2012年9月30日日曜日

第3話、伝説の黄金物語、(12)


 動き出した砂金採掘、

富蔵は採掘資金だけ出して、陰の支配者となった。
その下で、忠実なパブロが動いていたが、採掘現場とその周りの社会を知
り尽くした彼が実際は取り仕切っていた。
トラックに同乗してパブロが現地に付いて行き、拠点作りを指示していた。

リオ・ベールデの地図に、二重丸を付けてあった場所で採掘が始まってい
た。先ず採掘現場に宿舎のバラック建ての家が建てられ、機材を盗まれな
いように倉庫も作られた。
寝場所と倉庫が出来ると周りには、牧場などで柵に使う鉄条網が張られ、
外部から不意に襲撃などされないようにしていた。

ジャングルの中に砂金採掘の拠点が出来ると一人が炊事のコックで残り、
他は三名ずつ2組に分かれてガソリンエンジンの動力で放水して土を選別
した能率良い採取方式を取り活動していた。
試験採掘が成功して、かなりの量の砂金が出る事が分かり、全員が興奮
する事態となった。
その噂はたちまち広がり、採掘場に人が寄って来て歩合での採掘を希望し
ていたが、彼らは鉄条網に囲まれた採掘現場には誰も入る事が出来なか
った。

炊事のコックをしている男が連れて来ていた犬が賢くて、採掘現場での警
備に大いに役にたち、一つしかない入り口の前で砂金堀の男達が鋭い目
で現場を見ていたが、犬が居るので夜間でも中に入る事が出来なかった。

パブロはサンパウロを行き来して現場を管理していたが、採掘資金がある
ので食料や資材の豊富さは仲間の誰もが認めていた。

ある夜、コックが飼っていた犬が弱って激しい嘔吐をして倒れた。
パブロは直ぐに仲間の全員を起こして、銃器を構え、襲撃を用心していた。
砂金などは大した量は溜まってはいなかったが、機材と道具などを盗まれ
る事がもっと採掘に困ると考えていた。

これからの採掘を問題なく動かす為にも襲撃などは絶対に受けてはならな
いと感じていた。
仲間の一人がインジオの血を引く男で、狩猟の経験も豊富な事でジャング
ルの鉄条網の外を偵察に出た。
しばらくして後ろ手に縛られ、口には木の葉を押し込まれ、首には縄を巻
かれた男が引きずられて来た。
仲間の男が物静かに聞いた『お前達は何をたくらんでいるのか・・?』
『何を見張っていたのか・・?』

口から木の葉を出した男が、試験採掘の量を推測して、溜まった砂金を運
び出す時に襲撃をして全てを奪う計画だったことを素直に話した。

そして、犬が邪魔で肉に毒を挟んで投げ与えたが全部犬が食べなかった
ので殺す事に失敗したと白状していた。
話さなければどんな拷問を受けるか、最悪では殺される事もこの世界では
簡単な事であったからだ。
パブロがサンパウロに戻って来た時に、その話を富蔵に話をした。
今は試験採掘で砂金は僅かな量だが、彼等もその事を毎日看視して現場
を見ているので、何も襲って来る事は無かったが、富蔵は本格採掘を控え
て肝心の運搬がネックとなって採掘を始める時期が難しい選択となってい
た。

その頃、食堂にアメリカ人の男が日本食を食べに来るようになっていた。
富蔵がアメリカに滞在して覚えた英語を話すことでも、急速に仲良くなった。
食堂を閉めてから、絵美ちゃんと3人で酒を飲む事をした時に、自分の仕事
はパイロットでサンパウロで小さな飛行操縦学校を開き、近郊都市に旅客
や荷物も運ぶと話していた。

その夜、富蔵はアメリカで搭乗した遊覧飛行を思い出していた。
リオ・ベールデから本格採掘して砂金をサンパウロに安全に確実に運搬す
るのには飛行機が最上と考えついた。
後は早かった、食堂の休日に現場に飛ぶ事を考えた。飛行士のサムと話し
て格安で現場まで飛ぶ事を決めた。往復2時間、現場滞在は10分ぐらい
でサンパウロに戻ると言う条件であった。

郊外の牧場の中にある小さな飛行学校まで車で行き、そこの牧場にある
小さな湖から荷物運搬用の水上飛行機で飛ぶと予定が決まった。その水
上飛行機はブラジルの各地に有る湖や河などに簡単に着水して荷物や人
員などの運搬に使っていた飛行機であった。

200キロばかりの食料と燃料が積まれ、サンパウロ郊外から朝早く飛び
立った。直線で飛ぶので一時間と言う僅かな時間で現場の上空に来た。
旋回して採掘現場の横の河に着水した。

現場の全員が出迎えてくれ、荷物もあっと言う間に陸に引き揚げられ、約
束の10分間で現場を見て廻った。
誰もが満足した本格採掘のスタートと感じていた。
ピンガの酒がグラスに注がれ、富蔵を囲んで皆で乾杯した。帰りはパブロ
も、降ろした荷物の代わりに搭乗してサンパウロに帰って来た。

休みの食堂テーブルでパブロが皮袋に詰めた砂金を富蔵に差し出した。
800グラムはあるという重さだったが、これは貴方が機材と道具に投資し
た資金の一部だと言って渡してくれた。
これでお互いが納得して砂金採掘をしても、安全に確実に運び出せると
言う確約を見せられた事に全員が満足している事を感じた。

富蔵は砂金を皿の上に出すと、黄金色の輝く砂金の山をマジマジと見詰
めていた。
そしてその4分の1をパブロに紙で包むと彼の手に握らせた。

パブロは片手でそれを握り、『貴方はドンと言う親分の人格が有ります、
貴方に巡り会ってこの人生も無駄ではなかったと感じています』と言うと
砂金の包みを拝む様にしていた。

これで全ての本格採掘の用意が済んだと感じた。

2012年9月29日土曜日

私の還暦過去帳(305)


『もと百姓が見たインド』

アジャンター遺跡からの帰り道は第26窟に有る、仏陀の横臥されたお姿の
寝姿像が有ります、外から差し込む薄暗い輝きの中で右側を下に、横臥さ
て居る姿を思い出しながら、感激の思いに浸り、外の景色を眠くなった目で
眺めながら過ごしていました。

運転手の帰心矢の如し・・、と言う快走ぶりに、まだ明るい内にホテルに帰
着いたしました。ところが車を降りる時に私のメガネのレンズが一枚外れて
無いのです、いつも胸にぶら下げて、これが無いと何も見えないのですか
ら困ります。歳と共に老眼鏡のお世話になる事は避けられませんので、こ
れは仕方が在りませんが、さてと困りました。

幸いに旅行する時は必ず予備のメガネをもって行きますので、直ぐに出し
て来ましたが、ホテルのマネージャーに聞いたら近くの町で眼鏡屋があると
の事で、早速にそこの店に次男たちとホテルで別れて訊ねる事に致しまし
た。
インドでは夕食はかなり遅い時間に始まりますので、丁度良い時間ですか
ら店に行くと、小さな店ですが5名の店員が並んでいて、奥には診察の医
者のオフイスも有り、何でも直ぐに対応してくれました。

丁度私もメガネを新調しなくてはと考えていましたので、値段を聞いて驚き
でした。修理する事無く新しいレンズを入れ替えて、新規に一つ新しいメガ
ネを作りそれで何と・・!100ドルもしないのです、それと目の検眼が50ル
ピーと格安です。直ぐにその場で若い医者が検査してくれ、時間的にも簡
単で節約できます。

アメリカで医療機関に行くと、初診料だけで30ドルです、予約して検診に
行きますが時間的に出来上がるまでに2週間は掛かります。直ぐに出来る
ところも有りますが、値段が2倍以上となります。

私は新しいメガネのフレームも気に入った物が見つかり、満足でした。
そこでワイフにも話してワイフがバイフォーカスの、メガネを見積りさせた所、
何と・・!アメリカの半値でした。

そこはインドです・・、交渉して値引きを出された紅茶などを飲みながら粘
りました。するとボスらしき店主が来て、2個も注文してくれるのですから、
それよりは15%は引くと、まとまりました。メガネのフレームはイタリア製
で軽くて、デザインもワイフが気に入って前金を入れて注文いたしました。

私が2個とワイフが新規に新しいメガネを2個ですから、それで値段が300
ドルです、私達アメリカの物価指数からしたら格安です。得した感じが致
しました。

それにしたら私がインドで作った新しいメガネのフレームは韓国製でした
が、前にアメリカで作ったときは中国製品で仕上げも悪く、一度は直ぐに
折れて無料で交換してくれた事も有りました。

私達がアメリカで契約している医療機関では普通に 日常に使う普通の
メガネフレームは中国製が殆どです、高級フレームは日本製やイタリア
製、フランス製のファッションフレームで、それだけで150ドルや200ドルも
致します。

私が仕事に持ち歩くメガネなどは直ぐに壊しますので大抵は安物の中国
製のフレームで、2個作りますが割引が有るからです。おかげでインドで
メガネを作りまして、インド庶民の物の感覚、購買方法、接客態度や、メ
ガネ職人の技量などが分かりまして良い勉強に成りました。

検眼をしてくれた若いお医者さんは気さくで、英語も上手で検眼検査機
械もアメリカと同じ物で検眼してくれて、2ドル以下の診察料金でした。
これには驚きました。ワイフも診察を受けて同じ感じだったようでした。

お店に閉店間際に飛び込んで来たお客があれよ・・、と言う間に帰り支度
をしていた眼科医から検眼を受けて注文したのですから、これは上得意
と言う感じで、紅茶は出るは、ボトル瓶の水を買って来てくれるやら、お
菓子が出るやら・・、サービスも満点でした。

それにしてもアメリカでワイフと検眼診察の費用だけで二人で60ドルで
す、インドでは4ドルもしません、それでアメリカで作る以上の品質のメガ
ネを半値以下で作れたのですから、これも驚きでした。

夕方遅かったので、出来上がりは翌日となりましたが時間的にも問題な
く、出来上がってきたメガネケースを見て、これも驚きでした。
それはアメリカでは注文しないと付けてはくれない、ハードケースで、メ
ガネ掃除の上質な物が付いた立派な物でした。

ワイフはアメリカに帰ると古いメガネケースは、ポイ・・と廃棄処理でした。
今もワイフは満足して毎日使用していますが、
私もそのインド製メガネを使いパソコンを叩いています。

2012年9月28日金曜日

第3話、伝説の黄金物語、(11)


 パブロ・パウロの忠義

パブロの苗字はブラジル式ポルトガル語では、パ~ウロと少し延ばして発音す
るようだが、富蔵は日本式にパウロとと呼んでいた。

彼の手を手首から切り落とした男二人に復讐の一撃を与える事が出来た後
は、富蔵にますますの忠義を尽くしていた。早く言えば尽くしてくれた。

右手の手首から無い身障者が助けられえ、援助して貰い、職と食事の全てを
貰い、住居で夜露をしのぎ 、襲った相手から奪った金だけれど、彼が1ヵ年働
いても手にする事が出来ない金額の金を貰ってからは、富蔵と絵美の言う事
は忠実に守って働いてくれた。

食堂の仕事も何も問題なく営業していたが、富蔵が襲った相手の事は新聞に
もラジオにもあれだけの多額の現金を盗まれたのに、一行も書いては無く、何
も世間の噂も無かった。
全てが闇の世界で出来た事で、彼等がスネに傷がある人間と言う事が知れた。

多額の現金は、当時のブラジルのインフレを考えてドルと英国のポンドに交換
された金で、資金がある人間が普通にする事であった。その金額は5万ドルと
5千ポンドの金額であった。
当時、日本の富蔵が住んでいた田舎では、校長先生あたりが50円程度の月
給で高額給料といわれていた頃で、為替交換率で1円が1ドルの当時では巨
額な金であった。

足の膝も皿が割れるぐらいの強打を与えたので暫くは病院での治療が必要
と感じていた。
しかし、いつかは彼等の復讐と仕返しが来ると感じていたが、その現実が起
きて来た。

1ヶ月ほどして、新聞に二人の若い男が殺されたことが出ていた。
酷い拷問を受けて、首にはなめし皮の幅広の皮が巻かれて窒息していた。
直ぐにパブロが彼等の仕業と教えてくれた。

拷問して白状しないと、水に浸して濡らした薄いなめし皮を喉首に巻いて放置
すると、それが乾燥してゆっくりと喉を絞め、最後は窒息するという残酷なリン
チ刑罰である事を教えてくれた。
それをされると大抵の屈強な男でも自白するということであった。

富蔵は用心して外出は控え、様子を探っていた。

パブロが昔の浮浪者仲間に金と食事を与えて街中の様子を探らせたが、直
ぐにその様子が富蔵達に分かった。街の浮浪者達は自衛して必ず何人かの
仲間で生活して、殺された仲間達の二の前にならぬ様に注意していた。

パウロが富蔵から貰った金で、闇の仲間から拳銃を2丁買い入れて来た。
それを昔の浮浪者仲間のボスに用心する様に渡した。すでにその時は6人も
の男達が同じ様な拷問を受けて、中には手や、足を切り落とされた残酷な死
体も在った。

それがサンパウロの郊外の野原に捨てられえていたが、全部市内から誘拐
されて、連れ出されて惨殺されてものであった。

パブロの昔仲間の浮浪者が食事を貰いに来て、浮浪者仲間が殺した相手を
目星を付け、市内の居場所を探していると言う事であったが、二人とも足を引
きずって歩いていると言う事で、直ぐに相手を探し出せると話していた。

彼等が富蔵に盗られた金に執着したばかりに、浮浪者仲間に一人は射殺さ
れ、街路樹に首に縄を付けられぶら下げられた。

他の一人は同じく殺された浮浪者仲間と同じ様に、拷問され手足を切られ歩
けなくして、後ろ手に縛られ、首に濡れたなめし皮を巻かれて、それが乾燥し
てなめし皮がちじみ窒息していた。
警察は浮浪者とギャング仲間の抗争と新聞に発表していた。

パブロはそ知らぬ様子で自分の手を切られた復讐を、彼等から奪った金で
返していた。パブロ・パウロが富蔵にパウロと苗字を呼ばれても、答えはハイ
の一声で答えていた。それだけ富蔵と絵美を信頼して、忠義に働いていた様
だ。
その後、砂金探しの重要な事が動き出していた。
それはサンパウロの新聞に短く書いてあった。
「リオ・ベールデ周辺を仕切っていたボスが砂金での資金抗争で死亡して、
新たな採掘の動きが起きて来た。」と書いてあった。

その事は、多くの浮浪達も一攫千金の夢を持って、その地域に流れていた。
パブロがそんなある日、富蔵に、「チャンスが来た、浮浪者仲間に砂金採掘
資金を貸し、自衛の武装をさせ、砂金の7割は発掘に参加した者の利益にす
る」という事を
提案して来た。富蔵はその話を聞いて、直ぐに行動を開始した。
それだけの資金が、奪ったカバンに入っていたからであった。

富蔵は16歳で家を出て、田舎の実家の家族に何一つ仕送りなどした事が
なかったので、サンパウロに落ち着いて実家と手紙のやり取りも出来る様に
なり、初めてまとまった金を送った。
これからの仕事で有金全部を無くすかも知れないと考えたからであった。

計画が実行に移され、パウロが裏で動いて口を利いて、彼等が残した地図
から砂金の在り場所を簡単に目当てにして探す事が出来ると考えて、選り
すぐりの昔の浮浪者や、無職の男達がパブロの誘いで7人ほど集まり、全
てパブロが仕切り動き出したが、取り分が7対3で砂金堀りの男達に有利
に取り決めていた。

その誓いは十字架を浸したピンガの酒を皆の前で飲み、誓う簡単な事であ
ったが、破れば死と言う事も誓いの内に入っていた。

砂金堀りの機材や当座の資金から食料や医薬品まで、新に買い込んだト
ラックに積み込まれて出発して行ったが、それらの男達は十分に武装して
自衛していた。

各自が拳銃とライフルや散弾銃を持ち、中にはアメリカ製のトンプソンマシ
ンガンも2丁含まれていた。

2012年9月27日木曜日

私の還暦過去帳(304)

『もと百姓が見たインド』

街道を車が疾走している時に、坂道で急に停車いたしましたので前方を
見ると、大型トラックの谷底転落の事故処理中でした。
驚いた事に、交通整理などは一切在りませんので、かなり車列が長くな
っていました。クレーン車が2車線の半分を止めていたのですが、よく
見ると誰かが一人で、交互に車を流していました。まさにインド的悠長
さで、忍耐強く適当に警察も関与せず動いていました。

インドを車で走っていると、日本などでよく見る警察のパトロールカー
が居ない事です。それと警官と言うと、旧式な戦前使用された英国製の
エンフイールド・ライフルを背中に担いで、自転車でゆっくりと走って
いる姿を見ただけでした。インド人が話してくれたのですが警官はいざ
と言う時意外は、実弾などは装填していないので、警官のシンボルとし
て、権威の象徴としてライフルを背中に担いでいると言う事でした。

一度交通渋滞で側を走っていたら、ライフルに装填する銃剣を腰の後ろ
に挿して、背中にライフル担いで汗びっしょりで自動車と並んで走って
いたので、日本では先ず警察官でしたらオートバイと思いました。

しかし、私がデリーから、次男と別れてワイフと二人で釈迦の聖地、
ブッダ・ガヤーの巡礼に出た時に、物凄い渋滞に出会いました時には、
入り乱れた車を整理するのに、警察の上官の制服を着た指揮官が命令し
て、警官がライフルを前に構え、並んで動かない車を蹴散らして大型

トレラーを通過させていました。何しろ2車線の狭い道に、大型の鋼材
満載のトレラー車が2台も居るものですから、それはどえらいことです、
指揮官の警官は竹の1mぐらいの棒であれこれと指図していましたが、
腰の横にはこれも英国製のステーン自動小銃がぶら下がっていました。
牛車などは牛の尻を竹の指揮棒で叩き、わき道に追いやっていました。

やはり貫禄十分で、運転手達がワイワイ・・、ガヤガヤと喚いていたの
が静かになり、竹の指揮棒で動かない、運転手が眠り込んでいる様なト
ラックの窓を叩いて動かしているのが見えました。
バタバタと入り込んでくる三輪車のオート・リキシャーが蹴散らされ、
脇に並ばされ、竹の指揮棒がリキシャーの屋根をコンコンと叩いて動く
なと命令していました。
大型トラック群がゆっくりと動き出して私達が乗車していたSUVの車
もそれに付いて動き出しましたが、まさにインド式のコントロールと感
じました。
指揮官の警官は制服をキチンと着て制帽を被り、磨かれた革靴を履き、
腰には自動小銃を構えて、竹の指揮棒を持って流れ出した車の渋滞を見
ていましたが、インド社会ではトラック運転手などはサンダルで、Tシ
ャツ姿の格好ですから威厳が有ります。
私が混乱した渋滞現場を見ていて感じたのが、カーストから来る階級社
会の上下関係がはっきりとしていると感じました。牛車を引く農民、三
輪パタパタのリンタク屋、トラック運転手達、見物の近所の住民、指揮
官の下で走り回る警官達、全てが指揮官の命令で動き出したからでした。

それにしても田舎道で1km近くも渋滞で連なった車列を見ると、一番
多いのが大型トラックでした。これには少し驚きでした。

2012年9月26日水曜日

第3話、伝説の黄金物語、(10)

 

 

 砂金の復讐

富蔵は砂金の話が現実に近くなって来たと感じた。

パウロは真面目に仕事をしてくれ,片手ながら右手が手首まであるので器用に
掃除から皿洗いまでこなしてくれた。

昼のランチ時間が終わり、リオ・ベールデ地域の地図を買いに、パウロを連
れてノロエステ線の始発駅に近い所まで出掛けていた。

パウロから砂金掘りの色々な情報を聞き、かなりの範囲で現在も掘られて
いる事を確かめたが、鉄道線路一本と貧弱な未舗装土道がジャングルの中
を走っているだけで、食料から資材まであらゆる物が高い値段でしか手に入
らないとパウロは話していた。

富蔵は、今回の計画で考えているのは、死んだマリアの夫が残した地図を
確認して砂金を手にすることであった。

パウロの情報から得た事は、『確かに誰かが砂金を堀当て、それを持って
現場から出る時に襲われ、銃弾が身体に残り、その鉛の毒で弱って死んだ
と聞いた事がある』と彼が話してくれたが、砂金は死ぬ前に隠して誰も見付
ける事が出来なかったと言う事である。

その話が事実であれば、マリアが聖書と持っていた地図は本物である確率
が99%も在ると感じた。

少し暑い街中を歩いて地図を専門で販売している店を探して歩いていた。
一休みするのに小さなカフェーに入り、コーヒーを注文してテーブルに座っ
た。

その時、パウロが顔青ざめ、唇を震わせて顔を隠すように下を向いて動か
なくなった。
そして、微かな声で『窓際に座っている男二人が俺の手を切り落とした』と
言った。富蔵はギクリー!として、じっくりと男二人を見ていた。

ワニ皮のカバンに洒落たシャツを着て葉巻をくわえ、冷えたビールを飲ん
でいた。二人は話に夢中でこちらには何も気が付いてはいなかった。

パウロはコーヒーを飲み干すと急いで店の外に出た。
富蔵は悠然と構えて、ビールを注文して飲みだした。昼下がりのサンパウ
ロは昼寝の時間で街は静かであった。
つまみのピーナツを口に入れながら、テーブルに在った新聞を読むふり
をして、ビールを飲んでいた。顔は新聞で隠していた。
一人の男が立ち上がってトイレに立った時に、腰に拳銃が隠してあるのが
チラリと見え、どうやらカバンの中は札束と感じた。

店の窓を見るとパウロが隠れるようにして中を覗いていた。
顔はこわばり、恐れと恐怖の表情でまさに能面のように成っていた。

富蔵はじっくりと二人を観察して様子を見ていた。ビールの大瓶が5本も
並んでいた。かなり飲んでいると感じて、富蔵は一瞬、悪知恵が湧いた。

パウロの仇を取ってやろうと思った。片手が手首から切り落とされ、生涯
の障害者としての人生にパウロを落とした野郎どもを、ここで仕返しをして
痛め付けてやろうと考えていた。
そこまで答えが出ると後の行動は早かった。飲み代の勘定を済ませると
外に出てパウロを呼んだ、『今日は地図を買うのは中止だー!、あいつら
にお前の復讐をするから手伝えー!』と言った。

パウロは富蔵の話を聞くと黙ってうなずいていた。

街中はまだ昼寝の時間でまばらな人影しかなかった。男がトイレに立った
ので直ぐに外に出て来ると感じて木陰で待ち伏せする事にした。

木陰の横には絶好の路地が反対側の道路まで続いていた。そこを駆け抜
けるとゴチャゴチャとした屋台と店が並んだ場所に出た。様子を見に行って、
あそこに潜り込めば探すのは無理と感じた。

チヤンスと感じた。逃げ道の偵察に行って帰りに、路地の奥で掃除のモップ
箒の柄を手頃の長さに折って持って来た。樫のごつい柄で、棍棒にもなり
そうな丈夫な物であった。

富蔵にしたら、一番得意な剣道の腕で相手を襲う事を考えていた。その
チャンスは以外に早く廻って来た。酔った二人が木陰の方にゆっくりと歩い
て来た。一人がカバンを持ち、何か話しながら葉巻を吹かしていた。

二人が木陰を通過する瞬間、帽子を深く被り顔を隠した富蔵がいきなりす
れ違い様に相手二人の顔面を瞬時に棒で叩いていた。
最初の男はそれで声もなく卒倒して倒れ、二人目は顔面を両手で覆って座
り込んだ。パウロが左手で思い切り殴り倒していた。

富蔵は瞬時に終わった襲撃で、周りの人が居ないのを確認して、サッと
ポケットを探し財布を抜いた。同時に腰の拳銃も取り上げていた。
これで強盗に襲われたと相手が感じると思った。二人とも新品のコルトの
拳銃を持っていた。財布も分厚く現金が入ったワニ皮の極上の財布であ
った。

財布と拳銃をカバンの横に入れるとそれが終わると二人の足の両ひざを
棍棒で皿の骨が砕ける様に叩き割った。
時間にしたら1分も掛からぬ早業であった。

ワニ皮のカバンを手に取ると、路地を二人で駆け抜け、反対側に逃げた。
後は簡単に路地から路地を抜け、駅近くのタクシー乗り場で客待ちの車
に乗り、二人で何知らぬ顔で3度もタクシーを乗り換えて、回り道をして食
堂に帰って来た。

パウロが帰り着いて、がぶりと水を飲み干して、一番先に話した事は、
『あいつらに何人もの人間が足を折られて歩けなくして、ジャングルに放
置され餓死したか・・』今日はその意味でも溜飲が下がったと一気に話した。

富蔵は物置部屋の中でドアを閉めてカバンを開けた。中にはぎっしりと札
束が在った。微かに手が震えるのが分かった。財布の中にも分厚く現金が
入っていた。

銃は新品のコルトのレボルバー拳銃で弾も込められていた。カバンの底
には50発入りの弾の箱が4個入っていた。
丸い筒を開けると地図が出て来た。富蔵が探していたリオ・ベールデの
地図であった。

電球の明かりで見ると地図のあちこちに印がしてあり、二重丸、三角など
の印が見えた。

富蔵もその日、夕食時間になりパウロと共に食堂で働いていた。
何か心の中でワクワクする複雑な気分であった。
復讐と言えども一種の強盗をしたのと同じであったからだ。

その夜、食堂を閉め、ミゲールも帰り、全てが終わって屋上のパウロの
部屋で富蔵は財布に在った現金の幾らかを渡した。
その額はパウロが1年働いても稼げる金ではなかった。

二人はピンガの酒をコップに注ぐと、黙って乾杯した。

その夜、絵美ちゃんと二人で食事をしながら色々な話をしていたが、絵美
が『今日は富蔵さんは何か別人の様に感じる・・』と言って笑っていた。

ベッドに入っても目がさえて中々眠りに付く事はできなかった。
 

2012年9月25日火曜日

私の還暦過去帳(303)



 
『もと百姓が見たインド』

大学の先生のおかげで、石窟見学が後半で楽しくなりました。
専門的な調査分野での、視点で見ておられるその歴史的な流れから、前を流
れる河の状況まで、過去と現在の状態を教えて頂きました。
今でこそ世界遺産に登録され、国立公園としての管理もされていますので、
昔の密林のジャングルと言う感じはどこにも有りませんでしたが、私が聞い

た洞窟の発掘作業で出た石材のクズは、巨大な量で有ったと想像いたします
が、それがどこにも見当たらないのです、先生のお説では、河の岸に捨てら
れて、洪水の時期に流されたと言うお話でした。
見ると川底は硬い岩盤です、狭い川の峡谷から一気に流れ出す激流は全て
の工事石材のクズをまで流し去ったと考えられます。

下流の穏やかな川岸には沢山の大きな石がゴロゴロとしていますので、河の
流れが緩くなった時点で、石材クズが残されたと感じました。

お昼近くなっても沢山の小学生や中学生クラスの見学者が並んで来ていまし
た。制服有り、私服のTシャツの姿有りで賑やかでしたが、中には職場の慰安
旅行と言った感じの中年の現地人と見られる労働者の感じがするインド人達
に会いました。

場内はトイレが有りませんので、必ず入り口にあるトイレで用事を済ませて
くる様にと注意書きが有りましたが、中には先ほどの慰安旅行の感じがする
労働者の一人が物陰の岩場で、ジャー!とやりだしたのには驚きました。
どうりで少し匂うところがあると思っていました。

けしからん・・・!と、この様な世界遺産の貴重な石仏が安置して有る所と
感じましたが、崖下で茂みの花の肥料と思えば余り気になりませんでした。
水道は所々有りましたが、トイレは本当に入り口だけでした。

河の対岸、丘の頂上展望台まで行きたかったのですが、往復1時間はたっぷ
りと聞いて残念でしたがこの歳ではあきらめました。午後も遅くなり、お腹
も空いて来ましたので、見学も満足して、トイレも行かなくてはなりません
ので戻る事に致しました。大学の先生にお礼を言ってお別れいたしましたが、
頭が下がりました。

帰り道は足取りも軽く、もう一度見たい場所を軽く見て周り、満足の付け足
しをして出口に来ると、それー!とトイレに走りました。
そこは有料でチップ程度の小金を渡します。水も出ますし、ペーパータオル
らしき物も1枚頂きましたが、やれやれ・・!でした。

ランチは直ぐ側の公園内のゲストハウスのレストランで食べることに致しま
した。中は沢山の外国人観光客も座っていました。南インド風の定食を注文
して隣を見ると、先ほどの団体旅行の労働者風グループが2つのテーブルを
合わせて座り、早速にビールの注文でした。幹事らしき人が注文していまし
たが、ビールを各自がラッパ飲みして賑やかでした。

そこでゆっくりとランチを食べて休憩して、バス停まで行き、シャトルバス
で直ぐのパーキング場に行きましたが、運転手が待っていて、乗り込むとそ
れこそ、アッと言う間にスピードを上げて街道に出て疾走始めました。

私が僅かな時間にお土産として買ったのは、10cmぐらいの菩提樹の木で
彫られた仏像でした。最初の言い値が1500ルピーで、最後に車に乗り込
む時は300ルピーまで値が下がっていました。

2012年9月24日月曜日

第3話、伝説の黄金物語、(9)

砂金の臭い・・、

富蔵は翌日から食堂の仕事を始めた。
自分の永年使い慣れた包丁を磨いで用意していたが、全て何も問題なく
ランチの開店時間前には準備が整っていた。

奥さんも病院から顔を出して『ランチ時間は手伝います・・』と言ってくれた。
仕事は慣れたもので、富蔵にはまさに水の中の魚で動き回っていたが、
沢山の常連客が多い店で、奥さんと絵美ちゃんのウエイトレス姿がいつ
ものように店にあるので、お客も何も聞く事はなかった。

そんな忙しい日が2ヶ月ばかり過ぎた日に、店を閉めて雑用のミゲール
が帰り、絵美ちゃんとゆっくりと食事を始めていたら、店の外で何か騒ぎ
が起きて怒鳴り合う声がしていた。
富蔵が窓から見ていると、浮浪者の様な男が三人ばかりの男達に殴ら
れているのが見えた。
中の一人は警官で、『この泥棒野郎ー!今回は豚箱に入れてやる』と叫
んで居たが、富蔵は外に出てその浮浪者をかばい、殴るのを止めさせた。
良く見ると右手の手首から先が無く、左手の指も先が切れて無かった。

左手に何か食べ物を握り締めて、必死で男達から逃げようとしていた。
一人の男が、『こいつがパンを盗んで逃げたから・・』と富蔵に言った。

富蔵はポケットから幾らかの金を出すと、『これで勘弁してくれ・・』と言っ
た。それで騒ぎは収まり、男達は去って行った。

浮浪者は富蔵を見て感謝の言葉を何か言っていたが、食事を思い出し
て店に戻った。窓から絵美ちゃんが見ていた様で、『富蔵さんは親切
ね・・!』と言って、『あの浮浪者は時々、食べ物を貰いに来るのよ・・』と
話していた。

富蔵は今日の残り物を捨てる事を考えていたので、淵がカケた皿を思
い出して、それにごってり注ぐと食堂の前の歩道に居る浮浪者を呼んで
与えた。肉ジャガと昼の残りの焼飯を載せていた。

絵美ちゃんと楽しい食事が済んで跡かたずけも済まして、少し明日の
仕込みをして、最後のゴミを出そうと食堂の前に出ると、先ほどの浮浪
者が皿を持っ立っていた。富蔵はすっかり忘れていた。

浮浪者は何度も礼を言うと皿とスプーンを返して来た。見ると顔に傷が
在り、少しまだ血が滲んでいた。富蔵はその男を呼んで、店の横にある
雑用の洗い場で顔を洗わせて、奥から緊急薬品入れを持って来ると、
消毒をして傷の手当てをしてやった。
それが終わってから富蔵はその男に、どうして手先を無くしたか聞いた。

男は右手を見せながら、『砂金掘りに行って、砂金を持ち逃げしようとし
て掴まり手首を切り落とされた』と話してくれた。
左手は何とか哀願して指先だけ切られたと教えてくれた。

手が不自由なので仕事も出来ずに、今ではサンパウロで浮浪者をして
いると話していた。富蔵は男に、何処の土地で砂金掘りをしていたか聞
いた。

男は『ノロエステ線で300km近く奥地に行った、リオ・ベールデの近く』と
教えてくれた。
富蔵は一瞬、ドキーンとして、忘れかけていたあの砂金の在り処を書い
た地図を思い出した。
まったく同じ地域でこの男が砂金を掘り、その金を持ち逃げしようとして
仲間にリンチにあって、命だけは助かり、ここに浮浪者で居るという事を
知った。

何と奇遇な巡り合わせかと感じた。
そして、そこで2年間も住んで砂金を掘っていたと言った。

富蔵は運が廻って自分の方角に向いて来たと本能的に感じ、何も砂金
掘りなどは知らない自分に、この浮浪者は利用価値があり、この男を使
えると感じた。

後の判断は早かった、絵美ちゃんに出かけてくると声を掛けると、その男
を連れて市場近くの田舎から出荷で野菜を持ってくる農家の人間や、集
荷のトラック運送屋達相手の夜店に行き、作業着や靴などを買い、生活
用品も買い与え、それを買い込んだ毛布に包むと店に戻り、屋根上の洗
濯干し場の僅かな物置小屋を見せてそこに寝るように教えた。

昔、食堂になる前は、そこで使用人のお手伝いが寝起きしていた場所で
あった。折りたたみの簡易ベッドを見せ、寝る用意をさせた。

富蔵は食堂からピンガの酒瓶を持って来ると、『俺の子分になるか?』と
聞いた。男は自分の名前は『パウロ』と言うと、破れたシャツを広げて小
さな十字架を取り出すと、それにキスをして、富蔵の名前を聞いた。

富蔵は『俺はトミーと言う』と教えた。
パウロは『この十字架に誓って・・!』と答えた。
富蔵が差し出すピンガのコップを受け取り、十字架を浸すと、うやうやし
く飲み干した。
パウロは安心したのか富蔵が注ぐ酒を貰い、『ここで寝て良いのか・・』と
聞いていた。
富蔵が『俺の子分になったから、お前はそこで安心して寝て良い』と声を
掛けて、『明日からは食堂の下働きだ・・』と言った。

それが済むと、『明日8時から店の掃除などの雑用の仕事だー!』と言
うと階段を下りて部屋に戻った。
絵美ちゃんに説明して、今の雑用兼、皿洗いのミゲールはキッチン助手
に格上げすると話した。
翌日、朝早く起きて店の横、雑用の洗い場に行くと、すでにパブロが機
用に洗い場の周りを掃除していた。

新品の作業着に着替え、靴を履き、ボサボサの髪と髭が綺麗に剃られ
て別人かと思うくらいに変っていた。昨日、買い与えた日常生活用品で
身奇麗にしたと感じた。

ミゲールが出勤して来て、今日からキッチン助手に格上げすると言うと
飛び上がって喜んでいた。
パブロに雑用の仕事を教える様に言って、今日一日の仕事の幕を開け
た。
その日から富蔵に砂金の臭いが身近に感じられて来た。

2012年9月23日日曜日

私の還暦過去帳(302)


 『もと百姓が見たインド』

大学の先生の案内で、あれー!と驚くような現場を案内して、見せて頂き
ました。
昔の人も、そそっかしい人が居たのですね!
と言うのは私達では先ず探してみる事は出来ない場所でしたが・・・、
これは貴重な現場です、狭い作りかけの石窟の小部屋の壁が、ぽっかり
と20cmぐらい穴が開いているでは有りませんかー!

中に入り、そこからお隣の石窟を覗くと、お昼の照りつく太陽に照らされ
て、外の様子が見えました。さぞかしその小穴をぶち抜いた職人は腰を
抜かしたと思います。
何世紀も前のハプニングですが、硬い石です、まさに昨日の様にその
ままの状態でした。

私も貴重な現場をカメラで撮影しておきましたが、そこの穴から見える石
壁に刻まれた仏様の姿が綺麗で心に焼きついています。
何となく体の曲線とバランス良く刻まれたお姿が京都などの寺院で見る
仏像の姿と一致して、感慨に耽っていました。

私も30窟もある石窟で2ヶ所有ると言う事で、両方とも見せていただき
ましたが、貴重な現場でした。大学の先生に感謝する、我々にも分かる
説明で、いっそう詳しく理解する事が出来ました。

やはり英語のガイドより、日本人の専門家が、日本語で分かりやすく説明
してくれるのですから、これは貴重で、滅多にない現場講義と感じました。
これだけの遺跡です、その数も多い事ながら、それを研究する対象として

生涯の時間を必要とする史跡として、インドの歴史的背景、民族的流れと
南インドの政治的背景、色々な石壁に刻まれた仏像とその関連する幾多
の彫刻、色彩壁画、時代時代に変化する模様と緻密に歴史的な物語を語
る壁画と彫り物、全てがアジャンターの遺跡の石窟群を飾る世界に誇る物
なのです。
ここを研究題材とした人が『人生を賭けても計り知れない大きな歴史の流
れを感じる』と言う言葉こそが、アジャンター遺跡の大きさと規模の素晴ら
しさを感じさせるのでした。

特に第1窟の奥、中央に鎮座される釈迦像は遠く日本の法隆寺金堂内陣
の装飾にも関連した、そのオリジナル的な存在があると学問的に立証され
ている事は、第1窟の天井にペルシャからの使節をを接待する壁画が残っ
ていることから、シルク・ロードを経て日本までその釈迦像の影響があった
と思うので有ります。

歴史を見て、日本から現在の世界でも遥か遠い南インドのアジャンター遺
跡です、昔の時代からしたら、気が遠くなる距離ではなかったかと考えて
感慨に耽っていました。

2012年9月22日土曜日

第3話、伝説の黄金物語、(8)

 
富蔵、サンパウロに出る、

富蔵は翌日は休みと言う安心感か、良く寝ていた。

目が覚めて今日は市場が休みなので外の通りも静かな感じであったが、
何か家の中がざわついていた。
居間に数人の人たちが集まり何か話していた。絵美がそばに寄り、長女
の美恵のご主人の父親が倒れたと話してくれた。

絵美ちゃんが働いている食堂の主人で、小さいながら繁盛していた日本
食のレストランを切り盛りしていた人だと言うことであった。

幸いに休日だったので何も食堂の仕事には問題が無かったが、明日は
どうするか協議していた様だが、絵美ちゃんは『家族経営のレストランで
は中心の調理人が倒れたら、経営を永続させるのには無理かも知れな
い』と話してくれた。

台所の隅でコーヒーを前に、絵美と額を付けて富蔵は話していたが、ふ
と考えて『俺がとりあえず板前をするか・・!』と絵美に話した。
16歳で家を出て、この道一筋で22歳まで働いた事を考えると、大抵は
こなせる腕を持っていた。

絵美ちゃんが驚いて居間から親戚達を連れてきた。長女の美恵ちゃん
の主人と倒れた父親の奥さんとが、『話には聞いていましたが、そうして
くれれば本当に助かります』礼を言ってくれた。

話が決まると後は早かった。今日の休日の予定は全て取り消して、朝食
が済むと食堂を見に行く事になった。

美恵のご主人の車で直ぐ近くの食堂に行き、メニューを富蔵に見せてい
た。定番の刺身定食、天ぷら定食、すき焼きなどがあり、他はどんぶり物
が揃い、特別な物は肉のステーキなどと、これも定番のとんかつなどが
あったが、何も難しくはない献立で、平均的な日本食の大衆レストランで
あった。

テーブルもあまり沢山ある訳ではなく、絵美ちゃんが一人でウエイトレス
が出来る店で、まさに家族経営の店であった。
通いの従業員は掃除と皿洗いが一人、毎日来るだけであったので、富蔵
もその場で当分は手助けすることを決めた。
話が早く決まり、皆がホッとしてイスに座り込んだ。
絵美ちゃんが冷蔵庫からビールを持ってくるとコップに注いで、富蔵に持
たせて、皆にも注いで『富蔵さんー!宜しくお願い致します』と声を掛けた。

その後、奥さんは倒れたご主人を見舞いに病院に出かけて行き、食堂で
美恵さんのご主人が、『父が倒れて一時はどうしようかと考えたが助かり
ました』と感謝の言葉を言ってくれた。

直ぐに絵美ちゃんが厨房の中を説明して、全てのキッチン器具のありかを
教えてくれた。裏には休憩室があり、昼のランチ時間が終われば、少しそ
こで昼寝も出来る様になっていた。

家族がそこで着替えて、時間が有れば憩いの場として使っていた様だと
思った。富蔵はそこを見て気に入り、『しばらくはここで寝泊りするから・・』と
皆に言った。
話が全部決まり、直ぐに上原氏の農場に戻る事になり、美恵ちゃんのご主
人の車に4人で乗り、急いで帰宅した。

帰宅して今までの話を全部すると、上原氏夫妻は驚いて了承してくれ、正雄
にも了解してもらい、マリアとの市場の仕事も夫婦の様で楽しかったと話し
に聞き、富蔵も安心していた。

何か大きく人生が動き出した感じがしていた。

その日のランチは皆がそろい、富蔵の送別会の様な感じであった。
僅かな荷物をトランクに詰めて富蔵は家族に別れを告げてまた車に乗り込
んだ。

別れに奥さんが『次女の絵美を宜しくお願い致します』と富蔵に話して、
『これは今まで貴方が働いたお礼です・・』と封筒を押し付けてくれた。

別れは少し辛かったが、絵美が寄り添う帰りのサンパウロに戻る車内で、
富蔵は『砂金に一歩近くなった』と感じていた。

夕方、食堂に戻り、絵美とトランクを持って車から降りた。
長女の美恵ちゃんがご主人と入り口のドアを開けて、鍵を渡して『宜しく
お願い致します』と頭を下げた。

その夜、富蔵は絵美ちゃんに聞きながら明日の仕込みをして用意を済ま
せると、簡単などんぶり物を上手に作り夕食にしていた。
絵美ちゃんと食べながら話していたが、絵美が突然、『今夜はここで泊ま
るから』と富蔵に言った。

絵美は姉の家に電話を掛けて『明日の用意と富蔵さんに色々と教える事
が在る』と話して居たが、姉もご主人も反対しなかった。

その夜、裏の休憩室が富蔵の寝室となった。中には浴室があり、シャワ
ーとトイレが付いていて、側には材料などを入れる小さな物置部屋もあっ
て全て揃っていた。
休憩室を整理して、使わない物を物置部屋に移して、広くなった休憩室に
富蔵は満足していた。
全ての整理が終わり、絵美ちゃんとソフアに座り、ビールのコップを合わ
せて乾杯していたが、明日からの食堂の仕事が人生の再出発となる自分
の人生に、腕を活かせると仕事であると考え嬉しくなった。

その夜は、今日のめまぐるしい一日の疲れからか、富蔵は何事も無くベッ
ドに倒れ込むように寝ていた。

2012年9月21日金曜日

私の還暦過去帳(301)


『もと百姓が見たインド』

アジャンタ石窟群を歩き始めて感じたのは、各洞窟内部の装飾と、そこに祭
られた仏陀の石像の姿が各窟毎に違う事でした。

昔の完成した当時は絢爛たる色彩で輝いていたと想像できる壁画もありまし
た。私が驚いた事に、中の一つの壁画に中国人の女性の装飾で描かれた
壁画が残っていたからでした。

日本の飛鳥の壁画に残って居るような服装で描かれていました。ガイドが
照す懐中電灯で見える薄暗い光の中に浮き上がって居ました。
遥か遠い中国からの影響です。シルクロードを超えてきた影響と思います。

16窟の前には強大な象が岸壁に刻まれていました。そこの仏陀は自然に
両足を床に当てた状態で座して居る仏像でした。他の多くは座禅を組んで、
手は座禅の様式で手を組んでいる姿でした。
間接照明の光の中で静かに幾多の年月を座しているのを見ると。これから
も天変地変が起きない限り、永遠にその姿で世の中を見詰めていると思い
ました。

日が上がり暑くなりましたが、暑さなど気にならないほど心が高ぶっていま
した。
各石窟の中に入ると、ひんやりとした冷気が感じられ、見学者が途切れた
静寂の中で、自分が一瞬にして千年の昔に飛んで過去の歴史に、タイム
マシーンで歩いている幻想を持ちました。

特に第24窟の中では完成前に放棄された石窟ですが、今にもその工事
人夫達がゾロゾロと戻って来るのではないかという思いが致しました。
その現場を見ると、いかにして石窟が掘られたかと言う事が一目で分かり
ます。
先ず天井部分から完成させられ、ついでに内部の50cmもある大きな石柱
も上部から掘られたと言う事が分かります。石窟の内部は出口に向かって
ゆるい傾斜となり、手押しの車などで、簡単に重い石クズを運び出す事が
出来たと想像いたします。

内部の状況からして一度に大勢の人達で工事をしていた状況が分かり、
その工法もかなり専門的な知識と測量方法で掘り進められたと感じました。
その近くで日本人らしき方に出会いました。それは先ず直ぐに感じたのは
色が白いと言う事と、暑いので腰に手ぬぐいをぶら下げていたからでしたが
、何と大学の先生でした。

なにやら図面を書いて、その石窟の内部の間取りを研究し、その大きさや
高さ、幅や模様の飾り石柱などの数も調べて居たようでした。
緻密な間取りです、その図面を見せていただきましたが、よくもマー!とい
う感じの精密な間取り絵図でした。

アメリカにも留学されたその道の専門家と言う事でした。おかげで学問的な
専門話しをお伺いする事が出来ました。

そのお話で・・、あれー!と驚くような現場を案内して、見せて頂きました。
昔の人も、そそっかしい人が居たのですね!

2012年9月20日木曜日

第3話、伝説の黄金物語、(7)

 

奥地の砂金ブーム、

富蔵は絵美ちゃんと揃ってサンパウロに出かける事にしていた。

朝はいつものように正雄と市場に出かけて行き、帰宅すると4時の市場行き
のトラックに同乗して絵美ちゃんとサンパウロに行く事にしていた。

ランチの後に、奥さんも長女の美恵ちゃんにお土産を作り、絵美に持たせて
いたが、富蔵も久しぶりの休みで、サンパウロに行く事が出来るので楽しみ
にしていた。
富蔵は明日の市場にはマリアを連れて行く様に正雄に勧めた。
言葉には不自由無しで、マリアも商売の感があるので、絶好なカップルと感
じていた。
上原夫妻は富蔵に『これはサンパウロで何かおいしい物でも二人で食べな
さい』と金をポケットに押し込んでいた。

富蔵は砂金の地図の事など全て忘れて、絵美とサンパウロ市場行きのトラ
ックに乗った。2ヶ所ばかり積み増して、トラックは中央青果市場に向かった
が、富蔵は初めてのサンパウロに興奮していた。

しばらく走り、市場近くの長女の家に着いて、そこで降ろしてもらい、絵美ち
ゃんの案内で歩いて直ぐ近くの家のドアを叩いた。

長女の出迎えで二人は部屋に案内され、歓迎してくれた。絵美ちゃんは姉
の家で下宿して、親戚のレストランで働いていた。
長女のご主人が働く市場までは歩いて直ぐ側で、そこにはオフイスも在った。

その夜は富蔵の歓迎で長女夫妻が色々と準備をしていた。

ワインも抜かれ、乾杯の声で何度も杯を重ねて、皆と楽しくその夜は過ごし
たが、食事も終わり、コーヒーを手に皆が世間話を交わしていた時に、長女
の美恵ちゃんが新聞の話だと言って、『奥地で金鉱が発見され、人が群が
るように集まって居る』と教えてくれた。

中には数日で、数キロの砂金を掘り出して、郷里で大きな土地を買い、農
場を開いたと言う話も出ていた。富蔵は一瞬、ドキリとした。

新聞の記事であるが、現実にどこか奥地の土地で人が蟻の様に砂金の河
に群がり掬い取っているという事は、事実であるは確かであった。

富蔵の頭の中に在る地図の場所も、そこに距離的には凄く近いと感じた。
まだ概略の地図しか見たことがないので、どこかで詳細を画いた地図を買
う事を考えていた。
その儲けたという若い男が掘り出した砂金の金額が、ドル相場になおして
5万ドルの金額に成った様で、砂金買取業者がユダヤ資本に押さえられえ
て居るという事も富蔵は知った。
それにしても5万ドルと言う大金は、昔では想像も出来ない巨額な金額であ
った。

富蔵は新聞を見せてもらい、その記事を、たどたどしい速度で読んでいた
が、確かに金鉱ブームは凄いと感じていた。

美恵さんのご主人も、奥地の日本人入植者が砂金を掘り当てて、家族を連
れて帰国したと言う話をしてくれた。
それは大金を手にしてから命を狙われ、家族の誘拐などを心配して帰国し
たと話して居たが、船も1等船客で帰った様な話であった。

なぜか富蔵は心の中で震えが止まらなかった。あの地図が本当であった
ら巨額な金額の砂金が手に入ると考えていた。

しかし、新聞には砂金採掘業者同士の殺し合いの記事も出ていたので、
いかに安全に都市まで持ち出して来るか・・!、強盗にせっかくの金を盗まれ
ないようにしないと何も意味が無いと思った。

それにしても奥地の無法地帯での金の採掘は、一攫千金の夢を秘めてい
る多くの男達の夢をかき立てると思った。

その夜は酔いもあってグッすりと朝まで寝入っていた。

2012年9月19日水曜日

私の還暦過去帳(300)


『もと百姓が見たインド』

アジャンター石窟群を歩き始めて、最初に気が付いた事は、かなり気温が高
く、暑いと言う事でした。
太陽に焼け付く岩盤の照り返しと、熱を吸収した石盤の壁と床が、ヒートして
いる事を足の裏に感じました。それは石窟に入る時は下足して入場となるから
でした。 靴を脱ぐと直ぐに床の岩盤が熱して暑くなっている事を体感して、

これが真夏でしたら、45度近く上昇すると言う温度では、まさに飲料水を持
参していないと悲鳴を上げるという説明を納得いたしました。地元インド人の
方々は素足にサンダルで来ていた方々が殆どでしたが、 小学生や中学生達
の見学集団は殆どが制服でした。

女子生徒は綺麗なサリーを色鮮やかに着流して、賑やかな列で通リ過ぎて
いました。子供達はどこの国でも、好奇心が強くて話しかけて来ます、私も
カメラとビデオ撮影で友達になりましたが、写したばかりのビデオをモニター
画面で見せると、それこそ、ドド・・と言わんばかりに集まって、先生が『危ない』
と止めていました。

それと面白い事に、インド人の方々からよくボールペンを売れと言われて驚い
た事が有ります。次男が言う事は、『余り品質が良くないから・・』と言う理
由でした。ワイフなどは、絵葉書を売り付けられ、娘から貰った宣伝用の会社
名を書いたボールペンと物々交換していました。

アジャンターの石窟群をガイドと家族で歩き始めて第2窟に来て、その中の
色彩壁画が今でも色鮮やかに残って、その仏教菩薩の画像が鮮明に歴史的
な順序で描かれていました。その本堂両側には仏の一千仏が壁一面に細か
く表情豊かに描かれていたのには驚きました。

薄暗い天井にも装飾壁画があり、私が想像したのですがこれが完成した当時
は絢爛たる壁画に囲まれた石窟ではなかったかと思いをはせていました。
薄暗い石窟場内はひんやりとして冷気を感じます、薄暗い石窟から急に外に
出ると、まぶしい南インドの太陽が1月とは言え、暑く輝いていました。

気が付くと所々に水道の水飲場が有りましたが、我々にはガイドも飲まない様
にと注意してくれました。1リッタの水を抱えて来たので安心でしたが、現地の
インド人の方々は平気でガブガブと飲んでいました。お腹の中身が少し違うと
思います、先祖よりこの地に生きて、その水を飲んで生きて来たのですから、
我々とは比較できないと思います。

それにしても沢山の人出ですが、中には4名で担ぐカゴで場内を見物する人が
いました。足の悪い見学者達です、入り口でカゴを準備して声を掛けていまし
たが、なるほどと感じました。かなり年配の白人の男性がカゴの上で揺られな
がら、カメラを構えて撮影していましたが、担ぎ人達もお客がカメラを構える
と、少し停止して撮影に協力していましたが、私も心の中で『あれは弱者用の
便利な乗り物』と感じました。

2012年9月18日火曜日

第3話、伝説の黄金物語、(6)

    砂金の隠し場所、

富蔵はマリアと正雄が離れに電球の交換に行くのを見送ってから、寝静ま った静かな部屋に戻った。 自分が居る窓から離れの部屋の入り口や窓がはっきりと見えるので、そこ を注意しながら、正雄は聖書のぺージを机のスタンドの光りで丹念に見て いた。

活字に打たれた黒点は規則的にページの中に在ったので、それを書き出し て見ると、そのポルトガル語の意味が『砂金の隠し場所』と意味が解った。 辞書を引いてそのポルトガル語の単語を再確認して、富蔵は直ぐさま、手 描きの地図を自分のノートに書き写していた。

  簡単に簡素に手描きしてあるが、要点を書いてあるので意味が完全に理解 出来た。 離れの窓は一度電灯が明るく付いて、人影も微かに動いたが、直ぐに消え てシーンと静まり返っていた。 富蔵は自分の仕掛けが成功したと感じていたが、しばらくして部屋のドアが 開き正雄が出て来たが、直ぐに引き返して、見送ったマリアを強く抱きしめ ているのを見た。

しばらくして、正雄が静かな居間のテーブルでピンガの酒を珍しく飲んでい た。 微かにグラスを持つ手が震えて、まだ興奮が冷めては居なと感じたが、富蔵 も側でグラスに酒を注いで、『うまくいった・・!』と聞いたが、正雄は黙 ってうなずていた。

  翌朝早く、まだ薄暗い内に起きたが、マリアは井戸の横で洗濯ものを洗って 仕事をしていたが、マリアの身体から発散する物が昨日とはまったく違って いた。 富蔵達が馬車に荷物を用意している時に、正雄は数人の畑仕事に来た労務者 達に、マリアを紹介して、『しばらく家族として滞在する』と使用人達に釘 を刺していた。

彼等が手出しをしない様にしたと感じた。 マリアの子供は犬達を家来にして庭を走り回っていた。犬達もおとなしく、 アナの後を嬉しそうに付いて廻っていた。 食事が終わり、市場に出かける前に、おやつのお握りを貰いに奥さんの所に 行き、小声で『正雄はマリアに興味がありそうだ・・』と言うと奥さんは 『母親の感で正解よ・・!』と教えてくれた。

  マリアは食事の後は上原氏に教えてもらい、収穫物を箱に詰めていた。 家族に送られて市場に馬車を走らせたが、しばらく走って富蔵が聞いた。 『どうだった・・』というと正雄は、昨夜の事を話し始めた。

マリアと電球交換に暗い部屋に入ると、イスに乗っての電球交換は正雄が 義足で危ないので、マリアが電球を交換したが、降りる時にスカートがイス に引っ掛かり転びそうになり、正雄がマリアを抱きしめて側のベットに倒れ 込んで、掴んだ所がマリアの乳房で、マリアは正雄の手を拒否はしなくて、 胸を広げて両方の乳房を正雄の手に委ねたと話していたが、その後は余り覚 えては居ないと正雄は話していた。

男としての本能を押さえる事が出来ず、また肝心の男のシンボルが痛い様に 張り、後は自分でも考えもしないことを、してしまったと言っていた。 全てが済んでしまい、正雄の筆降ろしが昨夜済んだ様だ。 マリアは若いながら、子供が居るくらいの男の経験があり、正雄の要求など 十分に感じて受け入れたと富蔵は思っていた。

その正雄もまったく昨夜からしたら、大きく変化していた。 マリアを見る目が変り、愛情と言う感じが見て取れた。 市場の帰りに、マリアと子供に可愛い帽子を買い、テレながら似合うか気を 使っていた。 帰宅するとマリアが今朝洗濯したものをせっせとアイロンを掛けていた。

奥さんがニコニコしてマリアの子供の手を引いて迎えてくれ、その日のお昼 は賑やかで楽しいランチであった。 その夕方、サンパウロから次女の絵美ちゃんが市場からのトラックに同乗し て帰宅した。 休日を過ごす様で、絵美ちゃんも富蔵が居るので楽しい感じで帰宅したと 奥さんが話していた。

上原夫妻は急に賑やかになった家族に満足して、奥さんも富蔵が絵美ちゃん に興味があるのを感じて嬉しそうにしていた。 その夜、遊びつかれたマリアの子供が早目に寝付くと、テラスで若い者同士 カップルになり、ベンチに座っていた。 絵美ちゃんもブラジルで育って、言葉も不自由なくマリアと話していたが、 直ぐに正雄との関係に感ずいて、兄をマリアに押し付けて相手をする様に させていた。

正雄は、はにかみながらマリアの相手をして、離れの部屋にマリアの子供を 見に連れだって行った。 絵美ちゃんは『兄も結婚が出来ないかと心配していたが、安心した』と話して、 『あんな働き者のマリアでないと、農家の嫁は務まらない・・』と喜んでいた。 富蔵も小柄な絵美ちゃんが気に入り、話も日本語もポルトガル語も上手に話 せる彼女に引かれて、彼女の誘いでサンパウロの街を見物に行く事を約束し ていた。

絵美も富蔵に心許して恋人のつもりで富蔵の腕を握っていた。 かなり時間が経っても離れの部屋は静かであった。 絵美が笑いながら『今頃はお兄さんはマリアと仲良く楽しんでいるは・・!』 と言うと大胆に薄暗いテラスのシートで富蔵に寄り添って居たが、富蔵もしば らくご無沙汰していた女人の感覚が戻ってきた。 そして、絵美の腰を抱いて大胆になっていた。

しばらく絵美の若い肉体の感触を 楽しんでいたら、離れのドアが開き正雄が出て来た、今日は激しく抱き合いキス を交わしていた。 テラスに戻ってきた正雄は、富蔵と絵美がシートのクッションの中で仲良く抱き あっているのを見て、戸惑っていたが、絵美が『お兄さん、何も遠慮する事は 無いのよ・・、マリアの所に泊まりなさいー!』と声を掛けた。

絵美は立ち上がり、正雄の肩を離れの方に向けると『サアー!お兄さんは男で しよう・・!』と背中を押した。 少し戸惑っていたが、うなずくと離れの家に行きドアを叩いた。 マリアが飛び出てくると正雄を抱える様に部屋の中に入れた。

絵美がそれを見てにっこりと笑うと、『これでお兄さんも心配が無い・・!』と つぶやいていた。 翌朝、富蔵が起きた時は正雄もマリアも起きて忙しく仕事をしていた。 すでに薄暗い内に済ませた洗濯が干され、マリアは家の外にあるパン焼き釜の火 を見ながら、側には小麦粉が煉られて、パン作りの準備が出来ていた。

馬車に今日の野菜が積まれ、出かける用意が整い、朝食前の僅かな時間にマリア は正雄と富蔵を呼ん二人の目の前で、パン焼き釜の火に亡くなった夫の遺品の 聖書を投げ入れた。 そして、マリアは正雄の前で『これで私の過去は全て切れて捨てました』と言った。 正雄がマリアを抱きしめると、連れ立って食堂に歩いて行った。

食堂では絵美ちゃんが忙しく奥さんと食事の用意をしていたが、正雄が母親に先 ほどの話をすると、絵美ちゃんと奥さんがマリアを抱きしめていた。 娘のアナが犬達と熟れたマンゴーを手に戻ってきた。賑やかな朝食が始まり、 それが終わるとマリアはパンを焼き始め、正雄と富蔵は市場に出かけて行った。

日が暮れて、家族がそろい夕食の時間となり、食卓に新鮮な魚が手に入ったと 刺身の皿が飾られ、ワインが開けられ、上原氏がグラスを取ると皆で乾杯の音頭 を上げた。 その夜、富蔵はワインに酔って絵美ちゃんと踊った、正雄もマリアと抱き合って 踊り家族で歓声を上げて楽しんでいたが、明日の午後、市場に行くトラックで 絵美ちゃんの案内で初めて休日を利用して、サンパウロの街に出る事を上原夫妻 に話したが、心良く許してくれた。

かなり酔って部屋に戻り、一人になって手描きの地図から書き写した自分のノート の地図を見ていた。 原本はもう焼いて無いので、残ったこの地図が残された、ただ一つの砂金の在り 場所を示した地図と思っていた。

目的の地点にはワインの瓶らしき絵で6本埋めたと印があった。 この秘密は誰にも明かさなかった。 静かに夜も更けて行ったが、その夜から正雄は離れの家で寝るようになった。

2012年9月17日月曜日

私の還暦過去帳(299)

『もと百姓が見たインド』

場内を歩き出してその壮大さ、規模の大きさが分かりました。

かなりの年月を経て建築された遺跡です、当時は機械と言う便利な物は
少なかったと思います。精巧に刻まれた石肌の彫刻とその模様がライト
に照らされて幻想的な模様を作り出している様子が覗えます。

1500年の時間を経て現在時間に再現されて我々の前で見る事が出来
ますが、このアジャンター石窟群の中に有る、代10窟の石柱にこの遺
跡を発見して世に広めたイギリス人の落書きが残っています。案内人の
懐中電灯で、それを目視することが出来ました。

彼の名前はJohn Smith氏で彼はベンガル虎の狩猟に来て、河
を伝って案内人と歩いて来て発見したと記録されています。落書きの様
子は『ジョン・スミス、第28騎兵隊、1819年、4月28日』と書
かれている、当時は薄暗い洞窟の中に1,5mもの土が堆積して居たと
言うことで、石柱のかなり上部にサインが見えました。

私は入り口でガイドを個人的に雇いましたが、その説明が無ければとて
も探して見ることは不可能だったと思います。第1窟は釈迦の本尊を中
心にかなりの色彩画と彫刻が、左右のかなり大きな部屋の両側に見られ、
両側の壁の中に作られた小部屋は僧侶達の寝起きする部屋だったと説明
を受けましたが、畳2程度の小部屋で 石の寝台が両側に有るだけでその
当時の僧侶の厳しい修行の姿が感じられました。

紀元前1世紀頃の前期石窟と後期の紀元5世紀頃の石窟とに分かれます
が、全部で30有ると言われる石窟の中で、前期は5つの質素な石窟で
す、後期と比較するとそれが一目瞭然と分かります。ガイドの説明を聞
いてその時代的な差と、仏教のテーマとする石窟を飾る 詳細な壁画とも
関連して、5世紀頃にインド文明が花開いた黄金時期と重なり、後期石
窟の壮大さ華麗さが見る者の心に圧倒的な印象を与えてくれます。

本で読んだ事が頭によみがえり、これだけ栄えた仏教文明の石窟群が
ブァーカータカ帝国の崩壊と共に、この巨大な遺跡が放棄されて時代の
闇に眠ることになった事は、いまだに謎とされています。
多くの学者が推測を語っていますが、多くの僧侶達や、職人、工事関係
者などが一度に消えてしまった事はブァーカータカ帝国の崩壊と共に起
きた戦乱が原因と言われ、その後、寺院窟は千年の眠りで、ワーグラー
河の河畔でジャングルの中でひっそりと隠れていたのです。

その密林の中からイギリス帝国植民地軍の兵士により発見されるまで、
歴史が止まっていたのでした。世界遺産として現在は世界中の人々が訪
れる場所ですが、歴史をこれだけ感じさせる場所は余り無いと思います。

2012年9月16日日曜日

第3話、伝説の黄金物語、(5)‏


マリアとの再会

富蔵は自分が選んだブラジル生活の道を満足していた。
平穏な時間と、これからの自分がブラジルで生きていく基本を学ぶ上で格好
の場所と感じていた。

言葉も、上原氏の長男と市場で仕事を通して,肌で会得して学んでいた。
もともとスペイン語の基本が少しあり、会話もかなり出来ていたので、上達
は早かった。
夜は正雄がポルトガル語の読み書きも教えてくれ、これもメキメキと上手
くなった。
サンパウロ日本町のレストランで働いている次女の絵美ちゃんも帰宅して
仲良くなり、富蔵は彼女に引かれて居たが、上原家の次男としての身分証明
を使い、家族同然の待遇では、家族として絵美ちゃんに対するだけで、それ
以上は手が出せなかった。

富蔵もコックの腕を披露して上原家族に喜ばれ、重宝されていた。
収穫などで夕食が遅くなれば富蔵が台所で、たちまち家族が食べる一品を
作り、疲れた皆が歓声を上げて喜んでくれた。

富蔵もマリア親子の事など忘れかけた3ヶ月ぐらいした時であった。
市場も終わりかけで、そろそろ帰り支度を始めた時であった。
マリアが子供の手を引いて、ぼんやりと富蔵を見詰めていたのを正雄が見つ
けてびっくりとして、『どうした・・・!、帰って来たのか?』と叫んでい
た。

マリアは疲れ切り、富蔵とサントスで出会った様なボロボロの格好で立っ
ていた。
富蔵も驚いて『お腹が空いているか?』と聞いた。
うなずくマリアに、直ぐ近くの屋台から、フェジョンの豆と肉を煮込ん
だ山盛りの皿と、パンを持って来た。マリア親子は黙って黙々と食べていた。

その間に富蔵達は荷物を馬車に載せ終わり、帰りの支度を済ませていた。
食事が済むとマリアは感謝の言葉を言って一言、『夫は亡くなっていました』
と話した。
涙ぐんだ顔で、『これから帰るところも無い・・、バイヤに帰っても夫が死
んだから、何処も生活する場所が無くなった』と言うと途方にくれていた。

正雄はそんなマリア親子を馬車に乗せて、帰宅に付いた。
子供は満腹になったのか、マリアの腕の中で直ぐに寝ていた。帰りの馬車の
中でマリアは簡単に説明してくれたが、ノロエステ線の奥まで行き、そこで
訪ね当てた所で亡くなっていたと話していた。

帰りの旅費も無くなっていたので、しばらくはそこの町でお手伝いで働いて、
旅費を稼ぎ、ここまで戻ってきたと話していた。

埋葬された教会の神父が遺品を預かっていたので、それを貰って来たと、
小さな包みを見せてくれた。

家に帰り着いて上原夫妻も驚いてマリア親子を迎えてくれた。眠った子供を
見て、離れの部屋をマリアに示して、そこに寝かせるようにしていた。
マリアは食事は済んでいたので、水浴びして昼寝をするように勧められ、
喜んでいた。
奥さんがマリアの汚れた服装を見て、着替えを何枚も出して来て、マリアに
持たせていた。
しばらく富蔵達は家族と昼の食事のテーブルでマリアの事を話し込んでい
たが、結論は、しばらくは居させて面倒を見ると言う話に落ち着いた。

その夜、マリアは長女の美恵ちゃんのお古を着こなして、先ほどの汚れた
姿と別人の様に綺麗になって出て来た。子供はおやつを食べると、また寝て
いると話していた。
大人だけのテーブルの席で、マリアは改めて感謝の心を表して家族に言葉
を掛けていた。マリアは食事が終わると先に立って台所で皿洗いと、鍋な
どを洗い、かたずけていた。

奥さんが自分が跡かたずけをやるからと言う言葉など無視して、マリアが
手際良く終わらせてしまった。

正雄がマリアの均整のとれた後姿の肢体を見詰めていたのを、富蔵は見逃
さなかった。
マリアはまだ若くて、混血でも小麦粉肌で髪は長く、労働で引き締まった
身体がセクシーさを滲ませていた。
富蔵は今までの女性遍歴で何度か知った体付きだったが、正雄の目は初心
な眼差しで見詰めていた。

その夜、マリアに富蔵と正雄、三人若いもの同士、テラスでコーヒーを手
に話していた。
マリアが持って来た遺品を開けて見せてくれたが、それは一冊の聖書と、
その本に挟んだ手書きの小さな地図だけであった。

しかし、その聖書と手描きの小さな地図が、後に巨額な砂金の所在を示す
場所を秘めていた事には誰もその時は気が付いては居なかった。

寝る時間になり、離れの部屋の電球が切れていたのを交換する為に、
マリアと正雄を一緒に富蔵は行かせた。

その頃は富蔵は母屋で部屋を貰い、そこで家族として寝泊りしていたが、
富蔵には一つ良い考えが湧いていた。
正雄も悪い気がしないのか、喜んで電球を手に、マリアと離れに歩いて
行ったが、そのたくらみが良かった様だ・・、

マリアと正雄が連れ立って、静かに眠りに付いた農家の離れに歩いて行
くのを見送って、テラスの薄暗い電灯の下で聖書のページを見ていた。

何ページか開けていく内に、ページの活字に黒く点が付いていたのを見
逃さなかった。

富蔵は何か直感でこの中に隠された意味があることを感じた。

2012年9月15日土曜日

私の還暦過去帳(298)


『もと百姓が見たインド 』

正月2日は朝、6時半には起きて仏教遺跡見学に行く用意をしていました。
車が7時半に迎えに来ると言うので、それまでに朝食も済ませていました。
私達が泊まったホテルは3星程度のホテルでしたが、日本人も二組会いま
した。いずれも女性で一組はすでに昨日、遺跡見学をして来たと話してい
ましたが、バスがオンボロで、とても寒かったと話していました。

私達が新車のトヨタSUVの車で、運転手付きで行くと話したら、羨まし
いと話して居ました。インド相場で1日、100ドル程度です、4人でし
たら完全に安くなります、彼女達はバスで住復20ドルほど掛かったと話
していましたので貸切でしたら4名が便利で安く、楽チンに旅行できると
思いました。
トイレも声を掛けると直ぐに綺麗で便利な場所に止めてくれ、アウランガ
バードからアジャンター窟院群の遺跡に行くまで、一台も追い越されなか
ったのには驚いたが、若い運転手でインドのローカル音楽をCDで聞かせ
てくれましたが、何かその旋律までが、街道に綿クズが所々にちらかる田
舎の風景とマッチして、南インドの光景を見た感じでした。

その地域では綿の収穫が終わり、その綿を満載で走るトラックと行き交い、
道端には砂糖キビの山を積み上げた牛車が並んで、それをトラックに積ん
でいました。田舎の街道を走ると牛車とヤギと、ラクダが引く荷馬車が交
差する道脇で、工事が行われていましたが、光ファイバー・ケーブルの埋
没作業でした。
最先端のケーブル事業と日本では当の昔に消えて見られなくなった光景が
共存して、インドならでの光景を作り出していました。余り人影も無い地
帯を通過する時に、サリーを着てサンダルを履いて頭に荷物を載せて歩い
ている婦人を見ましたが、よく見ると近くにケーブル工事の飯場らしきテ
ント小屋が有り、資材のケーブルの山が有りました。

その黄色や赤や緑のパイプの原色の色合いが、何かインド風な景色にマッ
チして、サリーを着た婦人が同じ色合いの模様を着ていたので、ふと・・、
見入っていました。車は11時前には到着しましたが、途中峠を超える時
に、山間の坂で大型トラックが綿の梱包を満載して崖に転落していたのが
見えました。
アジャンター窟院群は世界遺産に登録され、世界中の人々が見学に来てい
ますが、その価値は十分に有り、仏教寺院遺跡の中でも5世紀半ば頃にイ
ンド文明が開花した時期に、その当時の最高技術を用いて、造営された
アジャンター仏教石窟群は世界遺産として自分の目で見て、改めてその素
晴らしさを心感じました。

子供の頃に図書館で見た仏教遺跡の写真を思い出して、我が手に触れて、
おそらく二度と来る事は無いこの遺跡に、過去の重いと重なり、石窟の中
に作られた仏の石像を見て、手を合わせて祈る我が姿に、思いは『よく念願
が、かなって来た・・・』と言う幸せでした。
またこの様な石窟を緻密に細工に彫り上げた執念は、ただただ驚くだけで、
宗教に対する思いが、人々の心をいかに情熱の火に駆り立てるか思い知っ
た感じでした。
遺跡の中には特定のバスでしか入る事が出来ませんが、乗ってきた車を降
りて家族で身軽ないでたちで見学に行きました。各自、ボトルの水も持参
で、かなり歩きますが先ずは遺跡の入り口に立って、体から興奮の震えが
こみ上げて来ました。

2012年9月14日金曜日

第3話、伝説の黄金物語、(4)‏

 ブラジル生活の一歩、

富蔵はマリア親子がサンパウロに出て行って一人になり、離れの部屋に
その夜は寝ていた。
翌日は農家なので朝は早かった、薄暗い内から起きだしてきて、市場の
荷物の用意をしていたが、富蔵も朝は早いので起きて手伝っていた。

馬車に積み込みが終わり、畑の手入れに来た労務者が、奥さんの指示
で畑に農具を持つと出かけて行った。
コーヒーが出され、パンや果物などもテーブル並び、朝食を皆と食べ
ていた。

長男の正雄が『今日は父が仲間の会合に出るので、富蔵さん貴方が付
いて来て欲しい・・』と声を書けて来た。

富蔵は二つ返事で了解すると部屋に戻り、現金を扱うので用心に三朗
が持っていたデリンジャー拳銃を腹巻に隠していた。二連発の小さな
手の平に入る小型の拳銃で昔の西部の開拓時代に博徒達が使った護身
用の拳銃であった。

上原氏の両親に見送られて、まだ薄暗い道を市場に向けて歩き出した。
正雄は『ブラジル人の中で生活したら直ぐに言葉も覚えますから』と
言って話して居たが、富蔵もそれが正解と考えていた。

正雄は富蔵にポルトガル語を教えながら馬車をあやつり市場に着いた。

荷降おろしをして店が開かれ、馬車は専門で荷車を預かる男が引いて
行った。富蔵は店先で正雄に教わったように、掛け声を掛けてお客を
呼び込んでいた。富蔵の様な男には向いた仕事であった。

一時間もせずに数の数字を覚えて、秤の目盛りを読んでは値段を声を
出して叫んでいた。
若い女性の買い物客も多いので、富蔵には厭きの来ない仕事であっ
たが、時間の経つのが早く、売れた野菜が多かったので、遅くまで店
を開けている必要な無かった。

正雄は家で必要な物を買い込みながら馬車を迎えに行った。
その日は早目に終わり、馬車に荷物を積み込むとまだ混雑している市
場を抜けた。

正雄が『今日はお握りを食べる暇も無かった』と言って、お握りとお
茶を出してくれ、馬車の上で食べていた。
若いもの同士で話が弾み、身の上話から、妹の話など、富蔵も知らな
い話をしてくれた。しかし行き着く話は若いもの同士で、女の話にな
った。

正雄はこんな足で、まだ女の経験が無いと嘆いていたが、『結婚した
くとも肝心の男としての弾が無い』と打ち明けてくれた。

ジャングルの伐採作業で倒木に合った時に、右足に当った木の折れ先
が睾丸に刺さり竿は無事だったが、玉が潰されたと言って嘆いていた。

両親もそれが心配で結婚相手が探せない様だと話していたが、富蔵も
その話を聞いて、人の運命の奇遇さに驚いていた。

トコトコと走っていた馬が突然に棒立ちして、乗っていた二人は馬車
から振り落とされそうになり、売れ残りの僅かな野菜が少しバラバラ
と飛び散った。

富蔵は先日、市場の騒動で砂糖キビの棒で叩いた二人が仕返しに来た
と感じた。
今日は得物の長い棒と山刀を持って、誰も居ない道を二人が塞いで
いた。富蔵はとっさに『俺が相手するから、あんたは馬車から降りる
なー!』と叫んでいた。

馬車の御者台の下に入れてある仕事用の山刀を富蔵も握ると飛び降り
て、無言で対峙していた。
カボチャやマンジョウカを切る小振りの山刀は鋭く磨いであった。
相手二人は富蔵が無言で向かって行ったので、少し後ろにさがりな
がら、罵声を浴びせて、同時に富蔵に襲い掛かった。

一瞬の間合いを計り、振り下ろされる棒を二つに切り落として、返す
刀の背で相手の山刀を叩いていた。
『キーン!』と音がして火花が飛び、相手の山刀が吹き飛んでいた。

一瞬で決まった勝負に相手は呆然としていた。信じられないと言う
顔で見詰めていたが、正雄が手にする先を切り落とした散弾銃を見て、
慌てて逃げていった。

正雄がこの辺は余り治安が良くないので、用心に御者台の下に隠し
ていると話していたが物騒な話であった。正雄が感心して剣道の腕
を誉めていた。

富蔵も剣道4段の一等航海士に誉められるくらい、毎日練習してい
た甲斐があったと自分でも感じていた。
最初は食堂の仕事が軽くなるからと考えて居たが、後では面白くて
何も無い海原を走る船上では本当に良い運動であった。

船員の中には肥満の者も多かった。運動不足で不規則な勤務時間で
食欲も減り、体調を崩す人もいたが、富蔵は毎日激しい運動で筋肉
が盛り上がっていた。

事務長が教えてくれた空手と柔道は軍隊式で、まるで調練の様な
練習で、相手が皆逃げてしまい、僅かに残った中に富蔵は居たので、
だいぶ可愛がられていた。

そんな話をしながら家に帰宅したが、何か自分の肌に合った土地と
感じていた。
夜になっても正雄がポルトガル語を教えてくれ、両親も日本語の
話せる同じ年齢の仲間を長男が得たことに喜んでいた。

上原氏家族はブラジル移住してくるまでは神戸に住んでいたので、
標準語を何も不自由なく話していたが、時々奥さんとご主人が沖
縄弁で話していた。
富蔵や子供には標準語で話していたが、時にはポルトガル語が混
じる事があった。

富蔵はブラジル生活の出発に良き場所で、良い家族に出会ったと
感じていた。

翌日も正雄の希望で富蔵と二人で市場に行き、店を出す事になっ
た。その朝、上原氏夫妻は富蔵を呼んで次男の身分証明書を渡すと、
『次男の富蔵になりなさい・・・』と渡してくれた。

日本大使館には次男の死亡届けを出したが、ブラジル現地の役場
には出してはいないから、この身分証明は何も問題が無く使える
と説明してくれた。

ノロエステ線奥地の入植地の役場など、誰も日本人入植者が遠く
の土地に移動しても、詮索する事などありえない話だと富蔵に説
明してくれた。 

そして・・、上原家の家族が貴方を次男の富蔵と言えば、それで
全て終わりだと念を押してくれた。

富蔵にはその言葉の意味を心に深く感じていた。
そして、富蔵は上原家でこれからの南米で人生を過ごす現地の
基本を学ぶ事になった。

2012年9月13日木曜日

私の還暦過去帳(297)

今日の私のお勧め映画は・・、

「Tibet : Cry of the Snow Lion 、
チベット:クライ・オブ・ザ・スノーライオン」
 と言う長編ドキュメンタリー映画です。

製作は2003年で、2004年のバンコック国際映画祭で大きな反響を得た。
私がこの映画を見たのは、娘の家を訪問して食後に娘夫妻とワイフと4人で
このビデオ映画を見たのです、そしてドキュメンタリー作品としての中に心
感じる、長編ドキュメンタリー映画の中に出て来るチベットの景色の雄大さ、
色鮮やかさに輝く自然が、まぶたに焼きつく様に迫ってきました。

映画の中で、ダライ・ラマ法王が自身の誓いの中にある、

第1、慈悲、許し、やさしさなど、人間としての価値を高めることに努める
   という事。

第2、宗教間の調和を促進し、世界の主要宗教の相互理解を深めることに努
   めるという事。

第3、チベット問題の平和的解決への誓いです。

法王が精神的なチベット民族の象徴として、チベット仏教の頂点としての生
きかたとか、またチベット問題が抱える政治的、文化的歴史を追った長編ド
キュメンタリー映画と成っているが、過去10年の歳月を費やして撮影され
たこのフイルムを見ると、我々が知り得た情報がいかに少なくて、貧しい知
識でチベットと言う政治、宗教、経済、動向、中国が関係する問題を見てい
たか、痛切に心感じる映画でした。

映画監督のトム・ペオセイは、チベット問題の中心的な政治問題を正面から
見据えて、記録して、その関連性を解き明かしてくれる。彼がチベット問題
で躊躇なくチベット民族を擁護して味方するという原点からの視点は、対立
する中国政府にたいして、強烈なパンチとなっていると感じます。

中国支持派の関係者、報道陣、そしてチベットに移住した中国漢民族の敵対
的行動に対しても、フイルムが映し出す真実の画像の前には、まさに空論と
しか聞こえない様子を呈する。もしも貴方がこの映画を見て、感じて、貴方
の口から出る言葉を、私は一人の客観的な立場から聞きたい、これが私がこ
の映画を見て感じた事です。

バックサウンドとして流れる音楽も、一枚のレコードアルバムとして聞いて
も、チベットとヒマラヤの雄大な自然を心感じさせるテーマ音楽と思います。
そしてチベットの大自然を背景に流れるテーマソングがチベット民族の心の
叙事詩を語っていると感じます。

チベット問題に関して、政治を抜きにしては語ることが出来ないが、この映
画を見ていると要所に映画監督ペオセイは、欧米社会に対して、特に米国に
対して、チベット問題を中国政府の共産主義政権との駆け引きの道具に使う
のをやめるよう強く要求しているのは、強く私の心にも伝わってくる。

貴方も一度この映画を見て、それから自分の心がどのように動か・・、また
ペオセイは、欧米社会に対して、特に米国に対してのメッセージとして投げ
かけていると思います。

法王が唱える『チベット問題の非暴力的解決』は無駄だ・・、と言う政治評
論家の意見を見ると、中国が軍事力、経済力、国際的に組織化されたシステ
ム的外交理論からすると、中国の指導者が言った『政治は銃口から生まれ
る・・』と言う理論が正解かもしれない不安が湧いて来る。

チベット解放運動も関連して、考えさせられる映画でした。
貴方も是非ともこの映画を鑑賞して、この問題に正面から相対して考えて
下さい。

お勧め度、社会派長編ドキュメンタリー映画:100%
製作:2003年、
映画監督:トム・ペオセイ
上映時間:1時間40分

2012年9月12日水曜日

第3話、伝説の黄金物語、(3)‏

上原氏との出会い、

富蔵は酔いの力もあり、マリアをベッドに押し付けていた。
マリアは富蔵の最後の求めは,『私には夫と子供が居ます・・、』といって、
拒んでいた。

富蔵は、はっとして彼女が言う言葉が、酔っていた心にもグサリと刺さった。
側の寝顔が可愛い女の子を見ると、それ以上は手が出せなかった。

毛布を被ると今日一日の緊張からか、ドロ沼に引き込まれる様にそのまま寝
てしまった。朝は船の習慣で早かっので、側でマリアと子供がまだ良く寝て
いたので、一人で起き上がり、着替えて外に出た。

近くに朝市が出ていて人が集まり、屋台も並んでいた。町の生活物資が何で
も揃うという感じで並んでいた。一通り見て周り、野菜類を売る場所でふと
見ると、東洋人が2名、野菜を売っていた。

何かもめている様で、ブラジル人の若い男が3人ほど、東洋人を囲んで、言
葉はわからないが、イチャモンを付けている感じがしていた。

黙って側で見ていたら、ブラジル人の男の一人が売り上げをひったくる様に
金を奪ったので、富蔵は日本語でとっさに、『このやろー!何するんだ!』
と怒鳴って、その男の手をねじり上げて金を取り戻した。

その金を東洋人の若い男に差し出すと、何と、『どうも大変有難う御座いま
す』と答えた。富蔵は驚いて居たが、すぐにごろつき3人の内、2名がナイ
フを抜いたので、

『危ないー!』と言う声と同時に、富蔵も側の野菜売り場に山に積んである
砂糖キビの1メートルぐらいの茎を取ると同時に、剣道の要領で、小手一本
を決めてナイフを叩き落し、返す動きで側のもう一人の面を叩いていた。

砂糖キビが折れ飛び、相手が尻餅を付いてひっくり返った。
富蔵は用心にもう一本砂糖キビの茎を握ると、相手はこそこそと逃げて行っ
た。

東洋人は日本人だったのである、親子と思う日本人は『上原と申しますー!
』と自己紹介をしてくれた。売っていた野菜はジャガイモを主に、何でも少
しずつ置いてあった。
富蔵もホッとして、話し掛けていたが日本からの移住者で、奥地でコーヒー
栽培の小作をして居たが、次男がマラリアで死んでから、サントス港とサン
パウロの中間にある、小さな町の郊外に気候も良いので、野菜栽培で引っ越
してきたと話してくれた。
『ここは魚も簡単に手に入り、新鮮な物が食べられますよ・・』と話していた。

話が弾み、富蔵もあっさりと『日本船からの脱船者で逃げて来た』と話すと、
『行き先が無いのだったら、一度我が家に来て下さい・・』と言う誘いにあ
っさりと乗った。
『妻ではないが、連れの子持ちの女が居るのだが・・』と言うと、
『何もかまいませによ、食べるぐらいは、農家ですから何も心配はあリませ
んよ、』と、強く誘ってくれた。

富蔵は何か・・、これから先の、もやもやが吹き飛んだ感じで、同時に空腹
を感じた来た。『腹減ったなー!』とつぶやくと、上原氏が、『このお握り
でも食べて下さい』と勧めてくれた。
高菜の漬物で巻いた大きなお握りであった。

富蔵が、『これは貴方の朝食ですか?』と聞くと、『これはただのおやつ
です・・』と言って押し付けて来た。朝が早いのでお腹が空いた時に食べる
のだと話していたが、富蔵にとって、まさかここで、お握りが食べられると
は驚いていた。

食べ終わると礼を言って、宿に戻り用意をしてくると話すと、
『必ず来てくださいー!』と声を掛けてくれた。
宿に戻るとマリアが起きていた。コーヒーとパンが用意され子供は食べていた。
富蔵はマリアにゆっくり説明して、『俺はここで同じ日本人の農家に行く』
と話した。

マリアは『ここで別れて、サンパウロで消息が消えた夫の行方を捜す』と言
うと、『もしも夫が亡くなっていたら・・・』、と言うと下を向いて考えて
いた。

富蔵は彼女がサンパウロに行くと言うので、少し市場で子供の着替えやマリ
アのスカートも買ってやろうと考えていた。

食事が済むとマリアと子供を連れて市場に戻った。上原氏に紹介して、事情
を説明して話したら、夕方にサンパウロの市場に出荷すジガイモを、トラッ
クで積み出しするので、それに同乗して行けばと誘ってくれた。
上原氏の長男が上手くマリアに説明してくれ、彼女も納得していた。

上原氏が市場の仕事が終わるまで時間が有るので、その間に買い物をするこ
とにして、マリアと子供を連れて服を買いに歩いた。
マリアはすまなさそうにして、買い物をする富蔵について歩き、値段の交渉
をして値切っていた。
早口で話すポルトガル語は、富蔵には皆目解らなかった。

都会のサンパウロに出る格好がつく服を買い、ついでに新しい靴も親子に買
てやった。マリアが感謝の言葉を何度も富蔵に言い、子供は大喜びで富蔵の
手を握り飛び跳ねていた。
全てが済んで、上原氏達が待っている場所に行くと、すでに朝市のかたずけ
が始まっていた。
馬車が横付けされて残りのジガイモや野菜が積まれ、富蔵も手伝いていた。
マリアは宿の勘定を済ませて、荷物を持って来た。上原氏の長男は皆が馬車
に乗る前に自己紹介して、正雄と言い、ここではマサと呼ばれていると教え
てくれた。

長男の正雄が馬車に乗りこむ時に足をかばい、彼の右足が義足と分かった。
富蔵が馬車に乗りこむ正雄に手を貸し、上原氏も御者台から手を差し伸べて
いた。

馬車が動き出して、上原氏が、『正雄は田舎のジャングルで伐採作業中に
倒木に足を挟まれれる事故で足を無くしたのだ』と教えてくれた。
小さな街中を過ぎて土道の農場が広がる所に出ると、『あそこの家ですー!』
と指差して教えてくれた。

農場の近くになると、畑で奥さんらしい人が手を振っているのが見え、農場
の敷地に入ると犬達が歓迎してくれ、ニワトリの鳴き声も聞こえていた。
のんびりとした田園の様子は富蔵には懐かしい日本の思い出を感じさせてく
れた。馬車が止まり、奥さんと娘らしき方が迎えに出て来て、上原氏が紹介
してくれた。

富蔵ですと自己紹介すると、奥さんが『次男の富蔵と同じ名前ですね・・』
と驚いていたが、どう書くのですかと聞いたので、漢字を教えると『まった
く同じですね』と娘と話していた。
『そして体つきまで似ている・・』と話すと、マリアと子供を呼んで家の中
に案内してくれた。

直ぐにお昼になりますからと言うと、居間に飾ってある写真を指差して
『マラリアで亡くなった私の子供の富蔵です』と教えてくれた。

上原氏も『そう言えば良く似ている・・』と長男の正雄とうなずいていた。
その日のお昼食は賑やかに日本語とポルトガル語が飛び交い、富蔵もすっか
り馴染んでブラジルに逃げ出してきた夢などを語っていた。

食事が済んで家の側にある別棟の家に案内され、昼寝をするように勧めら
れた。正雄がマリアにトラックが夕方4時には集荷に来ると話していた。
昼寝の夢を破ったのは、犬達の吼え声で分かったが、トラックが集荷に来
た様だった。

マリアと子供が起こされ、トラックにジガイモやキャベツなどの積荷を載
せている間に用意をしていた。
娘さんもサンパウロに帰るということで、同じトラックに同乗して行くよ
うであった。
上原氏には娘が二人居るようで、美恵と言う名前の長女はサンパウロで野
菜の仲買をしている、日本人と結婚して街に住んでいると教えてくれた。

あと一人の一番下の次女は、サンパウロ日本人街のレストランで働いてい
ると言う事であったが、時々、休日には帰って来る様であった。

富蔵はマリア達親子がトラックに乗り込む前に、少しばかり、まとまった
金を握らせた。マリアは別れの時には涙を流して、感謝の言葉を何度も富
蔵に掛けていた。

富蔵も何かあればここにまた来るように話していた。しばらくは言葉も覚
え、ブラジル社会が見えて来るまで、ここで働きながら世話になるとマリ
アに正雄から話して貰った。

美恵も大きなお土産の荷物を持つとトラックに乗り込み、マリアも子供も
富蔵にキスをして別れをしていた。
トラックは富蔵と上原氏の家族に見送られて農場の門を出て行ったが、
富蔵は短い時間であったが、マリア親子がなぜか名残惜しかった。

夕食まで畑の手入れや明日の市場の用意をしていたが、何も苦労ではなか
った。それは昔は自分も農家の出で、16歳で神戸に出るまでは、家では
何でも手伝わされていたので、農作業などは気軽に進んで働いていた。

その夜、夕食時間に改めて今朝の事に感謝の言葉を言ってくれ、上原氏と
奥さんが、ここで働いてくれるように勧めてくれた。
上原氏は奥さんに、富蔵が剣道が上手でかなりの腕があることも話してい
た。

富蔵が相手をしていた一等航海士に剣道の相手が居なくて、今頃は困って
いると感じていたが、同じく事務長も柔道と空手の重宝な相手が突然消え
たので困惑して、新しい相手が難しいので、今ではどうしているか考えて
いた。

富蔵が船を脱走するまでは、毎日必ず運動の為に練習する航海士の相手を
させられ、その腕も航海士の剣道4段の個人教授でメキメキと腕を挙げて
誉められていた。

食事が終わり、コーヒーが出され、先ほどサンパウロに帰った娘さんが作
ったケーキも切られた。
その夜、富蔵は覚悟を決め、しばらくはブラジル社会を、この自分の目で
見えて来るまで、この上原氏の農場に腰を据えようと決心していた。

2012年9月11日火曜日

私の還暦過去帳(296)


『もと百姓が見たインド』

南インド料理のレストランの帰りに、運転手が市内を少しドライブ
してくれました。時間的にも早いので、田舎町といえどもインドです、
かなりの人が街頭を歩いていました。

ニュー・デリーは車が多かったのですが、そこはオートバイの数が
凄いのには驚きました。市内だけですが、それに3輪のパタパタが
走り廻り、喧騒の街中で綺麗なビルが有りましたので聞くと、私立
の病院で長期滞在型の外国人向けの病院と聞いて驚きました。

アメリカ人も来ていると話していましたが、ヨーロッパ人が多い様で
した。それにしても、インド人がハイテク技術や医療関係でアメリカ
国内でも多くの人が働いています。医療関係などで、医者はインド国
内で医者の免許を習得したら、アメリカでもう一度、医者の免許試験
にパスすればアメリカ国内で仕事が出来るので、英語での教育を受け
てきたインド人からしたら、難しくはないと感じます。

二ユーヨークでは40%近い率で医者がインド人と聞いたことが有りま
す。アメリカからインドに戻り、病院を開業している人も沢山居ると
次男が話してくれましたが、次男が合気道の練習中に指の筋を切り、
その手術をしてくれた医者もアメリカ帰りと言っていました。

そのレベルも高く、最新の医療施設で応対してくれ、完全に次男の指も
完治しています。
私もテレビで見たのですが、キューバでもその様な患者を受け入れてい
ると見た事が有りますが、インドで、それも田舎の都市で、同じ様な病
院を開業していたとは少し驚きました。

そこの病院を見てからインド・サリーの服地製造の仕事場を見に寄りま
した。早く言えば製造販売の直営店でしたが、時間的に遅かったので年
寄りの老人が一人で絹地に模様を入れながら機を織っていました。

細かな繊細な仕事です、手間の掛かる仕事は1ヶ月も織ると話していま
した。丹念に見せてくれましたので、帰りにチップを20ルピー握らせ
ると、機を織る手を休めて、布地を広げて見せてくれましたが、薄暗い
電球の下で、金糸がキラメク様に光っていました。

おそらく金持達しか購入出来ない価格と思いますが、優雅な模様のサリー
を着れるご婦人の姿は、さぞかし素晴らしいものと考えていました。

インドでは階級差と貧困の差が極端ですが、その下で働く多くのインド
人がインドの下支えとなり、現在の発展するインドを作り出したと感じ
ます。
帰り道に街道に出ると、TATAの大型トラックが隊列を組んで何台も
荷物満載で通過して行きました。
南インド地方で収穫が終わった綿の梱包が見られ、何処かの港まで運ば
れていくと思いました。

その夜は明日の早起きを考えて、直ぐにシャワーを浴びてベッドに入り
ました。

2012年9月9日日曜日

第3話、伝説の黄金物語、(2)

サントス港上陸、

『富蔵・富蔵・・』と呼ばれて目が覚めると、そこには当直士官が起床の
声を掛けて廻っていた。
手を伸ばして時計を見ると、3時半のまだ真っ暗な夜明け前の船室だが、
すでに起き出して服を着替えている船員もいた。

今日は船から脱走逃亡決行日と感じながら、腹巻の中の金を確かめていた
が、8時半の出港まで安全に陸に上がって、サンパウロを目指す事を考え
ていた。

汽車では直ぐに連絡されて、検挙される事が目に見えているので、歩いて
行く計画で居た。すでにサントスに到着した時から決行を決めていたので
後はサイコロの転がる先と考えていた。

蒸し暑い厨房では、出港前の忙しい朝食の準備が始まっていた。
いつもの平静を装って、何事もなく朝の仕事をこなしていった。
上で『カン・カン・・』と6時の鐘が鳴り、他の船員達が起きて来て朝食
の席について食事が始まった。

船の船員食堂は長いテーブルに両側に座って食べる様になっていたが、停
泊中は各自が好きなだけ食べられるように、御飯釜と味噌汁の鍋が置かれ、
横に各自のおかずの皿が並んでいた。
別室の高級船員達の食堂に行く事務長が、富蔵の声を掛けて、『今日の練
習は午後に上甲板でやるからな・・』と言いながら階段を登って行った。

富蔵は絶好のチャンスが来たと感じた。
乗船している乗組員の、ほぼ全員が揃って出港前の朝食を食べている僅か
な時間と感じていた。

船に乗船するタラップの下に24時間居る、看視と警備の黒人警官に朝食
を出すとボスのコック長に言うと、『そこの盆に載せて行け・・』と指示
すると忙しそうに高級船員達の食事を用意していた。

富蔵は食堂入り口横の、神棚に祭ってある、守り神様に目礼して成功を祈
り、盆をさげてタラップを降りた、ようやく夜が開けて明るくなった波止
場はまだ静かで、チラホラと湾口労務者が居るぐらいで眠りからは覚めて
いなかった。

タラップの下に小さな小屋があり、中を覗くと机にもたれて眠っている黒
人の大男が見えた。テーブルにパンとコーヒーが入った壷とパパイヤを切
った皿が入った盆を静かに置くと、後ろも見ないで小走りにゲートに向け
て急いだ。いびきが聞こえていたのでよく寝入っていると感じた。

僅かな貴重品を入れた袋をコックの上着の下に隠して、ポケットにはお握
りを入れ、ゲートは何も止められる事無く通過出来た。後はしばらく走る
ようにして荷物を預けているバーに急いだ、24時間開いているバーであ
ったが、すでに労務者達がコーヒーとパンを前にテーブルに座っていた。

時間どうりに来たので、友達のバーテンダーが直ぐに荷物を渡してくれた。
そして『捕まるなよー!』と声を掛けてくれた。すばやく着替えて、コッ
クの制服はカバンの中に押し込んだ。
バーの横に駐車していたタクシーの運転手が、彼から聞いたが急がないと
危ないと言われ、とりあえず港から離れる事にして、町外れのサントス街
道まで乗車しして、場末の寂しい雑貨屋の前で降り、一息いれた。

どうやら成功したようだ、今ごろ船では大騒ぎで探していると感じていた。
店でブラジル人の労務者がかぶる帽子を買い、なるべく土地の風体を真似
た格好で歩き出した。まさに格好は日焼けして体格は良く、現地のブラジ
ル人が着るシャツを着て、まるで職探しの現地人と同じで、小さなカバン
はよれよれで様になっていた。

その店で船からポケットや手に持てるだけ持ってきた荷物を入れるジユー
ト製の小袋を買い、それに全部詰めて、肩にカバンと振り分けて歩き出し
た。
その中には花札賭博で金を払わなかった三朗の隠し荷物も黙って持って来
ていた。それは船の排気口の中に、たこ紐で吊るして隠してあったのを、
きっと金を隠していると睨んで盗んで来たものであった。

暑くならない内にこの峠道を越したいと考えて急いでいたが、人から聞い
ていたサントス街道から離れたジャングルの中にある近道を歩いて行こう
と考えていたが、カバンの荷物の中から、さらしに巻いた刺身包丁を腰に
差すと歩き出した。
サンパウロに着いたら日本人の宿に泊まり、先ずは周りが分かるまで滞在
を考えていた。

しばらく歩くと前にブラジル人の若い子連れの女が歩いていた。子供は
3歳ぐらいかゆっくりと歩いている、追い抜きながら挨拶すると、にっこ
りと笑ってくれた。
姿は貧しい服装で、小麦粉色の肌と黒い髪で混血と分かったが、手にする
荷物は毛布に包んだ僅かな物を頭に載せていた。

子供の手を引き、ゆっくりと歩いている姿を見て、富蔵のお人好しの性格
から立ち止まり、歩調を合わせてその子連れ女と歩き出した。

子供が転びそうになり手を繋いで歩き出したら、すっかり子供もなついて
富蔵が差し出すキャラメルを喜んで口に入れていた。かなり歩き、急な坂
道となり、一休みとする事にして、船から持って来ていたお握りを袋から
出すと、1個を若い女に渡した。

『オブリガード』と言って、私の名前はマリアと自己紹介して言った。
子供はアナと教えてくれ、マリアも自分の袋からパンとチーズを出して富
蔵に差し出した。富蔵も俺の名前はトミーと自己紹介した。

それからは食事をしながら彼女がバイア地方から船でサントス港に来て、
これから歩いてサンパウロで消息の消えた夫の安否を探しに行くと話して
くれたが、ボロボロの靴を履き、汚れたスカートと汗臭いシャツを着て、
着替えも無い様な感じの様子でいた。

どう見ても文無しの風体で、これからどうするかと言う思いを富蔵は持っ
たが、そのマリアの陽気な雰囲気は貧乏神を吹き飛ばす感じを持っていた。
サントス海岸山脈の段差をジャングル内の細道を歩いて登り切った時は午
後になっていた。
子供を背負い歩く富蔵の姿は、遠目で見ると若夫婦が子供を連れて歩いて
いるとしか写らなかった。しかしそれが幸いした。

小さな町に来て検問所らしき所で、警官が数人並んでいたが、マリアが
身分証明書を手にして警官に見せようとすると、手で『行け、行け・・!』
と合図して、子連れなど見向きもしなかった。

富蔵もホッとしてマリアに感謝していた。富蔵も歩き疲れ、お腹も空いて
来て、マリアにどこか休む所を探すように頼んだ。自分の僅かばかりのス
ペイン語ではとても無理な交渉であった。

マリアは富蔵に子供を預けると直ぐに小さな町の中に消えて、数分も掛か
らず戻ってきた。

木賃宿があるという事で、食事も宿泊も出来ると言う事を調べてきた。
マリアが富蔵の手を引いて背中で眠り込んだ子供を見ながら宿に着いて、
直ぐにマリアが一切の交渉をして良い部屋を押さえた。

シャワーとトイレが付いた部屋で、富蔵が希望した少しはマシな部屋で
あった。

宿の女将がマリアを奥さんと呼んでいるようで、富蔵は事の成り行きに
任せて何も動じなかったが、でも一人で歩いていたら今頃は、言葉も分か
らず警察に留置されていたかも知れないと考えていたが、途中の道で出会
ったマリアは、神様が巡り合わせしてくれたと感じていた。

マリアは水しか出ないシャワーの床で洗濯を始めていた。自分の服と子供
の服も合わせて洗い、裸電球の薄暗い光りの下で裸体を富蔵に晒して居た
が、富蔵は船から盗む様に持ち出して来た三朗の小荷物をベッドの上で開
けていた。
中からボロ布に包まれた小型のデリンジャー拳銃と弾があり、金もドルと
円が合わせて250ドル程度あった。後は細工をしたイカサマ・サイコロ
や花札、トランプも出て来た。
やはり昔は札付きのイカサマ賭博の三朗と感じていた。

宿の食事で満腹して、疲れて寝ている子供の脇で、マリアと富蔵は飲んだ
ピンガの焼酎が効いたのか、富蔵がマリアの先の尖った乳房をさわり、
ベッドの上で無言で絡んでいた。

























































2012年9月8日土曜日

私の還暦過去帳(295)

『もと百姓が見たインド』

元旦はゆっくり寝ていました。外の通りも昨夜が遅かったのか、目が覚めた時
は、まだ静かで昨夜の雑踏の喧騒は有りませんでした。
朝は次男がコーヒーを入れてくれ、それからアメリカより持参した赤飯をお
湯で暖めて、インスタント味噌汁と沢庵で祝いました。
赤飯はパック入りで簡単に温める事が出来まして、熱々の赤飯をインドの
正月に食べるなど、二度と無いと箸を付けながら思いました。

午後にはムンバイ(昔のボンベイ)に飛行機で2時間で飛び、そこからまた、
45分程度飛んでAurangabad(アウランガーバード)に到着致し
ました。45分と言っても、汽車でしたらムンバイから7時間半も掛かりま
す。
デリーからムンバイまでは飛行機では2時間でも、特急列車ではかなりの時間
を要しますので、丸一日掛けて、それも寝台列車で揺られて行くなど、とても
では若い次男と付き合いきれませんので、飛行機を選択いたしました。

ムンバイ行きに飛行機を選択したのはそれが正解でした。
時間的、体力的にも楽チンで、デリーでゆっくり元旦を祝って家族4人で午
後から飛行場にタクシーで行きました。
次男の彼女も同行しましたのですが、4名でしたら車に乗るにも都合が良く、
旅は殆ど貸切の車を使いましたが、快適で早く、便利でした。

搭乗いたしましたのがインド国内便のエアー・インディアでしたが、サービス
も良くてサリー姿の乗務員が印象的でした。私もマジで至近距離で見たのです
が、サリーの中間辺りのお腹がチラリー!と見えるのです、JALでは考えら
れませんので、インドではサリーの制服はセクシーと感じました。

飛行機はムンバイ行きですから7割方はビジネス客と言う感じの背広姿が多く
て、他は観光客が多かったと思います。中に初めて飛行機に搭乗するかと思
われる中年の男性を見ましたが、どことなく、おどおどとしていて、通路を
隔てて座っていましたが、見ていて何か笑いがこみ上げて来ました。

飛行機が離陸する時に、何かお祈りをしている感じで、目を見開き、身体を
硬直させ、飛行機が安定飛行に入るまで、そのままの感じでした。

ランチが配られる時も、テーブルを乗務員がセットしてランチをそこに載せ
て居ました。その方もランチが終わってからは、飛行機の窓に額を付けてム
ンバイに到着するまで見ていました。私も48年前に、南米で双発プロペラ
機のDC3に搭乗した時に、同じ格好をしていたと思います。
その時は降下兵用の輸送機改造機でしたが、座席がキャンバス製の簡易
シートでした。

アメリカの国内便では搭乗時間が2時間ぐらいでしたらランチは無しで、欲
しい人はサンドイッチなどを買う事になります。それからしたらインドでは
正式なトレーに載せた美味しいランチも出ました。
勿論の事にインドですから菜食主義者の方が多いので2種類有りました。
私が食べたのは鶏肉のカレー煮でしたが、横にライスも付いて味も美味しい
物でした。
アウランガーバード飛行場に到着して、外に出ると手配していた車が待って
いました。その車で泊まるホテルまで行きましたが市内を通過して、20分
ばかりで田舎の3星クラスの宿でしたが、日本人もかなり泊まって居るよう
でした。到着したその夜はどこも行かずにシャワーを浴びて、食べ放だいの
南インド料理を食べに行きました。

そこの町でも有名なラストランでしたが、座ると大きなステンレスの大皿が
出てきてそこの中に8種類ばかりの料理が小皿に入れてあり、その一つでも
食べ終わると、すかさずまた料理を注いでくれました。
ボーイが小型の鍋を提げてテーブルを廻って居ますので、手で皿を隠さない
と、ポィー!と入れてくれます。

ナンとチヤパティーも食べ放題でドンドン持ってきます。隣では音楽が賑や
かに鳴り、沢山その町のローカルの方々が来ていました。家族でレストラン
の食事を楽しんで外に出たら、隣に韓国現代電気の新しい電化製品展示場
が有り、こんな田舎と思いましたが、大型スクリーンのTVが並び、これ
からのインドの先を見て、先行投資と感じました。

その店だけが大きなガラス窓のショールームで輝いていましたが・・・、
内心は心の中で、『韓国も味なビジネスをやるな・・・!』と思っていまし
た。

2012年9月7日金曜日

第3話、伝説の黄金物語、 (1)

 この物語の始めに、

小林富蔵こと、トミーが日本船から抜け出してブラジルのサントス港に降り
立ったのも昔の事で1925年頃です。

この話が始まるのは風来坊の富蔵が気ままに生きて、人生を謳歌していた
のは22歳の歳でしたが、彼の歳にしては大きな野望に似た心の思いがあっ
たと感じられます。

サントス港で朝早く出港前に、トミーが船から逃げる事を実行に移す前に、
すでに着替えや靴などは陸の港の外に隠してあり、体一つでいつものよう脱
走する事を考えて実行に移したのでした。

二ユーヨークに住んでいた頃に同じアパート隣人のイタリア人皮工芸人から
作ってもらったバンドには、ベルト中に金の隠し場所作ってもらい、またベ
ルトのバックルには小型のナイフが仕込んであるベルトを使用していました。

ベルトの中には金貨が10枚ほど入れてあり、命金として必ず持ち歩いてい
たが、今回の航海で花札博打で大儲けをして300ドルと言う大金を手にし
ていて、他の乗組員から狙われていたことも、今回の脱走に繋がった様でし
た。当時、一日の賃金が1ドル程度でしたから、かなりの金額と思います。

当時のブラジルは一攫千金を夢見る若者達が憧れていた土地でもあります。

金と度胸と若さが、ブラジルに夢を賭けてサントス港で脱走したとも感じま
すが、パスポートも無く、僅かな着替えと、さらしに巻いた刺身包丁一本を
腰に差してまだ夜も明けきらない時刻に船のタラップを降りて、警備の黒人
を擦り抜けて港を抜けると、港近くのバールに預けていた荷物から着替えを

出して靴も履き、サンダルとコックの制服を着替えて、ポケットに入れて来
た大きなお握りを食べながら線路を伝ってサンパウロの町を目指して歩き始
めたと、トミーが話していました。

二ユーヨークで覚えたスペイン語が、ポルトガル語を話すブラジルでも通じ
て言葉には余り困らなかった様でした。

彼が最初に考えていたのは皆と同じ大コーヒー園の農場主となる事だったよ
うですが、サンパウロでコーヒー園から夜逃げして来た人々から聞いた話で、
それはいつの間にか考え直して、サンパウロの日本町でコックをしながら様
子を伺っていた時に、当時の新聞などで奥地での金鉱発見の二ユースに踊ら
されて、ブラジル奥地で砂金の一山を当てる事を考えて旅に出たようでした。

当時のトミーは言葉もかなり話せて、金も豊かに懐に入れて、度胸も腕力も
備えた姿はかなり女性には、もてたと思います。
彼の行く先は何処でも女性が付きまとい、親しくなった女がいたようです。

サンパウロでも日本人街のレストランで働いていた当時に、そこで働いていた
小柄な可愛い沖縄からの移住者の女性と知り合い、自分の妹の様に可愛がって
いたと彼が話していましたが、その彼女が彼のブラジル生活を支え、励まして
トミーの子供を2人ほど生んで育てた様でした。

苦労人の彼女が沖縄人の忍耐と勤勉さで、小柄な体の何処から出るかと言う
様なエネルギーで働き、家族を養い、トミーの風来坊的な人生を支えた様で
した。
彼女の名前は絵美と言う名前でしたが、ブラジル式にエミーと呼ばれていた
ようです。

次回から当時の南米とブラジル世間の様子を混ぜながら、富蔵の物語を展開
して行きたいと思います。

2012年9月6日木曜日

私の還暦過去帳(294)

『もと百姓が見たインド』

急激に人口増のデリーの市内では、かなりレント代が高騰している様
で次男も前は、デフェンス・コロニーの高級住宅街に住んでいました
が、家賃が半値近い下町に引っ越して来たようでした。
家は2ベットに洗面所が二つ有り、台所とリビングルームが付いて、
入り口はかなり広いバルコニーが有りました。温水器も2台付いてい
ました。
そこは洗濯干し場に使われていましたが、どこの家でも洗濯物が見事
に干して有りました。ドライヤーなどは使う事が無いと言っていまし
た。インドでは洗濯も使用人か、通いのメイドにさせますので洗濯機
など必要ないと次男が話していましたが、それでまた沢山の仕事場が
増えると言う事のようでした。

次男もアイロン掛けは時々は専門の街頭のアイロン屋に頼むそうですが
シャツなど、かなりの枚数をアイロン掛けて業者が持って来ましたので、
聞くと、15ルピーだそうでした。50円もしない値段です。
ジャガイモ1kgが20ルピーだそうですから、インドの貨幣価値が分
かります、まだまだインドでは人を使った方が安いという事かも知れま
せん。
大晦日の夜は合気道関係者とでデフェンス・コロニーのクラブで新年会
に行き、そこで10時過ぎまで食事をしながら音楽を聞いて、わいわい
と話していました。日本からも年末に合気道の関係者が来ていましたの
で、お話をする事が出来まして楽しい一時でした。
早目に帰宅して、道路の前を通る賑やかな楽隊やパレードを見ていまし
た。
零時近くなると花火で上がり、警笛がビー!と鳴らされ、子供達がゾロ
ゾロと歩きながら『ハッピーニューイヤー!』と大声で叫びながら歩い
ていました。初めてインドの大晦日と新年を見ましたが、どこの国でも
同じと感じました。我々はグラスにスコッチ・ウイスキーの20年物を
注いで乾杯致しましたが、異国での新年を改めて肌に感じました。

それにしても街頭のご近所さん達、牛や野良犬達は昼間はどこにでも姿
が見られましたが、今夜は花火や車の警笛などの影響か、通リを見てい
ても、どこにもその姿は有りませんでした。それにしてもデリーの下町
の活気の凄さは、人口密集もさることながら、これがインドの現実と体
感で学びました。

元旦の1時頃に、まだ通りのざわつきを耳にしながらベッドに入りまし
たが、直ぐにウイスキーの酔いも有り、夢路に就きました。

2012年9月4日火曜日

死の天使を撃て!(最終回)



第2話、ブエノスに遠い国から来た狼達、‏

 (45)旅立ちの用意、

翌朝,私は早くから目が覚めていた。ルーカスは珍しく遅くまで寝て
居た様だ。
健ちゃんは早起きして家の仕事を手伝っていたが、7時過ぎには朝食
のテーブルに付いて、吉田家の家族達と賑やかに食べていた。

健ちゃんがジープのワゴンの点検をしてから、エンジンを見ていた。
健ちゃんと父親がジープに乗り、試運転の感じで走っていた。

直ぐ側の児玉氏の修理工場にそのあと皆で出かけて行った。
ヨハンスはもう来ていた。恋人と二人で見に来ていた感じであった。
児玉氏は自分の事務所の中を整理していた。

今月の船は間に合わないので、来月の船に、日本にワイフ達を見送り
してから、ブエノスの港から乗船して帰国の途に付くと話していた。
全てが始動して動き出していた。

児玉氏は私達に使用人を紹介してくれ,現地人と日本人の男性との間
に生まれた子供であった、母親がブエノスに出稼ぎに行き、戻ってこ
ないので、祖父の家で育てられたいたのを児玉氏が引き取り、仕事を
覚えさして、留守番として修理工場に住んで居た。

まだ16歳の子供であつたが、中々の利発な頭の良い子供で、児玉氏の
助手をしていた。
健ちゃんとは大の仲良しであったので、彼も安心して仕事が出来ると
話していた。
毎年の様に仕事量が増えていたから、児玉氏が日本に帰国しても、
その後を三人で上手く運営して行けると感じた。
売買契約は簡単に済んでしまった。

お互いにサインをして、その場で現金が手渡された。健ちゃんの親が
足りない現金は、私が出しておいた。

ヨハンスの恋人も彼にお祝いのキスをして喜ばしていた。
全てが済んで、仕事の申し送りが終ると、
児玉氏は『ブエノスの出航が45日先だから、全てが間に合うような感
じがする、』と喜んでいた。
何か私の役目と仕事が全て終った感じがした。何か疲れがド-ッと出
て来た。

近くのカフェーに行きルーカスと犬も連れて、ヨハンスも健ちゃんも
そろってテーブルに座った。まずビールで乾杯して、これからの門出
を祝った。

しばらく寛いで、ヨハンスが父親からの預り物と言って何か渡してく
れた。
カードが入った封筒であった。私は有り難くお礼を言ってポケットに
仕舞った。

ヨハンスがサルタ州に帰るのであれば、フォルモッサまで、セスナの
飛行機を出すからと言ってくれた。
父親の知り合いが持っている小型機で、エンカルの飛行場に置いてあ
ると教えてくれた。
私は感謝してその申し出を受けた。ヨハンスにお礼を父親に伝えてく
れる様に頼んだ。早速に電話で、その予約がなされ明日の朝9時とな
った。

エンカルからフォルモッサまで飛んで、そこからフォルモッサ線で
サルタまでのんびりと、汽車で帰ると言うコースを選んだ。

一度も利用した事もない田舎の路線であったが、ルーカスと犬を連れ
て行く事はこれが一番良い乗り物と感じた。
それから皆でランチを食べ帰宅して、しばらくぶりに昼寝をしていた。

何も知らずに寝ていた感じで、目が覚めてヨハンスの父親がくれた封筒
を開けた。
中から現金と、感謝の手紙が入っていた。現金は二人で分けてくれと書
いてあつた。2千ドルが入っていた。
私はルーカスを呼ぶと、手紙を見せて現金を手渡した。彼は喜んで驚い
ていた。

『これで土地ぐらいは買えるかもーー!』と私に話して固く握手して
来た。

明日の出発の支度をする様に言って、私も自分の荷物を作り始めた。
今夜が最後となると思うと、名残惜しい感じがして来た。

別れ・・・!、

私は自分の荷物を整理して、まとめて明日の用意を済ませると、
健ちゃんが『今夜は送別会を開くからーー!』と言って来た。

私は整備工場に住んでいる児玉氏の使用人で昭ちゃんを呼んで一緒に
食事をしたいと健ちゃんに言って了解を貰った。健ちゃんが迎えに行
って連れて来た。ニコニコして喜んで来たので、私も嬉しかった。

昭ちゃんの生い立ちは知らないが、父親は間違いのない日本人で、
現地人との間の子供で父親がブエノスに仕事に出かけて、戻らないの
で、現地人の女性もそれを追って子供は祖父に預けて、ブエノスに出
かけて行き、時間が経って近所の児玉氏が面倒を見る様になり、今日
になった様である。

その夜、皆で楽しい夕食を囲み、明日の別れを惜しんでいた。
ルーカスは今夜は余り飲まずに、余興に健ちゃんのギターを借りて
ルーカスが珍しく歌を唄ってくれた。
 
  別れは辛いが・・、私の心と思いを残していく・・!
  どこに別れて住んでも、同じこの世の浮世で生きる
  道は同じ・・!また、時が経てばいつか、めぐり合い
  の機会が廻ってくる・・!
  その時はグラスに酒を満たして、再会を神に感謝して
  グラスを合わせて、飲み干そう・・!

ルーカスの唄は、皆の心を捉え、心に染みた。

時の経つのも忘れていた。
別れの最後をグラスに充たした酒で乾杯して閉め括り、最後は肩を抱
き合って別れを惜しんだ。
昭ちゃんが帰る時に、私は何かの時にと言って、幾らかの金をポケット
に押し込んだ。
昭ちゃんは少し涙していた。児玉氏も日本に帰国するので、これからの
命金として渡した。

翌朝は早く起きた。ルーカスはすでに起きて犬と遊んでいた。
早めに朝食を済ませて、ジープに荷物を積み込み、飛行場に向けて健ち
ゃんの運転で走り出した。
ご主人と奥さんも固く私の手を握り離そうとしなかった。
『また来て下さいーー!』
と声をかけて、ジープの窓から奥さんが弁当をさし入れてくれた。

別れは辛かった。ルーカスも少し涙ぐんで別れの言葉を交わしていた。
健ちゃんが車を発進して直ぐに埃ぽい田舎道に家が見えなくなり、消え
て行った。

飛行場はすぐ近かった。そこではヨハンスが見送ってくれていた。
彼は荷物をセスナ機に積み込むと私とルーカスの肩を抱き合い、
『またの再会を・・!』と言うと、事務所に居る操縦士を呼びに行った。

飛行機はプロペラが回転始めると直ぐに滑走しだして、余りにもあっけ
ない別れでぐんぐんと上昇する飛行機から、直ぐにパラナ河が見えて来た。

旋回もせず、そのままの方角にまっしぐらに飛んで行った。

微かに、もやが遠くのジャングルにかかり、幻想的な光景が見えて来た。
その彼方に大きく輝く太陽が見えていた。
 
終り。
 

後記、
 
最後に、このお話は題材は有りますが、全部が事実では有りませ
ん、 昔の事で、記憶も薄れて推測で書いた所も有ります事を、
ご了承下さい。

標的として追跡した人物は後に、私の推測で思い当たる事は、
『死の天使』と言われた。『ヨゼフ、メンゲレ』では無いかと
推測致します、当時、パラグワイとアルゼンチン、ブラジル国境
の三角地帯に居たと言われていました。
そのメンゲレはブラジルで死んで、DNA鑑定で判別されたと、新聞
で見た事が有ります。事故死と報じられていました。

彼は戦時中、アウシュビッツ強制収容所において人体実験を行な
い、『死の天使』と呼ばれていた医者で、敗戦後南米に逃亡して
パラグワイとブラジル国境付近に潜伏して、1979年2月に、
ブラジルで死亡、埋葬されたが、その後生存説が消えなかったの

で、ドイツ検察庁が85年に墓地を掘り起こして、遺体の骨を
イギリスの専門家がDNA鑑定して、メンゲレ息子の血液型を調べ
DNAの特徴と一致して、正式にメンゲレの遺体と確認して、死亡
が公認された。

特にパラグワイはナチの逃亡者やその戦時中の協力者が沢山居た
と言われています。

ここに20年以上前の古い新聞の切り抜きが有リます。

『イスラエル政府は7日、ナチスのアウシュビッツ強制収容所で、
 「死の天使」と恐れられたヨゼフ・メンゲレ(73歳)の首に
 100万ドルの報奨金をかけることを決めたと発表した。
 ニッシム同国法相によると、この報奨金はメンゲレをイスラエ
 ル法廷に引きずり出すきっかけを作った、いかなる人物にも与
 えられる。
 また、報奨金はイスラエル政府および在外イスラエル人の会
 である、「世界シオニスト協会」から支払われ、期間は今後
 2ヵ年間有効。
 同国がナチス戦犯に関連して報償金を出すのは初めてだが、
 この決定はレーガン大統領(1980年から2期8年間勤めて
 1988年まで在職した。)が5日、ナチスを含む、西独軍人
 の墓地ピットブルクを訪問した事に対する回答と見られる。
 
 メンゲレは第2次大戦中にアウシュビッツ強制収容所の医師
 を勤め、残酷な生体実験をはじめ、ガス室送りなどの選別に
 従事、約40万人のユダヤ人を死に追いやったとされている。

 南米パラグワイに亡命中と伝えられているが、同国政府は否定
 している。メンゲレ逮捕には西ドイツ政府も100万マルク
 (当時の日本円で8400万円)報奨金を約束しているほか、
 
 匿名のロサンゼルスのグループも100万ドルの報奨金を出す
 と発表している。これでメンゲレにかけられて居る報償金の総
 額は日本円で、5億8千400万円となる』
 
 現在の貨幣価値に直すと、10億円近い報奨金となる。
 20年以上前に巨額な報奨金が掛けられていたのである。

ルーカスはサルタ州に帰ると、直ぐに土地を買い、自分で家族と
家を建て、そこに小さな農場を開き、インジオ部落から出て、
独立して地主となって将来を伸びて行きました。私が訪ねると
ルーカスの犬、『ポン』が喜んでいつも迎えてくれました。

エンカルの修理工場は日本人とドイツ人にお客を広げて、長い
間、繁盛して居た様です。しかし現在はそれも無くなって それ
ぞれ独立して、健ちゃんと昭ちゃんは日本で仕事をして 居ると
聞きましたが、詳しい事は何も知りません。

マリオや陳氏の事はその後は一切連絡もなく、私は彼等が今も
元気でこの広い世界のどこかで生きていると感じます。

私は歳を取り、カリフォルニアに住み、こんなメルマガを書いて
います。有機野菜の栽培を楽しみに、ボツボツと仕事をしながら、
完全引退まで頑張るつもりです、引退したらまた旅に出たいと考
えています、今度、旅する時はワイフと仲良く行くつもりです。

次回予告。

少しお休みいたしまして、
この話が終了した後は、第3話、『伝説の黄金物語』と言う、
1915年代にアマゾンからペルーやボリビア、ブラジル各地の
南米を放浪した日本人の古老から、1964年当時に聞いた、
南米奥地を渡り歩いた砂金探しの男達の死闘と陰謀と、それに絡む
憎悪の砂金が絡んだ戦いの物語です。

2012年9月3日月曜日

私の還暦過去帳(293)


『もと百姓が見たインド』


暮の押し迫った31日にインドのデリーに到着して、飛行場から
タクシーで、次男のアパートにまで軽自動車に揺られて40分ば
かりでした。
アパートではメイドがインド料理でランチを作って待っていまし
た。

彼女はすでに帰宅していましたが、料理がテーブルに並んでいま
した。 通いのメイドの様で毎日、朝来て掃除洗濯をして、次男の
夕食の料理を作ってから帰るそうですが、その労賃は聞いて驚き
でした。1600ルピー(約40ドル程度)の労賃です、洗濯も
毎日来ると直ぐに洗濯カゴから出して、バケツのお湯に洗剤と漬け
て、それから部屋の掃除が始まりました。

掃除が終わると洗濯をして、料理が始まるようですが、何せその
仕事のテキパキして速い事です、サリーを着てサンダル足ですが、
それが仕事スタイルの様でした。面白いことにメイドもインドで
は階級があり、それもカーストから来る仕事の役割の様でした。 

メイドの彼女は絶対に便所の掃除はしない様でしたが、それは別
に便所専用を雇用しなくてはならないそうです。おかしなカース
ト制度と感じます、

到着した日のランチは次男のアパートで、メイドが調理して作っ
たインド食でしたが、味は辛めで、豆が多く使われ、米は勿論の
ことに、長粒米でポソポソのお米でしたがインド料理には合う感
じでした。次男の彼女もインド滞在が長いので片手で機用に食べ
ていました。
ナンとチヤパティーも有り、それぞれに味のある物に加工してあ
りました。

次男にはアメリカの我が家から『梅干入りのおにぎり』を土産に
持って来て居ましたので、これも持参のインスタント味噌汁を作
り、海苔を巻いてバリバリと、美味しそうに次男が食べていまし
た。しばらくぶりに食べる我が家の胚芽米のおにぎりの味が良い
のか、美味しいと言いながら、ぺロリと食べていました。まさか、
おにぎりの土産とは驚いて居たようでした。

メイドの作るインド食に次男は慣れて、日曜日には必ず大きなイ
ンド式のランチ・オムレツを作って貰うそうですが、ケチャツプ
を掛けて食べるのが大好きと話していました。ランチの後は少し
長旅の疲れを癒す為に私達はそろって昼寝をしていました。

日曜日はランチを作りそれで帰るそうですが10時ごろ来て1時
頃には全てを済ませて早仕舞いの様でした。

それにしてもアパート前の道路の凄さまじさと形容したのが一番
適切と感じます。車の警笛にオートバイのグ・・!と言うエンジ
ンの響き、物売りの良く響く声、近所のビルの工事の音、 アパー
ト前の道の混雑はまさに驚きの凄さまじさ、デリーの下町でも本物
で、すげー!と思うばかりで、チョイと話しても信じてもらえま
せんでした。

狭い通りに両側駐車、屋台や引き売りなどゾロゾロ・・、そこに
リキシャがノロノロと割り込み、自転車やオートバイがビビ・・、
と騒音のすれ違い・・、
私が『うるさくない・・・?』と聞くと『慣れて感じない・・!』
との返事でした。

2012年9月2日日曜日

死の天使を撃て!


第2話、ブエノスに遠い国から来た狼達、‏
 

44)エンカルの置き土産、

ヨハンスは児玉氏の話を聞くと、座り直して真剣に話して来た。
彼の興味が半端で無い事だ分った。
私が注ごうとしたビールも手で遮って注がせなかった。

彼は私と児玉氏の顔を見ながら・・・、

『私の農場に居た客人も居なくなり、父も狭心症の発作でこれから
 は仕事も無理になったので、父の農場に戻り、今の農場は使用人
 に任して、前から考えていた修理工場をやりたいと思っていたので、

 結婚して、父の家からはエンカルまで簡単に通えるから、それと
 教師をしている婚約者が、そのままエンカルの学校で仕事をしたい
 と願っているし、私の母も家に戻る事に大賛成なので是非この話を
 まとめたい・・!』と、話をして来た。

私は児玉氏のグラスにビールを注ぐと、『これで決まりだな~!』
と言って、ヨハンスにもビールを注ぐと受けてくれ、吉田氏と健ちゃん

にもグラスに充たして、『ささーー!これで乾杯~!』と言って
グラスを合わせた。

健ちゃんが飛び上がって喜んだ。ヨハンスも健ちゃんと抱き合い、固く

握手していた。
児玉氏に、『これで良いのか・・!』と念を押した。彼は了解して、
私に固く握手して来た。

その夜は皆と酒宴が盛り上がり、二人もお客が増えて、遅くまで賑や
かであつた。
私は吉田氏を部屋の外に呼んで、半分の1500ドルの現金が有る
か聞いた。

少し困った様な顔をしていたので聞いたら少したらないと言う、どの

くらいかと聞くと、『400ドルぐらいだーー!』と教えてくれた。

私は『これからの健ちゃんの将来を考えて、不足分は私が彼に投資す
る・・!』と話して安心させた。

私は明日の事を考えて、酒席を切り上げ、ヨハンスに意味を教えて、
シャンシャンと手拍子で話を閉めた。

児玉氏はアッと決まった今日の話に驚きを隠そうとしなかった。
そして帰りに何度も私の手を取り、握手して、明日の朝8時に彼の店
での正式契約をする事を約して、その夜は別れた。

ヨハンスも興奮して夢が適う事に嬉しそうな感じであった。
明日はサルタに向けて出発は無理と感じた。

ルーカスも何か、今までのストレスを発散するかの様に、したたかに飲み、
ぶっ倒れて寝てしまっていた。
ヨハンスも明日の8時の約束をすると帰って行った。

静かになった部屋で、健ちゃんと向き合って、これからは自分の人生を、
自分の手で切り開いて行く事を話し合い、夜空に南十字星が輝いて綺麗に

見えるのを、二人で見上げていた。

ふと自分も18歳の時に家を出て、これまで走り抜けて来た思いを、
脳裡に思い出していた。

次回で『死の天使を撃て! 』編の最終回となります。

2012年9月1日土曜日

私の還暦過去帳(292)


『もと百姓が見たインド』

今回のフライトはチャイナ・エアーラインに搭乗いたしましたが、先ずは
合格の飛行でした。台北経由で、そこまでサンフランシスコから直行で飛
びますのでかなりの搭乗時間でした。季節の気流の状態によりますが13
時間は確実に掛かります、先ず出発カウンターで8割までがインド人と思
いし人が並んでいます。

年の瀬も押し迫った30日です。出発が12時15分とか真夜中の搭乗と
なりましたが、チックインで並んでいる周りのインド人に聞いたら、親戚
の結婚式で帰省するのが一番多いようでした。前に居た家族連れもインド
のパンジャブ州に帰ると話して居ましたが、同じく結婚式に参加すると言
っていました。

到着して、デリーから6時間もバスで走ると言う事で、小型バスを貸切っ
て家族と大きな荷物を載せて帰宅すると話していましたがアメリカに33
年も住んでいると言う事で、インドには遊びに帰るだけと話していました。
もうインドには帰れないし、生活も無理だと言っていましたが、到着して
私の妻が荷物が出て来るまで、近くのトイレに奥さんと入った所がインド
生まれなのに、これがインドを実感させると話していた様です。

アメリカに永住すると話していましたが、今では医者、IT関係や多くの技
術者がアメリカで働いていますので、これからますます、アメリカに腰を
落ち着けて彼等が伸びていくと感じます。荷物がベルトコンベアーで出て
来るときに、思わず驚いたのは荷物の巨大なトランクとその数です、重量
制限と考えていましたが、ズンズンと搭乗手続きが済んで載せていました
ので、改めて流れ出て来るその荷物の多さに驚いて居ました。 私達夫婦
は僅かな手荷物と1個の大き目のトランクだけです、簡単に受け取りまし
て外に出ました。

そこには次男と彼女が迎えに来ていましたのであれよ・・言う間にスズキ
の軽ワゴン使用のタクシーに乗り込みアパートに急ぎました。驚いた事に
プロパンガスのエンジンで走っていましたが、軽の自動車ですから振動と
音がうるさくて、それがチョロチョロと道を走りますので次男のアパート
に到着するまでドキドキでした。 途中で乗り合いバスがバス停に割り込
まれた車で、止まることが出来ずに道路の真ん中で停車してお客を乗降さ
せていたのには驚きでした。

それでも何事もなくお客が歩道まで歩いて、スイスイと車を縫う様に事を
済ませて居るのには、このくらいでインドの交通事情に仰天していたら、
私の心臓が止まるか、悪くなると感じます。例の如くその車の僅かな空間
で芸をして小金を要求する子供達が居たのにはもっと驚きました。
なにせ、その芸と言うには二人が太鼓を叩いて、一人がトンボ返りを見せ
るという離れ業です、いつ車がドーッと動き出すか分からない状態ですか
ら、ヒヤヒヤで見ていました。

それにしても道はいくらか良くなったと感じますが、なにせ増え過ぎた車
両がひしめき合い、怒鳴り合い、警笛鳴らしっぱなしで、我勝ちに突進す
る様は交通ルールなどお構いなく、そこに3輪のパタパタやオートバイが
我勝ちにその隙間に割り込んで来ますので、目が丸くなるより先に、埃と
排気ガスを避ける為に、タオルで顔を隠すようにして呆然としていました。
今回も最初から、これがインドと言う事をしみじみと実感させられました。