2014年1月16日木曜日

私の還暦過去帳(471)


帰米二世達の思い出、

帰米二世と言われる人達がアメリカには大勢いました。
その二世たちも戦後68年も経ち、かなりの人が亡くなっています。

彼等は戦前の昔に、アメリカ在住の親達が子供の教育を日本にいる
祖父母などに頼んで日本に送り返したからです。

私も同じ様な年齢の方達と知り合い、話を聞くことが出来ましたが、
ブラジルでもアルゼンチンでも同じ様なケースが沢山ありました。

その当時の親にしたら子供は大和魂を持ち、日本語の読み書きが出
来る子供を期待していたと思います。

また、反対に日本などに子供を郷里の親元に預けて育てても、アメリ
カに戻ればまた英語教育と、英語の会話も訛りがある発音で使い物
にならないと言う考えの人も多く居ました。

私も38年間の在米でアメリカ生活に溶け込んでいたので、かなりの
帰米2世と言う方々にお会い致しました。

その方達も色々なケースがあり、幼児期に日本に送られて、そこで祖
父母に育てられて小学校を終えると戻って来たケースでした。三つ子
の魂、百までも・・と、完全に日本語と精神教育の基本が出来ていた
人たちです。

それから、だいぶ高学年まで英語教育も受けて、日本語教育はアメリ
カの日曜学校とか、仏教会などで基本を習い、読み書きは不自由ない
クラスで、日本では高等教育も受けていた人達でした。

帰米した人達の時期は第二次大戦を境に戦前と戦後と分かれていま
した。戦後帰米した人の中には、日本で兵役を済ませていた人も居ま
した。
私が知っている人は、カリフォルニアのオークランドに父母が待つ家に
帰宅してから、2週間で今度はアメリカの徴兵を受けて、3ヶ月ばかり
の基礎訓練を受けると碌に英語も話せないのに、朝鮮戦争の戦場に
投げ込まれたと話していました。

同じ時期に徴兵された日本人が、2週間で戦死したと言っていました。

中には運よく日米両語が出来たので、仲間から外されて沖縄駐留米軍
に派遣された人も居ました。そこで通訳や、事務などの仕事を専門にし
ていた様でした。

同じく日本駐留で戦争犯罪の裁判などに関わり、語学を生かして活躍
していた人もいました。通訳でおかしな訳文を正して、起訴されていた
日本軍兵士の減刑をしたと言う人も居ました。

中には田舎の米軍駐留で、近くの町で英連邦から来たオーストラリア
兵の手伝いもしたと話していました。彼は連合軍兵士の性犯罪を防ぐ
為に、昔の遊郭に交渉してGI専門の場所も業者に開いてもらったと
話していました。

まるで遊郭経営の旦那さんの様だったと話していましたが、軍曹ぐらい
の地位で、ジープの運転手兼、護衛が付いて走り回り、町の役人や
警察所の幹部とも米軍から任されて交渉して、上手くまとめていたと
話していました。

遊郭に居る女性の数に合わせて、その人数をトラックに乗せて遊郭の
玄関に降ろす時は必ず、兵士達がゴムの用品を持っているか検査し
たと話していましたが、ゴムと日本円を握り締めて、まず玄関で靴を
脱がして、それを片手に持ち部屋まで競争で走るように兵隊達が飛
び込んで行ったと聞きましたが、その2世が駐留していた
部隊では性犯罪の強姦などが皆無だったと言っていました。

彼の手配で駐留米軍犯罪も極端に少なく、司令官と町の両方から
感謝されていたと言っていました。
戦前に日本から戻った帰米2世で、ドイツ駐留に派遣された人は、
ドイツ人を奥さんに連れて帰って来た人にも会いました。戦争で家族
全部亡くして、彼女一人生き残り可哀そうな人だと聞いた事があります。

今では朝鮮戦争時代にアメリカに戻って来た人の中には日本で予科
練にいた人も居て私は日米両方で戦闘参加したと笑っていました。

中には朝鮮戦争の激しい時に徴兵されて、親からせっかく日本で生
き残って帰って来た身体だから、馬鹿のふりをしてでも身体検査で落
ちるように懇願されたと聞きました。そして目出度く徴兵失格を貰い、
親孝行をしたと話していました。

その様な方々も、かなりの人がすでに亡くなり、戦後68年と言う歳月
は終戦当時に20歳過ぎてアメリカに帰国した人も、すでに90歳を越
えているので、これも時代の流れだと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿

登録 コメントの投稿 [Atom]

<< ホーム