2012年8月11日土曜日

私の還暦過去帳(282)

人の生き様と死に様

この歳になり幾多の人がこの世に別れをして旅立つのを見てきました。

過去、5年間ぐらいでも、親しくしていた人が5名ばかり亡くなりま
した。
全ての方が60歳を過ぎていましたが、昔のことを思い出すと、50
代で亡くなる方が沢山居ました。当時は限られた素材の食事しか出来
なかった時代です、塩分の多い保存食を多食していた時代ですが、
冷蔵庫も無かったので、それは生活の知恵で致し方ないと思います。

弁当と言うと、塩鮭に沢庵や梅干がおかずで入っていました。
田舎の市場などには、魚のすり身で作った薩摩揚げや、かき揚げを売
っていたのを覚えています。それは良く弁当のおかずや夕食のお膳に
出ていました。

55年も前です、私が中学生の頃でした。
当時は戦争が終わり、まだやっと日本が復興の槌音が盛んな時代でした。
田舎ではその頃、まだ栄養的なバランスの良い食生活も望めない時代で、
朝食と言っても御飯に味噌汁と漬物に生卵があれば美味しく食べていた
頃でした。

今では食生活も様変わりで、洋風化してしまいましたが、私達の小学生
時代の給食ではミルクも粉ミルクで何か臭いが強い感じでした。
コッぺパンと言う給食用のパンがランチに出ていましたが、中に挟んで
あったのは、マーガリンとジャムでした。

終戦後、何も食べる物がない時代には、学校給食では珍しい食べ物が沢
山ありました。量は少なかったのですが、乾燥フルーツ、ハム、チーズ、
スパム,など、アメリカの余剰農産物が来ていたと聞きましたが、育ち
盛りの我々にはありがたい食べ物でした。

時代が過ぎて1960年の初め頃に出来たインスタント・ラーメンは学
生時代に良く食べたものでしたが、その少し前に高知の山奥の農村を訪
ねた時に、ソバかきをして食べさせてくれた事を思い出します。

母の遠い親戚と言う事で訪ねたのです、当時でも御飯は配給米に雑穀が
混じった食事でした。そこの親戚がパラグワイに移住して、私が移住先
をしばらくして訪ねた時に、食べていたのは白米のご飯でした。

ここでは幾らでも御飯は食べられると話していましたが、直ぐ側の小川
が流れる田圃にはお米が食べきれないぐらいに植えられていました。
その方達もパラグワイ移住の夢が破れてアルゼンチンに再移住しても、
残った方が生産する米をパラグワイから取り寄せて食べていました。

当時のブエノスではコリエンテ地方で生産されるイタリア米が多かった様
でした。
パラグワイに入植して南米に住み着いて50年、半世紀を経ても主食は米
です。2世になって、奥さんがヨーロッパ系の人と結婚していても、自分
で御飯を炊いて食べている人を何人も見ました。

二世がアメリカで日系部隊に入隊してイタリア戦線で戦っていた時に、激
戦地で見舞いに米を元気付けに配給されたと聞いた事があります。
毎日、缶詰と携帯食料では飽き飽きしていた時に、イタリア米を大きな袋
に入れて部隊に持ち込まれた時は皆が、歓声を上げたと話していました。

近所のハワイからの二世と三世の日系カップルも、毎日食べているのはご
飯です。
戦前のハワイでは一世も二世も一日一回は皆、御飯だったと聞きましたが、
当時のハワイは中国人やフイリッピン人も多くて、米が無くてはならない
地域だったようです。
それは砂糖キビ農園で働く多くが日本人やアジア人が殆どだった影響も多い
と感じます。私はハワイに行くと必ず食べる物はスパムお握りです、これは
ハワイの代表的なランチ弁当だったようです。

おかげでハワイがスパム缶詰の消費が一番全米で多いとか聞きましたが、
豚肉で製造されるハムに似た物です。現在ではターキーで作られたスパムも
あるという事で、味もピリカラから、スモーク味もあるそうです。

戦前の昔、一世達が塩味か辛さの効いたスパムの缶詰肉を開けて切り、少し
フライパンで焼いて、醤油を掛けておかずに食べるのは、手軽で栄養価もあっ
たものと感じます。
それより値段も手頃で、ランチにお握りに挟んで食べるのは農場の便利な食
べ物だったと思います。

私も何度かハワイのオワフ島をドライブしていて、道端の店で『スパムお握
りあり』と書かれた広告を見かけて、買って食べた事が有ります。

45年も前に、アルゼンチンの首都ブエノスの港で、道端の屋台でパンにイ
タリアンソーセージを焼いて、一本丸ごと入れたサンドイッチを食べながら、
ワインのビンをラッパ飲みしていた労務者達を思い出します。

彼等にしたらアジア人の顔でピリカラのソーセージを挟んだパンをパクつい
ていた若い男を不思議に感じていたと思います。

彼等が私を見て『お前は何処から来たのか?』と聞いていたのを覚えています。

アメリカでもハムに似たランチョンミート缶詰のスパムも、それが好きな方は
ハワイ出身の方が多いと感じます。それも子供の頃から食べなれたスパムの肉
だからだと感じますが、沖縄でも米軍基地から出た料理として、沖縄家庭料理
として知られています。
スパムを薄きりにしてフライパンで焼き、目玉卵などを添えた料理はすでに沖
縄料理の中に戦後60年過ぎて定着したと言われています。

人の生き様も食べ物に左右されて、その人生の死に様も決まると思います。

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