2014年1月30日木曜日

私の還暦過去帳(477)


パラグワイ国盗り計画(1)

パラグワイは戦前の1936年ごろから日本人移住の企画がなされ、第二次大戦が始まる前までに、かなりの人数が移住して行きました。しかし移住地での生産物販売が上手く機能しなくて多くの人が隣国に再移住して行きました。戦後また移住が再開 されたがその1950年終り頃から1960年の始めにかけて移住してきた移民も戦前と同じく、多くの人がブラジルやアルゼンチンなどに再移住して行きました。

私がその中でアルゼンチンに再移住して来ていた自衛隊出身の移住者と仲良くなり、ブエノス 近郊で野菜栽培を少しの間していました。昔の田舎の電気も無い農家でしたので、夜は酒でも飲みながら四方山話をしていました時に、誰と無くパラグワイは長閑な田舎の国だーー!と言って自衛隊出身者の山本氏が精鋭2000名もあれば首都スンシヨン を攻略出来ると切り出しました。

彼は6年近くパラグワイに住んでいましたので、各地を歩いて見ていました。その当時パラグワイはアメリカからの第二次大戦余剰武器の中古武器での装備で、訓練も貧弱なものでした。国境警備などの兵隊が所持して居たのは 旧式なボルト・アクションのライフルでしたので、殆ど戦闘能力は限られた地域を守るのが精一杯と思われ、誰が見ても感じ、そう思っていました。

そこから計画が生まれて来ました。パラグワイ国盗りを立案してみようとーー! パラグワイの人口は日本から比べたら、比較になら無いような少なさです、1871年には戦争で僅か22万人まで減少して、そこからまた人口が増えて行きましたが、広い日本と同じ面積に匹敵する大きな大地に、僅かばかりの人が住んでいたのです。
1863年   525,000
1871年   221,000
1900年   490,000
1936年   931,000
1940年  1,014,800
1942年  1,071,700
1871年に人口は大きく減少しているが、1871年は、パラグアイが ブラジル、ウルグアイ、アルゼンチンの3国同盟を相手に戦った(パラグアイ戦争三国同盟戦争)が終わった翌年で、この221,000人の内訳は女性が106,254人、86,079人が子供男性はわずか28,746人だったといいます。 私がパラグワイに移住した時はまだ沢山の移民がヨーロッパやアジアの日本や韓国、それからパラグワは南米でも数少ない台湾を承認している国で、かなりの台湾の移住者が来ていました。

 しかし数はたかが知れた人数で、ブラジルなどとは比較が出来ません、政府も一党独裁で一人のドイツ系2世の大統領が長い間、パラグワイの国土を押えていました。政治も停滞して眠る様な感じだと聞いた事が有ります、そこに移住してきた日本人が 先ほどの第二次大戦の戦争の経験が有る人から見れば、乗っ取りを考える事は、笑い話ではない真剣さが含まれていたと感じます。

当時、日本はまだ高度成長期に入る前でした。冷戦の狭間で日本の将来も不安が沢山あり、戦後海外から引き上げてきた日本人 が沢山、農村や都会に溢れて住んでいた時代でした。アメリカが沢山の政治干渉をして、経済的にもパワー溢れる政策で世界戦略の構図を動かしていた時代す。

その頃の日本人が憧れていた世界の構図でした。なぜか引かれる事があつたと思います。 ではまた、次回をお楽しみに!

2014年1月28日火曜日

私の還暦過去帳(476)

パラグワイ国盗り計画

今度書きます予定は、49年も前に遊びで、暇に任して仲間で考えた、
パラグワイ国政府転覆、乗っ取りクデーター計画青写真です。

遊びで始めたクーデター計画ですが、だんだんと熱が入り、興味が出
てきて、何だか一時は本気で考えたことが有ります、今と なっては笑
いがこみ上げて来ますが、この話は自衛隊出身の移住者が、初めは
口を開いて話し出した事です。

それが何も無い夜の酒の肴となり、それがだんだんと熱を帯びて来て、
卓上計画を描き、図面と地図を揃えてパラグワイ攻略の青写真を描い
て見て、 後でパラグワイ陸軍士官学校出の日系二世に見せた所が、
驚いて可能性は半分以上は有ると言ってくれました。

遊びで始めた事ですが、『ヒヨウタンから駒ーー!』で、意外な方向と
なり、今から思えば良くそんなことを考えたと思っていますが、何せ
今では昔の思い出しか有りませんが、この事を書いて 見たいと考え
ています。
今の若い人が他国のクデータ-などを計画してお遊びでも計画する人
は居ないと思います。これから書きますが、不定期でここに書きますの
で、どうぞパラグワイの地図でも見ながら読んで下さい。

今の若い世代ではその様なクーデター計画など、思いも付かない、発
想も出来ないと感じます。
50年近く前のパラグワイの軍事力と人口を考えると、日本人がパラ
グワイと日本の間に取り決められた移住協定を利用して、計画的に若い
日本人世代を送り込んで、またパラグワイから将来を担う若者達を日本
に送り出して、大勢の男女を日本で教育して、訓練してパラグワイで、共
同して決起すれば大きなチャンスがあったと思います。


次回より始めますーー!

2014年1月27日月曜日

私の還暦過去帳(475)


ハードボイルド作家、大藪春彦氏と私の出会い、

これは随分と古い話になります。
私が高校生時代に、郷里の大牟田市の郷里で出会った、ハードボイルドの
アクション小説『野獣死すべし』が最初でした。

その当時は高校図書館の図書部と言う所で、部活をしていました。
暇な時は自転車で近所の山に行き、山歩きをしては盆栽に出来るような松を
探したりしていました。その当時から園芸や造園、野菜作りなどが大好きで、
こずかいを貯めては、植木市に行き、そこで安い南天や久留米つつじなどを

買い、自宅の庭に植えていました。
それと、読書が好きで良く本屋にも通っていましたが、雑誌『宝石』に出て
いた『野獣死すべし』と言うハードボイルド・アクション小説に魅せられ、
本屋で出版されたばかりの本を買って何度も読み耽りました。

その当時、近所の友人と紙玉を使う玩具の拳銃を使って、パンパンと鳴らし
て遊んでいましたが、段々とそれが高じて、友人宅が木工所で、色々な工具
が揃い、万力や溶接機械もありましたので、休日などの日に皆で集まり、そ
の玩具を改良と改造をして、ついには空気銃の鉛の弾を飛ばす事が出来る
くらいにして遊んでいました。
紙玉の火薬をほぐして、大昔の火縄銃の様に先詰めで火薬と空気銃の弾を
詰めていました。それからしたら私達の遊びなど本当に子供の遊びでした。
もっと凄い遊びをしていたのは高学年の子供達でしたが、終戦直前に近くで
撃墜されたB25の爆撃機の機関砲の弾を沢山隠して持っていました。

大牟田市には炭鉱町と、さらに関連する沢山の工場があり、火薬なども生産
していたので、爆撃されていたようでした。

その大口径機関砲の弾を水道管に詰めて信管をハマーで叩いて発射してい
たので、その様な危険な遊びも小さい時に見ていたので、我々がネズミの糞
程度の弾を撃つ事などは、昔の子供達としては普通の遊びだったと思います。
今ではそんな事でもしようなら、ポリスが飛んで来てえらい事になると思いま
す。
そんな時代を経ていましたので、私にはこのハードボイルド・アクション小説
が、まるで心にジーンと感じるくらい感激して読んでいました。

高校を卒業して東京に大学生として上京すると、作家としてデビューした、大
藪氏に会いたくて面会を申し込んだら、何んと・・、気軽に会ってくれるという
返事でしたので訪ねて行きました。

その当時、彼は早稲田近くの畳屋の2階に下宿していました。
最初訪ねた時は、畳屋が住所でしたので、店先で畳の表替えをしていた親
父さんに聞くと、ひよいと、『大藪さんーん!、お客さんがお見えだよー!』と、
二階に声を掛けてくれました。

すると二階の階段から、インキの青い染みがあるステテコ姿で、『どうぞ2階
に上がって下さい』と声を掛けてくれました。
ちゃぶ台の様な小さな座り机があり、周りには沢山の原稿用紙が散らばっ
ていました。
食べ終わった店屋物の出前されたどんぶり物の皿などがあり、薬缶をガス
コンロで沸かしてお茶を入れてくれました。

少し話して、彼がこれは駐留軍の立川基地にいた米兵が朝鮮戦争で捕獲し
た、ドラムマガジンのサブマシンガン無稼動実銃と言って見せてくれました。
彼は英語も上手な様で、立川基地内の射撃場で、仲良くなった米兵と、実
弾射撃もしていたようでした。50口径の機関銃の弾薬箱にぎっしりと各種の
空薬きょうや、空のマガジンなどが入って居ました。

しばらく話して、『出版社の人が原稿を取りに来るので、』という事で私は彼
の下宿を出ましたが、その出版社の原稿を取りに来ていた女性が、後で大
藪氏の奥さんとなられた方でした。
その下宿には2度ほど訪ねましたが、直ぐにそこも彼が引き払い、引っ越し
てしまったので訪ねる事はありませんでした。

私も大学を卒業すると同時に南米に移住して、かなり長い間彼の小説を読
むだけでした。私が南米から日本に帰国して、アメリカに家族を連れて再移
住する用意をしていた時に、千歳烏山の近くで散歩されていたのと偶然に
すれ違いました。

すっかり貫禄が出て、子供を連れて歩いていましたが、私が会釈をして挨拶
すると、彼はすっかり忘れている様で、『沢山の人に今までお会いしたので・・
思い出せない』と言ってその場を大藪氏と別かれましたが、それが最期で
した。
何度か彼の活動を聞き、小説も読みましたが、アメリカに来て1996年頃に、
61歳で亡くなられたというニユースを聞きました。それからしたら詳しくは知
りませんが、大藪氏はその当時では早死にしたと感じます。

私の様に南米で百姓仕事で、拳銃の皮ホルスターが真っ白に汗で色が変色
するぐらい携帯して、それに生活の一部として狩猟で鹿やイノシシ、ビスカッ
チャ、山鳩などを射止めて食料とした事などを考えると、まったく銃に関連し
ても、彼とは違った人生街道を歩いたと思います。

当時のボリビア国境ではゲバラの残党が活躍して、農場などが備蓄してい
た食糧などが襲われ、略奪されていたので、国境警備兵などが馬で巡回し
てくる時に、彼等が比較的簡単に入手出来る弾なども買ってもらっていました。
長い年月で仕事でこれまでに終日、渡り鳥を追い払うために散弾銃を撃ちま
くった事などを考えると、かなりの実射経験が有りますが、今まで推定で2万
5千発以上は射撃の経験があると思います。

これも若い時にアルゼンチン郊外のチビリコイの町で蔬菜栽培をしていた時
代に、夜の退屈な時間潰しに始めた、倉庫のネズミ獲りの射撃が高じて、所
持していた拳銃の引き金を削り、改造などして、ピンポイントの正確な射撃が

出来る様にして、週末など町に歩いて遊びに行く時に、パンパの草原に一
列で並ぶ電柱を相手に、誰もいない草原を歩きながら抜き打ちの練習を重
ねて、薄暗闇の中で、空薬きょうを抜いて、瞬時で一発の弾も落とさず、交換
が出来る様にもなり、抜き打ちで電柱に、歩きながらでも10m以内でしたが
全部命中させていました。

レボルバーの拳銃でしたので、練習で親指の先の皮が擦り剥けるほどに訓
練していたので、しかしながら弾代も馬鹿にならず、田舎町では高い弾を買
うことになるので、ブエノスに出た時に、港近くの銃砲店から狩猟に使うマグ
ナム弾や怪しい経路で輸入されたと感じるアメリカ製のレミントンなどの弾を
買っていました。
私はアメリカに住んで亡くなられた大藪氏の年齢からしたら10歳以上も長生
きして、このカリフォルニア州の太陽の下で、大藪氏がコレクションしていたと
同じ銃器を、彼の場合は警察から銃器不法所持容疑で何度か調べられた様

ですが、私などはアメリカに38年も住んでいますが、日本からしたらなんの
気兼ねをすることなく射撃を楽しむ事が出来て、のんびりと春の日の下で、
せっせと手入れしている我が姿を側の窓のガラスで見ると、何となく感慨深
いものがあります。

2014年1月24日金曜日

私の還暦過去帳(474)


昔の年末の思い出、

この歳になると年末、年の瀬の思い出が沢山あります。
そろそろ、60年近く昔の事で、郷里の郷愁として心に思い出しています。

私が郷愁として思い出すのは、父の郷里、大牟田市の出来事です。
その当時、大牟田市には日本一と言われる、三井三池炭鉱がありました。

まだ終戦からやっと抜け出して、朝鮮戦争の特需景気で賑わっていた時代
でした。炭住街と言われる長屋があちこちにありましたが、その当時はスー
パーなどの大規模店舗も無く、給料日などは会社の周りに市場が出来て、
屋台の店などが並んでいました。

特に年末のボーナスが出た後などは、かなりの賑わいで、シートに広げた
衣料品や、積み上げられた日用雑貨が並んでいました。

特に年末の賑わいは子供でも感じるほどで、近所の農家がリヤカーで持っ
て来たしめ縄や松飾、門松などが目立ち、荒巻鮭を専門に青竹に吊るして
売っている店もありました。

時にはミカン栽培農家が、オート三輪車に積んで来たミカンを側に積み上
げて売って居る時もありました。
その当時の炭鉱町の活気は凄いものがありましたが、我が家もボーナス
が会社から出ると、母親が正月の晴れ着などを買ってくれました。

特に12月過ぎて、年の瀬になると市場もかなりの混雑で賑わい、普通の
お店も炭住街の市場に出店を出している様でした。

その当時、我が家では家計を助ける為に、鶏を飼っていましたが、カマボコ
製造店から、そこで使わない魚の粗などを分けて貰い煮て、自家製の飼料
に混ぜて与えていました。
それで、そこの店のおじさんと顔見知りでしたので、私は店先で挨拶してい
ました。その店はカマボコや厚揚げなど、それにさつま揚げと言う様な物も
製造していたので、その様な製品が並べてありました。
その様な出店や屋台を、子供心にも皆と店を見て周り、楽しいと感じていま
した。

年末には小さなテントを張り、餅つきをしている店がありました。大きな臼が
2個ほど並べ、四人ほどで注文された鏡餅や、伸し餅などを作っていました。
その他、粟餅や草餅なども作っていました。特に我々が『あんころ餅』という、
餡子が沢山入った餅を作っていましたので、おこずかいで2個ほど買い、ま
だ暖かい餅を食べていました。
餅は出来上がると、自転車の荷台に載せられて、炭住街の社宅に配達され
ていました。

通りを歩く人達には、新巻鮭をご主人が持ち、奥さんが買い物籠を両手で
持って家に帰る姿を見ました。幼いおかっぱの女の子は、髪飾りを自慢げ
に見せながら友達どうしで、羽子板や飾りが付いた手毬で遊んでいました。
当時の遊びはまだまだ、昔の遊びが沢山残っていました。

まだテレビも無い時代で、農家が自分の竹薮から切り出して来た竹で作っ
た、竹馬なども大小と並べてあり、おこずかいで買って遊んだ物でした。

北風が吹く空に、タコを高く上げて遊ぶ事も、男の子供達の良い遊びでした。
自分で作った連鎖タコを上手に長く、高く空に上げる大人達のタコがうらや
ましくてよく見ていました。
小さい子供達は、奴ダコという、どこの駄菓子屋でも軒先に吊るして売って
いたタコを空に上げていました。今ではテレビに、ビデオゲームなどがあり、
昔の遊びなど見る事は余りありませんが、我々子供時代は今から考えると、
古きよき時代ではなかったかと感じます。

今では小学生がiパッドやスマートホーンを手にして、ゲームやおしゃべり
をする時代に変化していますが、私が郷里を出てから30年以上もして郷里
の大牟田市を訪ねた時に、友人が住んでいた炭住街をタクシーで訪れまし
たが、そこは廃墟の崩れかかった長屋が残っていました。
殆どの家々は誰も住む人も居なくて、皆が働いていた三井三池炭鉱も閉山
となり、日本で石炭産業さえ無くなっていました。

時代は代わり、時は流れ、すべてが過去に消えて行き、私もあと幾年、昔
の年の瀬の思い出を見る事が出来るかと考えています。

2014年1月21日火曜日

私の還暦過去帳(473)

タバコの話し、

私は今ではタバコも吸いませんが、随分昔の若い頃は吸った事があります。
大学生の頃は貧乏勤労学生でタバコなど買う金も無く、子供の頃から扁桃
腺を良く腫らすことがあり、父が吸うタバコの煙も余り好きではありませんで
した。
50年以上前はその当時は新生、憩などと言うタバコを皆が吸っていたタバ
コでした。それからハイライトなどが出て来たと思います。
田舎ではゴールデンバットという強い、安タバコを吸う人が結構沢山居ました。

私が学生時代東京の下宿で友人が吸っていたのは、キセル・タバコで、長い
竹のキセルを使って吸っていました。金が無くなると、彼はどこからか吸殻を
拾ってくると、それをほぐして中のタバコを取り出してから、いったん日に干し
てお茶缶に入れ、安物のブランデーなどを垂らしてからキセルで吸っていま
した。
夏休みで郷里に帰り、どこからか手に入れた葉タバコの葉を刻んだ物を袋に
詰めて持ち帰って来ていました。田舎では戦時中、物資不足で葉タバコ農家
から内緒で分けて貰った種で隠れて栽培して、収穫したタバコの葉は納屋の
奥に隠して乾燥させていたと友人が話していました。

これは日本の専売法で特定の許可がある農家で無いと葉タバコは生産出来
なく厳しい監視と契約があったと言う事です。

貧乏学生の知恵だったと思いますが、彼はどこから手に入れて来たタバコ巻
き紙を使い、器用にタバコを巻いて吸っていました。
紙が無い時は辞書のページを破り、それでタバコを吸っていましたが、殆ど
下宿ではキセルで吸っていた様でした。

50年以上の昔です、新宿駅近くには戦災バラックの飲み屋街がまだ残って
いた時代です。しけモク拾いという人も見かけましたが、殆どが浮浪者風の
人でした。
昔から新宿や渋谷はその様な人が多く住んでいたのは、周りに飲食店が多
く、綺麗なレストランも沢山ありましたので、夜の12時過ぎに店仕舞いをし
て、残りの残飯を綺麗にナイロンなどに入れて浮浪者やホームレス達に残し
てありました。
私も深夜ロードショー映画などを見て、終電で下宿に帰る時に何度も見たこ
とがありますが、彼等が数名でその様な物を持ち寄り酒盛りをしているのを
見た事があります。側を通ると彼等が吸っているタバコの煙が安タバコの匂
いではなく、しけモクの、吸い口フイルター付きの高級タバコ吸殻だと感じま
した。
卒業後に移住した南米のパラグワイでは、どこのバス停の売店でもタバコの
一本売りがあり、現地人が2本とか3本程度買い、吸っているのを見ました。
それからどこのバスも列車も『タバコ・ネ-グロは喫煙禁止』と張り紙があり
ました。
インジオや現地人が吸うトウモロコシの柔皮に包んで吸うタバコですが、これ
は10m先からでもその強烈な匂いが致します。勿論の事に蚊やブヨなども
吸っているだけで近寄る事もありません。

私も原始林伐採後の畑でブヨに悩まされ、しばらく高価なアメリカ製の虫除
けなどを使いましたが、インジオが葉巻を口にくわえているだけでブヨも害虫
も寄って来ないと言う事で、インジオのおばさんの自家製葉巻をくわえていま
した。
煙は肺に吸い込む事は無く、吹かしているだけでしたが、確かにブヨが沢山
生息するジャングルの側でもブヨが寄って来ませんでした。

まるで虫除けの蚊取り線香をくわえて居るようでしたが、私が吸っていたのは
それぐらいでした。

昔の我々学生時代に、ピースなどと言う両切りの10本入りタバコは、高級タ
バコでしたが、友達がアルバイトで稼いでいたので良くそのピースを吸ってい
ましたが、香りが独特で、直ぐにそのピースのタバコ匂いを覚えてしまいました。

移住船に乗船して南米に移住して行く時に、船の中は無税でタバコを安く買
えますので、船が停泊して遊びに出る時にポケットに2箱ばかり入れていま
した。バーなどでピースを勧めると、その香りが良いので、売ってくれと言わ
れた事もあります。
移住船が給油で停泊した、ベネズエラの沖合いにあるオランダ領のキュラソ
ー島で波止場の近くに買い物に出ていましたが、興味が湧く物も無く波止場
に戻って、そこで遊んでいる子供達を見ていました。

近くには大きな給油ホースから船舶重油が給油されているポンプの音が響い
ていました。私がぼんやりと見ながら何気なくピースのタバコに火をつけて一
口吸うと、近くに居た警備の兵隊がここは禁煙地域だと言う看板を指差して
いましたので、慌てて消して捨て様とするとその若い兵士が、そのタバコを欲
しいというゼスチャーをしているので、渡すと隠れる様に監視小屋の中に入
り、タバコを吸っている感じでした。

しばらくして小屋から出て来ると、周りを見回して、もっとタバコが欲しいと言
うゼスチャーをして居ますので、このタバコは高い値段だと言う事を教えると、
分かるのか残念な様子をしていました。

彼が肩に担いでいたライフル銃に興味があり、長い弾倉が付いているので、
指差して見せろというと、隠す様にして瞬間ライフルから弾倉を抜いて見せて
くれました。中には実弾が装填されて居るのが見えましたが、私もいたずら心
で、ピースの箱を1個、ポケットから出すと『これと実弾1個と交換しないか、』
と片言のスペイン語で言うと、若い兵士の目が輝くのが分かりました。

彼は警備の小屋に戻ると、直ぐに出て来て、私の側に来ると、片手に隠す様
に本当に1個の実弾を見せてくれました。
そうなれば私も周りを見回して、ポケットからピースのタバコを出すと相手に
握らせました。
暗黙の了解です、彼もすばやく私に弾を1個手渡すと、タバコをポケットに入
れると、肩にライフルを担ぐと横を向いて、さっさと巡回する様に波止場を振
り向きもしないで歩き出しました。
私が船のタラップを登りその警備の若い兵士を見ると、にっこりと笑い、嬉し
そうにタバコを吸うジェスチャーをしていました。

その弾は火薬を抜き、プライマーも抜いてダミーの飾りとしてしばらく記念に
持っていました。

2014年1月18日土曜日

私の還暦過去帳(472)


秋の日の思い出、

10月に入り、日々夜明けが遅くなり、日が暮れるのも早くなります。
北半球と南半球の差は体感した人でないと、中々実感として感じることは
無理だと思います。

東京から飛行機で直接、南米のブエノスアイレスに7月頃に行くと、その
差が否応無く飛行機を出て市内に入れば、感じさせられます。
それはアメリカのサンフランシスコやロサンゼルスからでも同じです。

7月は北半球は夏ですが、ブエノスは真冬ですから、朝晩はかなり冷えて
郊外に出ると霜も降りている時があります。
この季節が正反対になることを、うっかり忘れて日本から来た人が、飛び上
がって寒さに驚き、トランクから出した下着を重ねて着て、背広姿でなんと

か出張ビジネスを勤めて居たようです。それも日頃はアメリカやメキシコに
出張ばかりで、メキシコから急にブエノスアイレスに行ってくれないかと言
う事の様でしたが、それにしても夏の薄い背広だけでは大変だった様です。

大陸性気候は寒暖の差がありますので、朝は冬、10時ごろは春、午後2時
は初夏、5時過ぎると秋で日が暮れると冬になると言うサイクルがあります。
私の友人も一度ブエノスに着いたばかりの時、夜になり震え上がって、友人
から長袖シャツを借りて帰っていました。

アルゼンチン北部に行くと、もっと寒暖の差が酷く、日中は意外と灼熱の太陽
が出て、夜は凍る様な寒さで、毛布の様な厚手のポンチョウをすっぽりと被っ
て居る姿を見ます。ブエノスの郊外でも同じ様に秋が深くなると、放牧されて
いた牛達が集められ、出荷されるので国道沿いの牛の肥育囲いに移動して
いました。

牛追いのガウチョが朝の寒気の中で、ポンチョウを被り、ウマの背にうずくま
る様にして、白い息を吐きながら牛の群れを追っていく姿を今でも思い出し
ます。牛の群れがゆっくりと動き、牧童が片手にマテ茶のボンベを持って、鞍
の横に小さな魔法瓶を提げて馬で歩いていました。

のどかで、どことなくアルゼンチンの田舎の感じがしていましたが、牛が吐く
息が白く散り、朝露に濡れた道端の草が、移動する牛達に食べられていま
した。

昔は鉄道駅の近くの牛の囲いに運ばれて、そこから家畜用の貨車に詰め込
まれて居たのでしたが、今では国道沿いの家畜の集荷場に運ばれて、そこで
家畜運搬のトラックに積み込まれていました。

囲いの近くには小さな事務所があり、そこの隣りでは朝からハムや肉が焼か
れ、湯気の立つ煮立った薬缶が焚き火に吊るされ、熱いマテ茶やコーヒーが
飲める様にされていました。
焼き立てのパンが釜から出され、チーズとバターが用意されて、ミルクコーヒ
ー用のミルクも温められていました。私にも手招きして食べる様に勧められ、
コーヒーに暖かくなったミルクをたっぷりと入れて、パンをそれに浸して食べ
ていました。

知人がこの牛達はラプラタまで送られ、そこで輸出用の冷凍肉にされてしま
うと言う話をしていました。春から夏にしっかりと食べて太った牛達が、秋の
陽気になると囲いに集められ、収穫したトウモロコシなどの飼料を与えられ、
さらに肥育されて出荷されると話していましたが、『天高く牛肥える秋』という
感じがしていました。

秋の遅くは蔬菜栽培も一段落して、時々友人に誘われて見に行きましたが、
牧場主達はこれで一年の収穫をするのと同じですから真剣な様子でした。
中には小さな牧場主は家畜仲買と現金で取引して、その現金を家に持ち帰
り隠していたのを襲われたと言う事を昔、聞いた事があります。

牧場を襲って、そこの主人に反撃され、家の周りに放し飼いされている犬達
がいて、とてもその住宅まで近ずく事も無理な様でした。
しかし、町の街中に住む牧場主の自宅が襲われ、3人ばかりの強盗に帰宅
した時を狙われて有金を持って行かれたという話しを聞いたことがあります。

昔のアルゼンチンはインフレが激しく、ドルに替えて銀行ではなく自宅か貸金
庫に入れていた人が沢山居ました。金貨に替えていた人も沢山いました。
牧場と小麦やトウモロコシ栽培地帯の町でしたが、秋の収穫時期には、どこ
と無く金にまつわる話が沢山ありました。

2014年1月16日木曜日

私の還暦過去帳(471)


帰米二世達の思い出、

帰米二世と言われる人達がアメリカには大勢いました。
その二世たちも戦後68年も経ち、かなりの人が亡くなっています。

彼等は戦前の昔に、アメリカ在住の親達が子供の教育を日本にいる
祖父母などに頼んで日本に送り返したからです。

私も同じ様な年齢の方達と知り合い、話を聞くことが出来ましたが、
ブラジルでもアルゼンチンでも同じ様なケースが沢山ありました。

その当時の親にしたら子供は大和魂を持ち、日本語の読み書きが出
来る子供を期待していたと思います。

また、反対に日本などに子供を郷里の親元に預けて育てても、アメリ
カに戻ればまた英語教育と、英語の会話も訛りがある発音で使い物
にならないと言う考えの人も多く居ました。

私も38年間の在米でアメリカ生活に溶け込んでいたので、かなりの
帰米2世と言う方々にお会い致しました。

その方達も色々なケースがあり、幼児期に日本に送られて、そこで祖
父母に育てられて小学校を終えると戻って来たケースでした。三つ子
の魂、百までも・・と、完全に日本語と精神教育の基本が出来ていた
人たちです。

それから、だいぶ高学年まで英語教育も受けて、日本語教育はアメリ
カの日曜学校とか、仏教会などで基本を習い、読み書きは不自由ない
クラスで、日本では高等教育も受けていた人達でした。

帰米した人達の時期は第二次大戦を境に戦前と戦後と分かれていま
した。戦後帰米した人の中には、日本で兵役を済ませていた人も居ま
した。
私が知っている人は、カリフォルニアのオークランドに父母が待つ家に
帰宅してから、2週間で今度はアメリカの徴兵を受けて、3ヶ月ばかり
の基礎訓練を受けると碌に英語も話せないのに、朝鮮戦争の戦場に
投げ込まれたと話していました。

同じ時期に徴兵された日本人が、2週間で戦死したと言っていました。

中には運よく日米両語が出来たので、仲間から外されて沖縄駐留米軍
に派遣された人も居ました。そこで通訳や、事務などの仕事を専門にし
ていた様でした。

同じく日本駐留で戦争犯罪の裁判などに関わり、語学を生かして活躍
していた人もいました。通訳でおかしな訳文を正して、起訴されていた
日本軍兵士の減刑をしたと言う人も居ました。

中には田舎の米軍駐留で、近くの町で英連邦から来たオーストラリア
兵の手伝いもしたと話していました。彼は連合軍兵士の性犯罪を防ぐ
為に、昔の遊郭に交渉してGI専門の場所も業者に開いてもらったと
話していました。

まるで遊郭経営の旦那さんの様だったと話していましたが、軍曹ぐらい
の地位で、ジープの運転手兼、護衛が付いて走り回り、町の役人や
警察所の幹部とも米軍から任されて交渉して、上手くまとめていたと
話していました。

遊郭に居る女性の数に合わせて、その人数をトラックに乗せて遊郭の
玄関に降ろす時は必ず、兵士達がゴムの用品を持っているか検査し
たと話していましたが、ゴムと日本円を握り締めて、まず玄関で靴を
脱がして、それを片手に持ち部屋まで競争で走るように兵隊達が飛
び込んで行ったと聞きましたが、その2世が駐留していた
部隊では性犯罪の強姦などが皆無だったと言っていました。

彼の手配で駐留米軍犯罪も極端に少なく、司令官と町の両方から
感謝されていたと言っていました。
戦前に日本から戻った帰米2世で、ドイツ駐留に派遣された人は、
ドイツ人を奥さんに連れて帰って来た人にも会いました。戦争で家族
全部亡くして、彼女一人生き残り可哀そうな人だと聞いた事があります。

今では朝鮮戦争時代にアメリカに戻って来た人の中には日本で予科
練にいた人も居て私は日米両方で戦闘参加したと笑っていました。

中には朝鮮戦争の激しい時に徴兵されて、親からせっかく日本で生
き残って帰って来た身体だから、馬鹿のふりをしてでも身体検査で落
ちるように懇願されたと聞きました。そして目出度く徴兵失格を貰い、
親孝行をしたと話していました。

その様な方々も、かなりの人がすでに亡くなり、戦後68年と言う歳月
は終戦当時に20歳過ぎてアメリカに帰国した人も、すでに90歳を越
えているので、これも時代の流れだと思います。

2014年1月15日水曜日

私の還暦過去帳(470)


99セント・ショップの人生模様

今日も涼しい日でした。
散歩して朝食が終わると買い物に出ていました。

今日は4軒の店をハシゴで歩いていました。
そのうちの1軒は99セント・ショップでした。時々、孫が使う塗り絵などは、
多くの種類が置いてありますので、お土産に買いに行きます。

行くと店内はかなり混んでいました。ヒスパニックが多く住んでいる地域
にあり ますので、何処からかスペイン語の会話が聞こえて来ます。

ベトナム語、広東語なども聞こえて来ました。タガログ語の大きな声がす
ると 家族連れが賑やかに何か探しているようでした。
小さな子供達が賑やかに走り回り、ママに何か買ってくれとせがんでい
るよう でした。

私も久しぶりに来たついでに店内を見て歩いていました。
缶詰の食料品が並んでいる所に来ると、白人のかなりの年齢の夫婦が
カートを 押して買い物をしていましたが、すでにカートは沢山の商品で溢
れていました。

私が見ているとクッキーの袋詰の品定めをしているようでした。
ワイフが片手にメモ用紙を持って、鉛筆で買い物リストを見て消していま
した。
かなり買い物の予算が厳しい様で、メモを見ながら総計を計算している
感じで した。その横をヒスパニックの年寄りが手提げカゴに僅かな量の
買い物が入れ てあり、手にはドル札が見えていました。

おそらく自分の持ち金を計算しながら買い物していると感じます。
良く見ると大きなマンゴーが2個見えていました。
ブリートの皮も入っていました。パックの豆の包みも2個ばかりありました。

夏休みで母親と来た小学生くらいの男の子が母親に何か説明しているよ
うですが 側で聞くと、商品の英語の説明のようでした。
それから上手な英語で側の店員と話していましたが、母親にスペイン語で、
『ここにあるよ。。!』と母親を呼んでいました。

雑多な人間模様の買い物客達の有様は、ほのかな温かみが感じられます。

ベトナム人の家族は余り英語も分からないようで、誰かに連れられて来て
いる様でした。
私も孫のお土産にする小物を見つけて品定めをしていると、ヒスパニック
の小さな子供が、私にスペイン語で『その品物を取って下さい』と聞いて
来ました。小さな玩具を手に取ると、今度は英語で、『サンキユー!』と
言うと走って行き、母親に見せてねだっていました。

何となく他のスーパーなどでは見られない人間模様があり、アメリカでは
人種と階層で住み分けが出来ている国ですから、何となく金が無くても 買
い物出来る場所があるのだと感じていました。

レジで見ていると生活保護のフードスタンプで食料品を買い物をしている
人を見かけますが、日本と同じ100円ショップ的な店もアメリカでも必要と
感じます。
商品も同じ他店で買える物でも、99セントで売る為にサイズが小さく作って
あるようでした。しかし商品を手にとって見ると、雑貨などは中国産の商品
が多いのには驚きます。

2014年1月13日月曜日

私の還暦過去帳(469)


今朝は雨音で目が覚めました。

昔の事ですが、カリフォルニアでは7月に降る雨は珍しいのですが、娘の
住むサンタ・バーバラに来ていますので海岸近くで気象条件が違うのだと
思います。

パラパラと激しく屋根を叩く音で、ふと目が覚めてベッドの中で雨音を聞い
ていましたが、目覚めてその後、うとうとと浅い眠りで夢を見ていた様でした。

遠い昔の若い頃の夢でした。

農閑期にインジオに誘われて狩猟に行った時の様子でしたが、簡易テント
に寝ていた時に、夜に通り雨が降って来て、マタッコ族のインジオが、一人
用のテントで寝て居る私を起しに来て、沢に鉄砲水が走るかもしれないと
話して、私の荷物をを抱えると、せきたてる様にゆるい崖を登り始めました。

私は背中にライフルを背負い、インジオの後を付いて登って行きましたが、
山の上ではかなりの豪雨と感じる真っ黒な雲が流れていました。

雷が鳴り、不気味な風も吹いて来ました。

沢の崖を登り林の木陰に身を隠す頃には土砂降りの雨が降って来ました
が、深く茂った木々の中は、パラパラと降る感じの雨でした。

大木の根元に座ると下の沢の流れを見ていましたが、インジオが耳を澄ませ
て 聞き耳を立てているのが分かりましたが彼が一言『大きな鉄砲水が来る』
と話すと同時に、ゴーッ!と言う音が地鳴りの様に聞こえて来ると、闇の中に
サーッと蛇のように細長い流れが凄い速さで過ぎたと同時に、大きな石が
ぶつかり合う、不気味な音が響くと、潅木をなぎ倒して2mほどの高さの流れ
が瞬時で目の前を流れて行きました。

横に居る狩猟ガイドのインジオも薄闇を透かして見ると、顔をこわばらせて
じっと見ている様でした。

私も緊張して自然が作り出す狂った暴力の流れをただ驚愕の心で見ていま
した。 10分も前は乾き切った石ころだらけの沢が、今では濁流に巨石が音
を立ててぶつかり合い、濁流で流れている光景はとても信じられない光景で
した。

背中に冷たいものが走る感じを受けて、身を硬くこわばらせていました。

風が吹き、着ていたヤッケの防水にパラパラと水滴が飛ぶ音を聞いた様な
感でした。
夢は薄く、浅い眠りの中でとろとろと、見ていた様でした。
現実は家の外で鳴る雨音に、夢の中で重なりまどろんでいたと感じます。

目が覚めてカーテンの隙間から差し込む薄明かりで見た時刻は朝の6時で
した。

2014年1月10日金曜日

私の還暦過去帳(468)


昔の夏の思い出、

夏になると子供の頃の田舎の様子を思い出します。
そろそろ60年も前の事です。

その頃は冷蔵庫もなく、氷で冷やす冷蔵庫はありましたが、まず氷を買
って来なくてはなりませんでした。
その氷を時にはかち割り氷にして、梅酒などに入れて飲んでいました。

冷えない冷蔵庫で、僅かな生鮮食品しか保存できませんでした。
スイカなどは井戸水に入れて冷やしていましたが、程よく冷えて美味しく
頂いていました。サイダーやラムネなどもバケツに入れて井戸に吊るして
いました。

その当時、カキ氷という氷の上の糖蜜や練乳を掛けてイチゴ味や中に小
豆の甘い餡子が入った物もありました。
アイスキャンデーもありましたが、そんな物が夏の子供達の大好きな物で
した。
夕方になると日が落ちると、庭に打ち水をして縁側に蚊取り線香などを置
いて涼んでいたものでした。
その当時はテレビも出始めの白・黒の画面も小さいもので、プロレスの試
合などがあると、わざわざ近所のテレビがある家に見せて貰いに行きまし
たが、まだまだラジオが全盛の時代でした。

当時はまだ素人喉自慢大会がNHKで日曜日の午後から放送されていま
したので、子供の頃でしたが良く聞いたものでした。
それからしたら、今ではテレビも薄型の軽くて壁掛けのテレビなども普通
になり、暑い日はクーラーの効いた部屋でテレビを見ている人が当たり前
となり、世の中が変化した事を実感致します。

その当時は夏の夜長を近所の古老が日清戦争や日露戦争の話や、太平
洋戦線の戦場などの苦労話や、悲惨なインパール作戦での撤退する時の
様子などを聞いたものでした。
その当時の状況ではその様な話は、夏の何処にでもある縁台語り部の話
でした。
日清、日露戦争の話をしてくれた人は当時でもかなりの高齢で、ロシア軍
にに銃剣突撃をして、もう少しで、ロシア軍の陣地と言う時に、機関銃で掃
射され、その恐ろしさは肝がちじむ様な感じだった話してくれました。

機関銃の弾が切れ、戦場に砲声の音も途切れ、僅かな静寂がある時に、
負傷者のうめき声が聞こえていたと話していました。
子供心に戦場の恐ろしさと、何か知らないが背筋が冷える恐怖を感じたも
のです。
今では縁台に座り、近所の年寄りから昔話しや、郷里の故事なども聞く事
も無くなりましたが、大牟田市にあった三池炭鉱の明治時代の炭鉱では、
囚人を使い採炭していた時の様子等も友人宅に泊まりにいき、そこの老人
から聞きましたが、獄舎から脱走して、地下トンネルを抜ける時に、方角を
間違い発見されて捕まった時は指の先の骨が出るほど指先で穴を掘って
いたと聞きました。
そこの近所の老婆から、稲藁で草鞋の作り方を学びながら、田原坂の激
戦で、応援の政府官軍がこの前の道を隊列を作り、玉名方面に歩いて行
ったと聞かされて、後で砂利道の田舎道路をしげしげと眺めた事があります。
軒先に下げておいた草鞋を官軍兵士が全部買っていったと話していました。

その老婆がくず米を石臼で挽き、団子を作ってくれ、黒砂糖を溶かして作っ
た糖蜜を、団子に掛けて食べさせてくれた事は今でも思い出します。

夏休みの出来事は60年も経ても思い出す出来事が沢山あります。
従姉弟の家に遊びに行き、そこの祖母が熊本城頭首、細川家に若い頃に
行儀見習いに奉公に出て、殿様が家来を連れて白川に、毎日の様に釣り
に出ていた様子を話してくれましたが、その当時でも85歳程の年齢でした。
明治初期の話を聞けた事は、今では懐かしく、貴重な話だったと思います。

私が住んでいた近くに戦時中にマレーシア半島で対英防諜の活動をしてい
た人から、特務員としてスパイ活動の様子を皆で聞いた事もあります。
今では殆どの人が亡くなられたと思いますが、夏休みの夜長の良い体験話
でした。
当時は暑い夜などは、井戸水をたらいに入れて行水をしてから、寝ゴザと
いう、い草で作ったマットをひいて寝たものです。ひんやりとして暑い夜など
はお腹にタオルケットを掛けて寝ていました。

私の実家が九州の福岡県でしたので、夏の暑い日には朝起きて寝るまで
パンツ一枚で過ごして居た事があります。真っ黒に日焼けして、それこそ日
焼け色大会などと言う夏の町内会のコンテストもあり、ラジオ体操も夏休み
の重要な行事でした。

夏休みの間を皆勤して体操に行くと、終わりには文房具などが、ご褒美に
貰う事が出来ました。その頃の町内会の活動は賑やかで、海水浴に町内で
行き、スイカ割りなどや、砂浜でパン食い競争なども開かれていました。

それだけ娯楽が少なく、町内会でまとまっていたと思います。
今ではその様な事も少なく成ったと聞きましたが、時代が変化して、大きく
世の中が変わったからだと思います。

今では何処の家でも、冷蔵庫にクーラーや洗濯機などの家電が揃い、テレ
ビなどは一軒に2台や3台もある家はざらです、子供達は涼しい室内でテレ
ビゲームなどをして遊び、昔の様に野山を駆け回り、バッタを捕まえて、砂糖
醤油に浸して焼き鳥の様にして食べたり、タニシやシジミをバケツ一杯も採
って来て、塩茹でにしてたらふく食べたりする様な事は、今の子供達には無
くなったと思います。

私達の夏の思いでは今では遠い昔話の様になりましたが、終戦直後の物が
無い、食料も不足の時代でしたので、何でも口に入れて食べていたと思います。

今でもサツマイモを見ると、川に泳ぎに行った帰りに、近所の芋畑で、お腹が
空いて芋畑の畝の間の土の中に手を入れて、丁度大きなサイズの芋を取り
出して、生で食べながら帰って来た事を思い出します。

2014年1月9日木曜日

私の還暦過去帳(467)


過ぎ去りし時の重みを感ずる・・、

先月に日本訪問をして感じたことは、現代の歯車が予想以上の早さで動
いて居ると感じます。
数年日本を訪問しないと、様変わりがして、時には道に迷う事さえありま
す。
私が用事で青山通りにあるオフイスを訊ねた時に、待ち合わせの時間が
在りましたので、地下鉄駅から出て、歩道に出ると真っ先に感じたのは、
激変した通りの様子でした。

私が最初に東京を訪れた時は、まだ東京オリンピック工事が盛んな時期
で、どこもかしこも掘り返して、建設ラッシュでした。

青山通りも道路の中央には都電の電車が走り、両側には二階建て、瓦
屋根の店等が並んでいました。

その時からしたら54年も昔の事ですが、代わらないのは東宮御所の緑
の青さです、五月の空に大きく伸びた木々の爽やかさが感じられるのは、
まったく同じで、何か見ている私の瞼に過去の遠い昔の風景を思い出し
ていました。
古い自転車で都内探索にサイクリングで走っていましたが、その当時の
赤坂見附辺りから少し横道を入ると、当時でも珍しかった人力車が、ひ
よいと狭い路地から出て来るのに出会った事があります。

綺麗にお化粧した和服姿の女性が微かな良い化粧の香りを残して、す
れ違って行き、何か古い昔の東京の面影を見た思いがしていました。

サイクリングで走って疲れると、どこかの小さな木陰に当時、盛んな焼き
芋屋さんが同じく休憩していました。
東北から出て来て冬の間は焼き芋屋のリヤカーを引いていると話して
いましたが、このリヤカーは親方の家に住み込みして、一日幾らという
借り賃を払っていると話していました。

その東北から来ていたおやじさんは、この辺りは夜が儲けになると言
っていましたが、別れに『学生さん、昨日の残りの焼き芋だけど食べな
さい・・』と言って少し焼け過ぎた芋を、新聞に包んで手渡してくれました。

ほんわかと暖かい焼き芋を食べながら、持参して来た水筒から水を飲
んでいましたが、今ではその様な場所さえ思い出の光景として、見つけ
出す事は不可能と感じました。

そそり立つビルが方角を狂わせ、少なくなった緑の木々が目印となる
全てを消し去っていたからです。今では昼間就労人口が沢山でも、
夜間は殆ど人が居なくなるビル街となり、東京のコンクリートジャングル
が益々背丈を伸ばして、そこの谷間にさ迷う人間など、時勢に流されて、
呆然自忘の感じだと思います。

それにしても10年一昔と言うけれど、50年も経てしまうと、どこか浦
島太郎と言う感じもして来ます。

時は過ぎ、時代は変遷して、過去の面影も写真でしか知らない世代と
の会話も成り立ちません、地下鉄の出口から、ひよいと出て来て驚い
て佇んでいる、おのぼりさん姿の自分を想像しながら今日は書いてい
ました。

2014年1月5日日曜日

私の還暦過去帳(466)


郷愁の思い出旅路、

いま日本を旅しています。老齢の母の見舞いと、この歳になり、昔、出合
った人達に会うためです。

到着したその夜は50年前からの知っている男性でした。
彼とは両親がパラグワイのエンカナシオン郊外の移住地に入植している
時からの知り合いで、パラグワイで生まれて、アルゼンチンで育ち、成人
して日本に出稼ぎに来て、日本で住み着いてしまったのです。

最初に移住地で会った時は、2歳過ぎの頃でした。
家の前で泥だらけの格好で、裸足でまるで靴を履いているかのように、く
っきりと赤土で足には色が付いていました。

彼は生まれた時に両親が貧しくてアスンションの日本大使館に出生届けを
出せる金も時間的な余裕も無く、日本国籍は取れなかった様でした。

日本でも苦労して働いています。通称出稼ぎの、普通の日本人が余り好ま
ない仕事で、下積みの苦労を重ねてここまで来た様です。
昨夜、前回会った13年前からしたら、髪の毛も白髪が増えてだいぶ老け
たと感じる様子でした。

今の一番の喜びは三人の子供に恵まれて、その一番下のまだ2歳もなら
ない子を膝に抱いて晩酌しながら、子供に食事を与える事が一番の楽しみ
だと話していました。
無骨な手の大きさが、これまでの彼の生活の歴史を刻んでいると感じます。
握手した手の感じで瞬間分かりました。

昔の移住者達の手と同じ感覚が蘇ってきました。
日本に到着して何度か握手した手は誰もその様な手の人は居ませんでした。
それは労働を課せられ、それにしか日本で生きるチャンスが無い人達の
手だと感じます。
生きる事に、また家族の生活に自分の人生を賭けている事を見せ付けら
れる様な感じでした。偉大な彼の手です、彼の手を握り締めた瞬間、言葉
でその苦労を慰めてやりたいと感じる手でした。

彼の様な手を持つ男はへこたれず、粘り強く、どんな環境でも生き延びる
知恵を持つ手だと感じます。私も過っては同じ手の大きさと無骨さを持って
いました。
人が私の手を見て、その大きさに感心して見ていたぐらいでした。

肉厚の分厚い、骨が突き出た感じの手です、アメリカ人からでも何度か言
われた手ですが、中国人が一度私の手を見るなり、貴方は金持ちになる
と、褒めてくれた事に驚いた事があります。

私のその手も引退して仕事を減らし、辞めてからは8年近く成りますので、
だいぶ痩せて小さくなった感じが致します。
私の自分の経験から彼の手を握り、心感じて、感激して、男として家族
に責任と使命を持って生き、働いている手だと感じていました。

誰もその手を卑しむ事は出来ません、生きる事は、家族を養う事は、男
の使命として自分の身体を使い、働きその報酬で自立して生きて行く事な
のです。

私は別れる時に、これからの彼の家族の幸せと、彼の健康と子供達三人
の健やかな成長を祈りました。

2014年1月1日水曜日

私の還暦過去帳(465)

去り行く者への哀歌


私もこの歳まで生きて来て、色々な方々と出会いまた別れて行きました。
私の中学生時代はかれこれ60年も前です。

その当時は平均寿命も短く、当時は石炭産業の三井三池炭鉱が存在して
朝鮮動乱の特需景気で戦後の荒廃から脱却して行く時代の様子が見られ
ました。
当時の郷里の大牟田市の炭鉱労務者の平均は52歳で定年退職で、職員
は55歳でした。それから特殊な技術資格などがある方は。嘱託として
60歳まで働くことが出来た時代でした。

当時の食生活はまだまだ豊かとは言えない状況で、我々が豊富に食べら
れる肉は鯨肉でした。盆暮れに牛肉や豚肉などがご馳走で出た記憶があ
り ますが、普通は鶏肉をカシワ屋とか言って、九州の田舎町でも小さな店
が ありました。
自転車の後に籠を載せて、田舎の鶏を飼っている農家から卵を産まなく
なった鶏を廃鳥などと言って、それを肉にしていた様な時代
で、肉鳥などではなかったので硬い肉でした。

そんな時代の食生活では当時やっと普及始めた冷蔵庫が珍しい時で、ま
だ まだ塩辛い塩鮭や佃煮、漬物などは重要な食べ物でした。

私の子供時代は朝は麦飯に味噌汁、それに白菜の漬物などがあれば十分
で、 それに生卵が付いていれば嬉しい朝食でした。

そんな食生活を戦前戦後と続けて来た田舎の人達の平均寿命は今とは比
べ ものにならないほど短いものでした。

60歳を過ぎると、田舎では戦後の食料難の時代を生きて来た年寄り達が
多くの人が65歳あたりには何か障害を持って、脳溢血や狭心症などの症
状で苦しんで、また障害を持って半身不随などの人を見ました。

その当時の医療と言ってもやっとペニシリンが出て来て、普通の治療に使
われ始めた頃です、高価で貴重なものでした。その頃は盲腸手術でも夏な
などは化膿するのが怖くていた時代です。

その当時はまだまだ民間治療と言われる、漢方薬、針灸、新興宗教の様な
怪しげな所で断食とか、癌になっても患部に祈祷の護摩を焚いた火で暖め
た石を置いて、患部の治療とか言っていたのを見たことがあります。

またその様に神にすがり、神を信じて、神から与えられた命を生きるので
あるから、それで人生が終っても何も疑わない、疑問も持たないで、粛々と
亡くなられて行くような人々がいた時代です。

我慢強く、忍耐と自己の精神力の心で患部の痛みも、神社の聖水と言われ
る 水を飲み、口ではお経を唱えて我慢して、最後の最後に医者を呼んで、
モル ヒネの注射などを受けて、ガーゼに浸した水を口にして、家族に見守
られて 旅行く人が多かった昔の時代です。

しかし、現代でも自己過信と妄信の様な信じ込みを持って特定の病院、医
者、 治療薬しか使わず、また、漢方薬と漢方医を信じて手術なども拒否し
て、苦 しみ、痩せ衰え、家族や周りに多大の迷惑を与えて亡くなる方もい
ます。
全てがその人の選択と希望ですから、何も他人がとやかく言うことは出来
ませ んが、それも本人の人生だと言っていた方が居ました。

私もこれまでの人生で3回ほどすい臓癌の方に会いましたが、どの様な症
状で、 顔色、会った時の印象などから、これは以前に見た時と同じだと瞬間
感じて、 もしかして体調不良とか言う原因が、すい臓癌ではないかと感じて、

是非と も直ぐに医者の診察を勧めたのですが、聞き入れて下さらず、それ
から暫くし、 夜中に激痛に襲われ救急車で入院したのですが、その時には
手遅れで医者が 手術をするともっと早く亡くなるという忠告で、手術もしなく、
自宅で3ヶ月 目に亡くなられました。

今でもその方と最後に会った時を思い出します。顔色が悪く、黄疸のような
症状で肌に艶も無く、片方の頬にニキビの大きな様な感じの物がポツーン
と 出来ていました。

その方と別れに交わした言葉は、『忠告有難う、しかし忙しいので頼まれた
会計事務を済ませてからに致します』と言っていた言葉を思い出します。

人はそれぞれに神から与えられた人生の運命の時を刻むと言います。
時代は代われど人の運命は、はかない夢の様だと感じることがあります。