2011年8月31日水曜日

私の還暦過去帳(41)

今日は日本将来の死活的問題を考えて見ます。

これは日本人が全て関係する重要な件案です。日本が衰退して、
100年後には、アジアで最貧人口国と成り果ててしまう事も
予測されだしました。

皆様、なぜと感じますかーー?これはまじめな話です。
くれぐれもお間違いにならない様にして下さい。
ジジイの冗談では有りませんーーー!。

先日、インターネットで新聞を読んでいましたら、お隣の中国
の新聞で、トップ見だしで書いて有りました。

英国の有名なコンドーム・メーカー「デュレックス」の性調査
レポートが載っていました。
それには、なんとーー、世界の平均年間性交渉回数が、驚くな
かれ、日本は、『世界で最低最貧の国』です。

「年間平均、36回だそうですーー!。」 それに驚くなかれ
アメリカでは、なんとなんと!「124回/年平均だそうです。」
日本のおおよそ3倍です。

お見事~! 世界一のトップです。 それに裏打ちする様に、日本
の出生率が1.33%で過去最低です。
さも有らんと感じるしだいです。
中国の内陸部の農村地帯ですら、72回/年平均だそうです。
世界の年平均でも97回だそうですので、日本人は何をしている
のかと言いたいくらいです。

これでは2010年には、統計的にも人口減少が始まるのに、
ドドーー、と雪崩を打って激減するのではないかと心配するもので、
学者の説ですが、2100年には、日本の人口が半分に減ると予測
されていますが、もっと早いスピードで減っていくのではないかと
感じます。
祖国日本の滅亡の危機です、此方の問題を最重要課題として解決し
なくてはならないと感じるしだいです・・。

亡国の危機を解決するには、簡単、明瞭で説明できます。
子供をもっと作る事です。
その為には何をしなくては成らないかと言うと、こんな事を言うのも、
聞くのも馬鹿らしい事、学校では教えてくれませんが、私みたいな
ジジイが言うのもなんですが、お若い方、真剣に頑張って励んで下
さい。

せめて世界平均ぐらいは成し遂げたいものです。 ユメユメお忘れな
く~!   「祖国日本の興亡その一戦に有り、各自奮闘せよ!」
今夜の戦闘は、気も引き締めて鉄兜も付けず。肉弾を持って奮闘され
ん事を願っております。

2011年8月30日火曜日

私の還暦過去帳(40)

かれこれ、だいぶ昔になります、私がアルゼンチンで農業をしていた
頃で、46年ほど前で、その頃はブエノス.アイレスの郊外で野菜を
共同で作っていた時です。ブエノスの中心に有りましたアバスト市場
に出かけた時です、近くのカフェーでコーヒーでも飲みながら世間話

しをしていた時ですが、今では詳しくはお名前を思い出せませんが、
その方が、ふと話してくれました事が有ります。その方は郊外で同じ
野菜を栽培していた方でした。その方が近所の白人から聞いたと言っ
ていました。その話しは確証はありません。それと言うのもその方は

日本人とは一切、交際や連絡も無いと話していました。日露戦争で
日本軍の将校として参戦して、激戦の戦場で負傷して意識の無いまま
ロシア軍に収容され、ロシアの後方都市に護送されて、そこで治療し
回復したが、英語もフランス語もかなり語学が出来た人の様で、その

まま終戦になっても日本には帰国する事無く、フランスにしばらく
滞在してから、国の成長と経済の豊かなアルゼンチンに移住して来た
様でした。しかし当時の明治のアルゼンチンはまだ日本人などは指で
数えるほどしか滞在していなかった時代、白人社会で埋没していた

と感じられます、奥さんも白人で、名前も奥さんの姓を名乗っていて
日本人とは、ほとんど知られてはいなかった様でした。
私が当時感じました事は、かなりの歳の人の様でしたが、明治のサム
ライと感じました。私の推測ですが当時捕虜となって行方知れずとな

り、戦死の公報も出ていたのかも知れません、きっと当時の欧州に
留学していて、当時のフランスの情勢も詳しく、生活力と経済力が
かなり有った人と思います。一度訪ねて行こうと思っていましたが
残念ながらそのチャンスは有りませんでした。

現在ではアバスト青果市場も飛行場の近くの郊外に移転して、昔の
数倍の大きさに拡張されています、その後はショッピングセンター
になって、様変わりしていました。この様な方が日本の裏側の国で
人知れず草葉の蔭でアルゼンチンの土と成って永眠されていると思う
と、人の運命などは小説より奇成りと感じます。

2011年8月28日日曜日

私の還暦過去帳(39)

祖国の山河は遠くあり、夢の山河には涙あり

私が元気な時に皆様に昔の移住者の、遠い異国での物語を語っておきた
いと思っていますが、中々はかどりませんこの歳になりますと一世と呼
ばれた方々が殆ど居なくなって、私らの年齢がそれを語りついで行かな
ければと思っています。

現在ではインターネットでのメールなどは瞬時です。47年も昔では南
米の奥地に日本からの郵便は40日も掛かって来ていました。これは航
空便でしたが、船便ですと三ヶ月も掛かって来ていましたので、昔のこ
とを思うと夢の様です。
今日の話しはアルゼンチンでの悲しい物語です。

1964年のブエノス、アイレスで、その方から直接聞いたものです。
その方は世界恐慌の時に日本を出てアルゼンチンにやって来たそうで、
暫らくはお金持ちの家に住み込みで仕事しながら言葉を覚え、お金も貯
めて奥さんを日本から呼び寄せて、パラグワイの国境との州でミショネ
スと呼ばれる亜熱帯の肥沃な土地に当時マテ茶の栽培に入植したそうで
す。

入植した当時には男の子供も生れて、家も建てジャングルを切り開いた
土地には沢山のゼルバ、マテの木を植えて親子三人で幸せな生活を初め
ていたそうですが、ある日の夕方、夕食のかたずけをするのに直ぐ側の
小川に下りて洗い物をカゴに入れてさあー!と思って洗いかけた時に、

草むらに隠れて居た毒蛇に足のくるぶし部を噛まれて、直ぐに悲鳴を上
げて助けを求めて、家に戻ると直ぐに噛まれた所を切開して、毒を吸い
出したそうですがその時はすでに遅く、足の血管を噛んでいたので毒の
廻るのが早くて、直ぐに痙攣と口から泡を吹いて倒れたそうです。近く
には人家も無く近所も離れていますのでどうする事も出来ず、必死で足

のふと腿部分を硬く縛って、毒の廻るのを遅らして居たそうですが、奥
さんは薄れ行く意識の僅かな時間に子供を側に抱き寄せて、そのままご
主人に抱かれて亡くなったそうですが、乳のみ子を抱えて、暫らくは怒
泣して呆然として居たそうです。
子供の泣き声で気がついて、それから子供を抱えて近所の日本人、入植
者に救いを求めて行ったそうです。それから2~3日はよく覚えてはい
ないと、言っていました。

それだけ混乱して、気も動転して嘆き悲しんで居たようです。
それから暫らくして、ブエノス、アイレスで住み込みで仕事をしていた
お金持ちの主人と奥さんから、電報が入り子供を連れてブエノスの街に
戻る様に書いてあったそうです。それと言うのも、その乳のみ子の洗礼
の立会い人で、名付け親で、ガット、マザーとファーザーで有ったので

とりあえず帰って来る様にと連絡が有り、他にどうする事も出来ずに子
供を抱えてイタリア系で、金持ちの前の主人の屋敷に戻ったそうですが、
直ぐに生活の世話をして呉れて、実の母親の様に子供にも世話をしてく
れ、普通の生活も出来る様になっていったそうです。敬けんなカトリッ
クの奥さんは神に誓った、もし何か不測の事態になり産みの親が亡くな

った時は、自分が子供の世話をしなくてはと、誓った以上、神様から天
罰を受けると言って、その子供が大学を出て成人するまで面倒みて呉れ
たそうで、第二次大戦に入り日本にも帰国することが出来ず、再婚もせ
ず、そのまま金持ちの夫婦が亡くなるまで仕事をして居たそうで、その
後、日系の植木屋さんで管理の仕事を住み込みでしていました。

その方は植木屋の近くの、倉庫の片隅で住んでいましたが、その頃70
歳近い歳でした、訪ねて行くとワインを出してくれて、よく昔話をして
呉れアルゼンチンの初期、日本人開拓者の話しを教えてくれました。

その頃の方々は全て亡くなられて、誰も話す事も有りません。
私の同級生もアマゾンでの生活で同じく夕方に近くの小川に足を洗いに
行って、毒蛇に噛まれて、でも直ぐに車を飛ばして近所で血清を注射し
て一命を取りとめたと話していました。その友達も今年の始めに癌で亡
くなり、ブラジルの大地に永眠して寂しい限りです。

これからも時間の許す限りお話致します。

2011年8月26日金曜日

私の還暦過去帳(38)

祖国の山河は遠くにあり、夢の山河は涙あり・・、

今日は昔、私が出会った人の生き様を書き残して置きます。約47年近
く前の話ですが、私が書き残さなければ、誰もこの話をする事も無いと
思い、皆様にお話します。

私がアルゼンチンのパラグワイとの国境に有ります、ミッショネス州を
旅していた時の話です。其の州の中ほどにハルディーン.アメリカと言
う町に来た時です。小さな町で車で3分も有れば通過してしまうような
所でした。

町まで来て、そこから山に入った所で、お茶を栽培している日本人を訪
ようと思い道を尋ねると、あそこの雑貨店は主人が日本人だと教えてく
れました。

お店に入るとそこには70歳過ぎの日本人の男性が、店番をしていまし
たので、「こんにちわーー。」と挨拶すると、びっくりして、「どこか
ら来たーー。」「誰か訪ねて来たのか?ーー」と尋ねて来ましたので、
山に入った所でお茶を栽培している日本人を訪ねて来たと言うと、「今
日は無理だ、明日になれば誰か山から降りて来るから、その時車に乗せ
てもらって行きなさい」と教えてくれました。

「どこかホテルは有りますか―ー」と尋ねると「そんなものは無い」と
話してくれましたので、困って居ると、「一晩泊まりなさいーー。心配
しなくてもいいよ。」と声を掛けてくれましたので、その夜はお店の裏
の小屋に泊まらせてもらう事になりました。

鈴木さん(仮名)と言って、一世の人でしたが、若い頃はあちこちと仕
事をして歩いたそうです。歳をとリ働けなくなり、ここにお店を開いて
生活する様になったと言っていました。

独身かと思っていたら、白人の若い20代の女性を紹介してくれました
ので、「娘さんですかーー。」と聞くと、「とんでもない、ワイフだよ
ーー。」と言うので、びっくりしていると、笑いながら話してくれまし
た。

このワイフは、14歳で子供を産み、コブ付きで誰も貰ってくれいので、
親がホトホト困っていたので、身体も弱り心臓も障害が出て最後の遺産
残しと、その親を尋ねて子供ずれで娘をくれないかと話すと二つ返事で
了承したそうです。その代わり全部の遺産を娘に残すと約束を交わして
連れて来たそうですが、母親と子供が年齢の差が余り無いので、姉妹の
様でした。

鈴木さんはその夜、お米のご飯を炊いてくれ、イワシ缶詰を開けて自家
製のラッキョの漬物でご馳走してくれました。
70歳過ぎで元気な人でしたが食事の後、お茶を飲みながら話してくれ
ましたが、「だいぶ頑張ったがーー子供は作れなかったョ!」と笑って
いました。

「日本にも帰りたいのだが、戦災で実家も兄弟も亡なり、50年も帰っ
ていないので、浦島太郎だよーー。」と懐かしむ様子でした。
一度日本の温泉にゆっくり入りたいと話していましたが、お風呂は無く
小屋の裏で、水浴びするだけでした。

翌朝、朝早くに通過するバスの客が来て、早くからお店は開けていまし
たので白人の奥さんは、子供を学校に出すとコーヒーを片手にお店を手
伝っていました。
かなりのグラマーで、ポーランド系の美人でしたが、私が荷物をかたず
けて出発の準備をしていると、コーヒーを入れてくれ、
「8時頃には、誰か山から降りて来るから、外で待っていなさい」と教
えてくれました。

鈴木さんも「去年、心臓発作が有ったから、又来ても生きているか分か
らないよ!」と笑って送り出してくれました。

それから友達を訪ねて、ブエノス.アイレスに戻って暫らくして、当時
の亜国日報を見ていたら、その方の死亡記事が乗っていました。
その記事を読んだ夜、夜空を見上げて合掌して、冥福を祈りました。

「日本の温泉にゆっくり入りたいネ~。」と言う言葉を今でも思い出す
事が有ります。その方はお店の有った、

その町はずれの墓地に永眠されています。

2011年8月25日木曜日

私の還暦過去帳(37)


ハワイ、オアフ島の一世移民の夢のあと・・。

皆様お元気ですか。今日はハワイのオアフ島の北側にあります、小さな
ハレイワ(HALEIWA)と言う田舎町を紹介します。

私はカリフォルニアに住んでいますがこれまで7度もハワイを訪ねて居
ます。昔、初めて訪れた時は、隣り町にワイアルア(WAIALUA)と
言う砂糖きび畑と関連した工場が有りました。

そこには沢山の日本人が働いていましたので、日系人の経営のお店も沢
山有りまして、日本語の看板も見られて、のどかなハワイの田舎町と言
う感じがしていました。

現在はハレイワの町の外を道が走るようになりまして、街道から少し横
道になります。一番初めに訪れた時は、町の中で昔の白熱灯の光の下で、
アロハシャツの住民がポーチの前に出したテーブルで食事をしている光
景が目に飛びこんで来ました。

椰子の木の茂る海風のそよぐバルコニーにもたれて、ビールの瓶を片手
に夕食の後の憩いの時間と言う感じの人も居て、凄く温かみの有る町の
風景で、今でも心に深く印象が残っています。

その町に松本かき氷店が有ります。50年の歴史が有る、古い日本式の
かき氷です。勿論ハワイ式の物も有ります。炎天下の砂糖きび畑で働い
た人達が憩いを求めて休息と楽しみに訪れた町と思います。

かき氷を口にしながら畑で汗を流して働いた人達が、この店に立ち寄り
喉を潤して疲れを癒していた頃を思い浮かべます。このお店は、松本マ
モルさんと言うハワイ生れの方が始めましたが、開店は1951年です。

開店当時は地元の人が多かった様ですが、1960年代からはノースショア
に世界中からサーファー達がやって来てヒッピー達にも知られる様にな
り、お店は広く知られる様になりまして暑い日には一日に千杯ものかき
氷が売れると言うのですから驚きです。

あずきは自家製で、あずきの大盛りで綿菓子のような細かい氷が入って
その上には定番のシュロップが程よい甘さで、お好みでかけて貰えます。
50年の昔から変わらぬ味で、昔砂糖きび畑で働いた人達が、この店に
立ち寄り、お国言葉で話しながら味わったかき氷の味を貴方もどうぞホ

ノルルに遊びにこられたら、是非味わって下さい。レンタカーでゆっく
りとドライブして、北側の地元の人しか週末に来ない静かな海岸で一人
ゆっくり泳いでから、訪ねるのも良いものです。昔は沢山の手書きの日
本語の看板も見られましたが、現在は少なくなり新しいショッピングセ

ンターも出来、様変わりしていますが、松本かき氷店の味は変わりませ
ん。家族、友達などでこられて口にして、その味を確かめて、その時に
は私が話したことを思い出して下さい。そして、そこに沢山の日本人が
住んでいた事も話して、昔の思い出の夢の後です。もし貴方が子供さん

と来ていたら、ここに昔は沢山の砂糖きび労働者が並んで、喉を潤して
いた事を話して下さい。
  松本かき氷店、電話ハワイ、(808)637-4827、
  www.matsumotoshaveice.com

2011年8月24日水曜日

私の還暦過去帳(36)

今日のお話は現在、沢山の老齢になって永久の旅立ちにつかれている、
多くの戦後アメリカに来られた人達、及び南米での移民達の最後の、御
世への世界に旅立ちの有り様です。

第二次大戦後、多くの日本人が祖国日本を離れて海外に移住して、又結
婚して海外の見知らぬ土地に居を構えて子供を育て、ながきに渡り日本
に帰国する事も無く、へんぴな田舎で、廻りに同胞の日本人も居ない様な
土地で、孤独に耐え、短波ラジオのNHKの放送を聞くのが楽しみだっ
た昔の人達が、ご主人も亡くして、子供も都会へ去り家庭を築き、訪れ

る事も無く田舎の寂しい生活に耐えて、自分では運転する事も出来ずに、
親しい友達と電話で話する事が一番の楽しみとして、弱った体を窓際に
寄せて、郵便屋さんが毎日訪れるのを楽しみにしている婦人も、昔はご
主人が元気な時は、4時間もドライブして、シカゴの町まで、毎月出て
いくのを楽しみにしていたそうです。

日本料理を食べて、食材を仕入れて日本語の雑誌など買い込み、連休な
どの時は、一晩泊まって知り合いと待ち合わせて、楽しい時間を過ごし
たそうですが、時が経つに連れて、友達も一人去り、二人去りして、
寂しくなっていったそうです。この様にして日本の祖国を思いながら人
生を閉じられた方々が沢山アメリカの田舎には居られます。

私の近所のご婦人は、65歳過ぎて、昔の思い出に主人とアメリカ大陸
横断のトラックに、助手席に乗ってドライブした思いでを探りながら、
一人その道をたどって運転して、シカゴ郊外の田舎で、まさに祖国日本
の山河に思いをはせながら、臨終の床に有る友達を訪ねて行ったそうで

すが、サンフランシスコから、大陸を横断してのドライブをどのような
心で運転していったか、心が熱くなる感じがします。中には結婚に反対
されてアメリカに渡り、一度も日本に帰国する事もなく、東の空に両手
を合わして、両親の冥福を祈って自分もその生涯を閉じられ方も居ます。

多くの邦人が祖国日本に思いをはせながら、異国の草葉の陰に墓標とし
てだけ残って、過去に消えて行きました。
そのような方々に深く哀悼の意を捧げ、影ながら日本国を支へてくれた
感謝の気持ちを、ここに深く表すもので有ります。

2011年8月23日火曜日

私の還暦過去帳(35)

私には昔のバレンタインデーの思い出が有ります。46年ほど前ですが
アルゼンチンのボリビア国境近くで野菜栽培の農場支配人をしていた時
です。そこは南回帰線から100Kmぐらい入った所でした。
2月は真夏で野菜栽培は出来ずに、その時期は果樹の手入れやバナナの
収穫をしていました。

余り暑過ぎて野菜は枯れてしまいます。覆いをして、日陰を作ら無いと
夏野菜は出来ませんでしたので、時期としては暇な時で、しかしその頃、
ボリビアに居たカストロ派のゲリラがアルゼンチン側にも進入して来て
いましたので、国境警備兵が巡回して来ていました。

ゲリラは朝早く一度しか炊飯しませんので、それを探してセスナ機が探
索に飛んで来ていましたが、その無線連絡で探しに来ている兵士が朝露
でびっしょりと濡れて、よく農場に馬で来ていました。

「何か暖かい食べ物を下さい」と若い兵士が殆で、此方もなれたもので
干し肉とジャガイモのトマトソースでの煮込みが出来るまで、ワインで
も開けて飲ませていました。

彼らは持ってきた小銃は、開け放したドアの前に、3つに組んで立て決
して家の中には入れません。全部実包が装填されていて、それと指揮官
の持っている自動小銃はドアに立掛けていました。

暖かい湯気が立っている煮込みの皿がテーブルに並ぶと、パンも配られ
兵士達は短くお祈りすると、一斉に食べ始めます。外では開け放された
ドアの前に犬達が座りジット、兵士達の食べる姿を見ていました。

捜索中は缶詰か、簡単な携帯口糧での食事で、彼等はいっも農場に来る
と、出される食事を美味そうに食べていました。
その代わり彼等も検問所などでは、我々のトラックなどは検査無しで通
過させてくれ、色々な便宜をしてくれました。

お互いに友達同士になり、休みの時は魚釣りや、町で一緒に飲む事も有
りまして、辺ぴな場所での農場の安全を守ってくれました。

私は彼らが来た日がバレンタインデーとは知りませんでした。
食事が終り、コーヒーを出すと馬の皮袋からお菓子の袋を指揮官が持っ
て来て、「今日はバレンタインデーだから」と言ってテーブルの上に置
き、「食べて下さい」と進めてくれました。

食事が済んだばかりでしたので、チョコレートを一つ貰い、ポケットに
入れておきましたが、兵士達が帰った後に僅かに残っている農閑期の作
業員の内に家族連れの出稼ぎ農夫が居ました。

その作業員の子供が泣きながら父親と歩いていましたので、ぐずって居
る子供に、チョコレートをあげると、ピッタリと泣き止み直ぐに笑顔と
なって、「どうもー、有り難うーー。」と言ってめったには買って貰え
ないお菓子のチョコを大事そうに抱えて、ぼこぼこと乾き切った道を、
走って家に帰って行きました。

その笑顔を思い出すと、またバレンタインデーを思い出します。
おやつなどはマンジョーカの芋をから揚げして、砂糖をまぶした物ぐら
いでしたので、余ほど嬉しかったのと思います。

今でも思い出す笑顔です。
私のささやかな思いでと成っています。

2011年8月22日月曜日

私の還暦過去帳(34)

今日のお話は、昔の移住者の移住前の日本での生活と、移住後の開拓地
の生活を両方を見ましたので、この様な調査は現在の日本人としての記
録が余りないと思いますので書いて見ます。

その当時、日本では戦後の経済の苦しい時代で特に田舎では外地からの
引揚者の対応に、南米に移住した時代が有りました。

政府の渡航貸付け金が出て、家族で、独身での移民が多数移住して行き
ましたが、1959年の時代に高知の山奥で、平家の落ち武者と言われ
る所でしたが、四国高知の街からバスで半日もの時間揺られて行きまし
た。

バスは舗装もない所をガタガタと僅かな乗客を乗せて、終点の山奥に着
いて、そこで夜は泊まり朝に、又おり返して運転していくバスでした。
冬は3時には日が暮れてしまう谷間の僅かな耕地を耕して、段段畑の造

成された農地は少なくて、殆ど山林労働者としての兼業農家でした。
僅かな陸稲での米と、あとはソバとヒエの栽培での食料生産では家族が
食べるだけで、とても出荷出来るものでは有りませんでした。

冬は阪神地方に出稼ぎに行く人が多くて、瀬戸内の松山まで山越しに歩
いても5時間で行けると言う山奥でした。
朝はそば粉を囲炉裏で沸かしたお湯で練って、そばがきですーー。それ
を昨夜の大根などの煮しめの、たれにつけて食べると言う時代で戦後紙

が不足した時、和紙透きでの生産で少し潤ったそうですが、それも直ぐ
にお終いになり、それから沢山の人が外地からの引き上げ者も含めて、
南米に移住して行ったと聞きました。
私が訪ねて行った時は冬の寒い時期で、早々と薄暗くなった山肌で、段
段畑を造成する、石を砕く音が聞こえていました。

それから5年して同じ家族を南米のパラグワイの移住地を訪ねた時、訪
問しましたが、先ず一番先に見せてくれたのは、広々とした一枚が1町
歩も有ります田圃でした、それを二枚、2町歩も有りました。

それに、たわわに実ったお米が頭を垂れていましたが、その時の感激は
昔、高知で見た貧しい農地と比較して豊かさと、その開拓の努力に驚き
ましたが、その他野菜を植えた畑も有りまして、毎年コーヒーも植えつ
けていると話していました。

昔、私の先生が、「百姓は砂を黄金に変える」と話していたのを思い出
しました。

2011年8月19日金曜日

私の還暦過去帳(33)

静かななる戦場よりのレポート。

今日は我身で体験している激戦の戦いの場からの報告です。

今日も朝早くから、敵の偵察が来ています。夜が開けきれない時からジ
ジイが朝の庭に出るとそこは戦場です。食うかーー、食われるかー!、
偵察は「ククーーー」と連続で危険信号を出して、警戒して仲間に知ら
らせています。丹精した有機栽培の野菜を狙ってリス達が襲撃してきま
す。
現在は、柿木一本の実が、全部食べられてしまいました。
残るはあと一本です。必死で防戦しています。ネットを被せると下のト
マトを襲い始めました。赤くて熟れた美味しいトマトがヤラレています
ので、捕まえて打ち首獄門での曝し首にしてやろうと思って居ますが、

そこは簡単に行きません。ジジイをあざ笑ってポ~イと逃げて行きます。
先ほどは手ごろな大きさのトマトをくわえて目の前を悠然と逃げて行き
ます。ですからジジイの血圧が上がるのは当たり前です。「くやし~い
ーー!」ですから、先日一策を案じて、柿の木にトゲの有るピラカンタ

の枝を入れて隣りの木から飛び移らない様にしておきましたら、馬鹿な
リスが間違ってか、馬鹿なのか知りませんがそれに「ポ~イ」と飛び移
りましたとたん、ぎゃ~と私には聞こえましたが、「キキーーギャギャ
ーーー!!」と連続して5分ほど騒いでいました。私は怪我をするとい

けませんので、紙切れに「トゲに注意」と書いてぶら下げていましたの
で、ワイフが笑って「リスは字が読めない」と言っていましたが、そこ
は私は知りません。一応はワイフに見える様に書いておきましたのです
が、意地悪爺さんです。

しかしネツトを残りの柿木に被せていましたのですが、それにリスが飛
びこみまして、夕方畑を見回り行きましたら、ミノムシの様にネツトに
絡まり、ぶら下がって死んでいました。

多分、暴れて動けなくて、暑い一日をカンカン照りの外で、干上がって
死んだと思います。憎い敵ですが、これーー、死体でぶら下がっている
のを見ると、やはり可愛そうな気がします。「なみあむだぶつ」です。

週末の被害は甚大でした。だいぶやられて、これでは年末のクリスマス
のサラダに入れるトマトが、無くなってしまいます。
しかし今日も秋の日の、釣瓶落としのお日様はアット言う間に落ちて暗
くなってしまいました。

今日も戦いは終りましたが、リス達は又明日も来るぞと、「キキイー」
と雄たけびの声を挙げて消えて行きました。

ガクーンとしての一日でしたが、負けずとの勇気を奮いたたして今日も
ジジイは頑張りました。今夜も静まりかえった我が家の裏庭から戦いの
レポートを送り致しました。

2011年8月18日木曜日

私の還暦過去帳(32)

今日の話は1964年頃、ブラジルとパラグワイの国境の、
ポンタ.ポランとペドロ.ファン.カバイェロのお話です、

その当時、ペドロ.ファン(パラグワイ側)には、アマンバイ農協と
言う 日本人の農業組合がありまして、移住地を作っていました。
主にコーヒーの植え付けをしてその他養鶏の仕事も沢山始めていま
した。

ブラジルとパラグワイの間の国境はその当時、土道のボコボコ道で
した 真中の国境線の真中に沢山の十字架が並んでいましたので、
「何故か!」と聞きました所が、「殺し合いをして、国境の真中に
死体を 置いておくと両国に裁判権が無いとの事、」驚きでした。

昔、ブラジルとパラグワイの兵隊が仲間を喧嘩で殺されて、殺しあ
って 国境の真中に捨てたそうです、その他殺人事件で証拠隠滅と、
裁判権を 無くす為に捨てたそうですが恐ろしい事を考えたものです、
その当時驚く事に、フォードのA型がタクシーで走っていました。

勿論オープン.カーですがホロが付いていました。
スパスパーー!パタパター!とエンジンを吹かして走っていましたが、
その当時でも珍しく、立ち止まって見ていました。
パラグワイ側の国境警備兵が夜中に通行人を脅して、勿論ライフルを
付きつけて、「タバコをくれ」です、時には「お金もくれ・・・」と言い

ますので強盗です。暗闇からヌ~ッとライフルを付きつけられると、
あまり気持ちの良い物では有りません。しかし一度兵隊が脅した相手
が反撃して、拳銃で抜き打ちに射殺してしまい、相棒の兵隊は詰所
の中で 朝の交替時間まで、ライフルを抱えてふるえていたそうです、
その当時のライフルはボルト.アクションですので発砲するまで時間

が かかります、拳銃がもっと早く発射出来ます、私もその当時いつ
も小型の22口径の拳銃を所持していましたので、それとかなり
熟練して、上手に 撃てました。一度兵隊が呼び止めましたので、一人
がライフルを構えて、相棒の兵隊がポケットの中に手を入れ様としま
したので、腰の後に隠していた拳銃を引き抜きざまに相手に向けまし
たら驚いて、それとーー、

相手のライフルの銃口部を左手で握って横に向けていましたので、
此方も撃たれる恐れがないので、私が有利です、直ぐに兵隊が
「撃たないでくれーー!」と言います、私も「いくら欲しいかーー?」
「タバコ代ぐらい欲しい」と言います、10ガラニーほどやりまして、
タバコを2本火を付けてやり、吸わせてやりました。

18~9の若い兵隊です、それから仲良しになりまして、同じ兵隊が
立ち番している時には、良くタバコの一箱をくれてやりました。
その当時、首都アスンションまでは直通の道がなくて、コンセッショ
ン まではトラックで下りて、そこから河船で行きました。
昔の事です昼間暑いので夜に走ります、荷物の上に乗って行きました。

暗くなって同乗していた兵士が、ライフルに実弾をポケットから1発、
1発出して詰めていきます、私は大豆の袋の間で夜風を避けて寝て
いました、兵士が同乗しているので、少しは安心の旅でした。

その当時ブラジル側の鉄道線路工夫は皆、腰には38口径の拳銃を
ベルトに吊っていた時代です、昔のなつかし思い出です。

2011年8月16日火曜日

私の還暦過去帳(31)

この話しは、前回の(30)の続きですーー、

人はそれぞれ一つの人生を担って歩いていると言いますが、
重き荷や軽い荷など、それぞれの人生の終着駅を目指して絶え間無く
歩いて行かなければなりません。
ユダヤ人の老人と出会って話をする様になってから、自分の人生感
が少し変った様です。彼の話は人の心を揺さぶり、衝撃と感動を
人の心に与える力が有りました。

ポーランド系、ユダヤ人としてワルシャワの町で生まれたそうですが
ナチ、ドイツがポーランド進攻してきたから全てが変ったと言って
いました。
全てのユダヤ人はゲットと呼ばれる居住地に押し込められて、
そこから強制労働などに駆り出されて行ったそうです。

ある時ドイツ軍から、トラックに乗せられて、強制労働に連れ出されて、
昔のユダヤ人の金持ち達が住んで居た場所で、家財道具の整理
や、隠匿物資の捜索を手伝わされたそうです、ある屋敷に着いたら

ドイツ軍将校が中庭の空き地に拳銃を持って立っていたそうですが、
その足元には射殺されたユダヤ人の家族が並んでいたそうです。
隠れて、どこかに潜んでいた家族の様でした。

そのようなユダヤ人はその場で射殺されて行ったのです。
両親と娘が二人、頭を後ろから打ち抜かれて血を流して死んでいた
その遺体をトラックに運び、かたずける時に娘二人はあきらかに
ドイツ兵の強姦を受けた後がなま生しく残って、目をそむけて
遺体を運んだと話してくれました。

まだほんのりと温かみが残る遺体だったと話していましたが、
その話をしている時に、彼も泣いていたのを覚えています。
そこをかたずけて次ぎの屋敷に行くと、そこでは軍用犬を使って
潜んでいるユダヤ人の捜索が行われていました。

屋敷の離れで使用人が住んでいた様な家を探していた時、犬が吼え
誰か隠れている事が分り、ドイツ兵が銃を持って取り囲み、
捜索を始めると直ぐに親子4人の家族が連れ出されて来ました。

子供は娘とその弟の様で、両親は子供をかばって命ごいをして、
ドイツ兵の前で地にひれ伏して、涙ながらに懇願していましたが、
情け容赦無くーー、まず両親が銃殺の為に庭に立たされると、
男の子供が泣きながらそれを止め様として、その場でまず射殺されて
しまい、直ぐに同時に両親も並んで銃殺されてしまいました。

残った若い20歳頃の娘は死を覚悟をしていた様ですが、
ドイツ軍将校は何を思ったのか、強制労働で連れ出されて来た
ユダヤ人を指差して、この娘を犯す様に命令しましたが、
誰も娘を前に行動を起す人は無かったそうです。
将校は一人の初老のユダヤ人を指差すと、「お前が初めにやれーー」
と指名して命令しました。

娘は家の中に連れこまれて、下半身裸にされて指名されたユダヤ人
の背中を押して犯す様に再度命令したが、初老のユダヤ人はその
将校の顔につばを吐きかけて、拒否したそうです。
その場で射殺されてしまい、次ぎはこの話をしてくれたユダヤ人の
番だったそうです、彼は死を覚悟して動かなかったそうですが、

将校は「あと20数える内に行動を起さないと、射殺するーー」
と言って数を数え始めたそうですが、すると、
娘は彼の手を取って、「生きなさいーー、どんな事をしても生きな
さいーー、」と小声で早口のポーランド語で話すと彼をソファーの
前に連れていき、生きる為の、生き残る行為を彼にさせたそうです。
しかし緊張と、恐怖の前では真似事だけで、ドイツ兵を喜ばす
だけだったと話してくれました。

その時オートバイに乗った伝令が来て将校に、近所でユダヤ人が
銃で抵抗して、死傷者も出ていると話すと、「遊びは終ったーー」
と言って、死体をかたずける様に言って、四人の死体をトラックに
乗せると、「お前達は地下室に入っておれーー!」と命令して、
真っ暗な電気も無い部屋に入れられて、上から蓋をかぶせて鍵を
掛けられて、放置されてしまったそうです。ドイツ兵は応援に

出かけてしまい、暗い部屋で遠くで聞こえる銃声を聞きながら
動かなかったそうですが、娘は真っ暗な中で彼にしっかりと抱きつき
緊張と狂気の嵐の時間を耐えていたそうですが、強制労働に連れて
こられて残った彼を入れて三人と、娘は何一つ話さず、真っ暗な

中でジーッと耐えていたそうですが、時間が経つほどに緊張も
緩み、抱いている彼女の体温も感じ、彼女の皮膚の感覚も感じて
来て、いっしか、しっかりと彼女と真っ暗な地下室で抱き合って
いたと話してくれました。

彼女は遅くなって戻って来たドイツ兵に外に連れ出されると
庭の中に立たされて、銃殺されてしまったと涙ながらに話して
くれました。

地下室から出る時、「天国で貴方の子供を育てるからーー」と言って
出ていったそうですが、撃たれる直前に手を上げて投げキスを
して倒れて行ったと言う事です。

彼は独身だと言っていましたがーー、
   
「一瞬の時間に人生のすべての情熱を燃やし尽くして行く人と、
 一生連れ添っても、単なる同居人で人生を終る人も居る」、

と彼が話したことを私は、一生忘れる事は
出来ません、愛とは何かーー、愛するとは何かーー、
今でも考える事が有ります。
彼とはその後二度と会う事は有りませんでした。

私の還暦過去帳(30)

         
皆様お元気ですか、今日の話しは是非聞いてもらいたい
私の思いでの話です、戦争の悲惨さ、それで難民として
流浪の旅に出た人々が思い出として語ってくれた物語です。

昔、ボリビア国境近くからブエノス、アイレスの首都に出てきた
時は、「奥地から出てきた」と言っていました。

街中にあった日本人会館の宿泊所に泊まっていました。
1階は食堂や事務所、大きなホールも有りました。
日本食も食べる事が出来まして、何かと便利で色々な情報も沢山
入って来ますので、便利な場所でした。

食事は近くにイタリア人が経営する、美味しくて、安くて、魚料理
が沢山有るレストランに通っていましたが、直ぐにそこのウエイター
と仲良くなり、鯛のから揚げにオリーブ油のピリカラソースを
掛けた物を発見して、ブエノスに滞在している時は毎日飽きもせず
食べていました。

30cmも有る大きな鯛です、皿からはみ出しています、
アルゼンチンでは小骨の沢山有る、鯛は余り歓迎されない魚ですから
レストランで安く食べる事が出来ました。

揚げ物専門でカウンターの近くで仕事をしている、アントニオと言う
若者とも仲良くなり、インジオの叔母さんが自家製で作る葉巻を
沢山お土産に持って来ていましたので、三本ほどプレゼントして、
明日のお昼も来るから、必ず俺の分は残しておいてと、念を押して
帰りました。

自家製の葉巻は特製で、タバコの葉をラム酒と砂糖で醗酵させて
そこに叔母さんの秘密の何かを混ぜて作ります、
その香りの良い事、20mも離れた所からでも分かります。

おかげでお昼にレストランに入り、カウンターの中に入る
アントニオに手を上げて挨拶すると、「あいよ~!」と言う感じで、
テーブルに座ってスープが来て飲み始めると直ぐに鯛のから揚げが
出てきます、隣りに座っているおやじが「じろ~ッ」と見ています、

いっも会っているおやじです、「又、あの日本人は魚を食べている」
そんな感じです、それと余りに早く注文が出てきますので
驚いています、白ワインを頼んで飲んでいますが、ボトルを全部
ポンと置いて行きます、食事が終って勘定の時に瓶の残りを見て
その瓶の飲んだ分だけ払って勘定する、おおらかな物でした。

私はこのレストランが気に入って、昼と夜の2回も食事に通って
いましたが、いっも同じ所に座っていましたのですが、私の
隣りに同じ様に座っていたユダヤ人の老人がいました。
私が魚を良く食べるので、目立っていたのか、彼らも宗教の何かの
日にはお肉は食べ無い事を知りました。

そんなわけで食後のコーヒーの時に、コニヤックの酒をおごって
くれまして、話をする様になりました。
昼時は混雑しますので食後は外で話していました。
ポーランド系のユダヤ人で、戦後兄を頼って移民して来たと
話していましたが、家族は全部死んでしまったと言っていました。

私も戦後台湾から引き上げて来る時、リュックサックのみで
着たきりスズメの、お腹を空かして、悲しい思いをした事を
下手なスペイン語で話すと、彼も余り上手ではなかったスペイン語
で、慰めてくれました。

一人暮しで、時々兄の貴金属加工の手伝いをすると話していま
したが細い指先は、繊細な仕事をこなすプロの感じでした。
どこに住んで居るかは聞きませんでしたが、歩いて直ぐのアパート
に住んで居ると言っていました。

ある時、何気なく「お前はこんなものを見たことが有るかーー!」
と言って腕の袖をまくり、数字の刺青を見せてくれました。
私は「ガ~ン!」と心に衝撃が走りました。

話には聞いていた事です、本でも読んだ事が有りましたが、
現実に見せられたショックは大きかったのを覚えています、
アウシュビッツの死の収容所で付けられたと言っていましたが、
それとポーランドで彼が住んで居た町で生き残ったユダヤ人は

数えるほどしか居なかったそうです、彼が特殊な金属加工と研磨
の技術を持っていたから、軍需工場での強制労働、通称奴隷労働
での仕事をしていたから、終戦まで生き長らえたと話していました。

だんだんと色々な話を聞くに連れて、衝撃と悲しみと、悲惨さが
滲み出す話に私は涙が止まらなかったのを覚えています。

 この話しは次回に続きます、衝撃と悲惨さと、悲しみの話です。

2011年8月13日土曜日

私の還暦過去帳(29)

2004年のことでした。
37年もの長い間政府の支援する外務省の補助金事業「海外日系人
訪日団受入事業」が今年限りで、37年間の幕を下ろしますが、
これは50年以上日本に帰国していない中南米に日本から移住した
「移住先駆者」と言う方々を日本に招待するプログラムでした。

1968年にスタートして、往複旅費と滞在費を支援するものであ
りました。高齢化と対象者が少なくなり廃止される事になりました
が、これまで791名、中南米七カ国から里帰りしています。
今日の話しは、その制度がまだ無かった時代です。

46年もの昔で、その当時まだ日本人の一世が生きていた頃です、
ボリビア国境のエンバルカシオンの町からトラックターの部品を
買いにサルタ州の州都に出かけて行きました。

夜行便のバスで行き、昼頃には着いて用事を済ませて、その夜は
泊まり、翌朝の一番のバスで帰っていました。
話に聞いていた、日本人の床屋に散髪に行きました。

黙ってドアを開けて入り、新聞を読んでいた老人に
「こんにちわーー!」と挨拶するとびっくりして、
「どこから来たーー、どこの県人かーー、」と聞いてきました。
「福岡ですーー、エンバルカシオンから部品を買いに来ました」
と言うと、「そうですかーー、佐藤さんはお元気ですか―」
そんな会話をして散髪を始めました。

ブラジルの最初の移民船、笠戸丸より昔の人でした。
その方はハワイの砂糖きび農場での仕事を抜け出して、船で
ペールーに仲間と来て、砂糖きび農園で仕事をしていたそうですが、
当時、アマゾンでのゴム景気の話を聞いて、一人アンデスの山を
歩いて超えて来たと話してくれました。

途中、アルゼンチン国境警備兵の荷駄のラバにつかまって、山越え
したと話していましたが、荷物は毛布に包んだだけでそれを肩に
担ぎ、腰に山刀を差して当時の砂糖きび労働者の姿で歩いていた
と言っていました。

山越えして、お金が無いのでアルゼンチンの砂糖きび工場で
仕事を見つけて、そこで仕事をしていたそうですが、
真面目に仕事をして、器用な性格で機械の操作と修理が出来た
ので給料が良く、腰を落ち付けて住みついてしまったと話してくれま
したが、その当時75歳ぐらいでした。

散髪が済んで、マテ茶を出してくれて、死ぬ前に一度でいいから
祖国日本に帰りたいと話していましたが、

「金も無くーー、この歳ではーー、」と言って笑っていました。
しばらく話して、外に出る時ドアまで送ってくれて、
「元気でー!、こちらに来たら又、寄って下さいーー」と話して
握手して別れましたが、それが最後でしたーー。
  
  故郷は遠きに有りて思うものーー、
  懐かしきものーー、
  思いは懐かしく思うものーー、
  家族や友の思い出を心浮かべーー、
  東の空に無事を祈るべきものーー、
  
 沢山の異国の土になられた方々に、深く哀悼の意を捧げます。

2011年8月8日月曜日

私の還暦過去帳(28)

46年前に南米で農業をしていた頃でした。
暑い日々でした、11時には仕事を切り上げて昼休みに入り、食事の
あと2時過ぎまで、昼寝をしていました。

家は土蔵作りの日干しレンガの建物で、屋根は椰子の木を半分に
割った物を竹の様に真中を削り、交互のかぶせて屋根にしていました。
40年もの昔で、田舎のジャングルの百姓家です、自家発電の設備も
有りません、飲み水は屋根を利用して天水(雨水)を飲料水として
いました、それは塩分が多いので井戸を掘っても飲み水としては
使用出来ませんでした。

乾季になりますと、雨が降りません馬鹿でかいタンクでしたが
しばらくすると無くなります、すると毎日朝早く、ドラム缶を二本
トラックターの後ろに乗せて、河のかなり深いところまで乗り入れ
てそれに汲んで来ます、それを濾過器に入れて、下から出てきた
水を汲み、薬缶で煮沸して飲んでいました。

大変な時間と、労力が要ります、河の上流で雨が降り、ボリビアの
鉱山から排出される危険な物質が混じった水が流れて来る時が
有りました。

その時は直ぐ分かりましたので水は汲めません、1時間も離れた
町まで水を汲みに行きます、水は貴重ですーー、
畑に灌漑する水は溜め池に貯水してありますので、余り心配は
有りませんしかし、人間が飲む水は苦労しました。

インジオは溜め池の水を濾過して飲んでいた様です、
でも塩分が有りまして、長く飲む事は出来ません、彼らは水を得る
事は良く知っていました。

狩猟に行って、喉が乾くとツタのつるを切って、そこから滴り
落ちる水分を飲みますが、少しですが喉を潤す事が出来ます。
雨季の時河床であった場所では、そこの湿った砂土を掘り、かなり
深く掘っておきます、しばらくすると滲んだ水が底の下に溜まり
それを汲み上げて使います、2~3人が飲める水が採取で来ます。

使用したお皿などは水は使いません、焚き火の灰で汚れを取り、
後は綺麗に紙でふいておきます、鍋の底に少し水を入れて、
その中に使用した食器を入れて、火にかけて煮沸して消毒します、
蓋をして、蒸して少しの水で消毒します。

全て水は貴重でした、雨が降り始めると、屋根から滴り落ちる雨水
が嬉しくて全てタンクに溜めていました。

夏になり家の中が涼しくなります、窓を閉めて、土間に打ち水を
して、外からの外気が家に入らないようにして、じっと家の中で
休んでいました。

その様な場所で生活している人が現在も沢山います。
世界の半分近くの20億と言われる人々が良い飲料水を飲めずに
苦しんでいます、   特にアフリカです、!

モザンビークで見た水運びの若い女、子供達はそれが仕事でした。
頭に水がめを載せて、裸足で暑い日の下を、じっとこらえて歩いて
いました。

たかが水ーー、されど万金に値する水ーー、

熱帯では一日、10リッタの水が無いと生きられません、
直ぐに脱水症状で死んでしまいます。

人間の65%は水分ですーー、
活きる基本はまず水ですーー、

今日も一日、美味しい水が口にできました事を、感謝いたします。

2011年8月6日土曜日

私の還暦過去帳(27)

今日は、アメリカでは911の犠牲者の追悼の催しが各地で行なわれ
ました。しかしその蔭に隠れた犠牲者が居た事を皆様に知ってもらい
たく、物言えぬ911の被害者達への過去に消え行く知られざる

物語を書いてみます。余り報道されない被害者達です。 悲しいテロ
の後、帰らぬ犠牲者を待つ妻や、子供達、恋人や、友人達、 其の
中で帰らぬ犠牲者を、ひたすら待っていたペット達です。 主人の死も

知らず、彼らは電話で問い合わせする事も出来ず、探しに出かける
事も出来ず、ただひたすらに主人の帰宅を待ちわびてアパートの部屋
や、主人の家でドアの前でうずくまり、耳をそばだて待ちわびる犬達。
ドアの前でエレベーターの止まる音を聞き、主人の足音を探し、待ち

わびる猫達。水も食べ物も無くなり、犠牲者の家族や、友人達が探
して迎えに来るまで、窓際の歩道の見える場所に、一日中主人の帰
りを待っていた幾多のペット達。物言えない悲しさを抱えて、主人の
帰らぬ部屋に残されました。 一人暮しの独身者の良きパートナー、

夜に帰宅してTVの前でひざの上で仲良く主人との時間を過ごしてい
たペット達も、中には籠の中に居た小鳥達は、二度と帰宅しない主人
を待って、水も食べ物も無くなり、助けに家族が訪れた時はもはや、
主人を追って天国に旅だっていました。仲良く天国で再会して、主人

が喜んだ歌声を聞かしているのだと思います。はや三年も過ぎ、多くの
心に傷を負った人々が癒される事が少しずつでは有りますが、希望と
言う光に照らされて癒しの道を歩き出しています、しかし多くのペット
達は、犠牲者の家族、友人達、ボランテーヤ達に引き取られて、

其の主人の思い出の住居を離れて行きましたが、前の主人の様
愛は二度と貰う事は無かったと思います、悲しい被害者達です、
テロの暴力はこの様な所にも悲劇をもたらしています、そしてその事
を知って下さい、このテロ事件の犠牲者と其の家族に深く哀悼の意を

捧げ、負傷された方々が早く平癒され社会復帰される事を祈るもの
で有ります、又、多くのペットがこれからも安らかな生活の場を得る事
を願ってやみません、これからも多くの人々共に暴力の無い世界に少
しでも努力して行きたいと心から願っています。
合掌、

2011年8月5日金曜日

私の還暦過去帳(26)

私が日本に行っていっも感じますことは、タバコを吸う人が
余りに多い事です、私の日本の友達も沢山吸っています、
あきれるほどに吸っています。

昔、アルゼンチンで農業をしていた時は、葉巻をくわえていると
ブヨや、虫に刺されることが少なく、一つは虫除けです。
しかし、現在ではタバコは吸いません、家族全員誰も吸いません、
私が住んで居ます街は、一切タバコの自動販売機は有りません。

市の条例で酒、タバコの自動販売機は有りません、タバコは店の
中で鍵の掛かったケースにしか、陳列できません。
若く見られるとIDカードの提示を求められます、違反すると
お店でも直ぐに営業停止です。よく囮で警察がお店に買いに行き
違反を摘発しています、お酒もそうです、未成年には販売してくれ
ません。

若い高校生ぐらいの若者が良くタバコくださいと来ますが、
「ノー!」です、「俺は吸わないからーー、」と言うと
イライラしている様で、地面に落ちている吸殻をひろって
吸っていますーー、

それだけ手に入りにくいと思います、学校では肺がん患者などが
ボランティーヤでタバコの恐ろしさを訴えています、
喉に開いた呼吸口から、タバコの煙を出して見せて、しわがれ声
で、現在の悲惨さを見せ、教え、さとしています。

日本では60歳以上では55%以上が吸っています、
若者の喫煙もカリフォルニアと比較すると桁外れです。

私が住んで居る近郊の市町村は全部、レストラン、バー、公共施設
全部禁煙です。その5m以内でも吸ってはいけない所も有ります。
タバコの「ぽ~い!」捨てには1000ドルの罰金の町も有ります。
広告、宣伝物は一切ダメです、吸う人は苦痛と形見の狭い感じです。

地元の新聞では12%の喫煙者率を切ったと出ていました。
全米でも少ない数字です、

日本の成田空港に着くと、着いたと言う実感がタバコの匂いで
感じます、今でも空港内では全面禁煙では無いからです。

サンフランシスコの飛行場に着くと、やれやれーーで、ホットして
タバコの煙りから解放された安堵感が有りますーー、
日本の友達らは禁煙を勧める私に閉口したのか、近寄りません
友達も少なくなってしまいました。

酒、タバコでカラオケで騒ぐ仲間に入れません、悲しいかな
そんな人間になってしまいました。

私の酒は小瓶のビールをワイフと二人で飲む、お薬のお酒ですーー、
ワインもグラスに半分ほどを、ソーダ―で薄めてジュース感覚で
飲んでいます、でも幸せな感じで食事が出来ます。
「ありがたや~!」ですーー、

2011年8月4日木曜日

私の還暦過去帳(25)

今日のお話は、私がアルゼンチンのブエノス.アイレスの町に居た
時です、ボッカと言われる港町の近くに、二ヶ月ほど住んだ事が
有ります、そこはイタリア系の人が沢山住んで居ました。
そして、有名なアルゼンチン.タンゴの発祥の地としても有名です。

カラフルな色の家が有りまして、沢山の芸術家と言う人も、ここに
住んで居ました。
古い石畳の道が有りまして、昔のヨーロッパの感じがするところで、
週末になると沢山の人がレストランやカンテーナと呼ばれる所に
遊びに来ていました。

私もそこに住んで居る時は、良く出歩いて町の中を歩いてタンゴ
の生演奏を聞き、美味しいイタリアン料理を食べに行きました。
有る時、早めに仕事が終り、町のバールで寛いでいました。
アルゼンチンの夕食は遅く始まります、夜の8時過ぎですーー。

その日は平日でしたので、そんなには混んでいなくて、歩道に
出たテーブルでコーヒーを飲んでぼんやり町の通りを眺めていたら、
一台の高級車が止まり、中からかなりの年配の老婦人が息子と
思われる中年の男性に抱えられて降りて来ました。

どうやら三人の息子達の様です、二人が両脇を抱えて、その後ろに、
一人が車のトランクから出した車イスを押して付いて来ます、
老婦人は杖を付き、ゆつくりと歩いて、街中のお店を覗いていました。
時々立ち止まっては、息子達に説明している様子です、
パン屋の前に立ち止まると、息子が母親の指差すパンをお店に入って
買って来ました。

母親はそれを受け取ると、手で細かく分けて、一人ずつの手に
のせてやっています。三人の息子達はまるで小さな子供の様にそれを
口元に運びながら、母親の説明を囲む様にして聞いていました。
そこに歩いて通りかかった小柄な老人が挨拶すると、母親の紹介
で一人ずつ大きな身体を折り曲げて握手して、挨拶しています。

それから通りを少し歩いて、小さなイタリアン.レストランの前に
来ると、母親は店の看板の説明をして、息子達を従えて中に入って
行きました。
窓際のテラスのテーブルに座り、息子達は母親を囲む様にして、
メニユーを見ています、指差しながら母親は説明している様です。
その時かなりの年配の婦人がエプロンを掛けたまま、ワインの
瓶を持って出て来ました。

それを母親に見せて、ボーイに言いつけてグラスを並べると、
エプロンを取り、自分で注ぎ始めました。
各自グラスを取ると、まず母親と乾杯して、それから皆で乾杯して
席に着き、それを合図に次々と料理が出て来ました。

見ていると母親は料理を子供に取り分けて息子達に説明しています。
うなずきながら息子達は食べていますが、まるで子供がおとなしく
家族のテーブルで食事している様です、通りかかったギター弾きを
呼びとめて、イタリア民謡もテーブルに流れて、賑やかな時間が
過ぎていきました。

見ている私も何かほほえましく、心和むものでした。
街灯に光りもともり、食事も済んで母親は両脇を息子に抱えられて
ゆっくりと歩道を歩いて車に戻ります、後ろには車イスを押した
息子が歩いていますが、ふと立ち止まると母親は、少し離れた歩道
を歩く老人をジット見つめていました。側の長男らしい中年の息子に

何か話しています、するとそれを見た息子はうなずいて見ていました。
母親は、両手にカバンを重そうにも持っている動作をすると
息子達に何か話しをしています、それはーー、
 
「お父さんは船から降りた時は、ああやって大きなカバンを両手で
 下げて歩いて来たのだよ~!」
 「私はお前の手を引いて、赤子のお前を抱いてーー」
 何かその様な動作をしていました。

長男は母親の側で肩を抱いて、じっと先ほどの老人を目で追って
いましたが、こぶしで涙を拭いているみたいでした。
後ろに立っている息子達もジット涙をこらえて、うつむいています、
母親がハンカチを出して涙を拭くと、息子達の涙もこらえる事が
出来ないとみえて、母親の肩を抱いて泣いていますーー、

母親は優しく子供達の肩を両手で抱いて抱擁して、
 「泣くのではないよ~!」と優しく、さとしているみたいで、
車に乗り込んで、動き始めた自動車の窓が開き、薄暗い街灯
の光に白いハンカチが微かに揺れていました。
 それは、「さようならーー、さようならーー」と言っている
 みたいで、いっまでも続いていました。
  
   ボッカの町でギター弾きが唄っていた歌です、
   
   ここに来ればお袋の味が有るーー、
   ここに来れば故郷のお国言葉があるーー、

   ここは故郷の匂いが漂うーー、
   ここは昔の思い出の故郷ーー、
   
   いっもここでは故郷の地酒が飲めるーー、
   酔って心豊かに故郷の民謡を唄えばーー、
   はるかかなたの故郷に訪れたみたいだーー、

2011年8月2日火曜日

私の還暦過去帳(24)

Tree-bbさんへの語りかけーー、
1976年、サンパウロからペルー国境の町を経由して
夜間飛行でマナオスからアマゾン河の河口の町、ベレンに
飛んだ時、アマゾンのジャングルがえんえんと燃え盛っていました。
 
それが飛行機の窓から見えていましたので、山焼きのすさまじい
様子を見る事が出来ました。
 
それからアルゼンチンでもその頃はかなりの勢いでジャングルが
開発されて木材、パルプ、牧畜用地などになっていました。
1時間トラックで走っても煙が空を覆っていました。
それは全部人間がこの地球を破壊していたのです。
 
排気ガス、オゾン層の破壊、スモッグ公害、1977年にロサンゼルス
で飛行機から着陸する時、幾重のスモッグの厚い層を突き抜けて
降りて行ったのには驚愕しました。
その頃はまだカリフォルニアではスモッグ規制が無かったのです。
 
しかし今では、後進国と言われる開発途上国での森林破壊は木材
の切り出しだけでは有りません、毎日の炊飯での煮たきに使用する
為に切られる森林です。アフリカのエチオピアではその燃料に
使用する物がなくて、道路のアスファルトをはがして燃料に使用
していました。
 
貴方が考えー、思いー、思考する原点の視野は心豊かな郷土愛の
緑です、しかし現実はもっと危険で化石燃料の大量使用、車社会の
スモッグの大気汚染、後進国での森林伐採山焼きでの大気汚染、
それをつぶさに見て来ました。
 
砂糖きびの収穫する前に茂った葉は燃やされて処理され、砂糖きび
の茎だけにして収穫します、その燃やす煙は100キロも離れた
所からも見る事が有りました。
 
天を覆う様な煙でしたーー、それが毎年繰り返されます。
その収穫に墨人形で真っ黒で働く人達の姿を見て、炎天下の重労働を
昔はアフリカから連れてこられた奴隷がしていました。
 
私はそれを見てから砂糖を使う事に心痛み、30年近くコーヒーや
お茶などに砂糖を使用するのを止めています、沢山使用さえれる
ソーダー類も一切飲みません、個人的な心の反抗です。
 
アマゾンでの森林乱伐の一番はジャンブルを切り開いて牧草地として
開発して、牛を育てて、一番の需要があるフアーストフードの
ハンバーガーミートにされるからです、アメリカや、ヨーロッパ
など、勿論の事に日本も含まれます、大量に買いつけています。
 
私の同級生はそれを覚り、今はアマゾンの植林運動に生涯をかけて
運動しています。それまで彼はジャングルを伐採して牧草地として
肉牛を生産していたからです。私は自分の信条として、抵抗として
ファースト.フードのハンバーガーは食べません。
 
ハンバーガーを作る時は七面鳥の肉で豆腐を混ぜて作ります、
その肉も自然放し飼いの鳥肉を使用しています。
 
私が思い考えてーー、
心の信条としている、緑と空の青さはーー、
反骨と言われても、このかけがいのない地球を、
こよなく愛するからですーー。
貴方も私が見た空を見れば、少しは私を解かってくれると
信じていますーー。
 
     年取ったインジオが言った言葉はーー!、
「地球は誰の物でもない、皆のものーー、子供に残す物ーー」

2011年8月1日月曜日

私の還暦過去帳(23)

 私の南米生活もかれこれ46年もの前になります、時間が経つのが
早いので、ふと~!思い出す事が時代的にどこで有ったか戸惑う
事が有ります、しかしーー、自分の心の画像にしっかりと焼きつい
た景色は迷う事無く思い浮かべる事が出来ます。

ある晴れた日でした。
直ぐ前の日に雨が少し降りまして、空には雲一つ無くて、青と言う
より、濃紺の感じがする空の色でした。

近くには一番近いと言っても180キロ離れた所に小さな精油所が
有るだけで、工場は同じく190キロぐらい離れた精糖工場が有り
ましたが、季節的に稼動していません、砂糖きびの収穫時期だけで
した。

インジオが薪にする木々を取りに行く小道を伝って歩いていました。
持っているものは水筒と、ズボンのベルトに差した拳銃だけで、
いつものインジオ老人の案内で歩いていましたが、彼の話しを
聞きながらゆっくりと歩いていると、一部何も生えていない所に出て
来たら、そこに大きな木が一本だけ立っていましたので話しを聞くと
「オンブー」と言う木だそうでした。

別名、水木と言われて、どんな山火事でも必ず残る木でした。
その地域はインジオが薪にして、ほとんど伐採してしまったそうで、
残った木が薪にならないオンブーの木だけ残っていました。

少し小高い斜面を登ると、パットーー!と開けた頂上に出て、
地平線まで広がる、広大なジャングルが目に飛びこんで来ました。
そこから見る空の色の素晴らしさーー、色鮮やかさーー、
現在の空からするとあの時の空の色は、人生で一番綺麗な素晴ら
しい空の色でした。

現在は晴れても白味掛かった青空です、抜けるような濃紺のどんな
青色でも染める事が出来ない色と思いました。
遠くは黒味掛かった色彩で空があくまで澄んでいると言う感じでし
たが、空に感動したのはその時が初めてでした。

遠くのジャングルのかなたに、一本の煙が真っ直ぐに、真っ直ぐに、
立ち上っていました。

あそこには誰か住んで居るのだと、風も無いその空に、人恋しく
誰かを呼ぶ様に、立ち上っていました。
何百キロと言う広い広大な面積に、地球と言う丸みさえ感じる
広大なジャングルが広がっていました。

側でインジオが腰を下ろして、黙って空を見上げていました。

「昔は毎日がこんな空だったーーー!、」
「今では雨上がりしか見られないーー」

人間と馬しか歩けない道で、誰もこの土地を荒らす人は居なかっ
たそうです、46年もの前に見た空が恋しくて時々思い出す事が
有ります、空が毎年毎年ーー、汚くなって行くみたいです。

私の人生も、時間も、全てが過去に流れてーー、年取った人生
の様に、空も汚くなっていったと思います。
 それにしては早過ぎると思いますーー、