2014年1月18日土曜日

私の還暦過去帳(472)


秋の日の思い出、

10月に入り、日々夜明けが遅くなり、日が暮れるのも早くなります。
北半球と南半球の差は体感した人でないと、中々実感として感じることは
無理だと思います。

東京から飛行機で直接、南米のブエノスアイレスに7月頃に行くと、その
差が否応無く飛行機を出て市内に入れば、感じさせられます。
それはアメリカのサンフランシスコやロサンゼルスからでも同じです。

7月は北半球は夏ですが、ブエノスは真冬ですから、朝晩はかなり冷えて
郊外に出ると霜も降りている時があります。
この季節が正反対になることを、うっかり忘れて日本から来た人が、飛び上
がって寒さに驚き、トランクから出した下着を重ねて着て、背広姿でなんと

か出張ビジネスを勤めて居たようです。それも日頃はアメリカやメキシコに
出張ばかりで、メキシコから急にブエノスアイレスに行ってくれないかと言
う事の様でしたが、それにしても夏の薄い背広だけでは大変だった様です。

大陸性気候は寒暖の差がありますので、朝は冬、10時ごろは春、午後2時
は初夏、5時過ぎると秋で日が暮れると冬になると言うサイクルがあります。
私の友人も一度ブエノスに着いたばかりの時、夜になり震え上がって、友人
から長袖シャツを借りて帰っていました。

アルゼンチン北部に行くと、もっと寒暖の差が酷く、日中は意外と灼熱の太陽
が出て、夜は凍る様な寒さで、毛布の様な厚手のポンチョウをすっぽりと被っ
て居る姿を見ます。ブエノスの郊外でも同じ様に秋が深くなると、放牧されて
いた牛達が集められ、出荷されるので国道沿いの牛の肥育囲いに移動して
いました。

牛追いのガウチョが朝の寒気の中で、ポンチョウを被り、ウマの背にうずくま
る様にして、白い息を吐きながら牛の群れを追っていく姿を今でも思い出し
ます。牛の群れがゆっくりと動き、牧童が片手にマテ茶のボンベを持って、鞍
の横に小さな魔法瓶を提げて馬で歩いていました。

のどかで、どことなくアルゼンチンの田舎の感じがしていましたが、牛が吐く
息が白く散り、朝露に濡れた道端の草が、移動する牛達に食べられていま
した。

昔は鉄道駅の近くの牛の囲いに運ばれて、そこから家畜用の貨車に詰め込
まれて居たのでしたが、今では国道沿いの家畜の集荷場に運ばれて、そこで
家畜運搬のトラックに積み込まれていました。

囲いの近くには小さな事務所があり、そこの隣りでは朝からハムや肉が焼か
れ、湯気の立つ煮立った薬缶が焚き火に吊るされ、熱いマテ茶やコーヒーが
飲める様にされていました。
焼き立てのパンが釜から出され、チーズとバターが用意されて、ミルクコーヒ
ー用のミルクも温められていました。私にも手招きして食べる様に勧められ、
コーヒーに暖かくなったミルクをたっぷりと入れて、パンをそれに浸して食べ
ていました。

知人がこの牛達はラプラタまで送られ、そこで輸出用の冷凍肉にされてしま
うと言う話をしていました。春から夏にしっかりと食べて太った牛達が、秋の
陽気になると囲いに集められ、収穫したトウモロコシなどの飼料を与えられ、
さらに肥育されて出荷されると話していましたが、『天高く牛肥える秋』という
感じがしていました。

秋の遅くは蔬菜栽培も一段落して、時々友人に誘われて見に行きましたが、
牧場主達はこれで一年の収穫をするのと同じですから真剣な様子でした。
中には小さな牧場主は家畜仲買と現金で取引して、その現金を家に持ち帰
り隠していたのを襲われたと言う事を昔、聞いた事があります。

牧場を襲って、そこの主人に反撃され、家の周りに放し飼いされている犬達
がいて、とてもその住宅まで近ずく事も無理な様でした。
しかし、町の街中に住む牧場主の自宅が襲われ、3人ばかりの強盗に帰宅
した時を狙われて有金を持って行かれたという話しを聞いたことがあります。

昔のアルゼンチンはインフレが激しく、ドルに替えて銀行ではなく自宅か貸金
庫に入れていた人が沢山居ました。金貨に替えていた人も沢山いました。
牧場と小麦やトウモロコシ栽培地帯の町でしたが、秋の収穫時期には、どこ
と無く金にまつわる話が沢山ありました。

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