2012年8月26日日曜日

私の還暦過去帳(289)

 
『母と正月』         

私の母は今年で95歳になりますが今も元気で故郷の小倉で過ごしています。
母を思う時に自分もアメリカに来てからの様々な思いと重なり、これまでの
遍歴した人生を両親が歩いた道行と重ねて考えて、ふと・・自分自身が歳を
取ったと感じる時が有ります。 それだけこのアメリカに、長き人生を過ご
したと言うことです。

数年前に帰省した時に、母と暮の押し迫った日に小倉の下町で終戦 後から続
く古い商店街を買い物して歩いた思い出が、軒を連ねた商店の店構えとも重
なり、なぜか子供の頃に買い物に付いて行った事を思い出していました。
そこには当時、鯨肉を売る店が窓口は小さいながら残っていました。

母が「覚えているかい、鯨の刺身を・・」と、その店を覗き込んで鯨肉を品定
めして、「これなら刺身の生で食べられる」と言うと、早速にそれを指差して
注文していました。 その夜、まだ薄く凍った鯨肉を切り、皿に飾って仏壇の
前に置くと、 チーンと鐘を鳴らすと、父の位牌の前で
「今夜は鯨の刺身だよ・・」 と言いながら、父が好きだった酒を供えていま
した。 その時に母と過ごした正月が、私が郷里の実家での最後の正月でした。

それから時は過ぎ、母も老人ホームに入居して、御節料理を作る事も無くなり、
普段の食事もホームでの食事に満足して、毎回の買い物に出歩く事も無くなっ
て、余生と言う人生の豊かな時間を、同じ仲間の入居者と楽しく過ごしている
ことは、私も心休まり、安心の心で居られます。

子供の頃に、まだ田舎が戦後の落ち着きを取り戻してきた時期でした。母が
正月の晴れ着を買うというので、それは新しい学生服でしたが、暮の賑やか
な商店街に出たことを覚えていますが、当時はたくさんの露天も並んで、
それを覗きながら歩いた事を覚えています。

母の自転車の前カゴが先ず一杯になり、後ろの荷台に載せていた ミカン箱
が露天商人の掛け声と共に埋まって行き、しめ縄や飾りの お花も揃い、
母が私に「ほれー、干し柿と乾し芋が珍しくある」と言って、何処かの百姓
が自宅で暇に作った物がゴザの上に置いてあるのを見ていました。

よく見ると田舎の農家が作る大根の乾物も有り、それも細切りと、昔の田舎
で煮付け用にされていた、大きく刻んだ干し大根も有りました。僅かなゼン
マイやワラビの乾燥も有りましたが、私には一番美味しそうだったのは、
白粉を吹いた干し柿でした。 今では思い出しか残っていませんが、当時の
素朴な田舎の年末の状況を思い出します。

正月の晴れ着として当時、成長期の私に、大き目の学生服を買い、「直ぐに
背が伸びて身体に合うようになるから」と言って買っていました。靴も当時
の運動靴は余り丈夫ではなく、靴先から足の親指が覗いている様な靴でした
が、それを見て一足買ってくれた事を覚えています。

母が私に暮から正月にかけて帰郷した最後の時に、年越し蕎麦を作り、海老
天を載せてくれ、まだお代わりがあるからと、おせち料理を作りながら、
紅白のテレビを横目で見ながら台所に立っていました。
熱燗の酒をホイと、コタツの上に置き、「仏様にも・・」と言って、杯を
仏壇の前に置き、「チーン」と鐘を鳴らすと、 「今年は息子がアメリカか
ら帰宅したので、楽しくて賑やかだよー」と報告していました。

なんでもない母の喜びの一言が、ジーンと心に染みて、熱燗の酒が なんと
も美味しかった覚えがあります。その母も紅白が終わり、 除夜の鐘が近所
のお寺から聞こえて来ると、自分の杯を持ち、酒を 満たすと、「また一つ歳
を取るけれど、新年おめでとうー」と言って 私と乾杯しました。

その母も今では老人ホームで何もかも忘れて、その日、その日を楽しく過ご
して、子供に返っていますが、去年福岡に行き、ホームを 訪れたら、しば
らく顔を見詰めていると、いきなり「家の方を訪ねても居なかっただろう」
と言って、「今ではここで楽しく過ごしているから」と話すと、自分の部屋
に案内してくれ、「大抵の物は持ってきたから」と話すと、お茶を入れてく
れました。
私がお茶好きだから、その事を忘れずにいる事は、ありがたいと感じてお袋
の味がするお茶を飲んでいました。 お茶は昔からの八女の深蒸茶で、いまだ
に飲んでいて、それを注いでくれる母に感謝していました。どこと無く昔の
様に直ぐに立って 気を使ってくれる母とは違い、今ではホームで世話を受
ける事に感謝の気持ちを持って、三度の食事や散歩に出る事を話す事が、
現在の立場を表していると思いました。

人には一人の人間として、一つの物語を背負うと言いますが、母も その偉大
で平凡な人生の道を歩んで来て、ここに来て休息の一時を 楽しんでいると
感じます。老人ホームに入居するそれまでは、自宅の裏庭の畑で、自分の食
べる野菜を全部作り、近所や身内に配る事が楽しみでした。

母の道楽と言う事で、趣味と実益を兼ねた野菜作りも全て終わり、 父が残
した盆栽類やカメラも全て処分して配ったり、親戚に持って行ったと話して
いた事が、残された自分の人生の時間を悟っていると感じます。時は流れ、
思い出の彼方に消えて行こうとしている母の面影に私には切なく、時には
やるせない気持ちに自分をさせます。

ふと、鏡に写す我が姿を見詰めて、順繰りと繰り返す人生の道筋に この世
に生まれて来たら避けて通れない道順を思い、なぜか今の母の姿が優雅に
見えます。 人生の悟りも、何事も無く平穏無事の道程を歩いて来た様に、
淡々とした母の生き様を今に残している事は、人生最高の事と思いますが、
今では母を訪ねても一緒に買い物に出ることも有りませんが、昔、元気な時
に、仲良く歩いてショッピング・センターまで歩いて、母の健脚を思い知ら
された事が有ります。
母の健康の秘訣は歩きと言う2本の足で、地に付いて歩いていることだった
と思い、私も母を真似て歩いて居ますが、母の歳になって歩けるか自信は有
りません。今ではホームに入居している方々と散歩に出ても、足には自信が
あるのか、母の好きな所に歩いて行くと言うことで、ホームの係りが「元気
ですよー、何しろ足が丈夫で・・」と言う事に感謝してまた驚いていました。

もはや母の記憶喪失の凶元で、アルツハイマーの症状は止める事が出来な
い定めの様ですが、身体だけでも元気で赤子に戻って、笑顔でニコニコと笑
いながら、記憶はその日だけ覚えていれば昔の事は全て忘れても、何も仏の
下に行く道には差し支え無いと私は思います。

私もあとどのくらい元気で太平洋を渡れるかは、分かりませんが、私が最初
に移住した南米のアルゼンチンの首都ブエノスに、 横浜から船で太平洋を
渡りパナマ運河を通過して到着前に、移民船からの船舶無線で出した無事到
着の電文用紙を前回訪ねた時に見せてくれましたので、その時、親が子を思
う心を噛み締めていました。

今では子が親を思う心を持っていますが、母が持っていた心まではとても、
どんなに努力しても到達できないと思っています。 これからも母が赤子に
戻り息子の顔を忘れても、元気な笑顔で居れば、例えわが身が衰え様とも、
努力して身体を鍛え、訪ねる元気を 維持しておかねばと考えています。

万金の値する母の笑顔を見れば 全てが報われる事と思い、歳が明ければま
た訪ねて行く予定でいますが、それまでと言わず、
永遠の笑顔で待っててください。

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