2013年4月21日日曜日

私の還暦過去帳(366)


 訪日雑感(18)

知覧の特攻記念館の見学が終わって、外に出ると日が高く輝いて
いました。
何か、ボーッとした気分で自分の心の奥に何か、ズシンと重いも
のが入ったと感じました。
帰りのバスの中から若い特攻隊員達が、お母さんと慕って食べに
行った食堂を見ましたが、そこも記念館として保存されていました。

何かジーン!と来る物がありました。映画にもなった有名な話です。
特攻で沖縄の海に突入して帰らぬ人になっても、蛍になって戻って
くると話した特攻隊員がその夜、店の裏庭に季節外れながら蛍に
なって飛んで来たという話を聞いた事が有ります。

帰りの鹿児島駅前までの時間は、頭が空白の様になっていました。
戦争とは・・、何とむごい事をしなければならないかー!

私が住んでいる近くの電車駅の前に、アメリカ人のイラク紛争で戦
死した若者達を、一本の白い十字架にして、駅前の斜面に延々と
建ててあります。
毎日のように戦死者の数が書き換えられていた時期も有りました。

引退前はそこの前を車で毎週2回は通っていましたので、毎週の
如く増える墓標の十字架のシンボルが、私の心にむなしく感じてい
ました。

その頃はブッシュは威勢の良い声明を出していました。
『攻撃して来るのなら来てみろ・・、叩き潰してやるー!』という様
な、まるでテキサスのカーボーイが酒場で酔って話しているような
言葉でした。

電車でそこを通過する度に、何でこんなに沢山の若者達が戦死し
なければならないのかと心痛む感じでした。彼にはその様な心の痛
みが分からないのだと思いました。
イラク戦争を起こして、紛争介入を長引かせて、いまだに多くの若
者達を危険に晒している事は、まさに政治の貧困と指導者の欠陥
と思います。

すでに第二次世界大戦より、長期間の戦争状態です。
完全な無条件降伏など絶対にありえない戦いなどです。

相対する敵は宗教の基盤と信条の上に『聖戦』というスローガンを
かざして、相対して戦っているのです。
一人の敵を殺せば、その家族と親族と仲間の百人の敵を作り、それ
を相手に戦わなければならないのです。

先ずはなぜ、この様な戦争を引き起こされたかの根本原因が何も解
決されず、うやむのうちに指導者の頑な信条と間違った情報の元に、
間違った決断がなされたのです。
彼が任期切れの最後の記者会見で言葉少なく謝罪しても、多くの若
者の命は帰って来ません。これから膨大なその犠牲者の親族、家族
などに対しての債務も残るのです。
その戦争を引き起こした大統領もあと数日で消えて行きます。
最近の新聞では歴代の大統領の中で最低のランクに入る大統領と書
いています。
評価は歴史が決めると言う事ですが、任期が切れる前から酷評され
る大統領も少ないと思います。

夕方まだ日が明るい内に駅前のバス停に戻りまして、そこから駅裏の
小高い丘にある墓地に参拝する事に致しました。
去年に亡くなった父の妹が眠っているのです、散々お世話になった子
供の頃を思い出しながら、いとことタクシーに乗っていました。

いとこの案内で墓地を訪ねて、雄大な桜島活火山の夕日の山頂の輝
きを見ながら線香とロウソクを立て、お花を飾り両手を合わせていまし
た。遠い昔の50年以上も前の事が、走馬灯の様にぐるぐると頭の
中を駆け回り、過ぎし日々の思い出をかみ締めていました。

その夜は鹿児島市内で夕食を済ませて、熊本に帰るという計画でした。
いとこが鹿児島の黒豚郷土料理をご馳走すると言う事で、そこまで繁
華街を散歩しながら歩いて行きました。珍しい素材の料理で初めて口
にする料理でした。

やはり一番美味しかったのは、黒豚の脂身との三層肉を煮込んだもの
でした。
帰りの九州新幹線は少し飲んだビールで、ウトウトとしている間に熊本
に帰って来ました。
駅裏はまだ九州新幹線の工事中で雑然としていますが、完成すると駅
前も区画整理で見違えるようになる様です。

明日は少し近所で買い物して、荷物を成田飛行場に宅配便で送ろうと
考えていました。ありがたいことに、大きな荷物から開放されて旅が出
来る事は幸せです。

いとこの家から100mも行かない近い所に、スパーや、薬局、衣料
品店が入っているショッピングセンターがあるのには助かります、そこで
必要な物は何でも揃う様ですから少し買い物して、それを荷作りをして
送り出す様にしたいと考えていました。

その夜、いとこの家に帰り着き、熱いお茶を飲んで一息入れて、風呂
に入ってさっぱりしてから眠りにつきましたが、昼間の興奮からか中々
寝付かれない夜でした。

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