2012年9月4日火曜日

死の天使を撃て!(最終回)



第2話、ブエノスに遠い国から来た狼達、‏

 (45)旅立ちの用意、

翌朝,私は早くから目が覚めていた。ルーカスは珍しく遅くまで寝て
居た様だ。
健ちゃんは早起きして家の仕事を手伝っていたが、7時過ぎには朝食
のテーブルに付いて、吉田家の家族達と賑やかに食べていた。

健ちゃんがジープのワゴンの点検をしてから、エンジンを見ていた。
健ちゃんと父親がジープに乗り、試運転の感じで走っていた。

直ぐ側の児玉氏の修理工場にそのあと皆で出かけて行った。
ヨハンスはもう来ていた。恋人と二人で見に来ていた感じであった。
児玉氏は自分の事務所の中を整理していた。

今月の船は間に合わないので、来月の船に、日本にワイフ達を見送り
してから、ブエノスの港から乗船して帰国の途に付くと話していた。
全てが始動して動き出していた。

児玉氏は私達に使用人を紹介してくれ,現地人と日本人の男性との間
に生まれた子供であった、母親がブエノスに出稼ぎに行き、戻ってこ
ないので、祖父の家で育てられたいたのを児玉氏が引き取り、仕事を
覚えさして、留守番として修理工場に住んで居た。

まだ16歳の子供であつたが、中々の利発な頭の良い子供で、児玉氏の
助手をしていた。
健ちゃんとは大の仲良しであったので、彼も安心して仕事が出来ると
話していた。
毎年の様に仕事量が増えていたから、児玉氏が日本に帰国しても、
その後を三人で上手く運営して行けると感じた。
売買契約は簡単に済んでしまった。

お互いにサインをして、その場で現金が手渡された。健ちゃんの親が
足りない現金は、私が出しておいた。

ヨハンスの恋人も彼にお祝いのキスをして喜ばしていた。
全てが済んで、仕事の申し送りが終ると、
児玉氏は『ブエノスの出航が45日先だから、全てが間に合うような感
じがする、』と喜んでいた。
何か私の役目と仕事が全て終った感じがした。何か疲れがド-ッと出
て来た。

近くのカフェーに行きルーカスと犬も連れて、ヨハンスも健ちゃんも
そろってテーブルに座った。まずビールで乾杯して、これからの門出
を祝った。

しばらく寛いで、ヨハンスが父親からの預り物と言って何か渡してく
れた。
カードが入った封筒であった。私は有り難くお礼を言ってポケットに
仕舞った。

ヨハンスがサルタ州に帰るのであれば、フォルモッサまで、セスナの
飛行機を出すからと言ってくれた。
父親の知り合いが持っている小型機で、エンカルの飛行場に置いてあ
ると教えてくれた。
私は感謝してその申し出を受けた。ヨハンスにお礼を父親に伝えてく
れる様に頼んだ。早速に電話で、その予約がなされ明日の朝9時とな
った。

エンカルからフォルモッサまで飛んで、そこからフォルモッサ線で
サルタまでのんびりと、汽車で帰ると言うコースを選んだ。

一度も利用した事もない田舎の路線であったが、ルーカスと犬を連れ
て行く事はこれが一番良い乗り物と感じた。
それから皆でランチを食べ帰宅して、しばらくぶりに昼寝をしていた。

何も知らずに寝ていた感じで、目が覚めてヨハンスの父親がくれた封筒
を開けた。
中から現金と、感謝の手紙が入っていた。現金は二人で分けてくれと書
いてあつた。2千ドルが入っていた。
私はルーカスを呼ぶと、手紙を見せて現金を手渡した。彼は喜んで驚い
ていた。

『これで土地ぐらいは買えるかもーー!』と私に話して固く握手して
来た。

明日の出発の支度をする様に言って、私も自分の荷物を作り始めた。
今夜が最後となると思うと、名残惜しい感じがして来た。

別れ・・・!、

私は自分の荷物を整理して、まとめて明日の用意を済ませると、
健ちゃんが『今夜は送別会を開くからーー!』と言って来た。

私は整備工場に住んでいる児玉氏の使用人で昭ちゃんを呼んで一緒に
食事をしたいと健ちゃんに言って了解を貰った。健ちゃんが迎えに行
って連れて来た。ニコニコして喜んで来たので、私も嬉しかった。

昭ちゃんの生い立ちは知らないが、父親は間違いのない日本人で、
現地人との間の子供で父親がブエノスに仕事に出かけて、戻らないの
で、現地人の女性もそれを追って子供は祖父に預けて、ブエノスに出
かけて行き、時間が経って近所の児玉氏が面倒を見る様になり、今日
になった様である。

その夜、皆で楽しい夕食を囲み、明日の別れを惜しんでいた。
ルーカスは今夜は余り飲まずに、余興に健ちゃんのギターを借りて
ルーカスが珍しく歌を唄ってくれた。
 
  別れは辛いが・・、私の心と思いを残していく・・!
  どこに別れて住んでも、同じこの世の浮世で生きる
  道は同じ・・!また、時が経てばいつか、めぐり合い
  の機会が廻ってくる・・!
  その時はグラスに酒を満たして、再会を神に感謝して
  グラスを合わせて、飲み干そう・・!

ルーカスの唄は、皆の心を捉え、心に染みた。

時の経つのも忘れていた。
別れの最後をグラスに充たした酒で乾杯して閉め括り、最後は肩を抱
き合って別れを惜しんだ。
昭ちゃんが帰る時に、私は何かの時にと言って、幾らかの金をポケット
に押し込んだ。
昭ちゃんは少し涙していた。児玉氏も日本に帰国するので、これからの
命金として渡した。

翌朝は早く起きた。ルーカスはすでに起きて犬と遊んでいた。
早めに朝食を済ませて、ジープに荷物を積み込み、飛行場に向けて健ち
ゃんの運転で走り出した。
ご主人と奥さんも固く私の手を握り離そうとしなかった。
『また来て下さいーー!』
と声をかけて、ジープの窓から奥さんが弁当をさし入れてくれた。

別れは辛かった。ルーカスも少し涙ぐんで別れの言葉を交わしていた。
健ちゃんが車を発進して直ぐに埃ぽい田舎道に家が見えなくなり、消え
て行った。

飛行場はすぐ近かった。そこではヨハンスが見送ってくれていた。
彼は荷物をセスナ機に積み込むと私とルーカスの肩を抱き合い、
『またの再会を・・!』と言うと、事務所に居る操縦士を呼びに行った。

飛行機はプロペラが回転始めると直ぐに滑走しだして、余りにもあっけ
ない別れでぐんぐんと上昇する飛行機から、直ぐにパラナ河が見えて来た。

旋回もせず、そのままの方角にまっしぐらに飛んで行った。

微かに、もやが遠くのジャングルにかかり、幻想的な光景が見えて来た。
その彼方に大きく輝く太陽が見えていた。
 
終り。
 

後記、
 
最後に、このお話は題材は有りますが、全部が事実では有りませ
ん、 昔の事で、記憶も薄れて推測で書いた所も有ります事を、
ご了承下さい。

標的として追跡した人物は後に、私の推測で思い当たる事は、
『死の天使』と言われた。『ヨゼフ、メンゲレ』では無いかと
推測致します、当時、パラグワイとアルゼンチン、ブラジル国境
の三角地帯に居たと言われていました。
そのメンゲレはブラジルで死んで、DNA鑑定で判別されたと、新聞
で見た事が有ります。事故死と報じられていました。

彼は戦時中、アウシュビッツ強制収容所において人体実験を行な
い、『死の天使』と呼ばれていた医者で、敗戦後南米に逃亡して
パラグワイとブラジル国境付近に潜伏して、1979年2月に、
ブラジルで死亡、埋葬されたが、その後生存説が消えなかったの

で、ドイツ検察庁が85年に墓地を掘り起こして、遺体の骨を
イギリスの専門家がDNA鑑定して、メンゲレ息子の血液型を調べ
DNAの特徴と一致して、正式にメンゲレの遺体と確認して、死亡
が公認された。

特にパラグワイはナチの逃亡者やその戦時中の協力者が沢山居た
と言われています。

ここに20年以上前の古い新聞の切り抜きが有リます。

『イスラエル政府は7日、ナチスのアウシュビッツ強制収容所で、
 「死の天使」と恐れられたヨゼフ・メンゲレ(73歳)の首に
 100万ドルの報奨金をかけることを決めたと発表した。
 ニッシム同国法相によると、この報奨金はメンゲレをイスラエ
 ル法廷に引きずり出すきっかけを作った、いかなる人物にも与
 えられる。
 また、報奨金はイスラエル政府および在外イスラエル人の会
 である、「世界シオニスト協会」から支払われ、期間は今後
 2ヵ年間有効。
 同国がナチス戦犯に関連して報償金を出すのは初めてだが、
 この決定はレーガン大統領(1980年から2期8年間勤めて
 1988年まで在職した。)が5日、ナチスを含む、西独軍人
 の墓地ピットブルクを訪問した事に対する回答と見られる。
 
 メンゲレは第2次大戦中にアウシュビッツ強制収容所の医師
 を勤め、残酷な生体実験をはじめ、ガス室送りなどの選別に
 従事、約40万人のユダヤ人を死に追いやったとされている。

 南米パラグワイに亡命中と伝えられているが、同国政府は否定
 している。メンゲレ逮捕には西ドイツ政府も100万マルク
 (当時の日本円で8400万円)報奨金を約束しているほか、
 
 匿名のロサンゼルスのグループも100万ドルの報奨金を出す
 と発表している。これでメンゲレにかけられて居る報償金の総
 額は日本円で、5億8千400万円となる』
 
 現在の貨幣価値に直すと、10億円近い報奨金となる。
 20年以上前に巨額な報奨金が掛けられていたのである。

ルーカスはサルタ州に帰ると、直ぐに土地を買い、自分で家族と
家を建て、そこに小さな農場を開き、インジオ部落から出て、
独立して地主となって将来を伸びて行きました。私が訪ねると
ルーカスの犬、『ポン』が喜んでいつも迎えてくれました。

エンカルの修理工場は日本人とドイツ人にお客を広げて、長い
間、繁盛して居た様です。しかし現在はそれも無くなって それ
ぞれ独立して、健ちゃんと昭ちゃんは日本で仕事をして 居ると
聞きましたが、詳しい事は何も知りません。

マリオや陳氏の事はその後は一切連絡もなく、私は彼等が今も
元気でこの広い世界のどこかで生きていると感じます。

私は歳を取り、カリフォルニアに住み、こんなメルマガを書いて
います。有機野菜の栽培を楽しみに、ボツボツと仕事をしながら、
完全引退まで頑張るつもりです、引退したらまた旅に出たいと考
えています、今度、旅する時はワイフと仲良く行くつもりです。

次回予告。

少しお休みいたしまして、
この話が終了した後は、第3話、『伝説の黄金物語』と言う、
1915年代にアマゾンからペルーやボリビア、ブラジル各地の
南米を放浪した日本人の古老から、1964年当時に聞いた、
南米奥地を渡り歩いた砂金探しの男達の死闘と陰謀と、それに絡む
憎悪の砂金が絡んだ戦いの物語です。

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