2013年4月12日金曜日

私の還暦過去帳(364)

 

 
旅と魚の食い歩きー!

去年の2008年を振り返ると、色々な事が有りました。
まさに旅に明け暮れた日々でした。
旅に出たのが暮から正月過ぎ、2週間あまりインド各地を歩きまして、正月
は二ユーデリーの首都で過ごしましたが、魚らしき物は持参していた魚の
缶詰でしたが、サンマやサバの味噌煮と、あとはウナギなどでした。
御飯は問題ありませんでしたが、日本食レストランに行って魚らしき物を食
べたのは2回ほどでした。

私の感想は缶詰の魚がまだましでした。
3月の終わりはメキシコのバハ・カリフォルニアのカボに一週間滞在してマ
グロを1ヵ年分ほど食べて来ました。そこにコンドの部屋を購入したのは、
そろそろ10年も前で、カボがバケーション・リゾートのブームになる前でし
たので、格安で手に入れたものでした。

それと、ここで毎年開催されるカジキマグロの釣り大会は、ここメキシコの
カボが一番のマリーン・スポーツのメッカで沢山の魚が釣れる事でも世界
でも有名だからです。
魚を食べる事が好きですので、行くと毎日、釣り船が港に帰ってくる時刻
を待ってから、生きの良い魚を買う事にしていました。

50cmぐらいのメバチマグロなどは20ドル程度で一本買えますので、身
だけ降ろして貰い、片身を2日ばかりで食べて、後半分は冷凍してサンフ
ランシスコの自宅に持ち帰りますが、魚はメキシコで、出国前に、FDAの
検査官の検疫を受けて、アイスボックスを封印をして、テープを巻いてく
れますので、それでアメリカ入国時はフリーパスです。

ガリガリに冷凍させておけば丁度自宅に着いた時はアイスボックスの上
部に入れた身が食べ頃に解凍していますので、早速刺身で食べていま
した。アイスボックスにぎっしりと入れてくると、かなりの重さになりますが
楽しみの一つです。

5月の終わりには完全引退の第一歩で、先ずは区切り良く、ワイフと
6~7月に46日間ほど、南米各地を歩きました。
今までの私の仕事、雑用、家庭菜園の作物管理の百姓仕事など、全て
を放り出しての旅でした。
その間は毎日、旅に明け暮れて、あちこちで自炊をしながら、電気釜持
参の旅で、昔言葉で言えば木賃宿と言う類の安宿のペンションに泊まり
ながらの旅でした。

ホテルも格安ホテルばかりで歩いていましたが、苦にもならず一日、
14時間もバス乗車したことも有りました。
ペルーのリマでは泊まった宿の近くのスーパーで、季節が反対でカツオ
が旬で釣れていた様で、40cmぐらいの大きさで、一本7ドルもしません
ので、余りの新鮮さにその場で衝動買いをして、身だけに降ろして貰い
ましたが、スペイン語を少し話しますので、

この魚は一本幾ら・・?これ一本買うの?  
そうだけど・・!、それではまけてあげるよ・・!

とかなんとか言う事で、早速買いましたが、ずっしりと重い身でした。

宿に帰り、ペルー風のセビッチャ(レモン汁でのあえもの)とカツオのタタ
キを作りましたが、同宿者にも振るまいまして、満腹のお腹をさするぐ
らい食べていました。
御飯は持参の電気釜で銀シャリを炊いて、インスタント味噌汁に持参
の沢庵で食べていました。

宿に滞在して居る若い日本から来た人達も、私等二人が食べている
日本食をみて、羨ましそうな顔をしていましたので、電気釜に余ってい
る御飯で食べてもらいました。
リマからクスコに行った時もお握りを作って持って行き、クスコの宿で
インスタント味噌汁など作り、サンマの缶詰を開けて食べていました。

この歳になると旅の食べ物は重要です。ピザやハンバーグなど食べ
ていたら、それこそぶっ倒れてしまうと思いました。

マチュピチュを訪れた時は乾季で晴天の天空が抜けるような青空で、
その空の色にも感激いたしました。マチュピチュではワイナピチュ山
の登頂と合わせて、向かいのマチュピチュ山にも同時に一日で登山
計画をしていました。

下のアグアス・カリエンテスの町に宿泊して、最初は英語ガイド付き
の団体にもぐり込んでマチュピチュの遺跡をワイフと歩きまして、下
準備で一日丹念に歩き、時間を計り、翌日の入場券を買うのでその
締め切り時間の前まで歩き廻っていました。
そこでも食べたのが鱒の魚でした。フライが多かったのですが、1匹
開いて皿からはみ出る様な大きな魚でしたが、それにポテトとライス
が付いてサラダとスープで10ドル程度だったと思います。

翌日早朝にワイナピチュ山を挑戦してゲートに並んだら80番台でし
た。2630mの標高ですが永年毎日歩いていたのが平均7kmはこ
なしていましたので、まったくの楽勝で途中休んでも、一時間で山頂
に着きましたが、ワイフは少し遅れて来ました。

子供の頃からの念願の、山頂のインカ帝王の岩に座り、感激に浸
っていました。それとそこから見た乾季の抜ける様な青空と微かに
見える5千メーター級の山々の雪の白さが目に残っています。

帰りは少し急いで降りて、また次のマチュピチュ山に駆け登るつも
りでしたが、降りてくるワイフが途中で横道に入り、近所の小高い山
に登ってしまい、それを待っていたら時間的に一時間ほど予定より
遅れて、2800m近くあるマチュピチ山は私一人で挑戦いたしました。

水と熱量食だけで急ぎ足で登りましたが、帰りの最終バス時刻の
関係でインカ道から関所を抜けて、歩けるだけ行き、時間ギリギリ
まで歩いてバス時刻に合わせて中止して満足して降りてきました。
日頃の鍛錬で疲れもせずに戻りましたが、マチュピチュ遺跡内で
何組かの日本人ツワー客に会いましたが、皆が良い服装で肌が
白いのには驚きました。

日本人ガイドに引率されてヨタヨタして歩いている人も見ましたが、
私が通り過ぎながら、『頑張って歩いて下さい・・!』と声を掛ける
と皆が、『お一人ですか?』と声を掛けてくれましたが、インカ道の
下り坂でしたが、かなりきつそうな人がいました。

バス停で待ち合わせしていたワイフと、下のアグアス・カリエンテ
スの町まで降りてホテルに帰りましたが、有意義な一日でした。
街中で知り合った現地人のポーター2名と町を歩きましたが、彼
等は一日、インカトレイの道を、30kの荷物を背負い、一日、10
ドル程度の労賃で仕事をすると話していました。

彼等が食事をする、メルカードの上の食堂で食事を一緒にしま
したが、ポーターの仕事が普通の仕事の倍は収入があると話し
ていましたが、25歳で2名の子持ちでした。

帰りの汽車に乗る時に、ホテルの前に仕事が無くて、ベンチに
座っていたポーターに駅まで荷物を持ってもらいましたが、喜ん
で運んでくれました。5分ぐらいの距
離でしたが、1ドルぐらいのチップを渡すと日本語で『アリガトウ』
と言ってくれました。

そこの町の温泉はぬるくて入浴は致しませんでした。
アレキパの町からコルカ峡谷に4910mの標高の峠を越えて
行く時に、ブルー氷のガリガリに凍った滝が在ったのには驚き
ました。

私はそれより20mばかり上まで登り、高山コケを観察していま
したが、そこに岩を6個ばかり積み上げて記念にしてきました。
チバイの町では日本と同じ感じの温泉に行き、ペルーのチバイ
温泉でワイフとふやけるまで熱い温泉に浸かっていました。
地元の人達と共同浴場で話していたら、なんと中の一人はアメ
リカのカリフォルニアから来ていたヒスパニックの観光客でした。

またホテルの宿では夜になり急激に冷え込んだのにも驚きまし
たが、翌朝、世界で一番深いと言われるコルカ峡谷でコンドル
が7羽ぐらい、ゆっくりと飛ぶ様を見て、その雄大さに感激して
いました。

そんなチバイの田舎ですが、養殖鱒の美味しいペルー風から
揚げを食べていました。付け合せは定番のポテトとライスとト
ウモロコシでした。

ペルーとチリの国境の町でタクナという所のレストランで食べ
たセビッチャは絶品で 、ウニを使用してレモンで味付けしてあ
ったのには驚きました。
ペルー各地で食べたお魚のセビッチャですが、余りの美味し
さにお店を出る時に、チップを裏のコックさんにも渡して貰い
ました。その店は町でも、セビッチャで有名なお店だったよう
です。

そんなことで、あちこちを歩いてパラグワイの首都アスンショ
ンで日系のホテルに宿泊しましたが、そこが朝食付きで、毎
朝日本食の食べ放題に感激して、白御飯にお味噌汁と鮭の
塩焼きに納豆と生卵と来れば、旅の疲れも吹き飛んでいま
した。
鮭はチリ産で、アンデスを越えて来た物だと言うことでした。
バスタブに日本式にお湯をたっぷりと溜めて朝風呂に入り、
湯上りのほてった身体を見晴らしの良い部屋の窓からアス
ンションの市内を見ていると、2008年で44年前になります
が、当時の街中を覚えていましたので、感慨深く眺めていま
した。

私が南米に最初に今から45年前に移住したのがパラグワ
イでしたので、、久しぶりのアスンションが懐かしい感じでし
た。

昔からしたらパラナ河で獲れる魚が激減していると聞きまし
たが、44年昔はパラナ河の支流などに産卵に来る魚で、
河が埋まっていた時代でした。
私も一度見た事があるのですが、網を上げられない様に
沢山の魚が獲れて、トラックの荷台に投げ入れていた光景
を思い出します。

ラ・コルメナ移住地やイグワス移住地などを歩いてイグワ
スの滝を見物して、ラパス移住地も帰りに訪ねてエンカナシ
オンの町では、45年前にアルゼンチンから汽車でフエリー
で渡り、最初に着いたエンカナシオン駅を見に行きました。

現在は廃駅で、近くに機関車の修理整備工場があり、百
年近く前の世界で最後に残る薪で走る、旧式な蒸気機関
車を見てきました。
いまだに貨車の入れ替えだけに使われているようでした。

そこのエンカナシオンの町では立派な日本食レストランが
あり、そこでは久しぶりに刺身と御寿司を頂きました。
広島県からの移住者が開いているお店でした。
お魚はアルゼンチンと、ブラジルから飛行機で来ると言
う事でした。
40年以上も前に自分で長距離トラックを運転した国道も、
バスで走りましたが、全ては様変わりで舗装も格段に綺麗
になり何も昔の面影は在りませんでした。

当時、アルゼンチンのサルタ州のエンバルカションの町
で百姓をしていた時代、正月の魚を、チリからアンデスを
越えて運送屋にトラックで運んでもらっていた事を思い出
します。

ブエノス・アイレスからは1658kmも離れている田舎です
から、チリはもっと近い距離でした。

11月の初めに日本の郷里に母を訪ねた時は、久しぶり
に日本の魚を頂きましたが、やはり味付けから少し一味
違う感じでした。

やはり旅しても、どこでもお天道様と米の飯に魚が付い
て来ると思います。

『旅路で味合う魚に母の手料理を思うかな、』

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