2013年4月8日月曜日

私の還暦過去帳(363)


   訪日雑感(16)

熊本まで乗車した特急電車は夕暮れの鹿児島本線を下って行きましたが、
途中大牟田駅を過ぎて、馬込川の鉄橋を列車が渡る時に、子供の頃の
思いがまぶたに浮かびました。
線路脇のレンコン畑の濠に良くザリガニ釣りに来ていた思いがありました。

今では線路の両側には多くの家が並んで、昔の面影は何も残ってはいま
せんでしたが、郷愁の思いは消す事は出来ません、一瞬の通過ですが
鉄橋のゴー!という音の響きが60年前と何も変らない響きに聞こえまし
た。
今でも小・中・高と大牟田の町で育った事は忘れる事は出来ません。
終戦で台湾から家族で引きあげて来て、祖父の家が残っていたからでし
たが、父母がそれで大牟田に腰を落ち着けた様でした。

当時は炭鉱の景気が良かった時代で斜陽産業になるまでは、大牟田の
炭鉱町が栄えていました。

私が高校を卒業して東京に出る頃には、炭鉱産業から石油産業に、エ
ネルギー転換で斜陽に傾いていた頃でした。三池炭鉱の炭塵爆発で父
の弟も死亡、近所の友達も鉱山学校を卒業して働き初めて直ぐに事故死
をしてしまい、18歳と2ヶ月で大牟田の町を出る時に、ここには帰って
くる事は無いと心に思っていました。

その事は現実になり、この歳まで総計で2ヶ月も大牟田の土を踏んだ事
がありません、今ではその家もかなり昔に売り払い、小倉に両親が引っ
越して、その大牟田の昔の家も老朽化して今では取り壊されて、何も残
ってはいない様です。

暗くなりかけた鹿児島本線を特急列車が沿線の枯れた田圃の中を走り抜
けて行きましたが、今では複線化されて、単線の蒸気機関車が走ってい
た時代の様は何処にもありませんでした。

熊本駅に到着して、直ぐに豊肥線に乗り換えて南熊本で降りて、歩いて
直ぐの親戚の家に到着いたしました。携帯で電話していたので、到着す
ると夕食の用意が全て済んで待っていました。

私は父の妹で昨年亡くなったおばさんの遺影に線香を上げて、先ずは両
手を合わせて祈っていました。
子供の頃から、数え切れないほどお世話になったおばさんです、東京か
ら帰省しても、大牟田の実家には寄らず、東京からそのまま熊本まで買
っていた切符で熊本のおばさん宅に直行して行き、同じ年頃のいとこ達と
楽しく遊んでいました。

母が『そろそろ息子を実家に帰してくれ・・』と言われていた頃もありまし
た。
おばさんの家族も満州引き上げで、今でも特製餃子の味を忘れる事は出
来ません、餃子も水餃子、揚げ餃子、ワンタンスープに入れた餃子など
中国で覚えた本場の味をご馳走してくれた事が、忘れられない思い出と
なって心にあります。

その夜の夕食は熊本名物の『馬刺身』で、マグロのトロの様な馬刺しを
食べさせて貰いましたが、ビールでほろ酔いの肴には極上と感じました。
その夜は久しぶりに、いとこと話が尽きず、遅くまで話していました。

翌日は早目に起きて、宅配の荷物が来るのを待って、鹿児島まで墓参
りに行く計画でした。予定より早く荷物が来て直ぐに熊本駅までタクシー
で出かけて、新幹線乗り継ぎの特急に乗車いたしました。

昔からしたら早いことには驚くほどでした。一時間チョィ!の時間で鹿児
島駅に到着して、また二度ビックリでした。余りの変り様に驚いて昔の
面影など何処にも無いのです、いとこが驚くだろう・・・、と言った事が分
かりました。

墓参りに来たのですが、いとこが是非とも見せたいと言っていた、そし
て私も是非とも見たかった知覧の『特攻記念館』を訪れる事に致しまし
た。案内所で聞いたら、15分でバスが出るという事で、それで行く事
にしました。

アメリカで第2次大戦の復員軍人から何度も話を聞いた、神風特攻隊
の現場の生の攻撃を受けた側の話から、アメリカ人も突入してくる特攻
機に恐怖を感じたという事ですが、私の母親からも話を聞いた事があり、
アメリカ滞在36年目となり、 やっとその機会が来たのです。

昔、近くの射撃場の隣のベンチで射撃をしていた年配の方が、休憩時
間に話してくれた事も、今回の訪問の願望の底にありました。

彼は沖縄戦で、航空母艦の舷側にある対空機関砲の射手をしていた時
に、特攻機の攻撃に遭い、雷撃機が海面スレスレに突入した来た時に、
白いマフラーの操縦士が微かに見えたと話していました。

重い爆弾をさげた機体を操りながら、弾幕の猛射の火炎の中を飛行甲
板の横にあるエレベーター装置を目掛けて、特攻機が突入して行 った
と話していましたが、多くの仲間の対空機関砲の射手達と水兵 がその
特攻機の突入で戦死したと話していました。

話してくれたその方も爆風で吹き飛ばされたが、運良く気絶しただ けで
命拾いをしたと話していました。
特攻機を操り、死の瞬間まで目標を目掛けて操縦するその精神力と気
迫をアメリカ人の話しから感じていました。そして彼もそれを驚嘆してい
ました。

私はバスに乗車して知覧の町が近くなるに連れて、心が緊張して来る
のが分かりました。

そして戦前、台湾の山の中に疎開するまで、台北市の郊外で防空壕
から飛行機が出撃して行くシーンや、上空で空中戦が始まり、巴戦の
戦いで祖母が両手を合わせて、ゼロ戦の勝利を祈っていた事などが微
かに思い出されていました。

山の峠を越えて知覧の茶畑が広がり、いとこが知覧がもう直ぐだと教
えてくれました。

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