2011年10月20日木曜日

私の還暦過去帳(76)

かれこれ47年ほどになりますが、かなり古い話です。しかし私が書か
ないと、この様なインターネットには言葉では残せませんので、書いて
おきます。その話しは私がアルゼンチンのブエノス、アイレスに滞在し
て、農業をしながら普通の生活を郊外の町でしていた時の事です。

バック、パッカーと言われる、放浪者での旅では有りませんでした。生
活を土地と言う大地に根ざして仕事をしていた時代で、現地の人に色々
話しを聞いて、1920年から30年頃の話しの物語を聞く事が出来ま
した。

その方はアルゼンチンに日本帝国海軍の親善訪問での航海でブエノスに
来た水兵でした。私も覚えが有りますが1965年頃に同じ戦後の自衛
隊の練習艦隊がブエノスに来た時です。

多くの水兵が郊外のチーグレと言う歓楽花街が有る場所に沢山来ていま
した。男が要求する生理的な要望として来ていた様です。その帝国海軍
の方もただの一兵卒としての任務として、親善訪問での航海に水兵とし
て参加していたと思います、幾人かの仲間の水兵と時代も違いますが、

郊外の同じ様な歓楽花街に遊びに来ていた様です、しかし彼は無類の酒
好きでワインをしこたま飲んで、かなりの溺酔状態に近かった様で、慣
れないワインでかなり悪酔い状態だったと推察されます。

仲間に遅れて駅にたどり着いた所が、運悪く反対側のまったく別方向に
行く長距離列車に乗りこんでしまい、ブエノスの街に戻る汽車と信じて、
安心して乗っていた様で、ブエノスの駅は終点で港の直ぐ側でしたので、

酔いもあって終点に着いたら、歩いても港に帰ることが出来る事から信
じて安心して寝込んでしまったと思われます。しかし彼の悲劇はそこか
ら始まったのでした。

目が覚めて起きた所は見も知らないパンパの大草原の田舎の駅、言葉も
全然分らなくて、金も無く、連絡しようにもその方法も思い浮かばず、
連絡する住所や地名さえまったく知らない所に水兵服姿のままで放り出
されてしまい、その衝撃は計り知れない事と思ます。

しばらくは茫然として放心して、活路を捜して居たようですが、何しろ
言葉が一言も話せず、どちらの方向がブエノスかも分らず、ただ浮浪者
同然にして歩いて居た様です。

おそらく空腹とやつれ切った姿で居た所を、ある婦人が若い水兵姿の東
洋人を見つけて自分の農場に連れて行き面倒を見て、住居と食事が出来
る様にし、仕事も与えて生活が成りたつ様にした様です。近所には誰も
東洋人も居ない場所ですから意思の疎通も無かった様ですが、しかし彼

は救われた恩義と帝国練習親善艦隊はとうの昔にアルゼンチンを離れ、
祖国に帰還してしまい、その事を考え溺酔して脱船者として、脱走水兵
の汚名を着てしまったと覚悟したのか、真面目に農夫としてそこで仕事
をして言葉も覚えて、かなりの年月を過ごしてから日本人と交流する様
になって、初めてその事を明かした様です。

その様にして一生をアルゼンチンの大地で過ごした方が居ると言う事を
歴史の中でほんの僅かなページですが、残しておきたいと思い書いたし
だいです。

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