2014年2月27日木曜日

私の還暦過去帳(492)


パラグワイ国盗り計画(16)

それは裏を支える、ドイツ人の移民を見逃す事は出来ません、彼等は団結力が強くて、お互いに力を出し合って前に進む事を考えています。

あるパラグワイに移民で来ていた日本人が話てくれた事があります、その事は良く日本人の性格を表していると感じました。 彼は戦時中、満州でロシア軍の捕虜となり、シべリアに送られて、そこの捕虜収容所でドイツ人の捕虜と一緒になり、彼等が団結して権利を主張して仲間を守り、仕事で

もノルマ以上は絶対に手を貸さなかったそうですが、日本人は仲間割れして、仲間 を裏切り、お互いが疑心と猜疑心での付き合いで、まとまりが無くその事がもとで、多くの人が死亡した原因ともなったと話していました。

そのような話を具体的に聞くと、心乱れました。果してこの話を日本人社会で話して、同士を集める事は出来る か、大きな壁に突き当たりました。

それは致命的な計画の壁となりまして、移住地の村社会から、もっと小さな部落社会と細分化された付き合いでは一度話すと、取り返しがつかない事態となると予測されました。

開拓初期にお互いが森林伐採 を競い合い、『俺の土地は20町歩開拓したーー!』『俺は23町歩がーー!』と、後も、先も考えずに資金を注ぎ込み気が付いたら、仲間割れと、いがみ合いと猜疑心が残ったと話してくれた人が居ました。

それで植えつけた永年作物が先の見え ない産物で、販売市場が無くて破綻の道を歩き出した時代と一致して、我々が計画の時期として、一番の不適切な次期に始めたと感じました。それは深く探りを入れるほど分って来ました。自衛隊出身者がパラグワイに用事で行き、確かめて確信して来ました。彼は帰宅して、その夜一番に口を開いた事は『時期早々ーー!』の一言でした。  

次回をお楽しみに!

2014年2月25日火曜日

私の還暦過去帳(491)

パラグワイ国盗り計画(15)

パラグワイを見て感じる事は、まだまだ余裕の有る国です、しかし、人と財力と教育と、情熱が不足していると感じました。豊かな土地を持ち、僅かな人口ではとても開発は無理と思い、またそれに一番必要な資金も不足していました。

 アルベルト.フジモリ前ペルー大統領が日本から移住した移民の子供で初めて一国の大統領と成った事は、かなりの衝撃でした。泡沫候補とささやかれながら、最後まで残り、大統領までなった事は、選挙の恐ろしさと、意外さが有ります。 ペルーは原住民の血を引く人が80%以上も居ると言われて、一部スペイン人侵略者の血を維持する一握りの白人がペルーの社会を押えています。

その中でフジモリ氏が大統領に就任した事は、我々、南米を知るものとして衝撃の心を持ちました。 彼が辞任しなくて、あと10年間以上、大統領を維持したら、かなり南米の政治地図が変わっていたと感じます。彼が長年隣国と争ってきた国境紛争も解決して、彼の改革と建設で3000以上の学校建設がなされ、その成果が完全に出てき たら加速されたスピードと成って、ペルーが新しい国となったと感じます。

我々が夢見た事は、後になってフジモリ氏により形は変われど実現した事は、パラグワイでも夢では無かったのでした。今から思うと当時のパラグワイの移住形態が複雑で、移住者のレベルが余りにも狭かった事を感じます。 私達が計画を立案して、最終的なプランを整理していました。ストロエスネル将軍が当時のパラグワイの大統領で、かなりの独裁政治をしていましたが、彼はドイツ人移民の2世です。

1964年頃に当時のアルゼンチンのポサダで、ある日本人の 一世から話しを聞いたのでしたが、戦前、アルゼンチンのポサダでカフェー屋を開いていたが、いきなり『あいつは学生時代に俺の店でコーヒーを飲み、そのコーヒー代も無かった時代が有り、こずかいを与えていたーー』と話していました。

彼はその後、パラグワイで政権を取り、大統領まで登りつめた男でした。そんなドイツ人2世がパラグワイで政権が取れたわけですから、日本人が団結すれば必ず日系か、その支持者が大統領になれると確信していました。

次回に続く、

2014年2月23日日曜日

私の還暦過去帳(490)


パラグワイ国盗り計画(14)


日本人移住者が結束して力合わせて、一大勢力とする事は、移住者の年齢からしたら当時 の状況は大変厳しい情勢と判断しました。余りにも地域が密でそれ以外は交渉が無い、日本の村社会をそのまま持ってきた感じがしたからです。

理想とする事が余りにも小さく、金や仲間の近所より、一山多く儲ける事が目標でした。下準備が整った時点で、その事が大きな壁となりました。 最終の計画が済んだ時点で、我々が一番心配したのはやはり、移住地の日本人の集団でした。儲け話しには直ぐに乗って来るのに、先の見えない、先の分らない、金にもならない話しはそっぽを向いて、用心して心開いて話し合う事も出来ませんでした。
日本の田舎から部落総出で移住してきた人達もいましたので、中には日本の村社会より、厳しい環境が有る地域が存在して、狭い移住地を作り、親戚や家族でないと信用してくれない風潮が有り、とても我々の計画を話し、相談する事も無理と感ずる 所も有りました。そこが一番の難点を感じ、打開点を探していましたが、生活に追われ、なおかつ現実に迫られた生活苦が我々が百年の先を見て語る事を、夢物語として拒否していました。

現実の厳しさが夢を見るのも、それを実行するのも、 全てが大きなギャップとなり、改革を夢見てーー!将来を思い、計画した数字が現実との埋まらない差に、先にこの計画を進め様とすればするほど、壁に出会い、パラグワイの日本人社会では、時期早朝と感じる様になりました。 武力で政府転覆をすると、どのくらいの人数で成功するか考えた事は、2500名の精鋭がいたら出来ると、自衛隊出身者が話していました。

200輌の戦闘車両、トラック、ジープなどが有れば、それを支える分散した移住地の支援があれば成功は間違い無いと言っていました。 しかし、その様な事は当時のパラグワイ社会では受け入れてくれる余地も無く、日本政府が援助と支援があればと話す、自衛隊出身者も現実を見て、夢で終るか~!と嘆いていました。計画を詰めた時点で、もう一度改めて見直す事にしました。

ではまた、次回をお楽しみに!

2014年2月20日木曜日

私の還暦過去帳(489)


パラグワイ国盗り計画(13)

パラグワイは多くのヨーロッパ人達が昔から、宗教で、信条で、桃源郷として、自分達の楽園を夢見て来た人が多い場所です、しかし、日本人移住地ではその当時、一部の移住者が隣国に再移住を始めた時期でした。

一番の理由は、農作物を作っても 売れない、販売価格が低い、輸送経費が掛かり過ぎる、その為生活が成り立たず、ジリ貧の希望が見えない生活に陥っていた時期でした。僅かにアスンション近郊で野菜栽培でいくらか儲けて居る人が居たぐらいでした。

 その様な時期で、当時のアスンション日本大使館を訪ねても、『パラグワイは、まだ開拓が始まったばかりだからーー!』と言う感じで、近所の日本人レストランで食事をしているる大使館員の話しを、近くのテーブルで偶然聞いた事は、『早く本省に帰 国したいと言う話ばかりで、どのくらいドルが貯まった』と言う話しでした。

それが一般的な公務員の考え方と感じました。我々が計画する事は、世間常識からしたらキチガイか、少し頭がおかしい妄想主義者の話しか、危険分子のたくらみと思われて 話しをする人にも用心して、相談や参考になる話を聞きに行っていました。日本人移住者は田舎の保守的な、村社会の中で育った人が多い感じでしたので、特に言葉は注意して、心許した人以外は、余り話す事は有りませんでした。

計画は段取りの設計から抜け出て、具体的な数字と詰めの計算を緻密にして、前の見本が無い手探りの計画立案を描いて行きました。その途中で歴史の本を見ていたら、スペイン人で一番多く奴隷としたインジオの女性に子供を産ませた男は、260人近い 数字だったと書いてありました。

嘘か真かは、その真偽は知りませんが驚く数字です。仮に260人を産ませたら、20年先はどえらい人数となります、結婚年齢が低い時代です、それで一族固まれば、恐ろしいパワーとなったと感じます、昔ですー! 余り人口がいない時代、その様な家族が固まって、分家して力合わせて、領土を拡張して行ったら、直ぐに大きな領地を持ち、大きな政治の勢力となったと感じます。

次回に続く、

2014年2月18日火曜日

私の還暦過去帳(488)


パラグワイ国盗り計画(12)

反共、親米政策 を掲げていれば、南米諸国では余り摩擦がない平凡な内陸国としして居られ、パラグワイは他国からの経済的な交渉は受けるかもしれないが、それは資本主義の世界、常識の事ですーー。計画は細部に渡り、暇に任して練り上げて組み立てて行きました。

 私達が立案して、細部の検討に入り、仮定として政権を選挙でこれから6~7年の先に取ったとすると、逆算してどの時点でどの様な具体的な設定を築き、、それを訓練又は用意して具体化する行程を詰めました。まったくの卓上計算の想定でした が何か、パラグワイの将来を我々が担うと言う気迫までその頃持っていました。

パラグワイは女性が裏では主導権を握る国です、三国戦争で男が少なくなり、女性に優遇されて、誰かが話していましたが、『甘やかされた~!』などと言う時代も存在し たと感じます、でも当時ストロエスネル将軍の独裁政権下でしたが、独裁と言う感じは世間一般生活では余り感じませんでした。

経済は安定して、外国為替でガラニーの交換比率も悪くは無く、当時アルゼンチンより外国物資の贅沢品が市場に有りました。 ロドリゲス将軍が1982年の、35年の独裁政権打倒が成立するまでは、コロラド党(通称赤党)と言われた政党が53年以上も独裁政権を保持していましたので、1989年の39年ぶりの文民政権誕生までは、選挙での公正さは無かったと言われていました。

私達がパラグワイ選挙の一票を握る女性の政治的啓蒙を考えて若いパラグワイ女性を目に付けていました。日本に研修に送り出す時は、女性を多くと考えていました。その優秀な女性が日本人男性と結ばれれば、これは一番の得策です、住宅や生活 援助を計画して、パラグワイでの振興に関連する農業、軽工業などを、側面的な改革と合わせて、実行していく計画でした。

昔、スペインの南米侵略はインジオ部落を襲撃して、奴隷として沢山の女性を拉致して、一人のスペイン侵略者の男性が短期間に 奴隷とした多数の女性に、150人以上も沢山の子供を産ませてその子供達を家族として、成人した暁に自分の手勢と訓練してまた奥地のインジオ達の領域を、侵略して行った歴史を見れば特に南米の家族主義の連携を考えると、もっと日本人の移住を 日本で啓蒙して、推進することも計画に入れていました。

パラグワイの国盗りはこれが一番と感じ、一番の基本として、土台を固める計画を立て、立案した計画に加えて行きました。若い我々が何も思考的に制約なく、自由な発想で未来を考えていたのではないかと感じました。  

ではまた、次回をお楽しみに!

2014年2月16日日曜日

私の還暦過去帳(487)

パラグワイ国盗り計画(11)

私が現在書いています、当時のパラグワイ国盗り計画を立案構成した人は思い出すと、中心となって話した人は全て過去に消えてこの世に居ない事に気が付きました。自衛隊出身で、酒の席で一番先、話しを切り出した人はアルゼンチンに長く住んでいて、 6年ほど前にガンで亡くなられて、興味を示して話しに加わりこれが本当に実行出来ればと言った人も、15年ほど前に同じく病気で亡くなられていました。

パラグワイで話しを聞いた人もブラジルに再移住したり、パラグワイで亡くなり子供の代にな っています、時代が変わり変化していく中、昔120年もの前に、ドイツ人達が自由を求めて、『新ゲルマーニア』と言う新しい移住地を開いて居たと言う事は、今は名前のみ残りましたが、桃源郷を求める人がパラグワイに沢山移住して来ていたと言 う事です。

現代はメノニータと言う宗教集団が根を下ろして、ドイツ系集団を作り、パラグワイで生活しています。成功してこれからも伸びて行くと感じています。40年前にこれが実行されていたら今の日本の政治もいくらかは変化があつたと思い ます。アメリカがハワイやアラスカ、プエル.トリコなど本土から遠く離れた場所を確保して其の他南太平洋でアメリカ領サモアなどを保有しています。

それから南米に近い、ヴァージン.アイランドの島もアメリカ領です。その様に日本では余り知られては 居ませんが、日本もその様な飛び地でも確保して、政治を根付かせる事を真剣に考えていたら、現在はかなりの変化が有ったと確信しています。

戦前に日本が所有していた南海諸島も全て無く、当時その島で生産される砂糖や、熱帯果樹などが日本の消費を 多くカバーして居た事を考えると、単に夢で終わらせる事はしたくは無かったのでした。
 イギリスなどは今の世でも海外に領土を確保して、大英帝国の力を残していますが、アルゼンチンと領土紛争を起した、フォークランド諸島も英国の領土です。

南極 に近い場所ですが、地下資源を抱えて重要な島となっています。歴史を見ても、、武力を持って侵略した植民地政策は今では無理です、しかし選挙で交替する政権からでは、人が作る国ですからどこからも文句を付けられる事は有りません。

次回に続く、

2014年2月14日金曜日

私の還暦過去帳(486)


パラグワイ国盗り計画(10)

昔、戦前の台湾政策を見ても、日本政府が予算の半分近くに相当する資金を投資して、成功した事を考えると、それと台湾に国立大学を建設して、教育と学問的な平等で誰でもが教育を受けることが出来る様になり、その土台となった事が解ります。

ペルーのフジモリ前大統領は、学校建設を10年先の国の為の投資として建設して、それが成功していました。基本的な国盗りはそれが目標でした。  パラグワイの国盗りを計画しだして、アメの美味しい餌は書きましたが、ムチの方は計画遂行をする上での障害と反対派の抵抗を考えて、それを叩き潰すか、側面からの工作で根回しして切り崩すか、しかし、人の考えと心理を動かす事は中々出来ません。

その事を考えて、最終的には武力的抵抗があると感じていました。しかし、移住地と言う所は、日本からの移住者の中には色々な方が来ていました。旧日本軍で大戦中は南方戦線で迫撃砲中隊で指揮官をしていた人や、東北の田舎から軍隊に召集されて下士官 として最前線のトチカや陣地の爆破の専門家として、訓練を受けて実際に上陸作戦で部下を指揮して、上陸地点を確保して成功させた人など、満州国境に居た人は、ロシア軍が雪崩を撃って進撃して来た時に、対峙して僅かな兵で狙撃銃を使い、ロシア兵を多 数倒し進撃を止めた人も居ました。

話しを聞くと、ロシア軍の輸送トラックの隊列を襲撃して、燃料と弾薬を多数破壊した様に、小人数での訓練された兵士は、多大の成果を上げることを聞いていました。そこで我々は、まだ旧軍出身で自衛隊にも居た事が有 る実戦経験豊富な方々から、話しを聞き、少人数での戦闘ゲリラ的な行動方法を聞きました。

戦後故郷の東北の田舎で、雪が積もると炭焼きの傍ら狩猟もしていたと言う、まさにパラグワイのジャングルでもインジオが顔負けの活動をしている人も居ました。 その様な人と連絡を取りました。返事は『面白い話しだ!』と答えてくれました。どちらかと言うと、その様な方は行動力があり、地球の裏側のパラグワイまで自分の人生と将来を賭けて移住して来る考えの人でした。

私達が酒の席から始めた話ですが、その様 な方々が賛成してくれた事を考えると、パラグワイは当時国盗りに一番最適で、日本人がその行動を起す最適な場所と、国で有ると感じる人が沢山居たと言う事です、話しを具体化して行くと、昔、サラリーマン的な生活をしていた人はまずダメで、話しの 夢も持っていない、枠に入った人間が多かった感じを受けました。

手応えとして少数、新鋭、事前に準備周到に用意して計画して、表の政治工作と平行しながら裏では爪を磨くと言う両面の活動を維持して、いざと言う時の即応が出来る事を考えていました。  

では次回をお楽しみに!

2014年2月11日火曜日

私の還暦過去帳(485)

パラグワイ国盗り計画(9)

パラグワイを50年前に日本で話しても、どこかと聞かれるのが普通でした。ブラジルを知っている人は沢山いましたが、その隣りの国だと言うと、『それは知りませんでしたーー!』と言う人が大勢いました。
内陸国で海が無いと言うと、魚は食べられる のかと聞く人が多く居ました。日本から見たらそれが普通です、しかし当時、日本から移住していた国は、ブラジル、アルゼンチンパラグワイ、ボリビア、それから中米のドミニカでした。しかし60年の初めにはドミニカ移住も破綻していて、パラグワイ などに再移住して来ていました。

中には日本に帰国した人達もいました。私達が当時の状況を見て、パラグワイを安定した、希望のある移住地にする事と、これからの日本の将来を考えて、日本以外で日本人の民族的発展をさせる事が出来る国は無いか考えた時、 パラグワイでメノニータと言う宗教集団が新天地を作る為に移住して来て、独自の自治と農業集団的な集落を作り、パラグワイ政府から徴兵などを受けない取り決めをして、発展していました。

私達がその方法を土台に、日本人移住地を拡大して政治的な力を 作り、その輪を広げて、いざと言う時の為に、爪を砥ぎその爪を武器と出来る様に考えていました。必ず政治的な運動の推進には反対勢力の抵抗が有るからです、簡単に倒せる事も有ると思っていました。また反対に多くの犠牲も出る可能性も考えていま したが、その様なシナリオは何度も推測して、犠牲を最小限に止める事を考えて、計画を練り上げていました。

メタニーノはドイツ系の集団が多くて、当時のドイツ系2世の大統領が多大に援助して、便宜を図っていた事は広く知られていました。 その様なことで、我々が目指す天下盗りはパラグワイに日系の息が掛った大統領か首相を据える事でした。それからアメとムチでの建設を目指していました。

アメは投資と融資と無償援助で、多くの大学を建設して、日本から留学したら授業料免除で卒業後 三ヵ年仕事をしたら、多額の一時金と日本と同じ卒業資格を与え、パラグワイ永住希望者には土地と資金と5ヵ年先までの生活保障を与えて、安心して開発と事業の推進が出来る様に考えていました。
次回に続く、

2014年2月9日日曜日

私の還暦過去帳(484)


パラグワイ国盗り計画(8)


彼等は語学としてはスペイン語を話して、日本語も日本語 学校に通い、かなりある程度の基礎は出来ていました。その様な若者を移住地で訓練して、日本に現地パラグワイ人と組んで研修に送れば成果が倍増すると思っていました。

実行してその運動に賛成してくれる人間が居なければ何事も動きません。 パラグワイ移住者の子弟と、パラグワイ人の若者を組み合せて日本に研修に送り、教育と実習をもとに、これからのパラグワイの未来を研究させ、自分達で将来の国をいかに動かすかの自覚を付けさせるのが一番重要と感じました。

 これは当時発展して成長している日本を見れば、まだかなり遅れたパラグワイの発展を、もし自分達が参加して新しい国作りをして日本の様に、ダイナミックに変革させる事が出来ると思えば必ず成功すると感じていました。当時アメリカなどが中南米など で裏工作して政権を動かしていた事は、かなりの政治腐敗と貧困が付いていました。

その様な事が無い、下から組上げて行く変革です。まだ当時のパラグワイの文盲率はかなり有り、徴兵制度で新兵として来た若者を軍隊で読み書きを指導していた時代です。 お隣りのアルゼンチンでも読み書きに支障がある新兵は22%ぐが居て、その中の17%ぐらいは完全に再教育が必要と、当時の新聞に出ていました。

その様な時代です、無から染め上げて行く事はもっと効果が有り、その熱烈な支持者とすることが出来る と感じていました。中国の社会主義の誕生を見ても若い成年男女が、農村や辺地での思想改造運動を起して成功させています。我々は日本に手紙を送りその事を打診しました。答えは我々が期待する良い返事でした。

農民塾と言う感じの、これからの若者 を訓練する施設でした。そこでは機械の整備から修理まで農業に関する基礎と、これからの機械耕作を教え、新しい国造りを目指すクラスでした。 
ではまた、次回をお楽しみに!

2014年2月8日土曜日

私の還暦過去帳(483)



パラグワイ国盗り計画(7)

パラグワイで、日本政府の移住政策は長期的な展望が欠けていたと指摘されていましたが、その事は直ぐに生産物の販路の閉塞として移住地に帰って来ていました。農家では生産物だ売れない事には、生活の設計が作れません。

まずラ.コルメナと言う首都 アスンシヨンに近い最初の移住地では綿花、大豆などが栽培されましたが、内陸国の悲しさ運送費が掛り採算が厳しい情勢でした。戦後移住地と開かれた所では、ツングー(油桐の実)を栽培して短期作物に大豆や、トウモロコシなどを栽培していました。 一部、ブラジル国境の移住地ではコーヒーなどの栽培もしていました。

アマンバイ農協と言われていましたが、原始林の伐採後はハッカの草を植えて、収穫してエキスを取り一時はかなりの栽培でしたがそれも直ぐに下火となり、桐の植林なども行なわれて 色々な作物を模索して、首都で需要がある養鶏の卵が注目されて居ました。しかしこれと言った決定打が有りませんでした。このままでは移住者が生活苦で移住地を放棄して、隣国のブラジルや、アルゼンチンに再移住して行く、事例が増えていました。

私達はその先例で当時アルゼンチンに来ていました。的確な将来を模索する内に、国盗りが具体化して、日本政府の政策としてはその様な事は不可能ですから、個人の集団が模索の中から最上の将来の方針を掴んだと感じました。

その当時かなりの数の若者が仕事を求めて移住地などで頑張って居ましたが、移住者の子供も毎年かなりの数が育って移住地ではその求職を埋めることは不可能で、まずそこから考えて行きました。
次回に続く、

2014年2月7日金曜日

私の還暦過去帳(482)



パラグワイ国盗り計画(6)

日本の国家百年の先を見て時代を読める政治家などは居ないと感じていましたが、私がふと思いついた人は、戦時中は中国の上海を中心にOO機関として 特務工作、対中国戦略の分析、戦略物資の獲得、満州国での産業育成の為の政界と財界工作を表舞台から隠れた所で遂行し、ドンと言われていました。

戦後は政治の世界でも昔の繋がりを持って深く関り、財界の中でも広い人脈を維持して、特に任侠 の義理と兄弟分として杯を交わした親分衆を把ねて居た人物と知っていました。その様な人物であれば、パラグワイ国盗りなどの話しを、真面目に聞いてくれると感じました。一説では旧軍の隠匿資産をかなり隠して、持っていると噂されていた人です。

それと当時の社会でドンが口を挿んで仲介して、それに逆らうと杯を交わした親分が『先生の為なら、この命は惜しくは無い!』と交渉相手に凄みを効かして、上手く揉め事も収める力量が有る人物でした。まずその様な人物が納得して力貸してくれるのであ れば、財界などからの裏金的な寄付も受ける事が出来て、政治家の協力も得られると思っていました。

当時の金額にして100億ぐらいの資金でした。実質的にはその半分の予算があれば実行が可能ではないかと思っていました。後の半分は予備の資金として 国盗りが成功した後の活動資金と一部は軍資金と思っていました。

私達が資金の一番の協力者と感じていた人物の名前は、ここでは書く事は控えます、時代の中で歴史を刻んだ人ですから、過去に消え去った事ですが、この文を読んで人物を想定して下さい。 
ではまた、次回をお楽しみに!


2014年2月6日木曜日

私の還暦過去帳(481)



パラグワイ国盗り計画(5)

パラグワイでの移住地を考える時、当時停滞がすでに始まった移住地の経済を考えると、もし、私達が考えて、立案した国盗り計画を推進したら、一石2鳥の利点が有ると感じました。 戦前の満州国の建設当時、日本人の入植を計る為に東北地方などから多くの、次男三男などの土地を持てない人を集団で移住させ、ロシアとの国境線付近に移住地を展開させて、国防の役目も持たせていました。

しかし当時の軍部は満州の現地住民の土地を ただ同然で取り上げて土地から追い出して、入植地を作ったのでしたが、この様なやり方では成功するはずが無く、終戦時に多くの日本人入植者達が襲われて、悲劇が起きた事が証明しています。当時のパラグワイには沢山の満州からの引上げ者が再び 移住して来た人達が居ました。

詳しく話しを聞く事が出来まして国盗りの本質とは何かーー!と言う根本を感じていました。それはパラグワイ国民を主体に協力と協和を基本に移住地を開き、国民生活の向上を図り、生活基盤の安定とその持続が有れ ば必ず、パラグワイ人と日本人が力合わせて政権を取れると思いました。

まず若い優秀なパラグワイ人を日本に送り、農業や工業の原点を教えて、日本的な技術を収得させ、教育を通じて洗脳的な新しい政治の運営を学ぶ事をさせれば、一番の協力者となると 感じていました。その様な人をリーダーとして、中核として日本人入植地を基地にして、現地で軽工業の建設と農地の大規模開発を合わせて進めれば、多くの現地人の就職も作る事が出来て、基本的な運動となると感じていました。

パラグワイでの国盗りを企画する時、肝心な資金をどうするかが一番の悩みでした。この様な企画をしている、素っ頓狂の若者を当時の政治家や資本家などが資金を出してくれる事は100%無いと思っていました。政治家などは自分の選挙区に予算の分捕 りは汚い手を使っても、人気を維持する為にはあらゆる工作をして、分捕って来ている様でした。

2014年2月5日水曜日

私の還暦過去帳(480)


パラグワイ国盗り計画(4)


これがだいたいの粗筋で、これから検討を重ねてプランを練り直し、現実に即応して行動出来る態勢は何かと考えて行きました。 1960年代のパラグワイは貧困の差が激しくて、一部の地主と高級官僚、首都や都市部で事業をしている中産階級の上部がビジネスを独占して、それに当てはまらない階級の差が大きくて貧困レベルにいる多くのパラグワイ人は隣国のアルゼンチンや、ブラジルに出稼ぎに出ていました。

 アルゼンチンのブエノスの首都の工事現場などで働く労働者の一部はパラグワイからの出稼ぎが多くを占めていました。1960年代のキューバの革命いらい、多くの社会主義者の活動が起きて、ボリビアなどはすでに、ゲバラの革命主義者の活動がすでに起きていました。 カストロ政権の目標とする社会主義は、かなり難しくて、ボリビアやパラグワイなどでは、ほんの一部の人間が賛成して耳を貸すぐらいで、革命的社会主義など、否定的な考えの人が多数を占めていました。

それは貧しくても食べる事に困るほどの貧困ではなかったからでした。 キューバの様に砂糖きび産業とアメリカ相手の歓楽観光の大きな2つの産業しか無かった時代、どこかで革命的社会主義が受け入れられた余地があったと思います、パラグワイでの政権交替を考える時、まったく新しい底辺から積み上げて行く、生活改善 と向上がもたらす、社会の裕福な環境を目指せば必ず、広い土地と豊かな肥えた大地で、将来の基盤が出来上がり、新しい政権を支持して、賛同する人々がパラグワイ人の中から多数出てくると感じました。

当時日本が東京オリンピックを開催して、国の 躍進を計り、成功して、国民総資産が倍増して、道路、公共設備鉄道整備、湾口整備などの多くの事業が動いて、日本と言う国が躍進して、向上し、改善され、新しい国に生まれ変わって行きました。当時私達が議論して、目標としたのは、その当時日本が 取った政策でした。そのような政策活動で一つの国が日本と言う国と連携して動く様になれば多きな収穫と感じました。

アルベルト、フジモリ前大統領が、ペルーの国を改善して、向上した事は多くの実績が功績となって一国を動かした事を見れば分ります、実現可能な事などですーー! 
ではまた、次回をお楽しみに!

2014年2月4日火曜日

私の還暦過去帳(479)


パラグワイ国盗り計画(3)

まず1960年代の世界の動きを見ていると、社会主義国家と資本主義国家で民主主義を押し進める国とが分裂、抗争していました。特にアメリカは世界の警察として、あらゆる世界の国々に影響を与え、政治力と経済力を合わせて、そこに世界最大 の軍事力をバックに、ドルと言う貨幣が通用して、その総合の力があらゆる国の政治、経済の中に浸透して、動いていました。

一国を動かして政権を握る事は、 自由な選挙での政権把握。独裁に近い中での選挙で対立候補を迫害、抹殺して政権獲得。軍事クデターでの現政権を倒し、政権の座に居るものを抹殺又は追放、幽閉して、政権を獲得。 まず、このどれかに相当しますが、私達が考えて計画したのは世界の政治社会から、まあー!受け入れられる政権交替でした。

それにはジックリと下準備をして、底辺のパラグワイ社会でこれからの新しい国としたいと考える人々を動かして、それに反対し その様なな動きを止め様としたり、軍事力で制圧しようとする時だけ、対抗の為に軍事力の使用をその様な人々を訓練して行ない、新しい国作りの原動力と考えていました。

その為の工作員と、軍事顧問的な日本人移住者をパラグワイに送る為に日本で訓練して、あらゆる事態に即応出来る優秀な人材を少数集めて草の根的な活動を起して、連絡通信網を築き、 移住地を拠点に底辺の活動拠点を確保して、パラグワイ各地に分散して、移住地の拠点を広げ、放送設備を確保してラジオとTVでパラグワイ国民に宣伝、啓蒙放送出来る体制を作り、 日本政府の後押しでパラグワイ新政権を樹立させる事を狙っていました。

2014年2月2日日曜日

私の還暦過去帳(478)



パラグワイ国盗り計画(2)


パラグワイに行くと、何せ広い事が分ります、点と線の僅かな町と道路が繋がった国です。そこの首都アスンシヨンから1時間半ぐらい車で走った所に、ラ・コルメナと言う移住地を開いたのが初めてでした。そこは第二次大戦で後続の移住者も途切れて 過酷な経済的な困窮で、脱落して今では僅かな日本人が住んで居ますが、そこで育った2世がかなりパラグワイ社会に入っていきました。

中には隣国のアルゼンチンで教育を受けて戦後の日系社会のリーダーとなった人もいます、パラグワイはガラニー族 の原住民とスペイン人の侵略者との混血が大多数を占めていますが、ヨーロッパからの移住者もかなり住んで居ます、ガラニ-族は混血していない純粋なインジオはアジア人の象徴である、蒙古斑点が幼児の時にお尻に有ると言われています。

言葉も日本語に 近い単語が有りまして、私が『雨が降り出したーー!雨雨!』と言ったら、インジオが『あまーー!あまーー!』と言っていたので聞いたら、雨の事でした。同じ様な感じの発音で、驚いた事が有ります。そんな事で、バス停で立ち話をしていたら、驚いた 事にインジオの言葉のガラニー語で話し掛けられた事が有ります、『お前はどこから来た種族かとーー!』そんな経験も有りますのでパラグワイは昔、昔にアジアの国から流れて行った民族が創った国でないかと感じます。

そんな感じで仲間が話していく内に、 誰かがここを日本人に第二の郷にしたらと言う話を切り出しました。『そだ、そだーー!』と酔った勢いで話しが進み始め、まず地図と図面を用意して来ました。かなり詳しいパラグワイの政治と軍隊の構造を記した本も買ってきて、まずその勉強会から 手始めに始め、だんだんと面白くなって来ました。そんな事で調べると興味から、実行計画にまで立案してみたら、と言う事になり、夜になると集まって話をして、検討したプランを組み立て、壊して、ますます面白くなって来ました。

 パラグワイは余り知られていませんが世界で一番物価が安い都市です、アスンシオンの首都は昨年に続いて、今年も世界で一番物価の安い、住みやすい所と認められています、そんな国ですが、50年前はもっとのんびりとした雰囲気が有り、日本からの移住者 が当時の世界情勢を見て、激動する国際社会の力関係を移住した国と照らし合わせて、余りの隙の有る内陸国の政治とその社会を肌で感じて、一つ国盗りの計画を立ててみたらと言う気持ちになつたと感じます。

内陸国ですから、海軍などは有りませんので、 当時のパラグワイの軍備は戦車が第二次大戦で使用された旧式なアメリカの余剰軍備品のタンクを僅かに所持していたぐらいで、軍の歩兵が使用していたライフルもこれまた第二次大戦の払い下げ品でした。当時、自衛隊も同じ装備でしたので、訓練を受けた 自衛隊出身の移住者がそれを見て、だいたいのパラグワイ軍の火力の推定をしていました。
答えは『自衛隊と比較にならないほど小規模なパラグワイ軍の火力だーー!』と答えを出していました。その当時、旧日本軍の実戦経験の有る、有能な下士官が沢山就職 して、自衛隊の中核を作っていたからでした。立案した原案を彼が見せてくれ、議論が始まりました。だんだんと興味と関心が湧いてきて、毎夜遅くまで話していました。 
ではまた、次回をお楽しみに!