2011年10月31日月曜日

私の還暦過去帳(82)

私とワイフがインド旅行をして感じた事を、これから少し書いてみた
いと思っています、昔、農業をしていた百姓の目で見ています。
今から6年ほど前に最初に訪れた時の感想です。

私がインドを歩き出して一番感銘を受けて、驚いた事は耕された
土地の無駄が無い事でした。僅か780kmぐらいの走行でしたが
昔の50年前の日本の田舎の雰囲気があったからでした。

私が見た限りでのインドはそろそろ春終りに近ずいた田園が広がって
いました。見た作物は、なたねの花、これが一番多く見た様です、
それかジャガイモ、小麦、アルファルファ-、町や都市近郊は野菜

栽培の畑を見る事が有りましたが、ナス、ブロッコリー、カリフラワー
など見ましたが、まだトマトは小さくて、植えてまだ1ヶ月ぐらいと感
じ ました。畑のあぜ道一杯ギリギリまで綺麗に耕かされ、昔の日本の

耕作精神を感じる事が有りました。行けども行けども見渡す限りの
緑の農地を見て、インドが11億近い人口を維持しても、その食料を
自給できる体制に感服しました。どこの農村地帯を見ても、どこかに

人影が有り、仕事をしています、一度レンガを作る土を取った後の
痩せた土地を、水をかけ土を起している人を見て、そばでは小麦が
僅かに芽が出て、貧弱では有りましたが、何とか作物を植えられる

土地にしようとしている努力を見る事が出来ました。人口の7割以上
がまだ農村地帯で生活しているインドの国を見て。しかしながら人口
の10%でも工業化の先端を仕事をしている人がいるとすれば、それ

は一億1千万人の人間となると言われ、人口もこれからは資源とな
る感じました。インドでは皆様もご存知の様に、学歴社会で、競争
社会の、一部では世界のトップレベルを進んでいます。次男が借りて

いましたデリーの首都で、比較的上流社会の住家が多い所で、部屋
を借りていましたが、そこの家主の家族の子供を見ても教育熱心で
これからのインドの競争社会を勝ち残り、生き抜くためには教育しか

無いと話していました。ランチに呼ばれて食事をしながら話した事は昔
の日本の激烈な受験戦争時代を思い浮ばせる感じでした。
この話は次回にまた致します。

2011年10月29日土曜日

私の還暦過去帳(81)

私が子供の頃でした、確か小学生で三年生ぐらいの歳だったと思い
ます。その頃はまだ終戦後まだ混乱があり、木炭車など言う車が走
っていました。バラックのマーケットが有りまして、その頃私が住
んで居ました、九州の大牟田は炭坑景気でかなりの人が仕事を探し
て移り住み、賑やかな町でした。

戦後まだTVも無い様な時代、各町内ではガキ大将が居て近所の子
供達をまとめて、町内会も、色々な行事も楽しく過ごした思い出が
あります、それだけ子供達も人間関係が緻密だったと感じます、
当時はまだ戦地に出征して、帰ってこない人が沢山いました。

私の友人の父親も南方戦線で出征して、連合軍に戦犯として抑留さ
れていました。学校ではその子は親が居ないので給食から、学用品
まで援助が有り、いっも早く日本に帰って来ることを話していて、

祈って、父親が戻ればこんな生活はしなくてはよいのだがと嘆いて
いました。たしか春休みの時期で、皆で近くの学校で町内対抗の野
球大会をする予定だったと思います、皆でぞろぞろと歩いて行くと
きに、向こうから兵隊服を着たおじさんがリュックを背負って腰
水筒をぶら下げて歩いて来ました。その人は立ち止まって子供達を

見ていましたが、私の友達の敏夫君を見て『大きくなったなー!』
と声を掛けて来ました。友達は覚えが無いのか、もじもじしてその人
を見ていましたが、子供達の大将をしていた中学生が、『中村のお

じさん~!』と声を掛け、『うわ~!中村のおじさんが帰って来た
ーー!』と大声で叫びました。『香代ちゃんのお父さんが帰って来
た--!それ-!知らせろ!』と自転車に乗って来ている自転車屋
の息子の信ちゃんが、自転車競争で走る様に体を曲げて

ペダルをこいで知らせに走りました。子供達のガキ大将はそのまま
『今日の試合は中止だよーー!それ~!町内会長のおじさんに知ら
せて来なくてはーー!』と言って飛び出して行きました。
我々子供達は周りを取り囲み、『駅から歩いて来たのーー?』など

口々に聞いていました。歩きながら色々な事を聞いていました。
そこに横丁から町内会長の奥さんが手に日の丸の小旗を持って来る
と、深く頭を下げて、『今日は夫が仕事であいにく不在ですから後で
お祝いに伺いますーー』と言うと、子供達と並んでその人を前にして

『長いお勤めご苦労様でした、無事の御帰還をお祝い致します』と声
を掛けて日の丸の小旗を掲げてバンザイを叫びました。
私は子供心に何か『ジーン!』と来るものが有りました。その方も目
頭を押えて何度も頭を下げていました。

その時です、向こうから香代ちゃんがお母さんと走ってくるのが見え、
一斉にどよめきが起きて、父親の中村氏も確かに『ワー~!』と声を
出して子供に駆けより声を出して泣いている感じでした。友達の中で
父親が南方戦線で戦死して居た子は、声を出して泣いていました。

私は子供心に戦争が子供の心にも大きな影響を残していると感じまし
た。そろそろ60年も前に戦争が終りまして、時代の流れはその当時の
物語を何か昔話と感じる様になりましたが、少しでも今の平和な現在
の日本に住んで、心に感じてくださればと思っています。

2011年10月28日金曜日

私の還暦過去帳(80)

私は6年前、インドを旅行して来ました。次男がインドに奨学金を
もらい、現在のインドの目覚しいITの進歩するビジネスの実態を
アメリカ政府の依頼で調査研究しているからで、5月でそれも終
るので、インドに招待してくれたのでした。

首都のニユーデリーに滞在して次男と市内の観光をして歩いて
居た時に、息子の友人でかなりヒンズー語も話せる女性が市内
に有る、一番古いモスクでコーランと音楽を地方から出て来て、
モスクの寺院の前の広場で奉納の為に唄って、演奏しているのを

見に行く事になり、夕方少し薄暗くなって出かけて行きました。
入り口は混雑する雑踏と、狭いバザールの様な路地を息子の後
を付いて人込みを掻き分けて歩いて行きました。ワイフは頭にか
ぶるスカーフを買い、スッポリとかぶっていました。

裸電球に照らされる照明の薄暗さと、前が見えない様な雑踏に驚
きながらワイフは息子に手をしっかりと握られて歩いていました。
私はその横を、スリに気をつけて物珍しく廻りの店を見ながら歩
いていた時、『チョンチョン~!』と私の上着の袖を引く気配が
有りました。

雑踏の人込みの中で、モスクの入り口の前には沢山の参拝者の喜捨
を求める貧しい人が並んでいました。その間を歩いていたのでした
が、ふと見ると、まだ7~8歳ぐらいの女の子が大きな目を見開いて、
私の目と『パチーン!』と眼差しが合いました。瞬間、少女はニッ

コリと大きな目で私を見ながら微笑ました。雑踏の隙間からさし込
む薄暗い灯りでその微笑が見え、おかっぱ頭の髪の毛が黒々として
いたのを見る事が出来ました。瞬間、私の脳裡に終戦後間もない頃
に満員列車の中で父に連れられて、お盆の墓参りに郷里に行った時
の思い出がフラッシュバックして脳裡に浮びました。その時の乗客の中

にいた女の子と重なり瞬時に50年以上も前の事が心を絞めつけま
した。心に浮んだ映像がキューンと音を立てて廻っている感じでし
た。少女が差し出している手にポケットに有る小銭のルピーを全部
握らせました。少女は両手で小銭を握り私に合掌する様に、手を合
わせていました。直ぐに雑踏の人ごみの中に押されて見えなくなり、
息子が呼ぶ声が聞こえてきました。

『モスクの参拝は靴を脱いで預けて行くからーー』と話していました。
モスクの寺院に入りきらびやかな電燈の光が輝き、奉納している人々
が唄う歌声が聞えて来ました。

歌声は澄んだ響きのコーラスで、私の心を不思議な世界に連れて行く
感じでした。

2011年10月25日火曜日

私の還暦過去帳(79)

だいぶ昔になります、かれこれ27年ぐらいになると思います、子供が
少年野球のクラブに参加して、良く試合に出ていました。
たしか夏休みの時で、ワイフが忙しくて私が子供を試合に連れて行きま
したが、その時は夏休みで、短期アメリカ親善訪問の子供達が試合に招
待されて来ていました。

小さな少年野球の球場です、かなりの人が来ていました。多くは付き添
いの父兄で、まずはアメリカ国旗の入場でした。その時私の目に付いた
のが東洋人のグループでした。話声から韓国人のグループと日本人のグ
ループが近くに座って居ましたが、たいした人数では有りませんが、
中学生ぐらいの子供達です、賑やかに子供のバンドのマーチに合わせて

行進が始まり子供達が並んで入場してきまして、アメリカ人の親は一斉
に立ち上がり、子供達を歓迎していました。先頭はボーイスカウトの制
服を着た少年がアメリカの星条旗を掲げて歩いていました。アメリカ人
達の親は一斉に起立して、国旗に敬意を表して、胸に手を当てる人、
姿勢を正して注目する人、普通のアメリカでならの風景が有りました。

しかし私はその中で、日本人のグループがざわざわして、中にはベンチ
に座ったままの子供も居ます。付き添いの先生は知らん顔で、何か隣り
の日本人と話しながら、プログラムの紙をのぞいて、それを話して居る
ような感じです、近くのアメリカ人が、『ジロリ~!』と見ているのが
分りました。それと言うのも、隣りの韓国人のグループは先生が直ぐに

直立の姿勢をすると、野球帽子を取り、胸に手を当てて行進してくる生
徒達に敬意を表していたからで、廻りの韓国人の子供達も先生に見習い
、直立して行進を見ていました。私は一瞬戸惑いを覚え、悲しくなりま
した。
そのあとの星条旗の掲揚の時も同じ感じで、子供達は『何をしているの
だー』と言う感じが有りました。まったく国旗に対して、何も礼儀とそ
の国家の象徴の国旗に敬意を表す事も習ってはいない、教育も受けては
いないと感じました。

韓国人の子供のグループは最後まで、先生の元で、爽やかな感じのマナ
ーで国旗に敬意を表して、先生と子供の統一された礼儀がありました。
その頃、日本では教職員組合の勢力が強くて、中には国旗掲揚まで拒否
して、国歌斉唱も否定していた学校が有ると日本の報道に有りました。

入学式に国旗掲揚、国歌斉唱も出来ずに、式が混乱して取り止めになっ
た学校もあったと報道されていました。先生が拒否して、子供達にもそ
の様な、指導があったと言われ、その様に国家権力と対抗する事が民主
化の手本だと感じている、間違った先生が大手を振っていると報道され
ていました。

その様な報道を裏打ちするような事が現実に目の前で起きて、私は言葉
を無くして、茫然としていました。私の子供はアメリカに来て、まだ言
葉が分らない時、校長先生が日系2世の先生を担任としてくれ、英語が
分らない長男に日本語で『星条旗に誓う』と言う言葉を教えてくれました。
それから直ぐに英語も分かる様になってから、学校で英語で、スペ
イン語で同じく『星条旗に誓う』の言葉を言える様になっていました。
そして国旗に対して敬意を示し、一つの国旗の下でアメリカ人として、
力合わせる事を学んで居た様です、アメリカ人が『日本人の国旗に対す
る、日本での学校教育はどんなか』と聞かれて、返答に詰まり答えられ


ませんでした。私もその様な教育を義務教育期間に教えられた事は覚え
ては居ません。私の時代は終戦後まだ日時が、さほど経ってはいなかっ
たからも知れませんが、愛国心は『国敗れて山河有り』の中で強く持っ
た事が有りました。

それは戦争に従軍して復員して来た先生が、時折話す言葉で、国と言う
存在を強く印象付けられていました。戦地で亡くなられた方がこれから
の日本を憂いて『戦争が終り日本が平和になったら、お前は教員だから
将来の日本の為に、子供達にはたとえ国敗れても、大和魂を持つ子供を
育てろー-!』と言いのこして亡くなったと先生が話してくれました。

国を変え、国を向上し、未来に向けた魂を持つ日本人を育てたいと言
っていた先生でした。当時の学校は、窓ガラスは割れ何も無い部屋でし
たが、先生が同じ学徒出征の学友が、神風特別攻撃隊で出撃する前に、
遺言として送ってくれた手紙を読んだ時に、教室の多くの生徒が涙し
て聞いていました。

家族を思い、両親を思い、仲間の戦友や友達を思い、国を憂いて、祖
国日本の将来を夢見て、死んで行った人がいる事を知り、たとえ政治
体制が全体主義であれ、社会主義であれ、民主主義社会であれ、その
生まれ育った祖国を思う心の情熱が愛国心と私は子供心に感じました。

私はその先生に今でも感謝しています、この歳になっても日本人とし
ての大和魂を持ち続けています、アメリカに暮らす昔の戦前の一世が、
日本国旗を額に入れて、客間に飾って手を合わせて祖国の繁栄と安静を
願っていた事は、アメリカだけではなく南米の各地でも目にしました。
その様な人々を覚えていたので、当時出合った若い先生と、生徒達に
心悲しい思いをしました。

日本人の愛国心とはーー!祖国日本を思う心とは--!その時、日本の
学校教育に疑問を持ったしだいです。 これからの若い日本人の子供達
が世界で羽ばたき、日本を支え、繁栄させる為にも、これからの日本の
教育に期待しています。

2011年10月23日日曜日

私の還暦過去帳(78)

だいぶ昔になります、レバノンの動乱でアメリカに難民として家族と逃
れて来た人でした。私が管理していたコンドの集合住宅に住んでいまし
たが、サンフランシスコの郊外のマルテイ-ネスと言う所で小さなレス
トランを買って営業を始めました。オーナーが料理して、ワイフがかた
ずけなどをして、パパ・ママのレストランでした。ウエイトレスが一人
働いていましたが、外のパーキングなどは自分で週末に管理清掃もして
いた様でした。

しかしある日、スプリンクラーの散水装置のパイプとタイマーが壊れ修
理を頼んで来ましたので、見に行く事になりまして簡単な修理で、その
場で簡単に修理が出来ますので始めました。パーキングに来たお客が乗
り上げて、パイプを折っていたのでした。それそれと慣れた仕事です.

簡単に修理を済ませて、パーキングの外を見ると、そこには黒人のかな
り大きな体格のおネ~さんが歩道で立ったまま、トローンとした目でツ
バをペットはいていました。すると通りを走っていたパトカーが目ざと

く見つけると、ス-ッとパーキングに入って来ました。どうやら薬物中
毒者の様です、降りてきたポリスはハンサムでガッシリとした好男子で
した。腰には自前の44口径のマグナムのダデイーハリーが好んで使った、
S&Wのレボルバーをぶら下げて、警棒も特別のカンフーで使う様な物
をぶら下げて、まさにそこのけ、そこのけの感じでのっし、のっしと歩
いて来ました。私はドキドキとして藪の蔭から見ていました。

その時です、黒人のおネ~さんがパット、ポリスに気がついてワーワー
怒鳴り出しました。ドドーー!と二人がもみ合い互角の勝負と思ってい
た瞬間です。
ポリスが身体を二つに折り曲げて、両手で股のあそこを握り締めて、ま
さに『ドサリー-!』とブッ倒れてしまいました。私もあっけに取られ
て見ていました。

どうやら私が見る所では、男の急所のあそこを『ぼかり~!』か、『べ
こ~!』と蹴り上げられた様です、好男子のポリスも台無しです。
ぎゃ~!と喚いて半分ほど白目が出た様な感じで、うめいています。哀
れなものですーー!

しかし笑うわけにはいきません、直ぐ側です。黒人のおネ~ちゃんはま
るで勝ち誇ったゴリラの様に両手を高々と上げると、興奮が爆発した様
です。

今度はぐぁ~!と喚いてポリスに飛びかかりました。腰に差しているピ
ストルに食らい付き、それを奪い取ろうとしています。私もどうなる事
やら不安になり真剣に見ていました。頭の中で、黒人のおネ~ちゃんが
奪い取ったピストルを両手に振りかざして、『メイク・マイ・デ-ーー
ーー!』とニタリと笑いながら『ずど~ん!』とポリス目掛けて、撃ち
まくる事を想像していました。

ま~!そんな事は無いだろうと思いながら、少し心配して見ていました。
ポリスは身体の下にピストルを隠して、必死で防戦しています。今度は
手薄な腰の警棒を簡単に奪い『ボカリ~!ボカ--!』と派手に殴り始
めました。
ポリスも反撃して相手の足をすくい、倒してしまいました。しかし横た
わったままです、もう少しぼか~!と急所か、頭を殴られたら失神して、
ピストルは奪われ、最悪な状態となっていた様です。私も見てばかりは

いられなく、ポリスに声を掛けました。『何かヘルプは要りますか~!』
『頼む~!警棒を取り上げてくれーー!』とすぐさま返事が返って来ま
した。私もそれではとおネ~ちゃんが膝を付いて警棒をふりかざした所
を『ひょいと~!』後ろから腕をねじって取り上げてしまいました。

そして見ると格闘で破れたシャツから防弾チョッキらしき物も見えます、
だいぶ酷くやられた様で、近くで見るとかなりコブが出来ている様で哀
れな感じがします。片手はまだ股のあそこをしっかりと握っている様で
す。

私の友人が野球でボールを受け損ねて、あそこに直撃して慌てて病院に
担ぎ込んだら、冷やすしかないと言っていました。その時はソフトボー
ルぐらいになり酷く、うめいていたのを覚えています、それからは赤ち
ょうちんの飲み屋の前に置いてある大狸のぶらりと下がった物を見ると、
思い出しては笑いを堪えるのに苦労していたが、今度は笑えない悲劇に

なる可能性が有りますので、チョイ~!真剣でした。アメリカのポリス
は現在では服務規定で勤務時間内は防弾チョッキを着用しなくてはなら
ない事になっている警察は沢山有ります、しかし防金チョッキなどとは
聞いた事も無く、見た事も有りません。有ってもそんな物を着けて蟹股
でヨタヨタと歩くのを想像しただけで、笑い出してこれーー、仕事には
ならないと感じます。

警棒で叩かれなくなり、ポリスは少しは元気を取り戻して、手錠を取り
出すと何とか掴まえ様としています、しかし敵もサルもの、どでかい女
です、金落しで互角と争っています。私も見かねてもう一度声を掛けま
した。
『もうヘルプは要りませんね~!』『チョットーー!相手の手を押えて
くれ~!』と追っかけて頼んで来ました。私もそれではと女の片手を押
さえますと、ホットした様に手錠を掛けてしまいました。そして近所に
有りました金網に片側をパチンと結わえると、股の被害個所を両手で握
ると、盛大にうめいていました。

おネ~ちゃんを見ると、観念したのか少し静かになってもがいていまし
た。いやはや驚いたショーです、お金を出しても見られない活劇です。
そのうち誰かがポリスに電話したらしくて、もう一台のパトカーがやっ
て来ました。アッと言う間に足と、両手に手錠を掛けられ、地面に転が

されていました。まるで巨大なミノムシの感じがします。職業とは言え、
えらい災難ですーー!ポリスはまだ、うめいていましたが、私もいつま
でも付き合っては要られませんので、仕事も終り帰宅しました。

それにしても、男の急所とは良く言った物です、今度私もあの世とらに
行ったら天上の神様に、どうして男だけにあんな物を股ぐらにぶら下が
る様な物をお付けになったか訊ねてみる事にしています。

2011年10月21日金曜日

私の還暦過去帳(77)

かれこれ、だいぶ昔になります、私がアルゼンチンで農業をしていた頃
で、47年ほど前で、その頃はブエノス.アイレスの郊外で野菜を共同
で作っていた時です。

ブエノスの中心に有りましたアバスト市場に出かけた時です、近くのカ
フェーでコーヒーでも飲みながら世間話しをしていた時ですが、今では
詳しくはお名前を思い出せませんが、その方が、ふと話してくれました
事が有ります。

その方は郊外で同じ野菜を栽培していた方でした。その方が近所の白人
から聞いたと言っていました。その話しは確証はありません。それと言
うのもその方は日本人とは一切、交際や連絡も無いと話していました。
日露戦争で日本軍の将校として参戦して、激戦の戦場で負傷して意識の

無いままロシア軍に収容され、ロシアの後方都市に護送されて、そこで
治療し回復したが、英語もフランス語もかなり語学が出来た人の様で、
そのまま終戦になっても日本には帰国する事無く、フランスにしばらく
滞在してから、国の成長と経済の豊かなアルゼンチンに移住して来た様
でした。

しかし当時の明治のアルゼンチンはまだ日本人などは指で数えるほどし
か滞在していなかった時代、白人社会で埋没していたと感じられます。
奥さんも白人で、名前も奥さんの姓を名乗っていて日本人とは、ほとん
ど知られてはいなかった様でした。

私が当時感じました事は、かなりの歳の人の様でしたが、明治のサムラ
イと感じました。
私の推測ですが当時捕虜となって行方知れずとなり、戦死の公報も出て
いたのかも知れません、きっと当時の欧州に留学していて、当時のフラ
ンスの情勢も詳しく、生活力と経済力が、かなり有った人と思います。
一度訪ねて行こうと思っていましたが残念ながらそのチャンスは有りま
せんでした。

現在ではアバスト青果市場も飛行場の近くの郊外に移転して、昔の数倍
の大きさに拡張されています、その後はショッピングセンターになって、
様変わりしていました。

この様な方が日本の裏側の国で人知れず草葉の蔭でアルゼンチンの土と
成って永眠されていると思うと、人の運命などは小説より奇成りと感じ
ます。

2011年10月20日木曜日

私の還暦過去帳(76)

かれこれ47年ほどになりますが、かなり古い話です。しかし私が書か
ないと、この様なインターネットには言葉では残せませんので、書いて
おきます。その話しは私がアルゼンチンのブエノス、アイレスに滞在し
て、農業をしながら普通の生活を郊外の町でしていた時の事です。

バック、パッカーと言われる、放浪者での旅では有りませんでした。生
活を土地と言う大地に根ざして仕事をしていた時代で、現地の人に色々
話しを聞いて、1920年から30年頃の話しの物語を聞く事が出来ま
した。

その方はアルゼンチンに日本帝国海軍の親善訪問での航海でブエノスに
来た水兵でした。私も覚えが有りますが1965年頃に同じ戦後の自衛
隊の練習艦隊がブエノスに来た時です。

多くの水兵が郊外のチーグレと言う歓楽花街が有る場所に沢山来ていま
した。男が要求する生理的な要望として来ていた様です。その帝国海軍
の方もただの一兵卒としての任務として、親善訪問での航海に水兵とし
て参加していたと思います、幾人かの仲間の水兵と時代も違いますが、

郊外の同じ様な歓楽花街に遊びに来ていた様です、しかし彼は無類の酒
好きでワインをしこたま飲んで、かなりの溺酔状態に近かった様で、慣
れないワインでかなり悪酔い状態だったと推察されます。

仲間に遅れて駅にたどり着いた所が、運悪く反対側のまったく別方向に
行く長距離列車に乗りこんでしまい、ブエノスの街に戻る汽車と信じて、
安心して乗っていた様で、ブエノスの駅は終点で港の直ぐ側でしたので、

酔いもあって終点に着いたら、歩いても港に帰ることが出来る事から信
じて安心して寝込んでしまったと思われます。しかし彼の悲劇はそこか
ら始まったのでした。

目が覚めて起きた所は見も知らないパンパの大草原の田舎の駅、言葉も
全然分らなくて、金も無く、連絡しようにもその方法も思い浮かばず、
連絡する住所や地名さえまったく知らない所に水兵服姿のままで放り出
されてしまい、その衝撃は計り知れない事と思ます。

しばらくは茫然として放心して、活路を捜して居たようですが、何しろ
言葉が一言も話せず、どちらの方向がブエノスかも分らず、ただ浮浪者
同然にして歩いて居た様です。

おそらく空腹とやつれ切った姿で居た所を、ある婦人が若い水兵姿の東
洋人を見つけて自分の農場に連れて行き面倒を見て、住居と食事が出来
る様にし、仕事も与えて生活が成りたつ様にした様です。近所には誰も
東洋人も居ない場所ですから意思の疎通も無かった様ですが、しかし彼

は救われた恩義と帝国練習親善艦隊はとうの昔にアルゼンチンを離れ、
祖国に帰還してしまい、その事を考え溺酔して脱船者として、脱走水兵
の汚名を着てしまったと覚悟したのか、真面目に農夫としてそこで仕事
をして言葉も覚えて、かなりの年月を過ごしてから日本人と交流する様
になって、初めてその事を明かした様です。

その様にして一生をアルゼンチンの大地で過ごした方が居ると言う事を
歴史の中でほんの僅かなページですが、残しておきたいと思い書いたし
だいです。

2011年10月17日月曜日

私の還暦過去帳(75)

かれこれ47年前になります。
私がブエノス・アイレスに居た時でしたが、当時パラグワイから出て来
て友人の紹介で園芸店で仕事をしていた時でした。

そこの事務所と温室が有る所は、そこの経営者が昔、住んで居た所で、
かなり古びた感じの木造の家でした。ブエノスでは珍しい家で平屋の

作りが何か日本風な感じがしていましたので、そこに長く仕事をして
いた老人の使用人の方に聞いたら、材木は全部アメリカから送られて
来た、フォードなどの車を梱包してあった枠木を解体して作ったと
教えてくれました。良く見ると米松の板が使われて、今で言う2x4の

感じの板と枠木を組み合わせて作られていました。その当時は車は全部
アメリカからの輸入品でしたから、一台、一台を木枠での梱包をして
貨物船の船倉に入れて、ブエノスまで運んで来ていたと感じます。
ブエノスの街は全てがレンガとセメントで作られた当時、南米のパリ

と言われた首都です、そんな所で梱包木枠を解体して作った家に住んで
いた日本人一世は確かに質素で、勤勉で仕事をしたと感じました。
家族で作ったと話していましたが、当時の1964年頃にそこの長男
には3世の16歳ぐらいの子供が居ました。長くアルゼンチンに住んで

居たと思います、当時その長男の母親が生きていましたが84歳ぐらい
で、初期のアルゼンチンの移住者でした。
家族はブラジル最初の笠戸丸の移住者で、後にアルゼンチンのブエノス
に転住して来たファミリーでした。

お花の鉢植えを買いに来た中年の女性が、懐かしそうに見まわして、
『私が子供の頃に母親と来た覚えがあるーー!』と言って話していまし
た。
当時、その母親と家族は隣りの敷地に家を建てて住んで居ましたが、
母親が時々そこの事務所にしてある旧住宅に来て、椅子に座りマテ茶
を飲みながら、ブエノスに来た当時、食べるのにも困り、日本で言う
『すいとん』を作って食べたと話していました。出汁は牛の骨を使い

大鍋で作って家族で食べていたと話して居ましたが、少し稼いで御金
が入った時に、イタリア米を買って御飯を炊いて食べた感激は忘れ
無いと話してくれた時、目に涙が光っていたのを覚えています。

御飯を異国で噛み締めて食べる感激はいかがな思いか、今でも思うと
胸が熱くなります。

2011年10月16日日曜日

私の還暦過去帳(74)

アメリカに住んで居ますと、自動車が無いとまるで足が無いに等しい感
じがします。公共の交通手段は限られていて、バスなどは昼の時間帯な
どは、運行は無いに等しい感じです。車を所有しているとその管理、維
持と、それから修理の費用も馬鹿になりません。

デーラーの修理費用は、一時間/65ドル~85ドルは掛ります、それ
にパーツ代が掛ります。

チョイ小さな修理でも『ギョーー!』の請求が来ます。必ず前もって見
積もりを取りましても、いざ払う時は、ぎよーー!の感じはいつも軽い
財布に直撃します。しかし若い時は、ほとんど自分で修理していました。
今まで約50年間も運転してきましたので、あるとあらゆる故障に遭遇
しました。

今でも思い出すと冷や汗がジト~!と出てくるのは、46年ほど前に農
業をアルゼンチンの奥地でしていた時です、ガタガタ道を朝早く町まで
出かける時でした。突然エンジンルームから白煙が上がり、ガソリンの
匂いが立ち込めました。
瞬間ガス漏れと感じ、エンジンを停止しました。

それが良かったので、火災にはなりませんでした。危うくトラックを一
台燃やす所でした。農場で、燃料はドラム缶から給油していましたから、
ゴミが混ざった燃料をポンプで入れたと思います、フイルターが詰まり
ホースが裂けたのでした。

或る時町に出掛けて帰りにブレーキが全然ダメになり、ブレーキ無しで
15キロばかりトラックを運転して帰宅した事が有ります。若かった時
です、無謀運転など余り気にしてはいませんでした。

下り坂ではローギアに入れて、エンジン、ブレーキを使って降りました。
でも帰宅したら、着ていた下着が『グショー!』と濡れていました。緊
張して運転していたからと思います。

ガタガタ道で、タイヤのスペアを落として、それを運良く盗難防止のチ
エーンを結んでいたので、それで引きずりなながら、土道をしばらく走
って、土ぼこりの凄さで気が付いた事があります。

動力シャフトを折った事も有ります。トラックのダブルタイヤの止めが
ねのボルトを半分も折って、タイヤがヘニャ~!へニャ~!パクパクと
開いたり閉まったりして、あわてて停止した事も有ります。ラジエター、

ホースが漏れましたが、幸い予備のパーツを持っていましたので、それ
と上部のホースでしたから、簡単に交換しましたが、入れる水が無くて
谷川の水を長靴の両方の靴に一杯入れて来て、ラジエターに満タン入れ
て運転を再開して帰宅した事が有ります。

パンクなどは今までどのくらい修理したか覚えていません。今でもパン
クとブレーキのパッドは簡単に修理してしまいます。

私が日本に居た頃ですが、軽自動車エンジンを焼き付かせて、解体屋に
電話したら、極上のエンジンが有ると言う事で、直ぐに取りに行き、そ
の日の午後遅くまで掛って一人で交換して、翌日は何事も無かった様に
運転していました。

ブレーキのマスターシリンダーの交換、クラッチのスレーブピストンの
交換、ラジエターのウオーターポンプの交換など、殆どの部品の交換を
経験しました。それは若い時代、余り金も無くて、仕方なく覚えて修理
していた時代があります。今の様に電子部品など無かった時代です。
解り易く簡単に出来た時代でした。

しかし修理をして今でも忘れない事は、農場の支配人時代にブエノスま
で野菜を運搬中にタイヤの止め金のボルトが一度に、悪路と積載過剰で
土道で折れて、砂漠地帯の国道脇の農家で場所を借りて、修理交換した
事が忘れられません。

老夫妻がだんだんと暗くなって来て、ランプを出して点火し、明るくし
てくれました。

私がトラックに積んでいるトマトとオレンジを沢山あげると喜んでくれ、
夕食まで食べさせてくれました。相棒の運転手と二人で、2つのランプ
の灯りを頼りに、トラックをジャッキーで持ち上げ、タイヤを外して、

取りつけボルトが折れた部分を、新品のボルトと一つ一つ交換していく
根気のいる修理で、暖かい夕食とマテ茶を出してくれ、寒く夜冷える大
陸性気候の砂漠地帯の農家で、ヤギのチーズとトウモロコシのパンを修
理が終って出発の時、お土産に持たせてくれた事を今でも思い出します。

修理が終り、エンジンを掛けて動き出したトラックを深夜にも関らず、
夫婦で飼い犬と並んで見送ってくれた姿が45年近く前なのに、今でも
つい先日の様に浮んで来ます。
懐かしい思い出です。

2011年10月15日土曜日

私の還暦過去帳(73)

だいぶ昔になります、日本に里帰りをしていた時です、帰りの飛行機が
福岡から成田までの便が無くて、福岡より羽田まで飛んで成田には連絡
バスで高速道路を走っていた時です、前にパトカーに先導された救急車
が走っていました。

おかげでパトカーのスピードでバスも走りますので、同時に成田に到着
しました。私はその時は何か知りませんでしたが、出国の審査も済み、
出発の為に機内に乗り込み、先ほどの救急車で運ばれて来たのはまだ若
い心臓に障害がある少年でした。心臓移植しか生き残る手段がないと聞
きました。エコノミークラスの座席を潰して寝台にして有りカーテンで

中は見えない様にして有りました。医者と看護婦が付いていまして、側
に母親も居ました。座席はかなり満席に近い状態で、丁度私が座った椅
子の少し後ろでしたのでサンフランシスコに到着するまで全部観察して
見る事が出来ました。成田を夕方飛び立ってしばらくして水平飛行に入
り、飲み物が配られ、しばらく寛いでから後部トイレに行く時に少し開

いたカーテンの隙間から小柄な少年が見え、簡易ベッドに寝て居ました。
その時、医者が聴診器で少年を診察していましたが、少しやつれた感じ
で、小さな声で何か答えている様でした。その時少年が母親を呼ぶ声が
して、『お母さん~!』と聞えた感じがしました。そのまま行き過ぎて
後部トイレに行き、用を済ませて、帰りにまた少年を見る事がが出来ま
した。

母親が子供を抱きかかえる様にして何か飲ませ様としていました。
少年が母親を掴んでいる腕を見て、一瞬『どきり~!』としました、そ
れは余りにも細い感じの腕だったからです、血管が浮き出てやつれ果て
た感じが、私の心に痛いほど突き刺さりました。座席に戻ってから私の
心に『なぜ~』と言う感じで、疑問が湧いて来ました。なぜ日本の医学
水準があれだけ高いのに、移植治療が出来ないのかとーー!

その当時はまだコンセンサスが出来ていないと言う事で移植治療は法律
で禁止されていました。ばかげた事です、日本国内では禁止で海外では
お構い無しと言う、矛盾に満ちた法律です、それも一部の医学者や、代
議士達や、その移植医療に反対する団体が全国民を代表するかの様に、
声高く反対していました。『日本ではまだ時期早期だとーー!』脳死判

定法も確立して居ないと言う事でした。その法律制定も待てずに死んで
行く人が沢山居るのにと思いました。その現実を目の前で見て、肌で感
じて、感情で学び悟りムラムラと怒りが湧いてきました。食事時間にな
って、私は余り食欲も有りませんでした。機内乗務員が忙しく通路を行

きかい、少年にも何が食べたいか聞いていました。母親が子供に聞いて、
何か話している感じが分かり母親が『何か少しでも食べないと~!』と
子供に諭している感じで、医者も同意していました。機内食が運ばれ看
護婦が食べさせて居るようでした。

側で医者も医療カバンを側に退けて食事をしていました。落ちつかない、
騒然とした機内での雰囲気では、食事も満足には出来ません。看護婦か
ら母親に交替して、食事を子供に食べさせていました。看護婦も側で落
ちつかない食事をしている様でした。全てが狭い機内です、直に肌に伝
わって来ます。しばらくして、食後のお茶が再度配られる頃に、子供が

食べていた膳が乗務員にて運ばれて行きましたが、側を通過する時「チ
ラリーー!」と見えたのは殆ど手が付けられない食事の膳でした。その
後映画があり、それが終ると機内は暗くなって仮眠をする人が沢山いま
した。薄暗い機内でカーテンの中が明るく電灯が輝いて、外に漏れてい
ました。医者が聴診器で時々、診察しているのが感じられ子供と母親の
話し声も聞こえていました。

薄暗い機内でささやくような声ですーー!
『早く元気になって、また日本に帰ろうね~!』と母親が子供に掛ける
声がしていました。私は眠れない夜間飛行のエコノミー席で、朝まで子
供が微かにうめくような声を聞いていました。サンフランシスコ到着3
0分前のアナウンスがあった時、私の心は『なんで~!なんで~!こん
な子供を移植治療の為にアメリカまで送らなければならないかーー!、
それもその母親が話してくれた、 募金カンパの資金での渡米でした。

狂っているーー!日本の政治は良心も恥じも無いような代議士と、政治
家と役人が人の命もかえりみない政策をしているのかと感じました。移
植治療に反対する人間を一晩この夜間飛行の子供の側で、座らせてやり
たいと感じました。それとーー! 反対する人達の自分自身の身に同じ
事が起きたらーー!

もしも家族の自分の妻や、子供達、親兄弟など、親族の中で、移植治療
しか生きる手段が無いと宣言されたら、反対する立場の人間はどう答え
るか知りたいと思った。その前も新聞などで、長い間臓器移植に望みを
掛けて亡くなられた人の話しを見て、胸が痛む思いがしていたが、現実
に私にとって憤激の感情が渦巻いていた。『それで良いのかーー!日本
の臓器移植治療はーー!』と、それからしばらくして、日本も移植治療

が国内で出来る様になりましたが、まだ子供の提供は法で禁止されてい
ます、子供は臓器提供の判断が自分では出来ないからと言う理由です。
カリフォルニアからイタリアに家族で休暇中のアメリカ人家族が高速道
路で銃撃を受けて子供が脳死状態になり、両親はその子供の臓器をイタ
リアで移植治療に望みを掛ける子供達に提供しました。怨念を超えた行

為にイタリア政府は国家を代表してイタリア空軍の特別輸送機で家族と
少年の遺体をカリフォルニアまで送り届けました。アメリカの友人が
『もし日本で同じ事が起きたら、日本国政府は同じ様な行為をすると思
うかーー?』と聞かれました。私は答えに困り、上手く返答が出来ませ
んでした。

そして、アメリカ人の友人が、日本では親の判断一つで、まったくお腹
の子供の意思も関係無く親の勝手な判断で、堕胎をが行なわれていると
嘆いていた。おそらく出生してくる赤子よりも多いかもしれない数だと
話していた。

アメリカは州によって変わるが、日本国内から比べたらまだ良い方だ、
日本は私が見たら『人命無視の堕胎天国だ~!、』とアメリカ人が批判
していた。
彼は堕胎は殺人だと言っていたが、それを非難して、反対して禁止する
政治が無いと嘆いていた。彼が皮肉にも『お腹の子供の殺人は良くて、
子供の臓器提供はダメとは』と嘆いていた。それが現実の日本の政治な
らば、どこか狂っている政治だとーー!アメリカ人にその話しを突き付
けられた時に、私は何も返す言葉が無かった。

私と同じ飛行機に同乗した少年は、移植治療の甲斐も無く日本に帰国す
る時は、小さな箱で母親の膝に抱かれて帰国したと言う事です。ご冥福
を深くお祈りすると共に、これからの日本の社会が臓器移植治療に理解
と一層の推進を願っております。

2011年10月14日金曜日

私の還暦過去帳(72)

人は様々な生き方の人生を歩み、走り、疾走して終着点まで到着します。
早い人、遅い人それぞれです。私が会った方で、探検家として冒険家と
して有名な植村直己氏です。私が彼を知ったのは1962年ぐらいの頃と思
います。大学に居た当時、明大の山岳部には凄いタフな男がいると聞い
た事があります。その人が植村氏でした。

彼は1964年明大を卒業して、5月にアメリカに旅立つたが、私は8月に
南米のパラグワイに単身移住をして、横浜を出航して行きました。
そのあとは彼の消息を知ったのは、アルゼンチンのブエノス、アイレス
で丁度、彼が南米最高峰アコンカグワに単独登頂して戻って来た頃で仲
間の友人と安宿に滞在していました。彼はアマゾン河の筏降りを計画し

ていた頃と思います、彼は冒険家として常日頃、ニユースで消息が載っ
ていましたが、私は彼が冒険家としての職業を選ぶとすればいつの日か
彼は危険な局面に出会い、命の危険もあると感じていました。
彼は単独登頂と言う登山、人が試みない冒険など、話題が絶えない人で
した。私は土に情熱を掛けて人生の道行きを試して居た頃で、南米のジ
ャングルでの開拓に人生の面白さを見出して、熱中していた頃でした。

それぞれ人は一つの物語を残すと言いますが私は平凡な百姓の農業の道
でした。一度日本に帰国して1976年にアメリカのカリフォルニアに家族
を連れて移住して来て、3人の子供達と平凡な家庭生活を楽しく営み、
子育てに親の生き甲斐も見出していた頃でしたが、確か1984年頃で、ア

ラスカのマッキンレー冬季登山をして、登頂に成功して下山途中に行方
不明となり、帰らぬ人となりましたが、そのニユースを聞いた時は悲し
くなり、同じ歳の人間としてその冥福を祈っていました。私は彼の生き
方が何か、つきものに取りつかれた様に人生を走り抜けて行った人だと、
今でも感じます。

人はそれぞれで、人生は一度しか有りません、しかしその命短い人生を
どの様に使うか、その人の人生ですーー!貴方はどの様に計画して実行
していきますかーー!、一つだけの貴方の人生です。
植村直己氏は確か43歳でアラスカの冬山に消えて行かれました。

2011年10月12日水曜日

私の還暦過去帳(71)

クジラ=鯨これも魚へんが付きますが、食べるとまったく魚の肉では 有り
ません、動物の肉です。
アメリカに来てから、何かグリンピースの 代弁者のごとく、日本の捕鯨を
けなしていた白人がいました。

少々『カチ-ン~!』と頭に来ていました。そこはそれーー!
反骨の 意地悪ジイサンのイタズラ心がムラムラですーー!
用意周到に計画して実行しました。

日本に電話したらまだ高いが鯨肉の大和煮の缶詰がまだ買えるとの事、そ
れを買ってもらい、それから小倉のタンカ市場 ではまだ鯨肉が買えるとの
事で、しめーー、しめーー!とウキウキして きました。

アメリカ人ですから、そこは鯨肉のベーコンが良いと考て、 日本の北九
州、小倉の実家を訪ねた時にお土産に買いまして、 トランクに入れて持ち
返りました。

私が管理していたコンデミニアムの 集合住宅の役員でしたが、日本からの
土産と言って、『日本ではこんな に美味しい肉の缶詰が食べられる-ー』
と言って試食させました。

その男は肉には目が無いらしくて『ガツーガツーー!』と美味そうに食べ
て、ベーコンは『塩味が手頃で、ウオッカなどには持って来い~!』 など
とのたまい、鯨などとはまったくバレませんでした。

『缶詰などはどこで買え るかーー!』と言い出す始末ーー!、あきれて
言葉が有りません。 散々に『美味しかったーー!』などと言わせて、最後
に種明かしです。
皆さんも考えて見て下さい、美味しい物は美味しいのですからーー、一度
も 口にした事も無くて、『ぎや-ぎやー』騒ぎ立てる捕鯨反対者の顔を
初めて まじに見ました。

私が厳かに『これは鯨と言う鯨肉から作った缶詰だ~!』 と言うなり、
最初は青くなりそして、あとで真っ赤になって、『ゲーゲ~!』と声 を
出していました。
そんな事で、その男は以後一切に、鯨の件に関する事は 私の前では口に
は出しませんでした。
それと用心して私には近ずく事は有りませんでした。

私も学生時代にアルバイトなどで沢山稼いだ時は、渋谷の鯨屋に鯨カツ
の定食を食べに行きました。
48年昔と同じ店かは知りませんがーー! 道玄坂から入った所でしたが、
少し小汚い所でした。しかし味は美味しかったです。

2011年10月11日火曜日

私の還暦過去帳(70)

初笑いのお話しですーー!まずは『笑いの門には福きたる』
『笑いは百薬の調』とか言いますが、今日はお堅い話は抜きで、
まずは『ニタ~!』と笑えるお話ですーー!

いつも夏になると思い出す事が有ります。

今日のお話は題して、「真夏の昼夢」と私が心に感じている事です。
かれこれ20年以上にもなりますが、思い出は鮮明に今でも覚えていま
す。
それは夏休みに入り、かなり暑くなった時期でした。
私はその頃、大きな集合住宅のアメリカでコンデミニアムと言う、住宅
の管理を請け負っていましたが、夏になると、散水装置の故障で、その
修理に追われていました。

かなりゆったりとした緑地の中に建物が建てられていましたので、見回
りは自転車でしていました。その集合住宅も古くなって、あちこちと痛
みが出ていた時期でした。散水装置のスプリンクラーの配管装置はPV
Cのプラスチックのパイプで、接続部分の接着剤が老化で、良く水が漏
れて修理に追われていましたが、ある日、3インチの本管が木の根で押

し上げられ破裂して、大仕事になりましたが週末に散水装置を修理して
おかないとその当時かなりの暑さが続いていて、水を庭園に散水しない
と、えらい事になり、平日は決まった仕事が山の様に有って、行列して
いましたので、どうしても週末にかたを付けて、修理を終わらせてしま
いたいと思っていました。

週末の休み、朝早くからまず大きな穴を掘り出して、かなり掘りました
が沢山大きな松の根が有ってそれを切って処理するのに手間が掛り、中
々はかどりません、土も粘土質のコンクリートの様に固い土でシャベル
では歯が立ちません、つるはしで少しずつ掘り、シャベルで土を出して
いました。

集合住宅の直ぐ近くに高校が有り、賑やかなスポーツ大会が有っている
様でしたが、パーキングが出来ない車が、こちら側のコンデミニアムの
来客用パーキングにも来ていました。一台の小型スクールバスがどこか
の高校のチェアーガールを乗せて来て、パーキングしてそこから応援に
道路を隔てて、歩いて競技場に行ったのを知っていました。

お昼のランチ時間も過ぎて、かなりの格闘の末に穴も深く掘りプラスチ
ックのパイプも見えて来ましたが、破裂してかなり穴の奥はドロドロの
ぬかるみで私も汚れ放題で必死に綺麗に土をかたずけて、修理のスペー
スを確保するのに木の根を切って、また伸びてパイプが破損しない様に

切りとっていました。そんな事でかなりの時間を食い、あらかた見込み
が立った頃は夕方近くなって、お腹も空いて、持って来た水も飲み終え
て、疲れ果ててドロだらけで、まるで泥人形のていで仕事をしていまし
た。

疲れてペタンと穴の中に座り込んで、まるで墓穴の中にいる感じでした
が、やっと最終の接続を済ませ、接着剤が乾燥するのを待っていたと思
います。
その時です、松の根っ子の茂みの向こうの塀を境にしたパーキングから
賑やかな若い女子高校生らしいチェアガール達がドヤドヤと高校から帰
って来た感じで賑やかな話し声が聞こえていました。

塀の僅かな隙間から見ると色鮮やかなユニホームが見え、若いピチピチ
したミニスカートの女の子が沢山見えます、すると中の一人が廻りを見
廻すと、こちらの茂みに駆け込んで来ました。それからが私がアッと仰
天して、腰を抜かした事が起きました。私が見ているのも知らず、いき

なり『じや~!』です、板塀の隙間から生暖かい飛沫も飛んで来ました。
穴の中からピョコンと少し顔を出しているぐらいでしたが、多分誰かが
見ていたら、いいかげん良い年したオッチャンが目を見開いて、仰天し
て、驚愕の表情で、飛沫を浴びながら放心して、ドロだらけの顔が引き
つっていたと思います、多分口は開けてはいなかったと思います、それ

は変な味がした飛沫が口の中に飛び込んで来た記憶が無いからです。古
い板塀の下はかなり痛んで隙間があったから、口を開けてポカンとして
いたら、たっぷりと味見をする羽目になっていたと思います。『次ぎー
ー早くおいで~!』との声と同時にまた、今度は『シーーーーーー!』
と穏やか系の音、しかしえらい物を見てしまいました。

あそこの色がチラリと見えたからです。平凡な普通のオッチャンです、
『ドキーン~!』と心臓が高鳴り、ドキドキと心臓の異常鼓動がしてい
るのが自分でも分かりました。その時です、スーッと腰の力が抜けてく

るのが分かり、穴の中でペタンと座り込んでしまいました。晴天の霹靂
とはこの事です、次ぎの『ジョーーーー!』と音が変わると、怖いもの
見たさに自分の意思に反して身体はヨタヨタと動いて覗いていました。
その時ですーーー!

一瞬、「ギャー!」と言う感じで本当に腰が抜けてしまいました。それ
は、沢山いた女の子の中で金髪のスラリとした、可愛い子チャンだった
からです、トンカチで一発、頭を「コチン~!」のショックぐらい有り
ました。ヘナヘナと腰が砕け、後は本当に穴の底にペタンです。

まあ~!皆様考えて見てくださいこれまさに、腑抜けになるとはこの事
です、産まれて初めてそして最後でした。
直ぐにバスは賑やかな若い女の子達の、はしゃぎ声を残して消えて行き
ました。
穴の底では放心して、ペタンと座り込んだ、良い歳をしたオッチャンが
仰天と驚愕の表情で、穴グマの様にうずくまっているのを想像してみて
下さい。

そなん事で、しばらくは頭の中は真っ白で、空腹も、疲れも、腰の痛み
も全部忘れていました。どのくらい穴の中に座り込んでいたかは、今で
は覚えてはいませんが、「はっ~!」と気を取りなおして我に帰り、主
バルブを開けてテストしました。水が漏れません、一回で成功して3イ
ンチパイプの修理が終りました。

やれやれーー!で庭園に散水のスプリンクラーを全開して、その中でド
ロで汚れた身体を服を着たまま洗っていました。穴を掘っていた直ぐ近
くに野生のブラックベーリーを発見して手のひら一杯取りまして、それ
を口に入れながらニタ~!か、へらーへらーかは覚えていませんが、笑
いながらーー!どこかのホームレスか、キチガイの風体で、シャワー代
わりに水を浴びていました。

長年にわたり仕事をしていた場所ですから、誰も警察には電話しません
でしたが、代わりに、コンデミニアムに住んでいる人が、「修理終った
~!」「Hello~!」などと声を掛けてくれました。私はその時、
疲れて、空腹で、腰も痛み我慢の限界に来て、少しイライラして頭に来
ていました。

打ちしおがれた私を神様が元気ずけに、チョイといたずらをしたのだと
信じておます、有り難い事です。この様な話しをジジイが棺桶に入れて、
あの世とらに持って行っても、何も神様はお喜びはなさらないと感じ、
ボケて忘れない内に皆様のお耳に入れたしだいです、この話しはワイフ
殿にも内緒の丸秘の話しですので、どうか心して読んで下さい。


そしてその夜、ワイフ殿がのたまわく「今夜はいやにしつこいね~!」
と、どやされましたことも書いておきます。はいー!そんなことで今回
は終りです。

2011年10月10日月曜日

私の還暦過去帳(69)

私が家族用にバンの車を購入したのが1985年頃でした。
あちこちと家族で旅行しまして、カナダまでカリフォルニアから出かけ
た事が有ります、アリゾナにも行きました。

その車は日本製の000社でしたが、その当時日本車で初めて小型バン
を売り出して、かなり人気が有りました。

私の家族も後部に寝るようなスペースを作り、遠出のドライブを楽しみ
ましたが、或る日、家の前で急に運転不能になり、パワーステアリング
が効かなくなり、ハンドル操作が出来なくなりました。

幸いに家の前で、私も週末に家にいたので、早速に下にもぐり原因を捜
しました。すると簡単に分かりました。

パワーステアリングからの動作を伝える腕のようなアームがジョイント
からポンと外れていましたので驚きまして、早速に自在継ぎ手のジョイ
ントの中に押し込みました。

すると驚く事に簡単に軽くハンマーで叩いただけで、もとに挿入出来ま
した。
これでは簡単にショックでも抜けると思いました。
これが高速道路でしたら、車が制御出来なくて大事故になっていたと考
え000社のカスタマーサービスに電話しました。

専門の係がその原因を探すので、その取り替えた部品を見せてくれと電
話が有り、000社のデーラーで待ち合わせて見せますと、「ハンマー
で叩いたあとが有る、お前が何かいじって外れた」と言って取り合いま
せん、カチンです、それと白人の係は見下げたような感じで、いかにも
横柄でした。
私はデーラーのアジア系整備工を知っていて、彼が同じトラブルが有っ
て修理したと話してくれた事が有りました。早速レモン車専門の問題を
受付ける弁護士に電話をしました。

サンフランシスコと、ロサンゼルスの専門弁護士です、どちらも調べて
くれ、同じケースのトラブルが余り無いので、000社はアメリカでも
勢力があり、中々難しいと話してくれました。それと000社に電話し
て、弁護士を立てて調査すると言うとそれきり、いかなる連絡も受け付
けないと答えて来ました。
「クレームがあれば、000社の法律事務所に言って来いーー!」です。

そうかい~!それではへそ曲がりジジイの骨頂を見せてやるですーー!、
早速に首都ワシントンに有る、連邦政府の交通運輸安全局見たいな所に
地元の警察から紹介されて、事故の詳しい状況、写真、ビデオテープな
ど作り、これまでの経緯を書いて送りました。
ビデオテープはコピーできないので、これは手元に残しました。

それからです、十年ぐらい経ってからです、突然ある弁護士事務所から
電話があり、貴方のレポートを交通運輸安全局で見つけたと連絡があり、
同じ様な事故で、高速道路の側壁に制御出来なくて激突して怪我人が出
たと話していました。
「それ--見ろ~!です、とうとう起きたか~!ここでもカチンですーー!」

「裁判中で貴方が証人となって証言してくれですーー!」これ幸い~!
裁判所で全部の写真、ビデオテープ、経緯、それから取り替えた部品な
ど全部持って行って話すと言うと喜んでいました。

000社はそんなデーターは無いと言い張っていたからです、そなん事
はウソ!

私がカスタマーサービスに電話した日時もちゃんと記録していたからで
す、係は私の問い合せの件も、パソコンを見ながら答えていたからです、
それも教えてやりました。相手の弁護士は興奮して喜んでいました。

こんな証人がいれば必ず裁判に勝つと言っていました。ミリヨンダラー
の訴訟ですから、真剣な様子が電話でも伝わって来ました。

私の住所から連絡先など全部教えて、「裁判の日取りが決まったら連絡
するから、その時は是非宜しく証言してくださいーー、」と話して電話
を切りました。しかし連絡は有りませんでした。

「ハハ~ン!」です、000社が和解か、賠償金を払ったかは知りませ
んが、ジジイの溜飲が下がりました。昔は百姓ですから気が長い事は誰
にも負けません、「イワンの馬鹿~!」ですから。

それと、今まで長い年月に37台もの車を私の知り合いや、お客に00
0社以外の車を買えと教えて、それを成功させています、息子も2台も
000社以外で買っています、沢山の不動産管理の仕事で香港や台湾か
らアメリカに移住して来て、先ず車ですから、良き相談相手となって、
実行しました。

これからも、ジジイがくたばるまでには、どれだけの台数を記録させる
か、心の内でニタリ~!です。

2011年10月8日土曜日

私の還暦過去帳(68)

だいぶ昔になります、私が管理していたレントハウスに居たテナントで
した。べトナム戦争で負傷して、少し片腕が曲がらない様でした。グリ
ンベレーと言われた特殊部隊にいた元軍人で、少しアル中の様に飲んで
いました。

激戦の中で戦って来た兵隊稼業で、心もかなり傷ついている様でしたが、
根が陽気な男で、ビール片手に私が仕事に行くと、よく話しに来ました。
私が東洋人の顔で、何か親密な感じがあつたかも知れません、ベトナム
時代はサイゴンに恋人も居たようです。

ベトコンのテト攻勢が有った時に、市街戦に巻き込まれて、迫撃砲弾が
恋人の居た家に直撃して、丁度荷物を取りに帰っていた恋人はその時に
死亡したと話していました。
結婚を誓っていたと言って居ましたが、サイゴン陥落、その前に負傷し
て、日本の厚木基地近くの病院に入院していたと話して居ました。

腕が曲がらなくて負傷兵として、除隊になつたそうですが、サイゴンに
は二度と戻る事はなかったそうです、ベトナムのジャングルで待ち伏せ
攻撃をしたとき、ベトコンが撃ちまくる突撃銃の弾がジャングルの地面
すれすれに飛び交うすさまじさは、今でも忘れられないと言っていまし
た。

ビールを片手に、彼がしみじみと『戦争なんてーー、愚の骨頂~! 生
き残っても、すべて人間の心まで破壊してしまう!』と話していた事が
忘れられません、現在、アフガンでの戦争で多くの若者の命と、心まで
殺し、破壊していると思います。

2011年10月5日水曜日

私の還暦過去帳(67)

人は生まれて一つの人生の、そして運命の道を歩きますが、その彼女を
私が47年の長きに見詰めて来た人ですーー、彼女は東北の山奥の村か
ら、南米のパラブワイに家族に連れられて移住して来た人でした。

親がパラグワイでの入植地での経営に失敗して、ブラジルに新しい生活
の場を求めて再移住していく時、親が近所の若い青年に娘を托して嫁に
やったのでした。

彼とは10歳も年齢が離れていましたが、18歳になったばかりで僅か
な服と、着替えを風呂敷に包んだだけで、簡単な結婚式を教会で挙げた
だけでした。

しかし結婚した青年も両親を抱えて、頑張って営農に励んだのでしたが、
結局はアルゼンチンに再移住して行きました。
パラグワイでは余りに販路が狭くて、農作物を作っても売れなかったか
らです、当時彼女は22歳で二人目の子供を産んだばかりでした。

私が先にアルゼンチンに出ていたご主人と知り合い、パラグワイの入植
地を訪ねて行った時、彼女はご主人の両親と子供二人を抱えて、毎日農
作業に精出して働いていました。

朝は4時には起きて、家畜の世話をしてから、朝食の準備をしていまし
た。
一晩でしたが泊まりまして、彼女の生活の一日を見たのでしたが、とて
も現在の若い女性では、半日でも耐えられない仕事だと思います、それ
は男の私でさえ唸らせた仕事ぶりだからなのです、東北人の粘リ強さ、

それしか出来ないと言う、思い込みでの熱心な仕事の打ち込み方、家族
を思うひたむきな情熱、、生きて行かなければならないと言う執念ーー
ー、どれを見ても男の私が気押されてしまう感じでした。

アルゼンチンに再移住しても、愚痴一つ出さずに、ご主人の両親を支え
て、バラックの小屋で、真冬の寒い日に井戸水で洗い板での洗濯をして
いる姿を見て、胸に「グーッ~!」と来るものが有りました。

パラグワイでは亜熱帯の気候でブエノス郊外での真冬の寒さは有りませ
ん、あかぎれに、がさがさになった両手にワセリンを塗って手袋をして
鍬を持って草取りをしていました。
かなり寒さになれている東北人の執念を見ました。

南米のおしんですーー。

ブエノスから160Kmぐらい離れた小さな町で、パンパから吹きすさ
ぶ風に手ぬぐいで、ほお被りして野菜畑で仕事をしている姿を訪ねて行
く度に見ました、そしてーー、側の畑の畦の間では、風を避けて子供を
毛布で包んで寝かしていました。

この様にひたすら仕事に明け暮れての生活でしたが、ご主人がすい臓ガ
ンであっけなく亡くなると、その借金を清算する為に2ヵ年間日本に出
稼ぎに行って、病院の付き添い婦として昼夜の別なく仕事をして、ご主
人が残した多額の借金を全部払ってしまいました。

アルゼンチンに帰って来てホットするまもなく、交通事故で3ヶ月もの
間ギブスに入っていた、両足骨折での車イスの生活をしていました。

現在ではやっと杖を付いて歩ける様になり、暇な時に時々畑に出て草花
を作って、生活の糧にしているそうです、生活は出稼ぎで日本に居る息
子の仕送りと、僅かな年金を貰い平穏な暮らしをしている様です。

先日の国際電話で、彼女の声でーーー、「私の人生てーー、なんで有っ
たのだろうか~!」と、疑問の声を出していました。
しかしーー、「でもーー、精一杯頑張ったのであったから、後悔は無
い~!」と言っていました。
彼女は今年で70歳になります。

貴方でしたら、彼女の人生をどう感じますかーー?

2011年10月4日火曜日

私の還暦過去帳(66)

現在では老眼鏡が無いと何も見えません、ご飯を食べる時も美味しくな
りますので、メガネを掛けて食事をしています、特にお魚などはメガネ
が無いと骨が有りまして、酷い事になります。

先日アルバムを整理していたら、しばらく行方が分らなかった写真が
ポロリーー、と落ちて出て来ました。

昔の若い頃の写真ですーー、愛用していた大型拳銃のモーゼルです。
この拳銃は大きな木製のホルスターに入っています、それを銃架として
使用出来ますので、小型のカービン.ライフルとして使用出来ます、こ
の大型拳銃の経歴をお話致します。

この拳銃は私がパラグワイのエンカナシオンの町で手に入れた物で、
ある日本人が所持していました。

お店を開いていた日本人が、第二次大戦後パラブワイに移民して来たド
イツ人から買ったと話してくれました。

移民してくる時、荷物のどこかに隠して持って来た様です。この大型拳
銃は大変綺麗に手入れされて、移民して来たドイツ人のおじいちゃんが、
第一次大戦に出征した時に持っていた物だと言っていました。
歴史の有る物でしたが、お金に困ってお店に手放した物でした。

それを日本人の店主が鹿撃ちに使用していたのですが、弾が9ミリ、ル
ガー弾の軍用で大変に手に入れにくく、長くて持ち運びげ不便で、かさ
ばり普通は所持出来ません。
それで私に譲ってくれた物です、こんな馬鹿でかい拳銃を持って、南米
のローカル定期飛行で搭乗できたのですから驚きですーー。
今でしたら直ぐに豚箱ですが何しろ47年も前です、のんきな時代でし
た。
現在アメリカではコレクションの対象で、程度のいい物でしたら200
0ドルもします。全てが昔の思い出になってしまいましたが、じっと見
ていると何か背景に写っている景色が今にも動き出して、自分がタイム
スリップして行くみたいです。

若い時代をがむしゃらに、無鉄砲に、やりたいと思うことをやり遂げた
思いは、今になって悔いの無い人生と感じ始めました。

2011年10月2日日曜日

私の還暦過去帳(65)

47年前の飛行機の話です、その頃は飛行機などは贅沢で余ほどの金持
ちしか乗れませんでした。
日本の羽田からブラジルのサンパウロまで夫婦二人で乗ると田舎で家が
一軒買える値段でした。

羽田からアラスカのアンカレッジ経由でニユーヨークに飛び、それから
フロリダ経由でサンパウロまで飛んで行くもので、だいたいニユーヨー
クで一泊していました。
そんな時代でしたが、私が搭乗したのはパラグワイの首都アスンション
からブラジル国境のポンタポランまで飛ぶ、プロペラ機でした。

私が生まれて初めて搭乗して飛行機は戦争中の輸送機で、第二次大戦に
大活躍したDC3のプロペラ機でした。
中はまったくそのままで、機体の両側にキャンバスのシートが吊り下げ
られて、乗客はそこに座っていました。
真中は荷物が積み上げられ網で押さえてありました。

戦争中は落下傘部隊で使用されたのでしょう、降下用意のランプもその
ままで、飛び降りる命紐をかけるワイヤーもまだ残っていました。
戦争映画で見たままです、降下ランプは二つ有りまして、青になったら
一斉に兵士が降下して行ったと思います。
エンジンの音も、アイドリング時はパカパカと乾いた音で、かなり排気
の煙りも出ます、「グワー~!」と全開のエンジンになるとうるさい事、
耳がびりびりします、滑走始めるとガタガタとまるで田舎道を走ってい
るみたいでした。

すると「スーーー!」と流れる様に景色が動き始めると、静かになり、
アッと言う間に飛び上がって上空を飛んでいました。
パラナ河の濁流を見ながら、のんびりと飛んでいました。
スチワーデスの女性は、魔法瓶のコーヒーを乗客に出すと自分も座って
新聞を読んでいました。

まばらな乗客を見ながら、戦争中は迷彩服の落下傘兵が銃を持ってあの
キャンバスのシートに座って緊張して敵地に到着するのを待っていたと
思いました。
小さな窓から地上の動きがかすかに見えます、私もフト~!思わず!、
輸送機がエアポットに落ちて、ガクンー!とショックを感じた時、高射
砲弾の炸裂する錯覚を覚えました。

単調なエンジンの音に眠くなり、ウトウトとして昔見た映画のシーンを
思い出していましたが、時代を巻き戻して鮮やかにそのシーンが蘇り緊
張した覚えが有ります、そんな事をしている内に到着して蟻の巣をブル
ドーザーで綺麗にかたずけただけの赤土の滑走路にガタガタと到着した
記憶があります、それとすごい土ぼこりがしていたのに驚いた事でした。

飛行場の外に出てみると、そこにはまだA型フォードが幌付きで走って
いたのも驚きでした。
そんな時代の空の旅でした。

2011年10月1日土曜日

私の還暦過去帳(64)

 
この話は前回の続きです、
       (下)

私が「今日は、健ちゃんの板前さんで刺身と寿司でに皆さんを驚かそう
と思っています」と言うと、鈴木氏は私の顔を見るなり涙ぐんだ目で
「有り難うーー!、有り難うーー!」と繰り返している。奥さんは止め
られない衝動なのか大城氏の電話を借りて、早速に皆に電話している。

その弾んだ声の中で「刺身~!刺身~!マグロのトロの刺身~!鉄火巻
き~!」と言う声が家中に響いている。電話のある家に全部かけ終える
と早速近所の子供を呼び、電話の無い家に手紙を持たせて自転車を走ら
せた。そして遠くて子供が行けない家にはタクシーを呼ぶと運転手に手

紙を持たせて、そして強く「何がなんでも、必ず連れて来なさい。おば
あちゃんには首に縄をかけても乗せて来てくれーー」と何度も、何度も
頼んでいる。そして「今日は全員集合、日本人会はじまって以来の重大
ニユース~!」と一人でハッスルしている。

大城氏の奥さんが寿司用にパタパタと団扇で寿司米を冷やしている。健
ちゃんが「あと30分であらかた用意が出来るよ~!」と言った。
彼は寿司用にアナゴの焼いた物、数の子など色々と持参し、寿司のネタ

には困らないと満足気。午後二時、時間より少々早めに金城氏夫妻がや
って来た。大城氏のクーラーの効いたホールに飾り付けられた刺身を見
るなり、金城氏は「ホ~!」と溜め息をつくなりポロポロと涙を流して
いる。

同じく奥さんも「私が神戸を出航する時、兄にその前日食べ納めと言っ
て御馳走してもらったきりーーー」と感慨深氣に言う。大皿の大鯛の姿
盛りを見て、これが自分の80歳のお祝いの為と聞くなり、両手を合わ

せて合掌している。ドヤドヤと皆が店に駆け込んで来た。ホールの中に
飾り付けられた刺身の数々を見ると『ウーオ~!』と言うなり言葉を無
くす者、涙する者、大変な騒ぎになった。

私は幹事として皆を鎮め、金城氏に新年の万歳の音頭を頼んだ。庭の外
に追い出されて居る子供も揃い、「日本国バンザイ~!、亜国バンザイ
~!、天皇陛下バンザイ~!」と、金城氏の挨拶が済むと、後はギラギ

ラした皆の目を感じながら、私が金城氏に頼んで刺身に箸をつけてもら
った。そして月桂冠の酒をグラスに注ぎ回すと健ちゃんに「今日はご苦
労さん~!」と声を掛けた。そして全員で乾杯!、健ちゃんの声で、
「サア~!、ドンドン食べて下さい」と言う声と同時に、ギラギラした

目が老いも若きも無く、箸を握りしめ、獲物に飛び付くように食べ始め
た。私のボスもテーブルの一番前に来て、トロとハマチ、そしてアワビ
を取って来ると、茶碗に白御飯を一杯、大城氏の奥さんについでもらう
と、涙を流しながら食べ始めた。

涙を隠す様に「久ぶりのワサビは効きますね~!」と言う。
「日本の醤油は美味しいーー!」と刺身を泳がせる様にしてトロを口に
入れるボスの奥さん、別のテーブルに有る各自が持って来た正月料理は
箸が付かずに、そのまま誰も食べる人は居なかった。時折子供が皿に取

っている以外は、刺身と寿司の前で動こうとはしなかった。
健ちゃんが握る寿司の手さばきに、皆の目が吸い付いたように動かず、
トロの塊の山があれよあれよと言う間に消えて行った。

私は裏庭に出て見た、16歳になるオラシオが5人ばかりの子供達とア
サードのバーべキュウを見ている。山と残っている焼肉の塊とパンを持
って行って、塀の外に居る5~6名のインジオ達に分けてやった。その
中にはボリビアから出稼ぎに来ている今朝、同じトラックで来たインジ
オも居た。そのインジオに足の悪い老いたマタッコ族のインジオの女に
届ける様に、良く焼けた肉を持たせた。

ホールでは蛇味線が鳴り始めた。酒が心を緩め、美味しい寿司と刺身が
歌を誘い、身体にエネルーギーが満ち溢れて、踊りも飛び出した。口笛
も鳴り、琉球太鼓の音も響いている。

みんな幸福そうな顔、今日は幸せを口にした日かもしれない、その幸せ
が身体の中で爆発している、私も冷酒の月桂冠をコップでグイと飲むと、
踊りの輪の中に飛び込んで行った。

                            
  このお話は00年に、羅府新報に応募した作品からです。
  
  祖国日本を思う時、故郷のふるさとの押寿司や、なれ寿司など思い
  焦がれて食べたくなる時が有ります、たかが寿司と言えどもーー!