2011年10月16日日曜日

私の還暦過去帳(74)

アメリカに住んで居ますと、自動車が無いとまるで足が無いに等しい感
じがします。公共の交通手段は限られていて、バスなどは昼の時間帯な
どは、運行は無いに等しい感じです。車を所有しているとその管理、維
持と、それから修理の費用も馬鹿になりません。

デーラーの修理費用は、一時間/65ドル~85ドルは掛ります、それ
にパーツ代が掛ります。

チョイ小さな修理でも『ギョーー!』の請求が来ます。必ず前もって見
積もりを取りましても、いざ払う時は、ぎよーー!の感じはいつも軽い
財布に直撃します。しかし若い時は、ほとんど自分で修理していました。
今まで約50年間も運転してきましたので、あるとあらゆる故障に遭遇
しました。

今でも思い出すと冷や汗がジト~!と出てくるのは、46年ほど前に農
業をアルゼンチンの奥地でしていた時です、ガタガタ道を朝早く町まで
出かける時でした。突然エンジンルームから白煙が上がり、ガソリンの
匂いが立ち込めました。
瞬間ガス漏れと感じ、エンジンを停止しました。

それが良かったので、火災にはなりませんでした。危うくトラックを一
台燃やす所でした。農場で、燃料はドラム缶から給油していましたから、
ゴミが混ざった燃料をポンプで入れたと思います、フイルターが詰まり
ホースが裂けたのでした。

或る時町に出掛けて帰りにブレーキが全然ダメになり、ブレーキ無しで
15キロばかりトラックを運転して帰宅した事が有ります。若かった時
です、無謀運転など余り気にしてはいませんでした。

下り坂ではローギアに入れて、エンジン、ブレーキを使って降りました。
でも帰宅したら、着ていた下着が『グショー!』と濡れていました。緊
張して運転していたからと思います。

ガタガタ道で、タイヤのスペアを落として、それを運良く盗難防止のチ
エーンを結んでいたので、それで引きずりなながら、土道をしばらく走
って、土ぼこりの凄さで気が付いた事があります。

動力シャフトを折った事も有ります。トラックのダブルタイヤの止めが
ねのボルトを半分も折って、タイヤがヘニャ~!へニャ~!パクパクと
開いたり閉まったりして、あわてて停止した事も有ります。ラジエター、

ホースが漏れましたが、幸い予備のパーツを持っていましたので、それ
と上部のホースでしたから、簡単に交換しましたが、入れる水が無くて
谷川の水を長靴の両方の靴に一杯入れて来て、ラジエターに満タン入れ
て運転を再開して帰宅した事が有ります。

パンクなどは今までどのくらい修理したか覚えていません。今でもパン
クとブレーキのパッドは簡単に修理してしまいます。

私が日本に居た頃ですが、軽自動車エンジンを焼き付かせて、解体屋に
電話したら、極上のエンジンが有ると言う事で、直ぐに取りに行き、そ
の日の午後遅くまで掛って一人で交換して、翌日は何事も無かった様に
運転していました。

ブレーキのマスターシリンダーの交換、クラッチのスレーブピストンの
交換、ラジエターのウオーターポンプの交換など、殆どの部品の交換を
経験しました。それは若い時代、余り金も無くて、仕方なく覚えて修理
していた時代があります。今の様に電子部品など無かった時代です。
解り易く簡単に出来た時代でした。

しかし修理をして今でも忘れない事は、農場の支配人時代にブエノスま
で野菜を運搬中にタイヤの止め金のボルトが一度に、悪路と積載過剰で
土道で折れて、砂漠地帯の国道脇の農家で場所を借りて、修理交換した
事が忘れられません。

老夫妻がだんだんと暗くなって来て、ランプを出して点火し、明るくし
てくれました。

私がトラックに積んでいるトマトとオレンジを沢山あげると喜んでくれ、
夕食まで食べさせてくれました。相棒の運転手と二人で、2つのランプ
の灯りを頼りに、トラックをジャッキーで持ち上げ、タイヤを外して、

取りつけボルトが折れた部分を、新品のボルトと一つ一つ交換していく
根気のいる修理で、暖かい夕食とマテ茶を出してくれ、寒く夜冷える大
陸性気候の砂漠地帯の農家で、ヤギのチーズとトウモロコシのパンを修
理が終って出発の時、お土産に持たせてくれた事を今でも思い出します。

修理が終り、エンジンを掛けて動き出したトラックを深夜にも関らず、
夫婦で飼い犬と並んで見送ってくれた姿が45年近く前なのに、今でも
つい先日の様に浮んで来ます。
懐かしい思い出です。

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