2012年3月17日土曜日

私の還暦過去帳(197)

昔の事を段々と忘れる事が多くなりました。
やはり年齢にはかないませんが、完全に忘れない内に書き残そうと考
えています。47年も前になる南米時代の思い出は、今になり時々、
フトー!思い出して懐かしく感じたり、あの時に『あの様に対応して
いれば・・・』と思い出して考え込む事も有ります。

時代の変化は人々の変化でも有ります。時にはその時代での教育が、
人の心までを変えてしまう感じを受ける事があります。
それは一瞬も止まる事の無い時の流れが、全てを過去に押し流して、
もはや私が書き残そうとしている話しが、まったくこの現代では
無意味な話しとなっているかもしれませんが、単にその様な話しが
有ったと言うことで、読み流して下さい。

私がアルゼンチン奥地のボリビア国境の農場で仕事をしていた時代
です。かなりその当時のサルタ州などでは、『コカの葉』をタバコの
様に噛んでいる人がまだ沢山見られました。現地人や、インジオ達が
多かった様です。農場では毎朝、必ず売店を開きます。

その時に彼等使用人のインジオ達は、一日の噛むコカの葉を買って行
きますが、タバコと平行して使用するインジオ達も居ました。
コカの葉を噛む人間の大半は唾液が出ないとコカを噛めませんので、
重曹の粉を持っていました。僅かな重曹を口に入れると、そのコカの
味覚と唾液が戻ると教えてくれました。

コカの葉を売る事は農場でも大事な現金収入となりました。当時は
サルタ州の販売許可の印紙を貼ってあるコカの葉は、自由に取引がで
きましたので、10キロの容器を買い入れて売店に置いて有りました
が、ボリビア国内ではその値段が半分でした。かなり安くて差が有り、

その差額を狙って、ボリビアからの密輸入が頻発していました。
その仕掛けは簡単で、『州政府の印紙を貼った容器に、密輸で来た
コカの葉を入れ替えて売る』と言う簡単で儲かる販売でした。
ボリビア人の密輸人の担ぎ屋が10名ばかりの人数で山を越えて歩い
てアルゼンチン国内に密輸していました。密輸品は品質が良くて格安

ですから、かなりのインジオ達もそのコカの葉を好みましたので、
農場でも必要に迫られて買っていました。私が農場のトマト畑で仕事
をしていたら、ジャングルの木陰から、『ひょいとー!』人影が出て
来て、『ワッポ』を買わないかと言って来ました。私が農場の支配人
と知っていまして、丁重に頼んで来ました。初めての経験で、相手が
いつもの値段で良いと話しますので、『オナーに聞いてから・・』と
言うと直ぐにOKの返事でした。

国境警備兵の巡回の間で、かなり彼等が現場を熟知していますので、
慣れて居ると感じました。オーナーの注文で2個を買い入れましたが、
現金と交換で、彼等が『塩と砂糖』を希望しましたので、その分は引
いておきました。

一度、彼等のボリビアの密輸人のグループが、谷間の小道を並んで歩
く姿を見た事が有ります、先頭は銃器を構えて、犬を連れいました。
荷物は水筒と小さな背中の物入れでしたが、そのあと、50mぐらい
後ろから10名ばかり列を作り、背中には10キロのコカの容器を背
負って、自分の荷物も重ねて背負っていました。
最後はカービン銃を構えた見張りが付いていて、黙々と歩いていまた。

ジャングルで野営しながら歩いて国境を越えて来たと感じます。国道
や鉄道は検問が幾重にも有りますので、国境警備兵が軍用犬での検査
と検問を敷いて居るので簡単に突破は先ず出来ませんから、テクテク
と歩いて来ていた様です。
一度、エンバルカションの駅で、そこは支線の始発も当時はありまし
たので、賑やかでした。私が駅前の酒場兼、食堂でサンドイッチと
ビールを手に座っていたら、誰か挨拶しますので、良く見ると密輸人
のグループでした。彼等が仕事を終り、汽車でボリビアに戻る所でし
た。
手に沢山のお土産や買い出した品物を持って、今度は担ぎ屋でも商品
を色々と買い集め、かなり大きな荷物でした。汽車がホームに来て
ゾロゾロと彼等が、三等の客車に乗り込んで行くのを見送りましたが、
同時に原色のボリビア原住民の人達の鮮やかな衣装を着て乗り込んだ
姿を思い出します。

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