2013年11月29日金曜日

私の還暦過去帳(451)


ニラ、されどニラなり・・いつの世も韮・韮なり・・、

私にはこの作物には大変ご縁があります。

子供頃に、このニラ炒めの卵とじという料理など、ご馳走の部類でした。
終戦直後の食べ物が無い時代に、麦飯にこのオカズだけでも美味しくご飯を
頂きました。

ニラは昔も今も雑草のような強さで育ちます。
我が家もニラは欠かさず植えて育てていますが、これが重宝する食べ物で
タフな野菜です。
我が家ではニラ炒め、おひたし、餃子、スープなども入れて食べています。

学生時代に東京で学生相手の定食屋では、ニラ・レバー炒めと言うとご馳走
でした。
当時、50年も前は新宿駅の西口には、戦後のバラックが残り、酎ハイの梅
割りを飲みながら、焼き鳥でも食べていた思い出があります。

そこのバラックの一膳飯屋で食べた、餃子に、ニラ・レバー炒めと、どんぶり
飯でたらふく食べた記憶があります。そしてしっかりとニンニクが沢山入った
味を思い出します。

肉が食べたい時は大きな鯨のカツを注文して、キャベツの千切りとドバー!
 と掛けたトンカツソースで、これもたらふく食べていました。
バラックの中にはその当時、その様な店が沢山残っていました。

軍隊酒場と言う復員軍人達の慰安所もあり、バラックの酒場が揺れるような
軍歌が響いていました。

南米に移住して、アルゼンチンのサルタ州で、農業の支配人をしていた時
期にオレンジの収穫で2時間ばかり離れた果樹園に行き、そこで自炊して
時々、日本食を食べていました。
オーナーの奥さんが昔植えていたニラが、用水路の側に繁茂していました。
私も直ぐに学生時代を思い出して、夕食にニラ炒めを作りましたが、一口
食べて吐き出してしまいました。

なんと・・、それは、それは・・、硬いニラでとても噛み切る事も出来ない硬
さでした。匂いは強烈で、まさにニラですが、とても食べる気もしなくて全部
捨ててしまいました。
仕方が無いのでイワシの缶詰を開けてご飯を食べていましたが、数日す
ると切った後から、柔らかそうなニラが、びっしり新芽が出ているではあり
ませんか、 そこで再挑戦とニラ炒めを作った所が見事正解でした。

美味しくて、柔らかくて、卵とじなどは、ご飯のお代わりまでして食べていま
した。 ある日、使用人が大きな塊のレバーを肉屋から買って来たので、分
けて貰いニンニクをフライパンで油に泳がせて、レバーさっと炒めてニラと
混ぜて醤油味で皿に盛ると、生唾がごくりと出た思い出があります。

今でも、たかがニラ、されどニラだと思います。

2013年11月26日火曜日

私の還暦過去帳(450)


国際結婚の金銭的な注意の話し・・、

50年ほど前に日本を出て、世界中で日本人女性や男性の結婚形態を見て
来ました。
それを総括してアメリカを主にして書いています。

1、結婚しても、たとえ妻でも夫でもお金や財産が絡む時は他人と思え。

2、親から財産を貰ったら、たとえ妻でも夫でも嘘を言って貰っていない、少し
  だけと言う事。

3、親はいつまでも生きていない、必ず命金として故郷の日本にお金を残し
  て 置く事。

4、そのお金はビザやマスターカード兼用でATMカードを作り、自分が住ん
  でいる 国で引き落としが出来るようにする事。

5、必ず遺言状は作り、その一つは親元に残す事、誰に遺産相続させるか
  文章は かならず明記しておく事。

6、遺産で土地を相続したら売り急がず、相続税は物納でも出来るので、
  必ず 税理士などと相談して、親戚、兄弟などの話は参考までにして、
  必ず他人の 専門家に相談する事、騙され無い様に、甘言に釣られ無い
  様に・・、

7、親はいつまでも生きているとは思うな、自活と自立と、自主精神で海外
  での 困難にぶつかれ、そして跳ね除け、蹴散らし、命の限り生き抜け。

8、祖国の山河はいつの世も消えはせぬ、夢破れて、心傷付き、安らぎを
  探す 時は祖国日本を思い浮かべ帰国しろ・・、お天道様と米の飯は何
  処にでも ある。

9、野垂れ死にや、自殺などは先ず金が無くなると思い、考える。国際結
  婚の 5人の内、3人までは離婚するから、命金はどの様な事があっても、
  必ず 無くさないで、貯め込み、命がけで守り、自分の子供や、自分自身
  の生き残 る手段としての武器として持つ事を忘れるな・・、

10、地獄の沙汰も金次第・・、努々忘れずに・・、、
   『日本を出たら7人の敵ではなく、その倍の14人の敵が居ると思えー!』


しかし、時間など、金銭で買えないものもあると言う事を忘れないで下さい。

2013年11月23日土曜日

私の還暦過去帳(449)

これまでの私の愛犬の話し・・・、

今日は少し冷えていました。
晴天でしたが風が冷たく、気温も低めでした。

いつもの散歩して朝食が終わると今日は畑のトマトの芽かきと、キユーリの
支柱などを立てていました。
休み時間にふと表に出てみると、犬を連れた老人が歩いていました。
家の前の歩道を毎日定期的に散歩に来る人が、3組ばかり居ますが、可愛
い犬も居ますし、大型犬でベビーカーを押しながら、犬を連れて走っている
女性もいます。

私が自分で犬を飼い始めたのは、小学三年生の頃でした。
当時は戦後間も無くて、専用のドック・フードなどは皆無で、殆どが家族の残
りご飯などを与えていた時代でした。

小学校の給食もその頃には始まり、アメリカ政府の余剰農産物のララ物資
が給食に回って来ていた様です。 コッペパンにマーガリンかジャムが付いて、
それに脱脂粉ミルクが付いていま した。それにドライ・フルーツや、缶フード
のハムやスパームなども出ていましたが、殆どの給食の食べ物はアメリカ政
府からの援助物資だったようです。

犬を飼いだして、給食のおばさんが友達のお母さんでしたので、良く帰りに
残り物のパンや、子供の食べ残しの残飯なども貰い、持ち帰っていました。

育ち盛りの子犬ですから良く食べて、いつもアルミの皿がカラカラと音を立
てるくらいに食べてしまい、もっと欲しそうな顔で私を見ていましたので、残
り物があった時は急いで帰宅していました。
それを犬に食べさせてから、犬を連れて裏の河の土手道を歩くのが好きで
した。 そこにはウズラや時には鴨も飛び出す事もありました。
犬は縁側の下に藁を敷いてそこの上にボロの毛布を広げてやり、犬小屋と
していました。
私が縁側に行くと直ぐに飛び出して来て、尻尾を振って散歩に行こうと誘っ
ていました。

賢い犬で、人の足音で誰かと分かり、良い番犬にもなっていました。
私がカバンを背負って走って学校から帰って来ると、遠くから吠えて大騒ぎ
で待っていました。
カバンを放り出して、トイレに犬を連れて土手に行き、放してやると喜んで
草叢を走り回っていました。そんな元気な犬でしたが、ある日、鎖から放し
たらしばらく帰ってこなく、夕方帰って来ました。

父が帰宅していつもの犬の歓迎が無いので、父が見に行くと何か吐いてぐ
ったりとして居るようでした。縁側の下でおとなしくしていたので、余り気も掛
けずに寝ましたが翌日です、父がポチが死んでいると教えてくれました。

私は朝食も食べずに悲しくて大泣きしていたようです。

すでに犬は冷たく硬直していました。父は犬小屋に敷いていた毛布で包む
と私を促して裏の土手の空き地にシャベルで穴を掘るとポチを横たえて埋
葬しました。母も小さなお握りを作り、お線香と庭の花を添えてポチの側に
置き、父が短く読経をして土を被せてしまいました。
私はその間、ずっと泣いていたようです。

それからはアメリカに来るまで犬を飼った事はありませんが、アメリカに来
て2匹の犬を子供達の為に飼いましたが、それも16年ほど生きて犬達は
前後して亡くなりました。

今では良く旅行に出ますので生き物は飼えませんが、何処にも出歩く事も
なくなって家に居るようになったら、また愛犬を飼うつもりでいます。

近所のお馴染みさんの犬ですが、尻尾をちぎれる様に振って、挨拶する姿
はいつも可愛いなー!と感じます。

2013年11月20日水曜日

私の還暦過去帳(448)

時は去り行く・・、

ここ最近は忙しくしていました。

休暇から帰宅して、私の菜園の手入れと庭の手入れと重なり、それに春
の植え付け時期とも丁度時期が合いますので、せっせと頑張っていました。

それにどん底まで落ちた不動産価格に、最低の住宅ローンも加わり私も
不動産購入で動いていました。
今年もメキシコのカボに家族で休暇に行き、2週間ほど魚尽くしで楽しん
でいました。今年はハマチが良く釣れていましたが、鰹も50cmぐらいの
サイズが良く釣れていました。
釣れたてを刺身で頂くのは鰹も美味しいもので、ハマチは寿司や刺身で
良く食べていました。

今年で13年目となる慣例のカボ行きですが、最初の年も今年も魚が目
当てでした。しかし、最初訪れた時からしたら、2社あった日系の旅行代
理店なども全て無くなり、日本人が居なくなり、12年の間に増えた友達
や知り合いから聞いても、過去に日本人と結婚した日本語を話すメキシ
コ人の女性と、メキシコ人と結婚した60過ぎの女性だけが居ると聞きま
した。カボのJALパック旅行の消滅と同時に全てが消え去った様です。

1970年代の初頭から、バッハ・カリフォルニア半島の中間にあるラパス
を基地にしていた日系漁船も今ではすでに無く、百年前の日本人漁師達
が活躍したバッハ・カリフォルニアも、その子孫の名前だけを名乗るメキ
シコ人を見ます。

すでに三世や四世の時代だという事で、日本人の名前でなければ、まず
日系と感じる事は無理だと思います。それも第二次大戦で全てが激変し
た日本人の歴史と、その流れがあると感じます。

近所の一世が亡くなった時に、メキシコから親戚が弔問に来ていたのに
は驚きましたが、戦前のアメリカ排日移民時代にメキシコからカリフォル
ニア州やアリゾナ州に入って来た日本人移住者が居たからだと思います。

今では日本からの移住者というと殆どが婚姻関係か、商社関係で永住
権を獲得した人か、学生でそのままアメリカに就職して居付いた人ばか
りです。時代が大きく変化して来たと感じます。

私達が1960年代の初頭に渡米したのは殆どが船の時代で、12日間ほ
ど太平洋を横断するのに要していましたが、今では時間で済みます。
朝食を食べて飛行場に行き、朝10時頃に出発する飛行機だと、東京で
夕食を食べる事が出来ます。

時間という、時の大きな変化だと思いますが、これも時代の流れで私の回
りに居た一世達が殆ど亡くなり、私が参加していた県人会もすでに解散し
てしまいました。
それと同時に第二次大戦後、アメリカ兵と結婚してアメリカに移住してき
た日本人の花嫁達の多くの女性が80歳を過ぎ、戦後65年を過ぎた時間
の流れに消えようとしています。

つい最近もアメリカ人のご主人を亡くして、日本の兄弟に呼ばれて郷里
で骨を埋める覚悟で帰国した女性がいます。子供が居なかったらアメリカ
の老後の生活は寂しいと感じます。
歳をとると日本食が恋しくなり、アメリカは車社会で、運転ができないと一人
で自宅に住む事が困難となりますので、兄弟達が訪ねて来て、日本に連
れ帰るのだと思います。

これまで多くの日本人達がアメリカに渡って来て、サンフランシスコ郊外
のコルマ日本人墓地にひっそりと眠っている墓標の数々を墓参りに行き
眺めると、ほんの一部の墓標だと思いますが、その一つ一つが人生の全
てを時の流れに逆らうことなく、人生の物語を秘めて、流れ、忘却の彼方
に去り行く事の様だと感じます。

2013年11月18日月曜日

私の還暦過去帳(447)

雨の日の思いで・・、

今日は珍しくカリフォルニアで、もう3日も長雨が降っています。
春雨のようにシトシトと切れ目無く降っている様子は、しばらく2・・3日は
降るという事で雨が少ないカリフォルニアでは恵みの雨です。

私が47年前に農業をしていたアルゼンチンのサルタ州では、完全な南
米の内陸性気候で海が近くにないので、乾燥してジャングルでも潅木と
余り背が高くない木々が生えていました。

サルタ州辺りのもっと北に行くとフフイ州やフォルモッサ州などがあり、
どちらも乾燥して雨期のみ雨が降る所でした。
私がぺルーを旅行していた時にプーノと言う近くの町でバスが休憩で停
まっていた時に、近所の住人と会話して、去年は種の作付け時期に雨が
降らないので今年は殆ど収穫が無かったと話していました。

近くのその人の家を見せてもらったのですが、納屋に貯蔵してある穀物
がありました。2年分は十分にあると話していましたが、トウモロコシと
小麦が主でしたが、食べるだけは心配ないので、現金収入で近くの工事
現場で仕事をしていると話していました。
今の現代社会からしたらペルーでは、まだ田舎の生活は悠長だと思い
ました。
雨が降らないと生活に困窮する歴史を、彼等はインカ時代からの習慣と
して持っていたと感じます。山から流れて来ている小川の岸で僅かな野
菜類を栽培していましたが、その水を畑に引けるのは、僅かの畑だと言
って指差して見せてくれました。

私が居た農場でも水揚げポンプが故障すると大変でした。ジーゼルエン
ジンでしたが、乾期の水が減った河から汲み上げる農業用水は大変で
した。故障した時の用心に直径25mばかりの農業用貯水池を作り、そこ
に1日分の水を貯めていました。
そこに汲み上げた水を流して、もう一度ポンプを使い高台の畑に汲み上
げて流していましたが、ジーゼルエンジンの音が深夜の静かなジャング
ルに、低く響いているのが時々聞こえていました。

リズムカルで単調な音です。じっと焚き火の明るい火に、夜冷える大陸
性の気候で身体を暖めながらその音を聞いていました。
トントンと響く音は眠気を誘い、よく昼間の疲れからまるで子守唄のよう
に聞こえて来ましたが、寝静まったジャングルの中の農場では文明社会
の音として響いているようでした。

農場が暇な時に魚釣りと狩猟も兼ねてフォルモッサ方面にトラックで走
っていた時に、川岸に牛の群れを集めてキャンプ宿泊していたガウチョー
達が居ましたが、鉄道駅まで後1日の予定だと話していました。
昔ながらの皮のツバ広帽子に皮のズボンカバーをして、長いムチを丸
めて鞍の横に吊るしてありました。

腰のベルトには銀飾りの付いた短刀が差し込まれ、タバコの刻みが入
った皮袋がベルトの横に見えていました。ずーっと一週間近く牛を追って
田舎から出て来たと話していましたが、家畜輸送トラックも入れない場所
から来たと思いました。

水場を伝って来たので時間が掛かったと話していましたが、川岸でゆっ
くりと牛達を休めてから、鉄道駅の出荷現場まで行くと話していました。

鞍の横には旧式なウインチエスター・レバーアクションのライフルが差し
込まれ弾帯のベルトも見えていました。テントの横ではアサードの焼肉
が香ばしい肉の香りを放ち、塊の肉が焼けていました。
勧められるままに座り、アサードを食べさして貰いましたが、我々も果物
のオレンジやレモン、バナナなどと,持ってきたレチューガのレタスを分
けてあげ、促成のサラダを作りました。

暗くなりかけて我々が持参してきたガソリン・エンジンの小型自家発電機
を始動して、2ヶ所ぐらい電灯の光がテントを明るくすると、ガウチョー達
がしげしげと見て、ランプではこうは行かないと話してマテ茶を入れて飲
んでいました。
今ではアルゼンチン北部も奥地まで輸送トラックの道路が出来上がり、
そんな光景など、もう絶対に見ることが出来ないと思いますが、乾期に
牛を追っていた時代も、すでに47年以上も前になります。

2013年11月16日土曜日

私の還暦過去帳(446)

私の隠れた生い立ちの秘密・・、

私は昨日、2012年のアカデミー賞授与式の様子を見ていました。
華やかな映画界のトップを飾る授賞式の様子は何かジーンと来るものが
あります。

それと言うのも・・、
私には隠れた物語を秘めているのです。私が郷里、福岡の大牟田市から
高校を出て18歳と3ヶ月で東京に勉学に上京して出て来ました。

今では郷里の家も無く、帰る実家もありませんが、父も23年前に亡くなり、
母も小倉の老人ホームで余生を送っています。
これまでに2ヶ月も帰郷することはありませんでした。

当時の大牟田市にある、三井三池炭鉱の大争議が始まっていましたので、
父がそこの職員をしていたので、ストの影響で家計は苦しく東京では自活し
て行かなければなりませんでした。
最初はアルバイトで勉学する勤労学生でした。しかし東京の物価高は直ぐ
にその様な両立は難しいと悟り、何か住み込み書生の仕事を探していま
した。
学校の学生課である日、書生の仕事が来ていました。
夜は必ず留守番で居る事と、3匹の犬の散歩、庭の手入れが週末の仕事
でした。
そこの邸宅は成城の外れで、まだその当時、田舎の田んぼが残っている
武蔵野の面影がある所でした。
多摩丘陵の続きが残る丘には当時は、国際家畜と言う養鶏農場があり、
練馬大根の畑が見事でした。

砧ゴルフ場がまだその当時はあり、塀の外から力道山達がプレーするの
を見る事が出来ました。近くには東映のスタジオがあり、当時の大スター、
三船敏郎俳優がイギリス製のスポーツカーで通って来るのを見ていました。

私が書生で入った所の邸宅は、その当時の有名な映画監督、井上梅次
先生で石原裕次郎氏を売り出した映画などで名を売っていました。

先生が売り出した俳優だけでも、石原裕次郎、赤城敬一郎、宍戸錠、仲代
達也、小林明などでしたが、おかげで田舎かっぺが、華やかな映画界を覗
く事が出来ました。
奥様は当時は凄い売れっ子の、月丘夢路という女優さんでした。

私の仕事は3匹の犬の散歩、庭の手入れ、時には買い物に自転車で行
く事もありましたが、夜は必ず用心棒の代わりで書生部屋に居ることが義
務でした。 おかげで書庫にある膨大な蔵書を読むことが出来て、人生の大
きな糧となりました。

書生になってからは衣食住は不自由しなくなり、少し学生生活の余裕も出
て来ました。沢山の映画脚本が蔵書としてありましたので、絵コンテ付きで
見て、読む事が出来ましたので、テレビで古い映画など見ると、よく台詞が
分かり、映画がもっと楽しいものになりました。
映画の試写会などの招待券を良く貰いましたので、封切り前の洋画なども
沢山観る事ができました。
朝は農大に自転車で出かけていましたが、30分程度、田舎の武蔵野の
農道を走って行くのは楽しいものでした。

まだ50年前のその当時は東京オリンピック前で、何処でも工事が行われ、
凄い勢いで東京が変化していた時代です。まだ世田谷通りは未舗装の道路
でした。
夏休みの半分は先生の映画撮影の助手で、水筒、イス、脚本などを持って
後を付いて歩いていました。
おかげでその当時の日本一の大女優、山本富士子の俳優さんにも目の前
で見る事が出来、華やかな映画界の中を金魚のうんこの様にして先生の後
を付いて歩いていました。
おかげで当時の有名は俳優さん達には、大勢の人と会うことが出来ました。

後の半分の夏休みは無銭旅行で、日本中を礼文島のまだ先、トド島まで、
知床半島の突端、鷲岬まで、全国の岬周りが趣味でしたので、潮岬、足摺
岬、能登半島の狼煙岬など鹿児島の突端まで、何処でもリックを背中に歩
いていました。

当時の沖縄はまだ返還前で行くことが出来ませんでしたが、日本全国あら
ゆる所を歩く事が出来ました。先生は毎月5・6冊の本を購入されて居た
ので、その当時夜に、出歩く事も出来ませんでしたので、旺盛な読書欲と
も重なり濫読していました。

農大を卒業と同時に南米のパラグワイに移住いたしましたが、先生から卒業
記念にセイコーの腕時計を頂きまして、それがアメリカに来てからも動いてい
ました。
奥様からはジラルミンの大型旅行トランクを頂きまして、いまだに私に付いて
回り、地球を何周かしてクロゼットの中にあります。
去年、先生もお亡くなりになり、その数年前に書生を辞めてから40年近くして
お会いしたのが最後でした。
私も歳を取り、全ての人生の出来事も過去に消え行き、野菜作りに裏庭で精
を出す幸せな余暇を今では楽しんでいます。

2013年11月13日水曜日

私の還暦過去帳(445)

国歌と国旗の意味・・、

今日の二ユースを見ていて、大阪府の学校区で、卒業式の国歌斉唱の時
に教職員の先生が起立もしなく、生徒や父兄の目の前で、皆が斉唱する時
に敬意も無く、起立することも無く、イスに座っていたという教育委員会の
規律違反を公然と他の人に見せ付ける行為には驚きました。

昔でしたが、アメリカに日本からの、学生親善訪問で訪れていた先生と学
生達が招待されている少年野球チームの試合会場で、開催式のアメリカ
国歌斉唱の時に、若い先生と引率されていた学生達がアメリカ国旗にも、
国歌斉唱にも起立もしないで、敬意も示す事無く、子供達は皆は何をして
いるのか・・、
と言う感じで見ている者、ベンチで座り込んで何か話をしている者などが
居る事を見て、何と言う教育を受けているのかと悲しくなりましたが、それ
もお隣の韓国から来ていた先生と学生達が、一斉にアメリカ国旗に敬意を
払い、帽子を脱ぎ、胸に手を当ててアメリカ国歌、国旗に敬意を示してい
た行為に何か大きな異差を衝撃の様に感じました。

韓国人の若い男性の先生は率先して生徒達の前で、背筋を伸ばし、野球
帽をとり、生徒達に模範を示す様に胸に手をあて、入場式で行進する少
年達の捧げるアメリカの国旗に敬意を示し、視線は行進してくる国旗に向
けていました。
その様子を見ていて、入隊していた軍隊などで規律ある教育での自国の
国旗、国歌に対しての尊厳とマナーを学んでいると感じる動作でした。

日本の国歌を歌う事や、国旗に敬意を払う事が過去の軍国主義の賛美
に繋がるという個人的な自己解釈で、公の場で、アメリカやカナダ、メキシ
コなどの、その他の大勢の国で先生達や、生徒と共に国歌や国旗に敬意
を払うという正反対の行為をして、生徒や父兄に公の式場で見せ付ける

と言う事は、日本人の国家感や日本人としての自覚と尊厳と敬意を持ち
合わせて居ないと感じ、現在のアメリカの民主主義国家でも、国旗と国歌
に学校の教育現場で、直にその様な行動をしたとすれば、まず大勢の
父兄達から即刻、先生としての素質を問われ、放校されると思います。

国歌、国旗はその時代、時代での流れがどの様であれ、現在の民主主義
の三権分立の日本国の国家としての象徴である事を忘れ、『坊主憎けり
や袈裟までも・・』と言う偏屈な自己主観と思います。

現在の教育は、ほんの一部の自由の根本を履き違えた先生達の操りと、
行動と、それが示す教育が、日本の学校教育を歪め、自由の理念を履き
違え、自己主張に合せて解釈して、それを教育と言う現場で無垢の子供
達を洗脳する様な行為と感じます。

日本は世界を向いて、幅広く広域に、自由主義の理念が世界の基準に
恥ずかしくない様に日本国を将来動かす子供達に、相応しい先生の理念
と信念を持って教育現場で教えて貰いたいと願うものです。

戦前の多くの日本人移住者達が、粗末な開拓初期の小屋でも、国旗と
天皇陛下の写真を神棚の横に祭り、日本国の平安と繁栄を、毎日仕事
に出る前に手を合せて祈る姿に心打たれた事を思い出します。

パラグワイの移住地でよれよれの薄汚れた日本国旗を見せられ、これ
は戦場で家族親戚などが住んでいる祖国日本を守る為に、部隊の先頭
に捧げられ突撃した日章旗だと言われました。

戦死した友の骨壷の下に隠され戦後、戦地から復員する時に持ち帰ら
れたと話していましたが、一つの国旗に込める思いは、軍国主義などと
簡単に切り捨てる人間などには到底理解など出来ない事と思います。

2013年11月10日日曜日

私の還暦過去帳(444)

命の水の有難さと感謝の気持ち・・、

今日も良く雨が降ってくれました。

私が47年前に南米のアルゼンチンのボリビア国境のサルタ州で農業を
していた 時代です。乾期なるとまったく雨が降らなく、飲み水まで困って
いました。

リオ・ベルメッホというラプラタ河の上流の支河でしたが。1700kmほど
上流でも河幅が200mほどあり、ボリビアの上流で大雨が降ると、河幅
一杯 で流れていました。

雨季になると大きな貯水タンクに雨水を飲料水として貯めていました。
河の水は塩分と上流のボリビア国内の銅山や銀山での坑内からの有害
な排水を 捨てることがありますので飲料水としては危険でした。

井戸を掘っても塩水が出て来て飲み水としては使えませんでしたので、
雨水が貴重な飲料水でした。
雨トヨからタンクに雨水を引いて貯めていましたが、屋根は椰子の木を
交互に重ねて竹の屋根のようにしていましたので、屋根に降る雨水は全
てタンクに入れて いました。
それを毎朝大きな薬缶とバケツに汲んで飲料水としていました。
味も良くその水で入れたお茶は美味しいお茶でした。
灯油の冷蔵庫だけしかない侘しいジャングル生活です、水は素焼きの壷
に入れて涼しい所にぶら下げていると、気化熱でひんやりとした水を飲め
ました。

ガリガリに乾燥して、ぼこぼこに乾いた道を歩いて来て、タンクから汲ん
だ冷たい 水を飲むことは本当に感謝の気持ちでした。
それが段々と減ってきて残り少なくなると寂しい気持ちになっていました。

町のパン屋の主人が狩猟で道に迷い、飲み水も全て無くして気が狂うほ
どの狂気の沙汰になり、自分の尿も飲み、自分の血液が沸騰する様な気
分で狂い死にする一歩手前で、インジオに助けられたと話していましたが、
水の貴重さをしみじみと語ってくれましたが、その後一切狩猟は止めてい
ました。

水を大事にする森の住人、マタッコ・インジオ達の生活は本当に水の貴重
さを身に染みて教えてくれました。
狩猟に行くと食器は焚き火の灰で汚れを落とし、1枚の皿で全てを賄う事
をいたします。食事の後は軽く拭いて僅かに鍋に入れた水で蒸すようにし
て煮沸してかごの中に並べるだけです。

乾き切った川床の砂を深く掘り竹筒を軽くヒビを入れて差し込んでいると
翌日には綺麗な水が竹筒の中に溜まっていました。その水をバケツに数
本入れると1回の使用量の水がありました。
喉が渇くとツタの茎元を切り、そこから滴り落ちる水滴を口で受けて飲ん
でいましたが、手の平に受けて犬達にも飲ませていました。

食事の時にマテ茶を飲む時も必ずボンベに入れたマテ茶に水を注いで、
濾す様にして飲んでいました。そして神々に捧げるように祈って地面に水
滴を垂らして神に感謝の気持ちを捧げていました。

我々の現代生活では、蛇口をひねれば出てくる水を何も感謝の気持ちも
無く使う生活に慣れた人間達は水の有難さを忘れていると思います。

私が良く行くメキシコのカボは60年前は水も余り無く寒村として僅かな漁
村でしたが、当時は1ヘクタールが1ドルしか土地の価値が無く、忘れられ
た地でしたが、現在では海水淡水化装置が稼動して水の問題が解決し、
大きなリゾート地として10年で人口が10倍に膨れ上がる様な開発が行
われています。

現在では土地も1ヘクタールが海岸線では、ミリオンの値段となっています。
歴史にも水が無くなり、うち捨てられた都市もあります。
マチュピチュ遺跡を訪問した時に、インカの技術で山間の岩に水道が延々
と引かれ、現在でも流れ、使えるのには驚嘆しました。

今夜も良く降ってくれます、有難い雨音です・・、

2013年11月8日金曜日

私の還暦過去帳(443)


人の命とその使い方・・、

人はその命の終末を迎えるまで、命の炎を燃やし続けている、

その炎が大きいか、小さいか、また有意義に燃やされたかは、

その人の生き方による。

平々凡々に波風を立てる事無く、人生の行く手を歩いて来た人、

波乱万丈に生死の境をさ迷い、かろうじて到達した人生街道の人、

それぞれに違いがあれども生きた時間は同じ時間・・・、

それぞれに心情から、人生の伴侶も違いがあるけれど、

歩いた時は神が与えた同じ道・・・、

されど生き方の優劣は誰にも、どの人にも差は無い、

人生の幕を閉じる時に悔いの無い人生を心に感じて、御世の世界に

旅立つ事を念じているが、これまで幾多の終末を見て来て、

やはり人生とは最後まで健康で人様に迷惑を掛けずに、家族にも

迷惑掛けないで旅立った人をうらやましく感じる。

70歳の扉を開けて歩み出した我が人生、やはりこの先は神のみぞ知る。

2013年11月5日火曜日

私の還暦過去帳(442)

 餅つきの思いで・・、

今年も餅つきの時節となりましたが、これまで長年、私の子供時代から
したら、その変遷も大きな歴史と感じます。

私が物心付いて正月の餅つきを覚えているのは、かなり昔の事です。
むかしは町内会で集まり、何軒かで正月の餅をつきますが、賑やかな
暮れの行事でした。
大きな餅つきの臼が用意され、それには熱湯を入れて大きな木製の
臼を暖めそれに餅米を蒸かした米を入れて、大勢の人で杵でつきます。

時には三味線なども持ち出して来て、お囃子のように音楽入りでお酒も
入りそれは賑やかな町内行事でした。
子ども達にはつき立ての餅に餡子を入れた、餡ころ餅で大福のように
して食べていました。これは終戦後甘いものが食べられなかった時代
には、特別貴重な食べ物と感じていました。

つき立ての餅を納豆や海苔など、それから大根おろしに柚子をすり降
ろして混ぜ、それを餅に付けて食べていました。
田舎で誰が考えたか知りませんが、美味しいつき立ての餅の食べ方と
思います。

60年近くも前の事です、正月と言う餅に大きな執着があったと思います。
我が家では母が先ず仏様と神棚に供える重ね餅を作ります。

それが済むと台所の釜炉に前に供える小さな重ね餅が作られていました。
これは火の神様に供える物でした。正月も7日を過ぎると、瓶に水を張
りそこの中に餅を入れて水餅として保存していました。

これですとカビが出なくて、柔らかく食べることが出来ました。
よく当時は精米所で、自宅で大豆を炒ってそれを黄な粉に挽いてもらっ
ていました。

それに砂糖を混ぜて、美味しい黄な粉餅を作り食べていました。
甘いものに飢えていた時代です、貴重な子供達のおやつでした。学校か
ら帰宅すると瓶から餅を出して来ると、さっと熱湯を通して黄な粉をまぶ
して、黄な粉餅を自分で作り食べていました。

近所で新しく家を建てる時には棟上式には必ず紅白の餅が配られ、大工
さんが餅撒きをして祝っていました。それをしないと、あそこの家は縁起
が悪いとか言われるので、必ず餅を神仏に飾り、そして、それを近所中
に配っていたようでした。

お祝い事には必ず餅が出るのはあたり前のようでしたので、それで田舎
では大抵は自宅に、餅つき用の臼を持っていました。
私も覚えていますが正月前には、田舎の百姓さんが内職で作った大きな
臼をリヤカーに数個載せて売りに来ていました。
一度買うと10年以上はもつ物ですから、値段は安くはなかったようです。
何年か日陰で乾燥させ、ひび割れのない大きな木で作られた臼ですから
手間も掛かっていたと思います。

それと同時に、もち米を1升枡で計り、お宅は5升だとか、一斗だとか言
って売っていた光景を思い出します。今では何処にも見られない光景で
すが、子供の頃の懐かしい思い出として心の中にあります。

私が移住した南米でもその習慣が47年前の移住地でも残っていました。
先ずもち米から自分で生産して、それで南米の暑い正月でしたが、餅つ
きをして、その後に餅米を蒸かす時に側で焼いたアサードの焼肉を、冷
たいビールで乾杯して食べていました。

当時、パラグワイで生産されたもち米を、坂梨氏がブエノスに運び、ブエ
ノス近郊の日本人農家や洗濯屋などの日系人に訪問販売して回ってい
ました。

それと同時に正月用品の黒豆などと、ついた餅も正月食品と一緒に販
売していた事を思い出しますが、当時の方々は全て鬼門に入られ、今
では誰も会うことはありません。

暑い夏の正月です、お雑煮の餅を、ふうふうと冷ましながら、熱いどん
ぶりから食べていた事を思い出します。

2013年11月3日日曜日

私の還暦過去帳(441)

 母の誕生日

私の母は今年で98歳になりました。元気ですが今では記憶も薄れて電話
での会話は無理になりましたが、3年ほど前の95歳頃は会話が成り立っ
ていました。
お祝いの電話をすると、息子の名前を思い出せず口の中で、もごもごと
何か言っていました。
耳はかなり遠くなり、大きな声ではっきりと言わないと聞こえないようでした。
でも母の声を聞くと、懐かしさがこの歳でもこみ上げてきます。

また日本に訪ねて行くからね・・、と言うと、いつ来るのかと聞いていました。
なるべく早く行くから、と言うと、待っているからね・・、と言ってくれました。

側に居る人にアメリカに居る息子だと教えている声が聞こえていました。
また電話するからと言うと、待っているよと言って電話を切りましたが、何
かホッとする気持ちになりました。

太平洋を挟んで鮮明に聞こえる電話の声に昔の事を考えると、今昔の思
いが致します。
昔は雑音とエコーに響くアナログで現在のデジタル通信の鮮明さを考え
ると雲泥の差で、それと格安な電話代で、これも昔を考えるとタダ同然に
感じます。

パソコンでスカイプを使い、画像のビデオ画面を見ながら話すことが出来
る時代で、何か夢のように感じますが、これも時代の進歩に感謝をする
気持ちです。

そろそろ47年目ですがアルゼンチンのサルタ州で農業をしていた時に、
テープレコーダーのテープを日本から送って来た事があります。
電話が無いので、母がテープに録音して声の便りを送ってくれたのです。

再生する機械が無いので誰か持っていないか、小さな町で探しました。
農産物仲買のオーナーが、テープレコーダーを持っているという事を聞
き込んでテープを再生して母の声を聞いた事があります。

家の中庭のテーブルの上に置かれたテープレコーダーが回り、リールの
テープが回転してテープの少し音質の悪い声で母の声が聞こえて来た時
は、心の中でジーンとする感激がありました。

当時、ブエノスまで長距離電話を掛けると、かなりの料金を取られていま
した。音質も悪く、嵐の後など2~3日は繋がらない時もありました。
大抵のブエノス市場との野菜相場情報は電報でやり取りしていました。
その当時、電話を持っているのは町の役場と大きな商店だけでした。

テープレコーダーも農産物仲買のオーナーが持っているだけで、夫妻も
側で私を見て、黙って私を見守っていました。
何を話しているかは分らないが、母が私に語りかける声は誰が聞いても
感激する声でした。父の声もテープには録音されていましたが、それは
手短く身体には注意するようにと言う事だけでした。

あの時からしたら、回りに居た人は全て亡くなり、私も古希の年齢になり、
そのお祝いも済んで、私の母だけが元気で生きています。

3年前に昔、私が住んでいたアルゼンチンのサルタ州、エンバルカショ
ンの町を訪ねた時に、街の様子から様変わりして、そこの仲買の倉庫も
跡形も無くなり、農場からトラックで出て来た道も、新しく町の外に建設
された国道の工事で、何処にあるのかも分かりませんでした。

町外れの墓地を訪ねると、狭い墓地の中に昔の知り合い達があそこに
も、ここにもと眠っていました。
全てが過去に消えて、ただ墓地に埋もれているという感じでした。

人はこの世に生まれて来たら、いつかは御世の国に戻らなければなり
ませんが、ただそれが早いか、遅いかの違いと思いますが、この宇宙
の時間からしたら、ほんの一秒の時間と思います。

ペルーのコルカ峡谷を訪ねた時に、4920mの峠を越える時にその頂
上で見た、濃紺の空が、47年前のサルタ州で見た空と同じ色を感じて
一瞬恍惚の思いが胸を過ぎ去る感じが致しました。

ふと・・、今でも目をつぶり、あの空の色を思い出すと、皆があの空の
濃紺の色の彼方に消えて、天上の何処かに居ると思う事があります。

2013年11月1日金曜日

私の還暦過去帳(440)


スマート・ホーンはスマートか・・?

今では中学生ぐらいの子供も、生意気にスマートホーンを、一人前にいじっ
ている姿を見かけます。
先日も日系スーパーに買い物に行ったら、そこの食堂のテーブルで注文し
て、食べるまでスマートホーンを無心にいじっている若い女性が居ました。

注文のラーメンが来ても、片手で箸を動かし、空いている片手で何か画面
を操作しています。まるで画面に全ての人間性が支配されている感じです、
電話が掛かってくると、きてれつな音楽が鳴り響き、自慢そうに周りを見回
して電話を話し始めました。

話しているのは広東語のようです、周りなど一切無視で、げらげらと声高く
笑い、話をしている様は、人間性のカケラも無い、礼儀もわきまえない態度
です。
側に母親らしき女性が居ますが、親はズズ・・と、どんぶりの底までラーメン
の汁を飲み干していました。
食事が終わると親子はテーブルを立ち去って行きましたが、テーブルの上
は散乱したナプキンや箸などがあり、ラーメンの鉢もそのままでした。

2mも離れていない場所にはセルフ・サービスの食器置き場があり、その
前にはゴミ箱も揃っていました。
ちょっと目をやると若い子はスマートホーンで、ゲームをしながら歩いてい
ました。さすが若い子は母親にせっっかれて歩いていましたが、私はこれ
は小さな携帯電話に人生の大部分の時間を消費させられていると感じま
した。

と言う我が家の子供、男二人は、スマートホーンの利用者です。
娘はスマートホーンの『中毒になる・・』と言って、普通の携帯ですが、近頃
は大勢が周りで使っているので、スマートホーンに取り替えた様です。

次男と長男は仕事に使いますので、メールの送受信に必要だと話していま
すが、時々カーナビも使えるので、走りながら音声で右に曲がれ、左に曲
がれと言う指示を聞いています。

それにしたら便利な携帯ですから、スマートホーンと言うのかもしれません
が、人間がその電話に支配されるのか、指示されるのか、中毒になるのか
は知りませんが、何と言う時代になったかと思います。

私も携帯は持っていますが、古い物です。ほとんど電源を切って、非常用
にしか使いませんので、人はお前の携帯は繋がらないと言ます。
当たり前です、引退前は家を出る前にスイッチを入れ、仕事から帰宅する
と電源を切っていました。携帯1本で何でも仕事が済んでいました。

カメラでパチリをトラブル個所を写してレントハウスのオーナーの携帯に送
りますので、それで大抵のアパートやレントハウスのトラブル処理に役にた
っていました。
携帯一本ベルトに差して、これで食えるとは楽な商売と思っていた時代も
あります。

しかし滅多にオーナーなどには電話いたしませんので、よくよくの事がない
限り掛ける事がなかったので、電話すると、相手がそわそわしている様子
が分かります。

時には『滅多に掛けて来ない貴方からの電話があると、心臓がドキドキ
する・・』と言われた事もあります。

今では携帯でビデオも記録出来て、それも送信出来るのですから、なん
でも、仕事でも使えると感じました。E-Mailも送受信が簡単で、ベルが鳴れ
ば直ぐに読んで、返事も出来ると考えると、パソコンの前に居なくても、ポ
ケットのベルが鳴ればそれで、メールか電話かと言う判断も出来るので、
結構な機械だと感じます。

寝ても覚めても、携帯のスマート・ホーンに行動を制約され、時間に追い
回されることを考えると、息子達が勧めるのですが、購入の判断に迷いが
あります。

特に私など引退して時間が結構沢山あるので、スマート・ホーンの中毒予
備軍だと言われると、何となく買う気が失せます。