2013年3月31日日曜日

第3話、伝説の黄金物語、(67)


サントス港での戦い・・、

サントス港は久しぶりであったが、情報提供者達の隠れ家の倉庫が集合場
所になっていた。今回はかなり危険な情報が入って来たので皆が緊張して
いた。

何か大きな情報をドイツから持ち出して来たユダヤ人が一番の標的とされ
ている事が判明していた。マイクロフイルムにかなり圧縮した図面や資料
が一番のナチ狂信者達の目標であることがすでに富蔵達に知らせが来
ていた。
もしかすると欧州戦線の戦局を変える情報であるかもしれなかった。

今回のユダヤ人受け入れの作戦行動は小型のアメリカ製の通信機を使う
ことが可能で、かなりの行動範囲が、安全に移動できる事が確約されていた。

相手方は何処に居るかも分らなかったが、一度でもそれが分り、判明してし
まえば、後は相互にお互いが連絡できる通信網を使えば、即決で次の行動
が判明し、緊急な状態でも逃亡者達の安全と逃げ道が確保出来る状態にし
てあった。

チリの金鉱主の親戚からは、いかなる代価も払うから家族を安全にブラジル
に入国させなるべく早くアンデスの山を越えてサンチヤーゴまで連れて来てく
れる様に、丁重にスミス商会の社長に依頼の電信が来ていた。
同じユダヤ系の組織の輪の中で、彼等の連帯と助け合いの精神の絆は世界
中で繋がっていると富蔵達は感じていた。

今回は情報提供者達のグループから高速艇の提供が決まっていた。
そこにもアメリカ製の小型通信機が設置され、高速で航行する船からも即時、
連絡網で誰でも周波数が同じで、同じ型の通信機を所持、設置していたら電
話機の様に話が出来る状態になっていた。これがどれだけ助けになったか、
それは直ぐに判明した。

サムは中型の水陸両用の飛行艇を操縦して、サントス港の河口辺りに着水
する事をすでに状況偵察をして、確認と潮の流れ、満潮時間や気象条件ま
で正確に把握していた。

高速艇には50口径のブロウニング重機関銃が据付けられていた。
これはいざと言う時に危険を脱出する時に使える様に準備されていた。
これも富蔵達の組織の中で手配され、サントスまで持ち込まれていた重火器
であった。

夜に入りブラジルの貨物船から、翌朝早朝にサントス港沖合いに到着する事
が連絡されて来た。
ブラジル領海内に入る寸前を行動開始と決めていた。
皆が早目に夕食をとると、もう一度今回の作戦で、皆が決められた配置と具
体的な動きを確認していた。

今回は一番危険と考えられるユダヤ人の身柄の安全を考えて彼等の子供二
人は除いて、大人には簡易防弾チヨッキも用意されていた。

モレーノがシュマイザーを抱え、拳銃も2丁所持していたが、その相棒として
ペドロが背中に同じくシュマイザーを持ち、狙撃用の小型ライフルを手にして
いた。小型の防毒マスクも各自用意していた。

富蔵は情報提供者達の中から特に選ばれた若者四人と、ユダヤ人逃亡者達
の脱出安全を図り時には手を引き、子供二人を背負い、抱えて無事に飛行
艇迄連れ込む事を担当していた。
モレーノの懐にはケースに入れた青酸ガスを濃縮したボンベを持っていた。
船内での戦いとなったときに、ドイツの塹壕戦で使われたと同じタイプのガス
を用意していた。
これは何処からかダイアモンド商会の幹部が持って来た物であった。

刻々と時間が経ち、高速艇が河口の倉庫群の運河水路からエンジンの音を
抑えてゆっくりと出港して行った。
その前に全体の配信網に送られたサインは『漁船が出港した』という暗号で
あった。サムはすでにサンパウロの自分の飛行場近くから飛び立つばかりで、
エンジンをアイドリングしていた。全てが1分の違いなく行動開始をしていた。

港に入港案内する水先案内人が乗船した小型のタグボートが動き出したと
言う連絡が入って来た。
高速艇は何処にでもある小型の釣り船の様に改造してあったが、この船が高
速で走り出したらどんな警備艇でも追い着けないスピードを出す事が出来た。

富蔵達は船内の窓から周りの様子を見ていた。広い河口に出て少しスピード
を出し始めると、船内から二人掛りで、ブロウニング重機関銃が運び出され、
素早く銃架に組み立てられ、長いベルト式弾倉が装填されると、キャンバス
をかけて隠された。

モレーノが富蔵に予備の防弾チヨッキだと言って、無理矢理ジャンパー下に
装着してしまった。
モレーノが笑いながら、『俺がそれを装着したら身軽に船に飛び乗れない・・』
と笑っていた。富蔵も動きが少し鈍くなり、重たい感じが肩と胸に感じていた。

それもそのはず、心臓部分には薄い鋼板が入れられていたからであった。
モレーノとペドロがお互いに行動分担の役割を確認して自分の銃器を確認
していた。
船内にラジオ通信の声が響き、不審な飛行機が港の上空を旋回して偵察
するように飛んでいたと情報提供者側から緊急の知らせが来ていた。

モレーノは双眼鏡を手にすると、沖合いに出た高速艇の周りの空を看視し
ていた。彼の動きが止り、双眼鏡の焦点を合せていたが、急に怒鳴る様に
『用心して銃器を構えろ・・』と言うと、双眼鏡を放り出すと肩から掛けていた
シュマイザーを構えて、ペドロにも促した。

微かに爆音が響いて来たが、時間にしたら一瞬の間であった、モレーのが
顔色が変わった。
『あの飛行機は攻撃姿勢に入っている・・!』と怒鳴るといきなりシュマイザー
を連射し出した。ペドロもつられて突進して来る機首に向けて連射していた。

ブロウニング重機関銃のカバーが跳ね除けられ、銃口が動き標的を定めてい
た、突進して来る飛行機の鼻先に、いきなりかなりの銃弾がまとまって集中し
て飛んできたからであろうが、少し進路がぶれた。平行した機銃弾が2列で船
の横を通過していた。

微かに飛行機が横に反れ高速艇の直ぐ脇を通過した瞬間、ブロウニングが
ドドド・・と飛行機を追い掛けるように弾が発車され、点々と尾を引いて曳光弾
がスーッと機影に消えた瞬間、ぐらりと複葉機の戦闘機が揺れたが、そのまま
同じ高度で直進して飛んで行った。

モレーノが、『危ない所だった・・』とペドロと顔を見合わせて居たが、モレー
ノは弾倉を2本も撃ち尽して、ペドロの弾倉も空になっていた。
飛行機の爆音が遠くになった時、微かに見える機影が沖合いの海に水しぶ
きを上げて激突するのが見えた。
モレーノは『弾が操縦士に当った可能性が高い・・』とつぶやいていた。

高速艇の操舵室に居た男が貨物船が見えてきたと怒鳴った。
すぐさま発火信号が送られた、弾き返す様に点滅する信号が帰って来た。
それは短く『準備完了』と言う返事であった。
急に船はスピードを上げ、貨物船に突進して行った。

サンパウロのサムには、『発進せよ・・』と通信が送られ、それも瞬時に
『了解ー!』と言う返信が戻って来た。
貨物船がスピードを落として高速艇と平行して航行始めた、縄梯子が2本海面
近くまで落とされ、救命胴衣を着けたユダヤ人達が不安そうに下を見ていた。

モレーノとペドロが猿の様に縄梯子を駆け上がり、まず子供二人を抱えると
インジオ達が使う背負いと同じ要領で布で背中に子供を背負った。

波で上下するリズムを見て、それぞれ子供を背中に縄梯子をスーッと降りて
きた。高速艇にカバンが4個ばかり投げ下ろされ、貨物船から大人が3名が
皆が見守る中、降りて来た。

女性は途中で身がすくんで動きが止り、富蔵が縄梯子を駆け上がるとグイ
と腕で女性の胴を抱え、引きずる様に降ろして来た。

下では若い衆達が手を伸ばしてその女性を受けていた。ユダヤ人達を船内
に抱える様に連れ込むと同時に縄梯子は引き揚げられ、高速艇は轟音を上
げて貨物船から離れて疾走始めた。

ユダヤ人達が祈りの動作で感謝の意を皆に表していた。子供達は硬直した
表情で母親に抱き付いていた。
すぐさま救命胴衣の下に大人だけ防弾チョッキをつけ、これから何が起こる
か分らない用心とした。
船はサムの水上飛行艇との合流場所に向けて岸近くに疾走していた。

朝もやが切れ、突然に警備艇が現れると停船を発火信号で命令して来た。
船首には小型の砲が備えられ、それはキャンバスで覆われていたが、機関
砲も甲板に見えていた。

甲板には制服の水兵の姿も見え、小型警備艇は機関砲をゆっくりと旋回して、
高速艇に向けて来た。
狭い船内では緊張が走り、ラジオ通信で情報提供者の本部に緊急連絡を入
れて問い合わせしていたが、直ぐに、サントス港外に警備艇が出動する予定
は一切無いと知らせて来た。

モレーノがペドロに『狙撃ライフルで機関砲の射手を狙え・・』と言うと、大
袈裟な身振りで笑いながら甲板に出て手を振り出した。
警備艇がゆっくりと近ずいて来た。

2013年3月30日土曜日

私の還暦過去帳(360)


 訪日雑感(14)

大阪で乗り換えて、博多行きに乗りました。

時間的には丁度良い頃に、小倉駅に到着致しますので安心でした。
やはり列車に乗ると昔の蒸気機関車で走った頃を思い出します、かれこれ
50年以上も昔ですから、学生の身分では特急などは乗れませんので、
普通急行に乗車して東京に上京していました。

その頃は、門司と下関の海底トンネルは電気機関車に切り替えてトンネル
を越えていました。時間が掛かりますので、ホームに下車してお茶やミカン
などを買っている時間が、たっぷり有りました。

私の郷里は大牟田市でしたので、そこのトンネルで1回機関車の切り替
えをして、今度は岡山駅で東京までの電気機関車に切り替えていました。

そこでも切り替えの時間が有りますので、蒸気機関車の煤で汚れた顔など
を洗って通称カラス列車におさらばして、ホッとしていました。

電気機関車に接続が終わり、ベルが鳴り、電気機関車の独特な発車の
警笛でしたが『ピー!』と言う音を聞くと、やれやれー!と感じたものです。

スピードも上がり、煙にも悩ませる事もなく、姫路を通り大阪に到着すると、
これまた安堵して、東京が近くなった実感を持った事を覚えています。

車内で食べる弁当は、当時は食べ盛りですから、大きなお握りと巻き寿
司などを作って貰っていました。定番の玉子焼きと、沢庵のおかずでした
が、それが一番美味しいと感じていました。
時には高菜漬けの葉に包んだお握りや、中に塩昆布やタラコを焼いた物
も入っていました。

それを母親が出かける前の日から用意して持たせてくれていましたので、
東京に着く前に全部食べ終わると、次ぎはいつ食べられるか・・・?と考
えていました。

18歳になって直ぐに上京して、郷里には合計2ヶ月も帰郷はしていな
いと感じますが、その大牟田の家も今は無く、小倉の家も母が老人ホー
ムに入居して、全ての家財を整理して人手に渡ったので、わが故郷の家
はもう在りません、手足を伸ばしてコタツに寝てテレビを見ていた帰郷の
私の姿はもう在りません。

モノレールで母とタンカ市場に買い物に出て、小倉駅周辺を歩いてソバ
を食べ、お茶のつまみに、私の好物の茶饅頭を買い、散歩した事はも
う望めません・・、
全てが過去に消えて、今では元気な母の顔を見るのが今では一番の楽
しみです。

私も太平洋を飛行機で渡って、日本を訪問できるのはいつまでか・・?
ふと考えていました。

新幹線では門司と下関の間を通過するのも一瞬です、小倉駅に到着し
てお昼のランチを九州ラーメンで満たすと、駅構内のパン屋さんが丁度
焼き立てのアンパンを出しているのを見て、これも衝動買いで食べたい
一心で、中が小倉餡のたっぷり入ったパンをパクついていました。

モノレール駅のコインロッカーに要らない荷物を入れて、お土産だけを手
に、丁度出発するモノレールに乗車いたしました。

小倉駅周辺はまったく変化はありませんでした。モノレールの上から見
る市街はなぜかくすんだ古ぼけた感じになっていました。それはビルな
どを建築する余裕も無く、同じ古い建物ばかりが並んでいたからと思い
ます。

モノレールの終点から2つ前の駅で降りて、いつもそこからタクシーで母
が居るホームを訪ねますが、今日もモノレールの駅を出たら、直ぐ下に
タクシーが客待ちをしていました。
タクシーに行き先を告げて走り出した道を見ていたら、ふと・・、あの辺り
の歩道を母と買い物に歩いたと感じ、あの道を右に曲がると母が住んで
いた家に行くと眺めていました。

何か胸の中で、ジーン!と来る物が湧いて、
そして、あと数分で母に会える実感がたまらなく感じました。

2013年3月28日木曜日

第3話、伝説の黄金物語、(66)

ユダヤ人逃亡者の受け入れ、

欧州戦線の緊迫化した情勢はブラジルの社会にも大きな影響を与えていた。

欧州で勢力を拡大して来た、ドイツのナチス全体主義、ファシストや、共産
主義運動などがブラジルは世界恐慌の影響を受け、特にコーヒーの価格が
暴落した影響で、ブラジル政治は、結果として生じた財政危機の問題だけ
でなく、ドイツのナチスやイタリアのファシストを熱望する小数の軍人と、ソ
連の共産主義の信奉者の間の衝突問題などに脅かされていた。

この様な問題を裏にブラジルが抱えていたのであるが、フランスの降伏以
降は、ユダヤ人達が南北アメリカの大陸に逃げ出す避難民として動き出し
ていた。
それはナチスドイツのユダヤ人排斥運動と、ユダヤ人をゲットに押し込め、
強制収容所に連行する悲惨な状態がユダヤ人達の中にも危機として広が
り、南米の伝手を頼りに逃亡の道を探してブラジルに入国していた。

当時、欧州の混乱する世界で、一民族が流浪に出る事は逃げ場を求めて
新天地を目指して、裸同然の有様で逃亡していた。

先日より私はメキシコに旅をしていて、当時のドイツやロシアからの多くの
難民がメキシコを経由してアメリカやカナダに逃げていた事を知りました。

また人知れずメキシコで生涯を終えた人も居る事を知り、メキシコの地で生
き延びて現地の女性と結婚して家族を作り、現地に根を張り、ささやかな幸
せを手にその地に骨を埋めていった人もいることは、政治的な混乱と、それ
が生み出した戦争と言う中での出来事と思います。

私の知り合いのユダヤ人女性の両親がドイツからアメリカを目指して逃げ
たが、中米のプエルトルコ迄逃げて、アメリカ本土入国が果せず、その地に
住み着いて子育てして、その子供がカリフォルニア州に来てアメリカ人とし
て生活していた人がいました。

第二次大戦中に日系人のアメリカでの強制収容の時は、自分が歩んだ惨
めな思いを身体に刻んでいたので日系人家族を手助けしていたと聞きま
したが、当時の世界では多くの人が逃れてくる人々に援助と救いの手を
差し伸べていたと感じます。

しかし、ブラジルのナチ・ドイツの活動分子は、ドイツ本国からの連絡で、有
力逃亡ユダヤ人達の逮捕、抹殺、ユダヤ人達が持ち出した機密情報の回
収と分析などを秘密のうちに活動していた。

ダイアモンド商会の社長は今回のユダヤ人の一人は重要な情報を隠し持
っている気配で、それに気が付いたドイツ情報機関が、ブラジルのナチ・ド
イツの狂信者達に抹殺を依頼した様な情報が、イギリスの情報機関から知
らされて富蔵達に連絡して来た。

その件はスミス商会の社長や幹部からも、重要人物をアメリカに逃がす手
筈が整えられて居るという事が伝えられていた。
大きく重要な情報が持ち出されて来たと富蔵は感じていた。

他のユダヤ人の家族は親の親類がチリの金鉱山開発で財を成して、南米
に脱出させたと言うケースであった。多額の金銭が使われ、フランスから、
スペインに入り、ブラジルの貨物船に潜り込んだ様な状態であった。

あまり時間が無かったが、全てが富蔵達の関連するビジネスと直結してい
たので、その支援をスミス商会に連絡していた。

富蔵達は今までの経験を生かして、組織を活用して直ぐに行動を開始し
ていた。貨物船がサントス港に入港する前には全ての用意が整っていた。

まずサントス港から安全に入国させ、直ぐにサンパウロに移動して、そこ
から直ぐにチリのサンチャゴまでアルゼンチンのメンドッサ経由で飛ぶと
言う事を決めていた。

陸路では時間がかかり、危険が多すぎるので、安全を考えて空を飛ぶの
が一番と感じていた。
重要人物はそこからアメリカ船舶の貨物船に乗船して、ロサンゼルスに
行くという手筈であった。
その手筈に貨客機が一機用意されていた。貨物が無く乗客ばかりなので
予備の燃料タンクが取り付けられ、長距離を給油無しで飛べる様にしてあ
った。

一番の問題はサントス港の上陸であった。全て船舶名から何処の波止
場に接岸する事まで判明しているのであるから、狙われる可能性とその
危険性が多分にあった。

飛行機の手配は僅か3名しか計画を知っている者は居なく、サムと富蔵
とモレーノの3名が立案してスミス商会保安係りの統括幹部だけに知ら
されていた。

その件でスミス商会に、ブラジルの司法関係者とイギリスの情報機関から、
危険注意の知らせが来ていた。
ブラジルのナチス狂信者が動いている事が判明していた。それとブラジル
の軍関係者にも協賛者が居る事が知らされて来たので、サントス上陸が
一番危険な場面となりそうであった。
それは誰もが感じた事で、危険な上陸と思っていた。

港で昔世話になった情報提供者達にも協力を頼み、港周りの動きに探り
を入れてもらったが、しかし、そこからも非常に危険な状態で海軍幹部に
もナチス狂信者が居る事が判明していた。
直ぐに皆が集まり相談したが、貨物船が入港間際の沖合いで小型船に
乗り換え、直ぐに小型水上飛行機でサンパウロのサムの飛行場側の湖
まで飛ぶと言うことが決まった。

これも危険な上陸であったが、直接狙われる危険性は減ると感じていた。
行動が開始され、全ての準備が完了し、サントス港に向かって車を走ら
せた。

2013年3月26日火曜日

私の還暦過去帳(359)

  訪日雑感(13)

その朝は4時半に目が覚めました。

7時の新幹線に品川駅から乗車する予定でした。私が持っている切符は
アメリカで購入できる、日本レールパスを使用しているので、博多まで
の直行には乗車出来なくて、新大阪駅で乗り換えて小倉まで行くのです。

新大阪での待合時間は僅かな時間ですから、苦にはなりません。
レールパスは便利で格安です、都内のJRは全部パスを見せれば改札口を
通過出来ますので、乗り放題と言う感じです。

大きな荷物は宅配便で先に送っていますので、楽チンで旅が出来ます。
便利になったものです、品川駅には山手線で行く予定です。
目が覚めて、朝風呂に飛び込んで、サッと顔を洗うのも兼ねていましたが、
それが済んでから荷物の整理をして、パックを済ませてしまいました。

パソコンのメールをチェツクして、返事を書いて、アッという間に一時間
以上は経過していました。ホテルのロビーで全部の支度を終えて、ふと耳
に聞こえて来たのが例のカラスの大合唱でした。

今朝も目覚まし代わりに鳴いている様でした。カラスの鳴き声を背中に聞
きながら歩き出しましたが、渋谷の街頭はまだチラホラの人影しか歩いて
いませんでした。新幹線の車内で弁当を考えていましたが、立食いソバ屋
が店を開いていましたので、軽く暖かいソバで朝食と致しました。

早朝ですから渋谷駅も混雑のカケラも在りません、ガラガラの駅のホーム
に立っていたら、目の前で貨物線のレールの上を長い貨物列車が過ぎて行き
ました。山手線の直ぐ側を貨物列車が走っているなどとは初めて見ました。

山手線に揺られて品川駅まで直ぐです、駅員に聞いたとおり、新幹線乗り場
まで、かなり歩かなければなりません、トコトコと歩いて改札にレールパス
を見せてホームに入りました。
ビジネス客が多い様で背広姿の人が沢山並んでいました。
今日は禁煙指定席が取れなくて、自由席の禁煙席に座るために早目に並ん
で居ましたが、それにしても日本は喫煙天国と思います。

それと喫煙に寛容で、年配の方々の喫煙率の高い事は驚きです、それに
酔っ払いの多い事も感じました。酒とタバコは中々切れませんが、アメリカ
で酒場の前で店内で喫煙出来ない人達が、タバコを吸っている姿を見ます。

特に私が住んでいる町は禁煙条例が厳しく、まるで喫煙者を虐待していると
感じます。新聞などは『それが嫌なら禁煙すれば良いのではないかー!』と
言う事で切り捨てていますが、私などはタバコを吸わないので、これには助
かります。
新幹線が走り出して、客室出入り口の扉が開くと、隣の喫煙車から流れて来
るタバコの臭いで鼻がツーン!と来ます。
今朝早かったので、うとうとと居眠りしていたのが、臭いで目が覚めてしま
いました。
ふと車外を見ると、富士の御山が綺麗な姿で朝日に輝いていました。
久しぶりの富士山です、しばらく見えなくなるまで眺めていました。

2年ぶりの母親訪問ですが、新幹線の車内では新聞を読んだり、車外の景色
を眺めていましたが、所々にブタ草が伸びた荒れた畑が放置されていました。

昔では考えられない事ですが、それがあちこちで見られると言う事は、日本
の食料自給率が実質28%しか無い国です、いささかショックでした。

2013年3月25日月曜日

第3話、伝説の黄金物語、(65)


襲撃の後始末・・、

武道館の師範の葬儀はしめやかに行われた。
遺骨を道場の正面に安置し、簡素な花飾りで皆が焼香していた。

助手の師範代が式次第を取り仕切り、遺骨は大使館を通じて日本に送り返
された。交通事故と言う事で直ぐに話題にも上がらなくなったが、富蔵には
寂しさと、悔恨の念が心にあった。
師範が住んでいたアパートの家財道具も全てかたずけられ、その手伝いに
富蔵もトラックを使って参加していたが、その時に僅かな荷物を取りに来て
いた若い女性が居るのに気が付いていた。

かたずけの陣頭指揮をしていた師範代の若者が、陰で富蔵に耳打ちして、
『師範の彼女だった・・』と教えてくれた。

独身の師範は週に4回、家政婦の女性に炊事と洗濯を頼んでいた様だった
が、一回り若い混血の女性の様であった。
富蔵は彼女が僅かな荷物を手に階段を下りて行くのを見て、そろりと階段の
手すりを持って降りて行く動作で、もしかして『妊娠・・』と頭をよぎった。

今日の手伝いにはペドロがトラックのハンドルを握って手伝っていたが、富蔵
はペドロを呼んで後を付けさせた。『彼女の居所を確認しておいてくれ・・』
と命令していた。
ペドロは富蔵のただならぬ雰囲気を感じて、上着を掴むと彼女の後を付けて
早足で消えて行った。
昼過ぎにペドロがふらりと富蔵の自宅に戻って来た。

遅いランチをペドロはガツガツと食べ終わると話し始めた。『彼女は現在妊
娠して、彼女の住む近くの雑貨店の女主人が言うには、確か5ヶ月に入っ
たばかりだと言う事であった。』
働き先の主人が事故で急死したので、仕事も無くして呆然としていると言う事
であった。
富蔵はその話を聞いた瞬間、彼女のお腹に居る子供が師範との間に出来た
子供と感じた。以前、師範が富蔵と酒を酌み交わして酔った時に、
『俺もそろそろ身を固めてブラジルに居付くかー!』と漏らした事を思い出
していた。

富蔵はペドロの話を聞いてから、頭に浮かんだ考えがあった。ペドロがア
パートを借りてサンパウロに居る時はそこから仕事に通っていたからで、富蔵
は『お前の部屋は汚くて洗濯もろくにしていないので臭い匂いがする』と言
って、『事情があるからあの彼女を雇え・・!』と命令していた。

財布からかなりの金を握らすと、『これで当分は賄って彼女の手当てを払っ
てくれ』と言った。
ペドロは勘がいいので、直ぐに二つ返事で、『分った・・了解ー!』と言う
と、胸を叩いて飛び出して行った。

夕刻になり何も音沙汰がなく、そろそろ寝る時間になってペドロから電話が
掛かって来た。『彼女はすでにサンパウロを出て、田舎に帰郷したみたい
で何処を探しても居なかったが、リオ・ベールデの直ぐ近くの町に行く汽車に
乗っている様だ・・』と連絡して来た。
彼女は郷里に帰る夜行列車に乗車したようだった。

明日一番のリオ・ベールデ行きの飛行機に同乗して探しに行くからと、了解
を求めて来たので富蔵は即座に探す様に頼んでいた。飛行機であったら先
に到着して降りてくる彼女を見つける事が出来ると感じていた。

リオ・ベールデ近郊は欧州での戦火拡大で金の価格の暴騰があり、金鉱探
しと、すでに採掘され尽した金鉱も砂金掘り達が採掘しているほどであった。
それでも金価格暴騰で採算が合う様になっていたので、おかげで富蔵達の
ビジネスは堅調に営業していた。

その翌朝早い飛行機に同乗してペドロがリオ・ベールデに戻って行ったが、
それから2日間も何も連絡は無かった。
3日目の朝早くペドロから電話が来た。彼女を探し出してリオ・ベールデの
事務所まで連れて来たので、富蔵がリオ・ベールデに行った時に時々泊まる、
昔購入していた家の掃除手伝いに雇って良いかと聞いて来た。

富蔵は承諾の許可を与え、そこの事務所に居る時は面倒を見る様に頼ん
でいた。リカがサンパウロにビジネスの用事で来た時に、ペドロも一緒に
鞄持ちでサンパウロに戻って来た。
ダイアモンド商会の幹部とビジネスの話が皆で終り、夕食後に、コーヒーと
コニャックを手に、雑談の時間にリカがペドロの事をこっそりと耳打ちしてく
れた。

ペドロと若い妊娠中の彼女とが深い仲になり、お互いが男女の他人では分
らない状態で親密な関係で繋がってしまった様だと教えてくれた。

富蔵はそれを聞いて、男女間の事は口を挟むことは無いと考えて、リカとも
話して富蔵の昔の家は自由に使用して構わず、古い事務所のフオード中古
車も自由に私用に使う事を許していた。
それを聞いたペドロが直ぐに涙声で富蔵に感謝の言葉を言いに来ていた。

『貴方はドンと言われる人だ・・、私は神様から彼女を与えられ、貴方から
は家と車を与えられ、生きる喜びまで出来た・・』と言って感謝していた。

富蔵はそれ以上は口を出さなかった、人が幸せと感じる事に他人がとやか
く言う事もなく、それが上手く収まって、一組の幸せなカップルとなり、家庭
と言うものを築いて居る事は、彼女のお腹の子供が誰の子であれ、関係
無い事であった。

ペドロはリオ・ベールデに居る時は、リカの事務手伝い、鞄持ち、運転手、
出かける時は護衛として飛び回っていた。

リオ・ベールデ近郊も富蔵達の勢力が増して手堅いビジネスと信用が出来
て、戦時下の様子を示すブラジル情勢も不安なく過ごす事が出来ていた。

その様な事の裏腹にフランスがドイツに降伏して、ユダヤ人達が南米を目
指して逃避しようと懸命であった。
ダイアモンド商会の社長から、スミス商会とも手を組んで、関連する取引
会社の家族や、重要人物をブラジルやアルゼンチンに逃がす実行計画を
知らされ、協力をよび掛けられた。

サムの事務所を通じて、その後、直ぐにサントス港に到着する船で4名
のユダヤ人家族と一人の重要人物を受け入れる協力を頼んで来た。

2013年3月24日日曜日

私の還暦過去帳(358)

 

 
訪日雑感(12)

11月24日、月曜日は例のカラスの目覚ましで朝早く起きてしまいました。
寝ていることも出来ずに、起き出して朝の用事を済ませると散歩に出まし
た。カラスにも慣れて、鳴き声も余り気にならなくなりました。

渋谷の歩道には毎日沢山のゴミが出されています、小型のトラックが角々
を廻りながら収集していますが、ゴミのプラッチック袋を手でいちいち投げ
込んでいました。
私の住んでいる町は、大型トラックの収集車が来て、3種類の分けられた
ゴミ缶を、クレーンのようなアームで、ポイー!と掴んでトラックに投げ込
んで行きます。

その早い事、庭の庭園などのグリーン・リサイクル缶は大きくてドラム缶
一本分の容量が有ります。私など家庭菜園をしているとこれは重宝致し
ます。何でもグリーンの植物ゴミは投げ込んで良いのですから、これ幸い
にドンドンと投げ入れています。これは一ヶ所に集められ、堆肥に加工さ
れます。

それにしても、渋谷のゴミは生ゴミと紙類が一番多いと思いました。
私は散歩の道すがら考えていたのは昔見た、リヤカーでダンボールな
どを回収していた人達を何処にも見ないのです。

今年7月にアルゼンチンの首都、ブエノス・アイレスに行った時に、街中
のあちこちで紙類を収集する人達の姿を見ました。フロリダ通りにタンゴ
ショーを夜、見物に行って見たのは一仕事終わった若者が、ダンボール
山の前で、夜食を食べている姿でした。

彼等の生業と思いましたが、日本ではまったく見られない風景です、ア
メリカでもリサイクルに出して、ゴミ収集日に回収して行きます。
渋谷の街中を歩いていると色々勉強になります。資源がない日本にし
ては何でもふんだんに使い捨てられている感じが致しました。
道を歩いている通行人達の服装も綺麗で、流行を着て、華やかな感じ
の印象を受けます。
街中のショーウインドーに飾られたファッション商品の洗練された姿な
どを見ると、どこかアメリカの郊外などが田舎に感じる様でした。

今朝も納豆、塩鮭定食を食べて、コンビ二ストアで飲むヨーグルトを買
い、立ち飲みしていました。ホテルに帰ると、サッとシャワーを浴びて、
それから都内見物に今日は歩き廻りました。

あちこちと歩き回り、かなりの距離を歩きましたが、田舎者と同じ、お
登りさんと言う事で何でも興味津々でした。
私の肌に合わないと感じたのは、やはり銀座の街頭でした。
どの店も、我々庶民感覚から外れ、何処と無く部外者と言う、お呼び
ではない私の姿でした。

銀座三越のライオン像の前で立ち止まって、店内に入る人達を眺め
ていましたが、私などの様に何処と無く田舎臭い風体ではありません、
ぱりっとした服装で、ブランド物に身を固め靴もピカピカで、私が履い
ているハイキングシューズなどの、ドタ靴ではありません、あたり前
ですが、何か場違いな所に来た感じで、そこそこにその場を離れま
した。
健脚を持って街中を歩きましたが、どこも緑が少なく、これでは東京
砂漠と言う熱帯夜の襲来が襲うという現象を理解いたしました。
すれ違う外人サン達の殆どが半袖シャツという感じでした。

私も同じ格好でしたが、この東京が温暖化と気温上昇のサンプルと
して世界に誇るショーウインドーと感じたのは、この肌で証明して、
感じた証拠でした。

その夜、渋谷は雷鳴がとどろき、ゲリラ豪雨と言う感じの雨が短時
間降りました。私が1976年にブラジルのアマゾン河口の町、べレ
ムで体験したスコールと同じ感じの雨でした。
近い将来に東京は亜熱帯の部分に入るという話が有りますが、嘘
では無いと感じました。
ハチ公横の地下道入り口で雨を避けていましたが、東京のコンク
リートジャングルにスコールと言う通り雨が降っていると思いました。
それからしばらくして、自動販売機の缶コーヒーでも飲みながら、
雨宿りをしている群集の人間観察をしていました。

その夜、昔のメルマガ発行仲間の方と渋谷で会いましたが、その
方の子供の成長に驚いていました。子育てなどの話をしていまし
たが、カナダに生まれて、アメリカに育ち、日本のアメリカーン・ス
クールで学ぶ子供の教育は大変な事と実感いたしました。

上手に日本語を話しますが、100%は日本に溶け込める事は難
しいのではないかと思い考えていました。
子育ても大きく変化して前回、バスの中でアメリカ人の奥さんと
話した教育論議を思い出していました。

何も不自由する事無く、飢えも知らず、物質文明の中で育ってい
く子供達が、飢餓や節約とか、不自由な文明社会の格差に耐え
られるか疑問と思いました。
現代教育の中に、生きるという自分の二歩足で、この社会を歩
く勉強も必要と思いました。

その夜は明日、朝早く新幹線で小倉の母親を訪問するので、
早目に眠りに付きました。

2013年3月23日土曜日

第3話、伝説の黄金物語、(64)


 
襲撃成功、

襲撃する時間まで富蔵達は軽く食事をして、コーヒーカップを前に善後策
を話していた。万が一、このトラックで交通事故に見せかけて襲う計画が
破綻したら、その場で二人を射殺する事を緻密に図面を画いて話していた。

モレーノと遅れて来たペドロが持参していたシュマイザーを使う事を決め
ていた。これは最後の最後で取る手段であった。

モレーノは消音拳銃と予備の弾倉だけで曲がり角の潅木に隠れて居る事
を決め、富蔵がハンドルを握って坂道をトラックの後ろから走り、もしもトラ
ックが仕損じたら、そのままトラックの横を走り抜けながら、駐在武官のハ
ンドルを握る姿にマシンガンの一連射を与えて走り去るという実行計画で
あった。射手はペドロが担当していた。

最後の襲撃確認は潅木の陰に隠れたモレーノが見届けて、二人への止め
の射撃をするという事が決まった。モレーノは少し降りた下り坂に車を停車
させる事にしていた。

この襲撃は練習などはまず出来ない相談で、ぶっつけ本番で実行するし
か時間がなかった。サムは別の車のハンドルを握り、いざと言う非常事態
に備えていた。
予定時間が来て皆が、新しく入れてたコーヒーで乾杯した。

スミス商会の幹部から駐在武官達が出発したと連絡が来た。
それぞれ、持参の銃器を点検すると車に乗り込み、目的地に出発した。
富蔵達が乗車した車が丘の上のレストラン近くに来た時には、すでに大型
トラックが道路工事の土砂やコンクリートを積んでエンジンをアイドリングし
て待機していた。

側には見せかけだけの工事現場があり、徐行のサインが出され、坂下に
は旗を持った男がヘルメットを被り工事現場の標識の横に立っているのが
木々の間から小さく見えていた。全ての準備が出来ていた。

富蔵は確認の為に車の窓を開け、タバコにライターで目立つように火を付
けた。トラックの運転手も窓を開けてライタを光らせ、タバコの煙を吐き出し
た。その横をサムが運転する車が通り抜けて行き、坂をゆっくりと降り始め
た。
下の工事現場の標識の横で光りが瞬き、旗が振られるのが目視された。
それと同時にトラックがエンジンの轟音を立てて動き出した。その時、駐在
武官と師範が乗った車が曲がった坂道を、ゆっくりと登ってくるのが見えた。

富蔵は帽子を深々と被りなおすと、トラックの後ろを付いて坂道を降り始め
た。トラックが加速するのが分った。あと残りの2カーブ目の曲がり角が犯
行予定場所で、時間的に絶妙なタイミングを計り、トラックが加速している
のが分った。
富蔵は自分が握るハンドルが、汗で湿っているのが分った。
トラックが絶妙なタイミングでカーブの曲がりに進入しようとしていた。
同時に駐在武官がハンドルを握る車のボンネットが見え、曲がりに差し掛
かった。

トラックがスピードを少し上げてブレーキを軋ませながら、タイヤから白煙
を上げて、のし掛かる様に車の横のドア辺りに突っ込むのが分った。
異様なタイヤ音と、物が潰される音と、人間の悲鳴と、絶叫が一瞬聞こえた。

トラックの荷台から土砂とコンクリートが飛び散るのが見えた。
駐在武官の車が一瞬で消えていた。トラックが車を側壁に押し潰して原形
が無かった。潅木の中からモレーノが飛び出して来るのが見えた。

流れ出したガソリンが坂に細い筋を引いて流れていたのを見たモレーノが、
いきなり火の付いたタバコを投げた。『ボーン!』と言う鈍い音がして、する
すると火炎が逆に登りだすと一瞬にトラックと押し潰れた車を包んだ。

それを見届けると同時にモレーノが自分の車に乗り込み、その紅蓮の火炎
から逃げる様に急発進して坂を下って行った。
富蔵もトラックの運転手が座席から逃げ出し、微かに『早く逃げろ・・』と合図
するのを見ると、モレーノの車を追い掛けて坂を走り降りた。

遠くの高級住宅の窓が開き見物する姿が微かに見えていた。
火炎を見た車が何台か近寄って来たが、トラックの運転手が、『車の燃料
が爆発するから逃げろ・・』と言うと、あっと言う間に集まった車が消えてし
まった。

その頃にはトラック全体に火が包み込んで燃えていた。
その様子を離れた場所からサムが車窓からジッと見ているのが分った。
何処か遠くに消防車のサイレンの音が聞こえて来るとサムの車も消えて
いた。

皆の車が隠れ家に戻って来るのは早かった。スミス商会の幹部が待ち構
えて言葉短く『成功した・・』と言うと、その後は無言で酒を用意していた。

グラスに注がれたウイスキーやビールが出され、ダイアモンド商会の社長
がスミス商会の社長と幹部とグラスを合わせ、言葉短く『今日の成功は、
これから我々のビジネス繁栄にも繋がる・・』と言うとグラスを飲み干した。

夜が更けて、今日のトラックの事故処理が開始され、警察と鑑識課が現
場を見ていたが、完全に焼け落ちた車両は無残であった。

トラックの運転手が状況を説明して、積荷が重くカーブでハンドルを取られ
て衝突したと現場を指差して、タイヤの跡などから事故と見なされて、捜査
は型どうりに進みあっと言う間に終ってしまった。

道路工事会社からの責任者と弁護士がドイツ大使館に陳謝と見舞いに、
深夜にもかかわらず訪れ、今回の事故を説明して警察の報告書を後で届
けると言ってその夜の話が打ち切られた。
全ての情報はスミス商会の保安幹部に集められ、皆に説明されていた。

富蔵達が家に戻る明け方には、街角のスタンドに新聞社の朝刊早刷りが
出ていた。モレーノと富蔵が車を道端に停車させて、新聞を覗き込んで居
たが、小さく紙面に『ドイツ大使館の駐在武官が事故に巻き込まれて死亡』
と言う短い記事が載っているだけであった。

富蔵は白々と夜が開けて行く中で、呆然と新聞を手に街角に立っていた。

2013年3月21日木曜日

私の還暦過去帳(357)

 

 訪日雑感(11)

久しぶりの新宿駅です、まさに人に酔うという感じがありました。
日頃はのんびりとしたサンフランシスコの郊外です、この駅は空気が濁
って息苦しい感じも致しました。
全てをミキサーに掛けて、ぶちまけた感じが致します、呆然と人の流れ
を見ていました。体感として東京の混雑と過密さと、騒然とした喧騒の
流れです。

昔には感じる事も無かった印象が心に焼き付いていました。
コンクリートでかさ上げした高層住宅のマンションとオフイスビルの乱立
です。山手線の車内から眺める風景もまったく激変と言う思いが致しま
した。
これから日暮里の友人のお姉さんが、東京でも珍しくなった公衆浴場の
銭湯を経営しているので、そこを見学に行くつもりでした。
友人から『一度訪ねてくれ・・、』と勧められていました。
今では東京で1軒だけとなった、背中流しのサンスケが居ると言う銭湯
です。
私が東京で銭湯に通った頃は、最初に東京に出て来て風呂も無い狭い
部屋の学生相手の下宿でした。そこに僅かな期間滞在していましたが、
しばらくして、住み込み書生の仕事を探してそこに引っ越してからは一度
も銭湯で風呂を使った事はありません。

混雑する山手線の車内で、かなりの人が無言で携帯電話のキーを使い、
メッセージを書いているようでした。夕方の家路につく人達かも知れない
と感じて見て居ました。
お風呂屋の4時開店前に訪ねて来てくれと言う話でしたので、時間に合
わせて行くと、歓迎してくれ、早速お茶を頂いて、開店前にお風呂屋の
中を見せて頂きました。

日暮里駅周りには、ここだけしか無いという銭湯で大きな建物でした。
中はお決まりの高い天井と、広々とした浴場の洗い場があり、湯船は
2槽有りました。
一歩中に入り、昔の学生時代を思い出していましたが、当時は時間帯
で相当混雑する様でした。東京に来てこんな銭湯を見学できた事にあ
りがたいと思っていました。

開店前の誰も居ない浴場です、女湯の方も見せて頂きました。
ご主人が『ここには滅多に男性は入れない所だから・・』と笑っていまし
た。記念写真を番台に座って写して貰いました。生まれて初めてのお
風呂屋の番台に座りました。
感慨深い気分でしたが、これが初めてで最後だと思いましたが、良い
記念となりました。

入り口の前には、かなり年配のご婦人がお風呂支度をして待っていま
した。カゴに入浴道具一式全部入れて、着替えの包みを持って、
『あと10分ぐらいだ・・』と言って待っていましたが、ご主人の話では常
連さんと言う事でした。
一番風呂に入浴に来る人が結構沢山いるということでしたが、400円
のお代では、お釣が来ると思いました。

やはり日本人には生活の中に染み込んだ入浴ですから、広い浴槽で
手足を伸ばして暖かい湯に浸かる事は切っても切れない事だと思い
ました。

昔、ブラジルのリオグランデ・ド・スールの田舎に同期の友人を訪ねた
ら、お風呂は日本式の湯船でした。先ず開拓して家を建て、一番に台
所と風呂場とトイレだと話していました。

開拓初期はハンモックで寝た事もあると言っていましたが、激しい労働
の疲れを癒すのはやはり日本式のお風呂と思います。彼が話していま
したが、サンパウロからトラックに積んで行商宜しく、1軒、1軒とお風呂
を売り歩いて来たと話していましたが、皆が飛びついて購入したと話し
ていました。

それまではドラム缶での入浴だったと言っていましたが、私もそのお風
呂に浸かり、こんな山奥の開拓村で、薪で焚くお風呂に首まで暖かい湯
に入り、家の周りに植え付けられたリンゴ園を吹き抜けて来る風の音を
聞きながら、日本人の生活とお風呂の繋がりの強固さをしみじみと肌
で感じていました。
その日の帰り、日暮里駅から山手線に乗車して渋谷に向かう車内でふ
と感じたのが、日本人の体臭が少ない事です。
昔、アルゼンチンのブエノス・アイレスの地下鉄車内で、強烈な体臭を
感じた事を思い出していました。

何とも言えない、強烈な臭いでした。まだその当時、慣れない事もあり、
彼等が何を食べているかとヘキヘキして乗車していた覚えが有ります。

渋谷までの車内で新宿駅から乗車して来た、男性の外人さんが側に来
た時、一瞬、アレー!と感じました。

私の敏感な鼻の奥に覚えがある臭いがしていたからです。

2013年3月19日火曜日

第3話、伝説の黄金物語、(63)


二人の抹殺計画、

スミス商会の保安と情報担当幹部が話してくれた事は、富蔵には少し
ショックな話しであった。
『ブラジルの資源をドイツ移送に、その要員確保と訓練と実行に、日本
 の家族、親類縁者を人質に強制するという話であった』

すでに二人に死刑宣告と同じ、抹殺の計画実行が立てられていたが、
この計画は危険で、ブラジル在住の日本人移住者に対して、ドイツへ
忠誠させて、戦争協力させる計画であったからだ。

それは同盟関係の日本人を使い、多くの農業従事者がいる日本人を
使い、絹の落下傘素材、生ゴム、製薬原料、等の生産と集荷をさせる
考えであったようだ。
特に富蔵が狙われたのは、金やダイヤモンドなどの重要な採掘と集荷、
運送に関係しているからだと言われた。

もはや戦争は壮大なエネルギー消費と、資源の食い潰し競争の様で
あった。
それが滞ったり、停止したり、枯渇したら即、戦争は負けるという運命
を背負っているので、手段を選ばず、かつ迅速に実行する事を考えて
計画していたと考えられた。

ダイアモンド商会の社長が戦局の分析をして皆に解説してくれたが、
世界に情報網とビジネス人脈の幅と深さは、この世界でもトップに並
ぶ人物と言うだけの知識を持っていた。

『いかに現在のドイツが強力だとしても、工業力、資源、その補給と
いう現実的な面からしたら先が見えている』と話した。そして・・、

『また機械化した師団を先頭に世界最優秀と言われた軍事力も、19
世紀にフランスのナポレオンもモスクワを目の前にして破滅的な敗北
をして敗退して、ドイツ帝国自体も第一次大戦で、ロシア戦線で苦戦
と苦渋の敗退をしているのを教訓としていないと付け加えた。』

『ドイツ軍は広大なロシア戦線と貧弱な補給路、厳冬ロシアの冬将軍
とも戦わなければならない消耗戦には耐えられない・・』と言葉を結ん
だ。皆はシーンとして社長の言葉を聞いていた。

もはや時間的な有余はなかった。
芽を摘む様に、動き出した計画の中心的な人物を二人抹殺する事
は、敵として相対する国同士の争いでもあった。

富蔵は少し悩んだ、永年通っている道場の師範が相手で、その抹殺
する候補だから、なおさらであったが、富蔵は決心した。
すでに富蔵は組織の中で働き、生活して、組織から守られ、庇護さ
れて居る事を考えれば、決心は早かった。

自分はブラジルで家族と仲間と親戚を持って生きているので、後に
は引けないと覚悟していた。
夜遅くなりダイアモンド商会の社長と幹部がテーブルに座り、富蔵
達と向き合っていた。議題は抹殺する二人のこれからの運命であ
った。

ダイアモンド商会の社長が低い声で話し始めた。
明日、駐在武官が道場で練習した後に、師範のアパートの近くで、
二人が食事をする事が決まっているから、そこを襲うと言う事を皆
に説明した。

今回は武器で襲うより、事故に見せかけて大型トラックを使い、坂
道を登ってくる武官の車を狙い、見晴らしの良いレストランに着く前
の一瞬の隙を突いて、坂道の曲がりのカーブで車の横っ腹に衝突
させ、押し潰すという計画であった。

それはいつものように武官の車に同乗した師範を襲う一番の良い
チャンスだからと感じた。衝突させるトラック運転手はプロのスミス
商会から派遣される男を使う事が決まっていた。

今回の計画は相手が外交官の旅券を持つ大使館員であるから、
狙撃などと言う世間が目を見開いて注目する計画では、余りにも
目立ちすぎる事が心配され、今回は世間で毎日の様に起きている
交通事故に見せかけて、新聞見出しの3行程度の文字で消え
て行く様に計画されていた。

それを話し終えると、社長は欧州で拡大する戦火の様子を説明し
てくれた。それから重要な事だが、ドイツがユダヤ人排斥を始めて、
多くのユダヤ人がドイツ国外に逃げ出しているが、まず有能な人
材を優先して逃がすルートをスミス商会と協力して確保して、それ
を維持する事を考えていた。

その人材の能力により最終的にアメリカや、ブラジル、カナダ、
アルゼンチンなどに潜り込ませる事を計画していた。
すでにフランスから、リオやサントス港経由のブエノス行き、南米
航路の船に乗船させる手筈が組まれていたが、これも人脈と連帯
するビジネスの仲間達が利害関係で一致していた。

ダイアモンド商会のフランス事務所の信頼できる配下が、逃亡
ルートの組織的な手筈を組んでいた。
時期が来たのであった。世界情勢は緊迫して、サイコロは投げ
られ・・、運命の行く手が目の前にはっきりと現れて来た感じがし
て来た。

明日はその運命でも、僅かながらドイツの、これから先の運命を
狂わせる歯車を2本折る事を実行する日であった。
12時の真夜中を過ぎて、すでにその実行が今夜と言う時間に
なっていた。

富蔵達が帰宅する前に社長が『今夜の決行時間まで休んで、今
日の現場を見届けて貰いたい』と言って、大型トラックが、万が一
にでも失敗したら、坂の曲がり角で徐行するカーブで二人を狙撃
する様に頼んで来た。

決行まであと数えるほどの時間しかなかったが、富蔵の心は
平常心であった。

2013年3月18日月曜日

私の還暦過去帳(356)


『私のお勧め映画』

私のお勧め映画は、『スラムドッグ・ミリオネア』と言うインド映画です。

アメリカでは11月28日頃より、各地の名画座で上映されています。
私も前評判を聞いて、新聞の評論なども見てから封切と同時に上映を見に
行きました。

第33回トロント国際映画祭で観客賞を受賞。
米アカデミー賞の前哨戦と言われる、全米映画評論家協会賞の受賞が4日に
発表され、この映画の監督『ダニー・ボイル』も、この映画で2008年度の
最優秀作品賞 を獲得して、これで今年のアカデミー賞に最短の距離に付けた
と新聞でも報道されている 事を考えると、実際この映画を見ている私も納得
しました。

この映画は、インド・ムンバイのスラム街育ちの少年の生い立ちと、その人生
を現地ロケでの真迫感溢れる画面で、テンポ良く構成され、その実写に近い
生き生きとし描写は見る 者の心を掴み、感動を与えると思います。

ストーリーは、インド版 『Who Wants To Be A Millionaire』 に出演しした
スラム街育ちの孤児、18歳のジャマール(デヴ・バーテル)が出演し、残る
1問に正解すれば賞金2千万ルピーを獲得できると言う最終の階段に勝ち進み

到達したが、『スラム育ちで、無学で知識も無いのにー!』と疑われ、不正
行為と警察に逮捕留置され尋問を刑事からされる過程で、彼の今まで育ってき
た環境と孤児での生き方、路上生活者としての知恵と冒険、地元のギャング
とのかかわり、その様な孤児達を食い物にして、虐待する大人達との戦いの

道が、 18年と言う年月に秘められて、その中から得た事をクイズの回答に
生かして、勝ち登って 行くストーリーです、最後の最後になぜ彼が金に執着も
無いのに、クイズに挑戦して最終質問に答えるか・・・、
そこで全ての事が明らかになると言う事を見て、感動を受ける映画です。

実際にインドの世界でも有名な、ムンバイ・スラムの現地ロケが貴方の心を
引き付けて離さないとおもいます。
貧困の差の激しいインド社会を映画の画面から見ることが出来、また、それ
を考えさせられる画面と思います。

今回の映画で主役を演じたインド系イギリス人のロンドン子、デヴ・パーテル
と、彼が恋する少女を演じた地元ムンバイ出身のフレイダ・ピントというフレッ
シュな両名の演技は、誰が見ても息のぴったりと合った演技だと思います。

この映画の最後のシーンで、インド映画には必ず見られる『歌と踊り』の
画面が入っていたのには、私個人の印象としてもパッピーエンドと言う実感が
感じられました。

原題:『Slumdog Millionaire』(スラムドッグ・ミリオネア)

公式サイト: http://www.foxsearchlight.com/slumdogmillionaire/


ジャンル: ドラマ 鑑賞度100%
監督: ダニー・ボイル
出演:デヴ・パーテル、フレイダ・ピント

2013年3月17日日曜日

第3話、伝説の黄金物語、(62)


 時局の激変、

雪子の両親も初めての祖国訪問を果たして、沢山の日本からの土産を
手にブラジルに戻って来た。
時局の緊迫感とは裏腹に、日本の田舎では何も変化など無い平凡な生
活のようであった。
上原氏の家族で、沖縄に残っていた上原氏の弟が家族を連れて、雪子
の両親と同じ船でブラジルに移住して来た。上原氏が富蔵から教えられ
た時局の緊迫を考えて拡張した農場を任せられる弟を呼び寄せた様だ。

富蔵達が欧州の緊迫した情勢から予測して、その準備を済ませてしまっ
た頃に戦火が開始された。ドイツ軍がポーランドに侵攻したのだった。
これにより第2次大戦が勃発した。
ブラジルにもポーランド系移民が沢山来ていたので、祖国を案じる人々
も沢山居た。

緊迫感は切れて、後は世界情勢を間違いなく調査して、見誤る事無く情
勢を分析していた。破竹の勢いでドイツ軍が欧州を制覇する勢いを示し
ていた。

金相場が値上がりして、富蔵も手持ちの砂金や金塊などでかなりの利潤
が出ていたが、それと同時に富蔵達の会社も、前もって準備していたの
で、あらゆる事態に対処する事が出来た。
サンパウロの自宅にある日、富蔵が通う武道館の師範が訪ねて来た。

彼は日本からブラジルに武道の普及で来ていたが、裏では日系社会と
その人脈を利用して、日本政府の特務的な役割を担っていた様だ、その
噂はかなり前に聞いていたので、富蔵は用心していた。
富蔵が関係するスミス商会とダイアモンド商会の情報を欲しがっていた。

富蔵は用心して、あいまいな受け答えをしていたが、練習に行く武道館
の師範であるので、邪険には出来なかった。
そこでダイアモンド商会を訪ねた時に、社長に相談していた。

直ぐに内部調査が行われ、イギリスの情報機関から聞き込んで来た情報
を富蔵に知らせて来た。それによればドイツ大使館の駐在武官が道場に
通って来る仲で、かなり親しく付き合いがあるようだと言うことであった。

何か裏で動いて居るという予測がして来た。武道館の師範が動いている
事は、すでに目的があると感じていた。
危険な事か・・、それとも、この時局でブラジルの資源を目当てに触手を
広げているドイツと日本の連帯の為か・・、それまでは予測は出来ないが、
出来ない予測が不気味であった。

スミス商会の情報網に武道館の師範の動きが引っ掛かって来た。ドイツ
大使館の駐在武官と定期的に密談をしている事を掴んで来たのである。
その駐在武官はドイツの情報機関に属している事も判明した。動きが急
になって来た。

ブラジルに来る前は日本で2ヵ年ほど駐在武官をして、日本語もかなり勉
強して分かる様だと言う事も判明した。一連の動きから富蔵を標的に何か
彼等が動いている事を感じた。
ダイアモンド商会の社長が、戦火が広がれば戦争資材の急激な需要が
必要になる事は、 誰の目にも分かる事で、彼等が直ぐに何かの行動を起
こして来ると睨んでいた。

戦略物資のひっ迫した感じはブラジルにまで押し寄せてきていたので、
富蔵達のサントス港の倉庫に積まれた生ゴムの原材料は貴重で価値あ
るものであった。

ある日、道場で汗をかいて練習をして、富蔵が帰り支度をしていると師範
が声を掛けて来た。今夜、日本町で酒の一献杯でも交わしたい言う話で
あった。富蔵はその夜は予定がすでにあり、丁重に週末なら予定がない
と返事していた。

師範はそれでは土曜日の夜7時にガルボンブエの桜レストランでと言う事
を言って来た。富蔵は話しだけならと考えて、了解していたが、帰宅すると
直ぐにダイアモンド商会の社長に電話を入れていたが・・・、

電話の向こうで『直ぐに今夜、オフイスに来る様に』と社長から言われた。
重要な動きがあった事を掴んだという事であった。

サムにも連絡が行っていた様で、サンパウロに出て来ていたモレーノと
一緒に車で迎えに来てくれた。
三人でサンパウロの社長のオフイスに出向くと、そこにはスミス商会の社
長や幹部も来ていた。
話は簡単であった、英国諜報機関が接触して来て、ドイツに戦略物資を
渡さないようにと言う要請であった。

これまでの経緯の説明を受け、これからの欧州とアジアの動きを社長が
説明してくれた。それを話し終わると、社長が富蔵を見ながら『彼等と会う
予定が週末の土曜日だから、3日間あるので、その間に彼等を抹殺する』
と言う事を冷酷に話していた。

理由は簡単であった。『まだ接触する前なら彼等を抹殺しても理由が分か
らないのと、何の話しか分からない時に、彼等が死んでいけば富蔵が怪し
まれる事も無く、突然に全てが立ち消えてしまうから・・』と説明を受けた。

『冷酷な様だが、これで死人に口無しで、死人は生きて戻らない』と言った。

彼等は計画前の予備の情報接触とその収集をしている段階で、早く言え
ば芽を摘んでしまうと言う一番安全で、簡単な予防措置と言った。

そして話が終ると、最後にスミス商会の保安情報の幹部が、『我々の盗聴
に引っ掛かって話が全て得られたから』と言う事であった。
そして我々のビジネスの団結とそれを阻害する者は、何処の誰であれ、
抹殺すると言明した。
早く言えば死刑の宣告が二人に出たのと同じであった。

すでに盗聴で得られた情報を元に抹殺の実行計画も立てられていた。

2013年3月16日土曜日

私の還暦過去帳(355)

『12月7日、ハワイ真珠湾攻撃記念日』

12月7日は、日本海軍連合艦隊空母群が、ハワイ真珠湾攻撃を記念する
『Pearl Harbor Day』という日である。

攻撃開始時間は、日本時間では65年前の12月8日午前3時23分、ハワイ時
間では7日午前7時53分でした。

連合艦隊空母群より発進した、合計183機の急降下爆撃機と戦闘機による
第1波と、それに次ぐ167機による第2波の艦載機の奇襲攻撃にアメリカ側
では民間人68名を含む2,403人が亡くなり、1,178人が負傷しました。

『トラ・トラ・トラ』と真珠湾に終結していたアメリカ太平洋艦隊総攻撃が開始
され、当時最高の性能が在った酸素魚雷と猛訓練のパイロット達が職人芸
で、一隻ずつ確実に命中、被弾させた急降下爆撃機と雷撃機の攻撃で、ア
メリカ艦隊は・・、
戦艦5隻を含めて18隻の船が沈没または大破、350機の飛行機が破壊、大
破の損害を受けました。航空魚雷が何本も命中して、最も被害が大きかっ
たのは沈没した戦艦アリゾナでした。
その火薬庫の大爆発で、真珠湾の海底に鎮座沈没で1,102名が命を失い
ました。

私が実感と体感でこの12月7日、日本海軍が攻撃した『ハワイ真珠湾攻撃
記念日』を思い出します。
最初の実感は来たばかりの年で、32年前の12月7日の事でした。

友人が共同で開店準備をしていた店の建築許可を貰いに窓口に行って、
そこの担当者が、申請許可を貰いに行った友人をつかまえて、『今日は何の
日か知っているか?』と言う質問に、『さて・・!何の日か・・・?』と答えたら、
『Pearl Harbor Day』だと教えられ、『この腕を無くした・・』と見せ付けられたと
聞いて、実感として先ず感じました。

23年前に2度目の家に引越しをしてから、隣の住人が12月7日の早朝か
ら私の左側の塀に星条旗を高々と掲揚していました。
嫌がらせと直ぐに感じましたが、口先で偏見の言葉を吐き、そして差別して
いました。
私もそれを感じて彼が死ぬまで一度も言葉を交わす事は在りませんでした。

私は現在はアメリカに帰化して、アメリカのパスポートで祖国日本を訪ねます。
しかし、アメリカ人と議論する時は堂々と祖国日本を擁護致します。

私の持論は・・、

『貴方がたアメリカ人は、大和民族の日本人を侵略者で世界制覇を狙う軍国
主義国家であったと決め付ける事は如何な事かと、反論致します。』

当時、昭和14年7月、、日米通商航海条約はアメリカに破棄され、日本政府
は非常な圧迫と政治的な緊張下での立場を受けており、昭和15年5月頃
は、アメリカの大艦隊が、ハワイに集結していたという事実を知っているかと
話します。

「アメリカ」「イギリス」「オランダ」が対日資産凍結を同じくして、日本企業がこ
れらの国で預金口座、貿易決済などの資金も全て凍結され、原料資源輸入
のための支払いが不能となり、また輸出の代金も日本に送金できなく、貿易
決済資金が無く、結局日本は輸出入を完全に閉ざされたのを知っているかと
質問すると、

大抵のアメリカ人は答えが在りません。

当時の列強が緊密に連絡と連携をして対日経済制裁を遂行され、日本が自
滅の道に追い込まれた事を知っているかと質問致します。

これも答えが無いか、彼等は答えに窮します。

日本はアメリカやオランダ領のボルネオ油田などからの、全てのオイル供給
を望めない様な有様の窮状では、石油貯蔵もどんなに節約、統制配給して
も1ヵ年で底を突き、重要産業は全て破壊され、生産停止され、国防上の備
蓄船舶燃料も2年以内には完全に底を突き、海軍艦艇はただのスクラップに
なる事を待ち、国家経済を全て失くす様な有様で、日本人がこの地球に座し
て死を待ち、国家生存権をこの世界から失くす事をしなくてはならなかったか?

この質問にも大抵は答えなど在りません。

当時の日本は資源と言う物は、殆ど無く、『絹と絹糸の産業』で日露、日清戦
争などの戦費を捻出した様な有様で、鉄鋼資源、石油、アルミ、ゴム、錫、銅
などの多くの非鉄金属、綿や羊毛など全てを供給途絶され、枯渇して国家と
言う存在を否定する列強の制裁から生き残る戦いに、彼等、自ら日本を戦争
に引きずり出したのではないか? 
それを予測して準備していたのではないか?貴方はそれをどう考えるか?

この質問にも大抵は返事が在りません。

1940年(昭和15年)アメリカや英、蘭、国防省は陸海空の一般戦備ならびに
その南方諸地域での連帯と提携は緊密と強固になり、軍事拠点のアラスカ軍
事根拠地の建設増加、12月には51ヶ所の飛行場増設、改修工事の予算を
決定、日本を目標にした戦争準備と事前設営がなされ、またオセアニア、南太
平洋での米英豪蘭其他の陸海空軍の大拡張が継続され、日本を目標とした
軍備拡張がなされていた事と、それと同時に・・、

米国海軍省では1940年(昭和15年)1月以降に艦艇2831隻の建造契約を
して、現在968隻を建造中なる旨発表しました。

1941年(昭和16年)10月下旬には米海軍の建造状況に関し、就役せる戦闘
用艦船346隻、同じく建造中か契約済345隻、10月1日現在海軍飛行機
4535機と製造中のもの5832機なる旨発表していた。

アメリカ政府は日本を経済的な麻痺状態に追い込むと同時に、米国は対日
軍備の増強を続け、日本側は鉄も石油も多くの産業資源の輸入を止められ、
その軍事力は日々衰弱し破滅する一方であったが、米国はその国力を傾け
て各国と協力と同盟して軍備大拡張に邁進していたのであるが、貴方はそ
れを知っていたか?

この質問にも大抵は返事が在りませんし、知らない人ばかりです。

東京裁判では、キーナン検事が冒頭陳述で述べている事を我々日本人も考
えなければなりません。

『彼ら日本人はは文明に対し宣戦布告をしました。
 彼らは起訴状に列挙されている偉大な民主主義諸国に対し
 侵略戦争を計画し、準備したのです。
 世界の支配および統御が彼らの共同謀議の趣旨であったの
 です。』

『日本が世界を支配しようとしてアジア各国に侵略戦争を起こした』という戦
後の東京裁判史観と、それに同調して、日本人を卑屈な立場に考える人も
いる事を客観的にもう一度考える事が重要と思います。

日本人にも民族自衛の立場と独立した国家としての価値観があると思います。

東京裁判でインド人の判事がただ一人、国際法の立場から日本を弁護し、
擁護した弁論で連合国の判事達に対抗した事を忘れてはいけないと思い
ます。

彼の主張は『無罪』でした。

2013年3月13日水曜日

第3話、伝説の黄金物語、(61)


欧州開戦前夜・・、

雪子の両親を移住地からサンパウロに呼んで、日本行き招待の話を明か
した。
飛び上がって喜ぶ雪子の両親達を見て、雪子が涙を流さんばかりに、顔
をクシャクシャにして喜んでいた。

富蔵は奮発して1等船客の乗船券を手配していた。
現在の富蔵の財政状態からしたら大した金額ではなかったが、移住地な
どに住んでいる人々からしたら、豪勢な日本行きと成っていた。
1等船客の荷物は殆ど制限が無かったので、富蔵も大きなトランクを5個
ほど持たせていた。
上原氏夫妻にも話して、アフリカのケープタウン経由で沖縄の那覇にも寄
航するので、荷物を沖縄の家族にも渡す様にしていた。

訪ねて来た上原氏に世界情勢が緊迫して来た事を知らせ、これからの日本
とブラジルの関係も悪くなると言う前提で考えた方が良いと忠告していた。

雲行きが怪しくなった欧州を見て、富蔵が両親や兄弟達が何かの時に、
安全に生活に困らない様に近所の山林とその脇の畑を買う様に手配してい
た。
雪子の両親達は家族に見送られてサントスの港から日本に旅立って行った。
富蔵も一度日本に帰国してみたいと思ったが、現在の状態では半年も暇を
作る事は絶対出来ない相談であった。

忙しい中に、日本から両親達の喜びの手紙が来ていた。雪子の両親達が
日本に持参した資金で予定の敷地が買い込まれ、残りの資金は貸家を3軒
ばかり田舎で近くの陸軍官舎用に貸し出されていた。

リオ・ベールデの根拠地に鉄道駅から引込み線を引いて、備蓄の石油タン
クの建設を考えていた。運送用の燃料はストライキなどでもひっ迫して、ドラ
ム缶で蓄えていたが微々たる量であった。

ダイアモンド商会の社長がサンパウロのサムの飛行場にも備蓄タンクの設
置を勧めてくれたので、それも工事する事にしていた。今は10キロリット
ルのタンクで、1ヶ月も持たなかった。

ダイアモンド商会が引き取った工業用ダイアモンドの代金分を使い、250
キロリッタのタンクを2基建設すると決まった。
主に航空燃料を備蓄する事にしていた。

その勧めが、欧州戦争が突発して、どれほどの役に立ったか知れなかった。
燃料が無ければ富蔵達のビジネスも先ず成り立たない事であった。

アマゾン奥地から生ゴムを集める事も軌道に乗せて、ルートを作りサントス
港近くの倉庫に現物が積まれた。
金塊の値段がジリジリと値上がり始めて、政局が緊迫して来た情勢が富蔵
にも分かった。

早目に工事を始めたので、建設資材も備蓄用の燃料も何も問題なく集める
事が出来た。
ダイアモンド商会が石油の先物買いをして、かなりの石油を買い占めてい
たのも、強いバックアップで、富蔵達にもそのおこぼれが廻って来た。

ドイツの新興勢力は壊滅したらしく、その後は殆ど情報が途切れていた。
ダイアモンド商会の社長はスミス商会と協力して、イギリスとアメリカの情報
機関に接触して情報を得て調べていたが、それも僅かなドイツ大使館の駐
在武官達が動いているだけの、裏の情報が入って来た。

彼等ドイツ勢力からから押収した秘密書類から、サントスの港町に居た一人
の協力者を探し出し、その協力者も闇に消してしまった。

全て協力者と言えども、抹殺してしまった事は、手掛かりさえ全て消してし
まったと言う事で、当分は彼等の組織再編成も無理と感じていた。

ダイアモンド商会とスミス商会の世界を繋ぐ情報網と、富蔵達の泥臭い現場
の情報網が組み合って、戦局に傾く欧州情勢を利用して、ビジネスチャンス
とその用意を準備してしまった。

リオ・ベールデには予定どうりに鉄道駅から近い、富蔵達の敷地まで引かれ
た引き込み線を使い、石油備蓄タンクが出来上がり、貨車のタンク車が石
油を運び込んでいた。

サンパウロのサムの飛行場もすでに備蓄が完了していた。
サムの飛行場は二重に防御柵をして、備蓄タンクの周りには土を盛り土手
を作り、外部に見えないように100mばかり離れた場所に目隠しの林を作
る為に植林もされた。

サムの発案でアメリカから飛行機のエンジンオイルや部品などもまとめて輸
入されて来た。
ブラジル政府の郵便委託輸送も大きな力となり、政府の割り当てと統制価
格で燃料を手に入れる事が出来た。

独ソ不可侵条約が締結され、もはや開戦前夜の様相を見せて来た。

2013年3月12日火曜日

私の還暦過去帳(354)


  訪日雑感(10)

秋雨がパラパラ降る中を、傘を差して歩いていました。
二子玉川から和泉多摩川や国領に抜けるバス道路をポツポツと歩いて
いましたが、東名高速道路の架橋の下で少し降り出した雨の様子を見
ていました。
雨が降リ出して、タクシーなどの空車が殆ど在りませんでした。

私が今日の予定で是非とも見て置きたい家と場所が有りました。
それはアメリカに行くまで住んでいた最後の家ですが、18歳で東京に出
て来て世田谷周辺ばかり住んでいましたが、最後の最後は狛江の第6
小学校近くの家でした。
32年間一度も訪れた事が無いので、是非ともこの目で見ておきたいと
考えて居ました。近所に住んでいた方と、ワイフが文通していくらかは知
っていましたが、この目で見るまでは信じられないと言う感じでした。

国立大蔵病院近くの家を売って、増えた子供達の為にも買い換えた家
でした。アメリカに移住を決意した家でも有ります、私の人生の区切りと
して重要な家です。
ぱらつく雨の下で不意にタクシーが速度を落としたので、みると空車でした。

手を上げると直ぐに止まってくれ、『狛江第6小学校の側まで・・』と言うと
気軽に了解してくれ、走り始めました。
昔は田圃やレンコン田が広がっていた地域です。多摩川の土手辺りま
で見渡せましたが、今では建ち並ぶ家で何も見ることは出来ませんでした。

タクシーでは5分も掛からずに小学校横の水道道路に到着いたしました
が、そこで降りて歩いていく事に致しました。私が狛江を出る時に、近くに
都営住宅が出来ると聞いていましたが、それも昔に完成して、今では少
し古ぼけた感じの都営団地になっていました。

時代の移り変わりが激しい日本の街中です、昔を思い出させる風景は
全部消えていました。狛江保育園を目当てに歩いて行き、懐かしい我
が家が在った所に来ましたが、まだ所々に畑が少し残っていました。

近くに有った養魚場はすでに無く、長男と仲良しの子供がそこに住んで
いた場所はすっかり家が建ち並び、様変わりでした。

我が家があった場所はもっと細分され、建売で6軒最初に建った住宅
は、今では8軒に増えていました。すでに33年前に建てられた家は全
部消えていました。
日本の住宅の寿命の短いことを知りましたが、何か寂しい感じが心に
湧いて来ました。
私がアメリカに行くまで住んでいた家は取り壊され、両隣が敷地を半分
にずつ取り、3階建ての狭い家が2軒出来ていました。

奥の家はこれも取り壊され、2軒に増えていました。入り口の左側の家
はこれも同じで取り壊され、2軒になっていました。

狭い場所がもっと細分化され、小さな家となり、それが3階建てと言う
様な感じの背の高い小さな住宅と変化していました。
私は一瞬、心に浮かんだ事は、これでは日本人の住居と言う根本的な
変化で、人間の心まで小さくなって行ったと感じました。

微かに秋雨が降る中にしばらく佇んでいました。

現在の我が家は、この住宅全部の敷地相当に1軒だけ建っていると感
じました。アメリカに住んでいると、感じる事も無かった事が、胸に突き
刺さる様に湧いて来て、確かあの辺りで雨降る早朝の朝に、二階の窓
から隣の畑を見ていたと思いました。

スヤスヤと寝ている我が子達を見て、一度しかない人生をこの子供達
の将来に賭けて移住しようと決心した瞬間を思い出していました。

親兄弟、親戚も無い遠い異国のアメリカに、家族5人全員の将来を賭
ける事などです。
アメリカ移住を決心して、家を売り払い、ビジネスも同じく売り払い、ト
ラック、乗用車も売り払い、借りていた倉庫も解約して、全てのケジメを
付けて郷里に里帰りして、両親に子供達の顔を見せ、先祖の墓参りを
して旅立って行った日本を、この目で見て確かめたのです。

あの時の雨と同じ霧雨の様な、シトシトと降る雨でした。

道の真ん中に立って両側の家を見ていたら、何かキュー!と心に込み
上げる何かが有りました。

あの時、決心してアメリカに渡り、子供達の成長を楽しみにアメリカに
根を下ろした事が間違いではなかったと思いました。
人生一度限りの命です、何も悔いが無いと心に思いました。

狭い箱庭の様な感じの家です、その様な家並みが小田急線和泉多摩
川駅まで続いていました。
ゆっくりと歩きながら見た風景は畑などは殆ど無くなり、昔よりもっと小
型化した住宅が並んでいました。私が知る昔の風景からしたら、東京
はコンクリートでかさ上げして、高層住宅になり、郊外ではもっと家を
小さく建てて、細分化していると思いました。

駅から新宿まで出る間、高架になった小田急線から見る風景も様変わ
りして、何も昔の面影を探る事が出来ませんでした。

満員電車の中で人に揉まれながら、スシ詰めの感じを久しぶりに体感
して、新宿駅の巨大な人の流れに、渦のように巻き込まれた木の葉の
様におどおどと歩いていました。

2013年3月9日土曜日

第3話、伝説の黄金物語、(60)


 欧州での戦火の匂い、

見張りを残して、皆はダイアモンド商会社長のリオの別荘に、裏門から
入った。
ひっそりとした邸内は人の気配が余り無かったが、皆が車から降りると、
使用人が丁重に迎え入れてくれ、主人がサンパウロから直ぐに到着す
ると告げて、部屋に案内してくれた。

皆はひとまず部屋で寛ぐと、出された軽食と飲み物に手を出して、ラジ
オのスイッチを入れニユースに聞き入っていた。
出火した倉庫はすでに全焼して跡形も無く焼け崩れ、何も現在は出火
原因が分からないと話していたが、出火原因の調査が始まったばかり
で、全てが焼け尽くしているので、相当に調査の時間が掛かる様だと
ラジオが話していた。

ラジオの二ユースを聞き終わると、モレーノと情報提供者が、リオの組
織協力者の身柄をどうするか話していた。
皆が倉庫の襲撃に出ている間は、ガレージの中に手錠で監禁されてい
たが、その男の身柄処分をどうするか、現在は決めかねていた。
一応はダイアモンド商会の社長が到着して決めると話が決まった。

食事が済んで、一息ついた時に、社長が到着した事を使用人が知らせ
て来た。
社長の書斎に案内され、皆が安堵の顔で今回の襲撃成功を話していた。
会社の幹部も2名連れて来ていたが、早速捕まえてガレージに居るリオ
の協力者を尋問する事にした。
協力者の男は目隠しされ、後ろ手錠で、ガレージのイスに座らせられて
いた。

ガレージの隅で社長達幹部がイスに座り尋問を聞いていた。
情報提供者が座らせられた男の耳の横で、声低く質問していた。

『倉庫に何を集めていたか?』と聞くと、男の返事は無く、黙って天井
を見上げるように無言であった。何を聞いても男は沈黙を守り、意志の
固い事を見せ付けてくれた。

情報提供者がサジ投げて、モレーノにバトンタッチをした。
モレーノは拳銃を抜いて、弾倉を開け、弾を抜くと、その一発で座った
男の額を叩くと、弾倉に耳元で『バシャー!』と音を立てて装填すると、
ロシアン・ルーレットを始めた。

最初の一発は、撃鉄が『ガシャ・・』と音を立てて、男のこめかみで鳴
り響いた。男の唇から血の気が引き、足先が震えるのが分かった。

モレーノがもう一度耳元で、『何を倉庫に集めていたか?』と聞いた。
男の顔に苦痛の表情が走り、モレーノがゆっくりと引き金を引いて、キリ
キリという撃鉄が競り上がる金属音が微かに響かせながら、バシャー!
と引き金を引いた。

突然、男がうわごとの様につぶやき、
『助けてくれ・・、殺さないでくれ・・』と哀願していた。
モレーノは冷酷に眉間の押し付けた拳銃の引き金を、微かな音をさせな
がら引き絞っていた。
男が絶叫する様に『やめてくれ・・!話す、話す・・!』と喚いた。

モレーノは『では・・全て話せ、言え!』と耳元で命令するように言うと、
『自分の車のトランクにそのリストがあり、中のスペアタイアの収納して
ある下に隠してある』と白状した。

急いで外の駐車場に置いてある協力者の車のトランクが開けられ、スペ
アタイアが出され、中から小さな書類のファイルと、それにずっしりと重
い黒皮のカバンが出て来た。

社長の書斎にそれが運ばれ、書類がテーブルに広げられ、丹念に調
べていた。
情報提供者と社長幹部が、ドイツ語の書類を見ながら何か話していたが、
社長がスミス商会の社長に電話するのが分かった。
富蔵にも書類に何か真剣な、重大さを秘めて居る事が分かった。

社長は電話が終ると、モレーノに向かって『感謝します、この書類のフ
ァイルは金銭に代えられない 価値が有ります』と話すと握手して『この
事のお礼は後で致します・・』と話した。カバンからは工業用ダイアモンド
と札束、金の延べ棒が入っていた。

富蔵達のビジネスはブラジル奥地の砂金とダイアモンド採掘と、それに
関連した、運送業と僅かな田舎の金融機関のビジネスだけで、国際的
な世界情勢から見たビジネスなどは、とてもビジネス・チャンスをそこか
ら見つける事は出来なかった。

明日の朝、皆でサンパウロに飛行機で戻る事が決まり、それまで休憩
となったが、社長達は忙しく電話で対応していた。
モレーノや富蔵達も気が緩んで自室に戻り、少し昼寝をしていた。
目が覚めてテラスの木陰で飲み物などを手に寛いでいる所に、社長と
幹部が訪ねて来た。

手には先ほどの黒カバンがあった。社長は『これは今回、あなた達の
物として納めて頂きたい』と話すと、『工業用ダイアモンドは私が引き
取ったので、その対価は後で現金で払います』話してくれた。

社長はそれから、先ほどの書類の分析結果を話してくれた。
間違いなく欧州では戦火が開かれ、世界が混乱すると判断していた。

世界的なビジネスを開いているダイアモンド商会やスミス商会などは、
その商機を逃がさないように動き出すと富蔵は踏んだ。
そしてそれは重要な価値ある情報だったと思った。

社長は富蔵が日本人と言う事で、その予測できるこれからの動きを話
してくれた。世界情勢など詳しくは無い富蔵に、易しく説明してくれる
社長の言葉が有難かった。

日本では、日独伊三国の防共協定が結ばれ、日本は米英を中心と
した連合国から完全に敵対する情勢に陥ると話してくれた。
近い将来、ブラジルと日本の通商航海条約も停止される危険性が十
分と教えられると考えてしまった。

翌日、早朝に社長達幹部と富蔵達グループは2班に分かれてサンパ
ウロに戻った。
すぐさまサンパウロのオフイスでスミス商会の幹部達も揃い、会議が
開かれ、これからの世界情勢を見て、きな臭い欧州の情勢を踏まえ
て重要な会談となった。

ダイアモンド商会とスミス商会の重要な運輸交通を預かり、富蔵達の
ビジネスの運命も掛かっていた。その話し合いが済むと、富蔵達の
重要な課題として、先ず燃料の確保と備蓄を考えていた。

その夜遅く富蔵は自宅に帰ると、雪子の両親が結婚30周年と言う
お祝いに日本行きの船のキップをプレゼントする事を考えて、富蔵の
両親や家族に少し蓄えた資金と、お土産を持たせる事を考えていた。
両親が土地を増やして、畜産の仕事を広げる資金を欲しがっていた
からであった

後になってそれが正解であった。戦争が始まり、日本との交通が途
絶して、一切の資金的な流れも止り、ブラジルの日本人達も混乱と
限られた行動の中に押し込められたからであった。
世界情勢が緊迫化した様子を秘めて、動き出した事を富蔵は感じて
いた。

2013年3月7日木曜日

私の還暦過去帳(353)


   訪日雑感(9)

バスが動き出して、町並みを見ていたら昔の面影など何処にも在りません。
高層ビルとか、小さな個人ビルがひさしを並べているだけです。

池尻まで走っても、すっかり様変わりした姿は続いていました。頭上はまる
で覆いかぶさる様に、高速道路のコンクリートが延々と続いていますので、
道路が薄暗い感じで、昔の広々とした感じが消えていました。

私が思い出すのは玉電がゴトゴトと2両連結などで坂を上っていた時代です、
今では地下鉄となって二子玉川まで急行では10分も掛からず行くと聞いて
驚いていました。便利になったものです、三茶のバス停に来て、そこでも驚
いていました。
まったく何処を見ても昔の有様は見る事は在りませんでした。
友達と夜遅く歩いた飲み屋の横丁などまったく、はて・・!と目を凝らして
探して見たけれど検討も付きませんでした。それくらい変化している街頭の
様を見ていると、今浦島と言う言葉が頭に横切りました。

下北沢方面に行く道が、あれだと言うことだけは分かりましたが、三茶から
上町を経由してネギ畑の中を走っていた玉電の終点辺りはビルの陰で皆目
分かりませんでした。学生時代に植木屋のアルバイトで良く通った所の辺り
は、全部ビルが並び、まるでコンクリートでかさ上げされた様な感じを受け
ました。
世田谷の町も、瓦葺の家などは表通りなどでは数えるほどしか残っては居
ませんでした。母校の校門前で降りて、収穫祭の準備をしている学内を見
て歩きましたが、遠い昔の学生時代を思い出しながら、あの辺にはまだ陸
軍自動車学校の古い宿舎が残っていたと思いながら見て廻って居ました。

あちこちで学生が準備作業で賑やかに飾り付けなどをしていました。
収穫祭は来週ですが、静かな学内を見て廻るのも久しぶりで、思い出が心
に浮かんで来るのが分かりました。来週また収穫祭に出席するのでそれを
楽しみにそこを出てバス通りに出て馬事公苑の方向を見ましたが、建物で
何も見ることは出来ませんでした。昔は入り口が見えていたのですが、ここ
も大きく変わっていました。
しばらく歩いて空模様が怪しくなり、またバスに乗り私が36年も前に住んで
いた所を見に行く事にしました。雨が降り出さぬ前に歩きたいと考えて居ま
した。
NHK技術研究所前で降りて、昔の覚えのある横道に入り、小田急祖師谷
駅の方角に歩き出しました。道は完全に綺麗に舗装され、家は殆ど見慣れ
ない新築の住宅でした。私が住んでいた一角は全て家並みが様変わりして、
どこかと探すのに苦労致しました。
やっとそれらしき所を見つけると、そこは見知らぬ建物が在り、我が家が在
った場所は全て取り払われて、建て代わっていました。

私の家を買った人の表札を見つけて、写真を写していましたが、長男を幼
稚園の帰りに迎えに行った野菜畑などは何処にも在りませんでした。
幼稚園の送迎バスが止まった場所は家が立ち並び、狭い道路がもっと狭
く感じていました。
長男を背中におんぶして歩いて家まで帰る間に、背中で寝入っていたのを
思い出していました。長男に最初の自転車を買ってやった表通りの自転車
屋さんがまだ残って居ましたので、覗いて見ました。そこを見てから、また
歩き出して、その辺りから見た昔の国立大蔵病院は陰も形も無くなり、立派
な病院に立て替えられて、名前まで変わっていました。

その横の住宅公団大蔵団地がまだ残っていました。
当時出来たばかりの頃は、子供達が沢山遊んでいた覚えが有ります。

団地と病院の間の道を抜けて今の公園がある辺りに、映画撮影用のスタ
ジオがあり、時代劇の「椿三四郎」などの撮影で三船敏郎氏がハカマ姿で、
スポーツ・カーで撮影に来ていた姿を見た頃です、昔、回りはネギ、大根、
白菜などが沢山植えられて、多摩川が見える辺りは国際家畜の養鶏所が
並んでいました。

今では公園緑地帯となり、まったく昔を思い出すことは出来ませんでした。
東名高速の下を抜けて、私が学生時代に住み込み書生をしていた、屋敷
を訪ねましたが周りは住宅が並び、稲作がされていた田圃もすでに在りま
せんでした。
44年ぶりの懐かしい道を歩き、柿の赤く熟れた実を見て、この辺りには
まだ世田谷の残りが有ると感じていました。

ポツポツと降り出した雨にカサを差して歩いていましたが、50年近く前に
一抱えもある大木が並んでいた農家はすでにゴルフ練習場になっていま
した。
住み込み書生をしていた屋敷のご主人に挨拶に行き、元気なお顔を見て、
子供も育ってしまい、誰も居なくなった静かな屋敷で生憎と奥様が外出で
不在でしたが話が弾み、しばらく時間の経つのも忘れて話していました。

大きな鯉が泳いでいた池は無くなっていましたが、遠い昔の思い出が近く
を走る東名高速の音にかき消される様でした。屋敷を出て、バス道路ま
で歩く道すがら風は冷たく吹いて、雨が全ての思いを洗い流した様に感じ
ました。

2013年3月6日水曜日

第3話、伝説の黄金物語、(59)


 リオの協力者組織の壊滅、

電話が終ると急に皆が額を集めてリオでの対応を話し始めた。

サントス港の拠点は完全に破壊して、組織の人員も全滅と感じていたが、
最後のリオの拠点も潰す事が皆の意見で決まった。

欧州で、ドイツ勢力拡大の凄まじさは、南米ブラジルやその周辺諸国ま
で及んで来ていた。ビジネスを維持する為には、完全に新興勢力の芽を
潰す事が、これからの周りの情勢を見て必要と感じた。

ビジネスでも、食うか食われるか・・、の世界で、これまで富蔵達もスミ
ス商会、ダイアモンド商会などに加担して、ビジネスを維持拡大して来た
ので、その中で仕事をしている富蔵達の組織にはドイツ勢力は完全に敵
であった。

モレーノが『今から飛行場に戻ってリオに飛ぶ・・』と皆の前で話した。
ダイアモンド商会の社長と幹部が、スミス商会の同じく社長と幹部達と短
く話すと、『全ての責任を持ってバッアップするので、直ぐに行動を起こ
して貰いたい・・、』と頭を下げて来た。

サムが直ぐに受話器を取ると、飛行場の従業員に飛行機の点検給油を
命じていた。
直ぐにガレージに皆が戻ると、二台の車を連ねて飛行場に急いだ。

飛行場に到着すると、プロペラが始動して車輪の車止めを外せば、いつ
でも飛び出せる用意が出来ていた。4人乗りの飛行機でモレーノとペドロ
と富蔵達3名がリオに飛ぶ事を決め、情報提供者が一人同乗して総勢
4名で飛び立った。

サムはサンパウロの事務所で、運送業務の采配とビジネスの指揮をする
為に残る事にした。
2丁のシュマイザー、小口径の消音器付き狙撃ライフルなどの武器が飛
行機に積み込まれると、同時に離陸した。

日暮れ前、リオに有視界飛行で、予定どうりに到着した。迎えの車には
情報提供者の配下が4名で迎えに来ていた。一台の車に、モレーノとペ
ドロ、富蔵が乗り、出迎えの男がハンドルを握った。後ろからもう一台の
車が情報提供者が乗り込み後に続き、目的地に向かって走り出した。

リオのフラミンゴ海岸を走り、少し海岸端の倉庫群が並ぶ建物に到着した。
労務者相手のカフェー屋に入り、外の目立たないテーブルに席を取ると、
見張っていた男が報告に来た。
倉庫の中は戦略物資の見本や現物などと、すでに買い込まれた生ゴム
などの梱包が積まれていると報告して来た。中の荷物には外部に知られ
たくない物資もあると狙んだ。

見張りを残して、皆はダイアモンド商会社長のリオ別荘に、裏口から車で
入った。木々が生い茂り、外からは中の別荘を見る事は出来ない様な邸
宅であった。
サンパウロと電話で話すと、リオの拠点を襲い、中の戦略物質に関係な
く倉庫を焼き払うという事を決めた。

現在では2名しか居ない協力者達を圧倒して、制圧出来る機会であった。
溜め込まれた資材とサンプルは彼等にしたら欧州の不穏な情勢からした
ら、戦略物資として貴重な物と感じていた。中にどの様な種類の品物が
有るかは分からなかった。

倉庫は厳重な塀で囲まれ、倉庫の中を覗う事は出来なかった。
番犬も3匹居て、これでは倉庫に手も出せなかった。外の中庭にはトラッ
クが二台、乗用車も一台駐車していた。
見張りの報告では協力者2名は倉庫の中に入ったまま出てこないと報告
が来ていた。

皆が別荘で、テーブルを前にグラスを手に食前酒を飲んでいた。
情報提供者が提案したのは・・・、

1、70mばかり離れた隣の倉庫の屋根から番犬を狙撃して殺し、倉庫
        に時限発火装置を協力者が中に2名居ても取り付ける。

2、番犬を先に殺して協力者2名を外におびき出し、狙撃して倒し、倉
       庫に同じく時限発火装置を取り付ける。
この2案を提案したが、しかし場合により、臨機応変に行動する事を確認
していた。

簡単な夕食が出され、それを皆で食べながら話していた。
突然電話があり、『協力者が一人、車で倉庫から出かけた・・』と緊急
連絡が来た。

皆は食事を中断すると素早く用意を始めた。見張りの一人が車で追跡して
少し離れたピザ屋に入ったと連絡が続いて来た。おそらく腹が空いて夕食
にピザでも買いに出たと思った。チャンスの時間は30分程度もないと考
えた。

皆は無言で車に乗り込み、そのピザ屋を目指した。車内で情報提供者が
ワルサー拳銃に消音器を取り付けていた。ピザ屋の前に到着したが、ま
だ協力者の一人が店内に居るのが分かった。
モレーノが直ぐにピザ屋店の前通りに駐車して、横の暗がりに拳銃を手
に隠れた。

その後ろに、ぴったりと駐車した車に情報提供者が消音器装着のワルサー
PPKを新聞の下に隠して、新聞を読むふりをしているのが薄暗い外灯の
光りに見えていた。

ペドロが道路先で、富蔵が後手で見張っていた。
情報提供者の配下の車は道路向かいにさりげなく駐車していた。全て用
意が出来たが、緊張した時間が流れ、獲物に襲い掛かる猟師の様に闇
に紛れていた。

ついにチャンスが来た。協力者は手にピザの入った箱を持ち、車に歩い
て来た。
まるで闇に溶けていた様なモレーノが、協力者の後頭部に拳銃の銃口を
ピタリと押付けた。同時に情報提供者が顔面に消音器を鼻先に突きつけ
た。モレーノがピザの箱を取り上げ、肩に下げていた拳銃を取り上げた。

あっと言う間に誰にも悟られず、目撃されずに協力者を車内に押し込めた。

用意されていた手錠を後ろ手にはめられ、観念した様に協力者は後部
座席で青ざめていた。情報提供者の配下が協力者の車を運転するとアッ
と言う間に現場を離れて行った。
皆が別荘の裏口から車で滑り込むと協力者をガレージに連れ込むと、服
を剥ぎ取り、体格が同じペドロが着た。
ピザの箱が座席の助手席に置かれ、ペドロが協力者の車を運転すると、
皆が後を二台で付いて走った。倉庫の近くに来ると見張りの一人が近寄
り、番犬が外に2匹いて、他の犬は倉庫の中に居ると教えてくれた。

後を付けて来た二台の車は離れた街路樹下の、目立たない場所に駐車
した。モレーノが小口径狙撃銃を持つと、見張りに案内されて近所の倉
庫の屋根に消えて行った。
微かに合図するのが分かり、ペドロがハンドルを握り、後ろの座席に隠
れた情報提供者がシュマイザー構えて横になっていた。富蔵が入り口の
ゲートの鍵を開けると、その微かな音で番犬が何処からか走って来たと
同時に、1匹の犬が即死するのが分かった。
富蔵はワルサーの消音拳銃を他の犬がゲートの前で足がすくんだ瞬間、
射殺していた。犬は一声も吼える事無く倒れ、シーンとしていた。

ゲートが開け放され、車が倉庫の入り口に横付けされた。
それと同時に倉庫の中で犬が吼える声がして、ドアが開いて人影が見え
た瞬間、その人影の顔面に鮮血が散るのが見えた。
犬が側で倒れた男の顔を覗き込んだ瞬間、車内から音を殺した鈍い銃声
がすると、犬も崩れるように男に倒れ込んでいった。

車から走り出たペドロと情報提供者が死体と犬の死骸をの倉庫に引きず
り込むと、情報提供者が小型の時限発火ケースを手にすると倉庫に入る
と、直ぐに出て来てドアをロックするのが分かった。
ゲートで見張りをしていた富蔵を車に乗せると、ゲートも閉められ鍵が掛
けられた。

外の道路に駐車していた車に、モレーノと見張りが薄暗い歩道から出て
来ると乗り込み、お互いにうなずくと車は走り出した。

三台の車は適当な間隔をおいて走っていた。行き交う車も無く、静まり
返った倉庫街は、外灯だけがぼんやりと見えていた。

先頭のモレーノが運転する車が道路の坂を登り切った所で停車すると、
下の倉庫群を見ていた。他の二台も停車して見ていた。

ボーン!と鈍い音が響くと倉庫から紅蓮の炎が噴出した。
モレーノが車から手を差し上げて親指を突き出した。

2013年3月3日日曜日

私の還暦過去帳(352)


  訪日雑感(8)

26日の日曜日の早朝でした。生理的現象で目が覚めてトイレに行き、
喉が渇いて自動販売機から、スポーツ・ドリンクのボトルを買い飲んで
いました。
昨夜、沢山渋谷を歩き回り、汗もかいたので、ホテルに帰って日本式の
大浴場で長湯して、汗を出してさっぱりしたのでしたが、それが原因か
今朝は喉が渇き、水分不足を感じていました。

ぼんやりと休憩室で、外のカラス達の大合唱を聞きながら、TVでも見てい
ました。ゴミ収集車が来る前がカラス達の仕事時間とみえて、それは賑や
かな感じでした。余りのグワー!という声が酷いので、早朝ですが散歩が
てら見物に行く事にしました。

歳ですから一度目が覚めると、とても寝ているわけには行きません、そ
こで早速着替えて、フロントに散歩に出ると断って歩き出しました。
ホテルの出口を出て、20mも行かない所にゴミが集積されていました。

そこに大きなカラスが4羽も居るではありませんか・・、これには驚きで
した。
私が近ずくと、サッと近所の塀の上に飛び上がり、ジッとこちらの動きを
看視している感じでした。網は外され、プラスチックの袋は穴が開き、お
こぼれの残飯が散乱していました。沢山の飲食店が有りますので、それは
凄い量と思います。

歩道をトコトコと歩いて行くと何処もゴミの山にはカラスが居ます、縄張
りがあるらしく、カラスが喧嘩をしているのも見ました。

早朝ですがビルのシャッター前に10名ばかりコーヒーなどを片手にダン
ボールをコンクリートに敷いて座っています。はて・・と感じました。
中には弁当らしき物を食べている御仁も居ました。

身なりは普通の格好です、ホームレスと言う方々ではないと感じましたが
でも、私は不思議に思いました。

かなり歩きまして、通りが見えるスターバックのコーヒー店に入り、注文
して、歩道の側のテーブルで通行人を見ながら飲んでいました。
日曜日の早朝です、朝帰りの若者達がグループで、まだ酔いも覚めやらず
電車に乗るのか渋谷駅方面に歩いて行きました。

資源ゴミ回収のトラックが酒の空瓶、カン類などを積み込んでいます、
渋谷が毎日吐き出すゴミの量は凄い数になると思いましたが、見ていると
それがはっきりと分かります。歩道を歩く人達の殆どは仕事の格好でした。

かなり歩いて、高級住宅地の中も通って昨夜の牛丼店に行き、早朝サービス
の日本食を食べる事に致しました。
10時までは納豆に生卵、塩鮭と味噌汁とお新香が付いて安く食べられます。
周りの席は全部、労働者風の職人さん達が座っていました。

近所で工事をしていると思いましたが、休日の夜の工事とは大変な仕事だと
感じました。彼らは私が食べ始める頃には店を出て行きましたが、私が食事
を終わり、ホテルにブラブラと歩いて帰り道に、近くのビルで改装工事をし
ているのを見ました。
渋谷の早朝は店の清掃とゴミのかたずけをする人達で、かなりの人が働いて
おり、日曜日の開店前に品物を運び込むトラックと配達の人達も沢山居まし
た。
先ほど並んでいた人達の行列がもっと長くなり、私も「なんじゃいな?」と
思って最後尾の若い人に聞いたら、パチンコ屋の早朝サービスを待っている
と言う事でした。私はびっくりしましたが、こんな早朝に並ぶとは、恐れ入
って、あきれていました。パチンコもここまで来ると、パチキチと言う他は
ありません。今朝はカラス見物が良い渋谷見物に成りました。

ホテルに帰り、蒸し暑い感じで汗をかいていましたので、シャワーを浴びて
着替えていましたが、これから母校の収穫祭を見に行き、それから私がアメ
リカに渡るまで住んでいた所を36年ぶりに見に行く予定でした。

成城学園行きのバス停に行き、懐かしさがこみ上げて来ました。
久しぶりの訪問です、バスが動き出すと子供の様にウキウキとしていました。
運転手の「発車いたしますー!」の声で胸がドキドキと高鳴るのが分かりま
した。

2013年3月2日土曜日

第3話、伝説の黄金物語、(58)

リオ刺客の最後・・、

信号拳銃弾が打ち上げられ、赤い星が瞬くように風で流れるのが見え
ていた。 富蔵がハンドルを握り、道路端に車を移動して、全て身支度
してリオの刺客の車を待っていた。
轟音を伴い、大型トラックが通り過ぎていったその後ろに、ぴったりと後
にへばりつく様に車が走っていた。
 若い男が一人、こちらをチラリと見て通り過ぎた。

富蔵は瞬間、この車だと直感で感じていた。中々巧みな運転だと感じ
たが、これでは襲う事もかなり難しい事が分かった。
相手の車を停車させる事も、横から銃撃を加える事も、真ん前にトラッ
クが居るので無理と感じた。

トラックの後ろからはモレーノの車も、情報提供者の車も追っては来な
かった。今のように携帯電話や、トランシーバーなども無い時世では情
報は何も分からなかった。

トラックの後ろにぴったりと付けて走っている車を追尾しながら時々、後
ろを見ていた。運転する男が富蔵達の車に気が付いて、窓から何か投
げたと瞬間感じた時に、富蔵は無意識でハンドルを大きく切り、舗装道
路から少し道脇の緑地の草原を走った。

バックミラーを見ると、後ろから来ていた車がハンドルがぶれたのか、
路肩に移動して停車している。瞬間、富蔵はパンク用のスパイクを投げ
られたと直感で感じた。

危うい所であった。しばらく走り、また追い着いた。今度は用心ししてい
た。散弾を詰めた拳銃を左手に構えていた。30mばかり後ろから付い
ていたが、相手がまたパンク用のスパイクを投げると考えていたので、
拳銃の撃鉄を上げて相手の車の窓辺りを狙っていた。

その瞬間、腕が窓から出て投げようとする一瞬の隙を狙って、毒が仕込
まれた散弾で、腕を狙い1発だけ発射していた。

パーン!と言う小さな短い、風とトラックの轟音に流された音がしていた。

富蔵は軽くブレーキを踏み、車間距離が大きく開いた。サムがその瞬間
『危ないー!』と叫んだ、相手の手にシュマイザーのマシーン・ピストル
を握るのが見えたと言った。

直ぐに極端にスピードを落とし、かなりの車間距離を離して様子を見てい
た。すると突然、前を走行している刺客の車がグラリと揺れた。直ぐに
トラックの後ろから離れ、微かに蛇行を始めた。

サムが刺客の車と平行して走り、シュマイザーを横から撃ち込んで射殺
する事を提案した。 富蔵は瞬間、散弾が腕に命中して、その仕込まれ
た猛毒が身体に廻り始めたと感じた。

富蔵はサムに『散弾が相手の腕に命中したと思う・・、』と言うとかなり
離れた後ろに着けて走っていた。急に刺客の車が速度を落とすと、路肩
に突っ込んで停車した。

それを見届けると、富蔵もゆっくり間隔を離してその車の後ろに停車した。
周りはジャングルの残りの森林が道路近くまで茂り、遠くには農場らしき
切り開かれた様な場所も見えていた。

時々通過する車の音だけが響き、後は風の音だけが響いていた。 車両
の通行が途切れた時に、サムがシュマイザーで狙いを付け、富蔵はワ
ルサーPPKを構えると半分開いたドアから崩れ落ちそうな刺客を確認す
ると、半分座席から出た左側の胸を狙い慎重に撃った。

消音器が音を殺して、殆ど銃声は響かなかった。刺客の身体が微かに
動くと、運転席から草むらに転げ落ちた。首の動脈を触っても事切れて
いるのが分かった。

刺客は微かに口からアワを吹き、腕には小さな血液のシミが2ヶ所あった。
サムが直ぐに運転席の銃器などを後ろのトランクに投げ入れ、刺客もトラ
ンクに運び込むと富蔵にサンパウロに戻るように話して、これからモレーノ
達の安否を確認して来ると言った。

『気になることだから・・』、と直ぐにサムはそれだけ言うと、車に戻りユ
ーターンして20km地点に車を走らせて行った。
富蔵も刺客の車を運転するとサンパウロのガレージに一人で急いだ。

ガレージに到着して、軽くクラクションを鳴らすと、ガレージのシャッターが
上がった。 車のエンジンを止めると、情報提供者とその助手の黒人が
『事は上手く行った様だな・・、』と言うとトランクを開けて、黒人の助手が
刺客の遺体を直ぐにキャンバスに包むと運び出して行った。

情報提供者がダイアモンド商会の社長に電話を入れているのが分かった。
それは一言、『全部済みました・・』と簡単に言うと受話器を切った。
富蔵がトイレを済ませて戻ると、サムから20km地点でモレーノ達の車
を見つけたと電話が来ていた。やはり追跡始めた瞬間、スパイクを撒かれ
て二台ともパンクしてタイヤ修理をして居たと報告が来ていた。

誰も怪我する事無く、事故も無く、隠密に終了したので、タイヤパンクな
ど問題ならなかった。 富蔵がガレージに帰って来て、2時間ほどすると3
台の車が一緒に帰って来た。その日のランチ時間にダイアモンド商会の社
長から車が差し向けられて来た。

着いた所は、静かな住宅地の中にあるレストランであった。 そこにはスミ
ス商会の社長と幹部も何人か来ていた、皆が席に着くと、ワインが開けら
れ、グラスに注ぐと、社長の掛け声で乾杯がなされ、遅いランチを皆がゆ
っくりと食べていた。

今日の出来事が、まるで嘘の様に感じていた。 食事が終り、コーヒーと
コニャックが出され、葉巻やタバコを吸いながら、皆が話しの輪に入った。
ダイアモンド商会の社長が、欧州で不穏な流れが出て、緊張が高まって
いると話したが、これが続けば紛争が勃発するかもしれないと話した。

スミス商会の幹部も、今回の事件でドイツ勢力の殆どを壊滅させたので、
これらの組織再構築をして、人員を訓練して、新規ルートを開発して、
ブラジルに根を下ろすのは3年は十分に掛かると話した。

その時、電話が来ているとボーイが情報提供者を呼びに来た。彼は控え
室の電話を取ると、何か話していたが、リオの刺客への協力者2名が動
き出したと連絡が来た。

おそらく、サンパウロに到着する予定時間を過ぎても、刺客から連絡が
無いので彼等がシビレを切らして動いたと感じた。
刺客をリオ街道で追跡していた車も、リオ市内の事務所に戻り、その動き
出した二人の対応をしていた。

刺客の別の隠れ家を、協力者を尾行して発見したと連絡が来た。
そこの隠れ家には、何か隠されている物があるようだと報告が来た。

皆が緊張してその電話の報告を聞いていた。