2013年10月20日日曜日

私の還暦過去帳(436)

 我が地域の今昔物語、

夏野菜の季節となり、真っ赤に熟れたトマトや大きくなったピーマンなどと、
キユーリの日本種が毎日の様に沢山収穫できます。
家庭菜園を始めたのも、広い土地と気候の良さが、まさに野菜作りには
最適と感じて、当時幼かった我が子達に、安全な作物と感じて作り始めた
のでした。

アメリカに来て最初に購入した家が250坪以上はある広い土地に家が建
っていました。
昔の建築基準では500坪に一軒しか建築を認めない地域もありました。

それだけ広大な地域が残っていたと思います。それも格安の値段で、昔
の家の値段は今のトヨタの高級車レクサス半分ぐらいの値段でした。

今では軒先が1mも離れていない、長屋式の建売住宅が街中では普通と
なりましたが、それにしても昔は悠長な時代だったと思います。
アメリカに住み始めて38年も経ちますが、段々と世知辛くなる姿を見て
来ました。

今ではサンフランシスコ国際飛行場の地下まで、電車で行ける時代とな
り、随分と便利で、昔はサンフランシスコの日本町に月に一回、日本食材を
買いに行くのが楽しみでした。
38年も前は、アメリカの大手のスーパーも魚などは冷凍が少し置いてある
程度で、新鮮な刺身になるような魚は日本町かチャイナ・タウンまで行かな
いと買えませんでした。

今では近所にお魚から日本食材が並んだオリエンタル・スーパーも開店し
て、平日6ドルもする高い橋代を払い、サンフランシスコに行く価値が減り
ました。駐車料金も高く、駐車なども困難で、増え過ぎた車両の通過で橋
を渡るのも朝夕は困難です。
今では近所に、お魚もあるフイリッピン系と、チャイニーズ系のオリエンタ
ル食品店のスーパーが競合する様になり刺身から、活魚まで買え、我々
住民としては有り難い事が増えています。

橋を渡らなくても、オークランドのチャイナ・タウンでも魚類や新鮮な白菜や
大根、ゴボウなども買う事ができましたが、段々と駐車場が潰されてビルが
建ち、有料駐車場しかなく、それもかなりの駐車代金を請求されるので、
敬遠されて、それとオークランド市の財政圧迫で駐車違反料金などが大幅
に値上げされ、一回75ドルも罰金などはご免こうむる事ですから行かなく
なりました。

当時の日本領事館はその日本町にあり、皆が集まり、ホテルも近鉄企業
が営業していました。現在ではユダヤ系の投資会社に売られ、領事館も
日本人の多くの反対を押し切ってサンフランシスコの駐車も難しいオフイス
センターの高層階に引っ越して寂しくなり、日本町も前は大勢の日本領事
館訪問者達が憩いとしていた日本食レストランや、日本食材の買い物な
どで込み合って居ましたが、今では韓国のハングル文字が目立つ様に
なり、陰口でコリアン・タウンと言われる様になりました。

これも時の流れですから逆らう事は出来ませんが、昔の一世達が築き、
繁栄させた日本町も町並みは変わりませんが、行き交う人の交わす言葉
が雑多になり、広東語、北京語、韓国語、ベトナム語や、日本町のレスト
ランやお店の下働きのヒスパニックが話すスペイン語などが混ざり国際化
して来ました。

それに加えて、世界各国から日本町に来る観光客の話す言葉が、時代
が変化した事を思い知ります。
時は代わり時代が変化しても、街の佇まいは余りそこに住む人間や、訪れ
る人達などには左右されずに残っていくと感じます。

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