2013年12月29日日曜日

私の還暦過去帳(464)

『兎追ひし彼の山、小鮒釣りし彼の川・・・』


今日は午前中は出かけていました。
今日の日中は今年初めての夏日でした。帰宅してランチを作り食べて
いましたが、ぼんやりと音楽でも聞きながら誰も居ない静かな我が家
でふと・・、昔の事が思い出され、脳裏に浮かぶ50年近く前の情景を
蘇らしていました。

私がパラグワイから出て来て、アルゼンチンもブエノス郊外、160km
辺りのチビリコイの町で 蔬菜栽培を始めた頃でした。そこは地球の裏
側まで来たと感じるのは、パンパの大草原を遠くから夜間に遠望する
と、まるで町の上が雪洞の様にぽっかりと笠を被った様に明るく見え
ていました。
その当時はパンパの大草原には植林された木々も少なく、本当に地
平線に消える大草原が広がっていました。チビリコイの町は田舎と言
っても牧畜と小麦やトウモロコシの栽培だけで、野菜作りはポルトガ
ル人が僅かに栽培しているだけでした。

それと日系人は街中に戦前から営業している洗濯屋の沖縄県人の
人が一家族住んで いるだけでした。蔬菜類は殆どがブエノス中央市
場からトラックでもって来ていま した。
それで値段的にも、鮮度もブエノスの町で買うより高く、鮮度も悪い物
でした。

パラグワイで知り合った知人とチビリコイで現地のイタリア系に土地
を借りて始めた 野菜作りでしたが、鮮度抜群、価格も安く、良質な野
菜は直ぐに良く売れ、近郊の町からも買いにトラックが来るまでにな
りました。
そのチビリコイの町に入植したパラグワイからの転移住者の家族の
中には高齢の両親も連れて来た人も居ましたので、おばあちゃんが
よく子守で孫の世話をして居ましたが、孫を日本から持って来た背負
いで、孫をおんぶして近所を歩いているのが見られました。

今日の様に晴れた日でしたが、風もパンパからの心地良い風で孫は
背中で寝ているようで、散歩からの帰り道の様でしたが、おばあちゃ
んが唄う声が微かに聞こえていました。

私はトマトの畝の間で、手入れで芽かきをしていていましたので私に
は気が付かない様で 歌声だけが聞こえていましたが、時々風に乗っ
て聞こえる唄は、『いかにいます 父母、つつがなきや友達・・』とか言
う途切れ、途切れの歌声で、故郷を思う心が伝わる、日本の田舎を
思い出す唄でした。

私も仕事の手を休めて、聞き入っていましたが、私も小声で口ずさん
でいました。 『小鮒釣りしかの川、夢はいまも巡りて、忘れがたき故
郷・・』と唄い終わると 涙が滲んでいました。

アメリカに来て、すでに38年も経ち、すでに故郷の家も無くなり、帰
る父母の家も無く、カリフォルニアの我が家が故郷と感じる様になり、
思い出す唄も感慨深いものです。

若い頃に忙しさに紛れて故郷の事など考えて見なかった心に何気
なある日、ふと思い出したように心に感じる故郷の郷愁は切なく、叫
びたい様な感情になりますが、加齢の流れに心静かに自分を思い
直して、見詰める余裕も出来たからだと感じます。

50年近くも前ですが、ブラジルのサントス港に移住地から逃げてき
た女性が、日本までの帰りの船賃を稼ぐ為に飲み屋で働いていた
女性が唄っていた、五木の子守唄の民謡に心が、きゅー!とする様
な切実な郷愁を感じた事があります。

すでにその当時の方々は歴史の彼方に消えて行かれたと思います
が、祖国の故郷を思う心は、いつの世も変わらないと感じます。  

『故郷』

高野辰之作詞・岡野貞一作曲/1914年文部省唱歌(六年)

歌詞

1.兎追ひし彼の山
小鮒釣りし彼の川
夢は今も巡りて
忘れ難き故郷

2.如何にいます父母
恙無しや友がき
雨に風につけても
思ひ出づる故郷

3.志を果たして
いつの日にか歸らん
山は靑き故郷
水は淸き故郷

2013年12月28日土曜日

私の還暦過去帳(463)

電話の変遷、

私の家の電話は、掛かって来た電話の相手の名前を音声で言います。
先日も2ヶ月前頃から、何度も電話会社の宣伝の電話が来ていました
が、音声で言うので、勧誘の電話ですから出ないでそのままにしてい
ます。
通称、コールIDとか言いますが、ナンバーも表示されますので、これ
も誰から掛かって来たかと直ぐに分かりますので、これも便利です。

その掛かって来た電話の音声も微妙に違うので、今では携帯電話か
らとか、スカイプ利用で掛かって来たとか音声で教えてくれますが、同
じ携帯電話でも私の子供から掛かってくる電話の音声の変化が今で
は分かりますので、それで便利に使いこなしています。

何んと言っても一番ありがたいのは、私が契約している会社は、どれ
だけ通話してもアメリカ中は一律金額で同じ料金には、昔を考えると
本当に便利になったと感じます。

パソコンで使うデジタル通信のスカイプはこれはビデオ画像を見なが
ら話す事が出来ますので、昔のテレビ電話よりもっと便利で簡単で
格安だと思います。

かれこれ4年ほど前ですが、旅先のペルーのプーノという町で、宿で
カリフォルニア州に居る娘とスカイプで話していましたが、ベッドに寝
ころがって、画像を見ながらそれもスカイプ同士で無料で長々と話し
ていました。

この時、つくずく便利になったナーと感じていました。それと同じ様に、
パラグワイでも、アルゼンチンでも何処でもスカイプで話す事が出来
ましたが、ペルーを旅した時に、マチュピチュ遺跡訪問の時に、アグ
ワカリエンテの町で滞在していた時にはインターネット回線が遅くて
スカイプが出来なかった事があります。

それはチバイ峡谷を訪ねた時にも、そこの町もインターネット回線が
遅く普通のメールは送る事が出来るのですが、画像通信などは無理
でした。それにしても世界が狭くなったと思います。

50年も前ですが、東京からパラグワイの首都に電報を打った所が、
当時のサラリーマン給料の半月分が吹き飛んだ感じでした。当時の
電話はアナグロで雑音とエコーで中々聞き取りにくい、話も途切れ
る電話通信でした。

急用でも手紙などは航空便で20日ばかりも掛かり、奥地の移住地
などは40日も掛かって来る事もありました。

36年ほど前にアマゾン河の河口にあるべレムの町の郊外から、
日本に電話した事がありますが、小さな電話局に行き、掛ける相手
の番号を書いて、保証金を先払いしてから、小さなボックスに座って
待っていると、お話下さいと言う事で、通話開始でしたが、3分程度
で20ドル程度払った覚えがあります。

保証金を払うのは、通話が終ってから、金が無いという人が居るか
らだと聞いて驚いていました。

先日も用事があってパラグワイのイグワス移住地に住んでいる方
に、電子メールを送ったら瞬時でメールが送れて、直ぐに返事が来
ていました。
本当に地球の裏側となりますが、何んと便利な世の中になったかと
感じていました。

現在、私の家はケーブルが来て、テレビ、定額料金電話、高速イン
ターネットなど、全部一本のケーブルで賄われているのですから、
何か凄いと感じる事があります。

また請求書も1枚で来ますが、それもインターネット・バンキングで
瞬時で口座から送っていますが、昔からしたら雲泥の差と感じてい
ます。
今日も天気が良くて春の植え付け準備の外仕事で、裏の畑に居ま
したが、音声で誰から掛かって来たか、スピーカーが教えてくれま
した。
それは近頃良くかかってくる、宣伝のコマーシャルでした。

私も窓を開けていましたので外でもよく聞こえていましたので、
『用事があれば何か言え・・!』とか言って知らんふりでした。

2013年12月26日木曜日

私の還暦過去帳(462)


我が人生で食べたラーメン遍歴の足跡・・、

私も古希を過ぎて、これまでの人生の遍歴の中で出会ったラーメンの
数々や、食べたラーメンの味などを思い出す事があります。

私がかれこれ60年も前ですが、屋台のちゃるめら、通称シナソバ屋が、
ラッパを鳴らして夜に屋台を引いて来ていました。
当時、炭鉱町の福岡県大牟田市でした。その頃は炭鉱も景気が良くて
私の父も三井三池炭鉱に技術者として働いていました。

その頃初めて食べたのが満州帰りの人が引いていた屋台のラーメンで
した。
それからしばらくして、豚骨ラーメンと言う、我々が通称、九州ラーメンと
言う、こってりスープの濃厚豚骨スープに、固めのしこしこ麺のラーメン
で、厚切りのチヤーシュが載っていました。
そして、必ず刻んだ紅生姜が入っていました。

東京に出ると、1960年台の東京は醤油味か塩ラーメンで、我々九州人
にはこれがラーメンかと言うものでしたが、いつも心にはこれがラーメン!
と感じて腹が減っているから食べるのだと、自分に言い聞かせていました。

夏休みなどに大牟田に帰郷して、駅を降りるとそのまま、駅前の行き付
けの九州ラーメン屋に入り、1杯食べてから家に帰るような感じでした。
熊本の親戚宅に行くと、そこでもまず九州ラーメン屋に2軒ほど食べに行
き満足して帰っていました。

そんな時期を経て南米のブエノスに上陸した1964年の春でしたが、上
陸してブエノスの日本人会館内の食堂で食べたラーメンが、南米最初の
ラーメンでした。
おせいじにも美味しいと言えない麺で、これ何だ・・!と言うラーメンでした。

メニユーに一応、ラーメンと書いてありましたので、これがアルゼンチン
式のラーメンだと、これも自分に言い聞かせて食べていました。
そこからしばらくパラグワイに行くとラーメンの、ラの字も無い世界で、そ
れに似た、沖縄うどんと言うものがありましたが、これはまた別世界の食
べ物でした。
とか何とか・・、ラーメンの禁断症状が出るほど、口にも出来ない時代が
あり、何とか我慢していましたが、ブラジル、サンパウロの日本人街、御
茶ノ水と言われる辺りで食べたのが、これは本格的な味噌ラーメンでした。

それは感慨に浸りながら食べていましたが、南米を後にして日本に帰国
する途中の船便で、シンガポール、香港経由の船旅でしたので、途中の
モリーシャス諸島の港では華僑の店で、ラーメンらしき本格的な麺を食
べる事が出来ました。

港に停泊すると、必ず足はその食べられるような店を探していましたが、
当時のシンガポールは屋台の店がぞろぞろと港近くに並んでいた時代
で、満足する麺を食べていました。
香港の裏町にある、小汚い店でも味は一流の味で食べさしてくれ、ダッ
クの切り身などが山ほど乗っかっている麺の鉢に感激したものでした。

祖国に久しぶりに帰国して、実家に帰郷した翌日、ちょっと・・とかお袋
に言って、九州ラーメンを食べに出ていました。

それから幾歳月、アメリカくんだりまで来て、住み着いてもランチには好
きなモヤシ入りの味噌味豚骨スープのラーメンを食べています。

2013年12月23日月曜日

私の還暦過去帳(461)


タバコ吸いの受難、

私の歳になると友人、知人がドンドンと亡くなって行きます。

たまに日本の友人に電話すると、友達のこの名前を知っているか・・、と
聞かれて亡くなったと教えてくれるような時もあります。
大抵は喫煙者で、お酒もかなり飲む友人が多かった様です。

こればかりは個人が好んで嗜んでいるのですから、注意しても無駄な感
じで、タバコをスパスパと一日2箱ばかり吸う友人でしたが、食道ガン手
術をしてやっと取りとめた命ですが、また1年もしないでタバコを吸い始
めて、酒も飲むようになっていました。

人もさまざまですから、自分が好きなことをして、命を燃やして行くのです
から、私もあきらめてしまいました。それと奥さんもあきらめて、先が無い
からと匙を投げていました。

でも人から聞いた事ですが、やはり散々好きな事をして酒にタバコを吸い、
肺ガンで亡くなる時に、奥さんに『迷惑かけてすまない・・』とか言って亡く
なったそうですが、やはり家族の事を心配していたようでした。

人さまざまですが、アメリカの喫煙者は私が住む町では極端に少なく、今
では10%もいないとか言われています。それには理由もあります。
タバコが極端に値段が高いのです。それと公共施設、レストランなども全
て禁煙ですから、違反すれば罰金と何度も悪質な違反だと認定されると、
豚箱行きと成ります。母親が子供の近くで吸うか、子供の居る車の中で
喫煙すれば、これは逮捕されます。

それにしてもタバコを吸う人達の肩身が今では狭くなります。

私が時々行く、東洋食品のスーパーで中国人が沢山働いていますが、
彼等が裏のパーキング場のかなり離れた片隅で、座り込んでタバコを吸
っている姿を見ますが、見ただけで何か哀れに感じます。

それは市条例で建物からかなりの距離を離して吸わないと、直ぐにポリス
に違反チケットを切られ、高い罰金を払わなければなりませんので、用心
しているのだと思います。

私も一度見たのですが、自転車で巡回していたポリスが、若い高校生ぐ
らいの男の子を追い駆けていましたが、自転車ですから簡単に追い詰め
られて、ポケットからタバコを取り上げられていました。

若い子供達には一箱かなりの金額で、それと店では身分証明書がない
とまず買えませんし、それにお店では鍵の掛かる陳列ケースにしか置い
てなく、タバコ自動販売機などは何処にも置いてはありませんので、万引
きなどは皆無で、まずタバコを手に入れる事が大変な事だと思います。

店も未青年にタバコを売ると即、閉店させられますので、しつこいくらい若
い子から身分証明を出させて写真と本人か見比べていました。
それに警察も若い警官を使い、店を巡回して囮となってタバコを身分証
明書無しで買えるか、その確認が甘いかを調べていますので、店も用心
して中々簡単には売ってはくれません。

時には新聞にガソリンスタンドで、アルバイトの店員が友人に身分証明書
無しで販売して、警察に捕まり、店はタバコ販売免許を取り上げられ、ガソ
リン販売も一週間程度閉店させられていました。

それにしてもかなり徹底していますので、広い公園でも公共施設ですか
ら禁煙です、うかつにもタバコを吸っている所を監視員に見つかるか、自
転車で公園を巡回している警官に見つかると哀れにも多額の罰金チケット
を切られているのが見られます。

日本では50歳過ぎの年齢は、いまだに半分程度の人が喫煙していると
言う事ですが、アメリカに観光旅行に来たならば大変に不自由だと感じます。
下手したら喫煙者は哀れな観光客になると思います。

サンフランシスコに来ている日本人の観光客が、日本人のガイドに散々脅
かされて、違反したら多額の罰金と、取締りの警官に少しでも抵抗すれば、
後手錠で豚箱行きになるとか言われていると思います。

ホテルのビルから少し離れた所で寒そうに背中を丸めてタバコを吸ってい
る姿を見ると、何か哀れに感じますが、タバコを吸わない人間にはアメリカ
は天国だと感じます。

それからしたら、インドを訪問した時にタバコを吸う人が極端に少ないので
す。理由を聞いた所が同じ嗜好品でも口の中を真っ赤にして何か、くちゃく
ちゃと噛んでいる人が沢山いました。
どうりで気を付けて見ると、インドではこれがタバコの代わりだと感じました。

2013年12月22日日曜日

私の還暦過去帳(460)

柚子湯、

随分前に15cmばかりの柚子の枝挿し木を5本植えて、その内、3本が
育ちました。

それから幾歳月、やっとその夢の時が来ました。
此処まで来るのにはずい分と時間と歳月が過ぎて行きましたが、やっと
その私が夢見た柚子の大量収穫が出来る様になりました。

その柚子は一世の方から若木の挿し木を頂いたのですが、その苗も昔
にその方が日本から持って来たという事でした。その方もずい分前に亡
くなられました。
皆が苦労して、欲しい日本の苗木をアメリカに持って来たのでした。

私もミヨウガの苗を、戦前日本から持って来たミヨウガをフレスノから貰
って来て、育てていましたが、今年で35年近くなります。
今ではその苗の家族を全米に無償で配りましたので、沢山の親戚が増
えています。私が亡くなった後も、このアメリカ各地で、そのミヨウガが
元気に増えていくと思います。

頂いた柚子苗は場所も考えて、日当たりがよく、排水の良い場所を選ん
で5本植えました。苗はまだ、ひげ根が僅かしか伸びていなかったので、
2本は枯れ死してしまい、3本が生き残りました。

それを丁重に管理して育てて行きましたが、中々骨の折れる管理仕事
でした。今年になり、やっと近所に配る事もできるくらい収穫して、念願
の夢見た柚子湯に入る事が出来ましたが、そこまで来るのには根気が
要りました。

-7度以下に気温が下がると木が枯れ死する危険がありますの、大陸
性気候の寒暖の差が酷いので、冬は用心して育て管理していました。
幸いにカリフォルニアの気候が柑橘類を育てる良い環境だった事も幸
いして、順調に苗は伸びて行きました。

こつこつと育て上げ、肥料を入れて夏の水管理をして、花が沢山咲くよ
うに選枝して秋の終わりには追肥を入れ、大霜の時はカバーを掛けて
守り、虫が付いた時は、丁重にホースの水で葉を洗い流して守りました。

今年の春先に沢山の花が結果して、青い実が大きくなって来た時は嬉
しい感じで育てる事に元気も出ました。

秋に入り去年は余り実ができなかったので、柚子胡椒は僅かしか作れ
ませんでしたが、今年は沢山の実が成り、一瓶も作りました。
今年は少し近所にも配りまして、皆に喜んで頂きました。

沢山ありますので昨夜は冷えて、ワイフが少し腰も痛いという事で、湯
船に熱いお湯を張り 其処に柚子を入れました。
そうしたら家中が柚子の香りで満たされ、そのお湯に全身を浸して、香
りと少し黄色くなった熱い湯に心地よく湯に浸かってワイフは満足して
いました。
ワイフも喜んでくれ、湯上りのほてった身体にパジャマを着て、腰の痛
みもどこかに消えたように、直ぐにワイフはぐっすりと寝てしまいました。

これも永年の私の夢の集大成となったと、心の中で自己満足していま
した。
ささやかなアメリカーン・ドリームが実現したのです。

こんなアメリカに住んでいると、自分が欲しい、また必要な物は、自分
で作るか栽培して要求を満たす他はありません。
それにしても気の長い栽培の努力でした。15cmばかりの弱々しい苗
が、100倍も大きく成長して、見事に沢山の柚子の実をぶら下げた姿
には、感激もひとしおでした。
来年も沢山の柚子が出来るように寒肥えを与えて、選枝をして春に備
えたいと考えています。

今朝起きたら、まだ家中が柚子の香りがしていました。

2013年12月20日金曜日

私の還暦過去帳(459)


私が感じて言いたい事、

パラグアイは1811年に独立し、最初に政権を握ったドクトル・フランシアは
パラグアイ最初の法律を作る上で、1825年、土地の所有権利書の提出を
命じた。そして、それから3ヵ月以内に提出されなかった土地はすべて国
有地になる規定を制定した。

これにより1826年、パラグアイ東部地方の約半分とチャコ地方のすべての
土地が国有地となった。パラグワイの先住民族の14部族近くはチャコ地方
に住んでいますが、そこは夏は灼熱の太陽に焼かれて、気温は50度にも
上がる地域です。
雨量も年間500mmも無い様な降雨量で砂漠状の乾燥した地域ですが、
そこを5万ヘクタールも購入して2006年頃牧場を開く為に、森林潅木を焼
き払い、5000へクタールほども開拓して日系人が牧畜を始めたと言う事
ですが、それだけの大きさの土地でしたら、かなり地域的な環境破壊と、
気候変動にも影響したと思います。

チャコ地方をブッシュ前アメリカ大統領の家族も、ここに石油資源の可能性
を考えて大量の土地を購入したことが記録に残っていますが、あまり知られ
ていない事ですが、先住民族の土地はなんと・・、7千へクタール程度が一
つの先住民族の村で、多くの家族が住んでいるので大して広い土地とは言
えません。
日本人はその隣の村と同じ面積の土地を焼き払ったのです。ビジネスとは
言え、自然環境に配慮は無かったと記録にあります。政治力が無い先住民
族は、対抗する事は非常に小さな力です。

私も知る50年近く前の日本人移住地と言えば原始林の鬱蒼たるジャング
ルでした。それが今ではエンカルナシオンからイグワス移住地までの間にそ
の様なジャングルなど何処にもありません。
10%は保存林として残す様な規則など何処も守られてはいません。営農で
の自然破壊の一環だと思います。
今のように大豆やトウモロコシの値段が国際価格で高値なら致し方ないと
感じる時もありますが、この地球は子供達に残すもの、自然はその子供達
の生活の基礎として残すものと思います。

勿論の事にパラグワイの先住民族の多くの種族にも辺地での生きる権利
があります。パラグワイ東部の様に豊かな雨量の多い、肥えた土地ではあ
りませんので、チャコ地方は、古代は海底だった事もあり、塩分が多く営農
で作物を栽培する事は無理な土地ですから、少しの環境変化、気候変化
で大きなダメージと生活の採取食糧を先住民は失う事になるのです。

アメリカ合衆国も、インデアンの貴重な食料のバッファローは、白人の殖民
者達が来る前は、推定で2千万頭以上が広大な原野に生息していたので
すが、1890年台には数えるほどに激減しています。
それはバッファロー毛皮1頭が1ドルの値段で売れたからでした。骨は肥料
に砕かれすべてが自然破壊尽くされて行きました。

パラグワイでもアメリカの歴史の汚点、アメリカ・インデアンの虐殺、自然破
壊、環境破壊などの歴史を考えて、これからのパラグワイ農業や経済の基
礎を考えて貰いたいと思います。

またパラグワイに住んで居られる方々には、その様な事に対峙したときに
は、自然を守り、環境を破壊しないように考え、また先住民族達が生きる、
生き残れる様に行動して貰いたいと思います。

昔の移住者の中には、『あんな土人達は』、とか卑下していた事は歴史も知
らず、無知で言ったと感じますが、私はアルゼンチンのサルタ州の農場で、
トバ族、マタコ族、二バクレ族(一部リオ・ベルメッホ流域ではチャワンコ族)
などを雇用致しましたが、彼等の知恵と生活力には学ぶ事が沢山ありまし
た。
一部は蒙古斑点を持つアジア系民族です。チャワンコ族にはいつも日本の
友達や日本人女性かと思うくらい似ていたので、今でも印象が深く残ってい
ます。
今でも続く私の裏庭農業は有機栽培で、すべてが輪転再生の土地つくりか
らしています。ナス科作物ですが22年も連作しても、毎年立派なトマトなど
の蔬菜を作っています。

2013年12月18日水曜日

私の還暦過去帳(458)


ヒスパニック系の生活力、

私もアメリカに来て、かなりのヒスパニック系を雇用いたしました。

総括すると、生活力が旺盛でタフです。
メキシコ系、(ユカタン半島から来たマヤ系の原住民系)グアテマラ系、
ニカラグワ系、アルゼンチン系などでしたが、一番使えない人間はア
ルゼンチン人でした。

同じスペイン語を話しても働かない人種だと感じたのは、アルゼンチ
ン軍政の迫害から 逃げて来ていた男でしたが、本国では非合法組合
運動をして政府から睨まれていたと思います。
口だけで何とか理屈を付けて働かない事を画策していたと思います
が、私が48年前に 見たペロニスタの様に労働運動で甘い汁を吸って
いた、やからだと感じていました。

生活保護を受けているようで、現金で給料をくれとか言いましたので、
即日解雇しました。 その様なヒスパニックと対照的な働き者は、ユカ
タン半島から来ていたマヤ族の血を引く小柄なメキシコ人でしたが、
これには感心するぐらい仕事をすると思いました。

よく仕事をしてくれたので、仕事が終わり帰りにビールでも飲みな・・と
言って時々、20ドル札を渡していました。

トウモロコシの植え付け時期になるとメキシコにバスで帰郷していま
したが、何時間 掛かるか分からない長旅ですが、また来るから雇っ
てくれと言っていました。

郷里の田舎では一日働いても4ドルぐらいで、少し良く働いても10ド
ルもならないと 話していました。
ランチの弁当は豆とひき肉が入ったブリートという彼等の定番のラン
チでしたが辛い胡椒のハラピーニョ(青唐辛子)をポケットから出して
それをかじっていたのには 驚きました。

アメリカでは色々な国籍の人種が移民としてカリフォルニア州に来ま
すが、やはり一番はヒスパニック系です。ベトナム系、カンボジア系、
韓国系なども雇用しましたがほんの短い期間でした。

私がスペイン語を話すので、良く電話が掛かってきては仕事がないか
聞いていました。 雑用の手間仕事か、レントハウスの修理やかたず
けでしたが、貴重な働き手でヒスパニック達には助けられました。

長い付き合いは20年近くも時々仕事で来るグアテマラ人もいます。
ペイント塗りが主ですが、レントハウスでテナントが出た後に模様替え
するペイント塗りなどに彼は活躍しています。

仕事が長く無い時は、わざわざ訪ねて来て仕事を欲しがる時は、お客
に電話したり私の仕事を早目に繰り上げて与えていました。

私もアメリカに38年も住んでいると、すっかりこの人種のルツボには
まっています。

2013年12月16日月曜日

私の還暦過去帳(457)

 
 

 
夏時間が終わる、

正確には土曜日の真夜中過ぎに一時間戻す事で夏時間が終わります。
日曜日は朝起きると、外が明るく朝と言う感じでした。

それまでは朝起きても暗く、7時と言う感じが致しませんでした。
月曜日の朝は、なんとなく一時間の時差を感じる日でした。

土曜日の寝る前に、我が家では恒例のタイム・チエンジを致します。
まず柱時計から始めて、私のトラックとワイフの乗用車の時計を修正い
たします。

それからガレージの時計、それが済むと、キッチンの電子レンジを修正
して、私の書斎の
時計と予備の腕時計2個を修正して、一時間戻します。

それが済むと2階に行き、寝室の目覚まし時計、デスクの時計を修正
していました。
応接間の時計は電池も切れているので、電池を買って交換してから修
正する予定です。
電池も3種類も要りますので要注意です。

毎年、時計の電池交換も同時に行いますが、電池を見てメモされてい
る交換日を見て今年は3ヶ所に新しい電池を入れました。

今日は5時になると、つるべ落としの秋の夕暮れ、直ぐに真っ暗になり
ました。 何か急がされる感じの一日で、午後3時には前の4時ですから、
急いで夕方の用意を始めていました。

外に干していた洗濯物も4時には取り入れないと、前のように5時に
は直ぐに暗くなるので乾いた物が冷たくなってしまいます。

アメリカに来て35年間も、毎年の夏時間の切り替えで、すでに慣れて
しまいましたが、夏時間も、お隣メキシコでもありますので、毎年春先
に訪れるメキシコも飛行予約に戸惑うことがあります。

それにしてもアメリカと言えども、ハワイ時間、西部太平洋時間、中西
部時間 、東部時間と時差があり、アリゾナとネバダ州の州境を越える
と一時間の時差が出る事は、フーバーダム見学に行き、そこの真ん中
で一時間違うことを昔ですが知りました。

ハワイにバケーションに行き、カリフォルニア州と3時間も時差がある
と、食欲まで違ってきますので、カリフォルニア時間で食事をしていた
ことがあります。

それにしてもアメリカは時差のある国です。

1.アメリカのタイムゾーンの概要アメリカは国土が広いため、国内で
  時差があります。

本土は以下の4つのタイムゾーン(標準時帯)に分かれており、西海
岸と東海岸では3時間の時差があります。

★東海岸標準時(Eastern Standard Time: EST) →グリニッジ標準
▲5時間(日本との時差:▲14時間)
 主な都市:ニューヨーク、ワシントン、ボストン、 フィラデルフィア、
 アトランタ、デトロイト、マイアミ

★中西部標準時(Central Standard Time: CST) →グリニッジ標準
▲6時間(日本との時差:▲15時間)
 主な都市:シカゴ、ヒューストン、ダラス、ニューオリンズ、ミネアポ
 リス、セントルイス

★山岳部標準時(Mountain Standard Time: MST) →グリニッジ標準
▲7時間(日本との時差:▲16時間)
 主な都市:フェニックス、デンバー、ソルトレークシティ、エルパソ

★太平洋標準時(Pacific Standard Time: PST) →グリニッジ標準
▲8時間(日本との時差:▲17時間)
 主な都市:ロサンゼルス、サンフランシスコ、ラスベガス、シアトル

例えば、日本が2月1日の正午(12:00)のとき、アメリカ東海岸は
その14時間前、つまり、1月31日の午後10時(22:00)ということ
になります。
また、
★アラスカ(アンカレッジなど)はグリニッジ標準
▲9時間(日本との時差▲18時間)


★ハワイ(ホノルルなど)はグリニッジ標準
▲10時間(日本との時差▲19時間) になります。

つまり、アメリカには「東部、中西部、山岳部、太平洋、アラスカ、
ハワイ」の6つのタイムゾーン(標準時帯)があるということです。

それにしても、東部時間に合わせて仕事をしている人は、朝の5時に
家を出て、6時から仕事をしている人も居ます。午後3時には仕事が
終わり、3時には最初のラッシュアワーとなる事も見られます。

2013年12月14日土曜日

私の還暦過去帳(456)


遠い昔の思い出、

アメリカに来て38年も経つと全米各地を歩いたと思います。
そろそろ日本に住んだ年月より海外で生活した時間が長くなりましたが、
世界各地を見て歩いて比較するとアメリカの穀倉地帯の豊かさや、ブラ
ジルの広大な肥沃の土地にも驚きでした。

カリフォルニア州のサリーナス地帯は、戦前の昔の時代より豊かな蔬
菜栽培地帯です。
『怒りの葡萄』の物語にも出てくる東部からはるばると西部に新しい生活
と豊かさを求めて来た農民達の物語ですが、日本人の移民達も豊かさ
を求めて、アメリカーン・ドリームの夢をサリーナス地帯で追ったと感じま
す。
サリーナスの日本人墓地を訪れると先駆者達の夢を感じる墓標が並ん
でいます。
私が歩いた人生も、第2次大戦の前後に挟まれて、戦後の成長期に貧
しさ、物の無い時代の食料難の苦労などを味わい、
今でも『もったいない・・』という精神と、与えられる食物に感謝の心を持
つ事が出来ます。
私の子供時代は学校給食で、粉ミルク、パン、ジャム、チーズ、乾燥フ
ルーツ、ハムなどのアメリカ政府の余剰農産物の恩恵で学校で出され
るランチで食べた様な感じです。

そして70も過ぎたこの歳になると、60年以上前の秋の情景を思い出す
事があります。
その頃はまだ終戦後から余り時間的にも経ては居なかったので、稲刈
りが終わった田んぼの中に落穂拾いの人を見ました。

今では飽食で空腹などと本当に困って空きっ腹を抱えていたと言う経験
は少ないと思います。贅沢した食事を食べる事が出来て、お金させ出せ
ば、何でも口に出来る世の中と思います。

昔の田んぼは農家の集団農薬散布も無く、沢山草むらにはバッタが住
んでいました。友人達と網のネットを持ってバッタ捕りに行くと、かなりの
数のバッタが捕れました。
友人宅に集まり、火鉢に炭火を起こして竹串に刺し、まるで焼き鳥の様
にして砂糖醤油を塗って食べていました。

シャキ、シャキと歯ごたえのある香ばしい味で、上手く行った日は、串を
5本以上も食べる事ができました。子供の頃でしたが印象に深く刻まれ
て覚えています。

その頃は、おやつも蒸かし芋や、冬場はかき餅や干し柿などが嬉しい
おやつでした。たまにおやつに森永のミルクキャラメルなどを貰った時
は、大事に食べていました。
当時は遠足などに行く時しか買って貰えないお菓子でした。

当時の田舎では農家でない人達が稲刈りが終わった田んぼの中で、
落穂拾いをする年配の人の姿が見られましたが、今の世の中では無
縁な姿です。
友人達と近所のおばさん達が背中にリックを背負って、塵取りと小さな
箒を持って落穂拾いに行くのに付いて行ったことがあります。おばさん
達の弁当は、白米のお握りか、弁当箱に銀シャリの入った弁当でした。

ほんの僅かな米粒ですが、夕方までには『今日は2升半拾った・・』と
かいうおばさん達の声を覚えています。当時は殆どが麦が混じってい
るご飯か、サツマイモがあるときは、それが混じっているご飯でしたの
で、銀シャリの弁当は贅沢なお昼の弁当でした。

友人宅の家でおばさん達数名が、大きな竹で編んだ浅い丸い籠で稲
穂の籾を選別していました。
上手に籾を風に吹かせてゴミや小石を取り除いていましたが、子供
心に上手だなー!と感心して見ていた事があります。

それが終わるとお茶やコップ酒が出て、沢庵や白菜の漬物をつまみ
ながら賑やかに話をしていました。湯のみ茶碗に注がれる酒は、当時
はどぶろくと言う自家製の酒で、コタツの中で上手に酵母を発酵させ
て、真ん中にひび割れの青竹に筒を差し込んで、そこに染み出す澄ん
だ酒をついで呑んでいたようでした。

友人が家人が誰もいない時に、内緒で味見をさせてくれたので良く覚
えています。
その時からしたら30年も経て、郷里を訪問した時に周りの田んぼは
全部なくなり、宅地化していました。私が育った郷里の家も売って引越
し、すでに父も亡くなり、そこにはすでに母親も親戚も誰も住んではい
ません。
時代の流れに消えて行き、新興住宅地域化した波に呑まれて行った
と思います。

私もこの歳になり、アメリカに骨を埋める覚悟も出来て、帰化してアメリ
カのパスポートで旅行するようになり、すでにアメリカの10年有効の
パスポートもページが真っ黒になるほど旅行して歩き、数年前に新し
い10年有効の旅券に切り替えもいたしました。

ここで育った娘もアメリカで結婚して、孫も生まれて大きくなり、共に
バケーションで孫と旅が出来る様になり、時代が過去に飛ぶように
消えて行ったと感じます。

その孫を見ていると、私の子供時代の貧しかった日本の時代など無
縁で、豊かなアメリカの溢れんばかりの消費社会で生きていると感じ
ます。

2013年12月12日木曜日

私の還暦過去帳(455)

曇りのち晴れ・・、

人生も天気にたとえると若い時は苦労と、時には苦難と戦わなければな
らない時代は、曇りと感じて、それを耐えて、忍んで人生が開け、希望が
行く手に見えた時が晴れ間が出たと感じます。
この歳になりやっと長い人生を噛締めて、味が出て来た思いです。

私の様な年齢になると、これまでの人生を振り返って考える事があります。

がむしゃらに走り抜けた若い頃の、充実した心の生き方の日々、結婚して
子供も生まれてフト立ち止まって、これで良いのかと思い巡らした時期。

子供も成長して、それまでの生活基盤の大きさと硬さが、今までの積み重
ねだったことを感じた時の内心の自負と微かな驚き・・、どれも生きると言
う行程の中から生み出したと思います。

近頃では娘の孫を生まれた誕生から、三歳の誕生日までの育ち具合を思
うと、それが何か私の人生時計と感じる時もあります。

孫達とメキシコにバケーションで行き、海の見えるテラスで孫を膝に抱いて
のんびりと海を眺ていた時に、孫の命の鼓動が私の胸に、トコトコと響いて
来た新鮮な驚きと、その喜び。

孫が指差す海が、輝く夕日に染まってキラキラと輝くように、うねっている
波間のきらめきの鮮やかさに孫と一身同体となって感動した時間。

その様な思い出と、先日遊びに来た孫の育つのが早い事を実感して、人生
時計の歯車の動きがコトコトと動いている実感がより致します。

先日も遊びに来て良く話す様になり、こちらが日本語で話しかけても、返事
は英語でチヤンと返してくれ、日本語で『そこの玩具は何処に置いたの?』
と聞くと、2階のベッドに置いている

のをわざわざ見せてくれました。これも孫とのふれ合いと、ジジと呼んで懐
いてくれ、誕生祝にプレゼントした自転車で、『ジジ・・、自転車に乗るから、』
と誘って表の道路を私を従えて、スイスイと走る姿を見ていると、長男が始
めて自転車に乗って走った時をダブって思い出していました。

時変われど、時代が代われど、その世代の流行が変われど、流れていく時
の繁華は人生を前向きな方向に向け、努力と忍耐とを持って夢にぶつかっ
て行く勇気が、今を得た事だと感じる事に、ささやかな幸せを心に感じます。

引退して、そろそろ5年となりますが、今の心の豊かさが大きな、かけがい
の無い時間と感じる時があります。若い頃無茶をして、仕事に飛び回り、打
ち込んで、ひた走りに夢を追い求めたのが形を変えて、自分の身に帰って
来たと感じて、あの時、夢中でやりたい事を実行した事が今になって豊かな
人生を得たと感じ、それを支えてくれたワイフの努力と愛情にも感謝の心が
湧いて来ます。

私の20代始めの頃に蚕棚ベットの移民船に乗り、未知の世界のパラグワ
イに移住した。自分の夢掴む為に、アルゼンチンのボリビア国境に行き、そ
こで太古からの原始林伐採の斧の音を聞き、切り倒した木々を火を放ち、
山焼きをして農地に替えて、作物を植え、永年作物の果樹類を植え、

家畜を飼い、生きると言う実践の道を体感して、それを会得した自分を試す
為に、また人生の旅に出て、アメリカのカリフォルニア州にたどり着き、今で
はそこを永の住処と定め、骨を埋める墓をまず作り、心もこの地に定め、
人生の今の生き方の幸せを楽しんでいると今では感じます。

2013年12月10日火曜日

私の還暦過去帳(454)


アメリカで見聞きした歴史的ストーリー

私もアメリカに来て38年にもなります。
その間に色々な方々に出会い、話しを聞き、見て来ました。

私が管理していたコンドの集合住宅に住んでいた人ですが、ご主人が第2次
大戦中に中国でアメリカ義勇軍のフライング・タイガーの操縦士だった方です。
皮の飛行服の背中に、撃墜されたときの用意に救助の明文が書き込まれて
いました。

『この操縦士を救助して中国軍に引き渡したら多額の報奨金を払う』と書き込
んでありました。その飛行服を胸に抱いて、皆、私を置いて遠くに飛んで行っ
たと嘆いていました。
最初のご主人を亡くすと、同僚と再婚したのですがベトナム戦争で撃墜され
て、戦死してしまったと話していました。

あるときアパートの管理で会った方ですが、ロシア革命で満州に逃げ、そこ
から日本に来て戦時中は日本に居たと話していました。戦後日本に駐留し
ていた米兵と結婚してサンフランシスコに来た方でした。ロシア語、日本語、
英語も堪能でしたが、その事がその方の人生の歴史を知ると感じたことが
あります。

ある方の話ですが、93歳の元アメリカ陸軍軍人と会った所が、その方が
日本軍の真珠湾攻撃の時に、3人の部下と海岸の警備をしていたら、海岸
に日本軍の特殊潜航艇が打ち上げられていたのを発見して、中からハッチ
を開けて日本兵が出て来て海岸から山に逃げようとする所を取り押さえた
ら、部下の兵士が取り囲みリンチを加え様としたので、それを制止して連行
して、上官に引き渡したと言うことです。

ハッチの中には戦死した日本兵が一人居たので、海岸近くに埋葬したと話
していたと言うことです。その方は日本人の捕虜第一号を捕らえた方だった
のです。
ハワイの真珠湾基地の波止場に行くと、戦死第一号となった方の記念碑
があります。 今でも多くの日本人観光客が訪れ、冥福を祈る姿を見る事が
出来ますが、私が50周年・真珠湾攻撃記念日の二ユースを見ていた時で
した。
撃墜されて戦死した操縦士の日本人婚約者が、花輪を抱いて訪れていた
姿を見た事があります。その姿を見た瞬間、私もキユーンと心が締め付け
られるような気分になりました。
婚約者はどんな心でその現場を訪れたか、察するに余る心を感じました。

私が住んでいた近くに硫黄島攻略の最激戦地のすり鉢山の麓に第一派
強襲攻撃海兵隊員として、上陸舟艇で砂浜に接岸して海岸に伏せると同
時に、狙撃されて鉄兜がべコリと凹むほどの衝撃で失神して、引き返す舟
艇に引きずり込まれて沖の病院船に収容されたが、仲間の苦戦の連絡

で第2波攻撃に参加して砂浜から100mばかり内陸でブロウニング自動
ライフルの射手として味方の援護射撃をして、弾倉を交換して立ち上が
った瞬間を狙撃されたが、病院船に再度担ぎ込まれ、腹部重症ながら生
き長らえて帰還したと話していました。

私が管理していた集合住宅のコンドに住んでいた方でしたが、フイリッピン
のマニラ市街戦の激しいドアからドアの接近戦の白兵戦で倒した、日本
兵が所持して居た日章旗をさりげなく私に手渡して、家族に返してあげら
れないかと聞いてきました。
私は日章旗に書き込まれた名前と会社の名前を頼りに、日本に新聞社
を通じて送り返し、家族の手元に届けた事があります。

ずいぶん昔です、真珠湾攻撃記念日に役所に友人が申請書類を持って
行くと、片腕が無い人が、今日は何の日か知っているか?と聞かれ、
はて・・・、と考えていたら、日本軍の真珠湾攻撃記念日だと教えてくれ、
その時の攻撃でこの腕を無くしたと言われて、びっくりしたと話していまし
た。
こんなアメリカに住んでいて、全ての話を集めたら1冊の本が出来ると感
じる事があります。
今日はこのくらいで終わります。

2013年12月6日金曜日

私の還暦過去帳(453)


ピンガと聞いて焼酎と解く・・、

南米に行くと普通飲まれる酒はワイン、ビールにピンガやカンニヤという
焼酎系の強い酒です。これにラム酒やコニャック系、ウイスキー類のアル
コール度の高い酒が入ります。

私が農業をしていたアルゼンチンのサルタ州は、サトウキビからの精糖
工場がありましたが、そこの副産物でカンニヤと言う焼酎が良く飲まれて
いました。

私も素焼きの水瓶の冷えた水で割って飲んでいましたが、レモンかライム
を少しばかり絞って、砂糖を加えて飲むとかなり口当たりの良い酒になり
ます。
インジオ達が飲んでいたカチューリンと言う酒は、ケマードとか言って、
本当に燃える酒でした。度数がきつくて、75度はありました。
そんな酒を彼等は水で割ってレモンを絞って、時には砂糖を入れて飲ん
でいた様です。
冬にトマト畑に霜が降りそうになると、暖かい河の水を汲み上げて、畑に
流し込んでいましたが、24時間連続で流すので、夜中に作業するインジ
オ達にはその酒を1本持たせる事が習慣でした。
彼等はちびちびと飲みながら、毛布を背中に背負い、コートの役目で着
ていましたが、彼等には防寒コートなど無くて、一枚の毛布がその代わ
りをしていたようでした。
トコトコと動力水揚げポンプが動いている横で、焚き火がチロチロと燃え
ていて、其処に薬缶に入ったマテ・コシードの茶が沸いていました。

トマトの畝の間に流し込まれる灌漑水が予定量まで達する短い時間に、
熱い茶のコップを両手で抱え込んで、フーフーと舌を焼くような熱さの
マテ・コシードを飲んでいる姿がありました。

夜食にはパンに生ハムを挟んだものが出されていましたが、彼等は茶
に酒を垂らして飲んでいました。私も時々飲んでいましたが、酒は絶対
に入れることはありませんでした。

私には強すぎる酒でしたが、インジオ達は平気で飲んで、コカの葉を噛
み、その酒を飲んで酔いつぶれていました。
町に出て友人宅で泊まり、釣り仲間と集まり飲んで騒いで夜遅くなり、
彼が住んでいた農場の小屋に帰ると、若いインジオの女性が二人でか
なり酔って家の近くで待っていました。

一人は友人の彼女で半分は同棲しているような仲でしたが、もう一人は
最近まで私の農場で夫婦者で働いていた女性でしたが、まだ二十歳に
なるか、ならないほどの年齢でした。

私も彼女を覚えていたのですが、夫と喧嘩別れをして、彼女が町に飛
び出して行き、夫は直ぐに若い彼女を田舎から連れて来ていたようでした。

結婚する年齢が若いのでよく喧嘩別れや、他に恋人を作り、どちらか
が逃げた様な夫婦も多くいました。
友人の彼女がもう一人の女性を私の前に連れて来ると、『彼女はどうし
ても貴方が好きだと言えないのでこうして酔ってここまで来た』と説明し
ていましたが、すると・・・、彼女は酔った勢いで猛然と『そんな事を言う
のはやめて・・!』と言って掴みかかっていました。

私も知っているのですが、私が農場を見回りに出て、彼女が住んでい
た小屋の前を通ると、恥ずかしそうに下を向いて、すれ違いに私をチラ
リと見ていたのを知っていました。

その夜は飲み直しで、友人は彼女と盛大にカンニヤ開けて飲んでいま
したが、したたかに飲んで二人で支え合うようにして、『もう遅いので寝
るから、お前らもたいがいにして寝たらどうか・・』というとバターンと寝
室のドアを閉めてしまいました。

私はカンニヤに水を沢山入れて薄くして、レモンを絞り飲んでいました
ので、深酔いはしていませんでしたが、すでに彼女は酔い潰れた様に
して、私に寄りかかっていました。
シーンとした他に誰もいない農場の裏庭で、薄明るい月夜の光にグラ
スを手にぼんやりと彼女を見ると、すでに寝息を立てて安らかに寝てい
ました。
冷えて来た大陸性の気候で風邪ども引かないように、彼女を抱き上げ
て私が泊まっているベッドに寝かせて、毛布を掛けようとすると、猛然と
彼女が抱きしめて来たので、しばらく背中をやさしく触ると、また寝息が
聞こえていました。

それを確認すると表に駐車していたトラックに、両手にカンニヤの瓶を
持ち戻ると、エンジンを掛けて夜道を走り農場に戻りましたが、徹夜で
水掛をするインジオ達が焚き火の周りで温まっていましたので、彼等が
滅多に飲めない上等のカンニヤの瓶を開けてグラスに注ぐと皆が喜ん
でくれ、焚き火で干し肉をあぶり、それを肴に皆と飲んでいました。

冷えた夜空の星が瞬き、シーンとして静まり返ったジャングルの黒々と
した影が重なり、リオ・べルメッホの対岸でも微かにトマト畑に灯りと煙
が流れているのが見えていました。

水揚げポンプの単調な音だけが響く農場で、少し汗臭いシャツ姿で酔
いつぶれて寝ていた彼女を思い出していました。それからしばらくして、
友人宅に訪ねた時に聞いたのですが、彼女は友人が起きた時は小屋
に書置きを残して、早朝の一番列車で故郷に戻って行った様
でした。

2013年12月1日日曜日

私の還暦過去帳(452)

ハワイ良いとこ、一度はおいで・・、

とか何とかで私達夫婦は毎年の様に来て、ぶらぶらと緩い時間を楽しん
でいます。70歳も過ぎてワイフと手を取り合い、人生の余暇を楽しんで
います。
今年の滞在している島はオアフ島のホノルルで、勿論の事でワイキキ海
岸側です。と言ってもフール・キッチンが付いた安宿ですが、我々にはと
ても便利です。
これもインターネットで探して来て、このホテルの書き込みを読んで決め
ましたが、まずまずのホテルでした。

7月前はシズンもピークではなく、飛行機もホテルもバーゲン的なパッケ
ージを買えますので、インターネットで探すと飛行機往復、ホテル込みで、
8日間程度で2千ドル程度で泊まれるキッチン付きのホテルがあります。

今回私達が泊まったホテルは何でも便利で、ホテルを出るとバス停で、
50m先にはレンタカーの営業所、30m以内には、ABCストア、雑貨店な
どがあり、20m先にはワイキキでは名が売れたタイ・レストランがあります。

うどん屋には10分程度で行け、ドンキホーテ、昔のダイエーは15分程
度歩いて行けます。
帰りはバスで荷物を持って帰りますが、ホテルの真ん前で楽チンで、レ
ンタカーも必要ありません。
朝起きると、ワイフとワイキキ海岸前のマクドナルドの店に行き、コーヒ
ーを買い、道路を横切って海岸のベンチに座り、朝からビキニで泳ぐ姿
などを見ながら、ゆるゆるとした時間を楽しんでいますが、ここしばらく
の間にホームレスが増えた感じです。
ベンチに寝ている姿を良く見ますが、年齢的に若いのが多いので考え
させられます。

この毎朝飲んでいるコーヒーも、スタバと比較するとマクドナルドの店が
40セントばかり同じスモールのカップで安い値段ですが、直ぐにABC
ストアが、このコーヒーを客寄せ目玉で、99セントで販売している事を
知り、同じメディアム・ローストのコナコーヒーですが、やはリ毎朝ですか
ら直ぐにABCストアで買う様になりました。

毎週土曜日に、近くの公園で開かれているファーマーズ・マーケットに
行き、果物や野菜を買ったり、出店のコーンやソーセージなどの食べ物
を少しずつ買い、ランチに食べていました。
その中で一番の長い行列がありましたので、見ると何とー!焼きアワビ
を売っているではありませんか、それでは日本人には堪えられない珍味
と感じて、私も並びました。

ハワイ本島で養殖されているアワビでポン酢醤油、レモンなどで食べま
したが、柔らかくて、美味しくてビールが欲しい感じでした。
ワイフと小振りのアワビを3個ぺロリと食べてしまい・・、まだ食べたい気
分でした。
このファーマーズ・マーケットに沢山の日本人観光客が来て楽しんでい
る姿を見ましたが、その女性達の肌の白い事、綺麗な事には驚いてい
ました。
日頃、アメリカ人の太った姿と、日に焼けて浅黒い姿を見慣れています
ので、なんとなく比較してしまうと感じます。

去年開店した日本式の手打ちうどん屋が出来て、楽しみがまた増えて
いました。
うどん屋は日本で500店以上も展開するチエン店がワイキキで開いて
いる、丸亀うどん店で長い行列でした。これも我々夫婦にはご機嫌の店
になり、ランチ時間になると、『行く・・!』とかどちらか言えば、2分先に
はいそいそと食べに出かけていました。

これも誰かが言いましたが、ハワイ県、ホノルル市と日本人には住み
易い場所で、気候温暖で、日系スーパーも何軒も有り、日本語が通じ
て余り違和感も無く、治安も良いと来たら引退した日本人が老後の住家
として考える事は当たり前と思います。

時には日本人らしい方を見ます、きちんとした服装で子犬を連れて海岸
を散歩する姿を見ますが、ワイキキ近くに住み付いていると感じます。

それにしても38年前のホノルルを知っていますので、何んと、ワイキキ
も変化したかと思います。ワイキキ海岸も古いトイレが無くなり、最新式
のトイレが出来上がっていました。
椰子の木も大きく育ち、その頂点の椰子の葉を切り下していた昔の職人
の様子を思い出します。
私は昔も今も半ズボンとTシャツにサンダルで、ぺたぺたと何処でも出
掛けて行きますが、これはなんとなく日に焼けていますので、ハワイの
日系人と間違えられます。

昔の屋台、出店的な商店は全部消えて、小奇麗な高級店ばかりになり、
ハードポルノの店なども見当たらなくなり、高層ホテルが乱立して昔の少
し、レベル上のホテルが格安ホテルになり、様変わりしてしまいました。

でもいつ来ても、いつでも感じる事は、ハワイ良いとこ、一度はおいで・・!
と言う感じは誰でも持つと思います。