2013年4月16日火曜日

私の還暦過去帳(365)


  訪日雑感(17)

知覧の茶畑を見ながら峠を降りて行きましたが、鹿児島は暖かいのか、緑
が綺麗でした。
竹薮も風に揺れてその爽やかな姿を南国の空に似合う様に、山陰に見えて
いましたが、いとこが知覧に行く前に、薩摩藩時代の武家屋敷を見学しよう
と言う事になり、バスを降りました。

その薩摩藩時代の武家屋敷は史跡に指定され、その屋敷群が今でも丹念
に手入れされ、保存されていました。
刈り込まれた生垣と格調ある家のたたずまいで、昔をしのばせる武家屋敷
でした。
座敷から眺める庭はどれも枯山水の設計で、当時は水が貴重で、池など掘
って流し水などを通す事は無理だった様でした。

それにしても昔の家ですが合理的に設計され、石垣と庭を武家の屋敷の様
に一旦戦場となれば、即応できる様に配置してあり、外からは中が見えな
いようになっていて、正面玄関の入口もL字の様に石垣を配して設計されて
いたのには驚きました。

余り人通りが無い武家屋敷内の道を歩いて、外れの茶店に寄ったら、知覧
茶をご馳走してくれました。お土産にお茶を一袋購入して、そこからはタク
シーで行く事にして、しばらく休んでいました。

知覧の特攻記念館はすぐ側ですが、歩くと30分は掛かるとかで、タクシー
で行くと時間の節約になりますので、茶屋のおばさんにタクシーを呼んで貰
いました。
タクシーで5分も掛からず到着して、先ずはランチの腹ごしらえをすること
に致しました。
特製の黒豚ラーメンを注文して鹿児島の味を楽しんで食べていました。
スープが一味違う感じで、濃くのある味は豚骨を煮込んだもので、少し白濁
していました。

いとこが先にランチを食べ様と誘ったのは、特攻記念館を見学した後は、
人により食欲が無くなるという話でした。

それだけショックな感動を受けて、呆然として、胃がキリキリと痛むくらい
の緊張感を身体に受けるので、食後一休みをして、見学を勧めてくれたの
でした。いとこは何度か来ているので、その様なことを知っていた様でした。

駐車場は多くの観光バスと自家用車が並んでいました。
どちらかと言うと年配の人が多いような感じを受けましたが、若い学生が
先生に引率されて見学に来ていました。

私は入り口で入場券を買いホールに入ると、身体がキユーン!と緊張する
のが分かりました。いとことは入り口で時間を決め、待ち合わす事にして、
自由行動をして見学をすることにしていました。

矢印に沿って歩くと、ホールの正面に特攻機が飾られ、両側の壁際には
特別攻撃に出撃して戦死した多くの若いパイロット達の遺影が飾られてい
ました。若い人は17歳です、微笑んで笑っている姿の遺影もあります。

びっしりと並んだ遺影の凄まじい数に、心がギユー!と震える感じでした。

その並んだ遺影の下に整然と陳列された実筆の遺書やコピーなどが並び、
誰でも見て読むことが出来ます。数々の遺書を読んで行くに連れて、何と
平和な今の世に生きて居るのかと言う事を、心に切実に感じました。

そして、この様に特攻機に搭乗して敵艦に突入して行った若いパイロット達
を考えると是非とも同じ世代の若者達に、この遺書を読んで貰いたいと感じ
ました。
日本の今の平和な礎に、この様な方々の貴い命があったからと、心から
感じました。

『特攻出撃まであと2時間となりました、』と言う書き出しの言葉で始まる
遺書を読んだ時、私の涙腺から涙が止まらなくなりました。

しばらくは涙で遺書を読むことも出来ませんでした。

あと数時間で自分の命が特攻機と四散するというのに、父母を思い、兄弟
姉妹達に別れの言葉を残し、自分の祖国を守る気迫を、乱れる事 のない
毛筆で遺言を書き残して飛び立った若者の心を痛いほど感じ、 その純粋さ
に心うたれました。

私はしばらく歩く事が出来ずに近くのイスに座り込んでいました。

心を落ち着かせていた時に、44年の昔に、南米のパラグワイ移住者で、
満州から引揚げてパラグワイに移住して来た人でしたが、ソ連軍が満州に
雪崩を打って攻撃して来た時に、夜襲でソ連軍に万歳突撃をして、日本人
の避難民を少しでも逃すために犠牲になった方々の話を聞いた事を思い出
していました。

部隊長以下、全員が軍刀や銃剣を付けた小銃をかざして、隊長が『皆と
は靖国神社で会おう・・』と声を掛けて、先頭でバンザーイ!と声を掛ける
と、ウオー!と声のあらん限りで突撃して行ったと聞きましたが、照明弾の
撃ち上げられた輝きの下で、手投弾の炸裂、ロシア軍の自動小銃の交錯
する曳光弾の中で、バンザーイと叫んで倒れて行ったという事でした。

そして、その話をしてくれた方は・・・、
自分は乳飲み子を抱える妻と子供の顔を思い出して、どうしても万歳突撃
が出来ずに逃げたと話していましたが、生き残ったのは数えるほどだった
と話していました。

当時、年配の彼が神風特別攻撃隊員の特攻精神に敬意を表して、

『死んで神と言われるより、生き残ってこんな南米で百姓して居るのがも
っと辛く、苦しい道だ!』

とポツリともらした言葉が心に残っています。

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