2011年10月21日金曜日

私の還暦過去帳(77)

かれこれ、だいぶ昔になります、私がアルゼンチンで農業をしていた頃
で、47年ほど前で、その頃はブエノス.アイレスの郊外で野菜を共同
で作っていた時です。

ブエノスの中心に有りましたアバスト市場に出かけた時です、近くのカ
フェーでコーヒーでも飲みながら世間話しをしていた時ですが、今では
詳しくはお名前を思い出せませんが、その方が、ふと話してくれました
事が有ります。

その方は郊外で同じ野菜を栽培していた方でした。その方が近所の白人
から聞いたと言っていました。その話しは確証はありません。それと言
うのもその方は日本人とは一切、交際や連絡も無いと話していました。
日露戦争で日本軍の将校として参戦して、激戦の戦場で負傷して意識の

無いままロシア軍に収容され、ロシアの後方都市に護送されて、そこで
治療し回復したが、英語もフランス語もかなり語学が出来た人の様で、
そのまま終戦になっても日本には帰国する事無く、フランスにしばらく
滞在してから、国の成長と経済の豊かなアルゼンチンに移住して来た様
でした。

しかし当時の明治のアルゼンチンはまだ日本人などは指で数えるほどし
か滞在していなかった時代、白人社会で埋没していたと感じられます。
奥さんも白人で、名前も奥さんの姓を名乗っていて日本人とは、ほとん
ど知られてはいなかった様でした。

私が当時感じました事は、かなりの歳の人の様でしたが、明治のサムラ
イと感じました。
私の推測ですが当時捕虜となって行方知れずとなり、戦死の公報も出て
いたのかも知れません、きっと当時の欧州に留学していて、当時のフラ
ンスの情勢も詳しく、生活力と経済力が、かなり有った人と思います。
一度訪ねて行こうと思っていましたが残念ながらそのチャンスは有りま
せんでした。

現在ではアバスト青果市場も飛行場の近くの郊外に移転して、昔の数倍
の大きさに拡張されています、その後はショッピングセンターになって、
様変わりしていました。

この様な方が日本の裏側の国で人知れず草葉の蔭でアルゼンチンの土と
成って永眠されていると思うと、人の運命などは小説より奇成りと感じ
ます。

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