2014年1月1日水曜日

私の還暦過去帳(465)

去り行く者への哀歌


私もこの歳まで生きて来て、色々な方々と出会いまた別れて行きました。
私の中学生時代はかれこれ60年も前です。

その当時は平均寿命も短く、当時は石炭産業の三井三池炭鉱が存在して
朝鮮動乱の特需景気で戦後の荒廃から脱却して行く時代の様子が見られ
ました。
当時の郷里の大牟田市の炭鉱労務者の平均は52歳で定年退職で、職員
は55歳でした。それから特殊な技術資格などがある方は。嘱託として
60歳まで働くことが出来た時代でした。

当時の食生活はまだまだ豊かとは言えない状況で、我々が豊富に食べら
れる肉は鯨肉でした。盆暮れに牛肉や豚肉などがご馳走で出た記憶があ
り ますが、普通は鶏肉をカシワ屋とか言って、九州の田舎町でも小さな店
が ありました。
自転車の後に籠を載せて、田舎の鶏を飼っている農家から卵を産まなく
なった鶏を廃鳥などと言って、それを肉にしていた様な時代
で、肉鳥などではなかったので硬い肉でした。

そんな時代の食生活では当時やっと普及始めた冷蔵庫が珍しい時で、ま
だ まだ塩辛い塩鮭や佃煮、漬物などは重要な食べ物でした。

私の子供時代は朝は麦飯に味噌汁、それに白菜の漬物などがあれば十分
で、 それに生卵が付いていれば嬉しい朝食でした。

そんな食生活を戦前戦後と続けて来た田舎の人達の平均寿命は今とは比
べ ものにならないほど短いものでした。

60歳を過ぎると、田舎では戦後の食料難の時代を生きて来た年寄り達が
多くの人が65歳あたりには何か障害を持って、脳溢血や狭心症などの症
状で苦しんで、また障害を持って半身不随などの人を見ました。

その当時の医療と言ってもやっとペニシリンが出て来て、普通の治療に使
われ始めた頃です、高価で貴重なものでした。その頃は盲腸手術でも夏な
などは化膿するのが怖くていた時代です。

その当時はまだまだ民間治療と言われる、漢方薬、針灸、新興宗教の様な
怪しげな所で断食とか、癌になっても患部に祈祷の護摩を焚いた火で暖め
た石を置いて、患部の治療とか言っていたのを見たことがあります。

またその様に神にすがり、神を信じて、神から与えられた命を生きるので
あるから、それで人生が終っても何も疑わない、疑問も持たないで、粛々と
亡くなられて行くような人々がいた時代です。

我慢強く、忍耐と自己の精神力の心で患部の痛みも、神社の聖水と言われ
る 水を飲み、口ではお経を唱えて我慢して、最後の最後に医者を呼んで、
モル ヒネの注射などを受けて、ガーゼに浸した水を口にして、家族に見守
られて 旅行く人が多かった昔の時代です。

しかし、現代でも自己過信と妄信の様な信じ込みを持って特定の病院、医
者、 治療薬しか使わず、また、漢方薬と漢方医を信じて手術なども拒否し
て、苦 しみ、痩せ衰え、家族や周りに多大の迷惑を与えて亡くなる方もい
ます。
全てがその人の選択と希望ですから、何も他人がとやかく言うことは出来
ませ んが、それも本人の人生だと言っていた方が居ました。

私もこれまでの人生で3回ほどすい臓癌の方に会いましたが、どの様な症
状で、 顔色、会った時の印象などから、これは以前に見た時と同じだと瞬間
感じて、 もしかして体調不良とか言う原因が、すい臓癌ではないかと感じて、

是非と も直ぐに医者の診察を勧めたのですが、聞き入れて下さらず、それ
から暫くし、 夜中に激痛に襲われ救急車で入院したのですが、その時には
手遅れで医者が 手術をするともっと早く亡くなるという忠告で、手術もしなく、
自宅で3ヶ月 目に亡くなられました。

今でもその方と最後に会った時を思い出します。顔色が悪く、黄疸のような
症状で肌に艶も無く、片方の頬にニキビの大きな様な感じの物がポツーン
と 出来ていました。

その方と別れに交わした言葉は、『忠告有難う、しかし忙しいので頼まれた
会計事務を済ませてからに致します』と言っていた言葉を思い出します。

人はそれぞれに神から与えられた人生の運命の時を刻むと言います。
時代は代われど人の運命は、はかない夢の様だと感じることがあります。

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