2013年11月5日火曜日

私の還暦過去帳(442)

 餅つきの思いで・・、

今年も餅つきの時節となりましたが、これまで長年、私の子供時代から
したら、その変遷も大きな歴史と感じます。

私が物心付いて正月の餅つきを覚えているのは、かなり昔の事です。
むかしは町内会で集まり、何軒かで正月の餅をつきますが、賑やかな
暮れの行事でした。
大きな餅つきの臼が用意され、それには熱湯を入れて大きな木製の
臼を暖めそれに餅米を蒸かした米を入れて、大勢の人で杵でつきます。

時には三味線なども持ち出して来て、お囃子のように音楽入りでお酒も
入りそれは賑やかな町内行事でした。
子ども達にはつき立ての餅に餡子を入れた、餡ころ餅で大福のように
して食べていました。これは終戦後甘いものが食べられなかった時代
には、特別貴重な食べ物と感じていました。

つき立ての餅を納豆や海苔など、それから大根おろしに柚子をすり降
ろして混ぜ、それを餅に付けて食べていました。
田舎で誰が考えたか知りませんが、美味しいつき立ての餅の食べ方と
思います。

60年近くも前の事です、正月と言う餅に大きな執着があったと思います。
我が家では母が先ず仏様と神棚に供える重ね餅を作ります。

それが済むと台所の釜炉に前に供える小さな重ね餅が作られていました。
これは火の神様に供える物でした。正月も7日を過ぎると、瓶に水を張
りそこの中に餅を入れて水餅として保存していました。

これですとカビが出なくて、柔らかく食べることが出来ました。
よく当時は精米所で、自宅で大豆を炒ってそれを黄な粉に挽いてもらっ
ていました。

それに砂糖を混ぜて、美味しい黄な粉餅を作り食べていました。
甘いものに飢えていた時代です、貴重な子供達のおやつでした。学校か
ら帰宅すると瓶から餅を出して来ると、さっと熱湯を通して黄な粉をまぶ
して、黄な粉餅を自分で作り食べていました。

近所で新しく家を建てる時には棟上式には必ず紅白の餅が配られ、大工
さんが餅撒きをして祝っていました。それをしないと、あそこの家は縁起
が悪いとか言われるので、必ず餅を神仏に飾り、そして、それを近所中
に配っていたようでした。

お祝い事には必ず餅が出るのはあたり前のようでしたので、それで田舎
では大抵は自宅に、餅つき用の臼を持っていました。
私も覚えていますが正月前には、田舎の百姓さんが内職で作った大きな
臼をリヤカーに数個載せて売りに来ていました。
一度買うと10年以上はもつ物ですから、値段は安くはなかったようです。
何年か日陰で乾燥させ、ひび割れのない大きな木で作られた臼ですから
手間も掛かっていたと思います。

それと同時に、もち米を1升枡で計り、お宅は5升だとか、一斗だとか言
って売っていた光景を思い出します。今では何処にも見られない光景で
すが、子供の頃の懐かしい思い出として心の中にあります。

私が移住した南米でもその習慣が47年前の移住地でも残っていました。
先ずもち米から自分で生産して、それで南米の暑い正月でしたが、餅つ
きをして、その後に餅米を蒸かす時に側で焼いたアサードの焼肉を、冷
たいビールで乾杯して食べていました。

当時、パラグワイで生産されたもち米を、坂梨氏がブエノスに運び、ブエ
ノス近郊の日本人農家や洗濯屋などの日系人に訪問販売して回ってい
ました。

それと同時に正月用品の黒豆などと、ついた餅も正月食品と一緒に販
売していた事を思い出しますが、当時の方々は全て鬼門に入られ、今
では誰も会うことはありません。

暑い夏の正月です、お雑煮の餅を、ふうふうと冷ましながら、熱いどん
ぶりから食べていた事を思い出します。

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