2014年1月24日金曜日

私の還暦過去帳(474)


昔の年末の思い出、

この歳になると年末、年の瀬の思い出が沢山あります。
そろそろ、60年近く昔の事で、郷里の郷愁として心に思い出しています。

私が郷愁として思い出すのは、父の郷里、大牟田市の出来事です。
その当時、大牟田市には日本一と言われる、三井三池炭鉱がありました。

まだ終戦からやっと抜け出して、朝鮮戦争の特需景気で賑わっていた時代
でした。炭住街と言われる長屋があちこちにありましたが、その当時はスー
パーなどの大規模店舗も無く、給料日などは会社の周りに市場が出来て、
屋台の店などが並んでいました。

特に年末のボーナスが出た後などは、かなりの賑わいで、シートに広げた
衣料品や、積み上げられた日用雑貨が並んでいました。

特に年末の賑わいは子供でも感じるほどで、近所の農家がリヤカーで持っ
て来たしめ縄や松飾、門松などが目立ち、荒巻鮭を専門に青竹に吊るして
売っている店もありました。

時にはミカン栽培農家が、オート三輪車に積んで来たミカンを側に積み上
げて売って居る時もありました。
その当時の炭鉱町の活気は凄いものがありましたが、我が家もボーナス
が会社から出ると、母親が正月の晴れ着などを買ってくれました。

特に12月過ぎて、年の瀬になると市場もかなりの混雑で賑わい、普通の
お店も炭住街の市場に出店を出している様でした。

その当時、我が家では家計を助ける為に、鶏を飼っていましたが、カマボコ
製造店から、そこで使わない魚の粗などを分けて貰い煮て、自家製の飼料
に混ぜて与えていました。
それで、そこの店のおじさんと顔見知りでしたので、私は店先で挨拶してい
ました。その店はカマボコや厚揚げなど、それにさつま揚げと言う様な物も
製造していたので、その様な製品が並べてありました。
その様な出店や屋台を、子供心にも皆と店を見て周り、楽しいと感じていま
した。

年末には小さなテントを張り、餅つきをしている店がありました。大きな臼が
2個ほど並べ、四人ほどで注文された鏡餅や、伸し餅などを作っていました。
その他、粟餅や草餅なども作っていました。特に我々が『あんころ餅』という、
餡子が沢山入った餅を作っていましたので、おこずかいで2個ほど買い、ま
だ暖かい餅を食べていました。
餅は出来上がると、自転車の荷台に載せられて、炭住街の社宅に配達され
ていました。

通りを歩く人達には、新巻鮭をご主人が持ち、奥さんが買い物籠を両手で
持って家に帰る姿を見ました。幼いおかっぱの女の子は、髪飾りを自慢げ
に見せながら友達どうしで、羽子板や飾りが付いた手毬で遊んでいました。
当時の遊びはまだまだ、昔の遊びが沢山残っていました。

まだテレビも無い時代で、農家が自分の竹薮から切り出して来た竹で作っ
た、竹馬なども大小と並べてあり、おこずかいで買って遊んだ物でした。

北風が吹く空に、タコを高く上げて遊ぶ事も、男の子供達の良い遊びでした。
自分で作った連鎖タコを上手に長く、高く空に上げる大人達のタコがうらや
ましくてよく見ていました。
小さい子供達は、奴ダコという、どこの駄菓子屋でも軒先に吊るして売って
いたタコを空に上げていました。今ではテレビに、ビデオゲームなどがあり、
昔の遊びなど見る事は余りありませんが、我々子供時代は今から考えると、
古きよき時代ではなかったかと感じます。

今では小学生がiパッドやスマートホーンを手にして、ゲームやおしゃべり
をする時代に変化していますが、私が郷里を出てから30年以上もして郷里
の大牟田市を訪ねた時に、友人が住んでいた炭住街をタクシーで訪れまし
たが、そこは廃墟の崩れかかった長屋が残っていました。
殆どの家々は誰も住む人も居なくて、皆が働いていた三井三池炭鉱も閉山
となり、日本で石炭産業さえ無くなっていました。

時代は代わり、時は流れ、すべてが過去に消えて行き、私もあと幾年、昔
の年の瀬の思い出を見る事が出来るかと考えています。

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