2014年1月27日月曜日

私の還暦過去帳(475)


ハードボイルド作家、大藪春彦氏と私の出会い、

これは随分と古い話になります。
私が高校生時代に、郷里の大牟田市の郷里で出会った、ハードボイルドの
アクション小説『野獣死すべし』が最初でした。

その当時は高校図書館の図書部と言う所で、部活をしていました。
暇な時は自転車で近所の山に行き、山歩きをしては盆栽に出来るような松を
探したりしていました。その当時から園芸や造園、野菜作りなどが大好きで、
こずかいを貯めては、植木市に行き、そこで安い南天や久留米つつじなどを

買い、自宅の庭に植えていました。
それと、読書が好きで良く本屋にも通っていましたが、雑誌『宝石』に出て
いた『野獣死すべし』と言うハードボイルド・アクション小説に魅せられ、
本屋で出版されたばかりの本を買って何度も読み耽りました。

その当時、近所の友人と紙玉を使う玩具の拳銃を使って、パンパンと鳴らし
て遊んでいましたが、段々とそれが高じて、友人宅が木工所で、色々な工具
が揃い、万力や溶接機械もありましたので、休日などの日に皆で集まり、そ
の玩具を改良と改造をして、ついには空気銃の鉛の弾を飛ばす事が出来る
くらいにして遊んでいました。
紙玉の火薬をほぐして、大昔の火縄銃の様に先詰めで火薬と空気銃の弾を
詰めていました。それからしたら私達の遊びなど本当に子供の遊びでした。
もっと凄い遊びをしていたのは高学年の子供達でしたが、終戦直前に近くで
撃墜されたB25の爆撃機の機関砲の弾を沢山隠して持っていました。

大牟田市には炭鉱町と、さらに関連する沢山の工場があり、火薬なども生産
していたので、爆撃されていたようでした。

その大口径機関砲の弾を水道管に詰めて信管をハマーで叩いて発射してい
たので、その様な危険な遊びも小さい時に見ていたので、我々がネズミの糞
程度の弾を撃つ事などは、昔の子供達としては普通の遊びだったと思います。
今ではそんな事でもしようなら、ポリスが飛んで来てえらい事になると思いま
す。
そんな時代を経ていましたので、私にはこのハードボイルド・アクション小説
が、まるで心にジーンと感じるくらい感激して読んでいました。

高校を卒業して東京に大学生として上京すると、作家としてデビューした、大
藪氏に会いたくて面会を申し込んだら、何んと・・、気軽に会ってくれるという
返事でしたので訪ねて行きました。

その当時、彼は早稲田近くの畳屋の2階に下宿していました。
最初訪ねた時は、畳屋が住所でしたので、店先で畳の表替えをしていた親
父さんに聞くと、ひよいと、『大藪さんーん!、お客さんがお見えだよー!』と、
二階に声を掛けてくれました。

すると二階の階段から、インキの青い染みがあるステテコ姿で、『どうぞ2階
に上がって下さい』と声を掛けてくれました。
ちゃぶ台の様な小さな座り机があり、周りには沢山の原稿用紙が散らばっ
ていました。
食べ終わった店屋物の出前されたどんぶり物の皿などがあり、薬缶をガス
コンロで沸かしてお茶を入れてくれました。

少し話して、彼がこれは駐留軍の立川基地にいた米兵が朝鮮戦争で捕獲し
た、ドラムマガジンのサブマシンガン無稼動実銃と言って見せてくれました。
彼は英語も上手な様で、立川基地内の射撃場で、仲良くなった米兵と、実
弾射撃もしていたようでした。50口径の機関銃の弾薬箱にぎっしりと各種の
空薬きょうや、空のマガジンなどが入って居ました。

しばらく話して、『出版社の人が原稿を取りに来るので、』という事で私は彼
の下宿を出ましたが、その出版社の原稿を取りに来ていた女性が、後で大
藪氏の奥さんとなられた方でした。
その下宿には2度ほど訪ねましたが、直ぐにそこも彼が引き払い、引っ越し
てしまったので訪ねる事はありませんでした。

私も大学を卒業すると同時に南米に移住して、かなり長い間彼の小説を読
むだけでした。私が南米から日本に帰国して、アメリカに家族を連れて再移
住する用意をしていた時に、千歳烏山の近くで散歩されていたのと偶然に
すれ違いました。

すっかり貫禄が出て、子供を連れて歩いていましたが、私が会釈をして挨拶
すると、彼はすっかり忘れている様で、『沢山の人に今までお会いしたので・・
思い出せない』と言ってその場を大藪氏と別かれましたが、それが最期で
した。
何度か彼の活動を聞き、小説も読みましたが、アメリカに来て1996年頃に、
61歳で亡くなられたというニユースを聞きました。それからしたら詳しくは知
りませんが、大藪氏はその当時では早死にしたと感じます。

私の様に南米で百姓仕事で、拳銃の皮ホルスターが真っ白に汗で色が変色
するぐらい携帯して、それに生活の一部として狩猟で鹿やイノシシ、ビスカッ
チャ、山鳩などを射止めて食料とした事などを考えると、まったく銃に関連し
ても、彼とは違った人生街道を歩いたと思います。

当時のボリビア国境ではゲバラの残党が活躍して、農場などが備蓄してい
た食糧などが襲われ、略奪されていたので、国境警備兵などが馬で巡回し
てくる時に、彼等が比較的簡単に入手出来る弾なども買ってもらっていました。
長い年月で仕事でこれまでに終日、渡り鳥を追い払うために散弾銃を撃ちま
くった事などを考えると、かなりの実射経験が有りますが、今まで推定で2万
5千発以上は射撃の経験があると思います。

これも若い時にアルゼンチン郊外のチビリコイの町で蔬菜栽培をしていた時
代に、夜の退屈な時間潰しに始めた、倉庫のネズミ獲りの射撃が高じて、所
持していた拳銃の引き金を削り、改造などして、ピンポイントの正確な射撃が

出来る様にして、週末など町に歩いて遊びに行く時に、パンパの草原に一
列で並ぶ電柱を相手に、誰もいない草原を歩きながら抜き打ちの練習を重
ねて、薄暗闇の中で、空薬きょうを抜いて、瞬時で一発の弾も落とさず、交換
が出来る様にもなり、抜き打ちで電柱に、歩きながらでも10m以内でしたが
全部命中させていました。

レボルバーの拳銃でしたので、練習で親指の先の皮が擦り剥けるほどに訓
練していたので、しかしながら弾代も馬鹿にならず、田舎町では高い弾を買
うことになるので、ブエノスに出た時に、港近くの銃砲店から狩猟に使うマグ
ナム弾や怪しい経路で輸入されたと感じるアメリカ製のレミントンなどの弾を
買っていました。
私はアメリカに住んで亡くなられた大藪氏の年齢からしたら10歳以上も長生
きして、このカリフォルニア州の太陽の下で、大藪氏がコレクションしていたと
同じ銃器を、彼の場合は警察から銃器不法所持容疑で何度か調べられた様

ですが、私などはアメリカに38年も住んでいますが、日本からしたらなんの
気兼ねをすることなく射撃を楽しむ事が出来て、のんびりと春の日の下で、
せっせと手入れしている我が姿を側の窓のガラスで見ると、何となく感慨深
いものがあります。

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