2012年3月25日日曜日

私の還暦過去帳(205)


青春の我が旅日記

北海道を旅していて,50年ほど昔ですから旅と言っても今の様にスムース
に歩けるものではありませんでした。

まだ幹線道路でも簡易舗装程度の道が沢山有りまして、未舗装の道路も珍し
くは有りませんでした。旅をしている時に、かなり大きな台風に遭遇いたし
ました。無銭旅行者にはこれが一番困ります。

雨が降りまして、大風と大雨で汽車が止まりますと死活問題です、それと言
うのも、一度どこかで駅止めとなりますと、近くの旅館などは全てが金のあ
る人に抑えられて、とても貧乏学生などは泊まる事はできませんでした。
代替バスなどに乗りまして行けるところまで走る様にしていました。

稚内から汽車で降りて来て、札幌に行く途中でした。台風で足止めされて、
私は一人旅で、早速に国鉄の代替バスに乗りまして、行ける所まで行こうと
決心して乗っていました。しかしそれも増水した河の水で国道が冠水して
それも交通止めになっていました。

バスは折り返して帰って行きましたが、私は僅かな乗客と小さな国道沿いの
町でぼんやりとして空を見上げていました。雨はその頃は止んでいて国道は
大型トラックだけが冠水した国道を徐行して通行出来るようでしたが、タク
シーなどは車体が低くて水に浸かり、すぐにエンストして止まっていました。

私はしばらく国道でトラックが来るのを待っていましたが、国道の冠水した
箇所を強行突破するトラックは数台しか有りませんでした。
荷物を満載しているトラックは全部引き返すか、その小さな町でストップし
て様子を見ていましたが、そろそろ薄暗くなって来た時間でしたが、早々と

旅館がある町に戻る人や、公民館などに僅かな人が避難して、その夜の泊ま
り先を確保するために歩いて移動していました。私は一人身の気楽さで、
国道にトラックを待っていました。そこに大型トラックが空荷で国道の冠水
した箇所まで来て、ためらっていましたが、助手がトラックから降りると、

ざぶざぶと国道を歩いて100mぐらい行くとしばらく様子を見ていて、
戻ってきました。 冠水した国道は暗くなりまして、視界も悪く、しばらく
運転手と助手が話して居ましたが、私はトラックの運転手に、乗車を頼もう
と側で待っていました。 すると、運転手が私に『札幌までか?』と聞きま

すので、『そうです・・』と言うと、『乗せてやるが冠水箇所は歩いて助手
とトラックの前を誘導してくれたら、乗せてやるから・・』と条件を付けて
来ましたが、私は大歓迎で、すぐに背中のリユックを荷台に乗せて、私の
懐中電灯を持って、助手とトラックの前を歩き始めました。大型トラックは
暗い国道をノロノロと徐行して走行して行きます、

前を人が歩くスピードですから、速度はまさにカタツムリの速度です、深さ
は膝を越して、かなりの深さで、所々にエンコした車が放置されていました
ので、それを避けるようにして、誘導して右、左のぎりぎりの車幅を通リま
して進み、かなり危ない箇所もありました。しかしトラックの助手と懐中電
灯で照らして左右に分かれて、安全を確認して通過しましたので、事なきを
えました。

今でも思い出します、真っ暗な冠水した国道を、ジャブジャブと水音を響か
してかなりの時間を歩いた事は忘れられない事です。無事冠水箇所を通過し
て、冷えた体を抱えて、トラックの助手席に乗ったときは、『ほっと』しま
した。
そこを過ぎると道も良くて、札幌までは真夜中の道をひた走りで、小さな
運送屋の営業所に到着して、『遅いからここで寝ていけ』と言われ、その夜
はそこで泊まり翌日に目が覚めると、賄いのおばさんが、朝食の美味しい
味噌汁とシシャモの焼いた物を出してくれ、おにぎりを二つもランチに持た
せてくれました。
そこの営業所から配達に出る小型トラックに乗せてもらい、札幌市内に入り
ましたが、昨夜乗ったトラックの運転手さんが口を利いてくれ、

『おかげで遅くなったが札幌に無事に帰れたからと・・、』親切に世話を
頼んでくれた様でした。
ありがたいと、今でも思い出すことがあります。

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