2013年5月31日金曜日

第3話、伝説の黄金物語、(83)

平和への裏工作

ドイツ人二世がゲルマン民族協会に持ち込んだ資金は直ぐに活用され、
動き出していた。多額の資金で、金の威力は直ぐに各地に浸透して、
宣伝効果も大きかった。

記録フイルムも編集され、各地のドイツ系社会で上映され、平和がない
ともっと沢山の死傷者と戦災の被害が拡大すると説かれ、現実の記録
フイルムがそれを如実に見せ付けていた。

それと同時にナチに協賛する人達が動揺して、ユダヤ人虐殺の現実の
記録フイルムを見て衝撃とナチ政権のスローガンが、ブラジルのドイツ
社会では理解されない大きな差を自覚していた。
僅かな時間に義援金が集まり出して、もっと活動資金が豊かになり大き
く動き出していた。
活動資金が大きな力を発揮しだして、民族運動となって宣伝、広報など
で、ナチ協力者達が萎縮して、沈黙をする様になり、地域によっては彼
等の活動が陰を潜めてしまった。

僅かな期間でそれが実行され、成功したのは、指導的な役割の人々の
力が大きかったと感じられた。
スミス商会やダイヤモンド商会などからの斡旋で、欧州に展開する連合
軍情報部からの、記録フイルムも定期的にゲルマン民族協会に届けら
れていた。
それと同時に連合軍占領地域からの郵便も赤十字を経由して届く様に
スミス商会が大きな力を発揮していた。
数多くの親兄弟や親戚などの消息とその安否が分かり、現地の戦災や、
戦場からの便りなどの二ユースも届いていた。これが大きなインパクトと
なり、劇的な変化が出て来た。

現実を家族、親戚からの詳しい情勢ほど、真実を伝える物はなかった
のである。ナチの宣伝などは即座に否定され、誰もその頃には常識の
ある者は戦争終結と終戦の時期を考えるようになっていた。

僅か20kgのドイツ人二世が提供した金塊の資金が、大きく生きて活動
していることを、皆が認めていた。その後、金塊は定期的に二世から送
られてきて、スミス商会よりゲルマン協会に資金として現金を送り届けら
れていた。
もはやドイツの戦線崩壊と食料や弾薬・燃料の欠乏は何処を見ても、誰
が考えても否定できない状態で、すでにドイツ降伏は時間の問題となっ
て来た事が分かった。
それと同時に日本軍は南太平洋で玉砕と敗退が続き、悲惨な戦場の様
子も伝わって来ていた。
富蔵はドイツと同じく日本もその様な運命になると予測して、準備をして
いた。それは絶対に連合軍には負けては居ないと言う、日本人の狂信
者達のグループが動き出していたからであった。
それは終戦後、勝ち組と負け組みに分かれて、いがみ合い、殺し合いも
してテロを起こしていた。

その当時、ブラジル政府に日系社会の指導者的な人物が拘束され、収
容されているだけであったが、その家族達に対して富蔵達が救援工作を
して資金的な援助を裏でしていた。これはスミス商会のルートで、ブラジ
ル赤十字社を通じて活動が行われ、収容者達には慰問品が定期的に送
られて居たが、それも富蔵の愛人リカの力が大きい事が分っていた。

彼女も日系の血を持つ女性で、すでに富蔵との間の娘も成長し、日本人
的な顔付きで誰からも可愛がられていた。富蔵の個人的資産であったが、
富蔵は今まで蓄えた資金は何も惜しい気がしなかった。これで現実に大
勢の生活に困窮する日本人達が救われ、収容所に暮す日本人指導者
達の心を和ませて、食事など待遇改善などにも大きな力があったからだ。

その頃、スミス商会の保安幹部から富蔵達に密かに連絡が来ていた。
ゲルマン協会と協力してナチ過激派の精鋭分子二名を、最危険な人物と
して、処分する事が話し合われていた。

これまでの説得と、話し合いや妥協も探られていたが、処置無しとなり、
彼等が標的とするドイツ系のゲルマン協会に危険が迫ったので、それと、
危うくゲルマン協会の会合が襲われて、銃弾の嵐を受ける寸前に、スミ
ス商会の看視していた警備員に阻止されて事なきを得ていた事が分か
っていた。

シュマイザーのマシンガンを彼等が何処からか手に入れている事も判明
していたからだ・・、
『キチガイに刃物』という事で、彼等が根城とするサンパウロ郊外の農場
がすでに看視体制の中で見張られていた。

囮の情報が出され、その罠に掛かり、ナチ狂信者二人が動き出した事が
分かった。富蔵達の飛行場からも近いので、スミス商会の保安幹部が事
務所を連絡場所に使っていた。
予定準備が決められ、大型トラックで事故に似せて殺害を計画され手配
されていた。

郊外の農場から彼等が車でサンパウロに向かうタイミングを狙って、何
度か大型トラックを使い、連携してリハーサルを済ませていた。
『狂信者の邪魔者と危険分子は死んでもらうしかない・・』平和と安全と、
多くの幸せな家庭を破壊する事は阻止しなければならない』と皆が同意
していた。

電話が鳴り、彼等が偽情報に踊らされ、朝早くサンパウロに向けて動き
出した事を看視員から連絡して来た。
事は計画どうりに実行された。

2013年5月30日木曜日

私の還暦過去帳(376)


 旅はバスに乗って・・!

去年は引退してから、あちこちと歩きましたが、泊まる宿にも色々ありまし
た。先ずは08年の1年間で約3ヶ月は旅に明け暮れていましたので、色
々な所に宿泊いたしました。

旅の道中で、長距離バスの中で眠った事も再三でしたが、夜が開けて
ふと目を覚ますと、まったく広い荒野をバスが疾走しているという事も有
りました。

私はなるべく夜行バスは遠慮していましたが、路線により夜行バスが多
い所もあり、長距離バスは夜間、混雑が無いハイウエーを走る事が多い
と感じました。

チリのアリカから、サンペドロ・デ・アタカマに行くバスも夜行の長距離バ
スでした。ペルーのタクナからタクシーで国境を越えて、そのまま市内観
光などして、時間を潰してから、バス・ターミナルまでタクシーで行きました。

そこのカフェテリアで食事を済ませて、コーヒーを注文してテーブルでね
ばりながら、パソコンで旅日記などを書いていました。
夜の8時過ぎると、ターミナルからは長距離バスがドンドンと発車して行
きました。カフェテリアのテーブルも空きが目立つようになり、沢山の荷物
の山が消えて行きました。

私達夫婦も予定時間になり、その前にトイレに行きましたら有料で、そこ
のおばさんが5円玉を見せて同じコインを持っていたら、それでタダにし
てあげると言うのには驚きましたが、残念でしたが、財布にあるのは45
年以上もお守りで入れて居る5円玉なので断りました。
地球の裏側まで来て、トイレで5円玉をねだられるとは驚きでした。

そこでは国境を越えるバスが多いので、荷物検査が厳重でした。
長距離バスで街道を走ると夜間でも道路検問でストップされ、検査台に
荷物を載せさせられて、検査犬がクンクンと見に来ますので、寒い高地
の吹きさらしの外で立っているのは辛い事でした。

時には係官が怪しそうな荷物を開けて検査していましたが、どこか職業
的な感があるのか、犬より早い感じでした。

アルゼンチンではサルタから、パラグワイの国境の町、クロリンダの町
まで長距離バスに乗車していたときは、国境警備兵が2名一組で、バス
内まで来て検査していました。

しかし、パスポート所持者は旅券検査だけで荷物検査はありませんでし
たが、乗客のローカル住民は全員、荷物を検査台に載せられて検査を
受けていました。
ドラッグ検査が厳しいと思いました。パスポート所持者は3名で、車内で
待機させられ30分程度待たされましたが、チリからアルゼンチンに同じ
く長距離バスで入国する時は、同じく現地人のローカル色ばかりの荷物
だけに検査が厳しい様でした。

普通のバックパックなどと、普通のキャリアバッグなどは検査無しでした。
見ていたら、大きな布袋の入れ物を持ったボリビア人のおばさんは、徹
底的に中身を出して検査されていましたが、何か食べ物をつまみ出され、
『これはダメだー!』とか言われていました。

そこは何も無い荒野にポツンと建っていた国境検問所でしたが、寒風に
千切れるようにアルゼンチン国旗がはためいていて、検問所裏はまだ
厚い氷がガチガチに凍っていました。

側の小さな掘っ立て小屋で熱いコーヒーを買い飲んでいましたが、駐車
場に中古の日本車を積んだトレラーがチリ側から来ているのが見え、聞
くとパラグワイまで運送するようでした。
左ハンドルに改造して使用されるようでしたが、はるばる地球の裏側ま
で輸入される中古日本車には驚きました。

しかし、陸続きの大陸は国境と言っても何も在りませんが、道路端に石
の標識と、国名を記した看板ぐらいでした。

驚いた事に、チリからアルゼンチンのサルタ州まで抜ける国道と言って
も2車線の狭い道路です、チリの出国検査はサンペドロ・デ・アタカマの
町外れにあり、1時間近くバスで走ってから、アルゼンチンの入国検問
所でした。

その間は荒涼とした半砂漠地帯で、野生ビクーニアの群れを見たぐら
いで、凍った水溜りと積雪が僅かに残る標高4千m近い山岳道路でした。

国際長距離バスは週に3回、アルゼンチンと往復している様ですが、バ
スは満員でした。殆どがバックパックを背負った若者達でしたが、その
コースはかなり人気があると思いました。

アルゼンチンからパラグワイ入国もタクシーで国境を越えました。アル
ゼンチン側の国境検問所を出ると、しばらくは潅木の生えたパラナ河の
河川敷を走る感じでしたが、途中で現地人が野豚を木にぶら下げて売
っていたのには驚きましたが、その時、44年ぶりで狩猟の思い出が湧
いて来て、同じ様な野豚を撃った事をなつかしく思い出していました。

パラナ河には現在は見事な橋が掛かり簡単に越える事が出来ます。
パラグワイ側に入るとそこは街中で、首都の中心部まで賑やかに続い
ていました。
パラグワイの首都アスンションから来ていたタクシーでしたが、帰り
の客を探していたので安く交渉して、アスンション市内のホテルまで
60kmばかり乗車いたしました。
荷物があるので楽ちんで、運転手が全部荷物の面倒も見てくれ、入
国検査もここに並べとか、この係官が簡単とか良く知っていました。

バスで国境を越えると検査が厳し場所もあり、乗客全員が検査を済ま
せるまでかなりの時間が掛かり、一度はパラグワイのエンカナシオン
の町からアルゼンチンのポサダまで入国するのに、長距離バスが三
台も並んだので、パラグワイの出国と橋を渡って、アルゼンチン側に
入国する両方で、3時間ほど待たされた事が有ります。

手間の掛かるバスでの国境越えは入国税や出国税を徴収されない
事です。飛行場はかなりの出国税を取られたのがペルーでした。
しかし、陸路での国境越えは格安でした。今回のバス旅行で感じたの
が、標高の高い道路が整備され、陸路で南米各国が繋がっていると
いう実感を肌で感じました。

私が45年前に長距離トラックで通過した道路は、まったく面影さえあ
りませんでした。簡易舗装ではなく、完全舗装の直線道路に変化して
いました。 未舗装の土路が完全に500Km近くも舗装され、フォル
モッサ州を縦断していたのには感激致しましたが、鉄道線路がうち
捨てられ、廃車になった車両が朽ちていたのには寂しい気持が致し
ました。

国道と平行して鉄道線路が草むらに埋もれていたのを見て、40年
以上も前に列車に乗車して、ここを通過したという淡い思い出をバス
の中で感じていました。 

それからしたら、インド旅行中の街道検問は、運転免許の検査と車
両税の支払い確認でした。乗客は一切お構いなしで、荷物も一切触
りも致しませんでしたので余り思い出はありませんが、田舎道で
ギョー!とする様なヤギの大群に路を阻まれて、おとなしく停車して
ヤギ達が過ぎるのを待った事が何度も有ります。

一度などは100mほど長さがある細い、すれ違いが出来ない橋で、
対岸からこれもヤギの大群がノコノコと歩いて来たのには、運転手
も両手を挙げて、橋の手前の道路際で待っていました。
インドでは時々、街道に牛がのんびりと歩いているので、これも田
舎では危険でした。
一度、街道にロバが死んで転がっていたのを見ましたが、車には
ねられたと思います。

田舎街道では時々、車の倍の高さに干し草を満載してヨタヨタと
トラックターで引かれたトレラーが道幅一杯に走っているのは、い
つ見ても驚きでした。
田舎のインド名物で、ラクダが荷馬車を引いて歩いていたのは、
初め見た時は馬と言う事ばかり考えていましたので、最初ギョー!
として見ていました。

インドのバス旅行は我々には時間的に余裕が無かったので、1週
間、運転手付きで車を借りましたが正解でした。
4名で走らせるとバスで行く時間の半分で、料金も少し高い程度で
した。
それで何よりも良かったのは、トイレも好きな所に停車してくれ、
エアコンの効いた車内でローカルの民謡などを聴きながら走るの
は楽チンでした。

遺跡見物などして出て来ると、運転手が直ぐに出口の前で乗車を
待ってくれるのも有り難い事でした。
ガンジス河近くの広大な麦畑の中を近道で走ったときは、そのイン
ドの広大な台地を見た様な感じでした。
そして、一時間近く走っても延々と続くむ麦畑には大陸の広さも見
た様でした。

今度、時間があればアメリカ大陸をバスで縦断したいと考えていま
すし、メキシコにも車で行きたいと考えています。

2013年5月27日月曜日

第3話、伝説の黄金物語、(82)


 ゲルマン民族協会の賛同、

その夜の晩餐会は大きな成果があった。
誰も傷つくこともなく、戦うこともなく、言葉で持って怒鳴りあう様な事もなく、
ただ記録フイルムが映し出す現実の姿が全てを理解させていた。

先ず両社長は丁重にここに誘拐するように連れて来た非礼を詫びて許し
を請い、現実の姿を見てその悲惨さを理解して、世界平和をブラジル人と
して願い、戦争を終わらせる事に協力する事をお互いに約束していた。

ドイツ人の2世はその後、社長や幹部達と膝を交えて意見を交換していた。
祖国ドイツの戦火に逃げ惑う多くの人々と, その犠牲で死んでいく多くの
国の市民、兵士達などの現実の姿が、言葉より何倍かの大きなインパク
トを持って、彼の心に突き刺さったと感じた。

全てを理解してくれ、同じブラジル人として戦争を早く終結させ、悲惨な殺
し合いと、虐殺を止め、飢餓と病気に苦しむ多くの人々に救いを与える事
を約束してくれた。

直ぐに彼が知るサンパウロ中心に活動する数人のナチ狂信者の名前を
教えてくれた。
その狂信的な僅かな人間を抑えれば、これ以上の事件は起きないと予
測され、直ぐに幹部達と富蔵が協議すると、その対応を手配していた。
その処理で富蔵はサンパウロに残り、モレーノは2世達の対応をして動
いていた。

翌朝、ドイツ人2世の全ての用事に、スミス商会からの運転手付き高級
車が手配されて、その日のうちに済ませてしまった。
サンパウロから翌日、モレーノの操縦する飛行機でドイツ人集団が住む
リオ・グランデ・ドスールまで飛び、両親達に会い、その夜にはドイツ系
幹部達の前で、持参してきた記録映画のフイルムが上映されていた。
スミス商会のドイツ語堪能な幹部が世話役として同行していた。

前日に電話連絡されていた事で、主催者の父親達が集まるゲルマン民
族協会のメンバーと関係者達が全員揃っていた。ささやかな立ち食い
パーテイ後に皆が用意された部屋に通され、映画が始まると、一転して、
誰も咳一つすることなく、静寂の中で上映の16mmフイルムが回って
いた。
当時の欧州戦線、最新情勢の詳しい細部の模様はブラジル地方の町
では何も手に入れる事は無理な状況であったので、一部がカラー撮影
の最新記録フイルムは誰もが驚きの様で見入っていた。

スターリングラードの攻防戦で冬将軍に追われて敗退するドイツ軍の
悲惨さ、壊滅的なサハラ砂漠の敗退と補給が枯渇したイタリア戦線の
惨状など、どれも現実を映し出した映像の迫力があった。
ドイツ各都市の連合軍戦略爆撃の壊滅的な破壊状況は誰でもが息を
呑む感じで、ざわめきが出る程の衝撃があった。
次々と連合軍が撮影した戦場の悲惨さ、虐殺の残忍さ、人々が飢餓と
迫害に追われて逃げ惑う様が誰の目にも瞬時に脳裏に焼き付いてし
まった。
言葉もなく、目を見開いてスクリーンを食い入る様に眺めていた。泥で
汚れた幼い少女が、アメリカ兵が手渡す戦闘非常食のレーションの包
みをむさぼる様に食べる姿と、その食べ物を弱って倒れている母親の
口に食べさせようとするスクリーンの姿に、微かな嗚咽と声をこらえた
泣き声がしていた。
最後まで誰もが声一つ、席を立つ事もなく上映が終わった。終わって
も誰も直ぐには立ち上がる事もなく、うつむいて黙りこくる者、ハンカチ
で目頭をぬぐう者、拳を握り締め天井の一点を見つめる者、全員が
ショック状態で硬直していた。

後ろの席でその様子を見ていたモレーノも無言であった。その時、盆
にコーヒーカップを並べて部屋のテーブルに置かれ、部屋の電灯が
明るく灯り、モレーノがカップにコーヒーを注ぎ始めて、それが終わる
と声を出してテーブルに戻る様に皆を促していた。皆が席に着くと、
ドイツ人2世が静かに話し出した。

『今日、私がサンパウロから急きょ帰郷したのは真実を皆に伝える事
である・・』と告げ、それから悲惨な戦争を早く終わらせる方法を考え、
実行して、祖国救済に立ち上がらなければ成らないと、厳かに皆に
言った。
ナチ政権を終わらせ、戦争を終結させる為に皆でこのブラジルで活
動を開始しようと誘った。

『現実を見て、考えて、実行しか方法がない・・』と2世のドイツ人が
声を大きくして皆に訴えると、何処からともなく拍手が湧き上がり、
先ず父親が皆を制して『わが息子の提案を理解してくれて有難う』と
言うと後は皆が興奮して、現実に自分の目で見た記録フイルムの凄
まじさを話し合っていた。
翌日、午前中にもう一度ドイツ系の集会で記録フイルムが上映され、
皆と話すことが決まり、その夜は解散となった。翌日、朝食が終わ
ると二世の家族と近所の親戚達と揃い、車でスミス商会の幹部と
モレーノも集会所に出かけて行った。

上映会の用意がされ、昨日のゲルマン協会の幹部達も来ていたが、
モレーノは用心して他のゲルマン協会の狂信的なドイツ系が問題を
起こさない様に見張っていた。
そのモレーノの用心深さが全てを救い、阻止する事が出来た。

上映会が始まる少し前に若い金髪の男二人が辺りを注意しながら
入り口から入ってきた。
ドアの陰に見張っていたモレーノがすばやく動き、スミス商会の幹
部をかばうと、棍棒で映写機を叩き壊そうとする男を拳銃の銃身
で殴り倒していた。

もう一人の男が拳銃を取り出そうとした瞬間、モレーノの拳銃が
火を噴き男は片腕を抑えて皆に取り押さえられた。
会場はしばらく騒然となり、幹部達が協議したが、会は開かれると
言うことが決まり、男達は後手に縛られて、何処かに連れ去られた。

モレーノの機転で何事もなく上映会は開かれ、そこでも大勢の
ドイツ系が記録映画の悲惨さと狂気の戦場をむさぼるように見入
っていた。ユダヤ人の女・子供達が遺体で並んだ凄惨な場面
では誰もが言葉を無くして見入っていた。

その後の講演会では誰も反対する人もなく、前日に上映会に参
加していた幹部達を取り囲むと皆が今後の対策を話し合っていた。
結論は直ぐにまとまり、ブラジルのドイツ系移民社会では戦争終
結と祖国救済にに動くと決められた。

その日の午後にランチを済ませるとモレーノが操縦する飛行機
で皆でサンパウロに帰途についた。夕方、サンパウロのサムの
飛行場に到着すると、そこの事務所に富蔵達皆で集まり、今後
の対策を決められた。
その夜は遅くまで協議され、主題として悲惨な戦争を早く終わ
らせると言う事に一致した。
ドイツ系2世がナチ狂信者の自分が知っている連絡先を全て教
えてくれたので、即刻対策が立てられ、その活動資金が祖国救
済資金とされた。後は簡単に、すべてが解決の方向に流れて行
った。
ドイツ人2世は翌日モレーノが操縦する飛行機の定期便でマッ
トグロッソに秘書と戻って行った。その帰りにモレーノが持ち帰
った活動資金にする金塊は、20kgほどもある大量の金延べ
棒であった。
その事はドイツ人二世の考えが、本心からの行動と感じられた。

その金塊はスミス商会で現金に交換され、ゲルマン民族協会
の祖国救済基金として振り込まれていた。全ての事が動き出
していた。
誰も止める事は出来ないうねりとなって動いていた。

2013年5月26日日曜日

私の還暦過去帳(375)

かれこれ数日前です、

アラスカからの低気圧がカリフォルニア州北部に、ストームの嵐として吹き
荒れましたが、山岳部では積雪が60cm以上もあり、平地ではかなりの雨
量になりました。
渇水で悩むカリフォルニア州には良き雪と雨でしたがその日、私は朝から
の雨で引退後に、週1日だけ残していた僅かな仕事を休んでいましたが、
夕方、雨が止んでいる時を狙って、オフイスのビルを見回りに行きました。

ガラーンとしたパーキング場は雨で濡れて、誰も居ない大きなビルデング
は静まりかえり、暗くなりかけた時でしたが、自動で点灯した外灯が点い
ていました。

空は暗く、雲は低く飛ぶように流れていましたが、雨もポツポツと落ちて来
て、何か嵐の前の静けさと思いました。

大きなオフイスビルの周りを見て周り、排水口の点検と清掃をして大雨に
備えていました。
風が吹き付けて、落ち葉が舞い、これから来襲する嵐の大きさを見せ付
ける様でした。あらかた終わり頃になると雨も激しく降り出して、慌ててト
ラックに乗り込み、一息付いていました。
その時、ふと頭の中を過ぎった思い出が有りました。どうしてそんな50年
以上前の思い出が私の心に湧いてきたか不思議でした。

当時の私は大学入学して帰郷する帰りに、東京からあちこちの国鉄線路
を乗り継いで郷里の福岡の自宅に帰っていました。
冬休み、春休み、夏休みも半分はアルバイトをして、旅の資金を貯めてか
ら歩いていたのでしたが、当時は東京オリンピック前で、何処でも建設工
事の仕事は幾らでも有りました。
嵐の雨風が吹きすさぶその時の思い出は、冬休みに帰郷する時に奥能
登の突端を廻る旅の思い出でした。

バスで能登町から、海岸線を登って行き、珠洲を経て、最北端の録剛岬
の突端を廻り、椿の展望台に抜け、大崎を経たコースを歩いていたと思
います。
最終は輪島市を目指していたのですが、バスで録剛岬に降りたときはミ
ゾレ混じりの雨風で気温も下がり、防水ヤッケを着て、バックパックを背負
い、顔は殆ど毛糸の帽子で目だけ出して、ヤッケのフードを頭から被って
いました。
泥道の濡れた田舎道です、人影も無く、まさに遠くで聞こえる潮騒の轟音
が響いて心細い感じと、ひしひしと我が身にその轟音を感じていました。
冬の夕暮れは早く、寒く、人里離れた山奥ですから侘しい限りの旅でした。

雲は日本海を低く舐めるように垂れ込めて、痛い様なミゾレが休みなく吹
き付ける様子は、いささか初めての体験で、これが冬の能登半島と体感
していました。
暗くなり、農道の様な道で直ぐ側では、日本海の大波が岸辺に打ち付け
る轟音を響かせていました。
道が分かれ、近くに農家らしき建物が在り、そこを訪ねて玄関を叩くと若
い女性が飛び出して来て、驚いた顔で私を見詰めていたのを忘れません。

当時の能登半島では、冬の農閑期は都会に働き手の多くが出稼ぎに出
ていた頃でした。建設ブームの東京では何処でもオリンピック前の工事で
人手が不足していた頃で、日本海側の豪雪地帯や、冬の仕事が無い所
では殆どの農家の働き手が都会に出ていた様でした。

私が玄関を叩いた家もその様な農家と思いました。
その女性は急げば輪島行きの最終バスが間に合うかもしれないと教え
てくれましたが、まだトンネルも無く、道は海岸線の絶壁の細い道しか無
いと言われました。
泊まる所もその付近には無いというので、輪島市行きの最終バスを目指
して歩く覚悟でいました。

その農家の女性は『主人が出稼ぎ不在で、女子供では男の人は泊めら
れない、』と話して気の毒そうにしていました。
時間が無いので急いで立ち去ろうとすると、トンネル工事で索道が開通
しているので、『海が荒れているのでそこを通過させて貰いなさい』と教え
てくれました。

外は暗くなり、しかし道は一本しかないというので、急いで礼を言うと歩
き出していましたが、道はぬかるみました。
登山靴は防水用のロウソクを塗り廻していたので、靴中は濡れないで助
かりました。
真っ黒い雲と、凄まじい風が横殴りのミゾレ交じりの雨となって吹き付け
ていましたが、最終バスに乗り遅れないように心急いで歩き、トンネル現
場に来たら、発破を掛けたばかりで危険だから今夜の索道は通過出来
ないと言われて困惑していたら、現地の二人の男女が来て、通れないの
だったら海岸線を歩くから、付いて来なさいと言われた時は、ホッとした
感じでした。

男女の二人は大きな荷物を背中に、大きな風呂敷で背負い胸の前で縛
り、両手は自由にして歩き出しましたが、海岸線と言っても日本海の怒涛
の波の飛沫が全身に被ると言う場所も有りました。

暗い中でもはっきりと分かる大波に海水が泡だって、その白い泡の塊が
風で吹き飛ばされ飛んで来るのが見えた時は、いささか驚いて、一人で
はとてもここを通過するのは危険と感じました。

昔には大波にさらわれた人も居ると聞いて、奥能登の冬の厳しさを見た
感じでした。
そこを通過して日本海の荒波を見た時に、どす黒い雲が海に境目が無
い様に低く流れていた様が、私の脳裏に焼きついたと思いました。

その有様が今日の仕事に出て見た空の色と重なり、50年前の思い出と
して突然に、この私の心に飛び出してきたと感じました。

私は海辺の思い出はこれ一つで、その思いが強烈だったので、終生忘
れないと思います。
輪島行きのバスは、昔の小型ボンネット型のバスで、僅かな乗客を乗せ
て発車いたしまたが、輪島駅前に到着して夜遅く駅前で降りたときはホッ
とした気持ちでした

2013年5月24日金曜日

第3話、伝説の黄金物語、(81)


 首謀者の涙、 

共犯者がいることが確認されて、皆が慌てていた。
予想が完全にひっくり返ってしまったからだ、確証は残された共犯者の
電話番号が重要で、貴重な証拠となっていた。
共犯者が何人かもまったく推定できない状態であるが、すでに次の襲撃
目標も決められていたことは皆を驚かせた。

彼等はナチスドイツに敵対する連合軍に協力する全ての人間を対象に
している事が分った事だけでも、彼等がどの様に組織を編成して行動に
移すかも、少しは推定されて来た。これだけの活動を、裏で支え、バック
アップする人物か、団体かを先ず探すことが重要と決めた。

かなりの活動資金が裏で動いていると感じていた。スミス商会の保安幹
部が、電話盗聴の手配をして、今夜の内に盗聴装置の取り付けを終了
するように上手く動いていた。

夜が明けない内にその電話番号の家に取り付けられた装置は最新鋭
の小型盗聴器で、近所に店が並んでいる中で、小さなユダヤ人会計事
務所に話がつけられて、そこの二階を借りる事が夜が明けると同時に
出来た。

初老のユダヤ人は子ども達も育って、ワイフと二人で会計事務所を維
持していたようだ。すでに言葉の訛りなども無いようなポルトガル語を話
し、ブラジル社会に溶け込んで、何処を見てもユダヤ人の素振りは無か
ったのが幸いしていた。

2階の狭い部屋で机の上に置かれた盗聴器のスピーカーから、微かに
通話時には声が聞こえてきた。スミス商会の幹部達も動き出し、それぞ
れに分担してダイヤモンド商会の協力で事態を、これ以上に悪化進展
する事を阻止することに全力を挙げていた。

夜が明けると同時にホテルに居た医者2名は、郊外の飛行場に直ぐに
移動させていた。
大きく金網で囲まれた中の事務所は、警備の守衛が居るゲートを2ヶ所
も通過しなくてはならず、最終的には番犬が放されえている居住区域は、
普段は他の住人が入ってくる事が不可能であったので、少しは安心で
あった。医者達は翌日の定期便で無事に何事も無く戻って行った。

そして、一晩で全ての対応をして翌日には全ての手配も済んでしまった。
しかし、とんでもない話が飛び込んできた。医者たち二人居た部屋が間
違って襲撃者達2名に襲われて、そこに居た男性が殺されてしまった。

医者を警備していた護衛が直ぐに部屋に戻ったが、そこには警察とホテ
ルの保安係りがすでに来ていた。警備の男が帰り際に、病院の外で屋
台の年寄りから襲撃者の風体と、彼等が乗車していた車両情報を幾ら
かの金銭と引き換えに聞き込んで来た。
車のナンバーも書き止めてあった。

僅かなタイミングで重大な事になることは避けられたが、気の毒に間違
って殺害された男性が気の毒であった。
スミス商会保安課の部屋に皆が対策本部を作り、皆が集まって来たが、
すぐに襲撃者のナンバーからその人物と住所が判明していた。
盗聴装置が順調に稼動して、多くの情報が集まって来ていた。ユダヤ人
の会計事務所と対策本部に電話が常時繋がれて、刻々と新しい情報と
彼等の動向が分かって来た。

ダイヤモンド商会から襲撃者を支援している人物がブラジル奥地のマッ
トグロッソで広大な牧場と金の採掘もしているドイツ系だということが知
らされて来た。
支援者は自分で行動など一切行わず、資金協力だけしている様であった。

富蔵は直ぐにマットグロッソ近くの支店で働いて居る、パブロに連絡を入
れ、その男の情報を集めさせた。その男はドイツ人達が多く住むリオグ
ランデ・ド・スールから来た男で牧場近くで金鉱を発掘してそれが成功し
て、かなりの資産を築いている事が判明した。

襲撃者達にその資金的なバックアップが居た事が判明して分かった事は、
これからの対応が易しく成ったと感じた。富蔵達はサムへの襲撃から動
き出したナチ狂信者達の行動を阻止して、壊滅させる事を考えていた。

まず資金提供者のドイツ系2世の男を見張ることも手配していた。資金的
な援助が無ければ身動きは出来ないと考えて、大本を切断して資金源を
完全になくすことも重要と感じていた。

その機会が直ぐにやって来た。ドイツ系2世の男がサンパウロに出てくる
事が電話盗聴で判明してすぐさま行動が開始された。秘書と2名でサン
パウロまで飛行機で飛んで来ることが分かり、すぐさまその対応が成さ
れた。飛行場に到着して迎えの車を装い、二人を連れ去る事が計画され
ていた。

ダイヤモンド商会の社長とスミス商会社長が幹部達と協議していたが、
ドイツ系が多く住むリオグランデ・ド・スール地方の長老を説得して、連合
軍に協力を取り付け、ブラジル社会でドイツ系の存在を危うくしない様に
説得することが決まった。
そのドイツ系二世の親が、第一次大戦の軍の勇士で、そこの長老的な
存在であることも判明した。
欧州戦線が終末に近くなりドイツの現状と今の実態を証拠に、連合軍か
ら得た情報写真と記録フイルムが用意され、ユダヤ人の迫害や、祖国
ドイツにポーランドや、オーストリアからのドイツ人系の撤退も記録フイル
ムで見せ、敗退する戦場の現実を見せる事が決まった。

マットグロッソから飛行機でサンパウロに出て来た二人を高級車で出迎
えていた。丁重に、まさに彼等がビジネス取引で電話で話していたことを
盗聴器で聞いて、銀行の出迎えの様にして、こちらから彼等の銀行幹部
の名前を言って、出迎えに来た様に仕組んでいた。

これも全て電話盗聴で得た情報があればこそ出来た事であった。全て完
全に上手く行った。丁重に高級車に出迎えられ、助手と運転手を前に、
何も疑問一つ持たずに彼等は乗車していた。

高級住宅の一角に来て、同じ所を数回ぐるぐると回り道をしてから、大き
な邸宅に車が滑り込んだ。
丁重にこれも部屋に通され、ゆっくり寛ぐ様に勧めて安心させ、夕食まで
庭のプールでひと泳ぎする様に執事が勧めていた。
プールサイドにカクテルが運ばれ、オードブルの皿も並び何処にも隙は
無かった。

執事がバスタオルとガウンを手に、あと20分で夕食となりますと告げ、
その夜の重要な幕が開いた。大食堂に正装して並んだダイヤモンド商会
の幹部とスミス商会の幹部達が起立して彼等が食堂の大広間に入って
来るのを待ち構えていた。

それと同時にピアノの生演奏が始まり、給仕達がカクテルやウイスキー
などの飲み物を配り始めていた。皆がグラスを手に談笑の輪を作り、正餐
のテーブルに各自が着席するまでには、すっかりとお互いが打ち解けて
会話を交わしていた。

食事の前のシャンパンの乾杯では和気藹々の様子さえしていた。
食事が終わり、最高級の葉巻やタバコの盆が回され、コニャックのグラス
が配られ、全ての用意が済むと、現在の欧州戦線とその動きの様子の
最新記録フイルムを鑑賞と言ってカーテンが閉められ、壁にスクリーンが
下ろされ映写が始まった。

始まって2分もしない内にシーンと座が静まり返っていた。画面は凄惨な
戦場の有様を克明に、一部は当時では珍しいカラーで映し出していたか
らであった。
そして、それは連合国の前線従軍カメラマン達が命を掛けて撮影したフ
イルムであったからだ。
ダイアモンド商会の社長やスミス商会がアメリカやイギリスの情報機関
から手に入れてきた貴重な最新のフイルムで、ブラジルなどでは絶対に
目にすることが出来ないフイルムの画像があった。

ドイツが敗退を決定したスターリングラードの戦い、サハラ砂漠でのドイ
ツ軍の壊滅、ユダヤ人の悲惨な迫害と強制収容所の有様や、隣国から
ドイツ国内に逃げ込むドイツ人避難民の哀れな有様や、言葉では説明
出来ない事が、目で見るという一瞬の事で全てを理解させていた。

静かな大広間のテーブルにフイルムがカラカラと終わりを告げるリール
の音が響いて、カーテンが開かれ、執事がシャンデリアを点燈すると、
そこには立ち上がりテーブルに両手を置いて、うつむいている、ヨハンと
言うドイツ系の牧場主の男が居た。

その時、部屋にダイアモンド商会とスミス商会の社長が静かに入って来
た。そのヨハンという男の両側に立つと静かに話し始めた。
『悲惨な戦いを止めさせ、これ以上、人々が苦しみ、戦場で屍を晒す事
を止めさせ様ではないか、』と語りかけていた。

『このブラジルは人種のルツボ、ここでお互いが殺し合い、憎み合い、
憎悪の心を復讐にまで育てる事は必要ない・・』と言うとその男の肩に
手を置いた。

『争いは戦いとなり、お互いが傷つき死んで行かなければならない・・、
それも若者達の命だ・・』と言うと、かすかに男の嗚咽が聞こえていた。

2013年5月22日水曜日

私の還暦過去帳(374)


 エリート官僚政治と世界不況の経済不安

現在の官僚政治体制は、日本の根幹まで蝕まれていると言う見方を
する人々が居ます。
それは戦前までさかのぼる政治体制が屈折しながら存続しているか
らです。

政治家も婚姻と血統と看板、地盤、カバンと言う、まったく日本の政
治が政治家の為の政治をしていると言われる所以である。

多少は差し引きしても70%近くは、何らかの繋がりを持って血縁や
婚姻関係で政治が引き継がれ、その2世や3世までが国会に出て
来て日本国の政治を動かしている。
歴代の首相を見ると殆どが何らかの関係を持っている、関係が無け
れば官僚の経歴と経験の上で、政治家の秘書やカバン持ちでの見
習いから国会議員となった人間である。

その様なエリート官僚達が政治志向者と大企業志向の二つに分か
れ、お互いに出身省庁の馴れ合いと、年次での先輩後輩の間柄で
日本の政治と政界、財界と企業に食い込み、陰を落として日本を動
かしている。

戦前の軍官僚が国を滅ぼしたのと同じパターンでの、事態を見逃し
てはならない。政治を職業政治家がたらい回しに政権を動かして、
難局に対応出来ない政治運営しか出来ないでいる。

国民はこの愚かな政治家達を選挙で選び、国会に送り、投票者が
信託を預けているが、政治家達はそれでは、その様な政治家を選
ぶ国民も愚かな国民と言う、

なぜなら、国民から選挙で選ばれ政治家達より、政治の支配者とし
て上に立てるからだという、おかしな理論であるが、それがまかり通
る恐ろしい政治社会。

エリート官僚、キャリア官僚が彼等の優越性と傲慢性を併せ持つの
は何かー!なぜかー!どうしてか・・?

単純に一言で言えば『国家公務員上級第1種試験合格者』と言う
事である。
しかし合格した東大法学部出身者達は、彼等の理論感や一般的な
社会道徳が普通の人より特別に選優されているとは思えない。

彼等が東大を出て試験に合格するまで、普通の人より偏ったバラン
スでの教育を受けたからこそ、そこまでたどり着いたとしか常識では
思えない。

だから人曰く、『官僚は傲慢で、世間知らずだー!』と常識ある人
は言う。

その様な官僚が作文した答弁を首相や大臣が国会で答弁に使う。
答えが解らない時は後ろに座った官僚エキスパートが耳打ちする。
全てが操り人形的な政治である。

これは政治家が悪いのか?、官僚が悪いのか?それとも、その様
な政治家や官僚達を養う国民が悪いのか?

世界経済が危機に瀕して、日本経済に多大な影響と暗い影を落と
しているときに、その担当大臣は酒酔い運転で経済・金融のハンド
ルを握る、その様な大臣を総理大臣たる首相は盟友と呼び、酔っ
払い運転と居眠りのハンドルで金融経済を担当させていた。

世界に醜態と恥を晒し、政治の貧困と政治家の質の現状をまで晒
してしまった。

はて・・!日本の政治は何処に行くのか?指針は何か?

官僚には責任が無い、責任は政治家達が取らされる。

永田町の官僚は一旦、自分達に不利な事になれば、一致団結し
て、結束と口合わせをして、追い落とし、政治的に葬り去り、微
罪を拡大して入獄させて口封じをする。
天下りをして、渡りを繰り返し、政府資産を格安でただ同然に売り
飛ばし、企業や会社に縁故の口入をする。

現在の首相官邸の政治スタッフは、各省からの出向者の官僚役
人で構成され、向いている方角の顔は国民ではなく、出身省庁の
方角を向いている。

内閣はせいぜい数年で交代するから、官僚役人根性で自分の身
の安静と平穏を考えて行動する。
これでは政治政権運営は官僚役人達に握られていると同じである。

この様な官僚役人達に操られた政治と政治家達が、永田町の常
識で世界を見るから世界から非常識といわれる所以である。

これは戦前からの伝統で、戦前の高等文官試験に合格した者が
高級官僚として特権的な待遇と地位を得たように、それがいまだ
に基本的には変化していない。

日本の政治と歴史のその裏をチョイと研究すると、そのドロドロと
した渦が見えて来る。
そしてその官僚組織が暴走を始めたら、誰がコントロールして制
御して進路を決めて収めるか?

貴方は誰がその役目を果たせると思いますか?

2013年5月20日月曜日

第3話、伝説の黄金物語、(80)


 襲撃者への報復成功、

富蔵は車に乗り込むと、隠しコンパクトの座席の下からワルサー拳銃を
取り出してケースから取り出すと消音器を取り付けて、弾を装填した弾
倉を拳銃に差し込んで用意していた。

モレーノも愛用の拳銃を取り出すと使い慣れた動作で点検をしていた。
彼もシュマイザーを用意していたが、ケースから小型ライフルを取り出す
と、スコープを装着して調整していた。
それにはいつもの細長い消音器が用意されていた。

保安幹部がガスのボンベを2本用意して来ていた。それは細長いスプ
レーガンの様な感じで引き金を引くとガスが噴射するような構造になって
いた。保安幹部が手配の用意をした手下を促して車を発進させた。
後からも一台、黒塗りの目立たない車が付いてくるのが分かった。

バックミラーで見ると2人が乗車しているのが確認された。
サンパウロの郊外に出る道を住宅街に沿って走って行ったが、中産階級
が住む家並みが見えて来ると、保安幹部が緊張して、もう少しだと教え
てくれた。
小さな公園の並木の陰に目立たない様に駐車すると、椰子の木がある
家が目標だと教えてくれた。
富蔵がライフルを持ち、モレーノがシュマイザーを抱えていた。
軽いコートの下に銃器を隠して目標の家の近くまで歩いて行ったが、
シーンとした住宅街の静寂が気になるぐらいであった。
保安幹部も手下を連れてひっそりと足音を忍ばせると塀を乗り越えて庭の
茂みに隠れていた。
するとペドロが隠れていた茂みから足音を殺して出て来た。

お互いが声を潜めて情報を交換していたが、犯人がシャワーを浴びて寝
入ったところだと教えてくれた。見張りが何処からか出て来ると、風呂場
の窓が換気で少し開けてあると教えてくれた。
保安幹部の手下がすばやくガスマスクをすると、念を入れて点検してガス
ボンベのスプレーガンを持つと風呂場の窓に近寄っていくのが闇を透かし
て見えていた。

微かな蚊が泣くようなシュー!と言うみじかな音が聞こえていたが、その
他は何事も無く狭い離れの家は真っ暗に電気も消されて静まり返っていた。
しばらくして微かにペンシルライトが点滅するのが見えた。

保安幹部は用意して来た小型のカバンから靴に被せるカバーを出すと、
自分の靴の上に被せ、皆にもその様にする様に合図した。
卓上演習の時に教えられたように、皆は靴にカバーすると持ち場に着い
て、離れの部屋に最初に侵入する保安幹部の手下とそれを護衛するペドロ
がドアにへばり付いた。

ドアのノブが微かに音がすると入り口のドアが開き、ガスマスクをした手下
の男がガスボンベを手に部屋の奥に音を殺して進入して行った。
その横に同じくガスマスクしたペドロがシュマイザーを構えて速射姿勢で構
えていた。

シーンとしたみじかな時間が過ぎ、手下が出て来ると成功のサインを出す
と入れ違いに保安幹部が小さな包みを手に、富蔵を手招きした。
富蔵はガスマスクをすると懐中電灯を手に保安幹部と犯人が寝ているベッ
ドに入って行った。
ベッドの毛布が少しずれてシーツの上に金髪の犯人が横たわって寝ている
姿があった。保安幹部は注射器を取り出すと、犯人の性器のペニスをゴ
ム手袋でつまむと、先の尿道の中に針を差込み僅かな液を注射していた。
微かに身体が震える様に動くと、後は微動もしなくなった。

保安幹部は首の動脈と手の脈を少し時間をかけて確かめると、皆にうな
ずくように立ち上がり、成功のサインを出した。
後は手順どうりにあっと言う間に皆が消えてしまった。
車3台も別々の方角に走り去り、後はまったくの闇と静けさであった。

車を走らせながら富蔵は犯人の部屋のゴミかごに、無造作に捨てられて
いた紙くずをポケットから出すとモレーノに渡して調べるように言った。
ペドロが部屋中を探して何か重要な書類が無いか調べていたが、何も見
つけることは出来なかったが、富蔵は部屋を出る寸前に見つけた屑の中に、
破棄された紙を見て持ち帰ってきた物であった。

彼は懐中電灯で一枚ずつ紙をめくりながら調べていたが、突然、『これ
は重要な、貴重な事が書いてある』と言うと、まだ共犯者がいるようだ・・、
直ぐに対処して行動しなくてはならないと言った。

それからいくらもしない間に皆がスミス商会の保安課が使うオフイスに集
合していた。早速、ちぎれた用紙を並べてパズルのように貼り合わせて
いた。
犯人が何処かに電話しながらメモしていた事が分かり、次のユダヤ人襲
撃の予定を書いていた事が分かった。
何処かサンパウロ市内に住む共犯者に連絡を取っていたと感じられ、共
犯者が何人いるか、グループか・・、今は何も分からない事ばかりであった。
しかし、単独犯と決め付けていた事が間違いであったことが分かっただけ
でも、これからの対応は難しくは無かった。

それに共犯者の連絡先の電話番号も走り書きで見つかったことは、これ
からの行動に対して直ぐに動けると感じていたが、何よりも次の襲撃目標
まで分かった事は有難かった。

彼等はナチスドイツに敵対する連合軍に協力する全ての人間を対象にし
ている事が分ったが、彼等がどの様に組織を編成して行動に移したか、
それが問題と皆で話していた。

直ぐに共犯者の電話番号を盗聴することを決め、保安幹部が緊急に何処
か電話を入れていたが、今夜の内に共犯者の家に盗聴器を取り付ける事
が決まった。
切り捨てられたメモ用紙を修復して読むと、そこには標的として逃亡ユダ
ヤ人医師の二人の名前も読み取れた。

直ぐに医師達に電話が入れられ、部屋から出ないように注意して、保安
幹部は直ぐにホテルに宿泊している医師達二名に護衛を手配していた。

用心に越したことはない・・、『急げー!』と言葉短く命令していた

2013年5月18日土曜日

私の還暦過去帳(373)

郷愁の思い出旅路、

いま日本を旅しています。老齢の母の見舞いと、この歳になり、昔、出合
った人達に会うためです。

到着したその夜は50年前からの知っている男性でした。
彼とは両親がパラグワイのエンカナシオン郊外の移住地に入植している
時からの知り合いで、パラグワイで生まれて、アルゼンチンで育ち、成人
して日本に出稼ぎに来て、日本で住み着いてしまったのです。

最初に移住地で会った時は、2歳過ぎの頃でした。
家の前で泥だらけの格好で、裸足でまるで靴を履いているかのように、く
っきりと赤土で足には色が付いていました。

彼は生まれた時に両親が貧しくてアスンションの日本大使館に出生届けを
出せる金も時間的な余裕も無く、日本国籍は取れなかった様でした。

日本でも苦労して働いています。通称出稼ぎの、普通の日本人が余り好ま
ない仕事で、下積みの苦労を重ねてここまで来た様です。
昨夜、前回会った13年前からしたら、髪の毛も白髪が増えてだいぶ老け
たと感じる様子でした。

今の一番の喜びは三人の子供に恵まれて、その一番下のまだ2歳もなら
ない子を膝に抱いて晩酌しながら、子供に食事を与える事が一番の楽しみ
だと話していました。
無骨な手の大きさが、これまでの彼の生活の歴史を刻んでいると感じます。
握手した手の感じで瞬間分かりました。

昔の移住者達の手と同じ感覚が蘇ってきました。
日本に到着して何度か握手した手は誰もその様な手の人は居ませんでした。
それは労働を課せられ、それにしか日本で生きるチャンスが無い人達の
手だと感じます。
生きる事に、また家族の生活に自分の人生を賭けている事を見せ付けら
れる様な感じでした。偉大な彼の手です、彼の手を握り締めた瞬間、言葉
でその苦労を慰めてやりたいと感じる手でした。

彼の様な手を持つ男はへこたれず、粘り強く、どんな環境でも生き延びる
知恵を持つ手だと感じます。私も過っては同じ手の大きさと無骨さを持って
いました。
人が私の手を見て、その大きさに感心して見ていたぐらいでした。

肉厚の分厚い、骨が突き出た感じの手です、アメリカ人からでも何度か言
われた手ですが、中国人が一度私の手を見るなり、貴方は金持ちになる
と、褒めてくれた事に驚いた事があります。

私のその手も引退して仕事を減らし、辞めてからは8年近く成りますので、
だいぶ痩せて小さくなった感じが致します。
私の自分の経験から彼の手を握り、心感じて、感激して、男として家族
に責任と使命を持って生き、働いている手だと感じていました。

誰もその手を卑しむ事は出来ません、生きる事は、家族を養う事は、男
の使命として自分の身体を使い、働きその報酬で自立して生きて行く事な
のです。

私は別れる時に、これからの彼の家族の幸せと、彼の健康と子供達三人
の健やかな成長を祈りました。









2013年5月13日月曜日

第3話。伝説の黄金物語、(79)

 
 手術の成功と報復開始、

サムの手術は長時間掛かっていた。
皆が黙りこくって待合室のイスに座り込んでいたが、ワイフと娘は皆に囲
まれて、ただ祈っていた。
その時、ダイアモンド商会の社長が何か小さな包みを持って、急ぎ足で
入って来た。第2次大戦中に中に多くの負傷兵や戦傷者を感染症から救
った、ペニシリンを持って来たのであった。

1942年から実用化された抗生物質は、多くの人々を救ったことが歴史
に残っているが、まさに誰でもが直ぐに手に入れることが出来る医薬品で
はなかったので、ワイフと娘にそのペニシリンを社長が説明していた。

ブラジルでは貴重な医薬品で、感染症からの救いの特効薬として、その
当時はそのペニシリンだけであった。皆がその話を聞くと、ホー!と驚き
と、感謝の眼差しでダイアモンド商会の社長を見ていた。

誰かが手術中のサインが消えたと、連絡して来た。
移動のストレッチャーに載せられたサムが、点滴を受けながら出て来たが、
そのまま特別介護室に移された。
しばらくしてユダヤ人医師二人が着替えて待合室に来ると、まずワイフの
手をとって、『私たちの全力を挙げて手術をしたが、まず100%の確立で
成功した』と明言した。

『感染症が起こらなければまず心配は無い・・、』と言ったが、ダイアモンド
商会の社長が包みを見せて、『ここに十分な量のペニシリンがある・・!』
と言うと、ユダヤ人医師は驚きの表情を見せると、包みを両手に握ると祈
るようにして、皆にその医学的効能を説明していた。

直ぐにサムに化膿症予防のペニシリンの処置がされ、それが終わるとユ
ダヤ人医師は安堵の表情で『これで万全だー!』と言ってワイフと娘の肩
を抱いていた。
皆がそれを聞くと安堵して、スミス商会の幹部が近くのレストランで食事
の用意をしたので、ここは切り上げて皆で軽い食事でも・・、と誘ってくれた。

皆は安心したのか、急に空腹を覚えて、それではお言葉に甘えて・・、と
言うと病院の裏手にあるカフェテリア形式のレストランに移動した。
今日の手術の成功を祝ってワインのグラスを上げ、そこでサンドイッチと
スープの食事をして、スミス商会の保安幹部が呼んだ護衛四名が到着す
ると、サムの病室とワイフと娘に二名ずつ警護が付くと、皆は帰宅して行
った。
富蔵達が飛行場のオフイスに皆で帰ろうとした時に、タクシーを降りたペド
ロが駆け込んで来た。帰りがけの保安幹部も席に戻り、モレーノと富蔵も
ペドロを囲んで報告を聞いていた。
『サムを襲撃した犯人の居所を探し出して、そこに見張りを付けて報告に
来た・・』と皆に言った。普通の住宅街の離れを借りて住んでいる事が判明
した。
ドイツ製BMWのオートバイを使って居る事も分かったが、パンク修理が
大変な後輪をパンクさせて来たとペドロが報告していた。

直ぐにレストランの片隅で作戦を皆で考えていたが、スミス商会の保安
幹部が、ここでは人目に付いて上手く会話も出来ないので、近くの我々保
安課が使うオフイスがあるので、そこに移動しようと誘われた。皆は異議
も無く、スミス商会の倉庫裏手にあるオフイスに車で移動した。

そこに到着すると、ペドロが犯人が潜む家の周りの見取り図を、テーブル
の上に広げた紙に書いて説明してくれた。そこの大家の家も、犯人の住
む離れも、犬を飼って居ないことが分かっていた。
直ぐにスミス商会の社長と幹部に、この事が連絡され犯人を抹殺するこ
とが決まった。

用心に複数の共犯者が居ることを考えて行動を開始した。
スミス商会の保安幹部は、住宅街のど真ん中に住む犯人を狙撃して抹殺
するのは簡単かもしれないが、ことがばれて世間にこの真相が広まったら、
まずい事になるのは見えているので、穏便に誰にも覚られ無いように抹殺
する事を主題とした。

保安幹部は98%は単独犯行と考えられるが、用心はしなければならない
と言って、酸素ボンベの様な物を出して来た。犯人が寝入った所を、この
催眠ガスを部屋に注入して昏睡状態にして注射を犯人に行い、心臓麻痺
と同じ症状で抹殺するというストーリーを説明してくれた。

保安幹部はナチの狂信的な信者を、これ以上増やさない事も重要だと説
明してくれた。自然死であれば仲間達がいても復讐とか、報復にエスカレ
ートする事態は避けられると見ていた。
モレーノもこの案は賛成をしていた、多くの逃亡ユダヤ人達が混乱してい
る欧州戦線の乱れに乗じて南米に逃げてくるルートがすでに出来上がっ
て、サンパウロでも目に付く様になっていたからであった。
ナチ狂信者からしたら目障りで、我慢ならない事であった。

サンパウロの巨大都市に潜むナチ党員や協賛する人間は大勢居ると考
えられ、ブラジルからアメリカやイギリスなどに送り出される資源と、戦争
資材はドイツを追い詰める物と考えられていたから、彼等の狙いも、それ
を阻止する事に動いていた。

スミス商会もダイアモンド商会も用心して、保安幹部を置いて対処してい
たのであった。もう一度皆で、卓上犯人襲撃演習を繰り返していたが、皆
が完全に襲撃行動を諳んじてしまうと、今夜遅くに決行すると決まった。

ペドロが見張りへの食料と、シュマイザー・マシンピストルを手に先に事
務所を出て行った。富蔵とモレーノは保安幹部とコーヒーのカップを合せ
ると乾杯して成功を祈った。
保安幹部が早く戦争を終わらせる為にも、ナチ狂信者達を阻止しなけれ
ばならないと言った。

2013年5月11日土曜日

私の還暦過去帳(372)


日本のエネルギー危機、

私が昨年日本訪問をして感じたのが、風力発電の少なさです。

私の住むカリフォルニア州は州政府による補助や風力発電に
対しての税金還付の恩典などがあり、電力会社は買い戻し
制度で余った電力は自動的に買い入れとなりますので、
近くの丘陵地帯に設置された風力発電だけでも、一つの市全体
を賄うくらいの電力を供給しています。

アメリカは08年はドイツを抜いて、世界で一番の出力国に
躍り出ました。しかし、日本は中国やインドより設置する
数が少ないのです。

日本は石油資源も天然ガスの資源も在りません、石炭生産は
昔に放棄して、全部海外からの輸入です。

原子力発電も同じく、ウラン燃料が輸入で賄われています。
その再処理も海外に委託して処理しています。

日本はそれだけの技術力もあり、風車発電の設備も輸出して
います、なんと言う国かー!

世界の10位にも入っていない、日本の新規導入はアメリカの
20分の1と言う数字です、これでは将来に危機的なエネルギー
問題が突発した時に、日本はどうするのだろうか?

オバマ大統領は3ヵ年で代替エネルギーを倍増すると言う計画です、
08年の約2500万キロワットの生産が倍となれば、5千万kw
となります。日本は僅かなもので、約190万kwしか発電能力

が在りません、これは昨年導入された世界中の風力発電能力の
2700万kwの内、アメリカと中国で半分を占めている事を
考えると、まさに政治の貧困と思います。

一度風力発電を設置すれば70年は自然のエネルギーで発電するの
です、原子力発電より安全で、炭酸ガスの排出もありません。

日本はインドより遅れているのです、資源が無い国で官僚・政府は
何を計画して、日本人の生き残りを考えているのだろうか?
今ある日本の電力会社の圧力か?
政府官僚の無知か?

選挙目当てのばら撒き給付金の半分でも使い、風力発電を設置したら
巨額な金が日本に還ってくる、それは自然エネルギーとして、
国民全体が恩恵を受けるのだ・・・!

個人や団体の土地に風力発電を設置したら、個人、会社、公共機関
が、その経費を全額免税としたら、日本は大きく資金的に活力が出
て来る、アメリカは太陽発電の設備費、7割は個人税金控除の対象と
なるので、不景気の世の中で急成長している。

その内に風力か太陽発電の電気で充電した、電気自動車が走り回る
世の中になると思います。

それこそ究極のクリーン・リサイクル・エネルギーと思います。

2013年5月10日金曜日

第3話、伝説の黄金物語、(78)


 手術の成功と報復開始、

サムの手術は長時間掛かっていた。
皆が黙りこくって待合室のイスに座り込んでいたが、ワイフと娘は皆に囲
まれて、ただ祈っていた。
その時、ダイアモンド商会の社長が何か小さな包みを持って、急ぎ足で
入って来た。第2次大戦中に中に多くの負傷兵や戦傷者を感染症から救
った、ペニシリンを持って来たのであった。

1942年から実用化された抗生物質は、多くの人々を救ったことが歴
史に残っているが、まさに誰でもが直ぐに手に入れることが出来る医薬品
ではなかったので、ワイフと娘にそのペニシリンを社長が説明していた。

ブラジルでは貴重な医薬品で、感染症からの救いの特効薬として、その
当時はそのペニシリンだけであった。皆がその話を聞くと、ホー!と驚き
と、感謝の眼差しでダイアモンド商会の社長を見ていた。

誰かが手術中のサインが消えたと、連絡して来た。
移動のストレッチャーに載せられたサムが、点滴を受けながら出て来たが、
そのまま特別介護室に移された。
しばらくしてユダヤ人医師二人が着替えて待合室に来ると、まずワイフの
手をとって、『私たちの全力を挙げて手術をしたが、まず100%の確
立で成功した』と明言した。

『感染症が起こらなければまず心配は無い・・、』と言ったが、ダイアモ
ンド商会の社長が包みを見せて、
『ここに十分な量のペニシリンがある・・!』と言うと、ユダヤ人医師は驚
きの表情を見せると、包みを両手に握ると祈るようにして、皆にその医
学的効能を説明していた。

直ぐにサムに化膿症予防のペニシリンの処置がされ、それが終わるとユ
ダヤ人医師は安堵の表情で『これで万全だー!』と言ってワイフと娘の
肩を抱いていた。
皆がそれを聞くと安堵して、スミス商会の幹部が近くのレストランで食事の
用意をしたので、ここは切り上げて皆で軽い食事でも・・、と誘ってくれた。

皆は安心したのか、急に空腹を覚えて、それではお言葉に甘えて・・、と
言うと病院の裏手にあるカフェテリア形式のレストランに移動した。
今日の手術の成功を祝ってワインのグラスを上げ、そこでサンドイッチと
スープの食事をして、スミス商会の保安幹部が呼んだ護衛四名が到着す
ると、サムの病室とワイフと娘に二名ずつ警護が付くと、皆は帰宅して行
った。

富蔵達が飛行場のオフイスに皆で帰ろうとした時に、タクシーを降りたペ
ドロが駆け込んで来た。帰りがけの保安幹部も席に戻り、モレーノと富蔵
もペドロを囲んで報告を聞いていた。
『サムを襲撃した犯人の居所を探し出して、そこに見張りを付けて報告
に来た・・』と皆に言った。普通の住宅街の離れを借りて住んでいる事が
判明した。

ドイツ製BMWのオートバイを使って居る事も分かったが、パンク修理が
大変な後輪をパンクさせて来たとペドロが報告していた。
直ぐにレストランの片隅で作戦を皆で考えていたが、スミス商会の保安幹
部が、ここでは人目に付いて上手く会話も出来ないので、近くの我々保安
課が使うオフイスがあるので、そこに移動しようと誘われた。

皆は異議も無く、スミス商会の倉庫裏手にあるオフイスに車で移動した。

そこに到着すると、ペドロが犯人が潜む家の周りの見取り図を、テーブル
の上に広げた紙に書いて説明してくれた。そこの大家の家も、犯人の住
む離れも、犬を飼って居ないことが分かっていた。
直ぐにスミス商会の社長と幹部に、この事が連絡され犯人を抹殺すること
が決まった。

用心に複数の共犯者が居ることを考えて行動を開始した。
スミス商会の保安幹部は、住宅街のど真ん中に住む犯人を狙撃して抹殺
するのは簡単かもしれないが、ことがばれて世間にこの真相が広まったら、
まずい事になるのは見えているので、穏便に誰にも覚られ無いように抹殺
する事を主題とした。

保安幹部は98%は単独犯行と考えられるが、用心はしなければならな
いと言って、酸素ボンベの様な物を出して来た。犯人が寝入った所を、
この催眠ガスを部屋に注入して昏睡状態にして注射を犯人に行い、心臓
麻痺と同じ症状で抹殺するというストーリーを説明してくれた。

保安幹部はナチの狂信的な信者を、これ以上増やさない事も重要だと説
明してくれた。自然死であれば仲間達がいても復讐とか、報復にエスカレ
ートする事態は避けられると見ていた。
モレーノもこの案は賛成をしていた、多くの逃亡ユダヤ人達が混乱してい
る欧州戦線の乱れに乗じて南米に逃げてくるルートがすでに出来上がって、
サンパウロでも目に付く様になっていたからであった。
ナチ狂信者からしたら目障りで、我慢ならない事であった。

サンパウロの巨大都市に潜むナチ党員や協賛する人間は大勢居ると考え
られ、ブラジルからアメリカやイギリスなどに送り出される資源と、戦争資
材はドイツを追い詰める物と考えられていたから、彼等の狙いも、それを
阻止する事に動いていた。

スミス商会もダイアモンド商会も用心して、保安幹部を置いて対処してい
たのであった。もう一度皆で、卓上犯人襲撃演習を繰り返していたが、
皆が完全に襲撃行動を諳んじてしまうと、今夜遅くに決行すると決まった。

ペドロが見張りへの食料と、シュマイザー・マシンピストルを手に先に事務
所を出て行った。富蔵とモレーノは保安幹部とコーヒーのカップを合せると
乾杯して成功を祈った。
保安幹部が早く戦争を終わらせる為にも、ナチ狂信者達を阻止しなけれ
ばならないと言った。

2013年5月9日木曜日

私の還暦過去帳(371)


訪日雑感(最終回)

アメリカに帰国する朝はいつもの様に早朝に起きて、カプセル内のテレ
ビで、朝の二ユースを見ていました。

しばらくして、朝の生理的現象も済ませてから、いつもの様に朝の散
歩です、しばらく歩いて、同伴ホテルから朝帰りのカップルが出て来る
のを見ていました。

渋谷もあちこちと歩きましたので、だいぶ地理には詳しくなりました。
ある横町の道は殆どが同伴ホテルの店が並んでいるという事は、いか
に需要が多いかと言う事を知りました。

人間様が住んでいる居る所ではあたり前です。昔の事ですが、アマゾ
ン河口の町で、べレムというかなり大きな町に滞在した事が有りますが、
38年前です。

そこでは昔のその様な栄華を誇った場所にある、日本人が経営する
ペンションに宿泊いたしましたが、そこの主人が、ここは昔の花街で、
その要求を充たすホテルであったと教えてくれました。

カラフルな色の壁が印象的でしたが、天井の高い昔の建物でなにか、
ゆっくりと扇風機が廻っているのが時間を忘れたかのようで、何となく
ホテルに塗られた色にマッチしている感じを受けました。

当時のそのペンションは田舎から来て町の学校に通学する子供達とか、
用事でしばらく滞在する人とかが居ました。旅行者も時々泊まっていた
様です。
渋谷のそんな中に1軒のホテルが、週契約のホテルとして看板を出し
ていました。長期滞在者ホテルです、中には営業方針を変えて、普通
のホテルに変えたものもあるのを見て、周りを見回して感心していました。

今日も散歩のついでに朝食を食べる事に致しました。馴染みになった
店で、同じ朝食を注文して食べていましたが、今日で終わりかと思うと、
何かこの思い出が学生時代の頃の思い出と混じって心に感じていました。

朝食が済んで、昨日荷作りをしていたので、ホテルに帰ると直ぐにシャ
ワーを浴びて着替えて、パソコンを開けて、ワイフに定時帰国のメール
を送っていました。

それが済んで、トコトコと歩いて、渋谷駅近くのバス発着所に行き、成
田行きバスのキップを買い、並んでいましたが、見ると外人さん達もか
なり並んでいました。

定時にバスは出発して首都高速を走り、定時に成田飛行場に到着いた
しました。
まるでハンコを押した様な運行です、日本人の几帳面さと思います。

まだ時間があるので、レンタルの携帯電話を返却して、宅配便の荷物を
受け取りに行き、来ていた2個を受け取りました。少々残りの日本円で
お土産を買い込み、それを大型トランクに全部詰め込み身軽になり、

機内荷物だけ持ち、航空会社のカウンターに預けて搭乗券を貰い、僅
かな荷物の小さなカバンだけで、搭乗前のランチを食べる事にして、
北ウイングの中を歩いていたら、丁度二ユースの時間でテレビを見なが
ら飲み物なども買えましたので、しばらくはテレビでアメリカの大統領選
挙の報道を見ていました。

その日のランチは、日本滞在最後のランチでしたので、和食店の美味し
い天ぷらソバを注文して食べていました。
汁に柚子の香りがしてその美味しさを堪能していました。
ランチの後はのんびりとして、入国検査を受けると搭乗口のロビーに入
り、新聞でも読んでいました。

来る時は大幅に遅れて来たのですが、帰りは定刻に成田発となり、ピタ
リと正確に離陸して行きました。短い日本滞在期間でしたが、実りのあ
る有意義な旅でした。

帰りはトロトロと寝て帰りましたが、サンフランシスコ到着前に起こされて、
朝食を食べさせられ、アレー!と言う間に着いていました。

荷物検査も無く、私のパスポートをチラリと見ると、
『ウエルカム・ホーム!』とか言ってくれ、出口を指差されました。

外に出るとカリフォルニアの太陽と乾燥した乾いた空気が歓迎してくれ、
私の肌がやれやれと言う感じで、爽やかな風を受けていました。

2013年5月7日火曜日

第3話、伝説の黄金物語、(77)

サムの悲劇、

サムも二ユーヨークでの新婚旅行から帰宅すると、前以上に仕事に精を
出していた。
家族でサムの御殿と言われる屋敷に仲良く家族で暮らす姿は、誰でも
がうらやましいと感じるのであった。
ヨーロッパ戦線はスターリングラードの包囲戦でのドイツ側の敗退が決
まり、戦線が崩壊始めていたが、戦局の緊迫はブラジル社会にも直に
影響して来た。
石油製品の逼迫と、工作機械製品の供給が止まってしまった影響が響
いていた。

日本でも戦局が連合軍に傾き始めていた頃であった。資源の供給が止
まり、枯渇して来たからで、富蔵達は大きな組織の中に生かされて、共
存して会社組織を維持して、多くの従業員達を抱えて運営していた。

赤十字活動も富蔵達にプラスに動いていた。辺地の金鉱に働く多くの砂
金掘りたちが 定期的に訪れる巡回医療に感謝として、僅かながらでも
資金を出す様になり、それにつれて多くの情報も集まる様になった。

巡回診療もガリンベイロー達の大きな支援が出来て、富蔵達のビジネス
にも大きく役に立って来た。毎回同じ場所で、定期的に開かれる医療診
察は、そこに定期的に市場が出来、人が集まり、食堂が開かれ、出店が
開かれ、定期的な補給基地として富蔵達が持ち込む物資が売れて大き
な収益も出ていた。

砂金の買取も順調で、公正な対価で払うビジネスは信用の積み重ねで、
ゆるぎない基礎を作っていた。
世界大戦の戦場で消費される物資は莫大な量となり、ブラジルにも大き
な負担と逼迫が来ていたが、富蔵達が細々でも奥地のジャングルの採
掘現場に送り込む石油製品、資材は大きな利益を出していた。
もはや富蔵達の会社が手を出してやる砂金採掘より、大きな利益が出
ていた。

その頃、サムがワイフと支援していたのは、ヨーロッパからの逃亡ユダ
ヤ人の援助と、救援であった。悲惨な状況から辛くも逃れて来た逃亡
ユダヤ人達が、やっと南米大陸に逃れて来て入国が出来ても、その環
境は経済的にも、精神的にも惨めな状態であった。

逃亡ユダヤ人の彼等が持って来た財産は僅かな手提げの着替えと、
洗面用具だけと言う事もあったが、彼等が頭に知識にして持って来た
頭脳は大きな財産となっていた。

富蔵達が後押しした赤十字の医療巡回診察も、軌道に乗り感謝の言葉
を奥地の金鉱などで得ていたが、そこに働く医者などがいつも不足して
いた。
サムがまだブラジルで医師免許が無い、逃亡ユダヤ人の医者が仕事
が無いので、何か出来る事はないか、相談に来ていた。
これもダイアモンド商会の社長と幹部、スミス商会の社長がブラジルの
赤十字の後押しを貰い、政府から、国際赤十字の派遣医師として巡回
医療の医者として認めさせていた。

これで大きな成果をあげていたが、現場での医療も当時のドイツの外
科医として、かなりの高名な人物であったので、田舎の赤十字病院で
は直ぐに全国から患者が訪ねて来るようになった。

サム達がスペインやポルトガル、フランスや、スイス経由で逃れて来る
逃亡ユダヤ人の受け入れをして居る事が知られる様になって、ある日、
サムがサンパウロに出て車で帰宅中にオートバイに乗車したナチの狂
信的な犯人から狙撃され重症を受けてしまった。車のドアを貫通した
拳銃弾が腹部に命中して腸管が傷を負い瀕死の重態となった。

用心していたが突然のナチ狂信者の行動は単独犯行で、組織も無い
人間を特定して看視する事は不可能であった。

病院の手術室に担ぎこまれたサムを見て、ワイフと娘がおろおろとし
て泣き崩れていた。富蔵は直ぐに緊急処置をされたサムをどうにかし
て助けようと、電話と電信で即刻各地に連絡をしていた。

ペドロにも電話して、襲ったナチ狂信者のオートバイの型と色、ナン
バーの一部が判明していたので、それと男の様子を詳しく教えて直ぐ
に探し出す様に命令していた。

それと同時にモレーノから弾く様に電信が飛び込んで来た。
『リオ・ベールデからあと2時間でユダヤ人の名医が駆け付ける・・』と
連絡が来ていた。
それと同時に、医薬品名と用意する機材の名前が書かれていた。
担ぎ込まれたサンパウロの病院では、すぐさまそれらが用意され、
飛行場では車が待機して到着を待っていた。
知り合いの警察署長に頼むと、警察のオートバイが二台で先導して
くれると言う事で、そのオートバイも待機していた。
病院では緊急処置が済んで、輸血も行われていた。

雲間から飛行機が見えると真っ直ぐに滑走路に小型機が滑り込む
と同時に、富蔵がハンドルを握る車に医者二名とモレーノが飛び込
んで来た。医者は白衣を着たまま、医療カバンを手に緊張して様態
を聞いていた。

緊急サイレンを鳴り響かせるオートバイを先頭に、サンパウロの病
院に凄まじいスピードで走り始めていた。富蔵はサムの無事を祈り
ながら、ハンドルにしがみついて運転していた。
外科手術では当時のヨーロッパでは名が知られたユダヤ人医者は、
ブラジルで助けられた恩に報いたいと祈っていた。

モレーノは無言で緊張した顔で前方を睨んでいた。
車内の医者二名は手術の手順をドイツ語で打ち合わせしていたが、
消毒アルコールの臭いがするので富蔵がバックミラーで見ると、医
者が自分の手をアルコールで消毒して用意を始めていた。

道行く車を蹴散らして疾走する警察オートバイはサイレンを響かせ
て病院の門を通過して病院の玄関先に滑り込んだ。飛行場からの
連絡でスミス商会の社長と幹部も待ち構えていた。

そのまま手術室まで行くと付いて来た皆に、『これからサムを力の
限りを尽くして手術する・・』と言うと
用意されていた手術着に着替えると医者は予備室に消えていった。

しばらくして手術中のサインが赤く出ると同時に、立ち入り禁止の
標識が出ていた。

2013年5月4日土曜日

私の還暦過去帳(370)

訪日雑感(22)

朝早く目が覚めて、寝床の中で昨夜の楽しいオフ会の居酒屋の様子を
思い出していました。
久しぶりの飲み会の参加です、何年ぶりかと考えていましたが、前回の
オフ会より賑やかだったと考えていました。
トイレに起きて、そのまま誰も居ないホテルの受付ロビーに設置されて
いるパソコンでメールをチエックして、返事など書いていました。

それから着替えて朝の散歩に出ましたが、いつものカラスが我が物顔
でゴミの山に居ます。今朝の散歩は街中を歩いて、あちこちの渋谷の
路地などを見て回りました。
小さな入り口の風俗店があちこちにあります。中にはアメリカなどで絶
対に見られ無い様な看板もあります。性風俗の歪んだ日本の社会が
見える様でした。

いつもの店で早朝サービスの定食をついでに食べる事に致しました。
散歩でかなり歩きますので、お腹も比例して空いて来ます。カウンター
に座ると朝早い工事関係者と見られる人が数人並んで食べていました。

アメリカで生活していると、朝食で生卵と納豆で味噌汁での朝ごはんな
どは余り食べる事はありませんが、食べると美味しいので、パンなどに
は手が出ません、それに塩鮭と海苔と沢庵が付けば、昔でしたら立派
な朝の豪華番でした。

朝食が終わりホテルに帰ると、早速に母校の収穫祭の見学に行く事
にしました。久しぶりの訪問です、今日のランチはバザーの屋台で何
か食べる予定にしていました。渋谷駅の直ぐ側から成城学園行きの
バスに乗車いたしました。

街中を見ながらぼんやりとしていたら、沢山の人が乗り込んできまし
た。皆が母校の前のバス停で降りたのには驚きました。
早い人は名物無料配布の大根などの持って歩いていますので、見
ると皆がそこに並んでいました。

ハハーン!と感じました。昔も今も同じです、沢山の人がそれを目当
てに来ているのです、お味噌や蜂蜜、御酒などが直売価格で格安販
売されて、そこにも行列でした。私は100円コーヒーを飲みに教室に
入り、サービスのバナナなど頂きながら休んでいましたら、昔の同級
生とばったり会いました。

懐かしい話などして、クラス会で再会を約して別れて、構内を散歩し
ていました。昔からしたら、様変わりした構内ですが懐かしい思い出
が沢山あります。
50年近く前は陸軍の自動車学校の宿舎がまだ残っていた時代で、
周りはネギや大根、白菜などの野菜畑が沢山残っていたのを思い出
していました。

あちこちの学生クラブが開いている屋台を覗いて、ランチを食べてい
ました。母親が子供達に何種類かの食べ物を広げて仲良く食べてい
る姿を見ると、何か昔を思い出していました。

クラス会にも仲間が大勢参加して、タイのバンコックに永住して
いる学友も来ていました。懐かしい人と再会して話も弾み、卒業して
44年ぶりに会った人も居ました。
夕方になるまで楽しい時間を過ごしてバスに乗りましたが、短い祖
国訪問で実りある時間を過ごせたのには幸せでした。

ホテルに帰り、明日の成田出発が早いので荷物を整理してその用意
などしていました。
その夜は沢山、屋台で食べたのが、まだお腹にありましたので、軽く
お蕎麦で済ませていました。
明日は渋谷駅前から成田行きのバス乗車するので、最後に大浴場
の湯船にのんびりと入って、早目にベッドに入り眠りに付きました。

2013年5月3日金曜日

第3話、伝説の黄金物語、(76)


サムの結婚式、

世界中を巻き込む第2次世界大戦は熾烈をきわめ、段々と資源を持つ
国が底力を出すようになって来た。
アメリカも全ての産業がフルに活動して、軍需産業もイギリスなどの友
好国に巨大な量の食料、軍事物資が大西洋を越えて送り出されていた。

ブラジルも食糧生産をフルに生かして、多量の余剰食料品をヨーロッパ
戦線に送っていた。ダイアモンド商会はビジネスチャンスを逃さず、スミ
ス商会と連携して物資の調達と積み出しの業務をしていたが、ある日、
サムが興奮してオフイスの電話で話している様子を富蔵は見ていた。

電話が終ると、あまり感情を表に出さないサムが、ハンカチで涙を拭き
ながら、感情を抑えて嗚咽していたのには、富蔵も初めてのことで驚い
ていた。
しばらくして、富蔵はコーヒーを入れたカップを手に、サムに話し掛けた。

サムはコーヒーをゆっくりと飲み干すと、彼女がスエーデン貨物船で無
事に英国に上陸して、アメリカの貨物船で明日、ブラジルのサントス港
に向けて出港すると連絡して来たのであった。

貨物船はアメリカ海軍の海上護送船団の中に入り、潜水艦攻撃から守
られて大西洋を渡るという連絡があったが、サムを泣かせて、彼の涙
を絞り出させた出来事は、彼女の娘がサムの子供であったと告白され
たからであった。

彼女がアメリカ滞在中にサムと知り合い、二ユーヨークで楽しく過ごした
時に宿した子供がサムの子で、ドイツに帰国した彼女はその様な事は
一切口に出さず、事業に打ち込み、成功させ、その娘を育てていた様
だった。

しかし、サムがどうしても彼女を忘れられなく、交換人質の中に彼女の
名前を入れたので、奇跡的にガス室送りになる前に、親子で助け出さ
れたと聞いて、泣きに泣いた様であった。

中年になっても付き合いの女性は居ても、結婚しなかった理由が富蔵
には分った気持ちで、それを聞いてほろりとしていた。
サムは貨物船がリオに寄航するので、そこまで出迎えに行くと興奮して
富蔵達に話していた。

それからが大変で、サムは毎日の通常業務など全て放り出して、二人
を迎える入れる家の準備をしていた。サムはその日から大工とペイント
屋に変身して、彼の住む家を大改造して、家具から絨毯まで新しく揃え
ていた。

キャビネット職人が来て、キッチンも全て新しくすると、棚なども全て新
装に変えられ、皆が驚く工事の速さと、驚きのサムの変身ぶりに目を
見張っていた。
飛行場から少し離れた湖の水上飛行機発着場近くの、見晴らしの良い
高台にある彼の家は直ぐに『サムの御殿』と皆が呼ぶようになった。

リオ行きの予定も彼のスケジュールに合せて飛行計画が立てられ、貨
物船の到着1日前にサンパウロからリオに飛ぶという計画が立てられ
ていた。
貨物船は護送船団の鈍いスピードに合せて、大西洋を横断してその後、
単独でリオに向かって航海して来た様であった。

貨物船が到着1日前に、モレーノがサムを搭乗させてサンパウロを離
陸していった。
富蔵はサムの代わりにオフイスの采配をして、事務の仕事に精を出し
ていたが、離陸して2時間ばかりして、サムの友人と言うアメリカ人か
ら電話が来ていた。

それはアメリカから飛んで来た、ダグラスDC3の輸送機の副操縦士が
盲腸で緊急に入院して、帰りの操縦の都合が出来無いと相談してきた。
誰か副操縦士の代わりに操縦席に座ってくれる経験のある操縦士が居
るかと言う相談連絡であった。
その操縦士はサムと陸軍航空隊時代の同僚と名乗っていた。

富蔵はDC3が駐機しているリオの飛行場近くに滞在していると言うこと
で、早速サムが泊まるホテルを紹介して、彼と直接話すように勧めた所
が、二つ返事で了解してくれた。

その夜、事態は急展開してサムから電話があり彼女と娘をリオで下船さ
せ、DC3輸送機の補助椅子に座らせ、サム自身は副操縦士として、
サンパウロに戻ってくると言う事であった。
その翌朝、モレーノが仕事を済ませて戻ってくると、飛行服のままオフ
イスに入って、ユダヤ教ラビのヨゼフ氏に電話していた。

『 貴方の関係する人達もサントス港に直ぐに間違いなく到着するので、
それは我々の世話と助力であるので、このたび社長のサムが結婚する
ので、全て貴方の責任で結婚式を取り仕切って貰いたい』と、申し渡
していた。

しばらくすると事務所にラビのヨゼフ氏が駆け込んで来た。
今朝早朝にリオの港に到着したアメリカ貨物船に同時に乗船していた、
3組の家族も出迎えた家族達と涙の再会を果していた事をモレーノは
目撃していた。そして・・、
その事は直ぐに電話でラビのオフイスにも連絡が来ていた。

サムもタラップを駆け上がると、エバという名前の彼女と娘を一緒に抱
きかかえると、廻りの人目もはばからず男泣きに泣いて居たと言う事で
あった。
新婚旅行は飛行機で二ユーヨークまで家族で飛ぶから、3日の後に
貴方の采配でユダヤ教での二人の結婚式を執り行って貰いたいとラビ
に申し渡していた。

モレーノはサムからエバがアメリカで出生して、ドイツに幼少の頃、両
親と帰国した時のアメリカ政府のパスポート番号、二ユーヨークの病院
での出生証明などを預かっ来ていた。

ラビのヨゼフ氏はそれを見るとダイヤモンド商会社長とスミス氏に電話
すると、すぐさまアメリカ大使館でエバのパスポートの再発行と娘の
マギーのアメリカ入国許可証が発給されると連絡して来た。
娘のマギーが、ドイツでの出生証明には父親としてサムの名前が記入
されていたからであった。

ラビのヨゼフ氏はモレーノから書類を全て預かるとか書類カバンに納め
て、厳かに
『私に全て任せて下さい、旅券の万全の手配と結婚式の全ての責任
を私が負います』と宣言した。

その日の午後、DC3の輸送機が滑走路にサムの家族が搭乗して着陸
した。それを待ち構えていた、ラビのヨゼフ氏から手配されたいた配下
の一人が、直ぐに旅券の写真を写して、書類に彼女達からサインを貰
うと、サムと彼女、娘の身長を測るとまず電話で何処か連絡していたが
その後、書類を持って自動車で急いで市内に戻って行った。

サムはアメリカ陸軍飛行隊時代の同僚と親しく話していたが、3日後に
結婚式をして、同時に新婚旅行をアメリカにするという同僚のアイデア
に感謝していた。

2週間後に二ユーヨークからまたサムと飛行機を操縦して帰ってくる時
には、入院している副操縦士も完全に治っていると言う事で、全てが
上手く行く予定であった。

結婚式前日、ラビのヨゼフ氏一行が車やトラックを連ねて来た。
結婚衣裳が試着され、靴や持ち物まで揃えられていた。トラックには結
婚の贈り物が積まれて何処でどう揃えられたかと考えるような早業であ
った。

翌朝、豪華なリムジンがサムの御殿の前に停車して正装の二人を待っ
ていた。ラビのヨゼフ氏の代わりに、全ての要件をテキパキと進めて采
配する若い男が二人居て、流れる様に物事をかたずけていた。

サムとエバが結婚衣裳で玄関に出て来ると飛行場の従業員達が並んで、
花びらを撒き歓声を上げていた。エバの後ろからはドレスのすそを持っ
た娘のマギーが歩いていた。

その日の正午にユダヤ教会で厳かなサムとエバの結婚式が執り行われ、
午後からは近くのホテルで披露宴が開かれた。
同じアメリカの貨物船に同乗してきた逃亡ユダヤ人達3組も家族達と全
員が出席して結婚を祝ってくれた。

翌朝9時、飛行場にはダグラスDC3がエンジンを響かせ、皆の見送り
でサムと妻子が同乗して次の着陸地、アマゾンのべレム目指して飛び
立って行った。

2013年5月1日水曜日

私の還暦過去帳(369)


 訪日雑感(21)

幹事さんのヘルプは私の様なアメリカ田舎者には助かりました。

池袋駅ではウロウロしている私を探して集合地点まで案内してもらい、まる
で人混みの大河の中から拾い出して貰った感じが致しました。

私の住むサンフランシスコ郊外の電車駅では混むと言ってもたかが知れて
います。日本で都内の大きなターミナル駅はまるで、大河の流れと思います。

渋谷のカプセルホテルに宿泊していましたので、渋谷駅には再三通いました。
幾つもある出入り口から吸い込まれ、また吐き出される人々の波の塊はまる
で、信号の度にどど・・・、と流れ出ると言う感じが致します。

はや、今年で33年となるアメリカ生活から日本の東京の思い出も薄れ、
自分が都内で生活していた事さえ忘れかけていました。

今では乗り換え無しに地下鉄も田園都市線と連結して渋谷駅に降りる事無く
通過して行きますが、バスもターミナル周辺から次々と吐き出されてくる人々
が、駅に向かって歩いてくる様は、インドの田舎道で見たヤギの大群が道路
一杯に塞いで行進してくる様を、対向して来た我々の車から呆然とヤギ達が
過ぎ去る様を一休みして眺めていた情景を思い出していました。

それにしても一極集中で、政治経済の中枢が東京にある事が問題と思います。
それからすると私が住んでいるカリフォルニア州は、実質の経済的な力をG
NP換算ですると、世界で7番目の国と等しい力が有ります。

州都はサクラメントで、経済の中枢はサンフランシスコと言う感じで、ロサン
ゼルスは生活と政治のソフトウエアーが集中していると感じます。

ITビジネスとそれに関連する企業やオフイス、工場はサンノゼ周辺でシリ
コンバレーと言う地域に別れ、それぞれ機能しているのです。

池袋駅周辺の思い出と言うのも東京に上京して最初に都内探索に歩き回った
頃の闇市の残りしか私の記憶にはありませんでした。
新宿駅周辺も私が50年近く前に来た時は、西口の闇市バラック小屋がま
だ残り、裏寂れた飲み屋が軒を並べていました。

何か歴史と時を飛び越えた空間にいる感じで、皆と幹事さんが案内してくれ
る居酒屋に到着いたしましたが、その雰囲気は懐かしく、思い出の郷愁を
感じる様でした。

先ず靴を脱いで、下駄箱に入れるのです。しばらく忘れていた日本の習慣
を思い出して、靴を脱いでいました。
案内された所は昔のコタツ式の足が伸ばせる様になったテーブルに座るの
ですが、私には助かりました。

今では正座などしたら足がしびれて、しばらくは車椅子でお世話にならなけ
ればならないと感じていました。
熊本のいとこの家でも側のソフアに座ってテレビなど見ていましたが、一日
座ったらそれこそ腰痛で大騒ぎになったと思います。

幹事さんの飲み物の注文で始まり、次々と到着する仲間の顔がそろい、そ
れは賑やかな集まりでした。
私はこの様な飲み会などは、久しぶりと言って良いほどの、永い間ご無沙
汰していた事で、私自身は飲まないのですが、楽しい、嬉しい雰囲気に呑
まれて、ついビールのコップを一杯ほど飲んでいました。

普段はインターネットだけの繋がりで、顔と名前が合わない人が沢山居まし
た。ヤーヤー!と言う事で紹介を受けても、はて・・、私のイメージとかけ離
れていた人も居ました。

それから、まさに私の考えていた姿で自己紹介をしてくれた人も居ました。
そんな人はまさに、心の中でニタリー!と笑いが込み上げて来ました。
私の百姓の無骨な手で握手するとまるで、マシュマロの様な柔らかい手で
まさに都会人と感じました。

2席のテーブルからまるで交互に笑い声と、ヤー、ヤー!と言う言葉でま
さに飲み会
の楽しみが咲いた様でした。日本語で話して、違和感無く通じる言葉で、
久しぶりに少し身体に吸収されたアルコールで、ほんわか・・・、となり心も
身体も酔っていました。

美人の若い女性もグビー!と杯を重ねて、それは盛り上がりも良いところ
でしたが、そんな楽しい時間はチョイとで過ぎて行き、また終わります、
名残惜しい時間でしたが、居酒屋の前で記念写真を皆で写して解散となり
ました。

その夜、定宿のカプセルホテルでは、お帰りなさいと言う事で、同じベッド
を用意してくれていました。
寝る前に大浴場でのんびりと汗を流して、ボーと浸かっていましたが、今
日の楽しいオフ会を思い出して・・・、

『幹事さんどうも有難う御座いました。楽しかったですよー!』とつぶや
いていました。