2013年8月30日金曜日

私の還暦過去帳(416)


歴史は捏造できない。

陸軍士官学校出のアサヒビール名誉顧問中條高徳氏は、世界の歴史
学者が説く 民族の滅びる三原則というのを常々説いておいでになります。

1、理想(夢)を失った民族は滅びる。
2、すべての価値を利でとらえ心の価値を見失った民族は滅びる。
3、自国の歴史を忘れた民族は滅びる。

現在では戦火に散り、苦難を受けた先人達の歴史までも否定する日本
人が多くなった。

たとえ宗教感が違えども、主義主張が違えども、日本国、日本国民を
思って戦場で 親から貰った、ただ一つの命を投げ出された方々を、いと
も軽く否定と戦争は悪だと

いう自己観念からか、権力と言う政権を握る官僚達の中にも、国歌、
国旗まで否定しながら、自己権力に酔い、またかぶれ、日本の国体と
言う将来の若い子供達の為の政策さえ忘れている、それは何故か?

戦争が無ければ、平和か?

平和であれば他の事に目をつぶり、耳を塞ぎ、口を閉めてからの日本
の平和論がまかり 通り、戦争と平和の両極端の狭間には目もくれない人
が多い、平和の質はいかなるものか?

戦争がなくても自国に食料も無い飢餓の平和か?
奴隷の平和か?、
抑圧された平和か?
腐敗と不正の政治的平和か?
いかなる思考で平和の基準を作るのか?
戦争が無ければ平和か?

スイスは永久中立の平和を唱える国ながら、国民皆兵、化学兵器、
核戦争まで想定した 軍事訓練を行い、常時武器は自分が住む街中に
備蓄され、小銃や身近な武器は自宅に 備えるという事までしている。

時計の振り子の様に、ブレが一定では無い両極端の傾き加減で、全てが
一億総懺悔 とかの言葉まで作り、人が言う土下座外交や、貢啓外交とか
言われる事までしているが、 果してその事が日本と日本国民に幸せを作り、
平和を維持できるかといえば、疑問である。

隣国では日本を叩き、蔑視して、難問を押し付けてそれが答えられない、
出来ない事での優越感での国内世論のコントロールを隣国はしているが、
それにまんまとハマリ、落ちて時代の歴史観、歴史の湾曲まで日本政府は
している。

そして、それを受け入れ様としていることを考えると、日本人の誇りや、
精神的な尊厳は これからどうなるか?

中国、北朝鮮、韓国も長距離ミサイルを所持して、国民皆兵で、徴兵組
織を維持している。
しかし日本は全てを骨抜きにされ、精神的なバックボーンも専横的な社会
主義的考えの 教育者集団に乗っ取られて、未来を担う日本の子供達でさえ
危うくなって来た。

少子化と高齢化、食料自給率は近代社会では最低の率で、エネルギー
自給率はゼロに 近い、これを全て加味して策を練ると、最後の切り札は
教育改革しかないとカードが出ている。

果してこれを見過ごす事は日本人の誇りを捨てると同じと感じます。

貴方はいかなる考えをお持ちですか?

2013年8月28日水曜日

私の還暦過去帳(415)


日本の行く末、日本人の価値観とは・・、

近年の世相を見ると、若い男性の女性化した姿に驚かされます。
4年ほど前に東京で滞在していた時に、電車の中で完全にメス化した男
がいました。

眉毛をそり落とし、薄化粧をして、勿論、口紅らしき物を塗っているのが
見えました。それもそのはず、私の真ん前に座っていたからです。
真っ赤な携帯電話を取り出すと、渋谷に到着するまで無心にキイを叩い
てメッセージか何か送っていました。

私の様に職業は百姓が前身で、後はそれに似た様な仕事を長くしていた
ので、手は誰からも言われる様に、無骨で大きく70歳近くになっても現在
も毎日、裏庭百姓に精を出しているので、筋肉も残っている者から見ると、
日本人に何か廃退的な機運が感じられます。
終戦直後のイモと麦飯で育った、育ち盛りの子供時代の日本教育は、ま
だまだ気骨のある先生達が居て、精神教育を受けた思い出が有ります。

インパール作戦に参加して、部隊の殆どが戦死か餓死に近い栄養失調
で死んだ様な戦闘から生還して、中学で社会科の先生をしていた人でし
たが、イギリス軍の陣地を攻撃して砲弾穴に飛び込み身動きできない銃
撃を受けて、伏せている穴に落ちて来た

木の直径10cmぐらいで、長さ2mも無い長さの木の枝に、弾痕が数え
ただけで20個以上の穴が開いていたと話していましたが、そんな戦場か
ら生きて生還したのであるから、今の命は神様から頂いたと感じていると
話していました。

中学生の我々に、何でその様に家族、両親、兄弟姉妹などが居るのに、
戦い、戦死したのかと命題を出していました。

それだけでしたが、どれだけ当時の我々が考えたか・・、まだ幼い考えで
は割り切れない、理解できないものが沢山ありましたが、今となっては心
に残る一生の命題と感じます。
その歳・歳の年代で、住んだ場所で、社会で、命題を考えると色々の角
度から考えが新しい思考として生まれ出て来る感じでした。

それは満州で雪崩を打って国境を超えて来たソ連軍の機械化部隊に囲
まれて、万歳突撃をした兵士の生き残りの人から聞いたのは、妻子の為、
親兄弟姉妹の為、国の為に皆が銃剣を構え、2個の手投弾を持ってあら
ん限りの声で、『万歳ー!』と叫んで皆が突撃したと聞いた時に、心が震
える思いが致しました。

現在では世界の数十ヶ国の研究機関が調査した、『世界価値観調査』で
は、18歳以上での男女の調査で、『自国を誇りに思う』の項で、日本は
世界最低のレベルの答えでした。
また、『もしも戦争が起きたら自国の為に戦うか?』と言う答えにも15%
と世界で最低の数価で、世界でも最低だという事です。

ちなみに韓国人の若者達は、74%が戦うという数字で、中国はその上
の90%と言う事は、愛国心などと言う前提の前の、学校教育の何たるか
という根本と感じました。

なぜ日本人は自国の誇りと精神的自尊心を無くしたか・・!という戦後
68年の過程での日本人社会と教育政策の廃退としか感じられません。

誰が、どの様にして企画、計画して、実行してその成果を今の数字に
させたか・・!

終戦後の占領国の連合軍か?、社会主義者の日教組か? 政治の
貧困か?

もう今の日本には国を救う為に、命を投げ出す人も無くなったと感じます。

国の為に命を捧げた方々を祭る事さえ、隣国では反社会主義とか・・!
指図をして、軍国主義と決め付ける、日本は攻撃型ミサイルの製造配備
など一切出来ないし、していない。

経済力と軍事力が整い、いまや中国は海軍力として原子力潜水艦部隊
の驚異的な展開、対艦ミサイルの拡充、配備と攻撃型ミサイルのレベル
アップ、配備と、喉元に短刀を突きつけての政治では、これからの日本
の行く末が思いやられると感じます。

2013年8月26日月曜日

私の還暦過去帳(414)


昔の記録的な南米寒波の思いで、

今年の南米大陸は寒波の襲来で、かなり酷い被害が出ているようです。

46年前もアルゼンチンのボリビア国境地帯にも、南極からの寒波が上
がって来て、冬季出荷の野菜類や果実は大被害を受けていました。

大陸性の乾燥地帯の内陸部です、河縁の僅かな肥沃で河の水源に近
い農地の、霜も降りない土地は高値で取引されていました。

46年経っても、その河縁の土地はグーグルアースの衛星写真で見て
も営農が続けられている事を目視出来ますし、今では簡易の温室がそ
の土地にかなりの割合で広がっている事を確認できます。

殆どの生産物は巨大な消費地のブエノスを目指していましたが、ラプラ
タや周囲の衛星都市もそこから流れていました。

私が働いていた農場でも、霜の気象予報が出ると用心して、河から畑
の畝の中に水揚げポンプで水を流し込んで被害を最小に止め様と苦心
していました。

河向こうでは限られた実が収穫出来るトマト畑だけ、スプリンクラーで
河の暖かい水を汲み上げて、散水していました。

これも霜と零下に温度が下がり、朝方はツララが垂れていたと言う事を
聞きましたが、他の農場では廃油をドラム缶で焚いて油煙を作り暖か
い気流を流すようにして、霜が降り始めると、タイヤなど燃やしていまし
た。
それは凄まじい夜の光景となります、インジオ達の夜勤組は防寒の毛
布が与えられ暖を取る火酒のカンニヤ小瓶が配られ、夜食にアサード
の焼肉一切れと、パンが与えられ、夜通して起きて働くので、報酬に加
えて、一握りのコカの葉も与えていました。

寒暖計が下がり始めて、夜の気流の流れも止まると、向かいの農場で
はレールを1mばかり切り、吊り下げられていた鐘をハンマーで連打
する音が聞こえていました。

畑のあちこちで廃油のドラム缶に火が点火され、タイヤが燃やされ、
その臭いと油煙はまるで地獄の饗宴のようでした。

私の農園も水揚げポンプだけが夜通しで、動いていました。
数人のインジオが低い低地のトマト畑中心に畝の間に暖かい河の水
を流し込んでいました。
鐘が乱打され、車のヘッドライトが川向こうのジャングルに何度も行き
交う光りが見えていました。

深々と冷える外気の冷たさは、火酒で熱る身体の熱気とは反比例し
ていました。微かにトマトの葉が白くなり、凍える寒さが手で触っても
感じられるようになると、眠気など、どこかに吹き飛び、早く朝が来れ
ばと祈るようになります。

私の農場ではオーナーが『タイヤや廃油を燃やす事など無駄だから』
と言う事で、河の水を畝に流すだけでした。河岸に夜の冷気が暖か
い河の水に触れて、もやの様に霧が流れ出すと、凍るトマトが助かる
事が多いので、祈るようにしてその流れを見ていました。

河向こうには行くなと念じていましたが、すっぽりとトマト畑が霧の中
に沈んでしまうと、ホッとして、酒の酔いが身体に回り、小屋の焚き火
の横で寝入っていました。
マテ茶の臭いで起きると、周りには徹夜のインジオ達も毛布を被り寝
入っていました。
手が焼ける様な熱々のマテ茶にコーヒーを少し入れて飲みながら、
朝日がジャングルの梢に輝きだすと霧に沈んだトマト畑は助かり、
朝日を直に当たっている河向こうの農園のトマト畑の色が時間で変化
して行く様を見ていました。

冬の太陽と言え、南回帰線から100kmも中に入った地域です、輝き
出した太陽は強烈な紫外線を、晴れて透き通った空から降り注いでい
ました。

午後には畑の色が黒ずみ、午後遅くには異臭も流れて来ます。

翌日にはトマトの葉先が溶けた様になり被さっていましたが、その下
に霜で焼けなかったトマトが助かって残っていました。
私が働いていた農場では被害は最小でしたが、花芽がごっそりと落
ちてかなりの減収でした。

それに比例してブエノスのメルカード・アバストではトマトの値段が天
井知らずに値上がり始めて市場の仲買が、ホテルや高級レストラン
に配るトマトを、値段を構わず買い込んでいましたので、霜にやられ
ても儲かる農場と破産する農場に分かれていました。

その寒波の影響は町から各農家に毎日通ってくるトマトの箱詰め職
人達が、むき出しのトラックの荷台に乗車して来る途中、インジオ部
落の横の道でコートに丸まり、毛布を被り、朝の寒風に吹かれて手

袋をはめてポケットから何か出す時に、ポケットに入れていた護身用
拳銃が暴発して、荷台にぶら下っていたインジオの子供の鼻に荷
台の床に跳ねた小口径の弾が当たり大騒ぎになっていた事が有り
ます。

弾はピンセットで直ぐに取り出せたということでしたが、当たり所が悪
ければ大事になったと思います。
誰かが話していたが、寒波がなければ着膨れて、あんな事件も無か
ったと笑っていました。

2013年8月24日土曜日

私の還暦過去帳(413)


夏の思い出、

今年も7月に入り、暑い日が続くようになりました。
暑い日に思い出す事は、灼熱の南米の乾燥内陸地帯の暑さです。
しかし、南半球ですから季節が日本と正反対となります。日本の冬が南米
は夏になります。

農場では朝は11時になると昼休みに入ります、午後3時近くからまた仕事
を始めますが、暑さのピーク時には、これしか作業が出来ません。
暑い直射日光の下では、蟻でさえ歩いては居ない様な暑さです。

農場の周りのジャングルもシーンと静まり返り、鳥の鳴き声一つ聞きません。
沈黙の真昼の光景です。 世界が灼熱で死んだような雰囲気も感じられます。

人間が我慢出来る温度は幾ら慣れていても、42度程度までで、それ以上
は身体がきつくなります。
何もしないでジッと涼しい風通しの良い木陰で昼寝していれば、何も問題
はありませんが、畑で作業となると少し動くと、汗と土に反射する太陽が
搾り出す水分で、喉の奥から干上がって来ます。

20リッタ入りのタンクで専属に水置き場から定期的に運んで来ますが、人
数が多いと、その20リッタもアッと言う間に飲み干してしまいます。
直ぐに少年の水運びが背中に背負ったカゴに入れて水を汲みに行きます。
畑で作業しているトラックターも灼熱の太陽でのびてしまいます。

農場で使用していたトラックターはドイツ製で第二次大戦には戦車のエン
ジンとして使用されていた、デウス社の空冷ジーゼルエンジンでした。

サハラ砂漠の過酷な灼熱の太陽が照りつける戦場で、その耐久性が多くの
兵士に認められていたエンジンでした。
連合国軍の兵士も捕獲した車両を使い、その優秀性を確かめていたエンジ
ンでした。
デウス社のトラックターは現在ではドイツ・ファール(DEUTZーFAHR)と名前
が変わって居ますが、冷却水を使用しない空冷ですからオーバーヒートは
致しませんし、構造が簡単でフアンベルトが切れない限り動いてくれました。

大陸性の夜、氷点下に冷え込む温度でも不凍液などの心配もなく、朝冷え
切ったエンジンも1発で起動していました。

農場では3台のデウス社のトラックターを使用していましたが、中の一台は
4気筒の空冷ジーゼルエンジンのトラックターでしたが、まるでジープ代わり
に酷使して畑や砂利道の荒い山道を走ってくれました。

町からの帰りにジャングルの覆いかぶさる木々の下を、空冷のポコポコと
いう乾いた音を響かせて走り抜けて行く様を今でも忘れる事が出来ません。

時々道を横切るガラガラ蛇を発見すると、追い掛けて薮の中までトラックター
で追い掛けて轢き殺して持ち帰り、陸ウナギとして蒲焼にして、酒のつまみ
にしていました。

醤油と粗目の砂糖に貴重なミリンを混ぜて煮立ててアクを取り生姜などを
摩り下ろしてタレにして焼いていましたが、インジオは絶対に美味しいから
と勧めても食べませんでした。
一度などは捕獲したガラガラ蛇のお腹から、大きな野鼠が出て来たのには
驚きました。
その空冷エンジンのトラックターが、夕暮れの日が落ちて涼しくなった頃か
ら畑の土お越しをしていました。
ライトを付けて夕暮れの涼風が吹き始めた頃に トコトコを土お越しをしてい
る音を聞ながら、火酒のコップにレモンを絞り、灯油冷蔵庫で出来た僅かな
氷を入れて、チビチビと飲む酒は暑気払いには良いものでした。

日が暮れて生気を取り戻した農場では、生ぬるい河の水に入り水浴したり
していました。
皮膚に塩が吹くぐらいの身体では、汗臭い臭いがあたり前の事でした。

その汗臭い姿で、口にくわえたタバコ・ネーグロという強烈な葉巻の臭いは
10m先から、マタッコ族のインジオと分かるくらいでした。

森の狩猟民族のマタッコ族と河岸に住む農耕と魚獲りのチワンコ族では、
日に何回も水浴びして、寒い冬でも水浴びする奇麗好きなチヤワンコ族と
の体臭も、夏になれば直ぐに嗅ぎ分ける事が出来ました。

過酷な夏の日でしたが、土蔵の様なアドベの日干し煉瓦を使った家では、
土間に打ち水をして窓を閉めてから昼寝をしていました。

電気、水道も無い生活でしたが、我慢強い精神をそこで鍛えたと思います。

2013年8月23日金曜日

私の還暦過去帳(412)


ある老女の人生の終末、

私が所有するレントハウスに、かれこれ20年近く住んでいた独身の老女
が亡くなりました。
アル中で、ヘビー・スモーカーでした。
亡くなる前はアルコールは控えていたようですが、タバコは吸っていました。

そのレントハウスは私が昔、不動産が格安の時代に投資で購入していた
家でしたが、私の管理が良いのか、テナントが動きません、そろそろ30年
近くもなりますが、昔、私の近所では、びっくりする様な安値で購入する事
が出来た時代でした。

最初の頃に若い人が3名でシェアレントで借りてから、それが今まで連続
して続いているのですが、誰かが入れ替わりますと残っている人がリーダ
ーになり、引き継いで今まで住んでいるのです。

かなり昔、私がそこを管理で訪ねると、その婦人が一部屋を借りて住ん
でいました。 部屋をアルコール中毒の再生治療施設から紹介されて、友
人を介して来た様でした。

離婚して、職も失くし、生活保護を受けて、レントの費用は公的機関から
直接払い込みがあったようでした。

私が訪ねていくと裏庭の木陰でタバコを吸って、ワインのグラスをチビチ
ビと飲んでいる光景を目にしました。
穏やかで物腰の静かな女性でカリフォルニア訛りの英語で話していまし
た。 時々は寝椅子に寄りかかって死んだ様に眠っている姿を思い出し
ます。

それからしばらくして、夜間の介護のヘルパーの仕事を見つけたのか、
金持ちが入居する老人ホームに、夕方から仕事に出かける姿を何度も
見かけていました。
それが体調を崩して家に居る様になるまで、永く続いていたと思います。

3月頃から、仕事に出るのが少ないのか、管理で見回りに寄ると、裏庭
の木陰か、フロリダルームの風通しの良いソファーに座っていましたが、
私と顔を合わすと必ず挨拶してくれました。

昔のようにリサイクルのゴミ箱に安ワインのビンが沢山並んでいるような
光景はありませんでしたが、人生に疲れた様な感じの皺が顔に出ていま
した。
裏庭に集まってくる鳥達に餌を与えるのが、彼女の心休まる憩いの時間
だと私は感じていました。

私が彼女が亡くなる前に管理で訪ねて行き、静かに裏庭に廻ると物静
かにイスに座り、鳥の餌が入った缶を横に餌を撒いていました。

無心な姿を見て、身寄りも無く、人生の苦労を背中に滲ませて座ってい
る姿に私は何か侘びしい感じを受けましたが、それが彼女の人生の道筋
だとすれば、それも運命だと私には感じていました。

先日、管理で立ち寄るとそのレントハウスのリーダーが私に、彼女が亡く
なった事を報告して来ました。
現在部屋を整理していると話していましたが、裏庭の片隅に積まれたダン
ボールの僅かな箱が残された彼女の財産の全てでした。

教会と救世軍に寄付する様に頼んでいた様で、覚悟の旅立ちだったと思
います。
鳥達に餌を撒く人が居なくなったので、鳥達が周りの木の枝から庭を見
下ろして いる姿は、彼女を探していると感じました。

2013年8月21日水曜日

私の還暦過去帳(411)


 ある朝の思い出、

数年前でしたが・・・、
政府は6月11日、「10年版自殺対策白書」を閣議決定した。

国家レベルで自殺対策を推進し、人口10万人当たりの自殺者を
約20年で3割減らしたフィンランドの取り組みを特集し「遺族
調査と、民間団体や研究機関等との効果的な連携は非常に参考に
なる」としている。  

警察庁によると、日本の09年中の自殺者は3万2845人と、
12年連続で3万人を超えている。

私はこの記事を読んで胸が痛む思いでした。

40年以上も前に、私の脳裏に刻まれた思い出があるからです。
それは過去に私の思い出したくない事の最初に出て来る事なので
す。 南米から日本に帰国して再度海外に出る前で、がむしゃら
に稼いでいた時代でした。

見栄虚勢はありませんので、アフリカのモロッコに海外青年協力
隊で派遣されるのをキャンセルして、人生のチャンスを逃すとい
つ相愛の人とめぐり合うかと考えて、結婚して家族の為に将来を
賭けて働いていた時期でした。

その当時、知人の紹介でモヤシ屋の早朝配達の仕事を紹介されて
いました。早朝に朝の4時頃からモヤシを小型トラックに積み込
み、店の開店前には全部終るという簡単ですが、根気と忍耐を持
っていないと続かない仕事でした。

先ず暑かろうが寒かろうが、雨が降ろうが、台風襲来でも朝の4
時には起きて、モヤシ製造所で積み込み配達に出て行かなければ
なりませんでした。
それが終ってからまた別の仕事が出来るので、体力と根気と忍耐
さえあればそれが出来る仕事でした。8時の店の開店前には私の
仕事も終わりました。

南米から帰国した時、神戸の港に到着した時点で文無し状態でし
た。郷里の大牟田市に到着した時、財布にはお守りの5円玉一個
だけ残っている様な状態で、それからの出発でしたから、家族を
持って気合を入れ仕事をしていました。

その様な時でしたが、冬の寒い凍りつく様な早朝に、東横大井町
線の緑が丘駅近くのスーパーにモヤシを納品に行った時でした。
平行して大井町線を走っていた時、駅に進入して来た電車が突如、
大きな電車の警笛を連続して鳴らすと、急ブレーキを掛ける音が
響きました。

側の踏切では警報機が鳴り響き、駅と目の先の距離で、駅員が飛
び出して来るのが分かりました。踏切りの警報機は凍るような寒
さの中に低くカンカンと警報が響いていました。 私は一瞬、そ
の場の状況を見て納得いたしました。

それは電車に誰か飛び込み自殺をしたと直感で感じていました。
電車の最前列の運転席から6mばかりの下で、微かな人の吐く息
の様にもやが立ち上っているのが分かりました。
駆けつけた駅員が電車の下を覗いていました。

電車の運転席から首を出して居た運転手と駅員が何か手短に話す
と、電車は最徐行で駅に移動いたしました。私は向かい側の道路
で見ていたのですが、不自然に捻じ曲がった遺体が見え、駅員が
その上に何か被せるのが見えました。

踏切りを塞いでいた電車が移動したので警報は鳴り止み、凍り
付くシーンとした朝の雰囲気に戻りました。新聞配達のバイク
が止まって見ていましたが、直ぐにエンジンの音を響かせて立
ち去りました。

私も時間でのモヤシ納品ですから、軽く手を合わせると現場を立
ち去りました。でもそれから家に帰るまで、帰っても、寝ても
起きてもその光景は脳裏に焼き付いた様に離れませんでした。
今でも思い出すと鮮明にビデオの画像の様に思い出します。

そして、その人がなぜ自殺しなければならなかったかと・・、
考える事が有ります。

私の様に死にもの狂いで、家族の為に働き、幸せを積み重ねる
その喜びと、充実感に満足していましたので、死ねば終わり、
家族を残して死ぬ人間は卑怯と感じていました。
配達の仕事は6カ年間続けて、その間1日しか休みませんでし
た。欠勤もしなく、遅刻も無しでした。そして家族を連れて再
移住の資金を貯め、チヤンスを探していました。

モヤシの配達が終わり、その後に借りていた倉庫に行って、
トラックを乗り換えて、冬は暖房用の灯油の販売をしてかな
りの収益を出ていました。文無しからの出発です、新婚旅行か
ら帰って来た夜にアパートで、ワイフが永年使ったコタツを利
用したテーブルの上に出した有り金の残金が、1万数千円だっ

た事を考えると、預金も無く、所帯道具も無い、無い尽くしで
始めた新婚生活でしたが、なんとかワイフが独身時代からの家
財で生活していた時代です、家財を買い足すごとに喜びと、
少しの余裕があれば、家族と豚骨ラーメンが美味しいと言う
ぐらいで、喜んで食に行っていた時代でしたが、幸せの価値観
を忘れ、努力もしなくて、それに耐える心と感情も失くせば人
は悲劇と感じます。

金が無い時にでも1本10円の水仙の花をコタツのテーブルに
一輪挿しで飾り、お疲れ様と1本のビールを食卓に置いてあっ
た小さな幸せを今でも思い出します。

2013年8月20日火曜日

私の還暦過去帳(410)

私の嫌悪感

この歳になると、ふと昔の事を思い出す事が有ります。

他愛ない事ですが、サッカープレーを見ない、しない、応援しない、という
事を守っていますが、それはアルゼンチン時代の農場で散々サッカー試
合と言う事で農場の収穫期に労務者達が仕事を放棄して、勝っても負け
ても大騒ぎして酒を飲み、仕事をさせるのに苦労したからです。

支配人職でしたが、散々いじめられた様なもので、いまだにサッカーの
テレビ試合などがあると、嫌悪感でプチンと切ってしまいます。それとい
うのも、労務者達を探しにトラックで街中を走り周り、輸送できない熟れ
すぎたトマトをトラックで捨てた思いがこみ上げて来るからです。

ゴルフも今まで一度もプレーした事がありません、それはパナマに立ち
寄った移民船が港に補給で停泊した時に町に出て、ふと見たアメリカ人
区域の緑の芝が凄く奇麗で、中にあるゴルフ場とマッチしてため息が出
そうでした。

その近くのパナマ現地人の住宅は錆びたトタン屋根の粗末な住宅です。
そんな状態を見ていたので、アメリカ人居住区のフエンスに寄りかかっ
てゴルフ場を眺めている、ボロ服を着た黒人の幼い子供が目に焼きつ
いてしまいました。

私も若かった時代です、ゴルフをプレーする白人達はまるで、そんな観
客などまったく眼中になく、無視したというより、わざとそのプレーを誇示
する様にしていました。
私の心にはキューンと何か走る物があり、その光景が焼きついてしまい
ました。それが心に深く残り、私のトラウマとなり、ゴルフと言うスポーツ
に対して拒否の心理が出来上がっていました。

昔、お世話をした人から主人が亡くなったので、貴方にこの主人の遺品
の英国製のゴルフ道具を使ってくれと頂きましたが、直ぐに友人に譲っ
てしまいました。
そんな事で、今までにゴルフは一度もプレーした事がありません。

私は一日過ぎた握り寿司は絶対に食べません、ワイフが美味しいから
食べてと勧めますが、それでも食べません。
それはアルゼンチン時代に魚の新鮮な物を手に入れる事が出来なくて、
ブエノスの町に出た時に買って来た鮮魚を下ろして、刺身とそれを使い
寿司を作りました。

友人達はワインを開けて刺身で一杯飲んでいました。
勿論、私も刺身などつまみながら美味しい白ワインなどを飲んでいまし
た。その後に寿司が出て、握りの寿司など久しぶりに食べていましたが、
沢山作りすぎて、残りは冷えない灯油燃料の冷蔵庫に入れていました。

翌日、その寿司を食べた友人は、丸一日、トイレに座って嘔吐と下痢で
青くなっていました。幸いに私は冷えない冷蔵庫の中身を見て、カビが
生えているような冷蔵庫の中を見ていましたので、サラミのサンドイッチ
でランチを済ませていましたので、事無きを得ました。
それからは翌日の寿司は私の身体が受け付けなくなり、どんなに勧め
られても食べれません。

私の運転は安全運転に心がけていますが、走行中の飛び出しには人
間以外は無視して、急ハンドルや急ブレーキなどの操作は致しません。
滅多に都会ではありませんが、私の近所では住宅地で、リスなどが飛
び出すことがあります。

昔ですが知り合いが、飛び出してきた小動物を避けようとしてスピンし
て、道端の立ち木に激突して、車は大破、運転していた知り合いは重
症で長く入院していました。
それを見てからと言うものは、一切飛び出しは避けない事にしました。
しかし、アルゼンチンの田舎に行くと、図体の大きな牛が暖かなアス
ファルトに夜中に寝そべっているのだけは、急停車と避けて走ってい
ました。
大きな長距離トラックでも横転や大破する事があったからです、昔の
長距離トラックの前には必ず、衝撃防止のバンパーが余計に二重に
取り付けられていました。
私も一度見た事が有りますが、グレープフルーツとオレンジを満載し
たトラックが横転して、側に死んだ牛が横たわっていました。

帰りに見るとトラックはすでに移動されて無く、死骸の牛も皮を剥が
れて良い肉は剥ぎ取られていました。
何となく思い出す昔の事ですが、その様な事が身体に染み付いて、
いまだに身体が覚えていると言う事かもしれません。

2013年8月17日土曜日

私の還暦過去帳(409)


白昼ー!1:5の集団レイプの現場を目撃した・・、

いやはや驚きましたー!

午後4時ごろでしたが帰宅途中の静かな住宅街の道でした。
芝生が奇麗に刈り込まれて、近くにはクリークの流れもあるアメリカでは
典型的な郊外型の住宅地帯で、中流以上の人が住んでいる地域です。

帰宅を急いでいましたが、走っている車の前をダンゴに成った何か大き
な物体が横切りました。それも低空で・・・、

側の大きな庭の芝生に転がるように、それらは着地するとその中の1羽
を取り囲むと、先ず図体の大きなカモがメスの背中にまたがると交尾を
猛烈に始めました。

私が車を止めて見ている事など平気です、メスは小柄な、まだ見ただけ
で分かる若いカモです。はいずって逃げようとするメスのカモの前にはそ
れも、アンちゃん風体のカモが2羽立ち塞がり、くちばしで頭と首を押さえ
着けて動けない様に牽制していました。

慣れた動作で私もあっけにとられて見ていました。

若いメスのカモはグワー!と悲しい悲鳴で鳴いていますが、1羽が事済
むと直ぐに順番が決まっているのか、次の1羽が器用にメスの背中にま
たがると、これまた猛烈な交尾を始めたではありませんか!

これではカモがメスのカモを此処とばかりに集団強姦している感じです、
二番目のカモは若いメスが声を立てて鳴くので、くちばしでメスの首をく
わえて、ウルサイとばかりに左右にゆすっています。

これで若いメスは声を出さなくなりました。

あれよ・・、あれよ・・で、3羽目が事終ると、残った2匹は俺が先だと猛烈
な喧嘩を始めました。見ていて笑いがこみ上げて来ます。

若いメスはその頃は羽も地面に広げて、まったくベッタリと失神している
感じでした。鳴きもせず、動きもしませんでした。

それにしてもカモと言えど、やるなー!と感じて見ていました。
残った2羽も喧嘩のケリが付いたのか、早速に1羽が飛び乗り、これま
たぐるりとメスを取り囲む、見るからに大きなカモ達が見守る中で、今度
は手短に交尾が終わりました。

最後の1羽が終ると、オスの5羽は若いメスを何度かくちばしで威嚇す
るように頭や首をくわえて、メソメソするんじゃーね!と言う様なそぶりを
すると、5羽揃ってどこか飛んで行きました。

見ていた私は、若いメスの写真を写そうと近寄ったら、ガバー!と起き
上がると、近くの茂みに隠れてしまいました。

茂みの中で身支度する様に、羽をつくろい、何度もくわえられた首を
左右に振っていましたが、それが終るとどこか飛んで行きました。

車を止めて滅多に見られないカモの集団レイプの現場を、半分苦笑い
をしながら見ていたのですが、気が付くと私の横で通行人が2名も同じ
光景を見ていたようでした。

そして彼等が曰く・・、
『鳥のカモと言えども凄い事をするものだー!』と話していました。

私も同感でした。

2013年8月16日金曜日

私の還暦過去帳(408)


 作業用軍手とメイド・イン・チャイナ、

私の仕事は不動産管理の外仕事で、かなり毎日、作業用軍手を使います。
それと趣味が有機野菜の栽培と庭木の手入れの庭仕事です。
母が元気で居た頃は、何か荷物を送るが欲しい物があれば入れて置くか
らと連絡が来ていました。

喜んで頼んでいたのは、日本製の軍手でした。これは上等な品質で、長持
ちして値段も格安でした。毎月新しく下ろして使いますので、直ぐにストック
している軍手が無くなってしまいます。

日本を訪ねた時は必ず大工センターなどか、量販店で買い溜めしていまし
た。それをアメリカに持ち帰り、庭仕事や、雑用などにも使い重宝していま
したが、それが年月が経つに連れて、価格が上がり、使い捨ての軍手など
と考えても馬鹿になりません。

そこでチャイナ・タウンなどにお魚などを買いに行った時など、中華街の中
国雑貨の店を覗いて探してみましたら、似た様な軍手が販売されていまし
た。しかし品質的には日本製からしたら格段に落ちる軍手でした。

1978年代です、まだ中華街の呉服屋とか雑貨店などには、中国製の工
人服が吊るされて、工人帽子と売られていましたが、それはサンフランシ
スコを訪れる観光客相手のお土産用だったと思います。

そんな時代の中国製の作業用軍手ですから、格安の代わりに耐久性もあ
りませんで、素材の軍手を編んでいる糸が悪くて、直ぐにボロボロになって
いました。

母が老人ホームに入居してからは全て、荷物をアメリカに送るような事も
断っていました。父親が読んだ文芸春秋の本なども毎月送ってくれていま
したが、それも全て中止してもらいました。

母親が暮れに正月用品を詰めた荷物が届くと、いつもワクワクして開けた
ものでした。そして必ず作業用軍手が入れてありました。
それも中止してからは暮れの荷物も無くなりましたので、幾らか貯めてい
た軍手も直ぐに底を付き、アメリカで買う様になりましたが、殆どは中国製
でした。
90年台に入ると、昔の日本製と似た材質の物が売られていましたが、同
じ様な製品では韓国製がまだまだ品質的にも良いものがありました。
滑り止めのゴムが手の平に付いた軍手でしたが、それも直ぐに中国製が
競争して、価格的に中国製品が上を行っていましたので、韓国製品も競争
に負けたと思います。

その後は、チャイナ・タウンでなくても、アメリカの大工センターや、スーパー
でも見かける様になり、価格的にも安く買う事が出来る様になりました。
中国製と言うマークは価格的、品質的にもこの様な生活雑貨ではアメリカ
の市場を制覇して行ったと思います。

お客として、消費者として購入して使用するのですが、昔からしたら違和
感が無くなり、なにも日本製品を倍以上もする価格で買う事も無くなりまし
たし、日本に行っても、お土産に買って来ることも無くなりました。

それも日本の量販店などの商品は中国製が殆どを占めるようになり、品質
も普通に気にしなくて使える商品となり、作業用軍手など機械で編むので
すから、その素材の糸で品質が決まると感じますので、人件費が安い中国
が輸出産業製品として大量生産すれば、価格的に他国の製品を圧倒する
と感じます。

全て時代の変化と、中国雑貨製品の品質向上と競争力強化と感じます。

2013年8月14日水曜日

私の還暦過去帳(407)


アメリカの日本町は何処に消えた・・!

現在では世界の人口流動は決して無視できない流れになっています。

アジアの後進国からアジアの先進国に職を求めて、自由を求めて、希望
を求めての移動が起きています。
南米、中米などからのヒスパニック系がアメリカに向けて、これも職と希
望とアメリカーン・ドリームを賭けて移動が間断なく続いています。

EUの様に国境が事実上取り払われた状態では、雑多な移民の流れと
定着と同時に排他的な、そこの国のネイティブの民族からの拒否反応も
出て来ていますが・・・、

ここアメリカでは、近年に入り、難民での移民が急増して、先住民族の
アメリカインデアン達の力と団結力を持っても、アジア系の移民や難民
の流れれを止める手段は少ないと感じます。

アメリカでも少数民族の人口差が激しくなり、ヒスパニックとアジア系が、
アメリカのネイティブと言われる人種的と民族的な格差となっています。

そして民族の勢力範囲と政治的な力の均衡も破れてしまいました。

チャイナ・タウン、(台湾系、香港系、広東系、華僑系などの
          特色があります)
リトル・サイゴン、(サイゴン陥落からのベトナム脱出者達が
          集まり町を形成する)
コリアン・タウン、(蔑称ハングル・タウン)韓国人達が英語
          の看板を出さずにハングル文字で押し通
          すから・・、
コーラン・タウン、(必ず街中にモスクがあり、コーランの声           
           が聞こえる)
リトル・カブール、(コーラン・タウンに酷似していますが、
          宗派やアフガンの大きな特色があります、)

ロス・セグンドシュダー・デ・メヒコ(ロスはメキシコの第二の首都)とか
話しているのをメキシコ人から聞いた事が何回もありますが、メキシ
コ人いわく、昔はメキシコの領土だったと聞かされます。

以上の様な新たな名前の町が出現していますが、逆にジャパン・タ
ウンなどは場所によりコリアン・タウンとの別称で呼ばれる様になりま
した。
特に発展凄まじく、規模が大きいのはベトナム人の集まるリトル・サ
イゴンのショッピングセンターです。
まるでサイゴンの市場をカリフォルニア州のサンノゼに、そっくり引っ
越して来た感じです。誰が見ても正直驚きます。

ショッピングセンター内では、フランス風菓子やケーキなども販売さ
れ、ベトナムコーヒーを入れて、食べている姿を見ると、彼等の活動力
があり、その人間の数も凄い人数と感じます。

それにしたら、カリフォルニア州のサンノゼにあるジャパン・タウンなど
は過去形で呼ばれます、『戦前の昔はここは日本町だった・・』と、言
われ、パラパラと残る昔からの店も侘びしい限りです。

サンフランシスコの日本町も近鉄企業の撤退でショッピングがユダヤ
系の企業に売り払われて、そこに急激に伸びてきた韓国系の商店、
レストランなどに占拠されて、陰口では『コリアン・タウン』と別称され
ています。

これも時代の『栄枯盛衰』は、遠くは祖国の政治と教育とが作り出した
と感じます。

2013年8月11日日曜日

私の還暦過去帳(406)


メキシコのカボと日本人、

休暇でメキシコのカボに毎年出かけますが、この狭い町で日本人の歴
史と過去を見ることが出来ます。
メキシコ最初の日本人移民の末裔がホテルの受付で働いていたのです。
名前は日本人の姓ですが、顔形は殆どメキシコ人の特徴ばかりです。

4世と言うことでしたが、何代もここのメキシコ人と結婚して顔形もすっ
かり無くなっていると思います。30歳過ぎの女性でした。
まったく日本語などは話すことが出来ませんが、自分に日系の血が流
れていることに誇りを持っている感じでした。

それからレセプションの席で会った男性は、かなりの年齢でしたが、日
本人とコマンチ族のアメリカインデアンの女性との混血と話していました。
何処と無く日本人の風貌が残って、背が高い男性でした。
ネームの名札は日本人姓が書いてあり、日本語は話せないと言ってい
ました。

何かアメリカの歴史をその男性に感じる様でした。第二次大戦で西海岸
から強制退去させられ、強制収容所から希望して奥地の拘束されない
農場に移り住んだ日本人達がいたようでした。
そこでは強制労働ではなく給料も出て、比較的に自由に行動も出来たか
らでした。

私もアメリカに来て、強制収容所を出て農場で働いていた日系人を何人
も知っているので、その時にローカルの住人と結婚した人も居ると聞いた
事がありますので、その様な事情で生い立ちを刻んでいると思います。

その様な方がメキシコまで移り住んで生活しているという事は、アリゾナ
か、ネバダ州 で育ち、メキシコ人の女性とアメリカで結婚して、メキシコ
に移り住んだと感じます。

先日、町を歩いて道を聞いたメキシコ人の女性が、日本語をペラペラ話
して道を教えてくれたのには驚きました。

彼女は大阪に日本人男性と結婚して8年間住んで、12年前にメキシ
コ、カボの郷里に戻って来たと話していましたが、20歳になる娘が居て、
大学で勉強していると話していました。
まったく奇遇な出会いでした。お土産屋のマネージャーをして居ると話し
ていましたが、 近頃はJALパック・ツワーがカボから撤退したので、日本
人観光客も来なくなり寂しく なったと話していました。

狭いカボの下町です、数年前は日本人のインターネットカフェー屋があり、
日本人の 寿司職人も居たと聞いていましたが、それも現地人やアメリカ
人が寿司の技術を学んで独立して行ったと、知り合いのメキシコ人が話し
ていました。

今では日本人の店も無くなり、アメリカ人達が溢れる町に変貌しています。
毎日の様にカボの港に寄航する、大型クルーズ船が吐き出す観光客が、
一隻から1500名もの人を町に送り出すのですから、それは様変わりする
のも当たり前と感じます。

アメリカの巨大な資本が投資して、メキシコもトップの不動産投資会社が
土地を買い 占めて、ホテルやゴルフ場、コンドなどの開発するのですか
ら、日本人の個人などが 競争できる力は無いと感じました。

ハワイと同じ緯度で、もっと気候が良く、乾燥した爽やかな空気と、殆ど
3時間程度で アメリカから来れる距離と物価的な安さと言うのは、アメリカ
人には魅力的な場所と感じると思います。

ハワイは西海岸から5時間半程度も掛かり、アメリカといっても距離がか
なりある場所 よりも、カボはロスやコロラド州デンバーからでも2時間半程
度の距離は車でも走って来れる場所です。
人の流れまで変えてしまった町と感じます、昨日、部屋を掃除に来ている
メイドに聞いたら アカプルコから転住して来たと話していました。

ご主人は近くのホテルで働いていると話していましたが、10年で10倍も人
口が増えた 町が納得できますが、カボの町でダイビング潜水の仕事をし
ていた日本人女性が先月、 離婚して子供を連れて日本に帰国してしまっ
たので、今では誰も日本人で働いている 人は居なくなったと聞いています。

私が知っている過去10年で、時は流れ、変化して人の代わり様も激し
いと思う感じです。

2013年8月8日木曜日

私の還暦過去帳(405)


通信今昔物語、

現代の情報伝達の速さと、その変わり様の速さは驚くばかりです。 
昔の旧式な携帯電話はアナログで、大きさも弁当箱ぐらいの大きさで、
中には普通の受話器が付いているタイプも見られました。

簡易型と言っても、軍隊で使用したハンデ・トーキー型を少し小型に
した様な感じの電話も有りましたが、どれも型はかなり大きな感じが致
しました。
取り付けも車のトランクに本体の装置が置かれ、運転席はマイクとス
ピーカーが在るという感じでした。

それもいつの間にか、簡単に取り外しが出来る型になり、車両から他
の車両に移動出来るコンパクトな型になりましたが、まだその当時は、
アナログで音声も余り良く聞く事が出来ませんでした。

チョイと郊外に出ると、プッンー!と切れて話しが出来なくなりましたが、
まだ都会だけの携帯電話でした。
当時は通話料もかなり高く、少し話し過ぎるとびっくりする様な請求が
来て驚く事が有りましたが、近頃の宣伝を聞いていると、40ドルで、
通話時間無制限、メールも自由で、税込で40ドルと宣伝していました。

昔からしたら格段の安さです、それがデジタル通信となり、雑音や途
切れなどが極端に少なくなりました。 すでに現代の携帯電話通信は格
段の進歩と発展により、小型化、高出力、画像、ビデオなども簡単に
通信出来て、インターネットにアクセスしてE-Mailなども見る事が出来
ます。
便利な世の中になったと思います。 写真をパチンと写して直ぐにそれ
をメールに添付して送信出来ます。昔の事を考えると、月とスッポンの
差がある様に感じますが、まさに時代の変化です。

前回南米を旅した時に、インターネットのスカイプ電話で、ペルーの
プーノと言うチチカカ湖の側で泊まったホテルから、ベッドに寝転がっ
て娘と話していました。
それもインターネットは無料接続で使い放題のサービスでした。
おかげでネットで次の観光地を探したり、情報を得たりしていましたが、
時代の変化が、この現在の通信手段を根本から変化させていると感じ
ます。
私が今でも忘れられない光景を覚えています。それはアルゼンチンの
ブエノスから隣国のパラグワイに行く列車で、途中機関車の故障で小雨
の降る中、広大なパンパの大草原の真ん中に停車していましたが、
線路の側には電柱があり、通信線と思われる2本の電線が通ってい
ました。
車掌が降りて来て、竹ざおを先ず組み立てて、その先に電線に取り付
ける金具があり、先ず、一本目が電線に取り付けられました。
それから残りのもう一本も同じく金具を使い電線に取り付けられました。
それが済むと、手回しの電話機にコードを取り付けて、ボックスの横に
有るハンドルを、グルグル廻してどこか呼び出して居ました。
なんと悠長で、のんびりとした緊急連絡方法かと感心して見ていました。

でも連絡が取れて救援機関車がこちらに来ると言う事でした。
それを各客車に車掌が廻って知らせている姿を見ていましたが、50年も
前です、通信手段がそれしか無かった時代ですから、それと列車放送
などと言うシステムが無かった時代で、各車両を車掌が廻って知らせて
いたと思います。
客車も戦前の昔、イギリス製造の客車でしたが、アルゼンチンの古き
良き時代を走った列車と思いましたが、線路の路盤は悪く揺れて、窓
から見ていると雨水をバシャー!と飛ばして走って居ました。

私が居た農場も雨が降れば町と孤立して、通信手段も無く、車も走る
事が出来ずに馬でしか町まで出る事が出来ませんでした。
トラックターなどの部品が必要な時は、先ず注文をするのに町まで、
紙に部品番号などを書いて、サンプルを持たせて、知り合いの自動車
整備工場に頼んで注文をしてもらいましたが、手間の掛かる方法でした。

馬を操るのが上手な若いインジオが、近道だと増水した河を巧みに馬
を操り、50mばかり最後は馬が泳いで河を渡っていました。
対岸に馬が到着して若いインジオが河岸を上手く馬で登るとホットして
いました。
そんなに50年も前は僻地でしたが、数年前、サルタ州を訪ねて同じ町
を訪ねると、何処でも携帯が話せて、若い女の子がバイクに乗り、片
手で携帯で話しながら舗装道路の田舎道を走っているのを見て、昔は
なんと時間の無駄と、多くの労力を使っていたかと感慨に耽っていまし
た。

2013年8月7日水曜日

私の還暦過去帳(404)


 韓国人パワー、

近頃それを実感で感じます、前回の冬季オリンピックで韓国が獲得した
メダルも日本などとは問題ならない数です。

韓国政府がスポーツ選手を後押しする事も有りますが、韓国企業が後
援企業となり多額の賞金をメダリストに出したり、優遇されるような特典
も政府から出ています。

その大きな特典とは韓国では徴兵制度ですから、その徴兵免除の恩典
とかが出ればそれは、スポーツの多くはハングリー・スポーツですから、
それに賭けて練習する気迫さえ違うと思います。

昔です、50年前になりますが南米奥地のアルゼンチンもボリビア国境
近くのサルタ州の、それも町から15kmもジャングルの奥に開いた農
場まで韓国人の数人が見学に来ていました。当時の韓国人たちは日本
語を話す人が沢山居ました。

彼等が何処に投資するか、また農場を開くかと言う、産地と、市場の動
きを研究していたのでした。日本人移住者と違い、自分の足と目と耳で
聞いて調査していたのです。
それも自分達の財布から自費で出して、将来を賭けられる仕事を探し
ていたと感じます。
彼等は全部サルタ州を見て回り、最後に私達に話した言葉は、ブエノス
の仲買を儲けさせるだけだ、と言う結論のようでした。

それは正しい理論でした。当時の市場のシステムは、値段が高くても低
くても、一定のマージンを取られますので、1箱15kgが20ペソとか決
まっていましたので、指先を二~三度、トントンとひっくり返すと、500箱
や700箱の値段が決まり、そのコミッションが彼等の懐に入っていたの
でした。
そんな事があって、直ぐにブラジルから韓国人達が韓国海苔を背中に
担いで各地を行商で歩いて来るようになりました。
韓国を出て来る時にドルを持ち出せなかったからでした。
自国のウオン現金を韓国海苔に代えて南米に移住して来たのです。

ペソなどの現金を手にするとブラジルの移住地では殆どの韓国人達が
周りの環境とビジネスに適した場所に移動して来ましたので、直ぐにブ
エノスでも韓国人達の姿が見られる様になりました。

当時盛んだった日本人の洗濯屋の下働きをして、言葉と周りが見えて
くると、直ぐに毛糸の機械編みのビジネスを開いていました。
それも動力編み機を使い、かなりの速さでアルゼンチン市場に食い込
んで行ったようです。
1960年代は韓国人のブエノスでの人口形態もまだ300名も達して
居なかった時代でしたが、今では日本人と日系人口まで含めても、韓
国人の人口が多くなっています。
僅か50年です、彼等の団結力と結束力の凄さと思います。

南米旅行でパラグワイの首都、アスンションの町角の店に入ると、そこ
のオーナーは韓国人でした。
ワイフとアスンションの街中を歩いていて、彼等の逞しさとその行動力
の凄さを認識させられましたが、私が住むアメリカでもサンフランシス
コ郊外の寿司屋は日本人より韓国人経営の店が多い感じです。
ベトナム人も居ますが、韓国人のバイタリティーには驚くばかりです。

私達夫婦が時々食べに行っていた寿司屋も、いつの間にかオーナー
が交代しているのを聞いて、知り合いの韓国人に聞いてみると、他
で建築関係の仕事が儲かるので、それに変えたと言う話でした。
そして忙しい週末はその店でヘルプで働いていました。

最近の家電製品も私の家族が購入した家電白物と言うのが、アメリカ
での上位のシエアは韓国勢で押さえられています。昔は日本勢が押
さえた分野です、インドなども韓国のお安い洗濯機が殆どシエアを占
めていると聞いています。
インドの田舎を旅していた時に、現代電気のショールームが、闇の中
に明々とネオンを光らせていたのには驚かされました。

現地に根ざして調査して、ニーズに合った物を生産して居ると感じます。
車も韓国の2社が恐ろしい勢いでアメリカで勢力を広げています。
アメリカで、10万マイル保証などと言う長期保証を出したのも、韓国
の現代自動車が初めてでした。
最近の南米旅行で感じたのは現代自動車の小型車がタクシーでペ
ルーの町に溢れて居たことです。

最初は三菱のコピー商品、ミラージュとか言う車でしたが、あれよ・・と、
言う間にデザイン、価格、品質なども追い付き、韓国勢がアメ車や日本
車のシエアを喰って伸びています。

まったく韓国人のバイタリティーには脱帽です、近くのオークランドでも
韓国街があり、本家ソウルの焼肉よりこちらが美味しいと韓国人が言
うくらいですから、本当と思います。

それの5倍も大きなコリアンタウンと言うのは、ロサンゼルスの韓国街
です。行くといつもその広がりに驚きます、広告もハングルだけの看
板にはいつも感心させられていますが、最近のサンフランシスコ日本
人町で、ジャパン・タウンと言われているのが、人に聞くとすでに、
コリアン・タウンと別称で呼ばれているそうです。

日本町に買い物などに行くと、何処からとも無く韓国焼肉の独特の臭
いがしてきます。
その臭いを身体で感じると、韓国勢の凄さを体感する感じです。

ビビンパのお鉢を抱えて、ごってりと焼かれている焼肉を突付きなが
ら、マッカリの焼酎をグイと飲む姿には、そのパワーを感じないわけ
にはいきません・・・、

2013年8月4日日曜日

私の還暦過去帳(403)


アメリカのガン事情、

ガンと言っても病気のガンではありません、チョイと物騒な鉄砲の話です。
アメリカには現在、住んでいるアメリカ人の人口より多い数の銃器があり
ます。

35年ほど前はライフルなどは購入するとその場でその銃を持ち帰る事
が出来ま
したが、でもピストルは一週間程度の本人確認と登録が要りました。
それにしても、絶対所持禁止の日本などからしたら、桁外れの易しさで
す。
現在でもお隣のネバダ州に行くと、射撃場で自動小銃や、マシンガンな
ど観光客も簡単に借りて撃ちまくる事が出来ます。特別の許可を貰い、
特別のライセンスと特別な税金を納めると、軍用の重機関銃も所持、
射撃も出来ます。
私も頭をひねる銃がありますが、これは射撃などと言う事には無用な
大口径大型対戦車ライフルの様なドデかい銃です、口径が50口径と言
うと、これは普通、対空機関砲に使う銃弾です。空を飛ぶ飛行機を打ち
落とす弾ですぞ・・、

至近距離では簡単に装甲車の鉄板も打ち抜き、破壊するような強烈
な銃です。2km先の標的なども十分に狙撃出来ると言うのですから
恐ろしい・・、それに弾により、トラックなどは1発で破壊できる強烈な
弾を使えば、考えただけで震えが来ます。
その様な銃もアメリカでは買えるのですよ・・!、

ラスベガスなどに行くと、多くの観光客などが射撃場で、気軽にマシン
ガンなど撃ちまくっていますが、私が一番驚いたのは昔、射撃場で、
ドカーン!と強烈な発射音がしましたので、見ると、お隣の100m射撃
場で、黒色火薬を使う、先込めの大砲を発射していたのには驚きまし
た。モクモクと白煙が上がり、音も強烈なものでした。

そして、100m先の1mばかりの標的にドスンと穴が開いていました。
何と・、これには少々仰天いたしましたが、どこかの悪い奴が、もしもで
すよ・・、200年も昔の、海底から引き揚げた青銅の大砲などを使い、
ドカーンと、どこか襲撃してもこれは完全に使えると感じました。

海底から引き揚げた物ではなくても、骨董品として買えますので、そ
れを利用して、手作りの大砲の弾で、自分のトラックの荷台などに据
付て大砲をドカーンと撃てば、完全に先込め、黒色火薬の大砲でも
武器となると感じました。

アメリカでは今でこそ、かなりの規制強化で、簡単には手に入りませ
んが、昔の事を考えたら少しばかりびっくり致します。
今では老眼で裏庭にウンチをしに来た野良猫に、プラスチックの弾
を10mぐらいで撃っても当らないほどの低落ぶりです。
猫がまるであざ笑う様に逃げていきます。

昔、私が大型ライフル射撃をしていた時代に、ガン・ショーで購入し
た弾は、はるばるポルトガルから来た軍の放出品でした。

軍隊からの放出品の弾薬がまるでリンゴか何か果物でも買う様に
簡単に購入する事が出来ましたがその弾は1968年時代にアフリカ
のモザンビーク紛争時代に使われた8mm口径マウザーライフルに
使われた弾でした。

それの弾薬箱入りの銃弾を担いで帰った事があります。軍用備蓄
弾薬は期限が切れると安く放出致しますが、まるで缶詰の様に、厚
いブリキの板で密閉され、かなりの重量の木箱に詰められています。

その後2年以上もその弾薬箱から射撃に行く度に取り出して使いま
したが、1発の値段にしたら20円もしない勘定だったと思います。
ロシア製の銃弾も、まるでこれもハムの缶詰と思うくらいの形で、
500発入りで売り出されていました。
普通の缶切りを使い、ハムの大缶を開ける感じで、キコキコと開け
ていました。

今でもスポーツショップで旧ロシア製の旧式なボルトアクションの
ライフルを販売していますが、どこから持って来たかと頭を捻る様な
新品に近い銃です。おそらく生産された後、予備の備蓄銃器として
保存され、時代遅れとなり放出されたライフルとおもいます。

私も昔に買いましたが、その新品ロシア製軍用ライフルが一丁、
日本円で1万円もしない値段でした。 1949年製の戦後製造され
た程度の良い物ですが、数が少ないカービン型の銃身の短い物で
す、今日の新聞広告では長い銃身の普通のライフルは、何と・・、
95ドルで販売していました。

それもセールと言う値段で銃器を売り出すのですから、やはり
アメリカです。

わが町の警察パトカーも運転席には銃身の短いポンプ式散弾銃
と現在でもアメリカ軍で使用されているM16と言う自動小銃を入
れて、2丁運転席に供えています。それは昔、泥棒が銀行強盗
をして逃げる時に、追いかけたポリスが腰の拳銃と散弾銃では
まったく歯が立たなく、強盗の自動小銃で逆にめちゃにやられ
ていました。

私もその時のテレビを見ていましたが、賊の周りを包囲したポリ
ス達が近所の銃砲店に駆け込み、慌てて売り物の銃を借りて来
て応戦していました。
強盗が発射する自動小銃の弾で、パトカーが10秒もしない内に、
スクラップの様にズタズタに撃ち抜かれる様には、まるで映画の
シーンかと見間違う様でした。

昔の連邦警察FBIの係官の拳銃は全部レボルバーの旧式な
回転式拳銃でした。
殆どが38口径か357マグナム系の拳銃でしたが、これも最新
式の9mm自動拳銃と弾が20発以上の収納できる弾倉を供え
た拳銃相手の賊には無理です。

それもはやり小型のマシンガンを賊に撃ちまくられてFBIの係官
が殉職してから、規制が変り、FBIも自動拳銃を所持する様にな
りましたが、日本では考えられない様な事ですが、やはり
『所変われば品変る』という諺と同じで、やはりアメリカに住んで
いると感じるのでした。

2013年8月3日土曜日

私の還暦過去帳(402)


 去り行く人々・・、

先日、県人会に出席いたしましたが、今年も何人かの人達が出席出来ま
せんでした。
昔は沢山の方々が出席され、大きなレストランを借り切って、開催されて
いました。

今では数えるぐらいの人で、仏教会の日曜学校を開く集会所で開かれて
います。 時代の流れには逆らえません、人は生まれて生を受けたら、い
つの日かあの世に旅立つ事になります。

時は流れ、次代は変り、世の中も変化して昔の面影も消えてしまう、激し
い時代の変遷を止める手段は、もうすでにこの世では無理な事です。

一世と呼ばれる日本人も90歳過ぎた年齢か、もはやこの世には生きて
はいません。 第二次大戦後日本に進駐して来たアメリカ兵と結婚して渡
米して来た人達も、すでに多くの人々が亡くなっていますし、中にはご主
人を亡くして日本に帰国した方も居ます。
それぞれ、人生の最終に足を踏み出して歩き始めているのです。

そう言う私も近頃は要らない不用品をかたずけて、程度の良い物はドネ
ーションをし有効に活用しています。ついこの間亡くなられた人が、すで
に4年目となり、その方の記憶も薄れてきています。

『忘却とは忘れ去る事なり、』とか言いますが、また『忘れずして忘却を
語ること無かれ』とも言っています。

これまで人生の旅人と多くすれ違って来ましたが、人生街道の道すがら、
昔の様子を聞き、また話してくれた人々を、つい最近の様に思い出します。

移民船で50年前に南米に移住した時、乗船した船に乗り合わせた祖国
訪問のブラジル最初の移民船、笠戸丸で移民した人達にも会う事が出来
まして、人生旅路の様子を聞く事が出来ました。

その人達が話してくれたサントス港上陸は、暑いので扇子で風を取り、着
物のすそをからげて歩き、味噌、醤油の樽も持参していたと話していました。

同じくパラグワイの第1回、ラ・コルメナ移住地に 移住し当時、アルゼンチ
ンのブエノス在住の隈部氏ご夫妻とも親しく話を聞く事が出来ましたが、
パラグワイ移住する前は、ペルーに移住して住んで居たと言う事で、戦前、
昔のペルーの様子も詳しく聞く事が出来、また同じく、コルメナ移住地に移
住して、現在も最初からその同じ土地にお住まいの、三井氏ご夫妻にもお
話を伺う事が出来ました。

アルゼンチンのサルタ州では、ハワイからペルーに転住して来て、アマゾン
のゴム景気に誘われて、アンデスの山を徒歩で歩いて越えて来た方にも
お会いして話を聞く事が出来ました。

多くの今は亡き方々や、歴史を背負って生き残られている方々にも話を伺
う事が出来ました。
有名な探険家、冒険家として世界五大陸最高峰を制覇された植村直己氏
ともブエノスでほんの僅かな時間言葉を交わす事が出来ましたが、アコン
カグワ登頂を済ませて、アマゾン河のイカダ下りを準備していた頃と思い
ます。
私の人生街道の道すがらに出会い、またすれ違って来た人々を思えば、
それぞれに大きな人生の物語を背負っていたと思います。

今でも戦争最中の出来事を語ってくれた人を思い出すのは、アメリカの第
2次大戦末期に硫黄島攻略、最初の海兵隊上陸部隊の先発隊の一陣に
参加して、すり鉢山の麓に強行上陸して、上陸艇から降りて直ぐに鉄兜を
撃たれ、その後に腹部を撃たれて瀕死の重傷で助かった海兵隊員の話し
や、満州に雪崩を打って侵入したロシア軍に万歳突撃をして生き残った人
の話しなど、聞く者を驚かせるのには十分な話でした。

アメリカで知り合ったアフガニスタンからの難民で、アフガン紛争時代、ソ
連軍に夜間奇襲攻撃をした人の話も悲惨な話でした。

それぞれに人は、一つの物語を背負うということですが、知られる事なく
ひっそりとあの世に持って行かれた方々の多き事も想像いたします。

パラグワイの日本人移住地近くの墓地で、ひっそりと草葉の陰で眠る人
達の墓標の列にも心が、キューンと絞め付けられる感じでした。

ハワイに旅した時に、道端の側に並ぶ粗末な墓標に、1887年と刻んで
ある墓標を見た時に百年以上も前からこの道端の側で眠っていた日本人
が居たことを知り、歴史を感じましたが、サンフランシスコ近くの、明治天
皇からの御賜金で建設された、百年前に開かれた、全米唯一 のコルマ
日本人墓地には、数多くの無縁仏が祭られ、アメ行きさんと言われた若き
日本人娼婦の3名の墓もあります。

それぞれに時代に消えて、過去の忘却の彼方に過ぎ去って行った人々と、
また私は多くの方々と会って、見て、共に語り、見送って行ったと今では
時々感じ、それだけ歳を取り、老いていったと心に感じています。

誰かに『もう歴史の証人ですね・・』と言われて、何か自分の歳を再認識
させられた感じです。