2014年1月30日木曜日

私の還暦過去帳(477)


パラグワイ国盗り計画(1)

パラグワイは戦前の1936年ごろから日本人移住の企画がなされ、第二次大戦が始まる前までに、かなりの人数が移住して行きました。しかし移住地での生産物販売が上手く機能しなくて多くの人が隣国に再移住して行きました。戦後また移住が再開 されたがその1950年終り頃から1960年の始めにかけて移住してきた移民も戦前と同じく、多くの人がブラジルやアルゼンチンなどに再移住して行きました。

私がその中でアルゼンチンに再移住して来ていた自衛隊出身の移住者と仲良くなり、ブエノス 近郊で野菜栽培を少しの間していました。昔の田舎の電気も無い農家でしたので、夜は酒でも飲みながら四方山話をしていました時に、誰と無くパラグワイは長閑な田舎の国だーー!と言って自衛隊出身者の山本氏が精鋭2000名もあれば首都スンシヨン を攻略出来ると切り出しました。

彼は6年近くパラグワイに住んでいましたので、各地を歩いて見ていました。その当時パラグワイはアメリカからの第二次大戦余剰武器の中古武器での装備で、訓練も貧弱なものでした。国境警備などの兵隊が所持して居たのは 旧式なボルト・アクションのライフルでしたので、殆ど戦闘能力は限られた地域を守るのが精一杯と思われ、誰が見ても感じ、そう思っていました。

そこから計画が生まれて来ました。パラグワイ国盗りを立案してみようとーー! パラグワイの人口は日本から比べたら、比較になら無いような少なさです、1871年には戦争で僅か22万人まで減少して、そこからまた人口が増えて行きましたが、広い日本と同じ面積に匹敵する大きな大地に、僅かばかりの人が住んでいたのです。
1863年   525,000
1871年   221,000
1900年   490,000
1936年   931,000
1940年  1,014,800
1942年  1,071,700
1871年に人口は大きく減少しているが、1871年は、パラグアイが ブラジル、ウルグアイ、アルゼンチンの3国同盟を相手に戦った(パラグアイ戦争三国同盟戦争)が終わった翌年で、この221,000人の内訳は女性が106,254人、86,079人が子供男性はわずか28,746人だったといいます。 私がパラグワイに移住した時はまだ沢山の移民がヨーロッパやアジアの日本や韓国、それからパラグワは南米でも数少ない台湾を承認している国で、かなりの台湾の移住者が来ていました。

 しかし数はたかが知れた人数で、ブラジルなどとは比較が出来ません、政府も一党独裁で一人のドイツ系2世の大統領が長い間、パラグワイの国土を押えていました。政治も停滞して眠る様な感じだと聞いた事が有ります、そこに移住してきた日本人が 先ほどの第二次大戦の戦争の経験が有る人から見れば、乗っ取りを考える事は、笑い話ではない真剣さが含まれていたと感じます。

当時、日本はまだ高度成長期に入る前でした。冷戦の狭間で日本の将来も不安が沢山あり、戦後海外から引き上げてきた日本人 が沢山、農村や都会に溢れて住んでいた時代でした。アメリカが沢山の政治干渉をして、経済的にもパワー溢れる政策で世界戦略の構図を動かしていた時代す。

その頃の日本人が憧れていた世界の構図でした。なぜか引かれる事があつたと思います。 ではまた、次回をお楽しみに!

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