2012年3月24日土曜日

私の還暦過去帳(204)

花嫁移住の歴史はもう既に百年の歴史が在ります。 長い歴史的
な中には、色々な物語を秘めていますが、今日は、先日に聞いた
お話をしたいと思います。わたしの近所のハワイ出身で、奥さん
が2世、ご主人が3世のご夫婦ですが共に75歳を過ぎています。

ご主人のおばあちゃんは104歳でハワイで亡くなるまで、生涯
で二度結婚して、最初のご主人とは、11人の子供を作り、最初
のご主人を若くして亡くすと、再婚して6人の子供を産んだと言
うことでした。

写真結婚で若くしてハワイに移民して来て、生涯で17人の子供
を産み104歳で亡くなるまで、ハワイ州知事の老人ホームへの
訪問もあったと言う長寿でした。亡くなるまで、ボケもせずに記
憶は確かで、好きなコカコラーを飲むのが楽しみだったと聞きま
した。
孫が施設を訪問しても、その孫を覚えていたという事で、世話を
していた娘が驚いていたと言うことでした。

長いハワイ日系人の歴史の中でも、ずば抜けて大きなファミリー
の家系を持っていると話していましたが、百年の長き歴史が今で
は5世を数える家系の広がりで、全米に今では住んでいると話し
ていました。
百年もの昔、花嫁移民でハワイに来た女性の気丈さと忍耐力、生
活力の偉大さを感じます、子沢山でも昔は洗濯などは全部手洗い
の、オムツなども使い捨てなどは全く無い時代に、砂糖キビ農場
で働いていた夫婦を思うと、現在の電化、機械化された台所など
全く無かった時代を生き抜いてきた女性の、素晴らしき人生のこ
れまでの生き様を感じます。

私が47年前に会った女性も、アルゼンチンへの花嫁移住の方で
した。ご主人は戦前の昔に貨物船のコックをしてい時代に、ブラ
ジルのサントス港で、刺身包丁一本を腰に差して、オンサの出没
するサントス街道を歩いてサンパウロまで行ったと聞きました。

アルゼンチンで落ち着て事業を始めて当時の日本人が多く就労し
ていたカフェー屋を、ポサダの町で成功して奥さんを日本から呼
び寄せて家庭を築いたそうですが、戦争中の日本人の活動制限や
カフェー屋を火事でなくして、1964年頃は息子の家の離れで
生活していましたが、奥さんは75歳近くでご主人を亡くすと、

日本に居る妹達が帰国を進めてくれ、長く住み慣れたアルゼンチ
ンのポサダの町を離れる時に、近所の世話になった洗濯屋の奥さ
んに、ご主人が結婚式で呉れた結婚指輪を形見として残して行っ
たと見せて貰った覚えが有ります。

擦り切れて細くなった金のリングは、その結婚の長き歴史を物語
っている感じで、ポサダで骨を埋めたご主人が、『お前は日本で
老後を過ごせ』と言っていたそうですが、全ての過去の物語をそ
の結婚指輪が物語っている感じで、手にとって見せて貰うと何か
『グッー!』と心感じるものが、こみ上げてきた覚えが有ります。

そして日本に帰国する日の別れに『私は夫が亡くなるまで、妻と
して尽くしたから思い残す事は無い、良い時もあり、悲しい事も
有り、嬉しかった事も有る。全ての思い出はこの結婚指輪に込め
られているから、私のあと僅かな人生を全く新しい門出として、
ここを出て行くから、これを貰ってくれ』と形見として置いて行
ったと言う事です。
それぞれの人生が、それぞれの物語を秘めていると思います。

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