2012年3月17日土曜日

私の還暦過去帳(198)

 
 『青春の我が旅日記』
私の旅は殆どが一人旅でした。

気ままに歩く事が出来まして、旅のクソ度胸も持っていました。
高校生時代には土曜日になると、いっも小岱山という裏山に登りその
山頂で炊飯してキャンプして泊まっていました。翌日に玉名市まで歩
いて降りてそこから、汽車で大牟田市の駅まで帰って来ていました。

冬の寒い時にキャンプして泊まった時に、霜柱が10cmも立ってい
たのには驚きましたが、テントが霜でバリバリになっていたのには、
もっと驚きました。寒くて寝られなかったから、かなり冷えていたと
思います。
そん事で、北海道を旅している時はテントを張る事もしなくて、地面
に防水シートを置き、その上に寝袋を広げてポンチョウの雨カッパを
被せて寝ていました。しかし北海道では朝起きると、まるで濡れた様
にびっしょりと水滴がポンチョウに付いていました。そんな事を数日
すると寝袋が湿って、冷たくて重くなります、たいした事は有りませ
んが日中晴れた日に広げて干していました。

時々、列車から見える看板で、『次ぎの駅にキャンプ場有り、駅から
三分!』などと看板があれば、直ぐにその駅で飛び降りていました。
管理人がいるキャンプ場はトイレも完備して、いくらかキャンプ場の
入場料を払うと、シャワーも浴びる事が出来ましたし、炊事場のガス
コンロも使用出来ました。
そこで飯盒でご飯を炊いて、缶詰を開けて、ビン詰めの海苔の佃煮
などで夕食としていました。バンガローの片隅で寝袋を広げて寝てい

ましたが、夕方遅くなり近所でマトンのジンギスカン鍋を開いて、美
味しいバーベキユーを始めたグループが居ました。車で来た近くの町
の若者達と感じました。賑やかに盛り上がり、ビールなど箱で持っ
て来て居た様で、マトンの肉はバケツに入れて持って来てあり、私も
うらやましく見ていました。

金の無い学生の無銭旅行に等しい旅行ですから、肉などは滅多に旅の
期間は口には出来ませんでした。かなり遅くなり、かたずけていた様
でしたが、中の一人が『残り物ですがマトンの肉は好きですか?』と
声を掛けてくれました。有り難い事で、喜んで受けました。

焼けた肉が皿に山盛りにネギや、玉ねぎの焼けた物と並んでいました。
そろそろ帰り支度をしていた様で、余った肉を持て余していた様でし
た。彼等は近所の製材会社の従業員達で、このキャンプ場に良く来る
と話していました。バーベキユーの設備が有り、騒いでも心配無いから
と話していました。ギターなど弾いて、当時の流行歌などを大声で歌っ
ていました。
彼等が帰るまでの短い時間でしたが、話しを交わす事が出来ました。
マトンの美味しく焼けた肉を食べながら、紙コップに注いでくれた焼酎
を飲み、九州出身の私と話す会話が相手も興味があるらしく、楽しい
一時でした。しばらくぶりに肉をたらふく食べて、酒も飲みまして、
その夜は満足してぐっすりと屋根のある、小さなバンガローで寝ま
した。 北海道を旅していて、肉をたらふく食べたのはそれが初めて
で最後でした。また旅をして歩いていて、今でも覚えている食べ物は、

函館で市場を歩いていたら、屋台のような所で、生きたイカを売って
いました。買うと直ぐに『イカそうめん』としてくれ、どんぶりに入
れてワサビをドン!と載せて、ご飯と味噌汁が出て来ました。その味
は今でも思い出します。色々な所で、色々な食べ物を口にしましたが、
その味は今でも一番の思い出として心に残っています。

礼文島のその先のトド島まで行った時に、どこかの民家で昼にご馳走
になったお魚のから揚げが、1匹丸ごとで、カリカリに揚げてあった
その味は格別でした。それは昼のランチの時間となっても、小さな町
では食堂も見つからず、訪ねた民家のおばさんが、これでも食べなさ
いと頂いた物が魚のから揚げでした。香ばしくて昨夜の残りの飯盒の
ご飯と食べた思いが有ります。
次回に続く、

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