2011年10月17日月曜日

私の還暦過去帳(75)

かれこれ47年前になります。
私がブエノス・アイレスに居た時でしたが、当時パラグワイから出て来
て友人の紹介で園芸店で仕事をしていた時でした。

そこの事務所と温室が有る所は、そこの経営者が昔、住んで居た所で、
かなり古びた感じの木造の家でした。ブエノスでは珍しい家で平屋の

作りが何か日本風な感じがしていましたので、そこに長く仕事をして
いた老人の使用人の方に聞いたら、材木は全部アメリカから送られて
来た、フォードなどの車を梱包してあった枠木を解体して作ったと
教えてくれました。良く見ると米松の板が使われて、今で言う2x4の

感じの板と枠木を組み合わせて作られていました。その当時は車は全部
アメリカからの輸入品でしたから、一台、一台を木枠での梱包をして
貨物船の船倉に入れて、ブエノスまで運んで来ていたと感じます。
ブエノスの街は全てがレンガとセメントで作られた当時、南米のパリ

と言われた首都です、そんな所で梱包木枠を解体して作った家に住んで
いた日本人一世は確かに質素で、勤勉で仕事をしたと感じました。
家族で作ったと話していましたが、当時の1964年頃にそこの長男
には3世の16歳ぐらいの子供が居ました。長くアルゼンチンに住んで

居たと思います、当時その長男の母親が生きていましたが84歳ぐらい
で、初期のアルゼンチンの移住者でした。
家族はブラジル最初の笠戸丸の移住者で、後にアルゼンチンのブエノス
に転住して来たファミリーでした。

お花の鉢植えを買いに来た中年の女性が、懐かしそうに見まわして、
『私が子供の頃に母親と来た覚えがあるーー!』と言って話していまし
た。
当時、その母親と家族は隣りの敷地に家を建てて住んで居ましたが、
母親が時々そこの事務所にしてある旧住宅に来て、椅子に座りマテ茶
を飲みながら、ブエノスに来た当時、食べるのにも困り、日本で言う
『すいとん』を作って食べたと話していました。出汁は牛の骨を使い

大鍋で作って家族で食べていたと話して居ましたが、少し稼いで御金
が入った時に、イタリア米を買って御飯を炊いて食べた感激は忘れ
無いと話してくれた時、目に涙が光っていたのを覚えています。

御飯を異国で噛み締めて食べる感激はいかがな思いか、今でも思うと
胸が熱くなります。

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