2013年12月10日火曜日

私の還暦過去帳(454)


アメリカで見聞きした歴史的ストーリー

私もアメリカに来て38年にもなります。
その間に色々な方々に出会い、話しを聞き、見て来ました。

私が管理していたコンドの集合住宅に住んでいた人ですが、ご主人が第2次
大戦中に中国でアメリカ義勇軍のフライング・タイガーの操縦士だった方です。
皮の飛行服の背中に、撃墜されたときの用意に救助の明文が書き込まれて
いました。

『この操縦士を救助して中国軍に引き渡したら多額の報奨金を払う』と書き込
んでありました。その飛行服を胸に抱いて、皆、私を置いて遠くに飛んで行っ
たと嘆いていました。
最初のご主人を亡くすと、同僚と再婚したのですがベトナム戦争で撃墜され
て、戦死してしまったと話していました。

あるときアパートの管理で会った方ですが、ロシア革命で満州に逃げ、そこ
から日本に来て戦時中は日本に居たと話していました。戦後日本に駐留し
ていた米兵と結婚してサンフランシスコに来た方でした。ロシア語、日本語、
英語も堪能でしたが、その事がその方の人生の歴史を知ると感じたことが
あります。

ある方の話ですが、93歳の元アメリカ陸軍軍人と会った所が、その方が
日本軍の真珠湾攻撃の時に、3人の部下と海岸の警備をしていたら、海岸
に日本軍の特殊潜航艇が打ち上げられていたのを発見して、中からハッチ
を開けて日本兵が出て来て海岸から山に逃げようとする所を取り押さえた
ら、部下の兵士が取り囲みリンチを加え様としたので、それを制止して連行
して、上官に引き渡したと言うことです。

ハッチの中には戦死した日本兵が一人居たので、海岸近くに埋葬したと話
していたと言うことです。その方は日本人の捕虜第一号を捕らえた方だった
のです。
ハワイの真珠湾基地の波止場に行くと、戦死第一号となった方の記念碑
があります。 今でも多くの日本人観光客が訪れ、冥福を祈る姿を見る事が
出来ますが、私が50周年・真珠湾攻撃記念日の二ユースを見ていた時で
した。
撃墜されて戦死した操縦士の日本人婚約者が、花輪を抱いて訪れていた
姿を見た事があります。その姿を見た瞬間、私もキユーンと心が締め付け
られるような気分になりました。
婚約者はどんな心でその現場を訪れたか、察するに余る心を感じました。

私が住んでいた近くに硫黄島攻略の最激戦地のすり鉢山の麓に第一派
強襲攻撃海兵隊員として、上陸舟艇で砂浜に接岸して海岸に伏せると同
時に、狙撃されて鉄兜がべコリと凹むほどの衝撃で失神して、引き返す舟
艇に引きずり込まれて沖の病院船に収容されたが、仲間の苦戦の連絡

で第2波攻撃に参加して砂浜から100mばかり内陸でブロウニング自動
ライフルの射手として味方の援護射撃をして、弾倉を交換して立ち上が
った瞬間を狙撃されたが、病院船に再度担ぎ込まれ、腹部重症ながら生
き長らえて帰還したと話していました。

私が管理していた集合住宅のコンドに住んでいた方でしたが、フイリッピン
のマニラ市街戦の激しいドアからドアの接近戦の白兵戦で倒した、日本
兵が所持して居た日章旗をさりげなく私に手渡して、家族に返してあげら
れないかと聞いてきました。
私は日章旗に書き込まれた名前と会社の名前を頼りに、日本に新聞社
を通じて送り返し、家族の手元に届けた事があります。

ずいぶん昔です、真珠湾攻撃記念日に役所に友人が申請書類を持って
行くと、片腕が無い人が、今日は何の日か知っているか?と聞かれ、
はて・・・、と考えていたら、日本軍の真珠湾攻撃記念日だと教えてくれ、
その時の攻撃でこの腕を無くしたと言われて、びっくりしたと話していまし
た。
こんなアメリカに住んでいて、全ての話を集めたら1冊の本が出来ると感
じる事があります。
今日はこのくらいで終わります。

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