2013年6月30日日曜日

第3話、伝説の黄金物語、(91)

勝ち組の陰謀、

大きな事件が過ぎ去り、しばらくは穏やかな生活が過ぎて行った。

富蔵達が経営したり、参加したり、出資したビジネスもかなりの大きさ
になっていた。各部門は独立して責任者を立て、それを統括してサン
パウロの飛行場の中に設置されている事務所で管理していた。
時代が動き、ブラジルも戦後の日本からの情報やその日本社会の有様
が家族やマスコミの情報で詳しく知ることが出来るようになり、戦後の落
ち着いた日本人社会が見えて来た。

その当時には戦後日本の混乱から逃れて来る、家族のブラジルに呼
び寄せも可能になり、外国船に乗船して僅かな数の人がサントス港に
降り立つ姿が現れた。

それらは戦前日本に渡ったブラジル生まれの二世で、ブラジルのパス
ポートも持ち、ブラジルの出生証明も完備している人が主であった。

その様な話を富蔵が知ると、郷里の懐かしい家族の思い出もあり、
ふと・・、日本の事を考えるようになったが、現実にはまだ広大なブラジ
ル日本人社会が落ち着いて、平和な社会が動き出したとは言えない状
況であった。

それは日本人の中には、狂信的な日本勝利を盲目的に信じる人達が
残っていた。勝ち組と称された団体であった。

それと1946年の新円切り替えで、紙くず同然の日本円を今度は
日本人が日本人相手に、言葉巧みに売りつける事がブラジル奥地の
閉鎖された移住地の戦勝派のなかには被害が出ていた。
富蔵達の宣伝工作がそこまで浸透しなかった様だと感じていた。

サンパウロのアメリカ大使館からも多くの敗戦日本の資料が日本人社
会に届けられたが、頭から拒否する勝ち組の集団には届かなかった。
その中の首謀者らしき勝ち組、二人が張本人だということが分かって
きた。
中国人達の中華金融組織は殆ど壊滅した状態で、その後の活動は殆
ど消えたように無くなっていたが、勝ち組の組織は、より強固で、狂信
的な信仰集団の様にまとまり、敗戦容認派の排除と危険な敗戦容認知
識人暗殺が計画されていることが、富蔵達の情報に入ってきた。

それがついに実行され、富蔵が関係する人物が暗殺された。
その人は富蔵達が戦後の混乱期に日本人集団移住地や地域の啓蒙
運動を共に動いた仲間であった。そして困窮する日本人農家への融資
を取り扱い、その尽力により多くの日本人と日本人社会が立ち直り、
救われたのであった。

富蔵は激怒していた。中国人達の中華金融組織は殆ど壊滅した状態
で、その後の活動はまったく静かになっていたのに、勝ち組騒動が現
実の危険なテロを行うようになり、実際に暗殺事件を起こすような事ま
でした事は、富蔵には許す事は出来なかった。

すぐさま富蔵や行動を起こすと、まず完全な情報を集めて、それを確
かめ、各地の知り合いや友人達にも聞いて、今、何をして行動しなけ
ればならないか決めていた。
勝ち組のテロ実行者と、その指導的なボスの二人を掴んで情報を絞り
込んでいた。

この二人を何とか始末をつけないと、これから同じ様な暗殺が起き、
日本人社会の貴重な指導的立場の人物を失う事になると感じていた。

これまでの全ての日本からの情報も、アメリカ大使館が提供した記録
フイルムや、戦災資料などは見向きもしない、まさに狂信的な人物で
あった。
その男達が、また暗殺未遂を起こしていた。未遂に終わらせたのは、
事前に注意してその対策をしていたからであった。富蔵の配下の若者
で、モレーノに訓練された男達の中から推薦で、護衛のボデイガードを
付けて居たからであった。

その護衛は日系人の混血でかなりの空手や柔道も学んだ若者で、富
蔵が了解を取ってオフイスの護衛として、拳銃を常時携帯して見張って
いたので、組合事務所から帰宅する理事を車に乗り込む寸前に銃撃し
ようとしたが、護衛に簡単に反撃され襲撃者は逃げ去ってしまった。

農業組合の理事で、富蔵が融資をして営農資金を日本人達に出してい
た理事で、日系社会では重要な人物であった。狙われたのは融資相談
に来る日本人達に戦後の日本の現状などを、解説して新しい日本の国
作りなどを講義して、大きな影響力を発揮していたからだと考えられた。

富蔵はすぐさまモレーノに連絡すると、マリオを派遣してもらった。
マリオは配下の手下二人を連れてサンパウロの事務所に富蔵を訪ねて
来た。
富蔵は彼等に今までの経過を説明して、勝ち組の狂信者の写真を見せ
て対策を練っていたが、狂信者二人を囮で誘き出して逮捕か、最悪は
消す事を考えていた。

彼等が日本が勝利したと言う宣伝で、活動資金を得るのに詐欺的な行
為をして、資金活動を始めて居たからで、それに騙された様にして、
資金提供をすると言う連絡を付ける事に成功した。
狂信者二人は、その罠に掛かって来た。

彼等が日本人社会で動いて資金を集めていると言う事は、勢力を拡張
しようと考えていると感じていた。どちらにしても目障りで、危険で、現在
のブラジル日系人社会には害こそあれ、何も役にもたたず、ブラジル社
会にも大きな信用低下と、悪評を広めるだけだと感じていた。

かなりの資金を出すと、狂信者に連絡を付けた時に話していたので、大
きな餌の魅力に相手が飛びついて来たと感じていた。
連絡に来た勝ち組狂信者の連絡係りに、日本式に挨拶代わりにと、か
なりの現金を包んで持たせていたが、これが狂信者相手に大きな信用を
得た様だ。

しばらくして、勝ち組の連絡係りが富蔵に、近い内にサンパウロでお会い
して、挨拶をしたいと伝言を伝えて来た。勿論の事に活動資金にする金
の要求だと感じていた。

直接に伝言を伝えに来たのは用心して電話も手紙も使わない事は、追わ
れている事を用心していると感じていた。

富蔵も直ぐに動き出した。

2013年6月29日土曜日

私の還暦過去帳(384)


アメリカのシンボルGMの破綻、

数年前の6月1日朝、GMが破産法11条の適用を申請した。

午後にはオバマ大統領がGM破産法申請での演説を、全国民に向けて
しました。 私の子供の頃からキャデラックと言うと、富の象徴で金が無
いと買えない、乗れない運転できないと聞かされていました。

まさにそのとうりと思います。 50年近く前の福岡の田舎です、キャデ
ラックなどは何処を見ても、探しても、走って居る様な車ではありません
でした。
外車と言うとアメリカ駐留軍の家族が博多近郊の板付基地の周りで乗り
回しているのを見たぐらいでした。当時、ガソリンなどは高価で、1リッ
タで4kmも走らない車など乗るのはキチガイ沙汰のよほどの変わり者
か、偏屈なマニアと言われるぐらいでした。
アメリカの大統領から、各国の元首や、有名人などがその乗用車とし
て、シンボルとして使用していました。

私が今で心に残るキャデラックは、エルビス・プレスビーの葬儀で、キャ
デラックの最高級車の白のエルドラードの車が、亡くなったプレスビーの
愛車として葬列に何十台と同じ白のキャデラックが並んで走っていたのを
TVを見て、ジーンと来た思い出が有ります。

私の知り合いでだいぶ昔に亡くなった方ですが、生涯トラック運転手とし
て働いて、引退した記念に分相応の程度の良い中古のキャデラックを買
い、ワイフと運転を楽しんでいました。
彼は45年間で200万マイル以上は運転したと話してくれましたが、
サンフランシスコとロサンゼルスの間の定期便の運転をしていたようでした。

彼がピカピカに磨き上げた車に、愛犬と奥さんを乗せてドライブに出てい
く様子を思い出します。
庶民でも夢として、アメリカ人の豊かさのシンボルとしてキャデラックを持
っていたと感じます。
日本でも1960年代初期のキャデラックを持っていた人を東京で見た事が
有ります。昔、社長をしていた時代に購入して、車検は切ってそのまま
自分の夢だったキャデラックを大人の玩具で飾っていると話していました。

その当時は引退して趣味の庭木の手入れを楽しんでいた人でした。 ピカ
ピカにワックスで磨き上げられ、屋根付きのガレージに入れられ、その上
には埃避けのシートカバーが掛けてありました。

すでに当時でもクラッシック・カーとして価値があると聞きました。 『重量
2トンもする玩具だけれど、エンジンは一回で掛かるから・・』と見せてくれ
ました。

そのアメ車のシンボルのGMが破綻したのです、破綻はアメリカ人の精神
的なシンボルとしての破綻でもあったのです。

私もそのアメリカのシンボルとしての大型車を一度だけ持っていた事が有
ります。それは私の夢でした。船の様に幅広くゆったりとしたフルサイズの
ステーションワゴンを家族の為にアメリカに来て直ぐに中古のフォード・グラ
ントリノを買いました。

巨大なV8のエンジンで、後ろのシートを倒すと子供達が3人、楽に寝る
事が出来ました。その車を運転して、ロサンゼルスのディズニーランドに
家族で出かけました。

ナンバー5を軽々と時速130km以上で走ってもまだ余裕のある走り
でした。 その時、ハンドルを握っていて、アメリカの豊かさとアメリカーン
ドリームをかき立てる何かがその大型車にありました。

私が持っていた夢も、アメリカ人の庶民が持つドリームも同じ同意語と感
じて居ました。
しかし、時代は変り、変革して、社会を取り巻く環境も激変して、1ガロ
ン(約4リッタ)が55セントの時代では何も心配する事はありませんでした。

しかし同じ1ガロンが3ドルと越した時代では、全てが代わって行ったの
です。そして、人の思考や時代に生きる世代の違いも変化しているのです。

この破綻を教訓に、まったく新しい会社に生まれ変わると思いますが、ま
た生まれ変わらないと新たな競争者に立ち向かう為には激戦の戦場では
小回りの効く戦略で、身軽に敵と立ち会わなければならないからです。

クライスラーも破綻して、GMも破綻したアメリカ自動車産業はアメリカの
基幹産業としての牽引車が無くなった事になるのです。
破綻した会社が元に戻り、借財を返済して元の会社以上に成長する事は
困難な筋書きです。
中国は、あまたの群として乱立した中小の自動車会社が整理統合され、
消費者のニーズにあった車を安く、上質に、早く、安全運転出来るノウ
ハウを収得しています。

韓国も僅か20年で400万台以上の車両製造が出来る様になり、海
外に輸出して、海外にも工場を建設しているのです。 アメリカは日本以
外の多くの自動車会社とも生き残りを賭けた戦いの戦場に立たなければ
ならないのです。

インドからも小型トラックを輸出する計画が有りましたが、この不況で中
止となった様です。 インドも中国もアメリカを目標としているのです。

アメリカと言う市場は世界一の自動車会社の戦場でもあるのです。その
競争原理と消費者のニーズに合う車を製造して生き残りの戦場に勝利の
旗を掲げる事を狙っているのです。
これから屍が累々と積み重なる中に、最後に到達する勝利者は誰かー?
フォードかトヨタか・・、それともGMか・・、生き残りを賭けた戦いはもうす
でに始まっているのです。
6月3日の朝刊に、カリフォルニア州、サンフランシスコ郊外の地方紙に
GMが一面に広告を出していた。
破産しても整備サービスと前と同じ良質な部品を販売して、それを前と同
じく維持していくと広告していたが、すでに月間販売台数で劇的な動きが
見られた。

GMは止め様も無い販売下落だが、そのGM率の半分で辺りで止めて
いるフォードが堅調な販売を展開している。フォードも多額の借入金はあ
るが、破産はしては居ない。

これからの顧客の動きが、これから新会社で再生したGMやクライスラー
が他の会社と競争の戦場で生き残る作戦をどう展開するか、お手並み拝
見と行きたい。

すでに5月の新車販売台数は前年同期に比べて、33.7%の減少と
言う中に、これからの生存を掛けた戦いはどうなるか?

貴方はどこの自動車製造会社が世界一の栄冠をこれから10年先に勝
ち取ると思いますか?

2013年6月28日金曜日

第3話,伝説の黄金物語、(90)


 飛んで火に入る夏の虫

その男はスミス商会の情報網の事は全然知らないので、まるでパブロ
が『飛んで火に入る夏の虫』と言った事が正直に本当になってしまった。

サンパウロ青果市場近くの商人宿に泊まり、手下の2名も車を運転し
て、市場外れのカフェー屋を根城にして行動を開始していたが、時々3
人で集まり何か相談している事が確認され、マリオが作業服姿で市場
の景色に溶け込んで監視に動いていた。

側のカフェー屋のテーブルにマリオが座っても、何を話しているかは、
広東語では皆目分からないので困ってしまった。
それよりこちらから相手の動きを電話盗聴で中国人の広東系中華金
融組織事務所に、彼等が掛けて来る電話で、あらかたの話の筋が理
解出来た。

数日過ぎた日に電話盗聴からの情報と同じ粗筋の行動を彼等が起こ
した。パブロが囮になり富蔵の車に乗り、マリオが側に同乗して飛行場
の事務所に行く様に走らせていた。
用心に前もって配下の二人も別の車で、刺客の竜と仲間の二人の車
を監視して後を付けていた。

サンパウロ市内を抜けて郊外に出ると、スピードを上げて走っている
パブロが運転する車の後ろを竜達の車がぴったりと付いて来ていた。

街道からわき道に入り飛行場に行く田舎道に入った時に、右側の助手
席と後部の席に座っている男二人が窓を開けるのが確認されて、富
蔵達の配下の男が車の中から用心にシュマイザーのマシンガンを構
えて狙っていた。

竜達が乗車している車のスピードが上がり富蔵の車を追い越してすれ
違いざまに、撃つと感じられ、配下の男が短く至近距離から狙って窓
から身を乗り出した男二人を狙って短く一連射した。

身を乗り出していた二人が動揺した瞬間、周りに車も居なかったので、
そのままの猛スピードで配下の車は、竜の車の右後ろに激突させた瞬
間、窓から身を乗り出して居た男二人が車外に勢いよく放り出され、
アスファルトに激突すると、激しく打ちつけた鈍い音を響かせて転がり
ながら脇の崖下に落ちて行った。

竜の車はハンドルを取られると、スピーンしながらわき道の崖下に転
がり落ちた。それと同時にクラッシュする大きな響きと爆発音がして、
ガソリンタンクが燃え上がった。
富蔵達の車2台は停車することも無く、現場から走り去った。

直ぐに黒煙が上がり、車が道路脇の崖下で大きな火の塊となって燃
え出していた。周りの潅木にも火が移り、バリバリと勢いよく燃え盛り、
通りかかった車が停止して見ていた
が、誰も手出しが出来ずに、見物しているだけであった。

そこにオートバイに乗車した男二人が飛行場方面から来て停止した。
サムと富蔵であった。
入念に周りを見て歩いたが、そこに消防車が到着すると二人の姿は、
いつも間にか居なくなっていた。
その昼過ぎ、遅いランチ時間に皆が集まり、今日の報告をして他の
情報と比較していた。
サムが食後のコーヒーを手に、『邪魔者が一人消えて行った・・』と
皆の前で話していた。

スミス商会の電話盗聴で、中国人の広東系中華金融組織事務所が、
かなりの衝撃を受けているようだと、報告が来ていた。

中華金融組織事務所の組織の裏を支える張本人の竜と、手下が
一挙に死んでしまったからであった。
翌日の新聞は『交通事故で車両がスピンして横転、崖下転落で爆発
炎上して搭乗者3名が焼死した』と短く出ていた。原型が分からない
様な姿の焼け爛れた車の写真が出ていた。
追突させた損傷も崖下転落と火災の為に問題にもされなかった様だ。

しかし、広東系中華金融組織事務所では、この件はどこかで裏で動
いていた組織があることを感じて居る事が盗聴記録から判明してい
たが、しかし巧妙に盗聴されている事は感ずかれてはいなかった。
日本人の組織も戦後の動きは早く、県人会、日本人会などが再構
築され、移住地でも大きく動き出していた。

商店も再開され農業組合組織も戦前以上に強く動き出し、中華組
織以上に動き出していた。
富蔵は裏方として資金的な援助と融資も支えていた。
スミス商会やダイアモンド商会の支えと、支援も大きな力であった。

中華金融組織事務所の発言力と株を持つ男が、ケープタウン経由
で香港に行くオランダ船からの航海途中で行方不明になり、インド
洋でその姿が消えてしまった。

船室には旅装一式が残され、かなりのドル現金もそのまま船事務
所の金庫に預けたままで消えていた。この件は事故原因不明で処
理されてしまった。

ペルーの中華金融組織事務所支部の幹部とサンパウロから訪れ
ていたボスの幹部が、マチュピチュ遺跡見物に行き、遺跡見物後
に裏山のワイナピチュ山に登頂してかなりの衆人環境の中で、
崖下100mも転落して二人とも即死してしまった。

原因は高山病における目まいから、抱き付いた一人を道連れに
して転落したと目撃情報が発表されていた。
短い時間に重要な幹部がブラジルとペルーでの組織から居なくな
り、殆ど活動停止状態に落ち込んでいた。

富蔵達の組織は強固に固まり、運営されて益々その力を蓄えて
いた。その裏にスミス商会の強力な各種の組織的な支援があった
からだと感謝していた。

『組織は力なり、大きな活動資金はビジネスの力なり、人の輪は
黄金の重さなり』と聞かされていた。

2013年6月26日水曜日

私の還暦過去帳(383)


同性婚は難しい?

先日から長男宅の手伝いでサンフランシスコ市内に良く出かけていました。
そこで目にするのは、カストロ地域のゲイのコミュ二ティが多く集まる通り
です、37年前にサンフランシスコのその地域に足を踏み込んだ時には驚
きました。

日本では余り目にすることも無かった社会をこの目で見たからです、ショ
ックでした。男同士が抱き合ってキスなどを大ピラに道端でしているもの
ですから、いささかドキリー!とした体験でした。

白人と黒人のカップルが仲良く手を繋いで歩いている姿など、何処から
見ても当時の状況ではこの私の細い目が、パッチリとドングリとなってしま
う衝撃でした。
黒人の青年はスラリとした肢体に、筋肉質の肩が盛り上がる革ジャンを着
て、カッコ良く白人の若い青年の腰に手を廻して歩いている姿は、当時の
私にはかなりのショックが有りました。

当時から東の二ユーヨークと西のサンフランシスコがゲイ達が集まって出
来た一番大きな町でした。25年以上も前に、私が住んでいた近所にゲイ
のカップルが家を買い、サンフランシスコ市内から引っ越して住んで居ま
した。仲の良いカップルで、どちらもサンフランシスコまで働きに出ていま
した。
電車で1時間で通勤出来ますので、私もアメリカ社会に慣れて、周りが見
えて来るとその様な事が直に感じることが出来まして、かなりのゲイやレス
ビアンのカップルが居る事を知りました。
レスビアン・カップルの不動産管理を頼まれた事が有ります。

二人ともかなり会社でも地位のある職場で働いているようでしたが、仲違
いして二人で所有していた不動産を売却して別れていきました。
当時はまだ同性婚は認められて居ませんでしたが、結婚指輪をしていま
した。
つい先日もカリフォルニア州の最高裁は同性婚を11月4日の住民投票
の結果、無効としました。これにより、同性婚は正式に禁止となりました。

それまでに結婚したカップルの1万8千組は有効と裁判所は認めましたが、
これには多くの賛成派と反対派が激論を交わしていたのですが今回裁判
所が判断して正式に禁止と、6対1の大差で判決を下した様です。

私が子供の頃、当時の田舎では『オカマ』と言う名前でその様な人達を差
別していました。私も好奇心がありましたので、『オカマ』と言う意味は何か
と聞くと、『子供がそんな事を聞くのはまだ早いー!』と怒鳴られた記憶が
あります。
学生になり東京に出て、当時のゲイバーとか言う酒場で学生の身分で男
子学生が女装してアルバイトをしている人が居ることを知りました。
知り合いがその酒場に飲みに行ったら、女装したその学生が和服を着て、
どう見ても女性としか感じなかったと話していました。

その男子学生は直ぐに大学を辞めて行きましたが、その後どうなったか
知りませんが私の身近で実例として初めて感じた事柄でした。
それにしても大人になり実社会に入ると、色々な体験も致しました。

完全な女性のようにバストを人工的に乳房の様に膨らませてブラジャー
をしているのも見ましたが、声はまだ男性でした。

私が南米に移住してパラグワイから出て、アルゼンチンのミッショネス州
のポサダの町でブエノス行きの列車を待っている時に、泊まっていたホテ
ルの直ぐ側に映画館が有りました。

夕食を済ませて時間を持て余していましたので、丁度見た事が在る西部
劇が上映されていましたので、面白かったのでもう一度見ようかと出かけ
る時に、ホテルの従業員から『あそこの映画館は、注意しろー!』と教え
られました。
直ぐにその意味が分かりましたので、私も用心していました。
映画が始まる明るい場内には、その道の方らしき人が居るのが直ぐに分
かりました。完全な女装ですが少し違和感が私も感じていたのです。

場内が暗くなり西部劇が始まりましたが、しばらくして香水の臭いが近く
でして、アレー!と感じていました。私は香水の臭いにはアレルギーで直
ぐに鼻がむずむずして来ますので、マイッターと思っていました。
しばらくして、何処からか私の膝に手が伸びて来ていました。

私もホテルの従業員から注意されていたので、これが例のオカマかと感
じていました。
私も用心にいつも持っていましたナイフを静かにスー!と相手のわき腹
に突き刺す様にして構えて居ました。相手の手が私の股間に伸びた瞬間、
少し強くプチー!と押すと、ヒー!と声がして腰がくの字に引いて相手が
逃げていました。

無言でアゴの先で、向こうに行けとゼスチャーをするとアッという間に相
手は居なくなりました。
しかしながら、さほど離れては居ない座席で、例の絡み合いが始まり、
それを見ている方が面白くて、映画どころではなかった覚えが有ります。

後にも先にも手が伸びて来た実体験はそれだけですが、この歳まで色々
な事を見聞きいたしましたが、生涯忘れられないのはブラジルのリオ・デ・
ジャネイロのマンゲと言う公娼が在った中で見た、ホモ専門の公娼が居
た事には、今でも強い印象が残っています。
印象の衝撃度はトンカチで頭をコツンと叩かれたぐらいでした。
早く言えば生肝を抜かれると言う感じでした。

神様が創造された人間と言う事ですが、それにしても人間様々な人種が
居ると感じます。

2013年6月23日日曜日

第3話、伝説の黄金物語、(89)


人質の身代金、

電話の向こうで男の涙声が響いていた。
俺の負けだ・・完全な負けだ・・と繰り返して、『言い値を教えてくれ・・! 』
と聞いてきた。
富蔵はふと考えて『3人が持っていたトランクにある金額の3倍は払って
貰いたい』と答えた。そして、これは安い買い物だと付け加えた。

サンパウロからの金塊を運んできた男二人もどうするか、相手は聞いて
来た。富蔵は冷たく『死んでもらう・・』と答えた。

電話の向こうでしばらくはシーンとした時間が流れていた。
『そのサンパウロから金塊を運んできた男二人も買い戻したい・・・』と男
が聞いて来た。
富蔵が空かさず『トランクの金額の2倍は貰う・・』と即答した。

しばらく間が有って『了承した。金額が多いので指定の口座か、臨時の
受け渡しの窓口で払う』と答えて、その提案に了解を求めてきた。

富蔵はスミス商会の臨時窓口にドルか英国ポンドで3日以内に払い込
む様に命令した。
相手はその提案を受け入れ、富蔵が指定した『ブラジル日本人相互援
助協会』という名前を教えていた。

相手はサンパウロのスミス商会を再度確認すると、『間違いなくその窓
口に払い込むから、3人がリマ行きの飛行機に搭乗確認と同時に入金
と交換したい・・』と提案した。
後の二人はサンパウロに戻る汽車に乗せてくれ・・といった。

翌日の午後にスミス商会から電話があり、『ブラジル日本人相互援助
協会』の口座確認の電話があった事を連絡して来たので、直ぐに人質
交換の準備を始めていた。

ブラジルのカンポグランデから、ボリビアのサンタクルース経由でペル
ーのリマ行きの不定期便が今週出るので、それに3名を予約していた。
それと同時に夕方にサンパウロに行く急行列車の座席を2席分予約し
た。
ホテルに昏睡してベッドに倒れ込んで寝ていた男が目が覚めたが、全
てを察して何も騒ぐことはなかった。それはプロの集団が準備して襲い、
何もかも、手も足も出せない様な状態であることを感じて居たからだと
思った。
2階の部屋にはペドロとマリオが男を監視して、下のホールには配下
の男二人が見張っていた。
その日、遅くなってスミス商会から入金が完了したことを知らせて来た。

それと同時に人質の男に電話があり、生存の確認とリマ行きの飛行機
の確認をしていたが、全てが予定どうりに準備されていたので相手も
安堵している様子が伺えた。

翌日の昼に飛行場に3人を連れて行き、臨時便に搭乗させた。
その前に飛行場から家族に電話をする事を許して、相手を安心させて
たが、人質交換の約束が守られた事に相手は感謝していた。
その日の夕方にサンパウロ行きの列車に男二人を乗車させた。

男二人は命が助かった事を喜んでいたが、支店配下の男達が脅すよ
うに、二度と相手に手を貸したら今度は生かしておかないと忠告すると、
黙ってうなずいていた。

組織力と張り巡らされた情報網とビジネスのパワーの差を見せ付けら
れて、相手も心して分かったと思った。相手の男はサンパウロでビジネ
スと開く、広東系の闇金融業者で、サンフランシスコと二ューヨークで、
チャイナタウンの中華金融と密接に動いている組織であった。

今回の騒動は全て解決したが、多額の身代金を代価に取ることができ、
これで富蔵が軍資金として、日本人達の資金源として活用できると感じ
ていた。
最終的に富蔵達が手にした資金は1945年時代の金額としては巨額
な金額で、すぐに邦人援助資金と貸付資金として活用された。
マットグロッソ近くの支店で働いて居る、パブロに連絡を入れ全ての跡
かたずけを頼むと、サンパウロに戻って行った。

サンパウロでは周辺の都市や、移住地などに対して日本映画の上映
会と称して、終戦でアメリカが押収した映画のフイルムなどを、スミス商
会の手配で手に入れる事が出来、それを使って宣伝活動を始めてい
た。
アメリカ軍の記録フイルムも混ぜて、日本の現状も二ュースとして映画
の前に日本人観客に見せることで啓蒙と現実を理解させていた。

これは一番効果がある宣伝活動であった。多くの娯楽に飢えた日本人
社会に映画と言う目で、現実を見せる事は、百の話をするよりも、1本
の映画フイルムの効果は計り知れない深さがあった。

さりげない無料日本映画上映会は何処の移住地でも、日本人達が集
団で住んでいる所であれば、大歓迎を受けていた。

4ヶ月も映画を巡回活動で上映すると、多くの日系社会と移住地の日
本人の意識が大きく変化するのが分かった。日本人移住地などの農
業組合などにも富蔵達が集めた資金が低利で融資され、戦時中は集
会禁止などの活動が規制されていた日本人社会が大きく動き出して
いた。
サンパウロ市場近くの自宅事務所には、個々の農家に対する融資も
低利で作付け資金を出していた。これも大きな活動資金となり、銀行
融資が無理な零細農家には近郊農業として伸びていく原動力にもな
っていた。
しばらく平穏な時が過ぎて、戦後の混乱から落ち着いて来た日系人社
会も大きく動き出していた時であったが、スミス商会の保安幹部から連
絡が入り、そろそろ事件から一年となる時に、前回の事件を起こした
犯行グループからの依頼で、サンパウロ中華黒竜社会の誰かが前回
の事件の復讐に動き出した事を掴んで来た。

それはスミス商会が張り巡らしている情報網に、中国人の広東系中
華金融組織に仕掛けられていた盗聴からの情報であった。スミス商
会には過去に香港とマカオに長く滞在して、広東語も北京語も話せる
配下の社員が居たから、その復讐での襲撃計画を掴んだと感じた。

その刺客は竜と言うあだなの危険な男であった。すでにサンパウロの
中国人、広東系中華金融組織に対して被害を与え、夜逃げして借金
を踏み倒した人間がその男に消されていた。

富蔵達の中からマリオが選ばれ、その男を監視して動きを見張って
いた。ある日の朝、マリオとスミス商会から同時に電話があり、その男
が動き出した事を報告してきた。
富蔵は家族を連れて飛行場の施設に移動して、自宅にはパブロと配
下の男二人が留守番で残り、事務所などを監視していた。
男が車で市場に向かうと確認され、皆が行動開始した。

パブロが『飛んで火に入る夏の虫』とかつぶやいていた。

2013年6月20日木曜日

私の還暦過去帳(382)


 人の生き様と死に様

この歳になり幾多の人がこの世に別れをして旅立つのを見てきました。

過去、5年間ぐらいでも、親しくしていた人が5名ばかり亡くなりました。
全ての方が60歳を過ぎていましたが、昔のことを思い出すと、50代
で亡くなる方が沢山居ました。当時は限られた素材の食事しか出来なか
った時代です、塩分の多い保存食を多食していた時代ですが、冷蔵庫
も無かったので、それは生活の知恵で致し方ないと思います。

弁当と言うと、塩鮭に沢庵や梅干がおかずで入っていました。
田舎の市場などには、魚のすり身で作った薩摩揚げや、かき揚げを売っ
ていたのを覚えています。それは良く弁当のおかずや夕食のお膳に出て
いました。

55年も前です、私が中学生の頃でした。
当時は戦争が終わり、まだやっと日本が復興の槌音が盛んな時代でした。
田舎ではその頃、まだ栄養的なバランスの良い食生活も望めない時代で、
朝食と言っても御飯に味噌汁と漬物に生卵があれば美味しく食べていた頃
でした。

今では食生活も様変わりで、洋風化してしまいましたが、私達の小学生時
代の給食ではミルクも粉ミルクで何か臭いが強い感じでした。
コッぺパンと言う給食用のパンがランチに出ていましたが、中に挟んであ
ったのは、マーガリンとジャムでした。

終戦後、何も食べる物がない時代には、学校給食では珍しい食べ物が沢
山ありました。量は少なかったのですが、乾燥フルーツ、ハム、チーズ、
スパム,など、アメリカの余剰農産物が来ていたと聞きましたが、育ち盛り
の我々にはありがたい食べ物でした。

時代が過ぎて1960年の初め頃に出来たインスタント・ラーメンは学生時
代に良く食べたものでしたが、その少し前に高知の山奥の農村を訪ねた時
に、ソバかきをして食べさせてくれた事を思い出します。

母の遠い親戚と言う事で訪ねたのです、当時でも御飯は配給米に雑穀が
混じった食事でした。そこの親戚がパラグワイに移住して、私が移住先をし
ばらくして訪ねた時に、食べていたのは白米のご飯でした。

ここでは幾らでも御飯は食べられると話していましたが、直ぐ側の小川が流
れる田圃にはお米が食べきれないぐらいに植えられていました。
その方達もパラグワイ移住の夢が破れてアルゼンチンに再移住しても、残
った方が生産する米をパラグワイから取り寄せて食べていました。

当時のブエノスではコリエンテ地方で生産されるイタリア米が多かった様で
した。パラグワイに入植して南米に住み着いて50年、半世紀を経ても主
食は米です。2世になって、奥さんがヨーロッパ系の人と結婚していても、
自分で御飯を炊いて食べている人を何人も見ました。

二世がアメリカで日系部隊に入隊してイタリア戦線で戦っていた時に、激戦
地で見舞いに米を元気付けに配給されたと聞いた事があります。
毎日、缶詰と携帯食料では飽き飽きしていた時に、イタリア米を大きな袋
に入れて部隊に持ち込まれた時は皆が、歓声を上げたと話していました。

近所のハワイからの二世と三世の日系カップルも、毎日食べているのはご
飯です。戦前のハワイでは一世も二世も一日一回は皆、御飯だったと聞き
ましたが、当時のハワイは中国人やフイリッピン人も多くて、米が無くては
ならない地域だったようです。
それは砂糖キビ農園で働く多くが日本人やアジア人が殆どだった影響も多
いと感じます。私はハワイに行くと必ず食べる物はスパムお握りです、こ
れはハワイの代表的なランチ弁当だったようです。

おかげでハワイがスパム缶詰の消費が一番全米で多いとか聞きましたが、
豚肉で製造されるハムに似た物です。現在ではターキーで作られたスパム
もあるという事で、味もピリカラから、スモーク味もあるそうです。

戦前の昔、一世達が塩味か辛さの効いたスパムの缶詰肉を開けて切り、
少しフライパンで焼いて、醤油を掛けておかずに食べるのは、手軽で栄養
価もあったものと感じます。
それより値段も手頃で、ランチにお握りに挟んで食べるのは農場の便利な
食べ物だったと思います。

私も何度かハワイのオワフ島をドライブしていて、道端の店で『スパムお
握りあり』と書かれた広告を見かけて、買って食べた事が有ります。

45年も前に、アルゼンチンの首都ブエノスの港で、道端の屋台でパン
にイタリアンソーセージを焼いて、一本丸ごと入れたサンドイッチを食べな
がら、ワインのビンをラッパ飲みしていた労務者達を思い出します。
彼等にしたらアジア人の顔でピリカラのソーセージを挟んだパンをパクつい
ていた若い男を不思議に感じていたと思います。

彼等が私を見て『お前は何処から来たのか?』と聞いていたのを覚えてい
ます。
アメリカでもハムに似たランチョンミート缶詰のスパムも、それが好きな方
はハワイ出身の方が多いと感じます。それも子供の頃から食べなれたス
パムの肉だからだと感じますが、沖縄でも米軍基地から出た料理として、
沖縄家庭料理として知られています。
スパムを薄きりにしてフライパンで焼き、目玉卵などを添えた料理はすで
に沖縄料理の中に戦後60年過ぎて定着したと言われています。

人の生き様も食べ物に左右されて、その人生の死に様も決まると思います。

2013年6月18日火曜日

第3話、伝説の黄金物語、(88)


駅前の意外な展開・・、

カンポグランデの駅には列車と同時に車も到着した。

まだ朝早いので、出迎えの人も限られていたが、タクシーは稼ぎ時とすで
に駅構内の前に並んでいるのが見えた。
そこから少し離れた並木の陰に駐車すると駅前の様子を探っていたが、す
でに配下の男二人がひっそりと景色に隠れて立っているのが見えていた。

話し合わせていた様に、新聞を小脇に抱えて出迎え人の様なそぶりで、
改札口の横の駅構内から出てくる人を見ながら配下の男が、先ほどからタ
クシー乗り場の横にいる男に注目しているのが遠目で見えていた。その男
がホテルに居る3人組の一人だと直感で感じた。

沖縄ソバを食べに行き、帰ってこない男の為に、残りの男一人が迎えに駅
に来たと感じた。富蔵は絶好のチャンス到来と感じた。

サンパウロから金塊を持って来た男のカバンを手にすると、タクシー乗り場
に居る男に富蔵とペドロも消音拳銃を新聞紙に挟んで小脇に抱えて用意す
ると歩き出した。

配下の運転手がサンパウロから金塊のカバンを持って来た男の足に手錠を
掛けて、動けないようにして、右手の利き腕に片方の手錠を掛けてそれを
足の手錠に結び、完全に動きを封じていた。窓は締め切り、ひっそりと駐
車する車から配下の運転手は富蔵達の様子を見ていた。

富蔵は目星を付けた男に近寄ると小声で『コーヒーはもうお飲みになりまし
たか・・』とささやいた。男の顔がぱっと輝くと、安心した様に『もう・・、2
杯も飲みました』と答えた。

微かにカバンを相手に見せると、予定どうりに駅で待機していた配下の男
二人が、近寄ってくると『車にご案内します・・』と皆を促していた。男は
一瞬戸惑ったが、タクシー乗り場の外れに駐車する車に歩いて行った。

富蔵が助手席に座り、配下の男一人がハンドルを握り、もう一人の男とペ
ドロが出迎えた男を挟む様に後部座席に座った。
ペドロの手に消音拳銃が握られているのが見え、銃口がぴたりと男のわき
腹に突き付けられていた。青ざめた顔の男は観念したのか抵抗しなかった。
車が発進するとその後ろからサンパウロから来た男の乗車した車が付いて
来た。

少し駅から離れて町並が少なくなるとスピードを上げて支店の倉庫に急いだ。
倉庫に到着して車を屋内に入れると倉庫のシャッターを下ろしてしまった。

周りは倉庫と資材置き場が並んだ、シーンと静かな区域で時折トラックが通
過する音が聞こえるだけであった。
倉庫の中で、事務所のイスにホテルに居た男二人とサンパウロから来た男
二人が、足と手に手錠を掛けられてイスに縛られ、目隠しと声を出さないよ
うに猿轡を噛ましていた。

富蔵は残るはホテルに居る男一人だと安心して、後は無理なく襲えると感じ
ていた。
時間的に間合いを長く取るとホテルに居る男がどの様な行動をとるか予測が
付かないので、考えてしまった。

受話器をとり、ホテルに残って見張っているマリオに電話した。
マリオは4名を人質に取ったことに驚いていたが、ホテルの部屋の男は様子
が分からないと話していたが、朝食も食べては居ない様で、食堂にも顔も出
さずジュラルミンの現金カバンと部屋に篭っていると伝えてきた。

富蔵はハタと思い浮かんだ事があった。それはこちらに来るときに何かの用
意に毒薬と眠り薬を用意して来ていたからだ・・、3人組と銃火をを交えてカ
バンの現金を取り戻す事は危険で、これからの行動も隠密にしたいと考えて、
スミス商会の保安幹部から貰って来たものであった。

朝食も食べていないのであれば、部屋に朝食を運んで食べるという事が十分
に考えられ、すぐに行動を起こしていた。人質は配下の男達に任せて、ペド
ロと車でホテルに急いだ。

ホテルに到着すると男が朝食を部屋に運で来るように、食事をいま注文した
ばかりだと教えてくれた。
富蔵は一瞬これは大きなチャンスと感じていた。マリオに事の計画を教えて、
眠り薬をコーヒーの中に入れれば間違いなく成功すると感じた。マリオは手渡
された眠り薬を手に台所に飛んで行った。
台所から大きな盆に並べられた朝食の皿が出てきた時であった。

若い黒人のボーイは食堂に置かれているコーヒー沸かしの横で新たに入れる
コーヒー豆を挽いていた。
マリオは器用にコーヒーカップを用意するふりをして、一瞬ポットに中に眠り薬
を入れる事に成功した。
小さなコーヒーポットに新たにコーヒーをボーイは満たすと、それを盆に載せて
コーヒーカップを横に並べると盆を持って部屋に配達して行った。

食堂からそれを眺めていた富蔵とペドロは瞬間、成功と感じた。

保安幹部が話していた、コーヒーに混ぜる事が一番で、まずバレると言う事は
無いと聞いていたので安心していた。
男が居る二階の奥部屋の安全なテラスに朝食の盆が置かれ、ボーイが部屋か
ら出てくるのが確認された。
後は時間の問題と思った。富蔵は庭の奥のベンチに座って男が食事をするの
を見ていた。
コーヒーカップが何度か男の口に運ばれ、飲み干すのが見えていた。

富蔵は作戦が成功したと感じた。後は時間を見計らって部屋の現金トランクを
取り戻せば良いと感じていた。
テラスに居る男はコーヒーカップを手に新聞を見ていたが、立ち上がるとぐらり
と身体を揺らすと、ゆっくりと部屋の中に消えて行った。
ペドロが『眠り薬が効いて来た・・』とつぶやいていた。

しばらく間合いを見てその部屋のドアをノックした。何も返事は無かった。
身軽なマリオが隣のベランダからその部屋に人に見られえないように潜りこんだ。

表のドアが微かな音をして開かれ、マリオが手招きした。富蔵とペドロが部屋に
入ると、ベッドルームに受話器を握ったまま男が微かに寝息を立てて横になって
いた。

受話器から微かに人を呼ぶ声が何度も聞こえていた。まだ通話状態だと感じた。
訛りの無いポルトガル語でしきりに緊張した様子で受話器の向こうで人の名前を
呼んでいた。
ペドロとマリオが顔を見合わせて富蔵にどうするか目で聞いていた。

富蔵はおもむろに受話器を取り上げると、『男達を人質にした。何か用がある
か・・』と聞いた。
相手の男の声は悲痛な声で『3人は家族だ、殺さないでくれ・・』と何度も哀願
した。

『話の粗筋を息子から聞いたが、途中で昏睡したのか途切れてしまったが、す
でに一人も拉致されて居るようだから、俺の負けだ・・、何が欲しい・・!何が俺
に出来るか言ってくれ、金かー!』と聞いてきた。

富蔵はおもむろに、『お前の家族を買い戻したいか・・』と答えた。

2013年6月16日日曜日

私の還暦過去帳(381)


 カリフォルニア州の水不足、

今年の異常渇水はカリフォルニア州に渇水非常事態の宣言となりました。
5月からは15%の節水令が出て、違反すると罰金となります。

07年度の使用量から15%です、08年度はボランティアでの各自
の家庭で任意の節水でしたが、今年は違反者には罰金と言う脅しでの
節水となりました。

5月からは水代の値上げもあり、かなりの締め付けとなっています。
それにしても去年の雨量が予想を反して少なく、07年度からの渇水
で貯水池も水位が低くて08年度の雨量では貯水量が増えなかった事
が原因となっています。
今日は5月1日ですが珍しく雨が降って、皆が大歓迎をしています。
山間部では5cmぐらいの降雨量が見込まれ、これでかなり潤う事は
間違い有りませんが、乾き切った大地を完全に湿らせる事は不可能と
思います。

これで灌漑農業が主体のカリフォルニア州の農業は大打撃です。
すでにトマトの植え付けも放棄されたところが有ります。
かなり昔ですが私の子供達がまだ全員、家に居た時代です、シャワー
や洗濯の水もかなりの量になっていました。

割り当て量は1日、500ガロン(約2000リッタ)でしたので洗濯な
どは育ち盛りの子供三人、家族5人ではかなりキツイ節水でした。

その頃、不動産管理の仕事でアパートの管理をしていたので、そこの
洗濯場のカギを所持していますので、仕事の合間に家族全部の洗濯
をしていました。

今では夫婦二人ですから15%の節約は簡単です、4月から徹底し
た節水テストを1ヶ月間しました。
先ずは、庭や家庭菜園のスプリンクラー灌漑設備のタイマーの20%
節約のセットをして、灌漑施設のパイプなどを節水型の交換して、水
がポトポトしか出ないチユーブに入れ替えドリップ・イリゲーション設備を
セットいたしました。

シャワーは節水タイプのヘッドに交換して、シャワーのお湯は下のバ
ケツに溜める様にしたら、何と・・、一回のシャワーで20リッタ近くの
お湯が溜まりますので驚きました。

トイレも節水タイプに交換して有りますが、トイレの流し水は、そのバ
ケツの水を使う事に致しました。夫婦二人の水で十分に一日のトイレ
の流し水を賄う事が出来ますので、これが一番の節約と成りそうです。

4月分の水代の請求書が昨日来ましたので、1年前と比較すると驚
く事に、1日、80ガロン(320リッタ)程度も節約していました。

私の節水努力が実を結んだと思いますが、洗濯も週に一回としてい
ますが、もう少し節約をしなければならないのであれば、洗濯機の
すすぎ水を下水に流さず、それを庭に使う事を考えて居ます。

それにしても、現代文明社会では水が無ければ、悲劇に近い状態
となります。私が45年前にアルゼンチンのボリビア国境近くで農業
をしていた時代ですが、渇水が酷くて山の沢の水も枯れて、動物達
が河岸に水を飲みに出て来ていました。

鹿やイノシシなどが群れで来ていましたが、娯楽の無い辺地では魚
釣りか狩猟が楽しみでした。狩猟に出て水が山の沢に無く、焚き火
の灰で食器の皿の汚れを落として、後は紙で拭いていました。

木のツタを切り、ポタポタ落ちる水滴を缶に集めて犬達に与えていま
したが、少し渋い感じですが飲料に出来ました。
沢の砂を掘って、寝る前に胴にひび割れを入れた竹筒をさし込んで
おくと、翌朝にそこに水が溜まっていました。

貴重な水を得ることが出来ましたが、それも狩猟のガイドをしていた
森に住むマタッコ族インジオの知恵でした。
僅かに残っていた溜まり水も、直射日光が当る水面の水を口を付け
て、すする様にして飲めば安全と言う事も習いました。

普通の人間ならば、1日でジャングルの中で発狂しそうな環境でも、
僅かな水で生き延びる彼等の生活力と生命の強さは今でも感心致し
ます。

2013年6月14日金曜日

第3話、伝説の黄金物語、(87)


追跡して追い詰める・・、

日本の敗戦が天皇のポツダム宣言受諾で無条件降伏となり、海外在留
邦人達が大きなショックと混乱も起きていたが、ペルーに勢力を持つ中
国人達が大きな日本人社会を持つブラジルで、邦人社会をを食い物に
しだした事は富蔵には赦しがたい犯罪と考えていた。

富蔵が日本人達の苦労を知っていたからであった。

ホテルに滞在して犯人達の様子を探っていたペドロとマリオがかなり詳
しい情報を持って来た。
部屋には食事時間でも、誰か必ず一人は残って現金のトランクを見張り、
用心していることが分かり、ホテルの使用人から聞き込んだ話では、側
には拳銃を2丁も置いている事が分かった。

これではホテルの中で、こちらから襲撃して現金のジュラルミン・カバン
を奪うという事は無理と判断した。騒ぎを起こす事はこれからの全体を
考えると、それが不利になることは分かっていた。

一番確実で、後で問題を起こさない様に隠密に行動しして、3人を抹殺
してしまう事が最善と感じていた。スミス商会の保安責任者から富蔵に
『いくら有能な男でも死ねば死人に口なし』と助言された事を思い出して
いた。
ブラジルでも僻地のカンポグランデで三人が消息不明となっても、犯行
集団がいくら政治力があっても捜索して探すということは困難を極めて、
ペルーから彼等が影響力を駆使できる事はまず不可能と感じていた。

富蔵はカンポグランデに1940年代までの線路工事で働いて居た日本
人達が多く住み着いている事を聞いていたので、調べると何んと・・、沖
縄県人がかなり居る事が分かった。
19 1 0 ~ 1 9 1 4 年の頃、南マット・グロッソ州トレス・ラゴアスと西方ボ
ルト・エスペランサを結ぶノロエステ鉄道の敷設工事に従事した沖縄県
人が、この地帯に集まり始めた。

また初期移民でアルゼンチンへ流れていた県人達がラプラタ河をさか
のぼって来て、この沖縄県人の集団化に加わった。以後、南マット・グ
ロッソ州のこの地帯は沖縄県人が集中する地区としての“ 特色を保つ
のである。
この南マット・グロッソ州において、1 9 1 0 年代に始まった集団地とし
て名前の記録されているのはセグレード植民地( 1 9 1 7 年) ハンディラ
植民地( 1 9 1 8 年) の二つである。

富蔵はカンポグランデの下町で沖縄ソバまで食べられるという事を聞き
込んで、早速、ランチに出かけて行ったが、珍しいお客だと、特盛りの
沖縄ソバのどんぶりを出してくれた。

昔、上原氏の家で食べさせて貰ったと同じ味と麺で、久しぶりに心い
くまで味わっていた。
サンパウロからの客という事で話も弾み、あらゆる町の情報も直ぐに
教えて貰った。

富蔵達のオフイスにペルーまでの飛行機をチヤーターしたいと、見積
もりをしに来た男がいた事が分かった。カンポグランデには2機しか飛
べる飛行機がないので、どちらかに頼む事しか出来ないので早速そ
の事を知ると作戦を練って皆で相談していた。皆の意見をまとめると
簡単な筋書きが分かった。

ペルーまでの飛行を安い値段で契約して、途中、チャコのパラグワイ
領内で飛行機の故障と不時着させて、そこで3人を飛行機から降ろし
てエンジンの調子を見ると言う事で、置き去りにするという事の粗筋が
決まった。
灼熱のチャコ地方は水がなければ半日も生きてはおれない場所だか
ら、事故として処理される事は間違いなく、パラグワイ領内でボリビア
とチャコ地域の紛争状態地帯の捜索など無理と感じていた。
程なく計画が練り上げられ、ペルーまでのチヤーター飛行を見積もり
に来た男が、ある日、沖縄ソバを食べていたという事を沖縄県人から
聞き込んで来た。

少し町外れの下町の商店街であったが、そこで固まって生活している
沖縄県人達が店を出していたので見知らぬ他所からの男が来れば、
直ぐにバレてしまう事は明らかであった。
その男はペルーで沖縄ソバを食べていた経験があると感じた。

同じホテルにはペドロとマリオが宿泊して彼等を見張っているので、
直ぐに彼等が動いた事は連絡が来ていた。しかし、チヤーター飛行機
の見積もりを頼んできた割には、彼等が慌てていない事が不思議であ
った。何かあると感じていた。

それは電話盗聴から直ぐに判明した。後一人がこちらに向かって汽
車で来ている事が分かった。
それはどの様な人物か・・・、一切身元が割れていなかった。
現地人のブラジル人か? それとも中国人か?誰か分からないので、
うかつにはこちらも動けなかった。
重要な接点がここカンポグランデのホテルにあると言うことだけは間
違いなかった。

スミス商会の保安幹部から情報が来ていた。中国人の男が100グラ
ムの金塊をまとめて買い込んだと言う情報で、そこで不審に感じたス
ミス商会が調べた所が、日本人達が騙し取られた金額に近い金塊の
買い込み量であったから不審者としてマークされたと感じた。

金塊にしたら僅かな枚数で札束より簡単に腹にでも巻き付けられる
と感じた。彼等中国人達の中で、一枚絡んでいる男が居る事が分か
った。札束を持って逃げる3人も、かさばる紙幣をトランクに入れて逃
げる事の難しさと、目立つ荷物が危険を呼ぶ事があるからで、ここま
で来て彼等が金塊に代えて飛行機で飛ぶと感じた。

其処まで分かれば後は汽車を見張る事にしていた。それは簡単に人
物が特定出来た。
サンパウロからの長距離列車が1本しかないので、途中の駅で待ち
構えていた営業所の男達がそれらしき男2名を探し出していた。
その情報は電話と電信で知らせが来ていた。

一人は護衛と感じられたが、一人が小さな皮のカバンを大事に股に
挟んで座っている事で推察が出来た。最後尾の一等車に乗車してい
るので、乗客がまばらな一等車を夜間に襲う事も可能であった。
しかし時間的に準備が間に合わないと感じていたが、ペドロも所持し
ている消音拳銃を使い、襲う事を思い付いた。

カンポグランデには早朝到着するので、それより3時間ほど前に乗り
込み朝方その二人を襲い、金塊を押さえて二人の身代わりとなり、
ホテルにのり込み隙を見て3人を襲う事を考えていた。
富蔵が中国人に成りすまして、ホテルに行き金塊を見せて安心させ、
隙を突いて襲う事が簡単だと感じた。
その様な話をまとめていた時に『飛んで火にいる夏の虫』と感じる事
が事が起きた。

沖縄ソバを食べに出ていた男を拘束して、他の二人に知られずに誘
拐してしまった。
その男を締め上げて、吐かした情報は貴重であった。カンポグランデ
に待機する男達と、サンパウロから来る男達は顔は知らないので、
早朝の出迎えのお互いの確認の合言葉は簡単で分かり易い言葉で
『貴方はコーヒーは飲んだか?』という問いに、『2杯も飲んだ』という
答えで確認する事が決まっていた。

それさえ分かれば後は簡単であった。無理な計画も必要なく、無駄
な時間も掛けることなく、確実に襲い、相手を押さえる事ができると
感じた。

一駅前に乗り込み、合言葉を交わして用心に一駅前で下車する様に
させ、車に乗り込ませて、そこで金塊を奪い、ホテルの残り2名と接
触して金塊を見せ、隙を見て二人を処分する事が無理なく出来ると
感じた。
支店の車を用意させ、汽車の時間に合わせて富蔵とペドロが一駅
前に待機して待ち伏せする事が決まった。
富蔵もカバンからワルサーに消音器を出して取り付けた。ペドロも
消音拳銃を用意して、細身のナイフも用意していた。
時計を見ると十分に間に合う時間で支店の配下が運転する車で
一駅前に向かった。

ひなびた町に停車すると支店の配下の案内で駅構内でひっそりと
待機していた。早朝の駅は人影もまばらで、まだ眠っていると感じ
る駅であった。駅員が3名ぐらいホームと駅構内の改札口に居る
のが分かった。汽車は10分程度遅れて到着した。

最後尾の一等車に乗り込み前もって連絡が来ていた人相の男二
人に近寄ると富蔵が声を掛けた。

『貴方はもうコーヒーはお飲みになりましたか?』と小声で聞いた。

相手も緊張を解いて『すでに2杯も飲んで居る・・』と答えた。富蔵
は彼等に『用心に一駅前で降りて下さい』と声を掛けた。
汽笛が鳴り富蔵は彼等を急がせて下車させた。

構内の外れに朝霧にかすんで停車している車に丁重に案内して
ドアを開けて乗車を勧めた。
護衛の男が助手席に座り用心しているのが分かった。車内はヒ
ーターで暖かくカバンを手にした男が席に座った
瞬間、富蔵はベルトに挟んだ消音拳銃を護衛の頭に付き付け、
『動くなー!静かにしろ・・』と命令した。

同時に配下の運転手が片手で拳銃をわき腹に付き付け、護衛の
拳銃を取り上げた。
眉間とわき腹に同時に拳銃を付き付けられた護衛は青ざめて震
えていた。

ペドロはカバンを持った男の横に座り、消音拳銃でわき腹を狙っ
ていた。護衛の男を後手にして手錠を掛け、猿轡を口にして車の
トランクに押し込み両足も動かないように縛った。
カバンを持った男は簡単に護衛が襲われ、身動きできないように
されたのを見ると、観念したのか静かにして座席に座っていた。

車はカンポグランデの駅を目指して疾走して行った。

2013年6月12日水曜日

私の還暦過去帳(380)


日本を歪めたゆとり教育、

私が日本の教育で近年感じる事があります、日本に定期的に訪問して
生で感じるのは、現代教育の洗礼を受けた学生や児童達に気概の無
さをモロに感じる事があります。
自己主張はするが、社会的な環境では、自己保身と個人的にはわれ
関せずの立場をとる子供達を多く見かけたのでした。

ゆとり教育が日本で実行されていた時代に、台湾出身で、中国大陸で
もビジネスをしていた人でした。彼は日本語は聞くのはかなり分かりま
すが、会話は難しいと話していました。

彼の父親は戦前の早稲田大学を卒業していたインテリーで、考えは日
本式教育を受けていたので、価値観が日本人と同じ感じの考えで決め
ていました。

時々アメリカの長男の家に遊びに来ていたので、話す機会がありまし
たが、中国大陸の教育事情を良く知っているので、日本のゆとり教育
に猛然と反対していました。

彼のその理由は、

1、中国大陸では義務教育時間が1ヵ年で日本と20日間も授業時間
  の差が出る。

2、中国では激烈な競争社会で蹴落としの段差から落ちたら、人生の
  最終まで決まってしまうので、受験競争、テストの偏差値競争など
  は日本と比べ物にならないぐらい学生達の中では激烈な教育競争
  の中に居るから、直ぐに日本の教育との格差が開く。

3、偏屈的な中国愛国教育の徹底とそれを根底に日本と対抗して、教
  育の格差の差を無くして、日本に追い付き、追い越す事を主題にし
  ている。

4、日本の中国投資において、日本の先端技術の移転とコピー、盗用、
  製品資材分析での特許侵害などの正義感の無い中国大陸の教育
  に益々日本は遅れをとる。

彼が話していた事を聞いて、現実の中国大陸を知り、ビジネスを大陸
で起業しているので台湾人ながら日本人的感覚で、ゆとり教育を批判
していると感じました。

最後に彼が言った皮肉が忘れる事が出来ません、

『日本はこのまま行くと、中華人民共和国大和民族自治区に成り下が
る』と言う言葉でした。

しかしながら、あながちこの理論が外れではない事を感じましたが、
それにしても戦前の台湾で日本語の幼児教育から受けて、早稲田大学
を卒業していた人の言葉ですから、それと、北京語と広東語を話す
台湾の知識人の批判です、がちーん!と心に来るものが有りました。

ゆとり教育が台湾人の目で見ても、その彼の兄弟の家族が東京に戦
前から住んで、日本の戦後教育情勢が変化してきた道筋を見て来た
人の批判には、返す言葉が無かった。

端的に言うと彼が話していた事は・・・、

『日本人としての気概と基本的な義務教育がなされなかった。』と言う
事だと感じました。

資源も無く、特に石油資源、天然ガス資源の重要なエネルギーも無く、
食料自給も30%を切り、人的な資源も少子化の影響で、ますます先
の悲観的な数課しか見られなくなり、最後の日本人の重要で、かつ
貴重な資源の頭脳まで日本が切り捨てるようになったら・・、

日本は本当に、彼が皮肉った、『中華人民共和国大和民族自治区
に成り下がる』と言う事が、皮肉ではない様になると思います。

2013年6月11日火曜日

第3話、伝説の黄金物語、(86)


敗戦を食い物にする詐欺師たち・・、


その連中はどうやら日本で育って、ペルーに来た広東人らしい事が判明
していた。

犯人達の一部がペルーに逃亡しようとしている事に疑問があったが、そ
れは直ぐにスミス商会の情報担当から詳しいニュースが送られて来た。

ペルー政府が日系人達から押収して保管していた、かなりの日本円が
終戦で日本国貨幣の暴落を見越して、横流し的な手段でペルー在住の
中国人系両替商に流れた様だと報告が来ていた。

誰かが裏の世界で手を廻して、紙くずになる前にブラジルに持ち込まれ
て、まじめな愛国的な日本人達を騙し、丸め込んで売りつけたと感じら
れていた。

そこまでの情報を富蔵達は掴むと、ブラジルのマットグロッソにある支
店に連絡して、パラグワイ経由、ボリビア経由のペルー各方面の逃亡
ルートを見張らせていた。

カンポグランデにある支店から、駅前のホテルに宿泊する東洋人が日
本語とスペイン語を混ぜて電話していた事を報告してきた。その仲間は
3名だと言う事が報告で来ていたが、彼等は金回りが良く、羽振りを利
かせ、部屋に女を連れ込んで豪遊しているとあった。

富蔵は手下の若者でモレーノの推薦で親戚から選ばれて入社して働い
ていた、利発で運動神経が抜群のマリオと言うモレーノの助手を使う事
を、彼から勧められ同行する事にしていた。

モレーノの助手で飛行機の操縦から、抜群の射撃能力、富蔵が手ほど
きした空手・合気道もかなり上達して、これからの会社に有能な男であ
った。

サンパウロ郊外のサムの飛行場からカンポグランデまで飛ぶ事が決ま
り、ペドロが全て用意を整えると、マリオを交えて作戦を練っていた。銃
器も用心にライフルからマシンガンも用意されていた。

ペドロが操縦席に座り、その副操縦士としてマリオが横に座り、富蔵は
後部座席に座ると、混載されたカンポグランデまでの荷物を点検すると
離陸していった。ブラジル政府の郵便公袋、銀行の重要連絡袋、緊急
配達の薬品梱包などが
あった。
飛行経路は慣れた同じ所を飛ぶので、自動操縦装置にして爆音の中
で、これからの計画を皆で話をしていた。富蔵は今回の事件で日本人
社会を食い物にした奴等に怒りを隠さなかった。
現在、どのくらいの日本人や日系人が騙されたかは分からなかった
が、かなりの被害と感じていた。

カンポグランデには昼過ぎに到着して、遅いランチを食べながら支店
の男から報告を聞いていた。同じホテルにはペドロとマリオが宿泊し
て彼等を見張り、探りを入れる事になった。
富蔵は支店裏の会社住宅に泊まり、サンパウロと連絡していた。

電話局に支店で顔が利く社員が、『どこに電話したか・・』『誰と話したか・・』
ひそかに調べて来ていた。
やはりペルーのリマで、勢力のある中国人社会の裏社会のボスの一人に連
絡していたと報告が来ていた。やはり黒幕は戦時中も自由に活動していた
中国人の裏社会の絡みが分かって来た。

彼等は戦時中もアメリカのサンフランシスコとも行き来して、動きも、活動も
封じられ、強制収容されている日本人達を尻目に、あくどい稼ぎで日本人達
を食い物にしたと感じていた。

何処と無く彼等のやり方が分かって来たが、そこの裏には大きな政治的な
力が裏にあると感じていた。
中国人でも日本で育ち、南米で商売してペルー辺りで大きく儲けてサンフ
ランシスコの中華マフィアと繋がる組織が僅かながら分かって来た。
スミス商会の大きな情報援助があり、その全体図を描いて作戦が出来る
事に感謝していた。

ここで彼等の芽を摘み、絶やさないと敗戦で日本の影響が無くなったブラ
ンクを彼等が食い物にする事は目に見えて分かっていた。

カンポグランデに居る男の一人が彼等が企画する大きな計画の立案して、
段取りして実行している中心的な人物と分かった。
それ等の情報もスミス商会とダイアモンド商会の情報網から聞き出して来
た貴重な情報であった。富蔵達には重要な知らせで、スミス商会の保安幹
部の手助けに感謝していた。

その保安の責任者から富蔵に『いくら有能な男でも死ねば死人に口なし』
と助言され、この日本人を食い物にした犯罪者を探し出して、彼等が持ち
逃げした日本人社会からの資金を取り戻す事を狙っていた。
富蔵達には彼等が現金を持って逃げていると感じていた。

その証拠に彼等が飲み食いして遊んでいる金以外は、何処にも送金や
移動された痕跡が無かったからであった。
それと彼等が大事に持ち運んでいるジュラルミンのトランクが目撃されて
いて、その容量がかなりの札束を運ぶのには十分だと思われた。

彼等が危険を察知して飛行機を探して手配していることを掴んで来た。
3名が搭乗できる飛行機は限られていて、航続距離から図るとカンポグ
ランデには2機しかなかったが、そのうちの1機が富蔵たちの所有機で
あったから、後は簡単に見張ることができた。

電話盗聴から彼等の動き出した事が判明した。事態が急展開してきた。

2013年6月9日日曜日

私の還暦過去帳(379)

人は見かけによらず、

先日、パソコンで何気なく動画投稿サイト、YouTubeを見ていたら、
スーザン・ボイルさんが熱唱する歌声が耳に聞こえて来ました。

私は最初、彼女の姿を見ても関心もなく、ただあまりのアクセス数の多い
投稿サイトだと思いながら見ていたのでした。
彼女が歌いだすと同時に、神経はパソコンのモニター画面に釘付けとなり、
耳をそばだてて聞いていました。

歌唱力はまさに人を引き付ける力があります。
澄んだ歌声とボリユームある声量の響きで、私は圧倒されて見ていました。
終るともう一度最初から聞いていました。

この世には天分の才能があっても、花開く事もなく朽ちて行く人も多いと
感じていました。

その時、45年近く前にアルゼンチンのサルタ州で私が働いていた農場で、
かなり年配のインジオが竹笛を作り、自分で吹いていました。

その響きがなんとも心に染み渡る感じが致していました。

私が最初に聞いたのは水揚げポンプの見回りに、夜のあぜ道を歩いてい
た時でした。
何処からともなく聞こえてくる澄んだ笛の音色に心奪われて、立ち止まって
聞いていました。
水揚げポンプのジィゼル・エンジンの微かな音に混じって聞こえて来る笛の
音色は、何か心の底からの笛の響きが出ている様な感じが致しました。

水揚げポンプ場の見回りが済むと、音につられて何処で吹いているか見に
行きました。
農場労務者達の小屋でしたが、独り者が居た少し離れた小屋で響いてい
ました。
小屋の前に薪として何処からか持って来た材木の上に座って聞いていました
が、小屋の前では焚き火が微かに燃えていて、ヤカンがその火に吊り下げ
られていました。
その側で男が笛を吹いているのが見えましたが、一曲終ると、側のヤカン
からマテ茶のボンベにお湯が注がれ、それを飲んでいるのが分かります。

私は相手に気ずかれないように静かに座っていましたが、マテ茶を飲み終
わると男は次の曲をまた吹いていました。

まさに心に染みる旋律で、その音が闇夜を突き抜けて、遠くジャングルの
中まで響いているかと思う様でした。

しばらく聞いていましたが男が笛を吹くのを止めて、小屋の中に入りました
ので私も家に帰る事にしました。
微かに焚き火の明かりが瞬き、夜風に煙が流れるのが分かりました。

しばらくして畑で会ったその年配のインジオに、竹笛の作製を頼みました。
しかし、今の時期は良い竹が採れないので、無理だと断られましたので、
いつでも良いからと頼んでいました。

忘れた頃に、私が水揚げポンプをいじっていた時に来て、部落に帰り、植え
付けするトウモロコシの準備をするからと言って、竹笛を一本持って来てく
れました。
明日の朝、町に出るトラックに乗せてくれと話していましたので、了解して
その場は別れましたが、その夜、月明かりの下で聞かせてくれた笛の音を
聞いていて、涙が出て来ました。

側で寝側って居る犬も、耳だけは音の方を向いていました。
黒々と巨大な壁となって静まり返るジャングルの中にも、染み透る様に響い
て居ました。
隠れた、心揺さぶる音を奏でる才能がある人が、この世の中には居るのだと
その時感じました。

2013年6月8日土曜日

第3話、伝説の黄金物語、(85)


ドイツと日本の降伏、

1945年2月、米英ソの3国でヤルタ会談が開かれ、ドイツ降伏後の話し合い
が開かれ、日本の無条件降伏への話し合いもなされていた。

全てが時の大きなうねりとなって動き出していた。ルーズベルト大統領の死、
その後トルーマン大統領の就任、イタリアではムッソリ二ー総督が愛人と逆
さ釣りにされ処刑され、すでに原子爆弾もアメリカでは完成していた。

そして5月には、ついにドイツが連合国に降伏した。

その情報はすでに予測済みで、ドイツ人のブラジル社会では大きな動揺もな
く、受け入れられ、すでにその準備まで終わっていた。
スミス商会が連合国に連絡して、多くの情報を手にしていたからで、すでに
戦局が傾き、硫黄島の争奪戦も決着が済んで日本の敗戦も時間的な秒読
み状態だと感じられていた。

スミス商会とダイアモンド商会の全ての関連事業も含めて、この第二次大戦
終了後の動きを見越して全てが予定どうり完了していた。

これまでに豊富に蓄え、集めて持っている金とダイアモンドや現金も、個人
としては当時の貨幣価値として、かなりの金額を所持していた。
富蔵が長い間貯えて隠していた砂金や金の延べ棒も高値で売リ払い、ドル
とポンドの外貨に交換してしまった。
それとサンパウロ郊外に農地を買い、これからのサンパウロ市発展に投資
していた。
僅かな金の延べ棒が非常用として残してあるだけで、現金の札束が金庫の
奥深く積まれていた。

ブラジルの日系社会でも、絶対に日本が連合国に勝利するという、狂信的
な勝組と言われる集団が出来ていた。敗戦を口にする者は抹殺される様な
事態まで起きて来た。

7月にはポツダム会談が開催され、米英ソ華の4カ国が共同宣言を行い、
日本無条件降伏の項目を煮詰めていた。全ての日本の降伏条件がが連合
軍側で決められ、8月には広島と長崎に原子爆弾が投下された。

この原爆投下の詳しい被害状況が連合軍からもたらされ、富蔵達が驚愕
の驚きで聞いていた。一つの都市が一発の原爆で壊滅したと言う事は誰も
信じられない話であった。

富蔵はブラジルのドイツ人社会を見て来て、その混乱する事態を収め、こ
れからのドイツを再建する方策と対応が進められていくのを見て来て、日本
人社会でも混乱といがみ合いの世界を作り出さないように考えて、その対
応と準備を始めていた。

8月15日、日本が無条件降伏したという二ユースが世界を走り回った。
富蔵達は冷静に動じることなくそれを正確な情報で分析して、受け入れた。

事業も全て順調で、何も問題なく動いている事を考えると、日系指導者達
が収容されている事を考え、そのこれまでの慰問活動や、残された困窮家
族の手助けをして来た強みは、これからの活動に大きな支えと成っていた。

先のドイツ降伏の時に見たドイツ人社会の様子は、富蔵には良い経験であ
った。第二次大戦終了と同時に、日系人指導者達の釈放をブラジル赤十字
を通じて政府に働きかけて、順次家族の元に帰宅が許されて行った。

富蔵達が資金を集め、準備して段取りを整えて、今まで目立たない様に活
動してきた事が多くの収容者を助け、喜ばれて家族の元に帰宅する姿を見
て、富蔵は自分がサントス港から逃げ出して、サンパウロに落ち着いて活
動して来た事を振り返っていた。

これまでの多くの友人や仲間に恵まれて、スミス商会や、ダイアモンド商
会の援助と、ビジネスに参加し、チャンスを得て、自分達が育って来た道
を振り返り、今まで全力で走り抜けてきた事が無駄ではなかったと感じて
いた。
しかし、ブラジル日系社会の中で、終戦と同時に色々なデマや、詐欺的な
行為が起きて来た。何処からか終戦で価値が無くなった帝国日本の紙幣
を、密かに持ち込み他に分からない様にして、移住地や奥地の日本人居
住者に対して、『日本は戦争に勝利して祖国日本の価値ある円を良い利
率でブラジル貨幣と交換してやる・・』と言葉巧みに持ちかけて金銭を騙し
取る人物などは現れ、財産を全て詐欺行為で取られた人まで出てきた。

それに輪を掛けるように、『日本の連合艦隊がサントス港に入港して、間
もなく日本に凱旋帰国するので、今であったら輸送船で無料で乗船帰国
できるので、財産を整理してサントス港に早く行けば間に合う・・』

とかの甘言で言葉巧みに価値が無くなった円の紙幣を掴まされ、僅かな
家財を整理した金までを全て騙し取られると言う事になった人や、サント
ス港で路頭に迷う日本人が居ると知らされ、富蔵達は直ぐに行動を起こ
していた。
富蔵達の行動は早かった。間を居れずに電信で奥地の支店に連絡が飛
び、その重要な犯行人物を拘束してかなりの金銭を取り返し、詐欺罪で
警察に突き出していた。

富蔵達は犯人を警察に突き出す前に密かに首領格の男を尋問して、共犯
者と仲間の名前を聞き出していた。サントス港で路頭に迷う幾組かの日本
人には、帰りの旅費と生活資金を持たせて、汽車に乗せて送り帰していた。

そして直ぐに共犯者の追跡を始めて、次の犯行を阻止するように動いて
いた。印刷された今回の事件を詳しく報じた広告を奥地の各移住地に配り、
敗戦の惨状なども写真で掲載していた。

奥地の支店から彼等が騙し取った金銭を手に、ボリビア経由でペルーに
逃亡を計画している様だと連絡が来ていた。富蔵達は直ぐに行動開始し
た・・・、

2013年6月6日木曜日

私の還暦過去帳(378)


現在、初夏のメキシコに休暇で来ています。

10年前頃から度々、来る様になったのは最初に来た時はひなびた街で、
まさに海辺の爽やかな気候と、ハワイと同じ緯度でありながら、カリフォ
ルニア州と同じ様に乾燥したもっと爽やかな所でしたので、いつか引退
したら物価も安いこの地に住んでみたいと言う願望が断ち切れず、当時
は安かったコンドの一部屋を購入したのが始まりでした。

当時カボ・サンルーカスの町は人口2万人程度で、車で10分も走ると半
砂漠地帯に出ていました。今では街は郊外に延びて、どんどんと広がっ
ています。
大きなホテルやコンドのリゾート開発で、多くのアメリカやヨーロッパから
の引退者達が注目する事になりました。

去年の時点で、人口も10年間に5倍以上も増えて、職を求めてカボに来
る人たちが後をたちません。仲良くなったメキシコ人から聞いた話ですが、
田舎のユカタン地方では1日、4ドルから5ドル程度の日当での仕事しか
見つからなくて、此処の建設工事現場で左官の仕事をしていると聞きま
した。
此処では工事現場が多くて、月に450ドル程度の実入りがあり、雨も降
らないので休む事も無い所だと言っていました。

確かに此処では1年のうち、320日は晴れていると言う事で、気温も一定
ですが、8月から9月が少し蒸し暑くて気温も高めになると聞きました。

10年前はまだJALパックがカボの旅行パックを宣伝していた時代です、
今はそれも無くなり、カボに在った日本の大手旅行社、2軒の現地事務所
も現在は無く、日本人経営のダイビングショップやインターネット屋もすで
に在りません。

現在では何処を歩いても不動産屋の看板があり、それもアメリカの大手
のチエン店の系列店で、アメリカ人を対象にしていますが、今の海外か
らの観光客の割合はアメリカ人が9割で、他はヨーロッパ人とカナダから
の観光客と言う事でした。

しかし、この所の経済不況でアメリカ人の引退者が、もっと安くて生活環
境が良い国と場所を探して移り住んでいますので、グァテマラなどはメキ
シコより、もっと安く生活出来る事で注目を集めています。

今日もカボの町を買い物で歩いていましたが、バスは10分間隔で来ま
すし、7ペソで何処までも路線は乗ることが出来ます。しかし、その9割
はアメリカから来た、スクールバスの中古車です、大抵は何処でも乗降
する事が出来ます。

今日はCCCという大型スーパーに買い物に行きましたが、乗る時にス
ーパーの店を言っていたら、「ここだよー!降りなさい・・」と怒鳴って知
らせてくれました。

店は総合店舗で家電から衣料品まで何でもあります。そして品物は相
対的にアメリカより2割は平均的に値段が安いと実感いたします。

野菜類もアメリカのスーパーとなんら変わりはありません。
ローカルの魚はまた格安で、大抵の魚がそろい値段も格安でした。

アメリカ人のベビーブーマーの引退が始まりましたので、市内の店や、
スーパーなどではアメリカ人の年配引退者と分かる人達と沢山出会い
ました。

昨日も、アメリカの寒い地域で、ミネソタ州などの寒い州から来た人と何
人か会い、それでアメリカ東部から来た人が多いと感じました。

昔はハワイが注目のリゾート場所で多くの人を集めていましたが、なに
ぶん日本人が押し寄せる様になってからは不動産の値段から、全て高
騰して、フロリダ州も同じでアメリカ東部の資産がある人達が投資先と
したので、庶民の階層は次はメキシコを目指したと思います。

その中の一組が私達夫婦でした。すでにメキシコも、かなりアメリカ国
境地帯では価格の上昇で、段々とメキシコ奥深く入った場所に移動し
ています。

現在のメキシコに住む庶民的なアメリカ人達が、生活費としている目標
額は平均で1200ドルから1500ドル程度です。
メキシコ政府はアメリカ政府の老齢健康保険が、ここでもカバー出来る
ように話しが進んでいます。

もしもアメリカ政府高齢医療保険もメキシコでの治療や入院などもカバ
ーすれば、もっと沢山の引退したアメリカ人がメキシコに来ると思います。

400ドルから500ドル程度の引退者アパートを借りて生活しています。
食費ももアメリカの半分程度で暮らせる事を考えると、夫婦二人で十分
に暮らしていける米国年金収入です。

大抵のアメリカ人は自分の家を貸したりしてメキシコに来ていますので、
その家賃収入でアメリカよりもっと豊かな老後を過ごしている人が居ます。

私達夫婦はもう日本には帰国する事は考えてはいませんので、これか
らは気候の良い、暮らしやすい、医療が十分に受けられて、治安が良い
ところを考えています。

幸いにメキシコのある地域はそれに適応していますので、最適な引退
者ホームがある場所が出来ています。

僅か10年程度で、このカボの町も様変わりして、私が驚くほど変化して
いますが、それもメキシコサミットが昔、カボで開催されたので、全て開
発のきっかけとなったと思います。
僅かな間にアメリカ資本が巨大な投資をして、今ではメキシコで一番開
発が進んでいるという地域まで言われるようになり、港に係留されてい
る船さえ変化しています。

来る度に巨大に改築された飛行場には、自家用ジェット機が何十機と駐
機場に並んで、またレンタカー会社の事務所も全てのアメリカ資本の会
社が並ぶ様には驚かされます。

何かこの地に来ると、過去の事が思い出される事が少なく、全てが時勢
の激流に飲み込まれて消え去ろうとしていると思います。

私が知り合ったメキシコ人もこの土地に長く住んでいると言う人は少なく、
5~6年前に来た人が多い様です。
先日もバスの中で会った人は、メキシコ市から3年前に移住して来たと
いう人でした。
毎日のように会う釣り船の持ち主の息子は、6年前にこの土地に来たと
話していました。
私がふらりと来て、この町が気に入ったのと同じ様に、多くの人も心感じ
て移住してきたと思います。

ここでは英語が話せないと仕事にもビジネスにもならず、ここには新しい
メキシコがあるという事をメキシコ人が言葉で話す事を聞いて、何か難し
い事は知りませんが、世界にはこのような町もあると感じます。

2013年6月4日火曜日

第3話、伝説の黄金物語、(84)

 

 
しばらくメキシコのカボに滞在していました。

10年の間に殆どの日本人が居なくなり、現地人と結婚している日本人
が一人居るだけです。百年近く前に、この地方の荒れた半砂漠地帯の
バッハ・カリフォルニア半島の突端と、ラパス地域で漁業に従事してい
た日本人達の末裔が殆どが現地人化して、名前だけが日本名で居る
だけです。

顔を見ただけでは日系とは感じる事は出来ません。それは3代以上も
現地人のメキシコ人の血が混じると日系としての特徴も消えて、最後
は名前だけが残っていると感じます。ブラジルでも同じような事を見ま
した。
戦前の昔しと戦後の時代的な分断があるからです。第2次大戦と言う
戦争で日本と断絶した日本人社会に住む多くの日本人が現地人と結
婚して同化して行ったからと感じます。

狭い移住地の中で結婚適齢期の相手を探す事は難しく、戦時中は他
の地域に移動も制限され日系人の交流も出来なかったからです。

富蔵達が居たブラジル社会もアルゼンチン社会も又パラグワイ社会で
も、移動と居住制限があり、週に1回は警察に居住証明のために出頭
しなければならない命令も出されていたと聞きましたが、アルゼンチン
ではドイツ船舶が南米の連合軍国で一番待遇が良いアルゼンチン

に降伏して、捕虜収容所では殆ど自由に生活できる環境だったと聞き
ましたが、サッカー場まであり、付随の農場では家畜まで飼い、終戦後
には殆どの捕虜収容人員が居なくなり、ドイツ人居住区に逃げ出して
居たようでした。

それとドイツの敗戦間近い時期には、大西洋に出撃していたUボートの
ドイツ潜水艦は祖国に帰還出来そうもない状況を知り、やはりドイツ系
の影響が大きいアルゼンチン海軍に降伏を申し出て、アルゼンチン海
軍ではドイツ人士官には帯剣まで許して、軍楽隊の演奏で上陸させた
様です。
70年近く前は南米の国境と言っても自由に行き来できる状態で、47
年前にブラジルとパラグワイの国境などはコンクリートの標識が道の
真ん中にあるだけの国境でした。
それだけ、おおらかな待遇と捕虜に対しての環境があったと思います。

私もパラグワイ側からブラジルにアイスクリームを食べに歩いて出か
けていましたが、僅かに旧式なボルトアクションのライフルを持った兵士
が、ぼんやりと道端の陰に立っているだだけでした。

その当時のパラグワイの大統領はドイツ人の2世で、かなりのナチの
影響があった人物も居た事が分かっていますし、ドイツ戦争犯罪者とさ
れた戦犯が隠れていた事は、パラグワイでも死の天使と言われたメン
ゲルやアルゼンチンでは、アイヒマン達がいた事でも分かると思います。

ブラジルでもドイツ人社会は規模が大きく、隣国とのドイツ人社会とも
連帯で繋がっていたと感じられます。私もバスでサンパウロからアルゼ
ンチンのブエノスまで、直行で降りて来る途中で、リオ・グランデ、ドス
ールの辺りを通過するときに、まるでドイツの田舎の様子を感じた事
を覚えています。

その様な状況のブラジル・サンパウロ郊外では僅かであるがナチの狂
信者が残っていたのも不思議ではなかったと思います。
話を彼等が根城とするサンパウロ郊外に戻しますが、ドイツの敗戦色
濃いい状況でも、ゲルマン協会などに反発と拒否をしている狂信者の
幾人かが結束して動いていたと感じます。

スミス商会などはアメリカ系ユダヤ人の会社であるから、その情報網
とビジネスで張り巡らされた仲間と取引先の連絡網はブラジル政府よ
り精度の高い運営をしていたようである。

特にイギリス系のダイアモンド商会もダイアの取引で大きな力を持つ、
ユダヤ系の中でビジネスを運営する上で、大きな力を持っていたと感
じられます。
その様な組織がナチ狂信者に狙いを定めて画策した計画は、絶対に
失敗やミスなどが起きない様な何十にも対応がされていた。

大型トラックがすでに事前に待ち伏せ攻撃に出れる様に何度も走行
訓練が行われて、全てが準備終了の状態で、相手方が動き出した事
は、灯火に飛び込む虫の様な感じであった。

しかし、シュマイザーのマシンガンを、狂信者達二人が所持している
事は間違いなく証拠が取れていたので用心していた。
すでにその対抗として、富蔵達もシュマイザーと自動散弾銃を用心し
て各自が隠し持っていた。
それにトンプソンの自動小銃に100発のドラム弾倉を取り付け、45
口径の弾幕を張る事が出来るようにしていた。

彼等が動き出して、車が農場を出たという連絡が、各待ち伏せ場所
に知らされた。それと同時に大型トラックが無線連絡を受けながら、
計画どうりに待ち伏せするカーブ道の木陰で、エンジンをアイドリン
グして停車していた。

富蔵達は配下の者と見晴らしの良い高台の上から下の道を見下ろ
していたが、草むらに寝て、トンプソン自動小銃の狙いを下の道に定
めていた。微かに未舗装の道路から埃が舞い上がるのが確認され、
合図の白いハンカチが振られていた。

トラックがゆっくりと動き出して、曲がり角に前進して行った。
スミス商会の配下の者が軍用のハンド・トーキーを使いトラックに指
令を出していた。

トラックがエンジンをふかしてスピードを上げるのが確認され、下の
道を加速して突進するのが見えていた。曲がり角の道で古いフォー
ドの車が見えたと思った瞬間、トラックが突っ込むのが見えたが、
フォードの車は上手な急ハンドルで激突は避けて、ボデーを損傷し
ながら草叢に突っ込むのが見えた。

停止したフォードから男達二人が逃げるのが確認された。一人は
足を引きずっていた。富蔵が見ている横で逃げる男達の前にトンプ
ソンの45口径を掃射する音が響いていた。
男達は車の影に隠れてこちらをシュマイザーで撃ち返して来た。

シュマイザーの9mm口径弾が不気味な音を響かせて、富蔵達が
草叢に伏せた上を通過して行った。
狭い山陰の道に男達二人をフォード車の陰に釘付けにしていた。

高台の上から撃つ弾は正確に狂信者達を身動き出来ない様に車
に張り付かせ、動けば狙撃銃で狙い出したので、車の陰に隠れた
ので、相手方はすでにシュマイザーの弾も撃ち尽くしていると感
じられた。

先ほどの大型トラックがUターンしてかなりのスピードを出して突
進してくるのが分かった。ここまでの時間は分単位の短い時間で
あったが、何か時間が長く感じられていた。

スミス商会の保安係りが、消音された狙撃銃のスコープで狙いを
付けているので、彼等は身動きを封じられ、フォードの陰に伏せ
ているのが感じられたが、それもトラックが突進してくる轟音で掻
き消えていた。
腹に低く響く衝突音がこだますると、フォードから瞬間的に火が
燃え上がった。
大型トラックが押し潰す様に車も人間もスクラップにしていた。
トラックの運転席から運転手が火が回る前に飛び出して逃げる
のが高台から見えていた。

それと同時にトラックも火に包まれて燃え上がり派手にガソリン
タンクから火が吹き出るのが見えていた。高台から見て居ると、
逃げたトラックの運転手が車両火災の側で状況を見ていたが、
急に木の枝を用意するとシュマイザーを火災現場から拾い出し
て居るのが見えていた。
狂信者達が撃ち尽くして放り出してあった物と感じた。

火災現場に乗用車が近寄るとトラック運転手を乗車させると
何処かに消えて行った。
狂信者達のフォードの最初の衝突時から、これまでの時間は
3分も掛かっては居ないと思われた。
後はバチバチと燃えてはじける音がするだけで、人通りも無
い田舎道に、遠くで放牧されている
牛が首を長くして火災現場を覗いているだけであった。

この車両火災の煙を見て、近所の農場から誰か乗馬で様子を
見に来て居るのが高台から見えていた。
その乗馬の男も馬が火を見て驚く様子で近くには寄らず、遠く
から見ていたが、しばらくすると馬首を廻すと早足で農場に戻
って行った。

その様子を見届けると、富蔵達も藪に隠してあった乗用車に、
皆で手早く周りをかたずけて銃器をトランクに隠すと、集合場
所の飛行場に向けて田舎道を走り去って行ったが、トンプソン
自動小銃の空薬きょうなどは何処にも落ちては居なかった。
全て予定どうりに空薬きょうのキャッチャーを用意して1個も
逃がしてはいなかった。

皆がひっそりと飛行場に戻って来たが、全員が直ぐに事務
所に揃っていた。
飲み物が用意され、空腹を満たす軽食が配られ、スミス商
会の保安幹部が皆から要点の報告を受けていたが、ミスは
無く成功したと言って、サンパウロのオフイスに電話していた。

トラックの運転手は派手な包帯姿で警察署に出頭すると事故
の報告をしていたが、トラックもフォードも完全に焼け落ちて
骨組みだけになり、潰されたフォードの陰で二人の焼死体が
発見されたが、簡単に事故と筋書きのように処理されていた。

翌日の新聞には田舎道のカーブで出会いがしらに衝突した
トラックと乗用車の事故で二人が焼死したと掲載されていた。
ゲルマン協会にも内々に報告され、それまでの厳重な警備が
緩められていた。

『狂信者の邪魔者と危険分子は死んでもらうしかない・・』平和
と安全と、多くの幸せな家庭を破壊する事は阻止しなければ
ならない』と皆が同意していた事が実行され、成功して
ドイツの降伏混乱から来るブラジルのドイツ系社会の乱れも、
これで殆ど影響が無い様であった。

2013年6月3日月曜日

私の還暦過去帳(377)


『私のサッカー嫌いはなぜか!』

先日から2回続いたオールジャパンの選手達の応援で、TVの前で目
を凝らして見ていました。

昨日は宿敵の韓国を6対2で降ろして、決勝進出を決めて勝利した時
は、パチパチと手を叩いて喜んでいました。

以前は余り野球などは好きでは在りませんでしたが、ワイフが野球を好
きで良く見ていますので、ついつい私も一緒にTVを見る様になりました。

私が好きなのは相撲です。これは見れないと何となく勝ち負けをインター
ネットで探して見ている程です。
この相撲好きは父親からの遺伝ではないかと思うくらいです。

私の父は相撲となるとTVの前で座って離れませんでした。余り大騒ぎ
をして見る事は在りませんが、ここぞと言う一番は、それー!とか掛け
声が出ていた様でした。

何かそんな事も遺伝したのか、私もここと言う一番ではオヤジの真似で
は在りませんが、それー!とか掛け声で声援いたしておりますが、時々、
余りの情けない負け方をすると、時々、『白豚の様に太っていては転
ぶのもあたりまえー!』とか野次を飛ばしております。

ワイフなどはその私の野次を、『また始まった・・!』と言う様な感じで
チラリと見ます。
相撲が終わると次の場所まで、待ちどうしい感じが致しますが、今では
外人力士が多くなり試合中に野次を飛ばすのも、自分が付けたあだ名
で呼んでいます。

ここでは書けないあだ名で『さっさと引っ込めー!』とか私の好きなひ
いきの力士が土俵で簡単にやられると、怒鳴っている時があります。

それからしたら、アメリカーン・フットボールとサッカーはどうしても馴染
めません。特にサッカーは今では体質的にまで嫌いになっています。
昔の話ですが、サッカーと言うスポーツは南米に移住するまで何も知り
ませんでした。

アルゼンチンで農業をしている時に、サッカーでは狂信的なサポータ
ーが居る事も知りました。

45年も前ですが、試合場に何万と言う観衆がチームのカラーとユニ
ホームを着て、どんちゃんー!ガンちゃんー!とやり始めて、一種の
催奇的な興奮状態とそれに加えて、アルコールが火をつける役目もし
て、それは酷い状態を何度か目にして、暴動かと思うくらいの大暴れ
の観客達の乱暴狼藉の様を見て、肌で拒否感が出来てしまいました。

サルタ州の奥地で農業をしている時でも同じでした。

町で祭日を記念してサッカーの試合が開かれ、サポーター達が、仕
事を休んで町にトラックで出払い、農場はガラーン!として、労務者
達が居ません。

作物は待った無しの時間で勝負です。特にトマトの収穫では、ブエノ
スの市場に出すトマトは収穫時期が重要でした。トマトの頂点が僅か
に10%程度赤く色が出た時が最上の収穫です。

収穫して選果して、箱詰して、トラック運送で2日間走ってブエノスに
到着する頃には、丁度70%程度赤く熟れて来ていますので、その
状態が最高の市場価格が出るのですが、熟れ過ぎると、価格が半値
以下になる時が有ります。

店では日持ちしないトマトは買わないからです、それにしても収穫時
期に労務者達に休まれると、大損害となります。

一度、祭日と重なったサッカー地域代表の試合で、給料も貰い、労
務者達がゴッソリ農場から居なくなりました。

慌てたのは支配人の私と、農場主でした。
酒とコカの葉が入ると、後は火を見るより明らかな事でした。

オーナーが『最低人数でも町から連れて帰れー!』と言う事で、トラ
ックで町に出ました。
どの労務者も使い物にならないほど、へべれけに酔って、コカを噛
んでのびています。
中には溺酒で完全に沈没しているインジオ達も居ました。

そんな労務者はそのまま放置して、何とか意識があり、歩ける者だ
けを集めていました。
見ただけで頭に来て、『こんちきしょうー!』と言う事で、歩ける者
だけ探して、トラックに放り上げて、乗車させましたが、数が少な過
ぎます。

最後は私が自棄酒を飲む始末で、酔った勢いで、酒瓶を取り上げ
て喧嘩腰でトラックに放り込んでいました。

やっとかき集めた労務者達をトラックに乗せてての帰り道、ゲー!
と吐く者、まだトラックの上で酒をラッパ飲みしている男なども居ま
した。

トラックを運転しての帰り道、『こんちきしょうー!サッカー試合
めー!キチガイどもメー!』
と言う事で、サッカー試合などは聞いただけで体質的に嫌いにな
りました。

インジオ達がサッカーボール代わりに農場の昼休みに、洋ナス
の大きくなりすぎた物を蹴って遊んでいるようでした。

正式なサッカーボールは中々買えませんので、丁度良いサイズ
のナスの大きさを蹴って遊んでいる姿を思い出します。