2014年2月8日土曜日

私の還暦過去帳(483)



パラグワイ国盗り計画(7)

パラグワイで、日本政府の移住政策は長期的な展望が欠けていたと指摘されていましたが、その事は直ぐに生産物の販路の閉塞として移住地に帰って来ていました。農家では生産物だ売れない事には、生活の設計が作れません。

まずラ.コルメナと言う首都 アスンシヨンに近い最初の移住地では綿花、大豆などが栽培されましたが、内陸国の悲しさ運送費が掛り採算が厳しい情勢でした。戦後移住地と開かれた所では、ツングー(油桐の実)を栽培して短期作物に大豆や、トウモロコシなどを栽培していました。 一部、ブラジル国境の移住地ではコーヒーなどの栽培もしていました。

アマンバイ農協と言われていましたが、原始林の伐採後はハッカの草を植えて、収穫してエキスを取り一時はかなりの栽培でしたがそれも直ぐに下火となり、桐の植林なども行なわれて 色々な作物を模索して、首都で需要がある養鶏の卵が注目されて居ました。しかしこれと言った決定打が有りませんでした。このままでは移住者が生活苦で移住地を放棄して、隣国のブラジルや、アルゼンチンに再移住して行く、事例が増えていました。

私達はその先例で当時アルゼンチンに来ていました。的確な将来を模索する内に、国盗りが具体化して、日本政府の政策としてはその様な事は不可能ですから、個人の集団が模索の中から最上の将来の方針を掴んだと感じました。

その当時かなりの数の若者が仕事を求めて移住地などで頑張って居ましたが、移住者の子供も毎年かなりの数が育って移住地ではその求職を埋めることは不可能で、まずそこから考えて行きました。
次回に続く、

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