日本舞踊も嗜む日本的な女性でした。
後日談ですが、アルゼンチンのブエノスアイレスで当時の日本毛織工場に働いていた同船の友達が彼女からの手紙で、彼女はサンパウロの銀行で1年もしない内に、銀行に働いている日系2世の男性に猛烈に求婚をされて、それと親達にも気に入られて農場を開いている家族達からも、家まで用意されて結婚したと聞いています。
マドンナ的な女性と対照的な女性も居ましたが、ブラジルから日本に勉強に行き、柔道を習い、段も所持しているような日系2世の女性で、肉とパンで育ったからだと思いますが、ボインの大きな体格の女性で、ブラジルに帰ったら警官になると話していました。
移住者でも写真結婚の花嫁移民者や、恋人と結婚してブラジルに待っているハズバンドの所に行く女性や、ブラジルに農場を持つ村の幼馴染から、「日本で農家の主婦を選ぶのだったら、人生一回限りの命だから、ブラジルに来て新天地で広大な畑で、トラックターを運転して農業を一緒にしよう」と誘われ結婚してブラジルに移民する若い女性も居ました。
中には中学卒業と同時に、近隣から集団就職で電機会社に就職してベルトコンベアー作業で嫌気をさして村に帰っていた時に、遠い親戚から紹介されて結婚して移住する女性も居ました。
その様な花嫁移住者は皆が意志もハッキリした目的をもってブラジルに渡る人達でしたが、写真結婚の都会出身で、サンパウロなどでビジネスを開いている人に嫁ぐ女性は何かスレた感じの印象があり、後でサントスに到着する前に問題を起こして船内で親しくなり、情を交わした男と、リオで下船して行くのを見ました。
狭い船内でも人生模様の凝縮した社会があり、出航2カ月前に結婚して来た若夫婦には、時間が余るほど有り、3食昼寝付きの長旅で、何も家事、労働もすることも無く一日、甲板の陰でべったりと夫婦仲良くしているのには、若い連中には刺激が強すぎる感じでした。
船は夜間も3時間おきに見回りが24時間、船内隅々まで安全監視で歩いているので、船員さんが昨夜は夜中の2時過ぎに見回りで甲板の陰で若夫婦と出会い、彼女のXXXが足の下にずり落ちていたとか言っていました。



私の還暦過去帳(694)

移住の昔話, ( 4)
航海もしばらくすると、乗船者の凝縮された中身が分かって来ました。移住者が大多数を占めて、次はアメリカに行く乗船者たちでした。
アメリカに留学する人や、大学に研究に行く人、戦後にアメリカのGIと結婚した女性達や家族連れの日本への里帰り、郷里の家族の病気見舞いや、祝い事に出席するための里帰りでした。
ロスに到着したら、家族でアリゾナ州までバスで帰るという家族も居ましたが、ロスに到着したらご主人が波止場まで出迎えている人が多い感じでした。一人だけ混血の身体の大きな中学生ぐらいの子供が一人で日本からの帰りで、乗船していましたが、両親が離婚して日本に帰国した母親を訪ねての帰りだそうでした。
アメリカ人と結婚した女性が教えてくれましたが、その女性は手芸の編み物を、いつも物静かにしている女性で、今でも印象に残っています。
中には柔道を教授に行く人も居て、甲板で護身術などを教えていましたが、結構人気がありました。
1週間もすると、船内もグループが出来 てまとまり、行事を企画して楽しむ人もいました。将棋、囲碁、トランプなど、花札もありました。中には移住者で茶道をたしなむ人も居て、お茶菓子などを持ち寄り、お茶を楽しんでいるグループもいました。
少し船が揺れると、食堂に出てくる人が減り、時には空席が目立つ日もあり、船酔いに強い人達は平気で食べているので、余ったおかずなどは、二人分も食べている人も居ました。
3時にはお茶が出て、ミルクビスケットなどが配られ、お茶が薬缶で出ていました。私は昼間、暇があれば祖国訪問の1世達の話を聞いていました。
ブラジル最初の笠戸丸の移住者には貴重な話をして貰い、2020年には誰もその航海の移住者は今の世に生きてはいませんが、今では私が生きたその移住者達の話の証言になります。
サントス港に到着して、日差しが暑いので、帽子が無かったのでタオルでほうかむりをして、着物の裾を絡げていたと話していました。味噌や醤油の樽も持参していたと話していましたが、それが無くなると、全部自分達で製造していたと聞きました。
またパラグワイ最初のラ・コルメナ移住地に入植した隈部友吉氏夫妻と私がパラグワイに移住すると言う事で船内では特に懇意にさせて頂き、隈部氏は最初はペルーに移住して、成功して郷里熊本県に帰り、日本が1937年の支那事変から、戦争に傾いて行くのを見て、4人も男の子供達の将来を考えて、その長男はペルー出生でスペイン語も達者で、移住募集を見てパラグワイに家族で移住してきた人でした。
その時は家族でアルゼンチンに再移住して、首都ブエノスアイレスに家族全員が事業や農場をしていた方でした。
私もこれまでに南洋開拓の先駆者であられた小林常八氏、満蒙開拓団長であられた吉崎千秋氏、東京農業大学拓殖科長、杉野忠夫博士などに教え頂いた事は生涯の宝と感じています。
世界に移住して活躍した私の同期生も80歳の歳を迎えて大勢の仲間がすでに亡くなっていますが、私もこれまでに青春の情熱を掛けて、悔い無き人生を、これまで歩いて来たことは幸せに感じま。


  

2020年11月22日日曜日

私の還暦過去帳(693)

 移住の昔話, (3)

移民船にはそれこそ、その当時の日本を凝縮した感じの乗客が居ました。
まずは、移住者達でしたが、それは家族と単身者の移住者に分かれ、それから祖国訪問の戦前に南米に渡航した移住者達が居ました。
アメリカに留学や研究で渡米する方々も居ました。
僅かに数えるほどの外国人が2等船客に居て、3等もスクーターで走り、イタリア人の世界1周の乗客がいましたが、「私は何でも食べられる‥」とか言っていましたが、朝食の味噌汁とご飯のおかずだけの3等食はその当時の日本人では普通で、ご飯は食べ放題で、船内売店で買って来た佃煮、缶詰や副食物を持参していたので、問題ありませんでした。
直ぐにイタリア人はご飯に砂糖をかけて食べていましたが、煮魚や、干物が出ると顔を顰めて逃げていましたが、食事だけは洋食が選べて、パンが出る2等に移動して行きました。
その当時は乗客ばかりの客船は無理で、貨客船が普通で、荷役やストや大きな荷物があるときは、それこそ今から見ると悠長で、のんびりした旅で、人間が乗船して、そこにアダムとイブが居るのですから、それは小説が書けるほどの物語が出来ます。
出航翌日は、全員参加の避難訓練が船長以下全ての船員も参加して練習がありました。救命艇の前にグループごとに救命具を身に着けて、分かれて並び、子供や女性達が先に救命艇に避難する順序も決められ、船員さん達をヘルプする若い力があるような若者達が選ばれていました。
私のグループはアルゼンチンのブエノス・アイレスまで乗船する者だけが集っていました。
その当時の船員さん達は、第2次大戦の生き残り達が沢山居て、輸送船で3回も魚雷攻撃を受けて撃沈され、生き残っていた人も居ました。
1960年代のその当時は、携帯電話もなく、テレビゲームもなく、カラーTVがやっと普及し始めていた頃で、インターネットもなく、電報と電話だけが通信の主役でしたが、そんな時代で、其の当時の日本人の平均寿命も65歳程度で、52歳で会社は定年退職でした。
その様な社会環境の世界ですから、人間の付き合いも密な間で、船には限られた狭い環境で、テレビも無く、短波ラジオの放送だけでしたので、皆が膝を交えて四方山話をすることが大きな船内の娯楽でした。
日本船は日本国の領海を出れば、船内売店に売って居る日本政府の専売品は無税で買えましたので、酒・タバコ等は格安で買えましたが、驚く事に半値近い値段で、食後にビールでも手に、涼風に吹かれて船員さん達の昔話や、戦争時代の話を聞くのが楽しみでしたが、これは目的地に到着するまで続いていました。
船の無線室がNHK短波放送を船内ラジオで流すぐらいでしたのですが、直ぐに、船内壁新聞が出て、移住者の子供達に娯楽室を利用して教室が開かれ毎朝のラジオ体操の同好会も出来て、甲板を毎朝走るジョッキングも始める
人達も出てきました。
船内の見学会も開かれ、船底の底のスクリューの大きなシャフトまで見て来ましたが、船尾に小部屋があるので、聞くと船内で伝染病や、犯罪者が出た時に収容する部屋だと言う事で、普段は物置でした。
移民船は1万2千トンぐらいの外洋船でしたが、次の航海から貨物船専用になるほどの古い船でした。一度などエンジンの音がしないので、不思議に感じて船室から出て聞くと、なんとエンジン故障で、太平洋を漂流していると
言う事で驚いた事もあります。
私達の航海は、船長が40年ほど船乗りをしているが、こんな静かな太平洋は初めてだと言っていましたが、丁度太平洋の真ん中辺りで、べた凪に出会い2日ばかり波の無い海原を走りました。
直ぐに皆が航海に慣れて、船客の面白い話も聞くようになり、それを肴に、皆で夜遅くなるまでワイワイ談笑していましたが、中には娯楽室のマージャン台で、徹夜の賭けマージャンを開帳しているグループも居ました。
乗船して毎日船が走る速度と距離が張り出されていましたが、11から12ノットのスピードで、向かい風で遅いときは9ノット程度で走っていました。
船のスピードと反比例して船客のアダムとイブの仲は凄いスピードで進んで居たようです、凄い話も聞くようになり、目撃者も出て船旅夜長の話の肴には最適でした。

2020年11月21日土曜日

私の還暦過去帳(612)

 移住の昔話, (2)

その当時、1960年代に南米に移住する船便は、三井大阪商船の船便かオランダのロイヤル・インターナショナルの船便しかありませんでした。

日本船はパナマ経由、オランダ船はアフリカの喜望峰経由でした。オランダ船は横浜を出発して、神戸に寄港して、沖縄の那覇に寄って沖縄県人達の移住者を乗船させていましたが、その当時は沖縄返還前で、日本本土で日本のパスポートに切り替えて、移住者達が貰える片道の日本国パスポートを発行して貰い、移住している方が多くいました。

その当時の沖縄からは、アメリカ政府の身分証明で乗船していました。両船とも移住者は寄港先の荷役が長ければ45日も掛かる船旅でした。

その当時の航空便は、羽田からアラスカのアンカレジに寄り燃料を補給して、シカゴやニユーヨーク経由で1泊して、それからフロリダ経由で、ブラジルのべレムで燃料補給してサンパウロまで飛んでいました。

アルゼンチンのブエノスアイレスまでは飛行機を乗り換えて飛んでいましたが、航空運賃は日本の田舎で家を1軒買える値段でした。

横浜を移民船が出航する時は大勢の見送りが来て、盛大で感激するものでした。別れのテープが投げられ、バンドが別れの音楽を演奏して、名前を呼んで涙する家族、南米からの祖国訪問の老齢の1世達は、ハンカチを握りしめてテープを何本も握り、桟橋をタグボートに引かれて離れ行く船が最後の張り詰めたテープが切れると同時に、どこからともなく、万歳の声が湧き上がり、涙でくしゃくしゃにした顔で、「日本万歳!」の声が聞こえていました。

その心の胸中には二度と訪れることもない、祖国日本に別れの声限りの胸中を発露していると感じていました。

私は郷里の福岡で両親に別れをして来ていたので、見送りに来た学校の後輩達とテープを投げ合い、別れの言葉を交わしていました。

移民船は出航から直ぐに水先案内が下船すると、速力を出して下田沖を通過して、黒潮がうねる太平洋に出ましたが、自分の蚕棚ベッドの下にトランクを入れて

これからの長い航海の準備をして、食堂のテーブルなどの説明を聞いて甲板に出るとすでに犬吠埼の灯台の光が波間に見え隠れする時でした。

甲板には祖国日本に里帰りした1世達が並んで、手を合わせて最後の祖国日本に別れをしている光景でした。私は心が感激で、ジーンとして言葉も無くしていました。

灯台の光が見えなくなれば、そこで本当の別れになると私は感じていましたが、1世の方の言葉が聞こえて来たので、耳を澄ませて聞いていたのは、「両親の墓参りもしたし、兄弟に別れもして、共に温泉に行き、美味しいものも食べて、東京見物もして、皇居も参詣して何も思い残す事はない」と言う言葉でした。

戦前の昔に南米に農業移住した方々が苦労を重ねて、その上に今の自分達が移住出来る基礎を築いてくれた感謝の思いがその時、心に感じていました。

私の還暦過去帳(611)

 移住の昔話、(1)

半世紀も昔に、日本から海外に移住していった方々の乗船していた移民船の昔話から始めます。

計画移民も移住事業団が主催する移民応募の集団移民形式は、1974年で殆ど終了し、その後は呼び寄せ移住者や技術移住者が単身や、家族で移住していました。

移民船は船によりパイプ組み立て式ベッドが船室内に組み立てられ、そこに移住者が航海中は寝泊まりするようになっていましたが、船室によって家族や独身者と分かれていました。船の帰りは組み立て式ベッドは取り払われ貨物を積み込み様になっていました。

3等船室はその当時は冷房も無く、通風口からの外の冷たい空気を送り込むだけでした。

移住者は横浜と神戸に在った、政府機関の移住斡旋所に集合して、そこで荷物の梱包や検査、移住先によって仕分けされ、トラックで移民船まで運ばれていました。

移住者たちに家族や親戚が最後の見送りに来ていましたが、恋人と最後の別れに街に出る人や、荷物に入れる大工道具などを買いに出る人も居ました。

郷里から移住斡旋所に大きな荷物や、大量の家財道具などは、倉庫の片隅に捨てられているのも見ましたが、一人あたりの荷物の量が決まっていたのでそのような事になったと感じます。

そこでドラム缶が売られていましたが、移住地に入植してそれがドラム缶風呂に利用でき、また蓋付きで、鍵が取り付けられたので、貴重品などを入れるロッカー代わりにもなりました。


パラグワイの移住地で、ドラム缶風呂も入りましたが、重宝していました。

ドラム缶を半分地中に埋めてコンクリートで固定して、金庫代わりに使っている方も見ました。

私はドラム缶1本と茶箱1個、着替えを入れた大型トランクだけでした。

出発の当日の移住斡旋所の食堂は最後の食事で歓待していただきましたが、移民船までは横浜の根岸からバスで皆が揃って行きました。

バスで港の波止場まで、その当時はまだ戦災の跡が残っていた景色があり、空き地が沢山ありました。

出国手続は移住斡旋所で係官が来て済ませていました。当時は外貨規制が激しく、普通の旅行者が両替出来るのは限られて居ましたが、移住者は制限無しで、1ドル365円で両替出来ました。

当時の同じ移民船に乗船した方々の多くは56年も経て全て亡くなり僅かな方が生きています。


私の乗船した移民船はアフリカ丸という貨客船で、その船には南米からの里帰りの戦前移住した高齢の1世達が沢山乗船していました。

その中にはブラジル最初の移民船、笠戸丸の移住者達も居て、またパラグワイ最初のラ・コルメナ移住地入植者も居ました。

単身移住者として1964年、8月2日の午後4時に出港していきました。

目的地は、パラグワイ国、アマンバイ農協で、場所はブラジルのマットグロッソ州とパラグワイ国境のポンタ・ポランとペドロファン・カバレロの境でした。