2012年8月15日水曜日

私の還暦過去帳(284)

私の父もかれこれ23年も前に亡くなりました。

今生きていたら100歳近い歳ですが、当時、日本人男性の平均寿命
で亡くなりましたが、昔の時代の健康管理は現在の様には進歩してい
ませんので、時代に見合った生涯だったと思っています。

父は九州の福岡で生まれ、昔の高専の工業を出て、台湾の台北市に在
った専売公社に就職して、終戦で日本に引き上げて来るまで住んでい
ました。戦争中は軍隊に徴兵されて、台湾の台北飛行場の防空で高射
砲の部隊を指揮していたと聞きました。

父は終戦で台湾から引き上げてくる時に、僅かな家財しか持てないの
で当時タバコの専売局の工場長をしていた関係で、沢山の知人と部下
が居たようでした。当時の混乱した社会では、タバコは金銭の代わり
にも成った様で、父が終戦後に専売局戻り、部下の生活を案じてタバ
コを融通して切り抜けた様でした。 家族で官舎に住んでいたのですが、

終戦で山の中に疎開していたので専売公社の官舎に戻り、そこで仕事
をしていたお手伝いさんや、その家族に家具などを全部持たせたと話
していました。余計な物は何も持てなかったので、全て知人の台湾人
の方々に配り、 感謝されたようで、日本に帰るまで知人が、米からあ
らゆる食料品を天秤で担いで持ってきたと言う事と父が話していました。

終戦で軍から帰って来ても、士官の軍刀や拳銃も全部現地に残して譲
ってきたと言っていましたが、父は誰からも好かれる人物だった様で
1980年代に台湾を観光訪問した時は、昔の知人や部下などが沢山
歓迎会に来たと、その時の喜びを写真を見せながら話してくれました。

父にとっては顔は分からないような人も居たようで、昔、官舎にお昼
に父の弁当を工場から取りに来ていた少年給仕が、当時は出世して、
そのタバコ工場の工場長をしていたと笑って話してくれました。
父をわざわざ自分で案内して、そのタバコ工場を見せてくれたそうで
すが、父が設計製作したタバコ製造機械がまだ1台残っていたと、喜
びの顔で話していた事を覚えています。

それから、70歳を過ぎて、かなりして再度台湾を訪問したら、多く
の知人が亡くなり、寂しかった様でした。その時の歓迎宴席に部下の
父親の遺言と言って出席して来た息子が持参した手紙が、父の心を感激
させた様でした。
それには『貴方が再度台湾を訪問される時は、再会を約束したが病気
でそれが叶わない・・』と書かれていた様でした。
その父もその2度目の訪問を果たして、その後、二度と昔の故郷台湾
の地を踏む事が出来ませんでした。
私も一度ゆっくりと時間が取れたら、父が話してくれた場所を訪れてみ
たいと考えています。

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