2013年11月16日土曜日

私の還暦過去帳(446)

私の隠れた生い立ちの秘密・・、

私は昨日、2012年のアカデミー賞授与式の様子を見ていました。
華やかな映画界のトップを飾る授賞式の様子は何かジーンと来るものが
あります。

それと言うのも・・、
私には隠れた物語を秘めているのです。私が郷里、福岡の大牟田市から
高校を出て18歳と3ヶ月で東京に勉学に上京して出て来ました。

今では郷里の家も無く、帰る実家もありませんが、父も23年前に亡くなり、
母も小倉の老人ホームで余生を送っています。
これまでに2ヶ月も帰郷することはありませんでした。

当時の大牟田市にある、三井三池炭鉱の大争議が始まっていましたので、
父がそこの職員をしていたので、ストの影響で家計は苦しく東京では自活し
て行かなければなりませんでした。
最初はアルバイトで勉学する勤労学生でした。しかし東京の物価高は直ぐ
にその様な両立は難しいと悟り、何か住み込み書生の仕事を探していま
した。
学校の学生課である日、書生の仕事が来ていました。
夜は必ず留守番で居る事と、3匹の犬の散歩、庭の手入れが週末の仕事
でした。
そこの邸宅は成城の外れで、まだその当時、田舎の田んぼが残っている
武蔵野の面影がある所でした。
多摩丘陵の続きが残る丘には当時は、国際家畜と言う養鶏農場があり、
練馬大根の畑が見事でした。

砧ゴルフ場がまだその当時はあり、塀の外から力道山達がプレーするの
を見る事が出来ました。近くには東映のスタジオがあり、当時の大スター、
三船敏郎俳優がイギリス製のスポーツカーで通って来るのを見ていました。

私が書生で入った所の邸宅は、その当時の有名な映画監督、井上梅次
先生で石原裕次郎氏を売り出した映画などで名を売っていました。

先生が売り出した俳優だけでも、石原裕次郎、赤城敬一郎、宍戸錠、仲代
達也、小林明などでしたが、おかげで田舎かっぺが、華やかな映画界を覗
く事が出来ました。
奥様は当時は凄い売れっ子の、月丘夢路という女優さんでした。

私の仕事は3匹の犬の散歩、庭の手入れ、時には買い物に自転車で行
く事もありましたが、夜は必ず用心棒の代わりで書生部屋に居ることが義
務でした。 おかげで書庫にある膨大な蔵書を読むことが出来て、人生の大
きな糧となりました。

書生になってからは衣食住は不自由しなくなり、少し学生生活の余裕も出
て来ました。沢山の映画脚本が蔵書としてありましたので、絵コンテ付きで
見て、読む事が出来ましたので、テレビで古い映画など見ると、よく台詞が
分かり、映画がもっと楽しいものになりました。
映画の試写会などの招待券を良く貰いましたので、封切り前の洋画なども
沢山観る事ができました。
朝は農大に自転車で出かけていましたが、30分程度、田舎の武蔵野の
農道を走って行くのは楽しいものでした。

まだ50年前のその当時は東京オリンピック前で、何処でも工事が行われ、
凄い勢いで東京が変化していた時代です。まだ世田谷通りは未舗装の道路
でした。
夏休みの半分は先生の映画撮影の助手で、水筒、イス、脚本などを持って
後を付いて歩いていました。
おかげでその当時の日本一の大女優、山本富士子の俳優さんにも目の前
で見る事が出来、華やかな映画界の中を金魚のうんこの様にして先生の後
を付いて歩いていました。
おかげで当時の有名は俳優さん達には、大勢の人と会うことが出来ました。

後の半分の夏休みは無銭旅行で、日本中を礼文島のまだ先、トド島まで、
知床半島の突端、鷲岬まで、全国の岬周りが趣味でしたので、潮岬、足摺
岬、能登半島の狼煙岬など鹿児島の突端まで、何処でもリックを背中に歩
いていました。

当時の沖縄はまだ返還前で行くことが出来ませんでしたが、日本全国あら
ゆる所を歩く事が出来ました。先生は毎月5・6冊の本を購入されて居た
ので、その当時夜に、出歩く事も出来ませんでしたので、旺盛な読書欲と
も重なり濫読していました。

農大を卒業と同時に南米のパラグワイに移住いたしましたが、先生から卒業
記念にセイコーの腕時計を頂きまして、それがアメリカに来てからも動いてい
ました。
奥様からはジラルミンの大型旅行トランクを頂きまして、いまだに私に付いて
回り、地球を何周かしてクロゼットの中にあります。
去年、先生もお亡くなりになり、その数年前に書生を辞めてから40年近くして
お会いしたのが最後でした。
私も歳を取り、全ての人生の出来事も過去に消え行き、野菜作りに裏庭で精
を出す幸せな余暇を今では楽しんでいます。

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