2014年2月25日火曜日

私の還暦過去帳(491)

パラグワイ国盗り計画(15)

パラグワイを見て感じる事は、まだまだ余裕の有る国です、しかし、人と財力と教育と、情熱が不足していると感じました。豊かな土地を持ち、僅かな人口ではとても開発は無理と思い、またそれに一番必要な資金も不足していました。

 アルベルト.フジモリ前ペルー大統領が日本から移住した移民の子供で初めて一国の大統領と成った事は、かなりの衝撃でした。泡沫候補とささやかれながら、最後まで残り、大統領までなった事は、選挙の恐ろしさと、意外さが有ります。 ペルーは原住民の血を引く人が80%以上も居ると言われて、一部スペイン人侵略者の血を維持する一握りの白人がペルーの社会を押えています。

その中でフジモリ氏が大統領に就任した事は、我々、南米を知るものとして衝撃の心を持ちました。 彼が辞任しなくて、あと10年間以上、大統領を維持したら、かなり南米の政治地図が変わっていたと感じます。彼が長年隣国と争ってきた国境紛争も解決して、彼の改革と建設で3000以上の学校建設がなされ、その成果が完全に出てき たら加速されたスピードと成って、ペルーが新しい国となったと感じます。

我々が夢見た事は、後になってフジモリ氏により形は変われど実現した事は、パラグワイでも夢では無かったのでした。今から思うと当時のパラグワイの移住形態が複雑で、移住者のレベルが余りにも狭かった事を感じます。 私達が計画を立案して、最終的なプランを整理していました。ストロエスネル将軍が当時のパラグワイの大統領で、かなりの独裁政治をしていましたが、彼はドイツ人移民の2世です。

1964年頃に当時のアルゼンチンのポサダで、ある日本人の 一世から話しを聞いたのでしたが、戦前、アルゼンチンのポサダでカフェー屋を開いていたが、いきなり『あいつは学生時代に俺の店でコーヒーを飲み、そのコーヒー代も無かった時代が有り、こずかいを与えていたーー』と話していました。

彼はその後、パラグワイで政権を取り、大統領まで登りつめた男でした。そんなドイツ人2世がパラグワイで政権が取れたわけですから、日本人が団結すれば必ず日系か、その支持者が大統領になれると確信していました。

次回に続く、

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