2013年12月20日金曜日

私の還暦過去帳(459)


私が感じて言いたい事、

パラグアイは1811年に独立し、最初に政権を握ったドクトル・フランシアは
パラグアイ最初の法律を作る上で、1825年、土地の所有権利書の提出を
命じた。そして、それから3ヵ月以内に提出されなかった土地はすべて国
有地になる規定を制定した。

これにより1826年、パラグアイ東部地方の約半分とチャコ地方のすべての
土地が国有地となった。パラグワイの先住民族の14部族近くはチャコ地方
に住んでいますが、そこは夏は灼熱の太陽に焼かれて、気温は50度にも
上がる地域です。
雨量も年間500mmも無い様な降雨量で砂漠状の乾燥した地域ですが、
そこを5万ヘクタールも購入して2006年頃牧場を開く為に、森林潅木を焼
き払い、5000へクタールほども開拓して日系人が牧畜を始めたと言う事
ですが、それだけの大きさの土地でしたら、かなり地域的な環境破壊と、
気候変動にも影響したと思います。

チャコ地方をブッシュ前アメリカ大統領の家族も、ここに石油資源の可能性
を考えて大量の土地を購入したことが記録に残っていますが、あまり知られ
ていない事ですが、先住民族の土地はなんと・・、7千へクタール程度が一
つの先住民族の村で、多くの家族が住んでいるので大して広い土地とは言
えません。
日本人はその隣の村と同じ面積の土地を焼き払ったのです。ビジネスとは
言え、自然環境に配慮は無かったと記録にあります。政治力が無い先住民
族は、対抗する事は非常に小さな力です。

私も知る50年近く前の日本人移住地と言えば原始林の鬱蒼たるジャング
ルでした。それが今ではエンカルナシオンからイグワス移住地までの間にそ
の様なジャングルなど何処にもありません。
10%は保存林として残す様な規則など何処も守られてはいません。営農で
の自然破壊の一環だと思います。
今のように大豆やトウモロコシの値段が国際価格で高値なら致し方ないと
感じる時もありますが、この地球は子供達に残すもの、自然はその子供達
の生活の基礎として残すものと思います。

勿論の事にパラグワイの先住民族の多くの種族にも辺地での生きる権利
があります。パラグワイ東部の様に豊かな雨量の多い、肥えた土地ではあ
りませんので、チャコ地方は、古代は海底だった事もあり、塩分が多く営農
で作物を栽培する事は無理な土地ですから、少しの環境変化、気候変化
で大きなダメージと生活の採取食糧を先住民は失う事になるのです。

アメリカ合衆国も、インデアンの貴重な食料のバッファローは、白人の殖民
者達が来る前は、推定で2千万頭以上が広大な原野に生息していたので
すが、1890年台には数えるほどに激減しています。
それはバッファロー毛皮1頭が1ドルの値段で売れたからでした。骨は肥料
に砕かれすべてが自然破壊尽くされて行きました。

パラグワイでもアメリカの歴史の汚点、アメリカ・インデアンの虐殺、自然破
壊、環境破壊などの歴史を考えて、これからのパラグワイ農業や経済の基
礎を考えて貰いたいと思います。

またパラグワイに住んで居られる方々には、その様な事に対峙したときに
は、自然を守り、環境を破壊しないように考え、また先住民族達が生きる、
生き残れる様に行動して貰いたいと思います。

昔の移住者の中には、『あんな土人達は』、とか卑下していた事は歴史も知
らず、無知で言ったと感じますが、私はアルゼンチンのサルタ州の農場で、
トバ族、マタコ族、二バクレ族(一部リオ・ベルメッホ流域ではチャワンコ族)
などを雇用致しましたが、彼等の知恵と生活力には学ぶ事が沢山ありまし
た。
一部は蒙古斑点を持つアジア系民族です。チャワンコ族にはいつも日本の
友達や日本人女性かと思うくらい似ていたので、今でも印象が深く残ってい
ます。
今でも続く私の裏庭農業は有機栽培で、すべてが輪転再生の土地つくりか
らしています。ナス科作物ですが22年も連作しても、毎年立派なトマトなど
の蔬菜を作っています。

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