2012年8月4日土曜日

私の還暦過去帳(279)

だいぶ前の話です・・、

かれこれ60年近い前です、終戦後でまだ物資が無かった時代でした。
稲刈りが終わり、田圃に落穂拾いに行ったことが有りますが、中々落穂
を拾う事は難しい事でした。
途中で出会ったおばさん連中は、かなりの量の落穂を拾い背中のカゴに
入れていました。手には小さな箒とちり取りを持って、僅かな落穂の米を
拾う事は骨が折れる仕事と感じました。

田圃では稲刈りが終わり、深まった秋の冷たい風が吹いていた時期でした。
直ぐにその後は土を起こして、麦の植え付けがされていたと思います。
僅かな、誰も居ない田圃の中で、黙々と腰を曲げて落穂を拾う人の背中を
見ていて、落ちた一粒の米も『もったいない・・!』と言って、つまんで
拾っていた姿を子供心に覚えています。

子供達が拾う落穂の米など、たかが知れた量です、何日も掛かって集めた
落穂の米を、ござに広げて乾燥させて枡で計ったら、一升半ぐらい有りま
した。近所の精米所に、ニワトリの餌に混ぜる米ぬかを買いに行っていた
ので、お米の籾と精米した米と交換してくれました。

今ではどのくらいの量を交換してくれたかは覚えていませんが、母が
『ホー!』と驚いていたのを覚えています。
当時は必ず、押し麦を混ぜたご飯でしたが、特別に新米の白米ばかりで
1升釜で炊きました。薪を割って新聞紙をひねって付け火として、
『初めチョロチョロ・・、中パッパ・・、赤子が泣いても蓋取るなー!』
とか言われて炊き方を覚えましたが、かなり上手に子供でもご飯を炊いた
経験が有ります。

新米のピカピカ光る米粒の立った炊き立てのご飯の湯気と、その香りが今
だ忘れる事は出来ません。当時にしては贅沢なご馳走でした。
今では電気釜でしか炊飯致しませんが、昔は一升釜でご飯が炊けたら、そ
のまま藁で作った冷えない様にする『囲い』と言う中に入れていました。

昔の先人が考えた保温機でした。当時はちゃぶ台と言う周りに家族で座って
ご飯となり、秋のサンマをコンロで焼いて、こんがりと色よく焼けたサンマ
が食卓に並ぶと、白米のご飯と、塩焼きサンマに、お味噌汁と白菜の漬物
でしたが、子供心に豪華に感じた覚えが有ります。

白菜も母が一斗樽に漬けていました。大根も併せて漬けて居たようでした
が、唐辛子が樽の中に赤く浮いて居るのが色鮮やかに赤く染まって、採り
立ての柚子を少し磨り卸して食べる白菜の漬物が、昔の忘れられない思い
出として心に残っています。
時代は代われど、昔に自分の口で食べて覚えた味覚は、70歳も過ぎた今
でも『3つ子の魂、百までも・・』と言う、母の味として忘れる事は出来
ません・・、
その母も96歳となりましたが、今でも元気に過ごしています。

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