2020年3月18日水曜日

私の還暦過去帳(609)

成せばなる、成さねばならぬ何事も・・

戦前、戦中、戦後の混乱時代に生きてきたので、貧乏とか困
窮とかは余り気にしない生活を致して来ました。大牟田市時
代では、中学時代から高校生時代は、土曜の日から一人で
ックを背負い裏山の小岱山に登り炊飯して、缶詰などを開
けて飯盒飯を食べて寝袋で寝て、翌日残りの飯盒飯をお握り
と残りは雑炊にし、朝食にして玉名市まで尾根を縦走して歩
いていました。
お握り2個をランチにして、水筒とリックを背負い、熱量食
として森永のキャラメルや、かりん糖などを食べて歩いてい
ました。玉名市から汽車で大牟田市まで急行で一駅のかなり
距離がありましたが、これで忍耐と困窮などのド根性が鍛え
られたと思います。
冬の寒い日に米軍用のポンチョウ一人用テントの寒さで頂上
で目が覚めると霜柱が10cmも出来て居ました。
それと南米に単身移住をして、インジオ達とジャングルを伐
採して開墾した事が生きるという根本の根性を身体で学んだ
と感じます。仕事を始める前に、肉の塊を焚き火の側で吊る
して、マテ茶用の薬缶に水を入れて仕事を開始していました
が、ランチはカチカチのガジェッタという硬いパンを火に温
めてそこに切った焼肉を挟んで生の玉ねぎを切り入れて、焼
肉の岩塩の味が程よい味になり、それを食べて、マテ茶を飲
んでいました。
開墾はブルドーザーで土をカチカチにしないように、手で木
の根を掘り起こす根気の居る仕事でしたが、それも農大時代
に千葉の茂原の元旧陸軍戦車練習場を農場に開梱する実習を
していたので、開墾鍬とシャベルでの塹壕掘りと同じで、芋
畑にした苦労を思えばジャングルの開墾もへこたれる事なく
出来ました。
毎日、ビスカッチャの獲物を捕獲するので罠かけをして、週
に3匹も獲れれば肉には不自由しませんでした。
鳥も山鳩を散弾銃で、トウモロコシの実を撒いて、沢山の山
鳩が集まった所を狙い、2発も撃つと、それこそ食べきれな
いほど唐揚げや、スープに使っていました。
オレンジやバナナなどは15kgの袋入り、1房が10kg以
もあるバナナを安く買い、食して生きて居ましたが、魚は
インジオのチャワンコ族の漁師がナマズやスルビーなど生や
干物などを沢山安価に手に入り、生きる、生き延びる、生き
残るという根本を身体で学んだと感じます。今でも裏庭百姓
の根性ある生き方で家族や人様に迷惑をかけない、どこに住
んでも自尊心ある大和魂を心に秘めて、今ではワイフの運転
手、お手伝いと小まめに気を使いワイフの世話に、日々楽し
みを見出して生きていますが、人生などは程々に生きて満足
であれば、自分が生涯を終わるときに悔いが無ければ人生満
ち足りた生き方と思っています。

2020年3月3日火曜日

私の還暦過去帳(608)

時は去り、日々幻の如く・・、
はや3月に入り、春の様子を見せる自然に、時間の経つのはこの世に
住んでいる皆が、避けて通れる様なものではありません。
どのように高貴な人でも、貧しい貧困にあえぐ人にも、平等に時間は
一瞬の誤差もなく与えられ、それを受け入れなくてはなりません。
しかし、同じ時間でも有効に使う人、無駄に時間を捨てている人、様々
です。

時は去り、過去に過ぎ行く時には思い出として脳裏に残る事もありま
すが、この世は忘却の彼方に消えて行く記憶も、今の科学のITの世界
では僅かな小指の先程のコンピユーター記憶装置に画像として残す事
が可能になり、昔の人達が、夢幻の過去に消え行く忘却の儚い思いと
感じけれ・・、とか物事を会得したような心を否定する様になりまし
たが、これが現世の常だと感じます。
今年でアメリカ生活も45年程になりましたが、日系一世と言われた
日本人も数える程に少なくなり、特に戦前にアメリカに移住した人々
は生きている人などは殆ど居なくなり、二世も僅かになりました。
2世の方々と良く、日系信用組合の理事会で懇意にさせて頂きました
が、その方々も引退して、老人ホームや中には亡くなられた方々も沢
山いますが、先日、知り合いのハワイ出身の三世の方が85歳ほどで
亡くなり、ハワイの移住者達の歴史が古い事を示しています。

一世達が戦前の排日移民法で、メキシコから密入国した話など、聞か
せて頂いた事がありますが、線路工夫で働き、貨車やテント生活の話も
興味あるものでした。今の日系社会の基盤を作った方々です。
モントレーの港近くの缶詰工場の跡地に残る粗末なバラック小屋の壁
に今でも残る、日本からの古びた掛け軸や壁掛けなどの竹細工を見る
と、ここで働いた日本人達の痕跡が今でも見る事が出来ます。
二世達が戦時日系強制収容所から欧州戦線に出征して、父母や家族に
別れを告げ、部隊に戻る時に列車の窓から遠くに強制収容所のバラック
の小屋を見た時に、感無量で泣いたと聞いた時には、私も涙が堪え切れ
なく泣いていました。
その二世達も殆ど亡くなり、その当時、私が一番若いと言われていた
日系信用組合の理事も、今では80歳近い年齢となり、数多くの今まで
聞いた物語を背負い、歴史に消えようとしています。