2012年3月31日土曜日

私の還暦過去帳(211)


だいぶ前のことです。もう47年以上も前になります。
私がアルゼンチン北部のサルタ州、エンバルカションの町の郊外で
トマトを主体に蔬菜栽培の支配人をしていた時代でした。
町には雨季の雨が降り出して山道を通行出来ない時を除いて、
殆ど毎日の様に、誰かが町に用事や買い物で出かけていました。

長く町にかよう様になって、そこの町で一番大きなパン屋が、トルコ
から移民の2世と言うことを知りました。歳は中年過ぎと感じました
が気さくに商売をして、繁盛していた様でした。
パン屋の隣は、同じくそのオーナーが所有する呉服屋が有り、そちら
が初めに開店した様でした。トルコ人達が得意とする商売と町では
噂していましたが、若い頃に一度、狩猟に一人で出て、道に迷い

死ぬほどジャングルの恐怖と、飢餓、水を飲めない脱水症状で死の
一歩を歩き出して、奇跡的に救助されたと言う経歴の持ち主でした。
その事はめったに口に出す事は無くて、物静かにいつもパン屋の店頭
に居ましたが、一日遅れの古いパンを、インジオに格安で売ったり、
物乞いのインジオが来ると、型が欠けたパンや、少し焼け焦げたパン
を分け与えているのを何度も見ました。

一度、近所のパンをまとめてパン屋に取りに行ったら、量が多くてま
だ釜から出てこなくて『しばらく待ってくれ・・・』と言うことで、
中庭に案内されて、マテ茶を接待されました。その時に私が狩猟と魚
釣りに誘うと笑いながら『私は神に誓って絶対に行かないと決めて居
るから』と言われました。彼が神に誓ってまでの生涯通しての誓いと

は、極限までの状態に追い込まれて、乾燥期のジャングルで、水も飲
み尽くして、舌が腫れるぐらいの乾きを経験し、自分の尿まで飲み尽
くしても渇きが止まらない、身体中の血液が沸騰する感じのすさまじ
さを経験して、彼がライフルも、山刀も全て捨て去り、身に付けてい
る物は、水筒だけの状態でさ迷い、シャツも木の下枝でボロボロにな
り、破けて切り傷だらけで、滲んだ自分の血液さえ舐めたと話してい
ました。

彼はこれで最後と感じて、意識が朦朧として気力で地面に膝を付いて
両手で身体を支えて、最後の力を振り絞って神に祈ったと言っていま
した。その時に彼が神に誓った言葉の中に『生きて帰れたら生涯通し
て、殺生をしない、神に感謝の心で、この世の中の貧しい人に施しを
する』と誓った様でした。そしてそれを生還して実行していたのでし
た。

彼はパン屋を開いたのも、貧しいインジオ達に一番施しの出来るパン
を考えて作っていました。彼が極限まで追い詰められ、そこで悟り、
神にすがり誓い、実行している真剣な行動は私の心にも感じました。
めったに話さない彼でしたが、彼がなぜ私に話したかは知りません。

彼は最後の気力を振り絞り、神に祈り、誓い、そして意識を失ったと
言っていました。薄れ行く意識の中で神を感じたと言っていましたが、
遠くで犬の吼える声を聞いても、声も出すことが出来ずに倒れていた
そうですが、捜索に来たインジオの犬達が見つけ出してくれ、皮袋の
水をキチガイの様に飲み、ラバに乗せられて連れ戻されたと言ってい
ました。

私は一度、カトリックかモスラムか、何の神様に誓いをしたか聞きた
かったのでしたが、チャンスは有りませんでした。

2012年3月30日金曜日

私の還暦過去帳(210)


かなり昔の話です。
私が学生時代に夏休みで帰郷していた時でした。
友達の田舎の友人宅に遊びに行きましたが、そこの農家ではハウス物
の野菜を栽培していました。キューリなどが主でその他高級メロンな
ども栽培していた様でした。

私は昔から土に対して興味が有り、良く近所でも手伝いなどもして作
物に触れていました。友人宅では収穫した野菜を出荷するので、納屋
では選別してダンボールに箱詰めしていましたので私も友人と手伝っ
ていました。お昼になり昼食の時間で、私がキューリをこれ、

『バリバリと食べたい』と話すと、『これは出荷用の野菜だから!』
と言って、私を案内してくれた家族用の有機栽培の野菜畑でした。
『ここなら、どこに生っているキューリやトマトでも、どれでも良い
から採ってきなさい!』と教えてくれましたので、

なぜかと聞くと、『ここは農薬を一切使用していない・・』と聞くと
私は考えてしまいました。農家の家族が食を控えるのを見ていて当時
の生産出荷体制に疑問がわいてきました。出荷するには少しでも傷や、
虫食い、カビや大きすぎても小さ過ぎても曲がっても商品にならない
と嘆いていました。昔はリヤカーに載せてカゴに山盛りして売りに出

たと言っていましたが、今ではダンボールの出荷しか認めてくれない
から、その箱代も馬鹿にならないと言っていました。
安い時は箱代にもならない時が有ると言って、その箱を再利用して出
荷したと言っていましたが、これは消費者の好みだから仕方がないと
言って嘆いていました。

ハウスでの栽培で、同じ土地の使用で土壌消毒から始まり、殺虫剤や
ホルモン剤なども時には使わなければならないと言っていましたが、
全てが消費者が選択して買うのであれば、仕方が無いとあきらめて
いました。それからハウスの温室を2箇所ばかり指差して『あそこは
殺虫剤を散布したから絶対に中に入らないで・・、』と言われ、唖然
として、見ていました。

色艶や出荷時に見栄えが良くなる様にワックスも掛ける果樹園も有る
そうですから、これからの食生活がどうなることやらと一瞬考えてし
まい、呆然としていました。スーパーなどの食品売り場ではピカピカ
に磨かれた果物、野菜の真っ直ぐで1cmも差が無い大きさ、規格さ
れた野菜でないと陳列されてはいませんでした。

これも全て消費者と言う『王様!』のご希望だと・・!

昔のモヤシは根が付いていました。今ではずんぐりの太った根切りホ
ルモン処理のモヤシです。それが当たり前となり加工食品の氾濫と添加
物で処理された食品が普通となり、全てが消費者の『わがままと好み』
での生産と販売流通網となっています。養鶏場でも養豚場でもホルモン
添加の飼料での肥育となり、短期間でもっとお客の好む肉となって出荷

されている世の中では、もはや自分の命は自分で守らなければならない
とその時点で考える様になりました。家庭を持ってからは子供に安全な
食品と考えて、自分で栽培した有機野菜を裏庭で栽培する様になりまし
たが、今はアメリカの流通食品では生鮮食品の鮮魚や野菜などは、養殖
か野生か書かなければなりませんし、有機野菜では必ず認定された農場
と、出荷ラベルが付いている様になりました。

今までアメリカに来てからも、使用禁止された農薬は『DDTや2・4D、
2・4D5 リンデン、クロデーン、』など私が覚えている薬品だけでもか
なり有ります、以前は安全として使用が許可されていたものです、これ
からも時代が変化して行く過程で、我々自身が気を付けなければならな
いと感じます。もはや有機食品を、自然な調味料で、添加物無しの加工
食品を食べて生き残りをしなくてはならなと切に思います。
貴方は如何ですか?

2012年3月29日木曜日

私の還暦過去帳(209)


  青春の我が旅日記
私が学生時代に旅を始めてから、色々な所に行き、また、色々
な人に会い、語り、教えられ、又時には諭された事が有ります。
昔のことわざに『可愛い子供には旅をさせろ・・』と言われて
いました。それは本当の事と思います。

学生時代には余り金銭的な余裕も無くて、自分で稼いで、やり
くりしての旅です、心も強くなり、忍耐と言う事も自己鍛錬と
して、学んだと思います。18歳と2ヶ月で家を出てから、
かれこれ50年も前ですから経済的にも日本が裕福な時代では
有りませんでしたので、夏休みも田舎ではたいしたアルバイト

もなくて、賃金も安く、東京で稼ぐ方が簡単で沢山稼ぐことも
出来ましたので、頑張って働き、夏休みの半分は仕事をして、
後の半分は旅に出ていました。 冬休みも同じ事でした。暮れの
ぎりぎりまで仕事をして、それから旅に出て自宅に帰宅してい
ました。
九州の福岡に帰省しながら裏日本を回って歩いて居た時でした。
能登半島を回って帰るプランを練って冷たいみぞれの降る寒い
能登半島に行きました。 野宿などはとても出来る様な天候では
なくて、寒いどんよりとした空で、海岸は身がちじむ様な風が
吹いていました。
七尾市まで汽車で行きそこで夜になり、みぞれ交じりの冷たい
雨で、そこから先は当時は宿も余り無くて、そこでその夜は泊
まることにしました。駅から余り離れては居なかった住宅街に
近い所でした。小さな旅館でしたが遅く飛び入りで泊まったの
ですが、親切に夕食も準備してくれて、鍋焼きうどんの熱々の
鍋を作ってくれました。

私は食事が出来るまで風呂に入り、部屋に戻ると女中さんが夕
食の膳を準備している所でした。座布団を進めてくれ、はじめ
のご飯はお茶碗にごってりとついでくれました。
私が食べ始めると、『学生さん、、?』と聞いて来ました。
『そうです、、』と話すと、笑いながら『ほら、、!窓の下に
見えるあそこは近所のお風呂屋さんよ、、!』と教えて

くれまして、『この窓からは特等席で女湯が丸見えなのよ!』
と言うと、先日泊まった若い人は、余りの感激で帰りにわざわざ
この旅館に再度泊まって帰ったほどだと教えてくれました。
彼女が『余り窓から身を乗り出して落ちない様に、、!』と
言ってお茶を入れる用意をすると『ゆっくりと食べてね!』と
言って部屋を出て行きました。私はその話を聞いてからは食事
もそこそこにして、お茶を飲むと窓から覗く事にしました。

下のお風呂屋さんの窓のすりガラスが外の冷たい外気に触れて
水滴となり部分的にそこからは、かなり鮮明に裸体が見えるでは
ありませんか!心臓がドキドキとして来て、外はみぞれの冷たい
雨です、私の身体は食べた鍋焼きうどんの熱気と合わせてかなり
の温度に沸騰していました。カーテンの隙間から見る、少しぼん
やりとした裸体が口にはいえないエロチックな感じがしました。

当時は学生の若い時代で、その印象は今でも私の脳裏に鮮明に残
っています。自然にまったく隠す事が無い裸体の動きは、今まで
の長き間、生きてきましたが、それが初めてで最後の体験でした。
その覗きを教えてくれた女性に今でも感謝しています。

2012年3月27日火曜日

私の還暦過去帳(208)


現在の人間、様々な生き方は年齢とそれから来る、教育の原点に
有ると思います。生きると言う原点の狭間に心揺れ動き、焦点が
定まらず、見えず、苦悩して混迷の心の迷いの中で、無意味な時
を捨てている方を見ます。

しかし、それがまったくの失敗の歴史となったかと思うと、そう
ではなくその無意味な時間的空間が心の悟りとして身体に刻み、
覚えて、未来を見た時に無意味さが現実の生活の中で、自分を探し
出す原点としてのエネルギーと転化して、未来へのより大きな飛躍
の力を作り出した人を知っています。

人それぞれに生き方は違えども、生まれてきて誰れでもが、どんな人
でも、どんな高貴な人でも、貧富の差も、学歴の差も、どこに住ん
でも、この世に生を抱いて生まれてきた全ての人々が、行き着く先は、
生命の終点、寿命の尽きる所の『死』という、人生、時の終わりの
区切りです。そこに行き着くまでが短い人、長い時をもてあそんで、

探せなかった人生に絶望して命を絶つ人、淡々と己の生き方を歩み
満足して、この世に生を受けた幸せをかみ締めて、人生を憂いのない
道行きで終わる人、悩み苦悩して、神経と精神のちぐはぎな溝に引
き込まれ、そこで身体は健全で有っても、社会的には息絶えている人、

それぞれの人生が、生き方が、それらが悟りの無い、心の余裕も無い
人生での生き様で、神仏に頼る人も居ます。

『それが全てを合わせて世の中と言う・・』と聞いたことが有ります。

これからの日本と言う国の中で、百年のこれから先を見た時に、我々が
悟らなければならない事とは何か?命題として定義された感じがします。

仏が『人生は朝に生まれて、夕に白骨となる』短い人生と諭されたが、
この宇宙の22億の時からしたら、人間などは大星座のくず星のかけら
の存在と思います。宇宙の闇に一瞬の瞬きに光って消える人生かも
知れないが、それも楽しからずや・・、なむあみだぶつ!

私の還暦過去帳(207)

今日は私の研究テーマからの、『移住と移民問題』から感じ、疑問と
なった事柄をまとめて、NHK日本放送協会への公開質問状とした件
を掲載いたします。

主題:ドラマ『ハルとナツの届かなかった手紙』への公開質問状。

日本放送協会殿。

今般のNHK80周年の記念する番組に『ハルとナツ』のドラマを企画,
立案され、多くの日本人、日系ブラジル人が住んで居るブラジルを舞台
にしたドラマを制作された事は、有意義で多くの祖国日本に出稼ぎに出
ている日本人、日系ブラジル人達にしても、祖母や祖父の代から、また
両親が苦労して築いた資産や、ブラジル社会での信用を日本国内に広く、
深くドラマを通じて知ってもらえる良きチャンスだったと感じます。

視聴感覚で見るドラマが一番心に響くし、また感動と言う心染みる事に
もなったと確信致しております。この様な事を書く私としても、47年
前に移民船で45日間も掛り、アルゼンチンのラプラタ港まで乗船して、
そこから内陸国のパラグワイに移住した者です。祖国を遠きに離れて住
む事は戦前に移住した人々はもっと過酷な労働と条件で仕事をした事を
知っています。 現在はアメリカのカリフォルニア州に永住して、ここで
骨を埋める覚悟でいます。

今回のドラマが多くの日本人の若い世代から、戦前の古き時代を知る人
まで、移民と言う事、拓殖と言う事、移住者が持つ祖国感と言う事などが
戦前の日本が苦しい困難な時代からの海外に移住して行った人々の心と
言う遍歴の流れと言う時代考証を、目の前に表現したドラマと感じます。

ブラジルで撮影された場面の中で多くの日本人、日系人が撮影に協力して
立派な画面としてドラマが構成され、当時の日本人開拓者の活きざまを多
くの視聴者が涙を流して、感動したと感じます。『ハルとナツ』のドラマ
の構成も戦前と戦時中と戦後の時代が移り変わる様子の中で、成長する子
供達と衰えて老いて行く両親との、ブラジルでの時代的に交差する出来事
を入れて撮影された場面のでき映えも見事でした。

しかしながらブラジルではすでに過去において、ブラジルに移住してまで
の覚悟で画像作家としてブラジル日系社会の撮影を続けていた岡村淳氏の
撮影した『60年目の東京物語』のテレビ・ドキュメンタリー制作のプロ
としての経験からドキュメンタリードラマを制作して、約10年前に発表

されて、すでに日本でのテレビ放送、南米各地での上映会などを通して世
間一般に広く知れ渡って居たと思います、そのストーリーが今回の80周
年記念番組の『ハルとナツ』のドラマと同じく、姉妹が日本とブラジルに
別れて成長して、生活したと言う物語を約10年前にテレビ・ドキュメン
タリーとして放映されていました。 と言う事は

『ハルとナツ』のドラマの根幹となる筋で同じになると感じます。

二人の主人公が運命的な別れと断絶に生きたドラマが、多くの移民した移
住者の苦労を表現する手法として利用されたと言う事ですが、しかし原作
者の感覚とそれを企画、立案してドラマとして制作した中でのプロデュー
サーとしての思い込みがブラジル社会の中では『あれはドラマの一番重要
な粗筋としての筋書きが同じ』と言う言葉が有り、『盗作』と言う言葉で、
顕微鏡で見た決め付けでは有りませんが、多くの方々が『盗作疑惑』と言
う感覚を持った事と思います。

多くのブラジル在住の日本人と日系人が諸手を挙げて今回のドラマ制作に
賛同して、また協力した事は原作者の脚本の中で、撮影場面の中で、どこ
にも歪曲や悪意の無いドラマとして、原作者の才能を見る思いでしたが、
しかし批判と言う他の比較対象物との『ハルとナツ』のドラマと『60年
目の東京物語』を知る人は『疑惑』と言う思いがあると感じます。

しかしながらその『疑惑』と言う言葉を一切に人々の口に出す事無く、比較
と言う対象としての原点を見ることなく出来ることは簡単で、まさにもっと
多くの日本人や日系ブラジル人達が参加して協力した事を示すドラマの巻頭
のタイトルの字幕の中に、その人達の名前と場所と地名に加えて参考資料と

しての『岡村淳氏画像作家ドギュメンタリ―作品から』と書き入れるだけ
で何の疑惑問題や80周年記念のドラマとして、もっと大きな賞賛と賛同が
有り、かつまた橋田女史のこれまでの業績や作品に対しての尊敬と作家と
脚本家としての才能を称える言葉が、もっと多くの移住者から湧き上がった
と思います。

私の様に農業移住者として百姓を志していた人間として、NHKが意図する
制作企画者の考えは理解出来ませんので、何とぞ公に言葉として反論して下
さい。
『ハルとナツ』のドラマから感じた疑問ですがこの件に関して、NHKに
今までの多くの疑問を抱く人達にも分る様にご返答をお待ち致しております。

2012年3月25日日曜日

私の還暦過去帳(206)

だいぶ前のお話です。
私が南米から日本に帰国して、海外青年協力隊でアフリカのモロッコに、
お茶の栽培で派遣される契約をした時に、今のワイフと出会い、全てを
捨てて結婚しました。

理由は簡単でした。『おそらく二度とこんな女性と、めぐり合う事は、
このチャンスを逃がしたら無いだろう・・』という気持ちからでした。
文無しでのスタートでしたので、よく仕事を探して働きました。
あるとき知人の紹介で、『夜の7時から12時までの時間、ホテルの
接待係りを3週間ぐらいしてくれないか?』と言う事でした。

ホテルは渋谷の繁華街のすぐ裏で、かなり場所の良い所に有る綺麗な洋館の
ホテルで3階建てで、小さいながらこじんまりとしたホテルでした。
駐車場も有り、近所では高級ホテルという感じでした。しかし世間一般で
は『ラブ・ホテル』という高級同伴ホテルの感じで呼ばれていました。

生涯で一度でもそんな所で仕事をしたことのある方は少ないと思います。
そこのホテルで長いこと働いていた方が、急用で仕方なくお休みすると言
うことで、私にその仕事を頼んで来た様でした。 かなりの高給にも釣ら
れて行きましたが、そこでは人間の裏の様々な様子を見た感じでした。

私の仕事はホテルの部屋で、アベックの事が済んで、その掃除と準備をし
て次のお客を入れる事でした。かなり週末はアベックが前を抑えて並んで
いる感じで居ましたので、時間的には限られた忙しい仕事で体力的にきつ
い仕事でした。まずシーツを交換して、風呂場を掃除して、使用済みの
ちり紙などをごみに捨て、綺麗なコップとお茶に交換いたします。

それを短時間でやるのですから忙しい仕事でした。 女性ではかなりの重
労働でした。しかし平日は余り混んでいない時は控えの部屋でお茶など
飲みながら、接待係の女性から色々な面白い話も聞きました。
一度、お客が部屋に入り、すぐにお茶を持って、その部屋に行った僅か
3分も掛からない短い時間でしたが、その短い時間にもう事が始まり、

接待係りの女性が部屋にお茶を持って入ると、ベッドでは盛大なお祭りが
始まっていて、あわてて部屋から逃げて来たと言っていました。
私もちらりと見たのですが、どこかの商店のおやじさん風情とその店の
店員と言う感じの若い女性がいつも来ていました。親子の様な歳でしたが、
いそいそと手をつないで部屋に入る姿は今でも思い出します。

週末に来ていた和服姿の中年過ぎの奥様風情で、若い学生らしき男性と
良く来ていました。部屋に入るといつも電話で、追加の避妊具を注文して
いましたが、それには驚いていました。この世に男と女が居る間は、絶対
にこの商売は繁盛すると言っていたオーナーでしたが、死んだ親から貰っ
た全財産をつぎ込んで建てたホテルだそうでした。

ある時、平日だったと思います、接待係りが急いで控えの部屋に来ると、
先ほどの若いお客はどちらの出口から出たか聞くと、慌てて追いかけて
行きました。しばらくすると戻ってきて、『洗濯代を貰ってきた』と話して
くれました。それは鮮血の処女の痕跡がシーツに残って、その後始末が大変
で一度洗剤で手洗いしてから、ランドリーの洗濯屋に送るのだそうでした。

中には女性が部屋を出る時に、自分でお金を包んで『すみません・・・、』
と言って謝って洗濯代として置いていく女性も居ると話していましたが、
シーツをはがして風呂場で洗ってあったと、接待係りが話していました。

一度私が部屋のかたずけに行ったら、ベッドの中に脱いだ、そのままの形で
下着のパンテーを何度か見ました。帰りは下は何もはかないで帰ったと思
いますが、接待係りの女性がいわく、大抵の女性はハンドバックに予備を入
れて居るから心配ないと話していました。3週間ばかりの短い期間でしたが
人生の経験として色々と感じ、また学ぶことも有りました。
全部書いたら小冊子の本となると思いますが、今日はこれで終わりです。

私の還暦過去帳(205)


青春の我が旅日記

北海道を旅していて,50年ほど昔ですから旅と言っても今の様にスムース
に歩けるものではありませんでした。

まだ幹線道路でも簡易舗装程度の道が沢山有りまして、未舗装の道路も珍し
くは有りませんでした。旅をしている時に、かなり大きな台風に遭遇いたし
ました。無銭旅行者にはこれが一番困ります。

雨が降りまして、大風と大雨で汽車が止まりますと死活問題です、それと言
うのも、一度どこかで駅止めとなりますと、近くの旅館などは全てが金のあ
る人に抑えられて、とても貧乏学生などは泊まる事はできませんでした。
代替バスなどに乗りまして行けるところまで走る様にしていました。

稚内から汽車で降りて来て、札幌に行く途中でした。台風で足止めされて、
私は一人旅で、早速に国鉄の代替バスに乗りまして、行ける所まで行こうと
決心して乗っていました。しかしそれも増水した河の水で国道が冠水して
それも交通止めになっていました。

バスは折り返して帰って行きましたが、私は僅かな乗客と小さな国道沿いの
町でぼんやりとして空を見上げていました。雨はその頃は止んでいて国道は
大型トラックだけが冠水した国道を徐行して通行出来るようでしたが、タク
シーなどは車体が低くて水に浸かり、すぐにエンストして止まっていました。

私はしばらく国道でトラックが来るのを待っていましたが、国道の冠水した
箇所を強行突破するトラックは数台しか有りませんでした。
荷物を満載しているトラックは全部引き返すか、その小さな町でストップし
て様子を見ていましたが、そろそろ薄暗くなって来た時間でしたが、早々と

旅館がある町に戻る人や、公民館などに僅かな人が避難して、その夜の泊ま
り先を確保するために歩いて移動していました。私は一人身の気楽さで、
国道にトラックを待っていました。そこに大型トラックが空荷で国道の冠水
した箇所まで来て、ためらっていましたが、助手がトラックから降りると、

ざぶざぶと国道を歩いて100mぐらい行くとしばらく様子を見ていて、
戻ってきました。 冠水した国道は暗くなりまして、視界も悪く、しばらく
運転手と助手が話して居ましたが、私はトラックの運転手に、乗車を頼もう
と側で待っていました。 すると、運転手が私に『札幌までか?』と聞きま

すので、『そうです・・』と言うと、『乗せてやるが冠水箇所は歩いて助手
とトラックの前を誘導してくれたら、乗せてやるから・・』と条件を付けて
来ましたが、私は大歓迎で、すぐに背中のリユックを荷台に乗せて、私の
懐中電灯を持って、助手とトラックの前を歩き始めました。大型トラックは
暗い国道をノロノロと徐行して走行して行きます、

前を人が歩くスピードですから、速度はまさにカタツムリの速度です、深さ
は膝を越して、かなりの深さで、所々にエンコした車が放置されていました
ので、それを避けるようにして、誘導して右、左のぎりぎりの車幅を通リま
して進み、かなり危ない箇所もありました。しかしトラックの助手と懐中電
灯で照らして左右に分かれて、安全を確認して通過しましたので、事なきを
えました。

今でも思い出します、真っ暗な冠水した国道を、ジャブジャブと水音を響か
してかなりの時間を歩いた事は忘れられない事です。無事冠水箇所を通過し
て、冷えた体を抱えて、トラックの助手席に乗ったときは、『ほっと』しま
した。
そこを過ぎると道も良くて、札幌までは真夜中の道をひた走りで、小さな
運送屋の営業所に到着して、『遅いからここで寝ていけ』と言われ、その夜
はそこで泊まり翌日に目が覚めると、賄いのおばさんが、朝食の美味しい
味噌汁とシシャモの焼いた物を出してくれ、おにぎりを二つもランチに持た
せてくれました。
そこの営業所から配達に出る小型トラックに乗せてもらい、札幌市内に入り
ましたが、昨夜乗ったトラックの運転手さんが口を利いてくれ、

『おかげで遅くなったが札幌に無事に帰れたからと・・、』親切に世話を
頼んでくれた様でした。
ありがたいと、今でも思い出すことがあります。

2012年3月24日土曜日

私の還暦過去帳(204)

花嫁移住の歴史はもう既に百年の歴史が在ります。 長い歴史的
な中には、色々な物語を秘めていますが、今日は、先日に聞いた
お話をしたいと思います。わたしの近所のハワイ出身で、奥さん
が2世、ご主人が3世のご夫婦ですが共に75歳を過ぎています。

ご主人のおばあちゃんは104歳でハワイで亡くなるまで、生涯
で二度結婚して、最初のご主人とは、11人の子供を作り、最初
のご主人を若くして亡くすと、再婚して6人の子供を産んだと言
うことでした。

写真結婚で若くしてハワイに移民して来て、生涯で17人の子供
を産み104歳で亡くなるまで、ハワイ州知事の老人ホームへの
訪問もあったと言う長寿でした。亡くなるまで、ボケもせずに記
憶は確かで、好きなコカコラーを飲むのが楽しみだったと聞きま
した。
孫が施設を訪問しても、その孫を覚えていたという事で、世話を
していた娘が驚いていたと言うことでした。

長いハワイ日系人の歴史の中でも、ずば抜けて大きなファミリー
の家系を持っていると話していましたが、百年の長き歴史が今で
は5世を数える家系の広がりで、全米に今では住んでいると話し
ていました。
百年もの昔、花嫁移民でハワイに来た女性の気丈さと忍耐力、生
活力の偉大さを感じます、子沢山でも昔は洗濯などは全部手洗い
の、オムツなども使い捨てなどは全く無い時代に、砂糖キビ農場
で働いていた夫婦を思うと、現在の電化、機械化された台所など
全く無かった時代を生き抜いてきた女性の、素晴らしき人生のこ
れまでの生き様を感じます。

私が47年前に会った女性も、アルゼンチンへの花嫁移住の方で
した。ご主人は戦前の昔に貨物船のコックをしてい時代に、ブラ
ジルのサントス港で、刺身包丁一本を腰に差して、オンサの出没
するサントス街道を歩いてサンパウロまで行ったと聞きました。

アルゼンチンで落ち着て事業を始めて当時の日本人が多く就労し
ていたカフェー屋を、ポサダの町で成功して奥さんを日本から呼
び寄せて家庭を築いたそうですが、戦争中の日本人の活動制限や
カフェー屋を火事でなくして、1964年頃は息子の家の離れで
生活していましたが、奥さんは75歳近くでご主人を亡くすと、

日本に居る妹達が帰国を進めてくれ、長く住み慣れたアルゼンチ
ンのポサダの町を離れる時に、近所の世話になった洗濯屋の奥さ
んに、ご主人が結婚式で呉れた結婚指輪を形見として残して行っ
たと見せて貰った覚えが有ります。

擦り切れて細くなった金のリングは、その結婚の長き歴史を物語
っている感じで、ポサダで骨を埋めたご主人が、『お前は日本で
老後を過ごせ』と言っていたそうですが、全ての過去の物語をそ
の結婚指輪が物語っている感じで、手にとって見せて貰うと何か
『グッー!』と心感じるものが、こみ上げてきた覚えが有ります。

そして日本に帰国する日の別れに『私は夫が亡くなるまで、妻と
して尽くしたから思い残す事は無い、良い時もあり、悲しい事も
有り、嬉しかった事も有る。全ての思い出はこの結婚指輪に込め
られているから、私のあと僅かな人生を全く新しい門出として、
ここを出て行くから、これを貰ってくれ』と形見として置いて行
ったと言う事です。
それぞれの人生が、それぞれの物語を秘めていると思います。

2012年3月23日金曜日

私の還暦過去帳(203)

私が夏になると思い出すことは、子供の頃にサトウキビを作りそれ
を切って来て、終戦後の甘味食品の不足から、甘いサトウキビの茎
をガリガリと、かじるのは楽しい遊びでした。

舌先がザラザラになるまでかじっていました。甘い汁が口の中で
溢れる様になります、友達と郷里福岡の田舎町で楽しんだ思い出です。
46年前に南米のアルゼンチン北部サルタ州の近くでは大きなサトウ
キビ栽培をしている場所が有りました。

製糖工場も有りまして、戦前のかなり古くから大規模に生産している
様でした。その場所はフフイと呼ばれていましたが、国道の両側に
見渡す限りのサトウキビ畑が広がって、灌漑用水路も整然と作られて、
設備が完備している事が分かりました。

サルタ州の農場で生産したトマトをブエノス・アイレスまで輸送して
いた時でした。フフイに近ずくと、天を覆う様な黒煙が見えます、そ
れも30kmも離れた所からも見えますので、その規模が大きな事が
感じられます。話には聞いていましたが、収穫前にサトウキビの葉を
焼いて茎だけにするのに焼くのです。

その後は人力の請負でサトウキビを切り出して、工場に出荷します、
かなりの人手を使用するので隣国のボリビアから出稼ぎ労働者が沢山
来て働いていました。丁度お昼時のランチ時間で国道の道端に沢山の
労働者が並んで家族と食事を始めていました、側には簡単な屋台も出
ていました。

トラックを運転して来て、スピードを落として屋台の食べ物を見ると
カツを揚げて、それをパンに挟んだサンドイッチを見つけて、食べた
くなりトラックを停止して注文しました。側では沢山のボリビア人達
が並んで、中には家族連れも沢山居ました。おなべを囲んで何か椀に

注いでいましたが、注文のサンドイッチが出来るまで近所を見ていま
した。皆はかなり煤に汚れて黒くなっています、食事を終わり、自分
の仕事に使う山刀を磨いでいる労務者もいました。
近くの畑では監督が馬に乗り、灌漑用水の流れを監視していました。

きちんと皮の帽子をかぶり、貫禄のある風格が感じられ、労務者達
が丁重な挨拶をしているのを、馬のムチを軽くあげて挨拶を返して
居るのを見て、昔からのしきたりを感じました。

サンドイッチが出来上がり、そのソースの美味しい香りを今でも思い
出します、運転を交代してもらい、トラックを発進して助手席で食べ
ながら周りを見ていました。

無蓋の大型トレラーに詰め込まれた様な感じで、労務者が煤に汚れて
乗っていました。どこか他の畑に移動すると思います、僅かな手荷物
と手にはサトウキビを切り出す山刀を持って乗っていました。
畑では灌漑用水を流す労務者がスコップで水を導いて流して居て、手
を揚げて挨拶しています、労務者を乗せたトレラーが動き出すと、

歌声が湧き上がり、何か唄い出しました。その歌声を聞きながら、動
き出したトラックから彼等に手を揚げて別れを返しました。
ジーゼルエンジンの音に歌声も直ぐにかき消され、果てしない緑のサ
トウキビ畑の波に見えなくなりました。

2012年3月22日木曜日

私の還暦過去帳(202)

青春の我が旅日記

北海道の旅をしていて、50年も前は自然が沢山残っていました。
今ではどこでも自動車道路が有りまして、歩いて行く事も有りません
ので時間的にまた、費用も旅の便利さがプラスしてかなり節約出来る
と思います。

北海道の最北端の礼文島を訪ねた時でした。私が訪ねた時は霧も無く
て、快晴に恵まれて景色も良くて、島を縦断する道路を昔の小型の
ボンネット型バスに乗りまして島内を歩きました。それから、

礼文島の最北端、須古頓(スコトン)岬まで行き、その岬から、前方
に見えていた、海馬(トド)島と呼ばれる無人島まで行きました。
そこが事実上の日本最北端と言われた所でした。

小型の丸木船と感じるウニ採取の小船でしたが波に翻弄されてトド島
まで行くのは少しドキドキの感じでした。
香深からバスで船泊りに来て、スコトン岬に行き、トド島まで渡り、
その夜は、船泊りの小学校の用務員部屋に泊まらせて貰いました。

当時は人口も少なく、侘しい漁村でしたが、現在の様に民宿も無くて
一晩泊まる所を提供してくれた校長先生に感謝していました。翌日に
船泊りの港に行くと、稚内行きの連絡船が無くて貨物船に交渉して乗船
さして貰いました。その時が船をハイクした初めての船旅でした。

最初は船長が用心して『学生らしき者は危なくて乗せられない』と話
していました。それは当時ロシアに逃亡する人物が居たからでした。
私もあきらめて桟橋から小型貨物船が動き出すのを見ていましたが、船
長は動きだした船から『学生証を持っているか・・』と聞きましたので、

すばやく見せると、『よか・・飛び乗りなー!』と言ってくれましたの
で、背中のリユックを船に投げ込み、飛び乗りました。おかげでどれだけ
の時間と、お金が節約出来たか、それに船員の食事も食べさしてくれまし
たが、どんぶり飯と味噌汁に沢庵でしたが、私には充分な食べ物でした。

稚内港に到着して、船長が色々と町の歩き方の案内をしてくれ助かりま
した。其の夜は昔の戦前、樺太行き波止場の待合所の廃墟に寝ていました。
驚くなかれ、真夜中に顔の周りでネズミらしきものが動いているのを感じ

て、昔の本で読んだ事を直ぐに思い出しました。『食べ物の匂いがする口
を噛まれる事があるから注意するように』と読んだ覚えが有ります。
びっくりして飛び起きて朝まで寝ることは出来ませんでした。

其の朝早くに船長の声で、『オーイ!学生どこに寝ている・・』と探しに
来てくれ返事をすると『朝食が出来たから食べに来い・・』と誘ってくれ
ました。有り難い事で今でもその湯気が立つていた、朝食の味噌汁の味を
思い出します。
色々な所を歩いて、沢山の親切に触れて旅の情けを学びました。
次回に続く、

2012年3月20日火曜日

私の還暦過去帳(201)

だいぶ前になります、確か25年ほど前になるかと思いますが、私が
集合住宅の管理を請け負っていた時でした。
当時はかなり高齢者が引退して住んでいましたので、暇な人が沢山住
んでいて、仲良しになりました。しかし中にはかなり酒好きな人も居て、
昼間からアルコール臭い息で話しかけて来ていました。

あるとき、私が折れた散水装置のパイプを修理していたら、驚くなかれ、
前に酒臭い息で話しかけてきた老婦人が、買物に行くのか家の前の車庫
に出てきました。かなりの千鳥足で、まるでフラフラと身体が揺れてい
るでは有りませんか。一瞬、ぎょー!と感じました
が、まさかあんなに酔っては、運転は無理と思って見ていました。

ハンドバックを片手にユラユラと身体が動き、足がもつれて片側の板塀
につかまって歩いていますので、私も目を見開いて見ていました。
車の鍵をハンドバックから出して、車のドアを開けようとしていますが、
それは見ていても可笑しい様な動作でした。鍵束が大きくてかなりの鍵
がぶら下がっていますので、それを探すのが大変な様でした。

あきらめもせず、かなり時間を掛けて開け様として、手が滑って鍵を
地面に落としてしまい、今度は、その落とした鍵を拾うのが大変な感じ
で腰をかがめて、探している様子が感じられました。その頃には私の
心臓が『ドキドキ・・』と高鳴り、まさか運転はすることは無いと思っ
ていたのが、だんだんと心配になり、ハラハラして見ていました。

散水の配管修理など心配で手も付かず見ていましたが、まさかー、が
本当になる可能性があります。あれでは間違いなく事故に一直線で
『バシャーン!』と行くことは間違い有りません、鍵がタイヤの陰に入り
探している当人には見えませんので、老婦人が私に気が付いて、ちょいー
、とお呼びで、鍵を探してくれと頼んで来ました。

私は一策を考えて、大げさな身振りで車の下を探して、わざと鍵を側の
植木の下に上手く見えない様にして押し込んで仕舞いました。
これで安心と、老婦人には『見付からない・・』と言って自分の仕事に戻
りましたが、ブツブツと言って家に戻って行きましたので、ホッとして胸
をなでおろしていました。

しかし、2分もしないうちに今度は合鍵か、スペアの鍵を持って来たでは
ありませんか!、私は今度は飛び上がるぐらい驚きました。見ると首にヒモ
で掛けて有ります、絶対に落とすことは有りません、それにギョ!とする
くらい、倒れるかと思うぐらい、振り子の様に揺れているでは有りませんか、
まさに千鳥足どころでは有りません。さっきの『心臓ドキドキ』などより

もっと酷い、今度は心臓が『ぎゅー!』と危険信号の様な感じで鳴り出して
います。老婦人は、今度は上手く車のドアを開けて、アッと言う間にエンジ
ンを掛けて『グワー!』とアメ車のV8エンジンの大型車を運転しようと
しているでは有りませんか、まさにピンチー!と感じた時、ふと思いついた
事は老婦人がハンドバックを持っていなかったので、その車の窓に飛び付いて、

『ハンドバックがなければ買物も出来ないよー!』と怒鳴りました。
そしたらなんと・・・、

『そうだね・・・!』とエンジンを切ったのです、私はまさにピンチを切
り抜けた感じで、ホッとしていましたが、車から降りて、またヨタヨタと家
に戻って行きましたが、まだ安心は出来ません、ハンドバックを持って戻っ
てくるかも・・・と考てハラハラしていました時に、『ドシャーン!』と
派手な音が響きまして、人が倒れる音がしました。慌てて見に行くと、

玄関の前の植木鉢をなぎ倒して老婦人がぶっ倒れているでは有りませんか!
怪我は無いようですが、したたかどこかをぶっつけた様で、ぎー!と声を出し
て助けを求めていました。駆けつけた隣の住人の手を借りて、部屋に担ぎ
込みました。それにしても話しによると80歳近い年齢で、よくもマァー!
と感心するぐらいのおばさんでしたが、アメリカでは車が無いと本当に困
りますからね!しかし酔っ払い運転ではこれはいけません。

私の還暦過去帳(200)

 青春の我が旅日記

北海道を歩いていて、当時の旅行はまだ汽車が主流でした。
国鉄バスも残っており、列車が無い場所をつないでいました。

確か、早稲田大学の探検部のグループが日本で初めて知床半島を縦走
した年です。横断する道は昔から有った、羅臼とウトロを結んだ斥候
道路というものが昔に建設されていた様です。

それは軍隊兵士の連絡様に作られていた様で、冬の積雪が深い時は通
行は出来なかった様です。現在はそこに自動車道路が建設されている
と聞きましたが、知床横断道路と言われています。

知床半島の突端の鷲岩が知床の一番先と言われていましたが、当時は
まだ灯台を建設中でした。標津から羅臼に出て、そこから番屋廻りの
船に乗りまして、突端まで行きました。

突端近くの鮭の定置網の番屋だったと思います、そこで船が泊まり
手漕ぎの小舟で岸に上がり、そこから歩いて突端まで海岸を行きまし
た。その時にどこかの大学の探検部の方が二名ほど下船されて一緒に
歩いて行きました。突端の灯台工事の飯場が目標でしたが、それ以外

は何もない荒地の海岸台地が寒風に吹かれているだけで、辺境という
侘しさが感じられました。その飯場に泊まらせてもらい、付近を歩き
ましたが、そこの工事現場の人が『海岸台地の草むらに、ヒグマのま
だ新しい糞があったから、それ以上は行くな』と脅かされて、とても

行く気にはなれませんでした。  しかし海岸での釣りは入れ食い
の感じで、直ぐに夕食の魚が取れました。海底が見える澄んだ水です、
多くの魚が泳いでいるのが見えました。まだ荒されていない自然の宝
庫と感じました。ウニも浅瀬では直ぐに沢山取れて食べましたが、私
はどうしても好きには成れませんでした。
そして食べたその夜に大変でした。

私が行った時期は8月でしたので、沢山の草花が咲き乱れていたのに
は驚きました。今でもカラーのスライド写真として記念に保存してい
ます。知床岬は風の音と、波の音とに挟まれた当時は自然の世界でし
た。
その岬灯台工事現場の飯場で、ご馳走になった味噌汁は、今でも思い
出します。ぶつ切りの魚を入れて玉ねぎの青い芽を刻んで入れた味噌
汁でしたが、それに福神漬けがドンブリに山盛りにあるだけで、野菜
はキャベツを刻んであり、刻んだ、まな板のままで側に置いてありま
した。
それを小皿に取り、醤油かマヨネーズをかけて食べていましたが、
質素な飯場飯でした。今度はウトロから迎えに来た番屋廻りの船に乗
せてもらいウトロまで行きましたが、ウトロまでの間で、海に直接落
下する滝しぶきには驚きと、その自然の素晴らしさを見せつけられた
思いがします。
先ほどに知床半島が05年7月にユネスコ世界遺産に登録されたと聞
きまして、なるほどと思ったしだいです。50年近く前はもっと自然
が素晴らしかったと信じています。貴方も一度訪れて見て下さい。
次回に続く、

2012年3月19日月曜日

私の還暦過去帳(199)


河野太郎法務副大臣に苦言啓上。
(これは前に河野太郎氏が法務副大臣時代に彼に送ったものです。)

今般では、時勢の変わりの早き事なりで、河野法務副大臣殿のお言葉
が各新聞、マスコミでの報道で日本国に広く伝わりまして貴殿の発言
が各部問題の深部からの取り上げられた問題ではなくて、表面に出て
いるありきたりの問題が、一般世論に融合するごとき態での、世論喚

起的提言の有様は貴殿の経歴を知る者として苦言を啓上致したく一筆
認めております。先ず貴殿の経歴から精察すると、戦後の繁栄期の申
し子で、移民、移住などは一度も肌で感じたことも無くて、貴殿が

アメリカで勉学された比較政治学は政治形態における社会学の相互比
較と検証の学問では、移住行政で、過去の移住事業団での警察官僚の
天下り人が、場違い的な場所で、場違い的な推察と検索とでの比較対
象した理論観と同じ判断では無いかと疑るのであります。

貴殿が養育受けた慶応ボーイ的な幼年教育からして、生活にその
日の糧を得る為に、地を這うようにして生きて来た人種の生き様を
計る天秤を、お持ちでは無いと確信いたします。

ブラジルで二世になり、また三世になりながら貧乏と貧困と言う環境
から抜け出せない日系人が多くいる事もご存知無い様で、これ遺憾
と言わざる事に成ります。貴方の発言は、多くの国民の信託を受けて
公になる言葉です。もしかすると百年もの後に残る言葉かも知れません。

もはや貴殿のお言葉は、国家としての 国家が考えること、外国人入国
管理の改革を検討している法務省のプロジェクト・チームの河野太郎副
大臣の発言となります、1923年10月にブラジルでレイス国会議員
が下院に提出した移民法案とまさに同じ排他的、差別的と証された法案
の数価とまさに同じ『3%』です。

同法案は、黒人の入国は全面禁止、アジア系黄色人種は当時1923年
での数価の3%に制限するというものであり、河野太郎副大臣の率いる
委員会の試案は総人口に対する定住外国人の上限を、3%にするという
ものであるが、これはまさに国家が考える、また政府が試案するという
数価が、3%と同じ事は、まさに、この案件をご利用になったかと疑り
たくなります。

この様な、排他的、差別的な法案をご利用になれば、言う事はまさに驚
きの限りです。そして軽軽しく『日系人の受け入れは失敗だった』など
と言及したのは、公人としての資質もこれ疑わしい限りといわざるを得
ません。
なすべき事も果さず、なすべき問題も研究する事無く、対応も無くて、
この事はすでに20年と言う月日の積み重ねの上に有る事などです。
20年前といえば貴殿は親のスネをかじって優雅に勉学に励んでおられ
た時代です。
その頃から日系人は日本人がやりたがらない3Kという仕事をして、
『棄民の出稼ぎ』と陰口を言われながら日本国、日本の社会を底辺で支
えていた事を忘れないで下さい。

ブラジルのレイス国会議員の提案は、欧州系の移民についてはおかまい
なしだったから、背景にあるのは公然とした『人種差別』と感じられ
るが貴殿の言葉の端から、三世などの家族としての非日系人の混同が、
日本国内の治安を悪化させる者としての、排斥理由と感じられます。

それにより『日本語を話し、定職を持つ者で且つ又、ブラジルなどで
無犯罪の経歴を持つ者』と試案が成ったと勘ぐられていますが、あなが
ち外れとは思えない感じが致します。

貴殿のお言葉はすでに公人としての発言となり、いかに試案と言えども
すでに日本国内だけで、ブラジルからの出稼ぎ労務者は27万人近くと
なり、簡単に言葉での提案としては、無作法と思います。なぜかと言え

ば貴殿の言葉を聞く大多数の日本人は『その話しを真に受けて』貴殿が
世論を不当に形成して、信じさせる役割を果したと感じられるからで
す。いかに大臣と言えども『言は選んで、謹んで発言しなくては成り
ません』それが公人としての責務ですから!

以下は河野太郎法務副大臣のインターネット検索からの経歴です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E5%A4%AA%E9%83%8E




2012年3月17日土曜日

私の還暦過去帳(198)

 
 『青春の我が旅日記』
私の旅は殆どが一人旅でした。

気ままに歩く事が出来まして、旅のクソ度胸も持っていました。
高校生時代には土曜日になると、いっも小岱山という裏山に登りその
山頂で炊飯してキャンプして泊まっていました。翌日に玉名市まで歩
いて降りてそこから、汽車で大牟田市の駅まで帰って来ていました。

冬の寒い時にキャンプして泊まった時に、霜柱が10cmも立ってい
たのには驚きましたが、テントが霜でバリバリになっていたのには、
もっと驚きました。寒くて寝られなかったから、かなり冷えていたと
思います。
そん事で、北海道を旅している時はテントを張る事もしなくて、地面
に防水シートを置き、その上に寝袋を広げてポンチョウの雨カッパを
被せて寝ていました。しかし北海道では朝起きると、まるで濡れた様
にびっしょりと水滴がポンチョウに付いていました。そんな事を数日
すると寝袋が湿って、冷たくて重くなります、たいした事は有りませ
んが日中晴れた日に広げて干していました。

時々、列車から見える看板で、『次ぎの駅にキャンプ場有り、駅から
三分!』などと看板があれば、直ぐにその駅で飛び降りていました。
管理人がいるキャンプ場はトイレも完備して、いくらかキャンプ場の
入場料を払うと、シャワーも浴びる事が出来ましたし、炊事場のガス
コンロも使用出来ました。
そこで飯盒でご飯を炊いて、缶詰を開けて、ビン詰めの海苔の佃煮
などで夕食としていました。バンガローの片隅で寝袋を広げて寝てい

ましたが、夕方遅くなり近所でマトンのジンギスカン鍋を開いて、美
味しいバーベキユーを始めたグループが居ました。車で来た近くの町
の若者達と感じました。賑やかに盛り上がり、ビールなど箱で持っ
て来て居た様で、マトンの肉はバケツに入れて持って来てあり、私も
うらやましく見ていました。

金の無い学生の無銭旅行に等しい旅行ですから、肉などは滅多に旅の
期間は口には出来ませんでした。かなり遅くなり、かたずけていた様
でしたが、中の一人が『残り物ですがマトンの肉は好きですか?』と
声を掛けてくれました。有り難い事で、喜んで受けました。

焼けた肉が皿に山盛りにネギや、玉ねぎの焼けた物と並んでいました。
そろそろ帰り支度をしていた様で、余った肉を持て余していた様でし
た。彼等は近所の製材会社の従業員達で、このキャンプ場に良く来る
と話していました。バーベキユーの設備が有り、騒いでも心配無いから
と話していました。ギターなど弾いて、当時の流行歌などを大声で歌っ
ていました。
彼等が帰るまでの短い時間でしたが、話しを交わす事が出来ました。
マトンの美味しく焼けた肉を食べながら、紙コップに注いでくれた焼酎
を飲み、九州出身の私と話す会話が相手も興味があるらしく、楽しい
一時でした。しばらくぶりに肉をたらふく食べて、酒も飲みまして、
その夜は満足してぐっすりと屋根のある、小さなバンガローで寝ま
した。 北海道を旅していて、肉をたらふく食べたのはそれが初めて
で最後でした。また旅をして歩いていて、今でも覚えている食べ物は、

函館で市場を歩いていたら、屋台のような所で、生きたイカを売って
いました。買うと直ぐに『イカそうめん』としてくれ、どんぶりに入
れてワサビをドン!と載せて、ご飯と味噌汁が出て来ました。その味
は今でも思い出します。色々な所で、色々な食べ物を口にしましたが、
その味は今でも一番の思い出として心に残っています。

礼文島のその先のトド島まで行った時に、どこかの民家で昼にご馳走
になったお魚のから揚げが、1匹丸ごとで、カリカリに揚げてあった
その味は格別でした。それは昼のランチの時間となっても、小さな町
では食堂も見つからず、訪ねた民家のおばさんが、これでも食べなさ
いと頂いた物が魚のから揚げでした。香ばしくて昨夜の残りの飯盒の
ご飯と食べた思いが有ります。
次回に続く、

私の還暦過去帳(197)

昔の事を段々と忘れる事が多くなりました。
やはり年齢にはかないませんが、完全に忘れない内に書き残そうと考
えています。47年も前になる南米時代の思い出は、今になり時々、
フトー!思い出して懐かしく感じたり、あの時に『あの様に対応して
いれば・・・』と思い出して考え込む事も有ります。

時代の変化は人々の変化でも有ります。時にはその時代での教育が、
人の心までを変えてしまう感じを受ける事があります。
それは一瞬も止まる事の無い時の流れが、全てを過去に押し流して、
もはや私が書き残そうとしている話しが、まったくこの現代では
無意味な話しとなっているかもしれませんが、単にその様な話しが
有ったと言うことで、読み流して下さい。

私がアルゼンチン奥地のボリビア国境の農場で仕事をしていた時代
です。かなりその当時のサルタ州などでは、『コカの葉』をタバコの
様に噛んでいる人がまだ沢山見られました。現地人や、インジオ達が
多かった様です。農場では毎朝、必ず売店を開きます。

その時に彼等使用人のインジオ達は、一日の噛むコカの葉を買って行
きますが、タバコと平行して使用するインジオ達も居ました。
コカの葉を噛む人間の大半は唾液が出ないとコカを噛めませんので、
重曹の粉を持っていました。僅かな重曹を口に入れると、そのコカの
味覚と唾液が戻ると教えてくれました。

コカの葉を売る事は農場でも大事な現金収入となりました。当時は
サルタ州の販売許可の印紙を貼ってあるコカの葉は、自由に取引がで
きましたので、10キロの容器を買い入れて売店に置いて有りました
が、ボリビア国内ではその値段が半分でした。かなり安くて差が有り、

その差額を狙って、ボリビアからの密輸入が頻発していました。
その仕掛けは簡単で、『州政府の印紙を貼った容器に、密輸で来た
コカの葉を入れ替えて売る』と言う簡単で儲かる販売でした。
ボリビア人の密輸人の担ぎ屋が10名ばかりの人数で山を越えて歩い
てアルゼンチン国内に密輸していました。密輸品は品質が良くて格安

ですから、かなりのインジオ達もそのコカの葉を好みましたので、
農場でも必要に迫られて買っていました。私が農場のトマト畑で仕事
をしていたら、ジャングルの木陰から、『ひょいとー!』人影が出て
来て、『ワッポ』を買わないかと言って来ました。私が農場の支配人
と知っていまして、丁重に頼んで来ました。初めての経験で、相手が
いつもの値段で良いと話しますので、『オナーに聞いてから・・』と
言うと直ぐにOKの返事でした。

国境警備兵の巡回の間で、かなり彼等が現場を熟知していますので、
慣れて居ると感じました。オーナーの注文で2個を買い入れましたが、
現金と交換で、彼等が『塩と砂糖』を希望しましたので、その分は引
いておきました。

一度、彼等のボリビアの密輸人のグループが、谷間の小道を並んで歩
く姿を見た事が有ります、先頭は銃器を構えて、犬を連れいました。
荷物は水筒と小さな背中の物入れでしたが、そのあと、50mぐらい
後ろから10名ばかり列を作り、背中には10キロのコカの容器を背
負って、自分の荷物も重ねて背負っていました。
最後はカービン銃を構えた見張りが付いていて、黙々と歩いていまた。

ジャングルで野営しながら歩いて国境を越えて来たと感じます。国道
や鉄道は検問が幾重にも有りますので、国境警備兵が軍用犬での検査
と検問を敷いて居るので簡単に突破は先ず出来ませんから、テクテク
と歩いて来ていた様です。
一度、エンバルカションの駅で、そこは支線の始発も当時はありまし
たので、賑やかでした。私が駅前の酒場兼、食堂でサンドイッチと
ビールを手に座っていたら、誰か挨拶しますので、良く見ると密輸人
のグループでした。彼等が仕事を終り、汽車でボリビアに戻る所でし
た。
手に沢山のお土産や買い出した品物を持って、今度は担ぎ屋でも商品
を色々と買い集め、かなり大きな荷物でした。汽車がホームに来て
ゾロゾロと彼等が、三等の客車に乗り込んで行くのを見送りましたが、
同時に原色のボリビア原住民の人達の鮮やかな衣装を着て乗り込んだ
姿を思い出します。

2012年3月14日水曜日

私の還暦過去帳(196)

アメリカでは生活の中で訴訟問題は身近な問題として有ります。
日本的に言えば、まるで下駄履きでの法廷での争いとなる感じです。
私が昔に初めて法廷に出たのは、小額訴訟専門のコートでした。

5000ドル以下の訴訟はそこで争います、簡単で当時30年も前は
1ドルで、1枚の所定用紙に書き込みすれば良かったので、また法廷
は夜間7時からの開廷も有りました。簡単で白・黒を争う事は時間的

には20分ぐらいか、掛っても一時間は過ぎることは余り有りませんで
した。私の長男が高校生の時に、学校で、模擬裁判で州の最終コンテス
トまで出て、模擬裁判をサクラメント州都で本物の法廷で争いました。

残念なことに、優勝は逃がしましたが、その時の同じクラスの長男の同
級生は現在は本物の弁護士となっています、子供の頃から、法廷での
訴訟を体験させて、善悪と正義、法に対する義務と履行の仕組みを

体験させる事は大変に有意義と思います。 そんな事でアメリカでは
裁判が日本みたいに肩苦しい感じではなく、簡易裁判所では作業靴で、
ジーンズの労働者が来ていました。ペイント屋さんが自動車修理屋

を訴えていたのを見学していたのですが、トラックを修理するのに夜間
駐車場にカギを掛けずに置いて、荷台のペイント道具を盗難に合い、
修理屋の責任と言って『盗まれた道具代を弁償しろ』と言う事でした。

判事は両方から意見を聞いて、ペイント屋が買った当時の領収書を
見て、判決を言い渡していましたが簡単に即決で済んでしまいました。
ペイント屋がほぼ請求全額を貰っていた様でした。この様に簡単に訴訟

の判決が出て、白・黒の判決が出ますので、金銭が絡む裁判はこれが
一番簡単で分りやすいと感じました。もしも、これが不服であれば上級
の裁判所に行く事は簡単です。私の場合は、私が訴えた相手が法廷に現

れず、判事が開廷を宣言して、名前を呼んで返事が無かったので、あわ
てて書記官が捜したのですが、出廷していなかったので、その場で私に、
『相手が裁判放棄』した事を言って、全額を相手が払う様に宣告しました。

私が日本式に判事に深く頭を下げると、何を思ったのか、訴訟金額に
延滞金を20ドル利息分を付けてくれました。ありがたやー!でした。
25年近く前ですから、20ドルはかなりの金額です、オフイス管理費
の不払いでした。

それからは、私もアメリカ式に頭を完全に切り替えて、生き方がアメリ
カ社会に即した対応で入って行きました。おかげで今日まで、色々と
体験しましたが、私がその中で一番驚いたには告訴・告訴と喚いていて、

いざこちらが本気で居ると、その事がハッタリの脅しであったり消えて
しまったりの相手が沢山居た事です。現在では携帯の写真が簡単に写せ
ますので、カメラやビデオは今は持った事は有りません、証拠の写真は

携帯で十分ですから。パチリと携帯でペット禁止の貸家で、猫や犬を写
して、三日間の警告書を出します、その間に相手が対応しないで放置
したら契約解除を通告します。私の仕事は携帯電話一本で全てが済んで
しまうビジネスですから、これまた携帯電話様・・と言う事になります。

今までに4回法廷に出ました。その内、3回は裁判不成立で終りました。
先ず第一は相手が告訴を取り下げて、裁判所に行ったら公判中止と書
いてあり、無駄足でした。2回目はオーナーの証人として出廷したら相
手が法廷に出席せず、これもその場で我々の勝利ですぐに閉廷でした。

3回は集合住宅内での住居者同士の喧嘩で、証人として呼出しが有り、
裁判所に行くと、和解したとの事で時間の無駄でした。これには少し頭
に来て、『なぜ連絡してくれないか…』と言ったら、今朝和解したと言
う事でした。どちらにしても私には良い経験となりましたが、アメリカ

の裁判は陪審員制度ですから、私はアメリカの市民権を取得しています
ので、選挙から陪審員までの義務があります。
しかし法廷に呼出しがあり、『やれやれーー!一日仕事を休んで、法廷
の陪審員席に座るのかー!』と思っていました。

電話インタービューの審査の時に『キングス・イングリッシュもアメリ
カン・イングリッシュも解らないが、ジャパニーズ・イングリッシュは
上手に話せる』と言ったら、笑っていまして、
『今回は来なくて良いー!』と電話を切りました。

それ以来一度もお呼びでないのは、『あんな爺さんに、法廷でジャパ
ニーズ・イングリッシュで話されたら、法廷がおかしくなる』と思った
からと、今でも感じます、アメリカに来て、36年以上も住んだらそれ
は色々な事が有りますよね! 

私の還暦過去帳(195)


旅に出て、人の情が心染みる時が有ります。
『青春の我が旅日記』50年も前の学生時代の話です。

空腹で歩き疲れ『もうだめだー!』と思って非常用に持っていたカタ
パンを出してかじっていました時に、廻りの景色と言うのはオホーツ
ク海からの海風で、どんよりとした、重たい霧が流れ、寒い風が吹い
ていました。

夏と言うのに、道端の草はびっしりと濡れていて腰を下ろす事も出来
ませんでした。やっと見つけた小さな橋の欄干に座ってお昼と言うの
に太陽も顔を出すことのない、静かな田舎道で、お腹が減ってカタパ
ンをカジリ、水筒の水を飲んで居た所に、やっとオート三輪車が通り
かかり、慌てて乗車を頼みましたが、停車する事無く100mぐらい
行って、やっと車が停車してくれました。

見ると手招きをしているでは有りませんか!走ってたどり着くと
『どこまで行く?』と聞きますので『どこまででも、乗せてくれる所
まで・・』と言うと『これから30分ぐらいして山に入るから、そこ
までは乗せてあげる』と言うことで、オート三輪に乗せてもらいまた。

なぜかと言うと、人が歩かない北海道の田舎道で平行して並んでいる
電柱の上に、カラスが1羽、また次ぎの電柱に1羽とまるで私が行き
倒れとなるのを待っているかの様でした。

下を通ると『ぎや-!』といやな声で一声鳴きます、次ぎも同じ様
で『クソ-!』と頭に来ていました。見ると獰猛そうな感じで、子犬
などは襲って殺して食べると言う事で、滅多に人が歩かない場所
で、人間が歩いているのですから、カラスにしたら、ご馳走が歩いて

いると感じたのかもしれません、背中にリックを背負いポッンと一人
で歩くのはやはり寂しいものです。オート三輪の荷台の上で寒風に
吹かれながら乗車していましたが、カラスは追っては来ませんでした。
車が山に入るところで止まり、『ここから歩いても夕方までは町には

着かないから、この先の作業小屋に泊まりな!』と勧めてくれました。
有り難く申し出を受けて、泊まらせてもらいました。
作業小屋には、かなり年配の人が一人で管理人として住んでいました。

挨拶して『今夜一晩泊まらせて下さい…』と言うと、『今夜はここに
泊って明日の朝に大型トラックで材木を町に出すから、それに乗せ
てもらいなさい』と親切に教えてくれ、夏でもストーブを炊飯もする
からと言って焚いていました。

その夜、静かな小屋の中で、自分の飯盒で炊いたご飯と管理人がご馳
走してくれた、三平汁のドンブリを『ふー、ふー!』と冷やしながら
舌が火傷しない様に食べていました。食後に昔、北海道の飯場での
生活や、たこ部屋の有様の昔話しを聞きました。

年老いた管理人がその夜、ラジオで聞いていた『浪花節』を聞きな
がら寝袋で寝てしまいました。翌日お礼を言って別れ、トラックに同
乗させてもらい、町に出てしばらくしてから、なにげない暖かい気く
ばりの老人の親切が『ジワッー』と私の心に染みていました。

2012年3月13日火曜日

私の還暦過去帳(194)

今日は旅のお話はお休みして、昔の今日と同じ様な季節を思い出して
昔話を書いています。

今日のサンフランシスコ郊外は爽やかな初夏の感じが溢れて清々しい、
心地良い風が吹いています。私の裏庭百姓仕事も順調で、毎日、新鮮
なキューリを食べています、かなり今年は長雨で、植え付けなどが遅
れましたが、その後の陽気が回復して平年作となり、遅れを取り戻し
ています。トマトのお花も沢山咲いて一番下には小さな実が付いてい
ます、葉の幅広いニラは柔らかくて、おしたしにして、ピリ辛の味付
けで韓国風の一品となっています。

今日のお話はこの青空を思い出して、季節的に同じ時期でしたが、
アルゼンチン、サルタ州の農場に居た時代でした。かれこれ45年
前となります、当時そのエンバルカションの町に、ボリビアから来た
日本人の無銭旅行者が滞在していました。彼は凄くその町が気に入り
しばらく滞在して、次ぎの旅行資金を蓄えていましたので、町に

住んで居た日本人が土地を無料で貸して、トマト栽培をさせていまし
た。トマトの苗から農作業の道具まで全て与えて、収穫したトマトは
その方が引き取り、現金を支払っていました。
日本の横須賀造船所で溶接工をしていただけに、プロの技術を持って
いました。農機具の修理や簡単なリヤカーなど自分で制作して収穫時
期に大変に喜ばれていました。

ある日私がトマトを町の集積所に持って行き、帰りに彼の小さな農場
の小屋に寄ると、なんだか彼の様子がおかしいのです、落ちつかなく、
そわそわとしていますので、見ると彼の手がドロドロに汚れて服にも
血痕が付着しているのが分りました。

私は一瞬、『誰かを殺したか?』と疑りました。私が余りジロジロ見
るので、観念したのか教えてくれました。昨夜遅くに隣りの農場の
ラバが自分の畑に進入してきて、畑の野菜とトマトを荒し始めてかな
り食べていると感じて、用心の為に持っていた拳銃で、ラバの耳先を
狙って威嚇射撃をしたら、ラバが、ひょいと首を上げたので耳の急所
に命中して即死に近い状態で死んでしまったと教えてくれました。

それには驚きました。廻りには誰も居なくて死骸を動かすのにも、重
くてとても一人ではどうしょうも無い状態で、夜が明ければ直ぐに隣
りの農場から見られる事は間違いありませんから、慌てた彼は夜間に
死骸を移動するにも、近所にトラックも農作業のトラックターも無か
ったので、手元に有る『オノと山刀』で切断し、死骸を処理して、土
の柔らかい所に掘った穴に全部埋めてしまったと話してれました。

話を聞いて現場を見に行きましたが全てを処理してあり、痕跡も殆ど
分りませんでした。微かに血痕の染みらしい土があるだけで、見事に
隠してありました。かなり大きなラバを切り刻んで処理したとは、夜
間に一睡もしなくて、その作業に没頭していた彼の姿を想像して、驚
いていました。

当時の農場はラバを使用する時以外は、自由に放して放置していまし
た。彼等ラバ達は餌を探して群れを作り生きていました。ラバに付け
れれた焼印だけが所有者の印ですが、殺したりすると厄介な事件とな
り昔からの習慣でそのような放牧は違法では有りませんから、かなり
の賠償金と罰金を取られる事は間違い無い事で、彼が慌てて死骸を隠
匿して埋めてしまったと思います。

それにしても、南米を無銭旅行していた若者を当時でも沢山見たり、
知って居ますが、彼みたいに行動力と忍耐と実行力が備えていた若者
は余り見かけませんでした。今もどこかで元気に生きていると確信し
ています。今日の青空を見ていて、その日も同じ様な青空だった事を
思い出します。

2012年3月12日月曜日

私の還暦過去帳(193)

かなり前です、私の町で異変が有りました。

昼間仕事をしていたら第二次大戦中に大活躍した『空の要塞』
B-17G Bomber が低空で完全迷彩をして、『グァ-!』と
低空飛行で飛んで来ました。

『ドキドキ・・・!』と心臓が高鳴り、機関砲までが全部はっきりと
見えるでは有りませんか、かなりの低空飛行です。
一度近所の飛行場に展示飛行で飛んで来たB-17を見て知って
いましたから、しかし、今回は完全迷彩をして有り、南太平洋戦線

のジャングルに急遽仮設された飛行場などに並べてあった型と同じ
ものです、前回に見たのはキラキラと輝く、ジュラルミンの無塗装の
戦時大量生産型でした。

かなり四発のエンジンが軽やかに聞えます、手入れをしてあると感
じました。しかし頭上に来たらまさに威圧感を感じる、『グワー!』
と、びりびり・・・、と吼鼓する感じの四基のエンジン音です。戦時

に突然、頭上に20機ものB-17が襲来したら、それも機銃掃射な
どしながら、オマケニ『爆弾』をばら撒かれたら、おしっこでも漏ら
してしまう感じです。

70年以上も前に生産された飛行機です、ずっしりとして威圧感があ
り、かなりのスピードで通過して行きました。

それから、ホットしていたら、これまたびっくり・・・!同じく低空
飛行でB-25の爆撃機が2機編隊でこれも完全迷彩色の戦時の南太
平洋戦線で活躍していたと同じ感じの型です。
これまた『グァ-!X 2』の騒音で、頭上に来たら、『キ-ン!』と
金属音に近い、つんざくような感じでした。

はっきりと爆弾溝のハッチが見れる感じの低空でした。
しばらくはドキドキの感じで、何事かと考えていました。まさか今時
に、こんな飛行機でイラク戦争に参加させるなどとは思いませんでし

たが、しかし少々『ドキリ・・』としました。家に帰宅して夕食を食
べて、新聞を広げたら、『ハハーン!』と分りました。
5月29日は、『Memorial・Day 』でその記念飛行に来
て今日一日、展示していたようでした。

2機編隊のB-25の1機は、B-24型でした。それにしても完全に
整備されて、今も飛行が出来るのには驚きです。近所の小さな飛行場
に着陸する為に、低空飛行していたみたいですが、7kmぐらい離れ
た所から着陸態勢に入るとは驚きました。

一度、数年前に見たB-17の機内はまさに『シンプル』で、何も
無駄が無く、すべてが簡素に作られている感じでした。しかしながら
機関砲が隙間無く、あらゆる角度に向けられて、設備されていたのに
は驚きましたが、B-29はもっと大きかったと言う事ですから、
一度見たいと感じます。
今でも民間人が所有する、第2次大戦の単発グラマン艦上戦闘機の後
部銃座を取り除き、そこに乗客を乗せて、遊覧飛行をする所が有りま
す、30分で250ドルぐらいです。一度体験飛行してみたいと思ってい
ます。

2012年3月11日日曜日

私の還暦過去帳(192)

旅に出ると必ず泊まるところを捜すのに苦労致します。
長旅で、金も無くて、まして雨が多かったりしたら、これこそ大変で
す、晴れた天気が続いて、どこでも一人用テントに入り、寝られるよ
うな環境でしたら文句は有りません。特に日本では夏休みなどは予約

のお客で旅館やユースホテルなどは先ず無理です、特に雨が降れば
他にも多くの旅行者が居ますから、旅館は5人ぐらい一部屋に入れて
朝食など、簡単な物を出して、シーズン時はかなり取られます。
雨が降る時は、野宿に近いテント泊では無理ですから、いつも宿捜し
に苦労致しました。

50年ぐらい前でしたが学生時代は夜は鈍行の普通列車に乗り、車中
で寝る様していました。かなりガラガラで横になって寝る事が出来ま
した。 これで宿代が節約出来ました。一度目が覚めたら、朝の通勤、
通学列車となっいたのには驚きました。中学生ぐらいの学生が笑って
見ていました。目が覚めるまでベンチを占領して寝て居たようでした。

私が姫路城を見物に行った時でした、駅を降りたら、あいにくの雨で
姫路駅から外に出られない様な雨が降っていました。お城見学は翌朝
まで待たなくてはなりません、夜の11時過ぎていて、泊まる所を捜
していましたが、どこも宿泊代が高くて、それと遅い時間帯で満員で
した。
やっと場末に安宿を見付けて、値段を聞いたら、まずまずでした。
しかしそれは酷い旅館で、世間で言う『連れ込み旅館』でした。駅裏
の飲み屋街の外れで、その方達のご利用される宿でした。素泊まりで
部屋にはお茶も出ません、布団は安布団でくたびれていました。
外は雨でそんなことに贅沢は言えず、かまって居られません、しかし、

前金を払い部屋に入ると、まだ化粧の匂いが残り、使用済みのチリ紙
が、屑かごにゴッテリと残っていました。
トイレも外の共同トイレでしたが、直ぐに旅の疲れからか寝てしまい
ました。翌朝起きて、明るい日の下で見た方がもっと酷かった感じで
した。
鳥羽の真珠島などを見物に行った時でした。これも天気が崩れると言
う予報で旅館に泊まる事にしました。田舎の普通、民家と同じ感じの
家でした。 入り口に小さく旅館と看板があるだけで、家族で経営して
いる様で、部屋数も余り有りませんでした。しかし親切にしてくれ、
食事も腹を空かした学生が食べても十分でした。

部屋にはTVも無くて、火鉢とお茶入れがあるだけで、あとは座布団
と小さな机が有り、それで全部でした。寝るには時間的に早いので、
歩いて2分ぐらいの所に映画館があり、最終の割引ナイト・ショーを
見にいきました。黒澤監督の私が好きな映画でした。パラパラと観客
がいる場末の映画館でしたが、足を伸ばしてのんびりと見ていました。
売店で買った『酢昆布』の駄菓子を食べながらラムネを飲んで、今で
もその時を思い出します。古き良き時代の面影がある映画館でした。

終って旅館に帰って来たら、まだお風呂も沸してありましたので、
ゆっくりと熱い風呂に入り、布団に入った覚えが有ります。
次回に続く。

2012年3月10日土曜日

私の還暦過去帳(191)

北海道には以下のような路線が今も存在します。50年前はこれにま
だ支線の細かな線路と国鉄バスが有りました。

釧網本線 江差線 根室本線 札沼線 室蘭本線 宗谷本線 石勝線
石北本線 千歳線 津軽海峡線 日高本線 函館本線 富良野線 留萌本線

昔無かった路線は『津軽海峡線』でした。

私が大学生の時でしたが、東京で映画監督の家で書生をして働きなが
ら学校に通学していた頃でした。夏休みの半分は当時の『蟹族』と言
うスタイルで背中にリユックを背負って歩いていました。

当時は国鉄と言っていました。学生は学割と言う特典が有りまして、
100km以上は学割が効きまして遠距離になればなるほど安くなっ
た感じでした。

夏休みに考えて思い付いたのは、片道でどこまで同じ所を交差しな
いで最高の遠距離切符を買えるか研究しました。時刻表を抱えて毎日
真剣に計算して、片道切符の最高距離を出すか研究していました。

最後は北海道の 函館本線 から室蘭本線に入った一つ目の駅で切符を
買えば、本州の日本海側を通過してジグザグに九州に下りて行き、
九州を一番下の鹿児島駅に降りて、ぐるりと廻って別府から豊肥線で
南熊本まで買うと最高の距離が出ると計算しました。

それからが大変でした。全部路線を書き出して計算して、用紙に書き
出してどこまで行けるか試す事にしました。もって行くのは寝袋と炊
事道具、当座の食料、着替え、正露丸、洗面道具、ポンチョウ
(一人寝テント兼用)それだけでした。

室蘭本線に入り、始めてての駅で降りました。駅は三名ぐらいの小さ
な駅です私が駅で降りた、ただ一人の客でしたが、駅員さんに事の次
第を説明して、びっしり書き込んだ用紙を見せると、
一瞬『うーんー!』と声を出して『絶句』していました。

それからが大変でした。先ず三名の駅員さんが集まり話をすると、
一番発券に慣れた人が窓口に来て座り、まずー!発券台帳を抱えてき
ました。本州・九州などの国鉄路線の計算台帳です、先ず『はたき』
でパンパンと埃を払いまして、机に載せ私が差し出した用紙を見なが
ら路線計算を始めました。

直ぐに私の所に来て、『2時間ぐらいは掛かるから海岸の方でも散歩
して来たらー!』と親切なお言葉でした。それには私も絶句して、
口をアングリとしました。実際は2時間半も掛りました。1枚の切符
ですョ!と言うのも汽車がくれば、『チョイトー!』と声を出して
ホームに飛び出て行きます。

ソロバン片手に見ていても大変な事が分ります、私も海岸方向に歩い
て散歩に出ましたが、のどかな波打ち際で寝ていました。それも夜行
で来て余り寝てはいなかったのです。しばらく寝て『ひょいとー!』
気が付いて起きたら、2時間近く過ぎていました。慌てて駅に行った
らまだでした。

それから30分ぐらいしてやっと切符が出来上がりました。切符の裏は
びっしりと経由地をペンで書き込んで有りまして、それは、それは凄
い切符でした。うやうやしく差し出してくれ、駅員全員が見ていまし
た。そして『頑張ってー!』

と声を掛けてくれました。たった1枚の切符です、それで数え切れな
い経由地まで書くのですから、それこそ大変だったと思います。
駅員さんが『私の駅員生活で初めてで、最後の発券だねー!』とつぶ
やいていました。

普通列車が止まり、全員の駅員さんが手を振って見送ってくれました。
改札のパンチを入れる隙も無いような切符でしたが、小さくパチンと
隅を切りニッコリと笑ってくれたのは今でも覚えています。
次回に続く、

2012年3月9日金曜日

私の還暦過去帳(190)


『旅は道ずれ世は情』と昔の人は良く言ったと思います。
旅人のタイプは一人旅、仲間旅(団体旅行)、連れ合い旅(夫婦旅)の
三つに分かれると思います。

それから旅の貧富もかなり差が有ります。世界一周航路に2000万
近い費用で1等船客で乗船している夫婦もいますし、また働きながら
放浪か、無銭旅行に等しい感じで旅している人もいます。

それぞれの環境と与えられた生活環境が大きく作用して、その立場を
甘んじて受け入れなければならなかったと思います。私も今まで多く
の旅をしている人々を見て、会い、語りその過去の過ぎ去った思い出

として心に残っている事をこれから物語として、ここに書き残そうと
思っています。 私が46年前に南米で会った一世の日本人から戦前の
1920年前後の昔、南米を旅する日本人の旅人の有様を聞いた事が
有りますので、その物語も書きたいと思っています。

俳聖 松尾芭蕉が、みちのくに足跡を残した旅、『奥の細道』の序文を
見てみると、心感じる事が沢山有ります。
『月日は百代の過客にして』と出だしに書いています。

『日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづ
れの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、』と書か
れているのを読んだ時に何か心に響くものが有り、今も思い出します。

奥の細道
元禄2年3月27日ー9月6日(松尾芭蕉、46歳)

(序文)
 月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をう
 かべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖とす。
 古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさ
 
 そはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破
 屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に、白川の関
 こえんと、そヾろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきに
 
 あひて取もの手につかず、もゝ引の破をつヾり、笠の緒付かえて、
 三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、
 杉風が別墅に移るに、  
         草の戸も住替る代ぞひなの家
     (くさのとも すみかわるよぞ ひなのいえ)

旅に出て、楽しい事、嬉しき事、辛き事、悲しい事、腹ひもじい事、
情けない事、美味しく沢山食べた事など全てが集まり、それが旅の思
い出として残っていくと感じます。

時代は違えども、旅として心残る思い出は同じと感じますが、その
時代の移り早さが現代の旅と言うのかもしれません。

2012年3月8日木曜日

私の還暦過去帳(189)

私がこの歳になり、昔の仕事で雇った人達を思い出して居ました。
南米時代ではかなりの人間を雇いましたので、その雑多な人間関係を
思い出します、ボリビア国境近いアルゼンチンのサルタ州です。

農場では一番多かったのが、近所のインジオ達でした。
マタッコ族、チャワンコ族、ツーバ族(これはボリビア国境の近所から
来ていた様でした。)チャコ地方から来た、チャケーニオ、パラグワイ
からも来ていました。

これは距離的に離れていますので、犯罪者が逃げて来ていた事が有り
ました。それからボリビア人などは、かなり技術を持っている者も居
ました。車の整備工や大工など来ていました。

私がアメリカに来てからはヒスパニック系が一番多くて、次ぎが韓国人
でした。昔、アルゼンチンが軍事政権時代に逃れて来ていたアルゼンチ
ン人を雇った事が一度有ります。

一番多いのはメキシコ人ですが、ユカタン半島近くから来ていた人が多
かった様です。その他は雑多になりますが、アメリカの移民社会をその
まま当てはめた様な感じで、色々な国から来た人が働いていました。

ベトナム人、タイ人、中国人、カンボジア人、アフガニスタン人、
パキスタン人 フイリピン人、ガテマラ、ニカラグワ、などの中南米系
が多くて私が覚えているのはこのくらいです。30年間の間に良くも、
まあー!と思います。全部がブルーカラーと言う職人さん達です。

先週もお客の人が野菜畑の植え付けを監督して、誰か雇って仕事をさし
てくれと言う、85歳になる方から頼まれましたので、一人捜してきま
した。市が日雇いの斡旋をしていますので、そこから連れて来ました。
ガテマラ国境近いメキシコから来た32歳の男でした。

田舎には五人の子供と奥さんが居ると話していましたが、いまだに
電気や水道も無くて、娯楽は小さなバッテリーで可動するラジオだけと
話していました。彼が住んで居る所では日給は一日/4ドルから良くて
5ドル程度だそうです。アメリカでは時給が10ドルから12ドルには
なるそうで、メキシコで彼が住んで居る町では週/50ドルぐらいほど

稼ぐのでしたら、御の字が付くと話していました。その話しを聞いた
途端に私は『シュ-ン!』として考えてしまいました。

5月1日の街頭で多くのヒスパニック系が街頭デモをして歩いていま
した。アメリカの星条旗とメキシコの国旗を打ち振りながら、沢山の
移民法改正案反対のデモです、彼等の力とその生活力を見せ付けられ
る、アメリカに来て初めての光景でした。

どこから来たかと感じるくらいの人数でした。それだけ沢山の人達が
この私が住んで居る町にも居ると言う事でした。ここはカリフォルニア
です、それからしたら日本人などは数の内にも入らない部類と思いました。
それだけ日本は平和で、豊かで、安全な社会だからと感じます。

2012年3月6日火曜日

私の還暦過去帳(188)

昨日、サンフランシスコの日本町に買物に出掛ける為に
高速道路に入ろうと家から走っていた時です。
混雑して信号前なのに全ての車が停止して、神妙にして
いるでは有りませんか・・・・・!はてな?
私は何か事故でも起きたかと心配していました。

パトカーも近所に居ますし、おかしい事にアニマル・コントロール
(通称、野良犬捕獲の車)も居るでは有りませんか、近所で野犬の
捕獲でもして居るかと感じましたが、それも有りません。

誰かクラクションを『ビ・・・・!』と鳴らしたら、止まって居る
車から一斉に『ファック・ユー!』(通称、この野郎!)のサインで、
中には中指を立てて、車の窓から突き出しています。
はてはて・・・・!

信号が変わっても車は動きません。運転手の皆が地面の一点
を見詰めています、なな・・・、なんと!驚くことに、鴨ちゃん
家族の引越し騒動に巻き込まれたのです。

片道三車線のかなり広い道路です、鴨の両親は道の真中で
子供を守り、ずらりと並んだ車を見上げて、足を踏ん張っています。
その格好は『俺の子供達をひき殺したら、七代祟って・・うらめし
やー!と化けて出るゾー!』と叫んでいる様です。

パトカーがサイレンは鳴らさず、回転灯だけ廻して注意しています。
信号前で車を止めて、ブロックしてしまいました。
私も『ほっとー!』して見ていました。
鴨親子は『ヨチヨチ・・、ちょこちょこ』と右に左にと迷走しなが
ら歩き、やっと歩道まで来ました。

ポリスが車から降りて来て、鴨親子を見ています。皆が『ニッコリ』
として車の窓を開けて見ていますし、中には携帯電話のカメラで
『パチリ』と写していますので、まるで
『そこのけ・・、そこのけ、お鴨様の御通りジヤ・・!』と言う感じ
でした。

ポリスとアニマル・コントロールの係官が鴨家族を守っていますので、
歩道に上がった鴨達を見て、ポリスが車の通過を許可しました。
それにしても週末の一番混雑している午後1時過ぎです、ランチ時で
かなりの人が出て来ていた時間帯ですが、ま・・・!驚きました。

それにしたら、鴨の両親があの混雑の車線で、子供を必死に守る
姿は感激しました。普通ならば決して鴨が居る様な場所では有り
ません、どこかの茂みで卵を抱いて、ヒナに孵して公園の池まで連れ
て行くのでしょう!頭が下がりました。

あの場所からでは、まだ200mは有ります、しかし係官とポリスが
側に居ますので、無事に池まで行けたと思います。

2012年3月5日月曜日

私の還暦過去帳(187)



はや45年以上も前になります。アルゼンチンの奥地で農業をして居
た頃です。その農場では、殆どが近所の部落から来たインジオ達が働
いていました。一部は隣国のボリビアから来たボリビア人が仕事をし
ていましたが、彼等は全部現地人の混血でした。祭りが町で開催され
ると、大抵はその日はお休みとなり、灌漑用水の水引などの、どうし
ても手が離せない人間だけが居ました。そんな中で町から農場に遊び
に来ていた日本人が居ました。

ガラ-ンとした農場ですが、幾家族は普通に農場で過ごしている家族
も居て、中の若夫婦が町から遊びに来ていた日本人と交渉しています
ので、興味が有りましたので見ていました。そしたら驚くなかれ、
今で言う『援助交際』のような話です。

夫はまだ27歳ぐらいですが子供が居ませんでした。結婚したのは
10年ぐらい前で、ワイフが16歳頃の歳でした。まだ若いインジオ
の夫婦です、話しを聞いてびっくりしました。
夫が町に祭りの行くのにお金が無いので、ワイフを借りないかという
相談でした。当時の金で300ペソぐらいで、働き者が1ヶ月で稼ぐ
金が3000ペソぐらいでしたから、かなりの金額です。

夫が200ペソ取り、ワイフが100ペソ取って、ワイフを夫が町か
ら帰ってくるまで6時間ぐらい自由にして、洗濯をさせても、ベッド
に連れて行っても何をしても良いのです。私は話しに聞いた事は有り
ましたが、その時が初めてでした。いやはや驚きまして、町から来て
いた若い日本人に聞きました。『前に経験したことが有るのか?』と
聞いた所が、

『ある・・!』と言うのではありませんかー!、黙ってその女性に手
を出したら殺されると話していましたが、話しをして、前金を払い、
女性も承諾したら、交渉成立と言うことでした。

昔の話ですが、現実に見たのです・・!そしてその日本人はインジオ
の女性を借り切り、6時間ほど楽しく過ごしていました。
ワインを開けて、バーべキユーを楽しみ、もちろんベッドにも連れて
行った様です、それにしても普通のワイフを時間で借りる事など、今
の現代社会では無理ですね!

2012年3月4日日曜日

私の還暦過去帳(186)

 意地悪爺さんのお話です。
歳をとると段々と子供帰りをすると言いますが、たしかにそれは本当
と思います。頑固になり『へそ曲がり』となり、ムキに感情を出して
子供の様に行動している事があるからです。

だいぶ前でしたが、あるタウン・ハウスを管理していました。
余り建数は有りませんでしたが、こじんまりとした家でかなりの家が
投資で買われ、レント・ハウスに貸し出されていました。

ある時、どこかアメリカ中西部の州から引っ越して来たみたいで、
大きな18輪のトラックが来ていました。するとそれは私の予想どう
りにアメリカ中西部州から来た家族でした。

まだ子供は8~9歳の男の子供が一人で、余り気も掛けて居ませんで
した。所が驚くなかれ、『ヒデ-!悪ガキ』でこちらも初めて
『こんな悪る』感じる子供でした。親が放任、甘えホウダイ!と感じ、

子供の態度から『これはチョイ、用心しなくては・・・』と感じてい
ました。 先ず手始めは学校から同じ様な仲間の『悪ガキ連中』を引
っ張って来ました。週二回見回りに行っていましたが、手始めは
プールに置いてあるイスやテーブルを全部プールの中に『ドブン~!』

と投げ込んで有りました。私も直ぐに『やりあがったなー!』と
カチーンと来ていました。そこはそれ・・・、直ぐに鎖でイスと
テーブルを鉄柵に留めておきました。
『ざま-見やがれー!』でそれは終りました。次ぎは

プール廻りの刈り込まれた茂みの中に入り、全部踏み倒して遊んでい
ます、これも『カチ-ン!』です、めちゃくちゃとなった綺麗な茂み
は台無しです。これは近所の犬の散歩道から『犬のウンコ』を沢山拾
うと適当に茂みに投げ込んでおきました。それは私が考えた以上に効
果抜群でした。
子供達の幾人かは簡単に私が仕掛けた『犬のうんこ地雷』に引っかか
って悲鳴を上げていました。これも『ざま~見やがれー!』でジジイ
の勝利でした。運動グツとパンツを脱いで洗い場から引いたホースで
片隅で洗って居ました。それも見事に一回で止みました。
やれやれ・・、でした。

しかし、悪ガキ連中は、夜間の街灯のガラス・カバーを『ガシャン!』
とやり、かなりの数をやられました。散水装置のノズルの先を反対に
水が出る様に曲げてあります。プラントが枯れて来て、『ギョーー!』
とした事も有ります。かなりの被害が連続して起きていました。

しかしそれが止んだ後は、彼等が目指した所は、危険な『ポイズン・
オーク』が藪の中に混じって生えている危険な場所でした。普通の樫
の木と同じ様な葉をしているが、それに触ると酷い『かぶれ』が起き
て火傷の様になり、皮膚が弱い人などは寝込んでしまいます。

直ぐに注意しようとすると、なんと『悪ガキ連中』は藪の茂みの中か
ら石を投げてくるでは有りませんか!せっかく危ないので注意しよう
として、近ずくとこの様です、これも『カチ-ン!』です、それでは
注意のしようが有りません。『他人の欲くせざる事に、施す無かれ!』
です。危うい事にかなり、大きな石がストーンと飛んできました。

私はあわてて逃げました。その日はそれで終りまして、その次の週に
見回りに行くと、どこかおかしいのです。その20軒ばかりのタウン・
ハウスが昔と同じ様に『シーン』と静まり返っていますので、
『あれー!』と思っていました。知合いのおばさんに聞くと

なんと・・・、子供達が見事に『ポイズン・オーク』にやられて中の
二名は入院したと話していました。『子供達は4日ばかりな見た事が
無い・・』と話していましたが、次ぎの週も同じです。それからしば
らくして『悪ガキ』の家族が急に引っ越してしまい、他の子供達が来
ることも無くなり、もとの状態に戻りました。
しかし、しばらくは子供が暴れていた時を懐かしく思っていました。

2012年3月3日土曜日

私の還暦過去帳(185)

  
  国家における国民としての国籍の条件。

この地球上に国家として国が存在する事は、国民としての義務が
一個人として、多種に渡って科せられると言う事になります。
我々が現在の世界で、多国籍化した国際社会と経済を見て、限り
ある動植物、鉱物資源とエネルギー資源、環境資源などを見ると

もはや、この過去百年が激変の世紀であった事を示している。

この事を考えて理解すると、『もはや日本国家の将来はいかに!』
と言う事を真剣に各自の心に受けとめて考えて、思考の根本とせねば
ならないと感じる。もはや垣根という国境が崩れ始めた国家間では、

50年も前に、故杉野忠夫氏が論文の中で述べられていた世界が到来
して来た。その予測の真剣な声は無視され、その解決を託した『種子』
をこの世に播いて45年も前に亡くなられたが、それが現実となり見
えて来た。

人間と言う個人的集団の民族的な人間関係が、国家を超えて巨大な権
力と政治力を発揮する様に成った事は見逃す事は出来ない。 中国人が
現在海外で移住して居を構えて生活している数は約3千5百万と言わ
れ、華僑、客家という集団は国家と言う権力も手に入れている。

インド人としても約2千万人が海外で居住して世界各国での勢力を増
している、今では日本の大手町でインド人と昼休みにすれ違う事は珍
しくはない、殆どがIT関連の専門家である。日本でソフト開発をして
居ると話しを聞いた事がある。アメリカでは現在約100万人のイン
ド人ソフトウエア―の技術者が仕事をしている。シリコン・バレーで

も新規創業7社に1社はインド人の会社である事を考えると、いかに
現代社会の根幹のITを担う世代を握っているかと言う事である。全米
のIT中小企業企業の25%は米系インド人の創業で運営されている。
これからの世界が政治が、経済が、また軍事力が、そして核の開発研
究においてITが無ければ何も用はなされない。

海外で、世界での民族移動と言う事は自国を軍事力を無くして勢力拡
張出来る一番の平和的な道である。ユダヤ民族もそうであるが決して
見過ごしてはなら無い。彼等が世界のあらゆる地域で『印僑』『華僑』
を相手に見えない戦いをしている、彼等が背負っているのは『民族的
な国籍』である。

日本人は決してその事を忘れてはいけない・・!

『民族とは国家なり!』

彼等が居住する国の国籍を持っても、DNAという遺伝子に組み込まれ
た祖国の国籍はいかにしても消す事は出来無いのである。しかし日本
ではそれを否定して、拒否して、うやむやの道に先送りして、もはや
経済では人的不足と知的資源の貧困とを兼ね備え、亡国の道を歩き始
めている。もはや移民国家の到来の警鐘が鳴り響いているが、政治の

世界では防音壁という法律の鉄壁を作り、耳を塞ぎ、目を閉じて、
2050年には人口半減の危機さえ見ようとはしない。全ては戦後教
育のその場主義、ことなかれ主義、先送り主義、官僚の権威主義の悪
癖に『ゆとり教育』『教育時間削減』国家・国民を教えない官尊民卑
の根幹教育がもはや救いが無い状況となっていると思われて来た。

現在の日本社会が『勝ち組みと負け組み』とに分類されて、格差社会
の富のアンバランスを助長して、政府の経済回復の余裕は全て裕福層
に吸い取られ、貯蓄も無い世帯の激増は、縦並び社会で、ネット株長
者が1000億稼いでも10%の分離課税で済ませられる日本は、給

料所得者が最高税率50%をも源泉徴収でもぎ取り、(1800万円
以上の所得者)。会社企業の国外脱出を見過ごし、移民、技術労働者の
制限をして、もはや日本に何が残るか、爺と成り果てた老移民が叫ぶ
言葉ではもう何も有り得無い。もう一度考えなおして、教育の原点に
戻り、これからの世代を育て、新しい教育を施さなければならないと
考える。

2012年3月2日金曜日

私の還暦過去帳(184)



私はカリフォルニアの気候に惚れたのは、その抜ける様な青空と乾燥
した気温、オレンジの甘い香りと豊富な果物、私が居たアルゼンチン
の北部と似ていたからでした。私も農場で仕事をしていた頃は、沢山
オレンジを栽培していました。

トマトやピーマンなどの野菜ばかりでは、いったん霜害にやられると
収穫が皆無となり、経営が破綻することがありますので、比較的安定
して霜害が影響しないオレンジを持つ事は、安定経営として重要でし
た。バナナは霜害にやられる被害は大きく、大きな葉が溶けた様にだ

らりと垂れ下がっている畑を見ると哀れな感じでした。オレンジは霜
にもかなり強くて、被害に遭って霜に焼けたオレンジも安価ですが売
れますし、ジユースなどに加工する業者が引き取ってくれました。
原始林の伐採をしていると巨木を切って、インジオが教えてくれまし

たが、年代を示す年輪の環を見て、百年近い長い年月を見ていると、
時々その伐採した場所にも大霜が降りたことを示していた。彼等の示
す年輪が時を経て過去の気候を示す重要な記録と成り、教訓となる事
を教えていた。インジオが自然を大切にして、守り、育て、生活に密
着した生き方をしていた。

過去の現代貨幣社会の影響も無い時代を思い、彼等の生活態度が現代
社会を批判していると感じました。我々が利益追及の為に破壊と汚染
と、人間性までも否定して生活しなければならない、今の世の中が
勝ち組み、6本木ヒルズ界隈の居住者と、負け組みと指差される、

東京下町の足立区の年収200万にも満たない生活を送る都営住宅の
居住者など、富の格差の歪みと成って、日本人社会を蝕んでいるが、
全てが金銭対価の価値観を物差しにした生き方しかない、日本はこれ
からどうなるのか、アメリカに住んで祖国日本を思い、複雑な考えと
なる。

アルゼンチンの奥地、パラグワイ国境近い原生林で生活していたイン
ジオのマタッコ族が仕事に来て、働き者の真面目な家族持ちでしたが、
ある時『今日で仕事をやめる・・・』と言って来た。理由を聞くと、
『もう田舎で一年は十分に食べれられる現金収入が出来たので、それ
と当分は間に合う服や狩猟で使う弾や、医薬品も買い貯めしたので、
これで十分だと』

私はそれを聞いた時に、しばらくは価値観の余りの差に『茫然』とし
ていた。
竹笛が上手な男で、一日の仕事を終って夕方のそよ風に吹かれて、
カンニャーの酒を側に、家族に聞かせていた曲を今でも時々思い出し
ます。

2012年3月1日木曜日

私の還暦過去帳(183)

今日のサンフランシスコ沿岸は曇り時々晴れと言う感じです。
先月から降り続いた長雨で、どこも緑濃いい景色が見られますが、
夏が思い悩まれます、草木の成長が良い年は、夏に山火事の危険が有
ります。先日もラジオがその心配の特集をしていました。

山には記録的な13.5mの積雪がある場所があちこちで見られ、そ
の雪もかなりの水分が多く含んでいるとの事で、雪解けの洪水危険が
叫ばれています、今から放水や貯水池の汲み出しをしていますが5月
から6月までは注意が必要です。

私がアルゼンチン奥地で農業をしていた頃に、ボリビアの奥地で大雨
が降ると、何百キロの下流でも注意報が出ていました。 濁流が突然
に鉄砲水となり、流れて来るからでした。100mくらいの河幅が有
りましたが、ブエノスから1300kmは上流です、ラプラタ

河の支流でしたが、地鳴りとなるような凄まじい水音がして流れます
ので自然の驚異として見ていました。流木も凄くて、かなり大きな木
が流れて来るのが分りました。私が居た農場の近くが丁度河の緩い
カーブの有る所でしたので、岩盤の崖にぶち当たる水の凄まじい音と
轟音がかなり遠くまで聞えていました。

その濁流が始まるとインジオのチャワンコ族が良くモリを使ってかな
り大きな魚を取っていました。モリの先は尖って、牛の角を削りその
ばねを利用して魚を突くモリの返しを作り、先は獲物に命中して刺さ
ったら先が取れるしかけでした。彼等インジオ達が狙うのは大型の
ナマズが多かった様でした。

スルビーという鯉に似た大きな魚もモリで突いていました。長さが
4mぐらいの竹などでモリの槍で構えて、先のモリは紐を付けて有り、
腰に巻いていました。しかし百キロもある大ナマズを仕留めると身体
が河に引き込まれて紐をナイフで切り、助かったと聞いた事が有りま

す。チャワンコ族は河岸に住んで農耕と魚取りで生活しています、
農耕と言っても、トウモロコシやカボチャ、マンジョウカ芋などを作
り、バナナやパパイヤなども家の廻りに植えていました。モンゴロイ
ドの顔で、中にはまったく昔の日本で、近所に住んでいた女の子と感
じが似ている女性もいました。

真っ黒な髪と丸顔のどことなく東洋人とそっくりの顔立ちに、親密感
を持っていました。 魚が取れるとその夕方はどこでも、その料理の匂
いがしていました。農場の売店にも食料油をビンをもって買いに来て
いましたが、大抵はフライで食べて居たようです、岩塩を潰して、

ガーリックをおろして魚に漬けて、小麦粉をまぶして揚げていた様で
す、揚げたての熱々の魚にレモンを絞り、カンニャー の酒を飲むのも
楽しいものでした。私はレモン醤油が好きでした。

晩酌の後にトマトとジャガイモを沢山入れたナマズのスープを食べる
のが楽しみで、インジオが遠くで吹く竹笛が聞えて・・・・、

『ここはお国から遠いアルゼンチン・・、南十字星の空の下で・・・』
と替え歌を歌っていました。