2013年4月30日火曜日

第3話、伝説の黄金物語、(75)

金塊で動く世界、

日本海軍の真珠湾攻撃で、火蓋が切られた日本と連合国との戦いは、ブ
ラジルも日本は敵に廻してしまった。

日本人移民社会では直ぐに指導者的な日本人を政府は拘束して収容し
てしまった。幸いに富蔵まで手が伸びる事は無かったが、これもダイアモ
ンド商会やスミス商会の社長や幹部が、ブラジルのコネ社会の裏で、上
手く動いていたからであった。

日本人達は集会も禁止され、移住地から出て移動も侭にならなかったが、
全てこれも日本人達を監視する為であった。

富蔵はブラジルで生まれて、上原氏の亡くなった子供の戸籍を使って、
パスポートから全て、身分証明まで完全なブラジル政府の物を所持してい
るので、その点は何も心配なかった。

上原家には日本が戦争に突入したので、情勢が落ち着くまでしばらくは
情勢を見るように教えていた。
富蔵達がサムのオフイスで仕事をしていたら電信が来た、その文面には
ドイツ利益代表の中立国スウエーデン人関係者から、人質のユダヤ人
逃亡者リストの人員は確保したと連絡が来たが、3組が両親、子供そして、
妹を一人残しては英国に行けないと拒否したと連絡が来ていた。

子供を連れて英国に行けないのならと拒否したのは、サムが希望した女
性も生きていてその中に含まれ、娘が一人居てその子供と英国に行けな
いのであれば拒否するとあった。

直ぐに返信が送られ、『万全を図ってその3組の希望もかなえる様にしな
ければ、10名の交換人員が一人でも抜け無い様に、関係者全員で合意
したのであるから、速やかにドイツ側はその件に対処する様に希望する』
と電文が送り付けられた。

ドイツ側は今では絶対に戦略希少物資の天然生ゴム10トンの契約を破
棄して捨てる馬鹿な事は出来なかった。
その電文の返信は簡単で『申し出を了解した、希望人員の全員とする』と
来た。
事の動きは早く、中立国スウエーデンに送り込まれた逃亡ユダヤ人達が
引き渡され、金の延べ棒と交換に10トンの生ゴムもドイツ側に引き渡さ
れた。
その翌朝早く、スウエーデンの貨物船が交換人員を乗せて、英国に向け
て出港したと連絡が来ていた。英国大使館から交渉の報告が来て、交換
の取引が無事に終了したので感謝するという伝言がもたらされた。

富蔵達はサムの事務所で、アマゾン河支流の金採掘現場が、異常な金
価格の上昇で高騰した金に目がくらんだ盗賊達に襲撃されたので、その
対策に追われていた。

200kgも重量がある金庫に補強で鋼板を溶接していたので、全重量は
400kgは軽く越していた様な金庫を7名ばかりの強盗が夜明け方の一番
手薄な時間に牛で曳く牛車を持ち込んで警備員二名をを銃で脅して縛り
上げて、持ち去ったと電信が来ていた。かなりの重量で、金庫の中の砂
金量も時価総額したら巨額な金額であった。

強盗たちはガスバーナーも無く、ハンマーとタガネなどで金庫を叩き壊す
という事は長時間の作業と考えていた。
鋼板で補強された金庫であったので、すでに追っ手も銃器を手に捜索し
ている事であり、必死に逃げながら作業していると感じられた。

マットグロッソに仕事で飛んでいたモレーノに至急の連絡が飛び、飛行機
でジャングル上空の捜索を頼んでいた。
その日の午後にはモレーノが操縦する飛行機に、二名の地上看視する
視力の良い若者が搭乗して、強盗達を探して現場上空を飛んでいた。

簡単に強盗達が金庫を載せて逃げる牛車を発見した。爆音で牛が暴れ
て隠れていた茂みから飛び出したからであった。用意してきたトンプソン・
マシンガンとライフルでまず牛を狙撃して倒すと、後は持って来た弾を撃
ち尽くすまで周りのジャングルを掃射していた。

それが終ると捜索隊に伝言筒が投下され、その現場の地図と、すでに牛
は射殺されたと書かれた紙が入れられていた。捜索隊は投下された地図
を目当てに、政府の連邦捜査官が馬4頭で現場に急行した。

国有地内の金鉱発掘現場で警備していた捜査官により、犯人達は銃を
持って抵抗した男一人が射殺され、他の6人は簡単に降伏した。
捜査官が操車する牛車を6名の強盗達が引いて、発掘現場の事務所ま
で金庫を持って来た。
6名の男達は事務所の前の広場まで来ると、全員が牛車の周りで、倒れ
るように伸びてしまった。金庫は傷だらけの姿であったが、ドアは開けら
れてはいなかった。
鋼板を溶接した金庫はハンマーなどでは、全然歯が立たなかったようだ。

その夜、広場では強盗達が見せしめに木に縛られて晒されていたが、大
勢の見物客が来て、馬鹿な男達だと罵倒されていた。

翌朝、長い鉄の鎖に一列に繋がれた強盗達が両側を馬に乗った捜査官
に囲まれてトボトボと町に連れて行かれた。

2013年4月28日日曜日

私の還暦過去帳(368)


  訪日雑感(20)

翌日は朝早く起きて、熊本からの旅立ちの用意をしていました。
大きな荷物が無いので、簡単に済んでしまい、朝食前に仏壇に手を合わ
せてお別れをしていました。

朝早い出発で、これで行くと今夜の池袋でのオフ会にゆっくりと間に合い
ます。朝食は簡単に済ませて家を出ましたが、駅にはいとこが送ってくれ
ました。

来年の再会をを約して駅前で別れましたが、特急電車で博多駅で新幹
線乗換えで東京まで行くコースでした。
レールパスがあるので、これが一番便利で安価な行動方法です。
比較的に空いている車内はのんびりとした感じで、駅弁などを食べなが
ら乗車していました。

小倉を通過する時に、窓際から母が居る方角に、『また来るから・・・』と
心の中で声を掛けていました。元気な間は、通って来ると思いますが、
後どれだけ続くか心配になりました。
日々に時が経つ事が早いので、何か自分と時間が競争をしていると思
います。

それは私が昔、住んでいた家の道路を隔てた向かいに住んでいたロ
バーツ氏はアメリカ海軍で第2次大戦中は潜水艦の乗組員でした。

ハワイの基地から、オーストラリアに行き、そこで最後の補給をすると
最前線のフイリッピン近海に日本軍の輸送船団を攻撃に出て、輸送船
2隻を撃沈して3隻目を攻撃中に船団護衛の日本軍ゼロ戦に発見され
爆弾投下で多大な被害を受け降伏後、捕虜となり、八幡製鉄の工場で
終戦まで捕虜収容所で働かされていたと言う人でした。

小倉駅から横浜まで終戦後、アメリカ軍の進駐の遅れから満員列車
にぶら下がり横浜まで、仲間3人と乗車したと話していました。

八幡からの引き込み線の機関車に乗り、米軍が飛行機で投下した食
料やタバコなどを、持てるだけ手にして乗車したと話して居ました。
タバコが現金代わりで、お握りでもミカンでも、何でも食べ物には困ら
なかった様です。
その彼が、一度死ぬ前に訪ねてみたいと話していたことを思い出し
ます。
『一度元気な内に・・・』と彼が話していた時を思い出して、なんと時間
が過ぎて行くのが早いかと感じていました。
八幡と小倉を訪ねたいという彼の願望も、昔の過去に消えて行きまし
たが、私が彼を連れて同行すれば安全に何も心配なく旅が出来ると
考えていました。

それも彼が病に倒れて、計画の全てが砕けましたが、今度は私がい
つの日に小倉に来れるかと言う事です、新幹線のスピードは一瞬に
小倉の景色を吹き飛ばすように消えて行きます。
心のカメラにパチリと写した光景だけが目に焼きついていますが、
消えないでいつまでも心の余韻にある私の思いです。

博多駅で乗り換えに時に買った駅弁を食べて、ぼんやりと、こっくり
と居眠りをしている間に横浜と言う声を聞いて、途中の景色も余り思
い出せませんでした。
東京駅から直ぐに山手線に乗り換えて、友人が日暮里駅近くで、お
風呂屋さんをしている銭湯で汗を流してから、池袋の友達のオフ会
に参加を考えていました。
十分に時間が有りますので、銭湯を訪ねてお土産を渡して、お茶を
ご馳走になり開店した一番風呂に飛び込みました。

手足を伸ばして、暖かい湯にのんびりと浸かる事は極楽です、しば
らくは開店して間もない人もまばらな湯に浸かりボーっとしていまし
た。
湯上りに番台にいる主人に挨拶して、裏の奥さんにも声を掛けてお
礼を言ってそこを出ました。ポカポカの湯上りが気持ちよく、日暮里
駅まで足取りも軽く歩いて行きました。

池袋では余りの人の流れで田舎者は、どこかさっぱり分からない待
合場所を探してウロウロしていました。何とか携帯で連絡し合って集
合場所にたどり着きましたが、この人の流れは、我々アメリカ田舎
者からしたら、目玉がまん丸となる凄まじさです。

さて・・、今夜はこれから皆と一杯、キュー!と湯上りに飲めると言
う事ですが、それは無理で、今では乾杯程度の付き合いですから、
お酒は余り縁がありませんが、楽しく話など出来ればと喜んでいま
した。

幹事さんの案内で近所の宴会場に皆と歩いて行きました。

2013年4月26日金曜日

第3話、伝説の黄金物語、(74)

世界情勢の激変、

富蔵達は世界情勢の緊迫感から、紙の紙幣からゴールドの金塊に変えら
れる経済世界を見ていた。
何か・・、いつも世界のどこかで紛争や、政治経済の緊迫感が起きると
必ず金の価格の上昇は今も昔も同じ様な現象が起きる事は間違いないこ
とである。

ビジネスでも、戦乱の紛争が起きると買い溜め、売り惜しみなどの情勢
が出て来た。産業界で一番重要視される石油エネルギーは、特にブラジ
ルのように当時は石油開発や精製する能力不足から高価となり、不足し
て政府統制の品目となっていたが、すでに備蓄を済ませている富蔵達の
ビジネスは心配が無かった。

皆の世界情勢緊迫の忠告を、それを重大に感じると直ぐに富蔵は自分達
の生き残りの行動を起こしていたが、まずは不足する物をかなりの資金
を使い、倉庫もあるので買い占めて物資貯蔵を始めていた。一つは日本
人移住地に住む人達が、今では買うことも出来ない様な品物も集めてい
た。それにはコネと人脈と、懐豊かな資金が何よりも役に立っていた。

貴重な小型高圧 ポンプなどはドイツ製からアメリカ製品に切り替えて
いたが、すでに輸入している品物はパーツの在庫を積み増した。
製品管理をしていたメーカーの従業員を引き抜き、部品のブラジルでの
生産も始めていた。
サムのサンパウロ郊外の飛行場近くには十分な敷地があったので、倉庫
兼用の工場も作られて、出来る限りの製品輸入も計り、ゆとりある資金
を使って対策を済ませていた。

富蔵は日本の参戦を完全に予測して、内密に日本の親兄弟にまとまっ
た金を送り、その準備と物資の買い溜めを指示していた。
あくまでビジネスとして家族に指示していたが、家族も薄々、戦局の緊
迫に気が付いて居た様であった。そしてそれが日米開戦で全て途絶して、
初めて富蔵の考えが親兄弟に理解された。
ブラジルでは国内の情勢から、富蔵達の会社も役員改選を行い、サムを
代表にして、モレーノを副社長格に上げて、副社長は3名として各地の
責任者としていた。
リオ・ベールデの根拠地はアマンダ兄弟から副社長として長男が責任者
として経営の統括をしていた。
富蔵はサンパウロ地域の責任者として副社長の影に隠れて居たがそれは
表面だけで、大きな力を持っていた。ヨーロッパから逃亡ユダヤ人達が
南米に逃げて来るルートも確立して、ブラジル航路の貨物船に英国から
重要人物や、ブラジルやアルゼンチンに家族が居るユダヤ人達が乗船し
ていた。

欧州戦局の重大さが連日報道される様になると、生ゴムなどの戦略物資
が極端に不足してきた。その頃のドイツでは、天然の生ゴムなどは殆ど
がブラジルとマレーシア半島からの輸入に頼っていたので、密かにスミ
ス商会のスエーデン駐在の幹部に内密に交渉があり、スエーデン経由で
幾らかでもブラジル産生ゴムが欲しいと内密な打診が来てい
た。
スミス商会は富蔵達に、サントス港の倉庫に積まれている天然生ゴムを
分けて貰えるか相談が来ていた。金の延べ棒と交換であったが、重要な
ユダヤ人が北欧に逃げる途中で、ベルギー国境で逮捕され、何とか重要
な情報を英国にもたらす為に是非とも協力してくれと、社長自身がサム
の事務所まで頭を下げに来ていた。
英国諜報機関からも、ダイアモンド商会の社長を通じて協力要請が来
ていた。

最終交渉にサンパウロに皆が集まり協議したが、スミス商会、ダイア
モンド商会の両社長と幹部達数名、ドイツ利益代表の中立国スウエーデ
ン人関係者、英国大使館の担当係官が一同に会して、サムと富蔵の英語
が分る二人が出席した。

穏やかに話しは進み、10トンの生ゴムに金の延べ棒と、囚われて居
る逃亡ユダヤ人の10名を付ける事で最終決着した。ユダヤ人の10名
のリストは、こちらから指名の人間でも良い事となった。

この事は早速、ユダヤ人会計士のラビの資格を持つ男に至急の連絡が
入れられた。指名する人間の人選枠で7名も余裕が出たからであった。
3名は英国政府の重要指名者が当てられた。
その夜、富蔵とサムが会合を終り、スミス商会手配のホテルの部屋に戻
ると同時に、ラビが駆け込んで来た。他にも3名のユダヤ人風の男達が
後ろに控えていたが、部屋に招き入れ、手短に今日の取引の粗筋を話す
と、後ろの男一人がサムと富蔵の前にひざまずくと、両手を合せて祈る
ようにして、二名の家族を助けたいと懇願してきた。

サムもユダヤ系アメリカ人なので、誰か英国に逃したい人物が居るか
富蔵はまず聞いた。サムはしばらく考えて居たが、生きていればと前置
きして、一人の女性の名前を言ったが、他の二人にも富蔵は聞いたとこ
ろが、一人は三名の家族で、他は妻が一人だと言った。
これで7名となったので交渉の人員枠が満杯になったと言って、各自に
交換する人員の名前から年齢、前住所、旅券番号なども重要な情報を得
ると用紙に記載して整理していた。
それが終るとワインを開けグラスに注ぐと、富蔵が『貴方達が信じる
神に成功を祈る』と言うと乾杯した。
翌日、ドイツ利益代表の中立国スウエーデン人に関係書類が渡され、
5日先にサントス出港のスウエーデン貨物船に生ゴムが積載された。

ついに1941年11月のカレンダーが剥がされた。12月のページが
飾られ緊迫感は否応に増した。もはや世界大戦が避けられず、日本は石
油、鋼材などの原料資材が全てアメリカから禁輸となって、その開戦時
期を秒読みしていた。

富蔵達は日米開戦となれば金の値段が跳ね上がると読んでいた。かなり
のストックも出来ていて、ビジネスとしてのチャンスも迎えようとして
いた。
刻々と迫り、激変する政治情勢が、国家間の狭間で戦争と言う力の対立
に激突する秒読みが、カウント・ダウンの速さで進んでいることを感じ
ていた。すでに7月25日には在米資産の凍結などが行われていた。

ダイアモンド商会の社長から電話があったと同時に、スミス商会から
も電話が来た。
電話の内容は簡単に『日本海軍がアメリカ海軍基地、オワフ島真珠湾
を奇襲攻撃した』ということだけであった。

ついに運命の時が来た、1941年12月7日、日本時間12月8日、
オワフ島の真珠湾攻撃に火蓋が7時49分に切って降ろされた。

2013年4月24日水曜日

私の還暦過去帳(367)

 

 
訪日雑感(19)

熊本滞在も最後の日でした。
目が覚めて、成田に宅配便で送るトランクの荷物を整理して、空きがあ
る場所にお土産を買い足す事を考えていました。
朝食が終わり、それから少し買い物に歩きました。

近所でもすぐ側ですから気軽に歩いて行けるショッピング・センターです。
子供の頃は、そこは阿蘇地方から豊肥線で送られてきた材木の集積地
で、製材所が在った場所でした。

かなり広い場所で、製材された木材が貨車に積み込まれているのを見
ていました。南熊本駅裏ですが、ノコクズの山が積み上げられ、杉の香
りが漂っていた懐かしい昔の場所でした。

三軒ほどのスーパーを歩きましたが、私が買いたい物が何でも有りまし
た。中々、アメリカで探すと見つからない物も、簡単に探す事が出来て
喜んでいました。買い物袋をぶら下げて帰りましたが、皆が自転車か
徒歩で来ていましたので、近所の方が多いと思いました。

荷物の隙間にお土産を入れて用意が全部出来ましたので、宅配便に
連絡すると昼前まで荷物を取りに来てくれると言う事で、安心致しました。
いとこと宅配が来るのを待っていましたが、予定どうりに来てくれ、これ
で帰りの荷物の心配が無くなりました。

それから近所の有名な豚骨スープのラーメンで通称、熊本ラーメンを
食べる事になり、それから宮本武蔵が修行で洞窟に篭り、五輪の書を
書いた『霊巌洞』を見物に行く事にしていました。

美味しいラーメン屋を再度訪ねる事になり、近所の店に行きましたが、
かなり混んでいました。私の次男が昔、熊本を訪れてその味を知り、豚
骨スープに病み付きになって、今でも食べたいと言うラーメンでした。

私は何度も食べた事が有りますが、いつ食べても美味しく感じるラーメ
ンです。代麺も追加して食べ、久しぶりにラーメンで満腹していました。

食後にいとこの車で、霊巌洞見物に行きました。次男も熊本は何処を
見たいと聞かれた時に、すぐさま宮本武蔵の『霊巌洞』と言った様です。
理由はアメリカで英訳の『五輪の書』を読んでいたからだと話していま
した。
大学で合気道を習い、ハカマを許されるまでになりましたが、木剣での
練習と、小太刀での組型で、剣道にも興味があったようでした。

黄色く色付いたミカンが鈴なりに茂っているミカン畑を通り、有明海の
穏やかな海面の輝きを遠くに見ながら坂道を登って行きました。

昔、私の父もそこを訪れて、五百羅漢の石像写真を沢山写して飾って
いました。思い出しますが、父が引退後にカメラをさげて各地の仏閣を
訪ねては仏像や、石像などの写真を写すのが趣味でした。

その父も22年も前に亡くなり、そのカメラも形見分けで弟姉妹など、親
戚に配られて1台も残っていません。
母が元気な時には家の茶の間に、その写真が飾られて居ましたが、
その家も今では無く、全てが過去に消えて行きました。

一人、一人の表情が違う石像の立ち並ぶ姿は160年も昔に奉納され
たと言う事で、洞窟まで歩く道脇に立ち並んでいました。
訪れる人もまばらな参道です、静かな静寂と山の澄んだ空気が感じら
れる場所でした。
霊巌洞の前で昔を偲びながら、ここで聖剣といわれた宮本武蔵に思
い耽っていました。宝物館に陳列されている、巌流島の戦いで使われ
たと言う木剣があり、見入っていましたが、時を隔てて彼の歩いた歴史
の一点が凝縮していると感じていました。

その夜は、いとこ二人の招待で近所の豆腐料理をご馳走して貰い、食
べながら子供の頃の話が尽きませんでした。

明日は新幹線で東京に戻る予定で、すでにキップを手配していました。
朝早い時間に熊本駅を出発するので、またいつ来るかと考えていまし
たが、名残惜しい気分が心に湧いて来ました。

いとこの家に料亭から戻り、私も東京で母校の収穫祭と仲間のオフ会
に参加してから、アメリカに戻る帰り支度が全て終わり、安心したのか
ぐっすりと寝入っていました。

2013年4月22日月曜日

第3話、伝説の黄金物語、(73)


 戦時下の金鉱ブーム

カンポグランデに滞在して、モレーノ達は正確な航空写真を撮影して、綿密
な情報を集めて来た。
若い社員も張り切って、飛行機に搭乗出来る喜びと、自分が探して来た新
しい金鉱の情報が間違いなく、大きな情報であった事に満足して居るようで
あった。
モレーノもペドロも段々とその詳細が分るにつけて、興奮してくるのが分った。
事実を目にして情報の大きさを再認識していた。

サンパウロに帰って来ると早速、航空写真を前に皆で今後の作戦を練って
いたが、まず国有地なので、ブラジル政府との土地の借用を願い出て、正
式に開発する事を考えた。
それは先日知り合ったユダヤ人のラビの資格を持つ会計士に頼んで、ブラ
ジル国有地の賃貸契約も代行をしてもらう事を早速頼んでいた。

彼はブラジルのコネ社会の裏を知っている人物で、金鉱発掘はその産金量
の割合で、税金としてかなりの割合を納めなくてはならないので、そこで商
売として、ビジネスを開く事だけで賃貸契約を願い出て、各地で物資運送と
資材販売の永い実績で簡単に許可が降りた。

富蔵達は航空機の輸送力があるので、どんな僻地でもパラシュートで物資
投下が出来る事が最大の強みであった。
サムも倉庫にストックされている物資投下用のパラシュートを早速出して来
ると、用意を始めていた。
モレーノはりオ・ベールデから若い元気がある男達を10名ばかり先発隊と
して、水上飛行機で送り込むと、金鉱側の平地のジャングルを動力エンジ
ンのチエンソーで伐採して敷地の用意を短時間で終らせていた。

DC-2の輸送機からまとめてパラシュートが落とされた機材と資材が瞬く
間に小屋を作り大型のテントが張られ、囲いの塀が作られ、屋根の上には
ブラジル国旗が飾られた。

自分で金鉱発掘より、大勢のガリンベイロ達が掘り出す金を吸い上げる事
がもっと早く、確実である事を学んでいたので、今回は国有地での採掘で
は間違いなく商売で、物の販売と砂金での交換が有利となっていた。

かなりの数の砂金掘り、ガリンペイロ達が富蔵達の商店を目当てに食料や
資材の購入に直ぐに来ていた。永年の実績で何を現場で必要とするのか
分っているので、それらを十分な量と価格で店先に積み上げていた。

彼等が注文する機材もかなりの速さで僻地のジャングルまで持ち込んでい
たが、それ相当の代金が支払われて、採算が十分に合う商売であった。

特に彼等が希望していたエンジン付き高圧ポンプはかなりの利益が出てい
た。彼等は現金の代わりに砂金を差し出して来たので、正確な秤で評価
して商品と交換していたので、たちまちその噂が広がり、かなり遠くから
でも砂金掘達が直ぐに来る様になった。

彼等が掘り出した砂金は現金と交換する時は政府の出先機関が出した金
交換所だけしか交換を認められなく、税金を払う事無く砂金を現金と交換
する事が出来る代わりに、2割は安く彼等は売らなくてはならなかった。

富蔵達のビジネスは彼等が不満であった高額な現金引換えの手数料を取
られる事に対してそれが作用して、砂金と商品の交換は市場相場の両替
で、ビジネスが急激に伸びて行った。彼等が毎日消費する食料や燃料は
数が集まれば、膨大な量となっていた。

それから独身者が多い荒れた世界では酒や女が付きものであるが、政府
の国有地内ではトラブルの原因となる酒・女・賭博はご法度で禁止され、
僅かに週末の昼間に酒が僅かに飲める場所が役人の監視で開かれてい
た。
富蔵のアイデアで移動野外映画館を開くと、びっくりするくらいの人間が何
処からか集まり、アメリカ映画の活劇映画と美人のダンサーなどが肌をあ
らわに踊る映画などは、男達の要求と重なり、暗くなる前から長い列が出
来ていた。
それにパン焼菓子職人を二名送り込んで大量に焼いた菓子やパン、ブラ
ジル名物の焼肉のシュラスコの串も売られたが、直ぐに売り切れで、肉も
空輸では足らなかった。
肉牛を毎月100頭ばかりジャングルを越えて送り込む事に成功して、
現場で毎日3頭が肉にされていた。

肉とパンとフェジョン豆だけの食堂も大繁盛して、どんな雨降りでも、小屋
の中に座って暖かい料理が安く、腹一杯食べられる事は皆の希望であった
ので、かなりの金を稼ぐ事になった。

他の人間は絶対に真似が出来ないビジネスで、私設の制服警備員がライ
フルと拳銃を腰に店と食堂を常時警備して、奇麗に店前と広場は掃除され、
自家発電の電灯の光り輝きは人を誘蛾灯の様に引き寄せて、賑やかに
一つの町として機能していた。

看護士を雇い、診療所に常駐させていたので、簡単な治療と医療は出来
て、薬品類もかなり揃えていたので、何かあると皆が頼りにしていた。
緊急の患者は飛行機の便があれば直ぐにカンポグランデの町まで運び出
して病院に担ぎ込んでいた。

オフイス内には短波無線機が取り付けられ、電報と手紙の取り扱いもす
る様にしていたので、ジャングルの中で完全な町の機能も出来あがって
いた。
オフイスの壁を利用して作られた私書箱も貸し出され、手紙がジャングル
の辺地まで、時間は掛かるが、カンポグランデの事務所経由で届く様に
なった。
ブラジル政府の監査官が巡回して来たが、富蔵達のビジネスのシステム
を見て、驚嘆していた。全てブラジル連邦政府のガイドラインを受け入
れて法の下で運営され、清潔さと、秩序が保たれ、暴利のビジネスもな
く、酒と賭博に売春婦の無法地帯などはまったく無縁で、野外映画館に
並ぶ砂金掘り達の姿を見て、監査官が驚いていた。

その監査官がサンパウロに帰り、富蔵達のブラジル国有地の賃貸契約
書を作成したラビの資格を持つ友人の会計士に、『良い会社を紹介して
くれた・・』と電話して来たと後で知った。

ブラジル連邦政府の郵便運送業務も委託契約していた事が評価され、
今回の借地契約が重ねて大きな信用を得たと富蔵達は感じていた。

時は動き、1939年は欧州戦線が拡大してポーランドがドイツに占領
され、英仏がドイツに宣戦布告を通知して第2次大戦が勃発した。
翌1940年、フランスがドイツに降伏して、9月には日独伊の三国軍
事同盟が成立した。
ブラジル国内も急激な情勢変化が見られ、政治と経済が大きなうねりと
なって動き出していた。
ダイアモンド商会やスミス商会の社長や幹部達が密かに富蔵達を呼んで、
世界情勢を説明してくれ、直ぐに日本も戦場に突入すると教えてくれた。

用事で会計士の事務所に行くと、そのラビからも避けられない戦いが始
まると言うと、日本の家族と何か連絡や、物を送りたかったら直ぐに行
動すると様にと勧められた。
開戦となればブラジルは敵勢国の資産凍結、送金停止、指導者の強制
収容などが起きると説明してくれた。

1913年8月、ミナス金鉱移民がブラジルに日本から到着してから
幾歳月、ミナス金山と契約した107名の者が、マルセイユまで日本船
三島丸で、そこからはフランス船フランス号に乗ってリオに到着した、
唯一の金鉱移民としブラジルに来てから富蔵達の世代までの永い時代を
経て、日本人の金鉱掘りの歴史も断絶となるかと考えると、富蔵は実感
として心に危機を感じていた。

それを感じると直ぐに富蔵は自分達の生き残りの行動を起こしていた。

2013年4月21日日曜日

私の還暦過去帳(366)


 訪日雑感(18)

知覧の特攻記念館の見学が終わって、外に出ると日が高く輝いて
いました。
何か、ボーッとした気分で自分の心の奥に何か、ズシンと重いも
のが入ったと感じました。
帰りのバスの中から若い特攻隊員達が、お母さんと慕って食べに
行った食堂を見ましたが、そこも記念館として保存されていました。

何かジーン!と来る物がありました。映画にもなった有名な話です。
特攻で沖縄の海に突入して帰らぬ人になっても、蛍になって戻って
くると話した特攻隊員がその夜、店の裏庭に季節外れながら蛍に
なって飛んで来たという話を聞いた事が有ります。

帰りの鹿児島駅前までの時間は、頭が空白の様になっていました。
戦争とは・・、何とむごい事をしなければならないかー!

私が住んでいる近くの電車駅の前に、アメリカ人のイラク紛争で戦
死した若者達を、一本の白い十字架にして、駅前の斜面に延々と
建ててあります。
毎日のように戦死者の数が書き換えられていた時期も有りました。

引退前はそこの前を車で毎週2回は通っていましたので、毎週の
如く増える墓標の十字架のシンボルが、私の心にむなしく感じてい
ました。

その頃はブッシュは威勢の良い声明を出していました。
『攻撃して来るのなら来てみろ・・、叩き潰してやるー!』という様
な、まるでテキサスのカーボーイが酒場で酔って話しているような
言葉でした。

電車でそこを通過する度に、何でこんなに沢山の若者達が戦死し
なければならないのかと心痛む感じでした。彼にはその様な心の痛
みが分からないのだと思いました。
イラク戦争を起こして、紛争介入を長引かせて、いまだに多くの若
者達を危険に晒している事は、まさに政治の貧困と指導者の欠陥
と思います。

すでに第二次世界大戦より、長期間の戦争状態です。
完全な無条件降伏など絶対にありえない戦いなどです。

相対する敵は宗教の基盤と信条の上に『聖戦』というスローガンを
かざして、相対して戦っているのです。
一人の敵を殺せば、その家族と親族と仲間の百人の敵を作り、それ
を相手に戦わなければならないのです。

先ずはなぜ、この様な戦争を引き起こされたかの根本原因が何も解
決されず、うやむのうちに指導者の頑な信条と間違った情報の元に、
間違った決断がなされたのです。
彼が任期切れの最後の記者会見で言葉少なく謝罪しても、多くの若
者の命は帰って来ません。これから膨大なその犠牲者の親族、家族
などに対しての債務も残るのです。
その戦争を引き起こした大統領もあと数日で消えて行きます。
最近の新聞では歴代の大統領の中で最低のランクに入る大統領と書
いています。
評価は歴史が決めると言う事ですが、任期が切れる前から酷評され
る大統領も少ないと思います。

夕方まだ日が明るい内に駅前のバス停に戻りまして、そこから駅裏の
小高い丘にある墓地に参拝する事に致しました。
去年に亡くなった父の妹が眠っているのです、散々お世話になった子
供の頃を思い出しながら、いとことタクシーに乗っていました。

いとこの案内で墓地を訪ねて、雄大な桜島活火山の夕日の山頂の輝
きを見ながら線香とロウソクを立て、お花を飾り両手を合わせていまし
た。遠い昔の50年以上も前の事が、走馬灯の様にぐるぐると頭の
中を駆け回り、過ぎし日々の思い出をかみ締めていました。

その夜は鹿児島市内で夕食を済ませて、熊本に帰るという計画でした。
いとこが鹿児島の黒豚郷土料理をご馳走すると言う事で、そこまで繁
華街を散歩しながら歩いて行きました。珍しい素材の料理で初めて口
にする料理でした。

やはり一番美味しかったのは、黒豚の脂身との三層肉を煮込んだもの
でした。
帰りの九州新幹線は少し飲んだビールで、ウトウトとしている間に熊本
に帰って来ました。
駅裏はまだ九州新幹線の工事中で雑然としていますが、完成すると駅
前も区画整理で見違えるようになる様です。

明日は少し近所で買い物して、荷物を成田飛行場に宅配便で送ろうと
考えていました。ありがたいことに、大きな荷物から開放されて旅が出
来る事は幸せです。

いとこの家から100mも行かない近い所に、スパーや、薬局、衣料
品店が入っているショッピングセンターがあるのには助かります、そこで
必要な物は何でも揃う様ですから少し買い物して、それを荷作りをして
送り出す様にしたいと考えていました。

その夜、いとこの家に帰り着き、熱いお茶を飲んで一息入れて、風呂
に入ってさっぱりしてから眠りにつきましたが、昼間の興奮からか中々
寝付かれない夜でした。

2013年4月18日木曜日

第3話、伝説の黄金物語、(72)


 親切は人の為ならず・・、

富蔵は歓待を受けて感謝の気持ちでいたが、モレーノもペドロもチリまで来た
事に喜んでいた。全てが無事に終了して金鉱主のオーナーの歓待に、全て
の苦労が吹き飛ぶ感じであった。

モレーノは一段落すると飛行場に行き、DC-2の点検をして給油に立ち会
っていた。帰りはサンチヤーゴから、ブラジル国内、イグワスの滝がある、
フォス・ド・イグワスまで飛び、そこからカンポグランデに生ゴムの集荷に行く
予定飛行路を確認していた。

帰りはアルゼンチン領内は通過のみで、積荷も無く、人間が3名だけの搭乗
では楽な飛行であった。飛行気象条件は飛行場で集めていた情報を元に検
討したが、低気圧の影響で山岳地帯の激変する気象条件の影響を避けるた
めに、今夜でもサンチヤーゴを飛び立つと決めた。

鉱山主の家族達と早目の晩餐が開かれ、最初の乾杯だけで食事が進められ
た。食後のコーヒーを飲む頃には、執事に飛行場から全ての準備完了の知
らせが来ていた。

逃亡ユダヤ人の奥さんがバスケットを用意して、中に飛行中の飲み物と軽食
を用意してくれていた。
鉱山主の家族全員で飛行場まで見送ってくれ、飛行服に着替えた富蔵達と固
く抱擁して別れを惜しんでいた。夕凪の風が止まった飛行場を夜間飛行の経
験豊富なモレーノが操縦桿を握り、飛行灯を点滅させながら離陸して行った。

アンデスの山頂付近は太平洋から吹き込む上昇気流に乗り、軽々と飛び越し
て月明りの夜空を一路ブラジルに向けて進路を向けていた。
明け方、空が朝焼けに染まる頃に、フォス・ド・イグワスの飛行場に着陸した。

スミス商会出張所の社員が早朝にも関わらず出迎えていた。
少しばかりの荷物の積み込みと、給油が行われる間に社員がイグワス滝の
近くのホテルに朝食の用意をしていた。

車を飛ばしてホテルに到着すると、すでに朝食のテーブルの用意が出来て
いた。朝日が差し込むテラスの木陰で鳥の鳴き声と、滝の水音をを聞きなが
ら朝食を済ませると、社員の案内で富蔵達三人は世界でも有名なイグワス滝
の見物に出た。

初めて見る壮大なイグワス滝の流れを見て富蔵達は驚嘆の声を上げていた。
何か自然界の創造の神が造ったと考える様な滝であったが、富蔵達が十分
に満足する見物であった。飛行場に戻ると、すでに積荷も給油も終り、社員
が待機していた。

モレーノが機体の点検をして、積荷の確認をすると社員達にお別れをして離
陸して行った。カンポグランデまでは単調な飛行であった。
到着すると待ち構えていた作業員が積荷を降ろして生ゴムを搭載すると折り
返し、昼には給油も済ませてサンパウロに向けて飛び立った。

そこで生ゴム集荷に関わっていた富蔵達の社員の一人がアマゾン奥地から
天然ゴムの採取をするインジオ達の情報として、アマゾン支流の一つで大規
模な金鉱が発見されたと聞き込んで来た。欧州の戦線拡大で世界経済が紙
の紙幣より、金の延べ棒での決済が有利な取引とされる様になったからで
あった。金価格高騰はゴールドラッシュを引き起こしていた。

その社員の提言で偵察の飛行機を飛ばすと言う事を富蔵達は話し合ってい
た。モレーノは場所的には辺地の未開地域で資材、食料、医療や連絡網な
ど、まったく出来ていない現場に拠点を開く事は、そこを押さえる事と同じで、
早急に協議して行動開始すると決めていた。それには富蔵も大賛成であった。

その日の遅くサンパウロにDC-2の飛行機は到着した。
荷降ろしは作業員に任せて、モレーノと富蔵はアマゾン上流のゴールドラッ
シュをサムを交えて話し合っていた。結論は早急に偵察の飛行機を飛ばす
と言う事に結論が出た。
事は急げという事で翌朝早く、モレーノとペドロが航空写真を撮影して、現
場上空から地形を観察して来ることが決まった。カンポグランデには積荷が
あるので、それを運びながら飛ぶという事であったが、そこで情報を聞き込
んで来た社員を搭乗させ、現場上空に行くという手筈が決まっていた。

アマゾン河支流には砂金採掘場が点在して、かなりの数の砂金掘り、ガリ
ンペイロ達が動いていると言う事も確認していた。

その間、富蔵は溜まったサンパウロの事務処理をして、サムと情報収集を
していた。すでに砂金堀達がアマゾン河の上流から掘り出した砂金の量は
100kg近い量が産出されて、毎週かなりの量がサンパウロまで運ばれ
て来ているのが確認され、その量の豊かさが分った。
富蔵は事務処理中に手紙の中に税務署からの呼び出しが来ていることを確
認したが、明日の朝の呼び出しであったが、丁度良いタイミングの日時で
あった。

アマゾン上流の砂金発掘現場に行く前に済ませておきたいと考えていたの
で、翌日、サンパウロの指定の税務署に出かけた。
呼び出しの手紙を手に、廊下のイスに座って順番を待って部屋に通された
が、難しい顔をした税務官が色々と質問して来た。

富蔵は丁重に返事していたが、その税務官がマジマジと富蔵の手の指輪
を見ていた。突然、言葉つきまで激変して、相手が丁重に富蔵の顔を見
ながら、助手を呼ぶとコーヒーを出す様に命じていた。

事務室の隣の応接室に案内されると革張りのイスを勧められ、扇風機が
点けられ何処か電話で話して居たが、助手に命じて順番を待っている人達
に、今日は急用が出来たから、午後からまた来るように命じていた。
富蔵は内心不安な心でコーヒーカップを手に、応接室に座っていた。

待つ事少々、慌てて部屋に入って来た初老の男が、腰をかがめて富蔵に
自己紹介をした。ヨゼフと言う名前で、税務官は自分の息子だと教えてく
れた。

自分はユダヤ教のラビで活動していると説明してくれ、ラビは聖職者では
なく、教師や指導者、そして律法学者としての役割を持っていると言って、
長老的立場で「律法学者」が分かりやすいのではないかと教えてくれた。

ユダヤ教とは神が定めし律法を守って、人の道に外れぬ生活を行なえば、
終末の時が来たときに必ず神からの魂の救済がある・・・と言う教えであり、
その律法の確立を目指して律法を研究し、研究したものを選んで、ユダヤ
人民に教え導く役割を担っているのがラビと言うわけですと説明してくれた。

富蔵は神妙に税務署の応接室でヨゼフと言う男から話を聞いていたが、
ヨゼフは富蔵の前で膝を折ると、震える手で富蔵の手を握り締め、
『この指輪を手に持っている人は私が知る限り数える人だけです、特に
真ん中にダイアモンドをはめ込んだ指輪は特別です。貴方はユダヤ人で
はないが、何か特別の事をしてくれたと思います・・』
と言うと、うやうやしく指輪にキスをすると税務官の息子を促すと

こんな所では失礼にあたると言うと、税務所前に駐車していた車に、二人
で脇を抱えられるようにして丁重に車に乗せられてしまった。

着いた所は閑静な場所の高級レストランで、ランチには早いが、まずは
お話でも・・、と言うと大きなテーブルに座らせられ、食前酒を前に、税務
官の息子と三人で話を始めた。
話が進み、事情が全部分るとラビの資格を持つヨゼフが改めて感謝の言
葉を言うと、欧州のナチ政権のユダヤ人排斥の惨状から逃げ出す人々を、
スミス商会とも関連して救助活動していると話してくれた。

アメリカのカリフォルニアに行った逃亡ユダヤ人は、これからの戦局の情
勢を変化させる情報を持っていると説明してくれた。

その日の午後、ランチを三人で済ませて帰宅する頃には、ヨゼフ氏が本
業の税務コンサルタントも富蔵達にしてくれる事になり、ブラジル国有地
の賃貸契約も代行を請け負ってくれた。

帰ってからその事をサムに話すと、余りの良い話に彼はびっくりして聞い
ていた。

2013年4月16日火曜日

私の還暦過去帳(365)


  訪日雑感(17)

知覧の茶畑を見ながら峠を降りて行きましたが、鹿児島は暖かいのか、緑
が綺麗でした。
竹薮も風に揺れてその爽やかな姿を南国の空に似合う様に、山陰に見えて
いましたが、いとこが知覧に行く前に、薩摩藩時代の武家屋敷を見学しよう
と言う事になり、バスを降りました。

その薩摩藩時代の武家屋敷は史跡に指定され、その屋敷群が今でも丹念
に手入れされ、保存されていました。
刈り込まれた生垣と格調ある家のたたずまいで、昔をしのばせる武家屋敷
でした。
座敷から眺める庭はどれも枯山水の設計で、当時は水が貴重で、池など掘
って流し水などを通す事は無理だった様でした。

それにしても昔の家ですが合理的に設計され、石垣と庭を武家の屋敷の様
に一旦戦場となれば、即応できる様に配置してあり、外からは中が見えな
いようになっていて、正面玄関の入口もL字の様に石垣を配して設計されて
いたのには驚きました。

余り人通りが無い武家屋敷内の道を歩いて、外れの茶店に寄ったら、知覧
茶をご馳走してくれました。お土産にお茶を一袋購入して、そこからはタク
シーで行く事にして、しばらく休んでいました。

知覧の特攻記念館はすぐ側ですが、歩くと30分は掛かるとかで、タクシー
で行くと時間の節約になりますので、茶屋のおばさんにタクシーを呼んで貰
いました。
タクシーで5分も掛からず到着して、先ずはランチの腹ごしらえをすること
に致しました。
特製の黒豚ラーメンを注文して鹿児島の味を楽しんで食べていました。
スープが一味違う感じで、濃くのある味は豚骨を煮込んだもので、少し白濁
していました。

いとこが先にランチを食べ様と誘ったのは、特攻記念館を見学した後は、
人により食欲が無くなるという話でした。

それだけショックな感動を受けて、呆然として、胃がキリキリと痛むくらい
の緊張感を身体に受けるので、食後一休みをして、見学を勧めてくれたの
でした。いとこは何度か来ているので、その様なことを知っていた様でした。

駐車場は多くの観光バスと自家用車が並んでいました。
どちらかと言うと年配の人が多いような感じを受けましたが、若い学生が
先生に引率されて見学に来ていました。

私は入り口で入場券を買いホールに入ると、身体がキユーン!と緊張する
のが分かりました。いとことは入り口で時間を決め、待ち合わす事にして、
自由行動をして見学をすることにしていました。

矢印に沿って歩くと、ホールの正面に特攻機が飾られ、両側の壁際には
特別攻撃に出撃して戦死した多くの若いパイロット達の遺影が飾られてい
ました。若い人は17歳です、微笑んで笑っている姿の遺影もあります。

びっしりと並んだ遺影の凄まじい数に、心がギユー!と震える感じでした。

その並んだ遺影の下に整然と陳列された実筆の遺書やコピーなどが並び、
誰でも見て読むことが出来ます。数々の遺書を読んで行くに連れて、何と
平和な今の世に生きて居るのかと言う事を、心に切実に感じました。

そして、この様に特攻機に搭乗して敵艦に突入して行った若いパイロット達
を考えると是非とも同じ世代の若者達に、この遺書を読んで貰いたいと感じ
ました。
日本の今の平和な礎に、この様な方々の貴い命があったからと、心から
感じました。

『特攻出撃まであと2時間となりました、』と言う書き出しの言葉で始まる
遺書を読んだ時、私の涙腺から涙が止まらなくなりました。

しばらくは涙で遺書を読むことも出来ませんでした。

あと数時間で自分の命が特攻機と四散するというのに、父母を思い、兄弟
姉妹達に別れの言葉を残し、自分の祖国を守る気迫を、乱れる事 のない
毛筆で遺言を書き残して飛び立った若者の心を痛いほど感じ、 その純粋さ
に心うたれました。

私はしばらく歩く事が出来ずに近くのイスに座り込んでいました。

心を落ち着かせていた時に、44年の昔に、南米のパラグワイ移住者で、
満州から引揚げてパラグワイに移住して来た人でしたが、ソ連軍が満州に
雪崩を打って攻撃して来た時に、夜襲でソ連軍に万歳突撃をして、日本人
の避難民を少しでも逃すために犠牲になった方々の話を聞いた事を思い出
していました。

部隊長以下、全員が軍刀や銃剣を付けた小銃をかざして、隊長が『皆と
は靖国神社で会おう・・』と声を掛けて、先頭でバンザーイ!と声を掛ける
と、ウオー!と声のあらん限りで突撃して行ったと聞きましたが、照明弾の
撃ち上げられた輝きの下で、手投弾の炸裂、ロシア軍の自動小銃の交錯
する曳光弾の中で、バンザーイと叫んで倒れて行ったという事でした。

そして、その話をしてくれた方は・・・、
自分は乳飲み子を抱える妻と子供の顔を思い出して、どうしても万歳突撃
が出来ずに逃げたと話していましたが、生き残ったのは数えるほどだった
と話していました。

当時、年配の彼が神風特別攻撃隊員の特攻精神に敬意を表して、

『死んで神と言われるより、生き残ってこんな南米で百姓して居るのがも
っと辛く、苦しい道だ!』

とポツリともらした言葉が心に残っています。

2013年4月14日日曜日

第3話、伝説の黄金物語、(71)

秘密情報の価値、

昨日、富蔵は真っ先に酔い潰れて寝てしまったので、余りその後の事は記憶
に無かった。酒に弱い富蔵は何度かの乾杯で酔ってしまった。

テーブルのご馳走も少しばかり口にして、乾杯のグラスを合せに来る人と挨
拶していたが、いつの間にか使用人達に脇を支えられて部屋に戻った様だと
思った。
しかし今朝はぐっすりと寝て目覚めは爽やかであった。シャワーを浴びて風
呂から出ると使用人が朝のコーヒーをベランダに用意していた。

直ぐに執事がドアをノックして富蔵に朝の挨拶をしに来た。ユダヤ人の一人
が今日の午後、アメリカの貨物船でロサンゼルスに出港すると告げ、その前
に朝食でも同席して、お話をしたいと申し込んで来た。
モレーノとペドロはまだぐっすりと寝ていると執事が教えてくれた。

富蔵は願っても無い事だと直ぐに了解して、同席を願っていた。
執事は使用人に命じて、急遽テーブルが作られ、朝食が用意されていたが、
それと同時に中年のユダヤ人が手を差し出しながら部屋に入って来た。

テーブルに座る前に彼はもう一度、今回の助力に感謝してから、自己紹介を
していたが、アメリカのパスポート名のデイヴィドと言った。
出生はアメリカのカリフォルニア州だと言ったが、ドイツ語のアクセントなが
ら英語も堪能で、富蔵とは英語で話していた。
欧州での戦線拡大で、資源の獲得危機が増えてから、商売人達のユダヤ人
迫害がナチス・ドイツ自身の首を自分で絞めていると話していた。

彼は機械生産の重要部品であるベアリング生産に詳しい技術者で、ベアリ
ング無しでは飛行機のエンジンも戦車の車軸も生産出来ない事を説明して
くれた。

そして彼が関与していた生産設備のラインで重要な情報をキャッチしたので、
それをマイクロフイルムに写し、金鉱山主の家族の手助けで一緒に脱出し
て、逃亡ユダヤ人となったと説明してくれた。

富蔵が知らない別の世界のビジネスであったが、ベアリング生産に関与し
てそこから得た機密情報を持ち出した事は、何か重要な戦局を左右する情
報を握っていると富蔵は感じた。
執事が『時間が無いので、港まで車の中でも続きを話しますか・・』と聞いて
来た。
お互いに話は尽きなかったのだが、ユダヤ人は鉱山主とその家族達に、お
別れの挨拶をして玄関先で、一緒に逃げて来たユダヤ人家族と何度も抱き
合って別れを惜しんでいた。
富蔵は鉱山主の家族達に、港まで見送りしながら話しの続きをすると言うと、
主人が執事を呼んで、何事か話していた。

目立たない車が用意され、執事が前に座り、後部座席にユダヤ人と富蔵が
座って、貴重な時間を惜しむように話し合っていた。車の後ろに護衛の車両
が1台付いて来るのが分った。

富蔵にとっては絶対に他では聞けない生の情報であった。彼の言葉が貴重
に感じ、その言葉を噛み締めるように聞いていたが、港までの道は短く感じ
た。
貨物船のタラップ下まで車を横付けして、タラップの下のテーブルで出国ス
タンプを貰うと、富蔵と抱き合い、アメリカに是非とも尋ねて来る様に言うと、
スミス商会の社長や幹部に宜しくと言う言葉を富蔵に頼むと、トランク一つ
を手に、タラップを駆け上がって行った。

その帰り道、執事が『ランチには早いのですが、美味しい日本食が食べれ
ますのでご案内致します。』と言って港下町のレストラン街に連れて行って
くれた。

店に入ると連絡が来ていたのか、日本人の初老の男性が出て来ると、下に
もおかない様子でテーブルに案内してくれた。彼は自己紹介して、昔、船の
コックをしていてサンチヤーゴの港で逃げて、ここに住み付いたと言っていた。

富蔵が驚くような魚の生き作りの皿を出して来た。執事が冷えた年代物の
白ワインを持って来ると、チリ名産ですと勧めてくれた。鉱山主の心からの
気使いを富蔵は感じていた。

執事と二人で午後のひと時をゆっくりとワインを飲みながら日本食を楽しん
でいた。執事が食事をしながらメンドッサ飛行場の様子を教えてくれたが、
会社の連絡網からの情報で細工に話が聞けた。

タンクローリーの運転手の襲撃犯は脳震盪でも起したのか、トラックの陰
に身を潜めている所を、不意に探しに来た同僚の動かしたトラックに轢か
れて即死したと判明していた。

富蔵達のDC-2が飛び立ち、しばらくしての事件で、給油代金も全額ポ
ケットで発見され、タンクローリも全て異常が無く、事故として処理された
と報告が来ていた。

全てそこで逃亡ユダヤ人の情報が埋没して、切れていたので富蔵は執事
からの話を聞くと胸をなでおろしていた。
メンドッサ在住の上原氏の親戚に今回世話になっているのに、預かって来
た小荷物も渡す暇さえなく、急いで離陸して逃げるようにチリに飛んでいた
ので、それを執事に相談すると、お容易い御用だと荷物の引渡しを請け負
ってくれた。

毎週のようにサンチヤーゴからメンドッサに社員が飛ぶのでお預かり致し
ます、と引き受けてくれた。
帰りはサンチヤーゴから、ブラジル国内、イグワスの滝がある、 フォス・ド・
イグワスまで飛び、そこからカンポグランデに生ゴムの集荷に行く予定が
決まっていたので、ありがたい申し出に感謝していた。

チリ土産のワインも渡して貰うように頼んでいた。
板前の日本人に丁重に感謝のお礼を言いって頭を下げると、また来て下
さいと何度も言ってくれた。

執事に今日の接待を感謝して屋敷に戻ると、やっとモレーノとペドロが起
きたばかりであった。今日の日本食の豪華なランチのお礼を言うために、
鉱山主のいる居間に行くと、コーヒーが出されて、側のイスに座るように
勧められると、彼はおもむろに取り出した小箱から指輪を出すと、これを
是非とも納めて下さいと差し出して来た。

それは純金とプラチナで細工され、ダビテの星を図案化して真ん中にダ
イヤモンドがはめ込まれ周りにエメラルドが光り、大き目の見事な指輪で
あった。
これはお守りとして身に付けて下さいと言うと、富蔵の左手を取り、指輪
を指に差し込んでくれた。
富蔵は見ただけで気に入り、そのデザインと型の素晴らしさを見ていた。

それがこれからの富蔵の人生でどれだけ役に立ち、救いになったか分か
らなかった。
それはブラジルに帰り、税金の申告での問題が出た時に直ぐにその指
輪のお守り効果があった。

2013年4月12日金曜日

私の還暦過去帳(364)

 

 
旅と魚の食い歩きー!

去年の2008年を振り返ると、色々な事が有りました。
まさに旅に明け暮れた日々でした。
旅に出たのが暮から正月過ぎ、2週間あまりインド各地を歩きまして、正月
は二ユーデリーの首都で過ごしましたが、魚らしき物は持参していた魚の
缶詰でしたが、サンマやサバの味噌煮と、あとはウナギなどでした。
御飯は問題ありませんでしたが、日本食レストランに行って魚らしき物を食
べたのは2回ほどでした。

私の感想は缶詰の魚がまだましでした。
3月の終わりはメキシコのバハ・カリフォルニアのカボに一週間滞在してマ
グロを1ヵ年分ほど食べて来ました。そこにコンドの部屋を購入したのは、
そろそろ10年も前で、カボがバケーション・リゾートのブームになる前でし
たので、格安で手に入れたものでした。

それと、ここで毎年開催されるカジキマグロの釣り大会は、ここメキシコの
カボが一番のマリーン・スポーツのメッカで沢山の魚が釣れる事でも世界
でも有名だからです。
魚を食べる事が好きですので、行くと毎日、釣り船が港に帰ってくる時刻
を待ってから、生きの良い魚を買う事にしていました。

50cmぐらいのメバチマグロなどは20ドル程度で一本買えますので、身
だけ降ろして貰い、片身を2日ばかりで食べて、後半分は冷凍してサンフ
ランシスコの自宅に持ち帰りますが、魚はメキシコで、出国前に、FDAの
検査官の検疫を受けて、アイスボックスを封印をして、テープを巻いてく
れますので、それでアメリカ入国時はフリーパスです。

ガリガリに冷凍させておけば丁度自宅に着いた時はアイスボックスの上
部に入れた身が食べ頃に解凍していますので、早速刺身で食べていま
した。アイスボックスにぎっしりと入れてくると、かなりの重さになりますが
楽しみの一つです。

5月の終わりには完全引退の第一歩で、先ずは区切り良く、ワイフと
6~7月に46日間ほど、南米各地を歩きました。
今までの私の仕事、雑用、家庭菜園の作物管理の百姓仕事など、全て
を放り出しての旅でした。
その間は毎日、旅に明け暮れて、あちこちで自炊をしながら、電気釜持
参の旅で、昔言葉で言えば木賃宿と言う類の安宿のペンションに泊まり
ながらの旅でした。

ホテルも格安ホテルばかりで歩いていましたが、苦にもならず一日、
14時間もバス乗車したことも有りました。
ペルーのリマでは泊まった宿の近くのスーパーで、季節が反対でカツオ
が旬で釣れていた様で、40cmぐらいの大きさで、一本7ドルもしません
ので、余りの新鮮さにその場で衝動買いをして、身だけに降ろして貰い
ましたが、スペイン語を少し話しますので、

この魚は一本幾ら・・?これ一本買うの?  
そうだけど・・!、それではまけてあげるよ・・!

とかなんとか言う事で、早速買いましたが、ずっしりと重い身でした。

宿に帰り、ペルー風のセビッチャ(レモン汁でのあえもの)とカツオのタタ
キを作りましたが、同宿者にも振るまいまして、満腹のお腹をさするぐ
らい食べていました。
御飯は持参の電気釜で銀シャリを炊いて、インスタント味噌汁に持参
の沢庵で食べていました。

宿に滞在して居る若い日本から来た人達も、私等二人が食べている
日本食をみて、羨ましそうな顔をしていましたので、電気釜に余ってい
る御飯で食べてもらいました。
リマからクスコに行った時もお握りを作って持って行き、クスコの宿で
インスタント味噌汁など作り、サンマの缶詰を開けて食べていました。

この歳になると旅の食べ物は重要です。ピザやハンバーグなど食べ
ていたら、それこそぶっ倒れてしまうと思いました。

マチュピチュを訪れた時は乾季で晴天の天空が抜けるような青空で、
その空の色にも感激いたしました。マチュピチュではワイナピチュ山
の登頂と合わせて、向かいのマチュピチュ山にも同時に一日で登山
計画をしていました。

下のアグアス・カリエンテスの町に宿泊して、最初は英語ガイド付き
の団体にもぐり込んでマチュピチュの遺跡をワイフと歩きまして、下
準備で一日丹念に歩き、時間を計り、翌日の入場券を買うのでその
締め切り時間の前まで歩き廻っていました。
そこでも食べたのが鱒の魚でした。フライが多かったのですが、1匹
開いて皿からはみ出る様な大きな魚でしたが、それにポテトとライス
が付いてサラダとスープで10ドル程度だったと思います。

翌日早朝にワイナピチュ山を挑戦してゲートに並んだら80番台でし
た。2630mの標高ですが永年毎日歩いていたのが平均7kmはこ
なしていましたので、まったくの楽勝で途中休んでも、一時間で山頂
に着きましたが、ワイフは少し遅れて来ました。

子供の頃からの念願の、山頂のインカ帝王の岩に座り、感激に浸
っていました。それとそこから見た乾季の抜ける様な青空と微かに
見える5千メーター級の山々の雪の白さが目に残っています。

帰りは少し急いで降りて、また次のマチュピチュ山に駆け登るつも
りでしたが、降りてくるワイフが途中で横道に入り、近所の小高い山
に登ってしまい、それを待っていたら時間的に一時間ほど予定より
遅れて、2800m近くあるマチュピチ山は私一人で挑戦いたしました。

水と熱量食だけで急ぎ足で登りましたが、帰りの最終バス時刻の
関係でインカ道から関所を抜けて、歩けるだけ行き、時間ギリギリ
まで歩いてバス時刻に合わせて中止して満足して降りてきました。
日頃の鍛錬で疲れもせずに戻りましたが、マチュピチュ遺跡内で
何組かの日本人ツワー客に会いましたが、皆が良い服装で肌が
白いのには驚きました。

日本人ガイドに引率されてヨタヨタして歩いている人も見ましたが、
私が通り過ぎながら、『頑張って歩いて下さい・・!』と声を掛ける
と皆が、『お一人ですか?』と声を掛けてくれましたが、インカ道の
下り坂でしたが、かなりきつそうな人がいました。

バス停で待ち合わせしていたワイフと、下のアグアス・カリエンテ
スの町まで降りてホテルに帰りましたが、有意義な一日でした。
街中で知り合った現地人のポーター2名と町を歩きましたが、彼
等は一日、インカトレイの道を、30kの荷物を背負い、一日、10
ドル程度の労賃で仕事をすると話していました。

彼等が食事をする、メルカードの上の食堂で食事を一緒にしま
したが、ポーターの仕事が普通の仕事の倍は収入があると話し
ていましたが、25歳で2名の子持ちでした。

帰りの汽車に乗る時に、ホテルの前に仕事が無くて、ベンチに
座っていたポーターに駅まで荷物を持ってもらいましたが、喜ん
で運んでくれました。5分ぐらいの距
離でしたが、1ドルぐらいのチップを渡すと日本語で『アリガトウ』
と言ってくれました。

そこの町の温泉はぬるくて入浴は致しませんでした。
アレキパの町からコルカ峡谷に4910mの標高の峠を越えて
行く時に、ブルー氷のガリガリに凍った滝が在ったのには驚き
ました。

私はそれより20mばかり上まで登り、高山コケを観察していま
したが、そこに岩を6個ばかり積み上げて記念にしてきました。
チバイの町では日本と同じ感じの温泉に行き、ペルーのチバイ
温泉でワイフとふやけるまで熱い温泉に浸かっていました。
地元の人達と共同浴場で話していたら、なんと中の一人はアメ
リカのカリフォルニアから来ていたヒスパニックの観光客でした。

またホテルの宿では夜になり急激に冷え込んだのにも驚きまし
たが、翌朝、世界で一番深いと言われるコルカ峡谷でコンドル
が7羽ぐらい、ゆっくりと飛ぶ様を見て、その雄大さに感激して
いました。

そんなチバイの田舎ですが、養殖鱒の美味しいペルー風から
揚げを食べていました。付け合せは定番のポテトとライスとト
ウモロコシでした。

ペルーとチリの国境の町でタクナという所のレストランで食べ
たセビッチャは絶品で 、ウニを使用してレモンで味付けしてあ
ったのには驚きました。
ペルー各地で食べたお魚のセビッチャですが、余りの美味し
さにお店を出る時に、チップを裏のコックさんにも渡して貰い
ました。その店は町でも、セビッチャで有名なお店だったよう
です。

そんなことで、あちこちを歩いてパラグワイの首都アスンショ
ンで日系のホテルに宿泊しましたが、そこが朝食付きで、毎
朝日本食の食べ放題に感激して、白御飯にお味噌汁と鮭の
塩焼きに納豆と生卵と来れば、旅の疲れも吹き飛んでいま
した。
鮭はチリ産で、アンデスを越えて来た物だと言うことでした。
バスタブに日本式にお湯をたっぷりと溜めて朝風呂に入り、
湯上りのほてった身体を見晴らしの良い部屋の窓からアス
ンションの市内を見ていると、2008年で44年前になります
が、当時の街中を覚えていましたので、感慨深く眺めていま
した。

私が南米に最初に今から45年前に移住したのがパラグワ
イでしたので、、久しぶりのアスンションが懐かしい感じでし
た。

昔からしたらパラナ河で獲れる魚が激減していると聞きまし
たが、44年昔はパラナ河の支流などに産卵に来る魚で、
河が埋まっていた時代でした。
私も一度見た事があるのですが、網を上げられない様に
沢山の魚が獲れて、トラックの荷台に投げ入れていた光景
を思い出します。

ラ・コルメナ移住地やイグワス移住地などを歩いてイグワ
スの滝を見物して、ラパス移住地も帰りに訪ねてエンカナシ
オンの町では、45年前にアルゼンチンから汽車でフエリー
で渡り、最初に着いたエンカナシオン駅を見に行きました。

現在は廃駅で、近くに機関車の修理整備工場があり、百
年近く前の世界で最後に残る薪で走る、旧式な蒸気機関
車を見てきました。
いまだに貨車の入れ替えだけに使われているようでした。

そこのエンカナシオンの町では立派な日本食レストランが
あり、そこでは久しぶりに刺身と御寿司を頂きました。
広島県からの移住者が開いているお店でした。
お魚はアルゼンチンと、ブラジルから飛行機で来ると言
う事でした。
40年以上も前に自分で長距離トラックを運転した国道も、
バスで走りましたが、全ては様変わりで舗装も格段に綺麗
になり何も昔の面影は在りませんでした。

当時、アルゼンチンのサルタ州のエンバルカションの町
で百姓をしていた時代、正月の魚を、チリからアンデスを
越えて運送屋にトラックで運んでもらっていた事を思い出
します。

ブエノス・アイレスからは1658kmも離れている田舎です
から、チリはもっと近い距離でした。

11月の初めに日本の郷里に母を訪ねた時は、久しぶり
に日本の魚を頂きましたが、やはり味付けから少し一味
違う感じでした。

やはり旅しても、どこでもお天道様と米の飯に魚が付い
て来ると思います。

『旅路で味合う魚に母の手料理を思うかな、』

2013年4月10日水曜日

第3話、伝説の黄金物語、(70)

アンデスの山越え・・、

飛び立った飛行機は最近アメリカから購入した中古のDC-2の双発機
であった。

サムがアメリカ陸軍航空隊の出身だから、そこで採用され、輸送機と運
用されていたことから、その優秀な性能と4トン半の貨物積載量を聞い
て、その当時改良型のDC-3が1936年からの本格的商業運用と普
及で、旧型になったダグラスDC-2の払い下げられた機体を改良して、
ブラジルで貨物と旅客の混合用にしていた機体であった。

アメリカ軍が第2次大戦中C-47型輸送機として、空の貨車と異名を
取り、約1万機も生産された優秀な機体と旅客運送の革命を起したDC
-3は同じ飛行機であった。

1936年中に就航、瞬く間に当時のベストセラー旅客機となり、1939年ま
でに600機以上生産され、その輸送機の生き残りが頑丈な機体と強い
車軸で現在でもアラスカの空を、鮭の集荷などに、辺地の荒野に低圧
タイヤと新しいエンジンを装着して離着陸して、70年も経て集荷業務を
していると聞いた事が有ります。

モレーノは熟知した機体を操縦して順調に飛行をしていた。巡航高度に
なり、貨物も無く、僅かな人数の乗客ではメンドッサまでかなり早い時間
に天候も恵まれ、到達すると計算していた。
メンドッサまで、片道約2500kmの距離で丁度増油タンクを増設して
十分に間に合う距離であった。

自動操縦にして、モレーノも一休みしていた。電波信号で送られて来る
飛行航路の上を単調に飛んでいた。全て順調に見えたのだが、注意す
る情報としてサムがスミス商会の担当幹部から、緊急に得た情報として
入電した事が、少し気がかりな事であった。

メンドッサの飛行場での出入国管理官がドイツ系でゲルマー二ア協会
に加盟したナチの協賛者である事が判明した。ブラジルからアルゼンチ
ン入国となるので、一応は入国事務を受けなくてはならないので、もしも
その少ない人員の出入国管理官が、そのドイツ人が担当したら、ユダヤ
人達の言葉の発音や、服装などからして、逃亡ユダヤ人達と判明する
可能性が大であった。
ドイツ政府が全力を挙げてユダヤ人逃亡者を追っている時で、ドイツか
ら持ち出された秘密情報の大きさからしたら、何をしてくるか分らなか
った。
モレーノと富蔵は操縦席で額を付けて騒音の中で話していた。
飛行時間は到着まで約5時間、到着時点でメンドッサ飛行場で、そのド
イツ系が勤務しているかが、重要な事となって来た。

すぐさま電信でサムにメンドッサの上原氏の親戚に連絡して、調べて貰
いたいと連絡した。直ぐにサムから上原氏に内密に調査の要請が有り、
アルゼンチンのメンドッサの親戚に連絡が飛んだ。
上原氏は直ぐに事情を察して電話でメンドッサの親戚に頼み込んでい
たのだが、快諾してくれ、仕事上の繋がりもあるので簡単に引き受けて
くれた。
メンドッサの上原氏の親戚は 理由は聞かなくて、何か裏があると判断
して直ぐに動いてくれたと感じた。
丁度飛行場係官達の制服の契約定期洗濯日となっていたので、その
洗濯する制服を車で取りに出かけると返事が来ていた。
ありがたい事で、安心して着陸でき、またユダヤ人達を危険の事態に
追い込む事が避けられると感じた。

飛行時間2時間半過ぎる頃に、電信が来た。そのドイツ系係官は今日
は非番で休みと言う確認を取って来たと連絡が来た。
24時間勤務の翌日は一日非番で休みと言う勤務交替を確認してくれ
た。モレーノと安堵して、その事は心配するからユダヤ人達には話さな
かった。
追い風で、かなり早いスピードでパラグワイ国境近くに入り、パラナ河
近い上空を順調に飛んでいた。
2時間チョッとで、すでに機体も軽いので、950km以上は飛行していた。
メンドッサにはパンパの大草原を飛んで、かなり追い風に恵まれて予
定時間より早く到着した。
微かにアンデスの雪を頂いた山々を見ながら着陸したが、燃料も良
い飛行コンデションに恵まれて余裕に残っていた。

管制官にチリへの飛行経由での燃料補給着陸許可を申請して直ぐ
に許可が出た。着陸して駐機場に停止すると若い係官が車で来ると、
モレーノが機長として富蔵とペドロを乗員として示し、ユダヤ人達の乗
客は機内でパスポートを見ると直ぐに返してくれた。
あっけない簡単な入国審査であった。

係官が帰り際に、『今日の午後のアンデス越えは最高の気象条件だ』
と教えてくれた。直ぐに頼んでいた給油車のタンクローリが横付けされ、
給油を開始した。

モレーノが機体の重量を軽くする為に、燃料は半分だけの給油を頼
んでいた。メンドッサからでは、僅かな飛行距離でアンデスを越えれ
ば直ぐにチリのサンチャーゴまでの距離で給油量は半分で心配な
かった。
若いガッシリとした男が給油していたが、富蔵は監視の為に飛行機
の搭乗口に見張り、ペドロが地上に降りて立ち会っていたが、ユダヤ
人達は機内から出なくて、窓からも顔を出さない様に注意していた。

しかし子供二人は興味があるのか窓から給油の様子を見ていた様だ、
給油が終り、ホースを収納した男がペドロから給油代金を受け取り、
飛行機を見上げると一瞬顔色が変わるのを富蔵は見逃さなかった。

とっさにワルサーPPKを飛行服の隠しポケットから取り出すと安全
装置を外していた。タンクローリの座席から何か取り出すのが見え、
ペドロを跳ね飛ばすと搭乗口に走り込んで来た。
追いすがったペドロを拳銃の銃握で殴り倒すのを見た。

とっさにユダヤ人達に座席の下に伏せるように怒鳴った。モレーノ
が操縦席から飛び出して来たので、早く離陸する様に怒鳴った、
それと同時に階段を駆け上がる音と同時に、男の拳銃を握りしめた
腕が機内に見えた。

富蔵はいきなりその腕を扉の横に隠れて蹴り上げた。カラカラと乾
いた音がして拳銃が吹き飛び、その男の髪の毛を掴むと頭を思い
切り膝蹴りしていた。
かなりのショックで二度ほど顔面に膝蹴りを入れると搭乗口の前
で大きく崩れて倒れていった。
エンジンのパカパカと言う始動する音が響くと、いきなり轟音が響
き出した。
富蔵は気絶した男を引きずり出すとトラックの陰に放り出し、車輪
止めを外して、パブロを抱きかかえる様にして機内に連れ込んだ、
その時は機体は動き出していた。

まだ暖かいエンジンは直ぐにフルにエンジンの出力を上げていた、
機体のドアを閉め、頭を抱え込んでいたパブロを座席に座らせる
と、操縦席に急いだが、モレーノが管制官と交信するのが聞こえ、
離陸許可を復唱するのが聞こえた。

DC-2はエンジンの轟音を響かせながら誘導路から滑走路に出
ると、そのまま離陸して行った。直ぐにアンデス山脈の最高峰のア
コンカグワの山が見えて来た。
午後の夕日に赤く染まる山々の頂は雪が光っていた。
ユダヤ人達がペドロの頭の傷の手当てをしていたが、僅かに血が
滲んでいるだけで心配は無いと感じた。

国境を超え、チリの管制官からの応答にモレーノが答えているの
が聞こえ、今日は最高の天気だ教えてくれた。着陸予定の飛行場
は郊外の民間飛行場で金鉱山のオーナーが所有する飛行場であ
った。
金持ち達の飛行クラブと自家用飛行機の格納庫が並び、業務用
飛行機も並んでいた。
まだ夕暮れ前の明るい内に飛行場に到着した。上空を旋回すると
ユダヤ人達から歓声があがり、すでに駐機場の側には迎えの車と、
その人影が並んでいるのが見えた。

ゆっくりと着地して滑走して駐機場に誘導された。エンジンが停止
して、数人の地上係官が来るのが分った。
搭乗口が開かれ、階段が据えられ、まず制服の係官が笑顔で機
内に入って来ると、
『サンチヤーゴにようこそ・・』と言って、パスポートを見てスタンプ
を押すと荷物も見ないで降りて行った。

まず二人の子供達と母親が手を繋いで降り始めた、階段の下に
は初老の夫婦が花束を抱えて、両手を開いて迎えていた。悲鳴
に近い泣き声がして抱き合う姿があった。
男二人はそれを見て、涙を隠すようにハンカチで目頭を押さえて
いるのが分った。

富蔵とペドロが荷物を降ろす用意をしていたら、若い使用人達
が駆け寄り、荷物を車に運んで行った。モレーノは地上の係官と
話をすると、飛行服のまま持って来たカバンを手に富蔵達を誘
って出迎えの人達の歓迎を受けていた。

鉱山主の執事が使用人を連れて挨拶に来ると、丁重に今日の
飛行の労いをまず言って、『主人はいま家族との再会でのちほ
ど挨拶に伺います』と言うと、まず飛行機を管理をする係官を紹
介して、搭乗して来たDC-2を 滞在中は責任を持って管理す
ると話してくれ、モレーノから鍵を預かった。

後は使用人達が皆のカバンをもぎ取るように手にすると先に車
に運んで行った、執事がモレーノと富蔵ら三人をリムジン高級車
の後部座席に座らせ、執事は助手席に座ると、『まずはお疲れ
ですから、屋敷にご案内させて頂きます』と言うと、運転手に命
じて車を発車させた。

山間の広大な屋敷に到着すると、執事の案内で各自に大きな
部屋が割り当てられ、お風呂にでも入って着替えるように勧め
られ、部屋には使用人が一人付いて世話をしてくれた。

着替えて執事が三人を食堂の広間に案内すると、そこにはユ
ダヤ人家族四名と共に逃亡して来た中年の男が手を差し出し、
身体を震わすように感謝の言葉を腰を低くして何度も言ってく
れた。
それが済むと、後ろから主人夫婦が出て来ると、同じく腰を低く
して丁重に今回の危険な家族の南米入国とチリまで送り届けて
くれた事に、夫婦で何度も感謝の言葉を話していた。
まずはシャンペンが運ばれて、今日の無事の到着を祝った。

オードブルが運ばれ、食前酒も配られ、話も弾んでいた。鉱山
主の膝に子供達二人が戯れて、ポケットから何か差し出すと富
蔵に見せながら、鉱山主のおじいちゃんに
『サントス沖でブラジル貨物船から高速艇に乗り移り、そこで
の射ち合いで、身を挺して弾除けの代わりをして私達を助けて
くれた』と言うと潰れた拳銃の弾を見せていた。

船底の階段で拾ったと言って、おじいちゃんの目の前に突き出
すと、この人は弾も弾き返す身体だと説明していた。そしてメン
ドッサの飛行場でも誰かが拳銃を持って機内に襲い掛かって
来たが、素手で襲った男を倒して、逃げる事が出来たと説明し
ていた。
鉱山主は驚愕の表情で富蔵を見ていたが、富蔵が『防弾チョッ
キに救われました』と言うと、子供を膝から降ろすと、富蔵の前
で膝を付くと、手を握り締めポロポロと涙をこぼしながら感謝の
言葉を言っていた。

主人が床に膝を折り、感謝の言葉を言う姿に皆が驚き、見詰
めていたが、主人が立ち上がると、その事をもう一度みなの前
で説明して、『この方に、この5名が救われた・・』と言った。
シーンとして皆が富蔵を見ていた。

モレーノがシャンパンの栓を景気よく音を立てて抜くと、執事に
頼んでグラスを並べると、『もう一度乾杯ー!』と言うと、ドッと
歓声があがり後は、もみくちゃになるように人が集まり、グラス
を差し上げて何度も乾杯の声が響き渡った。

富蔵とモレーノにペドロが順に酔いつぶれてしまうまで、歓待
は夜遅くまで続いた。

2013年4月8日月曜日

私の還暦過去帳(363)


   訪日雑感(16)

熊本まで乗車した特急電車は夕暮れの鹿児島本線を下って行きましたが、
途中大牟田駅を過ぎて、馬込川の鉄橋を列車が渡る時に、子供の頃の
思いがまぶたに浮かびました。
線路脇のレンコン畑の濠に良くザリガニ釣りに来ていた思いがありました。

今では線路の両側には多くの家が並んで、昔の面影は何も残ってはいま
せんでしたが、郷愁の思いは消す事は出来ません、一瞬の通過ですが
鉄橋のゴー!という音の響きが60年前と何も変らない響きに聞こえまし
た。
今でも小・中・高と大牟田の町で育った事は忘れる事は出来ません。
終戦で台湾から家族で引きあげて来て、祖父の家が残っていたからでし
たが、父母がそれで大牟田に腰を落ち着けた様でした。

当時は炭鉱の景気が良かった時代で斜陽産業になるまでは、大牟田の
炭鉱町が栄えていました。

私が高校を卒業して東京に出る頃には、炭鉱産業から石油産業に、エ
ネルギー転換で斜陽に傾いていた頃でした。三池炭鉱の炭塵爆発で父
の弟も死亡、近所の友達も鉱山学校を卒業して働き初めて直ぐに事故死
をしてしまい、18歳と2ヶ月で大牟田の町を出る時に、ここには帰って
くる事は無いと心に思っていました。

その事は現実になり、この歳まで総計で2ヶ月も大牟田の土を踏んだ事
がありません、今ではその家もかなり昔に売り払い、小倉に両親が引っ
越して、その大牟田の昔の家も老朽化して今では取り壊されて、何も残
ってはいない様です。

暗くなりかけた鹿児島本線を特急列車が沿線の枯れた田圃の中を走り抜
けて行きましたが、今では複線化されて、単線の蒸気機関車が走ってい
た時代の様は何処にもありませんでした。

熊本駅に到着して、直ぐに豊肥線に乗り換えて南熊本で降りて、歩いて
直ぐの親戚の家に到着いたしました。携帯で電話していたので、到着す
ると夕食の用意が全て済んで待っていました。

私は父の妹で昨年亡くなったおばさんの遺影に線香を上げて、先ずは両
手を合わせて祈っていました。
子供の頃から、数え切れないほどお世話になったおばさんです、東京か
ら帰省しても、大牟田の実家には寄らず、東京からそのまま熊本まで買
っていた切符で熊本のおばさん宅に直行して行き、同じ年頃のいとこ達と
楽しく遊んでいました。

母が『そろそろ息子を実家に帰してくれ・・』と言われていた頃もありまし
た。
おばさんの家族も満州引き上げで、今でも特製餃子の味を忘れる事は出
来ません、餃子も水餃子、揚げ餃子、ワンタンスープに入れた餃子など
中国で覚えた本場の味をご馳走してくれた事が、忘れられない思い出と
なって心にあります。

その夜の夕食は熊本名物の『馬刺身』で、マグロのトロの様な馬刺しを
食べさせて貰いましたが、ビールでほろ酔いの肴には極上と感じました。
その夜は久しぶりに、いとこと話が尽きず、遅くまで話していました。

翌日は早目に起きて、宅配の荷物が来るのを待って、鹿児島まで墓参
りに行く計画でした。予定より早く荷物が来て直ぐに熊本駅までタクシー
で出かけて、新幹線乗り継ぎの特急に乗車いたしました。

昔からしたら早いことには驚くほどでした。一時間チョィ!の時間で鹿児
島駅に到着して、また二度ビックリでした。余りの変り様に驚いて昔の
面影など何処にも無いのです、いとこが驚くだろう・・・、と言った事が分
かりました。

墓参りに来たのですが、いとこが是非とも見せたいと言っていた、そし
て私も是非とも見たかった知覧の『特攻記念館』を訪れる事に致しまし
た。案内所で聞いたら、15分でバスが出るという事で、それで行く事
にしました。

アメリカで第2次大戦の復員軍人から何度も話を聞いた、神風特攻隊
の現場の生の攻撃を受けた側の話から、アメリカ人も突入してくる特攻
機に恐怖を感じたという事ですが、私の母親からも話を聞いた事があり、
アメリカ滞在36年目となり、 やっとその機会が来たのです。

昔、近くの射撃場の隣のベンチで射撃をしていた年配の方が、休憩時
間に話してくれた事も、今回の訪問の願望の底にありました。

彼は沖縄戦で、航空母艦の舷側にある対空機関砲の射手をしていた時
に、特攻機の攻撃に遭い、雷撃機が海面スレスレに突入した来た時に、
白いマフラーの操縦士が微かに見えたと話していました。

重い爆弾をさげた機体を操りながら、弾幕の猛射の火炎の中を飛行甲
板の横にあるエレベーター装置を目掛けて、特攻機が突入して行 った
と話していましたが、多くの仲間の対空機関砲の射手達と水兵 がその
特攻機の突入で戦死したと話していました。

話してくれたその方も爆風で吹き飛ばされたが、運良く気絶しただ けで
命拾いをしたと話していました。
特攻機を操り、死の瞬間まで目標を目掛けて操縦するその精神力と気
迫をアメリカ人の話しから感じていました。そして彼もそれを驚嘆してい
ました。

私はバスに乗車して知覧の町が近くなるに連れて、心が緊張して来る
のが分かりました。

そして戦前、台湾の山の中に疎開するまで、台北市の郊外で防空壕
から飛行機が出撃して行くシーンや、上空で空中戦が始まり、巴戦の
戦いで祖母が両手を合わせて、ゼロ戦の勝利を祈っていた事などが微
かに思い出されていました。

山の峠を越えて知覧の茶畑が広がり、いとこが知覧がもう直ぐだと教
えてくれました。

2013年4月7日日曜日

第3話、伝説の黄金物語、(69)


チリ、サンチヤーゴへの飛行

飛行艇は直ぐに水平飛行に入ると、眼下にサントスの海岸山脈を下に見
て内陸に入った。
気流の関係で少し飛行機が大きく揺れて居たが、直ぐに着陸態勢に入り、
サムの飛行場側の湖に着水し、直ぐに水面を滑走して岸壁に着いた。

出迎えの車が二台来ていたが、ひっそりとして静かな岸壁であった。
倉庫の陰になって余り飛行艇は見えないようになっていた。

ユダヤ人達は安心した表情で車に乗り込むと、飛行場事務所の応接室
にひとまず休んでいた。食事と飲み物が出され、チリの家族に無事ブラジ
ル入国の知らせが送られた。
サムとモレーノ達が富蔵を囲んで、今日のブラジル海軍のナチ狂信者達
の襲撃情報の検討と今後の対応を考えていた。
どれだけの情報が漏れたか・・、これが最大の問題であった。

チリへの飛行情報が漏れていたら、何処かでまた同じ様な戦闘機での襲
撃があるかもしれない危険性があった。この事は直ぐにダイアモンド商会
の社長と、スミス商会の社長と幹部に知らされた。
チリへの経由地点メンドッサ周辺が気象条件の急変で本日の飛行は無
理な様子であった。
アンデス山脈を跳び越すのは飛行条件が良くないと、非常に危険な飛行
となるので、慎重にコースの気象情報を集めていた。

その事はスミス商会の幹部が専門的に集めた気象情報をサムに知らせ
てきた。本日の出発は中止する様にと連絡が来ていた。
チリからの気象情報でアンデスの山岳地帯で強風が吹いて、雲が多く視
界が悪いと言う情報が来ていた。

その気象情報とナチ狂信者達にどれだけ情報が漏れたか・・、これが一
番の焦点となっていた。
サムが本日の飛行は中止と決断して、直ぐに電話でスミス商会の担当
幹部に連絡が入れられ、ユダヤ人逃亡者達の宿泊も決められた。
用心に飛行場内の宿舎にベッドが用意され、暖かいお湯が出る風呂も用
意された。

飛行場の警備担当者とも相談して、宿舎は用心して僅かな人しか知らせ
なかった。
警備犬が3匹も連れて来られ、入り口の脇に警備員と目立たないように
隠れていた。その夜、スミス商会の担当幹部が富蔵達を訪ねて来た。
サムとモレーノが今日の海軍警備艇と戦闘機の襲撃の様子を説明して
いた。

現在までの情報として、ユダヤ人達のブラジル上陸の情報は漏れたが、
上陸してチリに飛ぶ経路や飛行時間、出発地点などはこれまでの全部の
状況と周りの情報を総合すると、このプランを知る人数が余りに少ない事、
サムが飛行経路や飛行機の予定など、全てを管理していたので、担当幹
部はサンチヤーゴ飛行計画は漏れていないと判断した。

しかし、サントスの情報提供者達の動きがブラジル海軍のナチ狂信者達
に知られたと言う事は問題だと幹部は話していた。
サントスの拠点倉庫を直ぐにも引き払い、別の場所に移動する様に手配
してしまったと話していた。幹部はユダヤ人逃亡者達と話していたが、メ
モを取りながら聞いていた。
チリに送る電信文も書き留めている様であった。

これは用心して会社のテレックスを使い、一部数字は暗号に替えて送信
されると話していた。担当幹部は今日、皆の働きに感謝して富蔵とペドロ
の負傷にも労わりの言葉を掛けていた。
二人の負傷は行動に支障が出る様な傷ではないので、幹部も安心して
いた。
担当幹部が得た情報では警備艇が沈没した地点は、大西洋の急に深く
なる海域で、1500mも深い海域では沈没船引き上げなどは不可能と聞
いて来た。
原因不明が現在の状況だと、海軍から説明があったと話してくれた。
旧式な戦闘機の墜落も同じ状況だと考えられていた。

その話が終ると皆で今日の成功を祝って乾杯していた。それが済むと幹
部は事務所に電話を入れ、もう一度飛行経路の天候を聞いていた。
天気が崩れて悪くなるばかりで、飛行可能の条件は完全に無くなってし
まった。
用心にアルゼンチンのメンドッサでの給油とアンデス山脈の気象待ちの
時間があるかもしれないので、密かにメンドッサの町の宿泊か、休憩出
来る場所を考えていた。
富蔵は昔、上原氏から聞いた事を思い出した。
それは、アルゼンチンのブエノスに移住して住んでいる遠い親戚が洗濯
屋をしていて、メンドッサに子供のために店を買い、新規開拓で支店を
開店して、繁盛していると聞いた事を思い出していた。

それを確かめる為に富蔵は上原氏の農場に電話を入れてもう一度確認
していた。上原氏は気軽にその親戚の住所と、洗濯屋の店の名前と、電
話番号を教えてくれた。
用事で行くのなら是非とも現在の状況を見てきて貰いたいと話していた
が、一応ブエノスの親にも電話を入れておくと話してくれた。

すでにメンドッサに定住して長く、店も繁盛して、郊外に小さな農場が付
いた家を買うほどに成っていると話してくれた。この情報は何かの時に貴
重な連絡先となると思った。
飛行場での給油とアンデス超えの気象確認での着陸だが、どう事態が
変化するかまったく予測できなかった。

その事は担当幹部も時間で変化する山岳部気象条件の動きを注目し
ていた。
富蔵に妻の雪子から電話があり、上原氏の使いが来て、もしもメンドッサ
に行くのであれば、沖縄から移住して来た弟が持って来たお土産を、少し
ばかりアルゼンチンまで託されたと連絡が来た。

担当幹部は『今日は飛ぶことはまずありえないので、自宅で今夜は過ご
してきたら・』と言われ、サンパウロに帰るので通り道なので、自宅まで
送ると誘われた。
サムとモレーノと話して自宅で今夜は泊まると了解を居て、帰途についた。

幹部の車に同乗して自宅の前で降ろして貰い、その夜は雪子の手料理
で疲れた身体を癒していた。ゆっくりと風呂に浸かり、青あざをマッサージ
していた。その夜は雪子を抱いて朝までぐっすりと寝ていた。

翌朝、幹部が飛行場に行く道に拾ってくれ、飛行場に行くとすでに飛行機
はプロペラをアイドリングしてエンジンを暖めていた。天候が急に変わり
メンドッサまでの飛行経路は何も問題ない状況になっていた。

富蔵は飛行服に着替え、今回の飛行ではモレーノの助手をする事であ
った。モレーノもすでに飛行服に着替えて座席で計測器具の点検をして
いた。
サムとペドロがユダヤ人達に飛行服を着せて、子供には厚い毛布ですっ
ぽりと身体を巻いていた。荷物4個も積み込まれ、サムがもう一度モレー
ノと飛行経路の再確認と、無線のテストをしていた。

ペドロはかいがいしく携帯食料や、飲み物や温かい魔法瓶のコーヒーな
どを用意して座席に座らせ安全ベルトの仕方を教えていた。サムが無線
誘導と、連絡のために通信室に手を振って消えて行った。

爆音が響き、車輪止めが外され、ゆっくりと動き出した。航空燃料が満載
された飛行機は滑走路を滑るように離陸を開始した。
ユダヤ人達が揃って祈りの言葉を声高く唱えるのが聞こえて来た。

モレーノが操縦桿を握り、富蔵に『行くぞー!』と声を掛けた。

2013年4月6日土曜日

私の還暦過去帳(362)


 日本の景気に関して、

今般の日本の景気を見ると、失業、販売不振などは一禍性のものとは言
えません。 根本的な問題が含まれていると感じます。

政治的な行政運営と効率がかみ合わない官僚の経済感覚が派遣労働者、
短期契約、 季節雇用などの労働者の底辺部分の切り捨てと成った感じで
ある。
現在の産業や会社経営は、その様な切捨てが出来る人々によって支えら
れ、不況の時は真っ先に解雇で職場を失い、『職と住』の人間が一番必要
な部分をもぎ取られ、『食』と言う生きる最低の金も無くなり、失業保険と言
う国家の保護も不十分で、路頭に迷う人々を、せめて暖かい部屋で住み、
食べると言う最低の人間的な保証を忘れていた政府、地方自治体の対応
の遅さは、政治の貧困としか言えない。

この事は海外、特に南米からの出稼労働者達に大きな影響と生活不安を
引き起こして この事が、子弟の教育問題と関連して重大な日本国憲法の
条項にも抵触していると思います。
 政府の対応は2月頃からの予定で、緊急の人は見捨てられている。

日本経済が活況で景気の良い時は、鳴り物入りで南米各地から求人業者
が人集めをして各地の工場や会社など、日本人がやりたがらない、3Kの
仕事をして入る日系人達を、今度は手のひらを返すように、切り捨てて、
困窮と不安とストレスある生活環境に落として、かえり見ようとはしない。

その様な子弟達を政府はなんら対応無き手段で放置して、健康で健全な
学校義務教育さえ受けられなくなると言う事は、まさにこれも政治の貧困と
しか言う事が出来ない。

アメリカも過去に百年に一度、全治10年と言う経済不況がモロに直撃して
ビック3 の自動車会社でさえ倒産の瀬戸際となった事がある、義務教育で
は貧困家庭の子供達や、 低所得者の子供も達も無料ないし、10%とかの
負担で学校給食を食べられ、その他、 朝食も貧困家庭の子供達に出して
いる。勿論の事に、義務教育費は無料でである。

失業保険、健康保険などの行政が責任を持って対応しなければならない
事が抜けている と言う事はこれも政治の貧困としか考えられない。

この不況でこれまで日本の陰に隠れて見えなかった部分に光りを当てて、
行政がもっと 真剣な対応と、これからの将来の日本に、行政官僚の意識
改革をしなくてはならないと 思います。

財政赤字、超高齢化、食糧自給率の低下、老齢年金問題、少子化人口減
少問題など、 どれをとっても日本には致命的になる要因が有ります。
経済不況から来る社会的弱者をいかに救済するか?この事を政府はもっ
と考えなくては ならないと思います。

資産が有る人間、定職で親方日の丸の公務員など、一流安定会社で生活
に不安やストレスの無い人間も良く考えて、本当の貧困と言う『今日一日を
食べる食物、食料』をどうするか・・?と言う生きる根本を教育で教えなけれ
ば、日本の教育根本改革は無いと思います。

過去の第二次大戦でアルゼンチンが貨幣などは紙くずで、金銀の延べ棒
と、金貨での穀物、食肉取引で、アルゼンチン政府の金庫の廊下まで積み
上げられた事を忘れてはいけません。

現在では原油オイルもこれに含まれていますので、日本の基礎的な基盤
磐石さが不足して いる国では基礎教育に義務教育中での意識教育が不
可欠と思います。

『本当の不況と国家破綻は、国家での食料が不足する時である』

ちなみに日本の食糧生産は、実質28%の自給率で・・・、
日本が輸入する穀物比率は・・・!

トウモロコシ=100%
大豆    =95%
大麦    =93%
小麦    =87%
牛肉    =57%

原油オイルは99・5%が輸入です。
製品原材料の95%は輸入です。

本当の世界不況が来ればこれだけの食料、資材、オイルを買う資金が
何処から来るかを日本人は考えなければなりません

2013年4月4日木曜日

第3話、伝説の黄金物語、(68)

 

 
危機一発・・、

警備艇が近寄るのを高速艇はスピードを落として待っていた。
モレーノが大袈裟な身振りで挨拶して、ジェスチャーで愛嬌を振りま
いていた。
船室の僅かに開けた窓から、ペドロが富蔵の横で慎重に狙撃ライ
フルで狙っていた。
情報提供者達から無線のラジオで、その警備艇はナチのブラジル
海軍の狂信者達が無断で出港させたと警告の知らせが来た。

富蔵はそれを聞いた瞬間、飛行機の襲撃と警備艇の臨検が不自然
に感じ、情報が漏れたと感じていた。
サントスに本部を置く情報提供者達の中から4名の若い衆を選んだ
が、1日前に今回の行動予定を知らせたばかりで、他は絶対に情報
が漏れると言う事は考えられない事だった。

そう考えるとこの船に密告者が居るかもしれないと本能的に感じ、
ワルサー自動拳銃を密かにスライドを引いて弾を装填すると、抜き撃
ちできる様に、ズボンのベルトに隠した。

ユダヤ人の逃亡者達の横に移動して、薄暗い船内の光りで何処に
誰が居るか確認していた。富蔵の目に4人連れて来た若い衆の一人
が、落ち着かないそぶりをしだしたのに気が付いた。金髪のガッシリと
した体格の男であった。

船内の小さな窓からみると、真横に警備艇が接近して、三名ばかり
の水兵が腰には拳銃を持ち、中の一人はカービンライフルを構えて
いた。
警備艇の機関砲に二名の水兵が居るのが分った。銃口はこちらの高
速艇の操舵室を狙っていた。

富蔵はペドロに近寄ると小声でささやいた。『裏切り者の密告者が居
る、あの金髪を注意しろ・・!』と言った。ペドロは微かに親指を立てて
了解のサインを出した。
狙撃ライフルから目を離さず、側のシュマイザーを片手で引き寄せて
いた。

富蔵は直感的に接船と同時に何か起きると感じて、上着の下でワル
サー自動拳銃を握り、安全装置を外していた。ユダヤ人達をかばう様
に船底の入り口のドアの横に押しやって、身を低くする様にさせた。
子供二人は船底の下の部屋に隠れさせた。それと同時に警備艇の
汽笛が短く鳴った。

金髪が拳銃を取り出して隠れているユダヤ人達を狙う瞬間、富蔵が
先に立ち塞がり金髪の男を撃っていた。至近距離で瞬時に、同時に
弾が発射されていた。

富蔵は間違いなく相手の顔面を撃ち抜いていた。
その銃声の瞬間、胸に重い痛みが走った。

富蔵はよろけると同時にモレーノに撃てと声を掛けていた。
ペドロが瞬時に狙撃ライフルで機関砲の射手を倒していた。側の一人
も折り重なる様に機関砲に寄り掛かるように崩れた。

富蔵は胸を押さえてよろけながら窓際を見ると、モレーノが使い慣れ
た拳銃で至近距離の水兵を抜き撃ちで三人共倒すのが見えた。
ほんの僅かな短い時間であった。

警備艇にモレーノが乗り込み、船室の入り口からカプセルのような物
を2個投げ込んで、ドアを閉め高速艇に走りこんで来た。

2mばかりジャンプして飛び込んで来たと同時に高速艇がエンジンを
最高に出力を上げた事が分かった。ペドロが甲板の陰に隠れて警備
艇の操舵室をシュマイザーで掃射するのが見え、窓ガラスが飛び散り、
50mばかり離れた時、ブロウニングの重機関銃が短く警備艇の水面
スレスレの喫水線辺りを集中して弾を撃ち込むのが分った。

時間にしたら10秒もしない短い時間であったが、ズシーン!と腹の底
に響く爆発音が聞こえて、警備艇の船腹が一部めくれる様に飛び散る
様子が見えた。何か船底で爆発した様であった。

高速艇は急激に加速すると、1分もしない内に警備艇から、かなりの
距離を疾走していた。モレーノとペドロが金髪の男を海に投げ込むの
が見えた。

富蔵は胸の違和感を感じて座り込んでいた。
ユダヤ人達は富蔵が撃たれたかと勘違いして、おろおろしながら船底
入り口ドアから出て来た。中の女性は涙声で目の前の至近距離の射
ち合いの銃声で、富蔵がうずくまっている姿にショックを感じている様
子であった。

モレーノが駆け寄ると『撃たれたのか・・』と言いながら富蔵の顔を覗
き込み、左側の胸を押さえているジャンパーの前を広げて見ると、
ヘー!と言う様な顔で、『見事に防弾チョッキの鋼板の真ん中をか
すっている・・』と言うと・・・、
『なんと言う幸運な男か・・!』と叫んで大袈裟に抱きついて来た。

ペドロが船内に入って来ると『警備艇が沈没したのが遠目で見えた』
と言った。
それと同時に『肩先を弾がかすった様だ・・』と言ってシャツを脱ぐと
救急箱から消毒薬を取り出すと、情報提供者達の若い衆に手助けし
てもらいながら、傷口を消毒して包帯を巻いていた。

警備艇の操舵室から撃たれたと話していたが、シュマイザーで応戦し
て、間違いなく相手を倒したと話していた。傷口は弾が皮膚を擦過傷
のように薄く切り裂いていた。
今回の作戦は味方にも富蔵とペドロの二人が傷を負った。

富蔵は防弾チッキの下の胸が青くあざになっているのを見た、あわや
と言う事態の難を逃れたと感じていた。おそらく真正面であれば肋骨
の骨折は免れない事だった感じた。
今回は少し斜めでの相手の発射角度で弾が横に弾いて、強烈なショ
ックが無かったと感じた。
幸運の神が微笑んでくれたと心の中で感謝の祈りをしていた。

子供の顔と妻の雪子の笑顔が重なり、モレーノ達が無理に防弾チヨッ
キを着けてくれた事が幸運の始まりと心に感じていた。

ともあれ無事にユダヤ人逃亡者達を危機一髪から逃して、無事にサ
ムが待機する水上飛行艇まで向かう事が出来たのは幸運と感じていた。

飛行艇がぐんぐんと近寄って来るのが分った。早朝で周りには船の陰
もなく絶好の集合海域と感じた。
モレーノがサムの水上飛行艇が側に来たと富蔵に知らせてきた。
若い衆が4個の荷物を甲板に出し、子供二人を毛布で包んで接続の
ゴムボートの用意をしていた。
サムが操縦席から手を振る様子が見える距離に近寄った。
飛行艇の横のドアが開き、ロープが投げられ、高速艇と繋がれた。

まず救命胴衣付けた女性と子供二人がモレーノとペドロに支えられな
がら飛行艇に乗り移った。
その後、男二人と、 荷物と富蔵が乗り合わせて上手く飛行艇に乗り移
ってしまった。
モレーノとペドロが荷物を軽々と抱えてゴムボートを切り離した瞬間、
轟音を上げて高速艇は走り去って行った。時間にしたら5分も掛かって
はいなかった。

サムが『ウエルカム・・!客人達よ・・、』と声を掛けると、機体の両側の
粗末なキャンバスのイスに座りシートベルトをする様に指示した。すで
に滑走を始めていた。

金属音に近い轟音が鳴ると座席に押し付けられる圧迫を感じ、直ぐに
ふんわりと上空に浮かんだという感触を感じていた。

微かに轟音の音の中にユダヤ人達の祈りの言葉が聞こえていた。

2013年4月2日火曜日

私の還暦過去帳(361)

 
  

 訪日雑感(15)

母が現在入居して生活している老人グループ・ホームは、12名ばか

りを3人の介護員が面倒を見る形式のホームです。

全員が元気に歩いて、食事も介護無しで食べる事が出来る方ばかり

です。寝たきりの方は園内の別棟にある、完全看護のホームに入居す
る事に成ります。

ホームは一軒屋で、台所から配膳室まで有ります。各自の個室は6畳

程度の広さで、トイレは自室にはなく、目の前の至近距離に有ります
ので、何も問題は無いと母が話していました。

私はタクシーで園内に入るとドキドキする胸を押さえて玄関に入りま

した。丁度ランチが終わり皆がお茶の時間でした。いつもお世話にな
る方々に挨拶して、皆がおしゃべりしている居間に行くと、母が座っ
ていました。

以前とまったく同じ元気な姿で、賑やかに話していましたが私を見る

と、驚いた様子で立ち上がり、『いつ着いたのか・・?』と言う質問
でした。

小倉駅にお昼前に到着して、ランチを済ませてから来たと言うと、安

心して世話係りの人に頼んで、お茶を出してくれました。それからお
土産を出しましたが、食べ物は、特に甘い物は係りの人に預かっても
らいました。

それからはお茶を飲みながらの、大笑いの馬鹿話などをして皆と楽し

んでいました。
しばらくして、アメリカに居るワイフに携帯で電話して、母が会話を

しばらくしていました。
母も喜んでくれ、ワイフの名前は直ぐに口からは出ませんでしたが、

覚えていてくれ懐かしそうに話している姿をビデオで撮影していまし
た。

そばに母と居ると、まるで時間が飛ぶように過ぎて行きます、夕方に

は熊本の親戚の家まで行かなければなりませんので、余り長居は出来
ませんが、自分の誕生祝に貰った飾りの手製の、可愛らしい写真が入
った額を持って来てくれたので、お土産に頂きました。

すでに自分が住んでいた家はもう無いのに、そこに泊まっていけと勧

めてくれます。昔の記憶が消えているのです、母が子を思い、心配す
る気持ちが痛いほど感じました。
何かジーンとして来ました、正月に帰省して、ホカホカ・マットにコ

タツで茶の間に座りテレビでも見ながらミカンなど母と食べていた頃
を思い出していました。
もうその様な温かい母との光景は思い出と、夢の世界です。

熊本行きの特急時間に合わせて、ギリギリまで側に居ました。
母が居た家はもう見る気力も失せていましたので、帰りの道も直通で

す。
ホームの世話の関係で夕食時間が早いので、お邪魔になら無いように

適当な時間を見て、母に帰る事を話しました。もう一度泊まる事を勧
めてくれたので、携帯で熊本の親戚に電話して、呼んで話をさせると、
納得して送り出してくれました。

玄関出口で固く抱き合い、『またおいで・・!』と母は言葉を掛けて

くれました。
胸がキユーン!として来て、タクシーを呼んで待つ時間に涙が出て来

ると感じて、急いで通りのバス道路まで歩き出しました。

振り返ると手を振る母親と永年世話になっている係りの方が、涙でし

ょぼつく目に写りました。
心の中で『元気でな・・!また直ぐに来るからねー!』と叫んで手を

振って答えていました。

小倉駅から特急列車に乗車してしばらくは気が抜けた様に黙り込んで

窓の外の景色を眺めていました。