2012年8月6日月曜日

私の還暦過去帳(280)

1965年当時でした。

その頃はまだアルゼンチンでは日本人が日本から来た食品や酒などを買う
事はかなり難しい事でした。
確かに買えるのですが、値段がめちゃくちゃ高くて、私達百姓風情では
とても手が出る様な値段では有りませんでしたので、何とか手に入れたい
と言う願望は捨てる事が出来なくて、先ず・・、情報を聞きまわりました。

すると知り合いの沖縄県人の洗濯屋さんが、日系新聞を見ていると日本船
のブエノス入港情報が書いてあると教えてくれました。
当時は『亜国日報とラプラタ時報』の日系新聞が有りましたので、早速
毎日見ていました。

僅か数行ですが、日本船の入港が記載されていましたので、それを元に
日本船に買出しに行く様に勧められました。かなりの人がその事を知って
おり、日本船も貨物船などは船の中で黙認での雑貨の販売をしていた様で
した。日本からの清酒、ウイスキー、タバコ、食品などはかなり色々と揃
えて有ったようでした。

しかし、船から出るときはタラップの下に居る警備員にチップを渡して早く
言えば『袖の下の賄賂』です・・、それと港の入り口の警備をしている税関
と衛兵をやり過ごさなければなりませんが、食品などは殆どがパスして税金
無しで通れましたが、酒、タバコ類はかなりの税金を取られていた様でした。

そこで慣れた人は子供を連れて行き、子供と言っても2歳ぐらいの子供です
腕に抱っこして遊びがてら連れて行くのですが、そこがミソで・・、子供の
スカートの中にウイスキーを隠してタダで持ち出していました。

ご主人が子供を抱っこしているので、奥さんが買い物袋を広げて食品の沢庵
や乾物などを見せると『どうぞ通過して下さいー!』と言う事でフリー・パ
スでゲートを通過していた様でした。

私も日本船に行った時は、お土産に日本のタバコを3個ばかりポケットに入
れて、沢庵を2本ぐらい買い、乾物の昆布なども買った記憶が有ります。
まだ当時はアルゼンチンと日本を繋ぐのは船の時代で、日本から来る物資も
豊かではなかった時代でした。奥地のボリビア国境などの当時でも汽車で
2日も掛かる僻地では、どんな物でも喜ばれました。

またお土産に買って、そこまで運ぶ事も大変でしたが、皆の喜ぶ顔を見られ
る事が励みになり、一度などはカマボコを4本ばかり、ブエノスで製造され
たものでしたがソセージの様に丸い筒状で、保存も効きましたのでお土産に
したところ、皆に大変喜ばれた覚えが有ります。ブエノスと奥地の都市が
『点と線』の列車の線路で結ばれて居た時代です、港の近くにはレティー
ロ駅のターミナルがあり、アルゼンチン各地に伸びていました。

港に行った帰りに、駅までの途中に湾港労働者達がランチを食べる簡易食
堂が有りました。アサードの焼肉が盛大に焼かれていて、フランスパンに
挟んだ焼肉の塊とサルサのソースだけでしたが、かぶり付いていたら隣に
日本人らしい人が来て注文したので、注文が出来上がるまで話していました。

彼が話してくれた事は『これから汽車で10時間以上も掛かる田舎で洗濯屋
をしているが、ワイフのお土産に日本食品を買い出しに来た』と話してくれ
ました。

食べ終わって、『海の臭いと、日本船の姿を見るのは懐かしい』と、お土
産の包みを抱えて駅の方向に彼が歩いて行ったのを覚えています。

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